最終更新日 2025-09-27

福井城築城(1606)

徳川家康の次男、結城秀康が越前に築いた福井城。関ヶ原後の徳川覇権確立と前田家牽制を目的とした天下普請。秀康早世、寛文大火で天守は焼失するも、その歴史は戦国終焉と泰平の世への移行を物語る。
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福井城築城(1606年)の深層:戦国終焉の序曲と徳川覇権の礎石

序章:関ヶ原の残響 - なぜ越前に巨大城郭は必要だったのか

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この一戦は、豊臣政権の事実上の終焉を告げ、徳川による新たな時代の幕開けを決定づけた歴史的転換点であった。しかし、戦場の硝煙が消えた後も、天下がただちに泰平となったわけではない。西国を中心に、豊臣恩顧の大名は依然として多数存在し、その動向は家康にとって最大の懸念事項であった。関ヶ原の勝利は覇権掌握への大きな一歩であったが、その支配を盤石にするための「戦後処理」は、むしろここからが本番だったのである 1

この微妙かつ緊張をはらんだ情勢下で、家康が最も警戒の目を向けた存在が、北陸に巨万の富と強大な軍事力を擁する加賀百万石の大名、前田利長であった。豊臣政権下では五大老の一角として重きをなし、父・利家以来の家臣団を率いる利長は、関ヶ原では東軍に与したものの、その領国は加賀・越中・能登の三国にまたがり、石高は120万石とも言われ、徳川家をも凌ぐ全国随一の規模を誇っていた 2 。家康にとって、この北陸の巨龍をいかにして制御下に置くかは、天下統治の安定に不可欠な最重要課題であった。

家康は巧みな政治的手腕を発揮する。関ヶ原の戦いの直前、利長に謀反の嫌疑をかけ、加賀征伐の軍を起こす構えを見せたのである。この断固たる姿勢に、戦を好まなかった利長は屈し、母である芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで恭順の意を示し、全面衝突という最悪の事態を回避した 3 。この一件は、両者の間に横たわる深刻な緊張関係を浮き彫りにした。徳川と前田の関係は、もはや同盟者ではなく、明確な支配者と被支配者のそれへと変質していた。

このような背景の中、家康の深謀遠慮が次の一手として選んだのが、越前国の戦略的活用であった。越前は、加賀前田領と、徳川の支配が強い畿内・東国とを結ぶ、まさに喉元に突きつけられた匕首(あいくち)とも言うべき地政学的重要性を有していた。この地を徳川の最も信頼できる親藩(藩屏)で固めることは、前田家に対する物理的・心理的な楔となり、北陸道全体の支配を安定させる上で決定的な意味を持っていた 5

したがって、徳川家康の次男・結城秀康の越前68万石への入封と、それに続く福井城の築城は、単なる戦功に対する恩賞という次元を遥かに超えた、極めて高度な国家戦略の一環であった。それは、関ヶ原の戦後処理というよりも、むしろ徳川と有力外様大名との間で始まった「静かなる戦争」、すなわち冷戦の最前線基地を構築する行為に他ならなかった。これから始まる福井城の築城は、平和の象徴ではなく、徳川の武威を北陸に轟かせ、万一の事態に備えるための巨大な軍事拠点であり、前田家に対する強力な政治的圧力装置となる運命を背負っていたのである。

第一部:築城の担い手、結城秀康という男

福井城という壮大なプロジェクトを主導した人物、結城秀康。彼の生涯は、徳川家康の次男という高貴な出自とは裏腹に、政略の波に翻弄され続けた苦難の道のりであった。しかし、その逆境こそが、彼を類稀なる武将へと鍛え上げたのである。

徳川家康の次男としての出自と不遇

秀康は天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠江国で生を受けた。幼名は於義伊(おぎい)、あるいは於義丸(おぎまる)と名付けられた 7 。しかし、彼の誕生は祝福されたものではなかった。母・お万の方(長勝院)は家康の側室であったが、正室・築山殿にその存在を認められておらず、秀康は浜松城外での出産を余儀なくされた 7 。一説には双子であったとも伝えられる 8 。父・家康からもなかなか認知されず、不遇な幼少期を過ごした。彼が3歳にして初めて父との対面を果たしたのも、16歳年長の異母兄・松平信康の温情ある取りなしによるものであったという 7 。この出自にまつわる複雑な経緯は、秀康の心に深い影を落とすと同時に、彼の独立不羈の精神を育む土壌となったのかもしれない。

政略の駒としての青年期 - 豊臣、そして結城へ

天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉が激突した小牧・長久手の戦いが和睦に至ると、11歳の於義丸の運命は大きく動く。彼は和睦の証として、秀吉のもとへ養子、実質的には人質として送られることになった 10 。この時、秀吉と家康から一字ずつを与えられ、「秀康」と名乗ることになる 10 。秀吉の養子という立場は、彼に複雑な立ち位置を強いた。

しかし、その立場も長くは続かない。秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀康の存在は微妙なものとなる。天正18年(1590年)、秀吉の命により、今度は関東の名門、下総国の大名・結城晴朝の養嗣子となることが決まった 7 。晴朝には男子がおらず、家の存続のために秀吉に養子を願い出た結果であった 11 。これにより秀康は結城家の家督を継ぎ、10万石余の大名となった。徳川の子として生まれ、豊臣の子となり、そして結城の子となる。彼の青年期は、大国の政略に翻弄され、自らの意思とは無関係にその居場所を変えられ続ける、まさに流転の日々であった。

武将としての器量と逸話 - 「鬼玄蕃」の片鱗

こうした逆境の中、秀康は武将としての天賦の才を開花させていく。その気性の激しさと優れた武勇は、数々の逸話として後世に伝えられている。

16歳の頃、伏見の馬場で乗馬を楽しんでいた秀康に対し、秀吉の寵臣が無礼にも競い掛けてきた。秀康はこれを「無礼千万」として、即座に斬り捨ててしまったという 12 。この報告を受けた秀吉は、秀康を罰するどころか、「我が子(秀康)に対する無礼は万死に値する。秀康の心映えは天晴れである」と述べ、その気概を称賛し不問に付したと伝えられる 9 。この一件は、秀康の内に秘めた烈しい気性と、それを認めさせるだけの威厳を彼が既に備えていたことを示している。

その威風は、後に二代将軍となる弟の秀忠でさえ一目置くほどであったとされ、江戸幕府の体制下にあっても、秀康率いる越前松平家は「制外の家」として特別な扱いを受けた 14 。関ヶ原の戦いに際しても、彼の戦略眼は光る。東軍諸将が西上を議論した「小山評定」の場において、秀康は自ら進んで宇都宮城に留まり、背後に控える会津の上杉景勝を牽制する大役を申し出た。この大局的な判断と責任感は父・家康を深く感嘆させ、景勝抑えの大将軍に任じられたという 6 。彼は単なる猛将ではなく、戦況全体を俯瞰できる優れた指揮官でもあったのだ。

越前68万石拝領の決断 - 「播磨か、越前か」

関ヶ原での戦功により、秀康は家康から新たな領地を与えられることになった。その際、候補として播磨国と越前国が挙げられたという逸話が残っている 6

秀康は近習の家臣たちに「越前と播磨、どちらが我が家にふさわしいだろうか」と意見を求めた。当時の世評では「一に播磨、二に越前」と言われており、経済的な豊かさや格においては播磨が優ると考えられていた。秀康自身も当初はそのように考えていた節がある 6 。しかし、家臣の一人である長谷部采女(はせべうねめ)は、毅然として越前を推挙した。その理由は「越前は江戸に近く、京都への便も良い。加えて地勢は険しく、勢力も強大で、北陸道の国々の中で最も重要な国でございます」というものであった 6

この進言は、単なる石高や経済力ではなく、徳川政権における戦略的価値という観点から領地を評価するものであった。秀康はこの意見を容れ、越前国68万石を拝領することを決断する。この選択は、彼が父・家康の天下統一事業の最終段階において、自らが果たすべき役割を深く理解していたことを物語っている。彼は、安寧の地よりも、対前田家という最も重要な戦略的拠点を選んだのである。不遇の半生を経て、今や徳川家の「藩屏」として、最も重要な最前線に立つ。結城秀康の新たな歴史は、この決断から始まった。

第二部:福井城築城 - 慶長六年、天下普請の号令

慶長6年(1601年)、越前国に入封した結城秀康は、ただちに新たな居城の築城に着手する 7 。それは、単に一藩の主の居館を建設するという規模を遥かに超え、徳川の威光を北陸全土に示し、来るべき泰平の世の礎を築くための国家的な巨大プロジェクトであった。

柴田勝家・北ノ庄城と結城秀康・福井城の比較

築城の地として選ばれたのは、かつて織田信長の筆頭家老・柴田勝家が築き、天正11年(1583年)に羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れて自刃した、悲劇の舞台・北ノ庄城の跡地であった 7 。しかし、秀康の計画は、旧城の単なる改修や再建ではなかった。それは、旧時代の記憶を塗り替え、徳川による新たな支配を象徴する、全く新しい構想に基づいていた。

比較項目

柴田勝家・北ノ庄城

結城秀康・福井城

築城者

柴田勝家

結城秀康(縄張は徳川家康説が有力)

築城年

天正3年(1575年)

慶長6年(1601年)着工、慶長11年(1606年)竣工

立地

旧北ノ庄城本丸跡(現在の柴田神社付近) 17

旧北ノ庄城本丸跡の北側に本丸を移し、全体を拡張 16

規模

壮大であったと伝わるが、全体規模は不明

約2km四方に及ぶ広大な城域 19

縄張形式

総郭型(推定)

輪郭式平城 20

天守構造

九重天守との記録あり(『毛利家文書』) 17

四重五階、望楼型天守 16

天守高

不明(非常に高層であったと推定)

約30-31m(天守台含め約37m) 16

石垣

一部発掘。根石のみ現存 18

笏谷石を用いた切込接・打込接による布積 16

城下町

北陸街道沿いに整備 17

武家地・町人地を分離した計画的な都市整備 23

この比較から明らかなように、秀康による福井城築城は、柴田勝家の北ノ庄城を基礎としつつも、縄張、規模、技術の全てにおいて旧城を凌駕するものであった。特に本丸を北側へ移し、城域全体を拡張した点は、防御思想の進化と、より大規模な藩政機構を内包する必要性を示している。

徳川家康による縄張指導説とその設計思想

福井城の設計、特に本丸と二ノ丸の縄張(基本的なレイアウト)は、徳川家康自らが直接指導したという説が極めて有力である 21 。北陸の要衝であり、対前田家の最前線基地というその戦略的重要性を鑑みれば、家康が自ら設計に関与したと考えるのは自然であろう。

その根拠として指摘されるのが、福井城の構造に色濃く見られる「家康流」とも言うべき築城技法である。具体的には、本丸の北西隅という防御上の要に天守を配置し、その天守曲輪を独立させるように堀で囲み、土橋で本丸と連結するという手法は、家康が駿府城などで用いた得意の形であった 24 。この事実は、福井城が単なる秀康個人の居城ではなく、徳川幕府の国家戦略に基づいて築かれた「公儀の城」であったことを強く物語っている。

天下普請という名の動員令

これほど巨大な城郭をわずか6年で完成させるため、家康は「天下普請」という手法を用いた。これは、幕府が全国の諸大名に対し、分担区域を定めて築城工事を命じるもので、事実上の強制的な公共事業であった 16 。大名たちは、資材の調達から人夫の動員まで、全ての費用を自己負担で賄わなければならなかった。

この制度は、単に労働力を確保するだけでなく、二つの巧みな政治的意図を持っていた。一つは、諸大名に莫大な経済的負担を強いることでその財力を削ぎ、謀反の芽を未然に摘むこと 27 。もう一つは、徳川の命令一下、全国の大名が動くという事実を天下に示すことで、その絶対的な権威を誇示することであった。

その動かぬ証拠が、今なお福井城の石垣に残る無数の「刻印」である 19 。これらの刻印は、工事を担当した大名家が、自らの作業範囲を示すために石材に刻んだものであった 1 。しかし、その意味は単なる技術的な目印に留まらない。考えてみれば、これは極めて象徴的な行為である。関ヶ原で徳川に敗れた、あるいは恭順した大名たちが、自らの費用と労力で、徳川の覇権を象徴する巨大な城を築かされる。そして、その石の一つ一つに自らの家紋や印を刻む。それは、徳川への永続的な服従を石に刻み込み、後世に残すという、巨大な誓約の儀式に他ならなかった。福井城の壮麗な石垣は、徳川の威光の前に全国の大名がひれ伏した様を記録した、巨大な「服従の証文」そのものなのである。

築城のリアルタイム・ドキュメント(慶長6年~11年 / 1601-1606)

6年にも及ぶ築城の過程は、まさに大地を造り変える壮大な叙事詩であった。

年次(西暦/和暦)

主な工事内容

関連する出来事・秀康の動向

1601年(慶長6年)

築城開始。大規模な河川改修、外堀・内堀の掘削に着手。

結城秀康、越前に入封 10

1602年(慶長7年)

堀の掘削と並行し、地盤固め、基礎工事が本格化。

1603年(慶長8年)

石垣普請が本格化。足羽山から笏谷石の切り出しと運搬が始まる。

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

1604年(慶長9年)

本丸・二ノ丸の石垣が積まれ、城の骨格が姿を現す。

秀康、松平姓に復したとされる 7

1605年(慶長10年)

天守台の完成。天守および本丸御殿、各櫓の建設が始まる。

徳川秀忠、二代将軍に就任。

1606年(慶長11年)

天守、本丸御殿、城門などが完成し、城郭全体が竣工 28

1607年(慶長12年)

結城秀康、34歳で病没 7

初期段階(1601-1602):大地を創る - 河川改修と堀の掘削

築城は、まず大規模なランドスケープ・デザインから始まった。城の防御と城下町の治水を両立させるため、当時この地を流れていた吉野川の流路跡を、最大幅が55間(約100m)にも達する巨大な「百間堀」として再利用した 16。さらに、城の東側を防御するために、新たに荒川を掘削し、南方を流れる足羽川へと合流させるという、驚くべき規模の土木工事が行われた 23。これにより、城は幾重にも巡らされた水堀によって守られる、難攻不落の要塞の基礎を得たのである。

中期段階(1603-1604):城の骨格を築く - 笏谷石による石垣普請

堀の完成と並行して、城の骨格となる石垣の普請が始まった。使用された石材は、福井近郊の足羽山から産出される「笏谷石(しゃくだにいし)」であった 16。この石は、加工しやすく、水に濡れると美しい青緑色を呈することから「青石」とも呼ばれ、福井城の石垣に独特の気品を与えている 19。

積み方には、当時の最高技術が投入された。天守台や城門などの重要部分は、石を精密に加工して隙間なく積み上げる「切込接(きりこみはぎ)」、その他の部分も石の側面を打ち欠いて密着度を高める「打込接(うちこみはぎ)」が用いられ、横方向のラインを揃える「布積」で整然と積み上げられた 16。その仕上がりは極めて精緻で、全国の城郭の中でも屈指の技術水準を誇ると評価されている 25。

さらに、石垣のラインは単調な直線ではなく、意図的に突出させた「突角部」が設けられた 20。これは、石垣に取り付く敵兵に対し、側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛り」を可能にするための巧妙な設計であり、戦国末期の高度な戦術思想が反映されている 30。

後期段階(1605-1606):威容の完成 - 天守と御殿の建設

堅固な石垣の上に、いよいよ城の象徴である建造物が姿を現す。本丸北西隅の天守台には、外観四重、内部五階建て、高さ約30-31m(天守台を含めると約37m)にも及ぶ壮大な望楼型天守が聳え立った 16。

その外壁は、当時の最新様式である白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)で仕上げられ、純白に輝いていたと想像される 33。各層には優美な入母屋破風や千鳥破風が配され、最上階には外縁高欄が巡る、華麗さと威厳を兼ね備えた姿であった 19。特筆すべきは、屋根瓦にも笏谷石が用いられたという説があることだ 19。もし事実であれば、その青緑色の屋根は陽光を浴びて輝き、比類なき壮麗さを誇ったであろう。

本丸内部には、約1,000坪(約3,300平方メートル)もの広大な本丸御殿が建設され、藩主の居館であると同時に、福井藩の政庁として機能した 19。

並行して進む城下町の形成 - 芝原上水と都市計画

城の建設と歩調を合わせ、城下町の整備も精力的に進められた。武士が住む武家屋敷地と、町人や職人が住む町人地を明確に分離し、北陸道に沿って計画的に配置された 23。

中でも特筆すべきは、上水道「芝原上水」の整備である 10。これは、遠く九頭竜川から水を引き込み、城下の北部一帯に生活用水や農業用水を供給するものであった 35。この先進的なインフラ整備により、城下は多くの人口を涵養することが可能となり、北陸有数の都市として発展する礎が築かれたのである。

第三部:完成せし北陸の巨城 - その構造と機能

慶長11年(1606年)、6年の歳月を費やした大工事の末、北陸の地に前代未聞の巨大城郭がその威容を現した。完成した福井城は、戦国時代を通じて培われた築城技術の粋を集め、徳川の時代の幕開けを告げるにふさわしい、機能性と壮麗さを兼ね備えた近世城郭の傑作であった。

輪郭式平城としての全体構造

福井城の縄張は、城郭構造において最も防御力が高いとされる「輪郭式」が採用された 19 。これは、城の中枢である本丸を中心に、同心円状に二ノ丸、三ノ丸といった曲輪(区画)を配置する形式である。仮に外郭が敵に突破されたとしても、次の曲輪が防衛線となり、本丸へ到達するには幾重もの障壁を乗り越えなければならない。さらに、これらの曲輪の間には、幅30mの内堀や、最大で幅100mにも達したという百間堀など、四重五重の水堀が巡らされ、鉄壁の防御網を形成していた 16 。この構造は、平地にありながら、あらゆる方向からの攻撃に対応できる、極めて堅牢な設計思想に基づいていた。

堅牢な石垣と先進的な防御機構

福井城の防御力を支えたのは、幾重にも巡らされた堀だけではない。高さ7mにも及ぶ高石垣には、当時の最新鋭の防御機構が組み込まれていた 16

その一つが「横矢掛り」である。城壁のラインを一直線にするのではなく、意図的に屈折させたり、「突角部」と呼ばれる突出部を設けたりすることで、石垣に取り付こうとする敵兵に対し、正面からだけでなく、側面からも十字砲火を浴びせることが可能となる 20 。これにより、城壁の直下は死角のないキルゾーンと化した。

また、城への入り口である「虎口(こぐち)」には、「枡形(ますがた)」と呼ばれる巧妙な罠が仕掛けられていた 19 。これは、城門を二重に設け、その間に四角い広場(枡形)を配置する構造である。敵兵が第一の門を突破して枡形に侵入すると、進路は直角に折れ曲がり、狭い第二の門の前で動きが滞る。その瞬間、枡形を囲む石垣や櫓の上から、鉄砲や弓矢による集中攻撃が加えられる仕組みであった 37

これらの構造は、敵の勢いを削ぎ、兵力を分散させ、防御側が有利に戦える空間を意図的に創り出すという、戦国末期から江戸初期にかけて完成された近世城郭の洗練された防御思想の集大成であった。福井城は、まさに「戦うため」に設計された、実践的な要塞だったのである。

城下町の繁栄と藩政の礎

福井城の完成は、単に軍事拠点が生まれたことを意味するだけではなかった。城を中心に整備された広大な城下町は、その後260年以上にわたる越前松平家の治世の拠点となり、政治・経済・文化の中心地として繁栄を極めた 39 。芝原上水に代表されるインフラ整備は、多くの人々の生活を支え、都市の発展を促した 34 。結城秀康が築いた城と城下町の骨格は、幾多の変遷を経ながらも、現在の福井市の都市構造の基礎として、今なお生き続けているのである 34

第四部:時代の終焉 - 寛文大火と「天守なき城」への道

壮麗を極めた福井城であったが、その象徴たる天守が越前の空に聳え立った期間は、決して長くはなかった。城主の早世、そして時代の大きなうねりは、福井城の運命を大きく変えていくことになる。

結城秀康の早世と福井藩の動揺

福井城が竣工したまさに翌年の慶長12年(1607年)、城主・結城秀康は病に倒れ、34歳という若さでこの世を去った 7 。巨大な城の完成を見届けたかのような、あまりにも早すぎる死であった。彼の死後、福井藩は二代藩主・忠直の改易など、必ずしも平穏な道のりを歩んだわけではなかった。

寛文九年(1669年)の大火

築城から約63年後の寛文9年(1669年)、福井の城下町で発生した大火は、折からの強風に煽られて燃え広がり、ついに城郭へと達した。この「寛文の大火」により、福井城は甚大な被害を受ける。本丸御殿や多くの櫓、城門が炎に包まれ、そして、かつて北陸の空に威容を誇った四重五階の壮大な天守も、猛火の中で崩れ落ち、灰燼に帰してしまった 7

なぜ天守は再建されなかったのか

天守を失ったことは、藩にとって大きな痛手であったはずだ。しかし、その後、福井城の天守が再建されることはなかった。その背景には、単一ではない、複合的な理由が存在した。

1. 幕府の城郭政策(武家諸法度)

最大の理由は、時代の変化、すなわち徳川幕府による支配体制の確立であった。幕府は元和元年(1615年)に「武家諸法度」を発布し、大名が幕府の許可なく城を新築したり、大規模な修築を行ったりすることを厳しく禁じていた 41。天守は、単なる建造物ではなく、強大な軍事力と権威の象徴である。寛文年間には幕藩体制は完全に安定しており、幕府は諸藩がそのような象徴を再建することを、もはや望んでいなかった。福井藩は幕府に再建を願い出たものの許可が下りなかった、あるいは幕府への配慮から再建計画そのものを見送った、と考えられている 21。

2. 藩の財政難

天守の再建には、莫大な費用がかかる。しかし、当時の福井藩は深刻な財政難に陥っていたことが記録されている 21。度重なる普請や参勤交代の負担に加え、この寛文の大火からの復興費用も必要であった。藩の財政状況は、天守再建という巨大プロジェクトを到底許容できる状態ではなかったのである。

3. 時代の変化と天守の役割の終焉

そもそも、もはや天守という存在が時代にそぐわなくなっていたという側面もある。大規模な合戦が起こり得ない泰平の世において、天守は本来の軍事的な機能(物見櫓、司令塔、最後の籠城拠点)を失い、純粋に権威の象徴となっていた 45。城の役割そのものが、軍事拠点から藩の行政庁舎へと大きく変化していた。実用的な価値を失った天守の再建は、財政を圧迫してまで行うべき事業とは考えられなくなっていたのである。

福井城が築かれた慶長年間と、天守が焼失した寛文年間とでは、わずか60年余りの間に、日本の政治・社会状況は根本的に変質していた。かつて対前田家という明確な軍事目的を持って築かれた城の象徴が、その軍事的役割の終焉と共に失われたのは、必然的な帰結であったのかもしれない。この天守の不再建という事実は、福井城が、そして日本全体が、武力による支配を前提とした「戦国の論理」から、法と行政による支配という「江戸の論理」へと完全に移行したことを示している。天守の不在は、皮肉にも、徳川による平和(パクス・トクガワーナ)が完成したことの何よりの証明であった。

代用天守としての巽櫓・坤櫓

天守なき後、福井城の新たな象徴となったのが、本丸の南東隅に位置する巽櫓(たつみやぐら)と、南西隅の坤櫓(ひつじさるやぐら)であった 40 。これらは大火の後に三重の櫓として再建され、天守に代わる威容を備えていた 21 。以後、明治維新で城がその役目を終えるまで、この二つの櫓が「天守なき城」の顔として、福井の城下を見下ろし続けることとなる。

結論:戦国の記憶から泰平の象徴へ

慶長6年(1601年)に始まった福井城の築城は、日本の歴史が最も劇的に動いた時代の産物であった。それは、関ヶ原の戦いが終わりながらも、いまだ戦国の気風と緊張が色濃く残る中で、徳川家康が天下を盤石のものとするために打った、最後の、そして最大の布石の一つであった。

この巨大な城郭は、北陸の雄・加賀前田家に対する無言の圧力装置であり、徳川の武威を天下に示すための壮大な舞台装置であった。そして、天下普請という手法を通じて、全国の大名に徳川への絶対的な服従を物理的な形で誓わせる、巧みな政治的儀式の場でもあった。その設計には家康自身の思想が色濃く反映され、築城技術の粋が集められた福井城は、まさに戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けを告げるモニュメントであったと言える。

しかし、歴史の潮流は、堅固な石垣さえもその意味を変えていく。築城からわずか60年余り、寛文の大火による天守の焼失と、その後の不再建という出来事は、福井城が本来背負っていた軍事的使命の終焉を象徴していた。武力による威嚇を前提とした時代は終わり、幕府の法と秩序が全国を覆う泰平の世が到来したのである。

福井城の歴史は、一つの城の盛衰の物語に留まらない。それは、戦乱の記憶を刻み込んだ軍事拠点から、安定した治世を支える行政の中心地へと、その役割を変貌させていった過程の記録である。天守を失うことで、皮肉にも平和の到来を証明したこの城の姿は、戦国から江戸へという、日本の大きな時代の移行そのものを、雄弁に物語っているのである。

引用文献

  1. 「福井城」を徹底解説!歴史や築城理由から魅力を紹介します! - ふーぽ https://fupo.jp/article/fukui_shirokenbunroku2102/
  2. 前田利長 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/maeda-toshinaga/
  3. 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
  4. 前田利家 戦国がたり!徳川家康殿との関係性と戦国時代について語る! https://san-tatsu.jp/articles/218343/
  5. 畿内に近くまた加賀前田氏を控制することにもなろう。若狭一国八 ... https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/0a1-01-02-01-06.htm
  6. どうする秀康-逸話で見る結城秀康 - 福井県文書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/category/tenji/33273.html
  7. 福井城~結城秀康が築いた城~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/etizen/fukui-jyo.html
  8. 結城秀康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7
  9. 結城秀康~薄幸の人生も、豪胆さで一目置かれた武将 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4773
  10. 福井藩最初の殿様、結城秀康 - ふくい歴史王 http://rekishi.dogaclip.com/rekishioh/2015/07/post-dd90.html
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  13. 結城秀康の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46485/
  14. 側室・お万の方の子、結城秀康の生涯|秀吉の養子となった徳川家康の次男【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1147100/2
  15. 「どうする秀康 -逸話でみる結城秀康-」 - 福井県 https://www2.pref.fukui.lg.jp/press/atfiles/padf1679817325a4.pdf
  16. 福井城とは? - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/guidebook_d/fil/guidebook2.pdf
  17. 城建設には何か年も要した。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、布教のため天正八年五月十八日に北庄城の勝家を訪ねているが - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-02-05.htm
  18. 勝家とお市の方の悲話を伝える<北庄城> https://sirohoumon.secret.jp/kitanosyoujo.html
  19. 【続日本100名城・福井城(福井県)】日本遺産の越前・笏谷石文化が生み出した巨大城郭 - 城びと https://shirobito.jp/article/1150
  20. Untitled https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/59/59347/33052_5_%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  21. 福井城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E
  22. 福井城 ~県政の中枢を守る石垣と堀~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/hukuijo
  23. 3.3 城下町の形成 | ふくいの川 | 福井河川国道事務所 https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/kasen/siryou/hen1/1syou4/3kinse3.html
  24. 家康自ら縄張りをしたと言われる「福井城」(福井県福井市 ... https://otokonokakurega.com/learn/trip/14846/
  25. 不遇の巨城・福井城の歩き方、家康が直々に指導したと言われる縄張り、石垣に見られる本来の壮麗さと堅固さ - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80403
  26. 超入門! お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何? - 城びと https://shirobito.jp/article/668
  27. 歴史ある江戸城について学ぶ。天守閣が再建されない理由とは - HugKum https://hugkum.sho.jp/377086
  28. 福井城の見所と写真・2500人城主の評価(福井県福井市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/118/
  29. (現場説明会 平成 2 8年5月 1 4日資料) - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/kennto/yamazato_gensetsu_d/fil/siryou3.pdf
  30. 福井城の百間堀を挟み東西に分かれる。 百間堀西側の調査区は https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/59/59348/33052_6_%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  31. お城用語をわかりやすく解説 横矢(よこや)編 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/oshiro-lesson/castle-basic-yokoya/
  32. 天守台(福井城天守) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/118/memo/529.html
  33. 越前旅14 ~福井城天守台~ | 日本を見つめて~旅するブログ~ http://ac802tfk.blog.fc2.com/blog-entry-400.html
  34. 結城(松平)秀康 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=34
  35. 福井城 - ストリートミュージアム https://www.streetmuseum.jp/historic-site/shiro/2022/06/15/265/
  36. 福井城舎人門遺構 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tonerimon/index.html
  37. 日本の城 基礎講座 : 防御施設編 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01790/
  38. 【敵を撃退】名城の防御設備と仕掛け|日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/2023ver5/japancastlestorik.html
  39. 友好都市福井市 | 結城市公式ホームページ https://www.city.yuki.lg.jp/shisei/introduction/shimai-yuukou/yuukou/fukui/page000826.html
  40. 福井城坤櫓(ひつじさるやぐら)復元プロジェクト | 福井県 ... https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/granddesign/fukuicastle.html
  41. 武家諸法度/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65095/
  42. 武家諸法度 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
  43. 【高校日本史B】「家康と秀忠の大名統制」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12805/point-2/
  44. 福井藩寛文八年の割地 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-3-01-02-03-03.htm
  45. Q&A 1-9. なぜ天守は再建されなかったのですか? https://npo-edojo.org/qa/32
  46. 江戸城に「天守」がないのは何故?再建に「待った」がかかった驚きの理由とは | サライ.jp https://serai.jp/hobby/93888
  47. 旧福井城本丸巽三重櫓 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/fukuijo/koshashin01.html