最終更新日 2025-10-01

福山館整備(1606)

慶長11年、松前慶広は蝦夷地に福山館を完成。幕府には「館」と称したが、実態は堅固な城郭で、松前氏の蝦夷地支配と交易独占の象徴となった。これはアイヌとの関係を大きく変え、後の争いの遠因ともなった。
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北の関ヶ原:福山館整備(1606)に見る松前氏の国家形成

序章:1606年、蝦夷地に現れた「城」の衝撃

慶長11年(1606年)、日本の最北端、蝦夷地(現在の北海道)の福山台地に、一つの巨大な建造物がその威容を現した。後の松前城の前身となる「福山館」の完成である 1 。この出来事は、単なる一地方領主の居館建設という範疇を遥かに超え、当時の日本の政治秩序と辺境社会に静かな、しかし決定的な衝撃を与えるものであった。本報告書は、この「福山館整備」という事象を、戦国時代的権力闘争の延長線上にある「国家形成」の試みとして捉え、その背景、過程、そして蝦夷地社会に与えた構造的変容を徹底的に解明するものである。

1606年という時代は、極めて象徴的である。関ヶ原の戦いから6年、徳川家康による江戸幕府開府から3年が経過し、日本の中央では戦国の動乱が終息し、新たな治世が確立されつつあった 3 。幕府は諸大名の力を抑制すべく、やがて「一国一城令」へと繋がる城郭の築城・改修に厳しい目を光らせ始める。このような中央の時流に逆行するかのように、最北の地で大規模な「城」の実質的な建設が行われたという事実は、一見すると矛盾に満ちている。この逆説こそが、福山館の本質を理解する鍵となる。

本報告書で提示する「戦国時代という視点」とは、まさにこの点にある。福山館の築城主である松前慶広は、その生涯を通じて戦国武将さながらの生存戦略を展開した人物であった 3 。彼にとって蝦夷地は、中央の論理が完全には及ばない、実力と交渉が支配するフロンティアであった。福山館の建設は、徳川の治世下における単なる拠点整備ではなく、慶広自身の「天下統一」事業の集大成であり、蝦夷地における松前氏の恒久的な支配権を物理的に宣言するモニュメントであった。

したがって、本報告書は以下の中心的な問いを解き明かすことを目的とする。福山館の建設は、松前氏、和人社会、そしてアイヌ民族の関係をいかにして不可逆的に変容させたのか。それは単に「和人地の拠点強化と防衛体制整備」という軍事・行政的側面を超え、蝦夷地における新たな政治・経済秩序を創出し、松前氏を頂点とする独自の領域国家を形成しようとする壮大な試みではなかったか。この問いを検証するため、次章以降、松前氏の独立への道程から、福山館の具体的な構造、そしてそれがもたらした社会変革までを時系列に沿って詳細に分析していく。

第一章:前夜 ― 松前氏、独立への道程(~1599年)

福山館という壮大な事業は、決して突発的に始まったものではない。その礎には、築城主・松前慶広(旧姓:蠣崎)による数十年にわたる周到な政治工作と、蝦夷地における権力基盤の確立があった。彼が如何にして津軽の安東氏に従属する一在地領主から、中央政権に公認される「蝦夷地の支配者」へと脱皮したのか、その軌跡を追うことは、福山館建設の必然性を理解する上で不可欠である。

蠣崎氏の出自と台頭

松前氏の前身である蠣崎氏は、若狭武田氏の一族、武田信広を祖とするとされる 4 。15世紀半ば、和人の南下に伴い蝦夷地へ渡った蠣崎氏は、アイヌとの激しい抗争、特に著名なコシャマインの戦い(1457年)などを経て、道南に点在する和人領主(道南十二館)の中で徐々に頭角を現していった 5 。当初、彼らの立場は津軽を本拠とする安東(秋田)氏の代官的存在であり、独立した権力ではなかった 6 。この従属的な地位からの脱却こそが、5世当主・慶広の生涯を貫く最大の悲願となる。

中央政権への接近という生存戦略

慶広は、地方の主家を通じて中央と繋がるという旧来の秩序を無視し、直接日本の最高権力者と結びつくという、当時としては極めて大胆な外交戦略を展開した。これは、辺境の小勢力が生き残りをかけて中央の権威を巧みに利用する、典型的な戦国時代の処世術であった。

豊臣秀吉への謁見(1590年代)

転機は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐と奥州仕置であった。慶広は主家・安東実季の上洛に帯同する形で京へ上り、前田利家らの仲介を経て秀吉への謁見を果たす 3 。これにより、彼は安東氏の被官という立場から名実ともに独立した領主として認知された。さらに文禄2年(1593年)、朝鮮出兵に際して肥前名護屋城に参陣した慶広は、秀吉から蝦夷地に来航する商船から税を徴収する権利、すなわち「船役徴収権」を認める朱印状を獲得する 7 。これは、蝦夷地における蠣崎氏の経済的自立を公認するものであり、後の交易独占への重要な布石となった。慶広はこの朱印状の権威を背景に、アイヌに対し「秀吉の命に背けば10万の兵が攻めてくる」と伝え、その支配権を確立していった 3

徳川家康への鞍替え

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、慶広は天下の時勢が徳川家康に傾きつつあることを鋭敏に察知し、速やかに家康との関係構築に動いた 3 。この政治的嗅覚と迅速な行動力こそ、彼が単なる辺境の豪族ではなく、戦国を生き抜いた武将であったことを物語っている。秀吉から与えられた権威を、今度は家康によって再保証させようとするこの動きは、来るべき徳川の世を見据えた極めて合理的な判断であった。

「松前」への改姓(1599年)

慶長4年(1599年)、慶広は家康への臣従の証として、姓を蠣崎から「松前」へと改めた 3 。これは単なる改名ではない。旧主・安東氏との主従関係を完全に断ち切り、家康という新たな天下人から公認された、蝦夷地における唯一無二の支配者としての自己を内外に宣言する、極めて政治的な行為であった。俗説では徳川家康の旧姓・松平の「松」と前田利家の「前」から取ったとも言われるが、拠点とした土地のアイヌ語「マトマエ」に由来する地名から採ったというのが定説である 3 。いずれにせよ、この改姓によって、蠣崎氏の時代は終わりを告げ、新たな松前氏の時代が幕を開けた。福山館建設という巨大事業に着手するための、政治的・経済的な独立は、この時点でほぼ達成されていたのである。建設は、この達成された地位を物理的に確定させ、可視化するための次なる一手であった。

第二章:黒印状と礎石 ― 福山館築城の政治的・経済的背景(1600年~1604年)

福山館の建設は、慶長5年(1600年)の着工から慶長9年(1604年)の「黒印状」下賜までの期間に、その性格を大きく変容させた。当初は独立領主としての拠点確立を目指した事業が、徳川幕府公認の独占交易体制を維持・管理するための中核インフラへと昇華していく過程を、当時の政治情勢と絡めて分析する。

1600年(慶長5年) - 移転と着工の決断

関ヶ原の動乱と蝦夷地

慶長5年(1600年)、日本全土が徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍に二分され、関ヶ原で天下分け目の決戦が行われた年、松前慶広は蝦夷地で新たな拠点建設に着手した 1 。彼は迷わず東軍、すなわち家康支持の立場を明確にした。この時期の築城開始という決断は、単なる偶然ではない。来るべき徳川の治世を見据え、戦乱が終結した暁には、自領の支配体制をより強固なものにしておこうという、先を見越した戦略的投資であった。中央の動乱は、辺境の支配者にとっては自立性を高める好機でもあったのである。

大館(徳山館)からの移転

慶広は、蠣崎氏代々の拠点であった大館(徳山館)から、より南に位置し、良港に近い福山台地へと本拠を移すことを決断した 1 。この移転には、複数の戦略的意図があったと考えられる。第一に、津軽海峡に面した港湾へのアクセスを改善し、本州との交易をより円滑にすること。第二に、防御に適した台地上に、新たな城下町を計画的に建設し、政治・経済の中心地として発展させること。旧来の拠点を離れ、新たな地に「城」を築くという行為は、松前氏による新時代の統治の始まりを象徴するものであった。

1604年(慶長9年) - 黒印状の下賜

福山館の建設が進行する中、松前氏の運命を決定づける画期的な出来事が起こる。慶長9年(1604年)、征夷大将軍となった徳川家康から、松前氏に対しアイヌとの交易独占権を公認する黒印状が与えられたのである 4 。これは、秀吉から得た船役徴収権を遥かに凌ぐ、絶大な権益を松前氏にもたらした。

黒印状の内容と「無石の藩」の成立

この黒印状は、主に以下の内容を定めていた。

  1. 諸国から松前に来る者が、松前氏の許可なくアイヌと直接商売をしてはならない 9
  2. 松前氏の許可なく蝦夷地に渡海し、売買を行う者を厳罰に処す 9
  3. 和人がアイヌに対し、不当な行いをすることを固く禁じる 15

この法令により、蝦夷地における全ての交易は松前氏の管理下に置かれ、莫大な利益が藩にもたらされることになった。寒冷な気候のため米が収穫できず、石高で評価できない松前藩は、この交易独占権を知行(領地)の代わりとする、日本で唯一の「無石の藩」として、徳川幕藩体制の中に特殊な地位を確立したのである 4

この1604年の黒印状は、福山館建設の意義を根底から変えた。当初の目的であった独立領主の拠点という性格に加え、この莫大な独占利権を守り、効率的に管理・運営するための司令塔、そして収奪した富を集積する巨大な倉庫という、新たな機能が求められるようになった。黒印状は、福山館の建設を加速させ、その規模をより堅固で大規模なものへと変質させる、いわば経済的な「礎石」となった。

同時に、この決定はアイヌ民族の運命にも大きな影響を及ぼした。これまで多様な和人と比較的自由に行っていた交易の相手が松前藩に限定され、その経済活動は著しく制限されることになった 14 。徳川幕府は、この黒印状をもって、蝦夷地全体を「松前氏の交易利権の源泉」と国家として定義した。これにより、アイヌ民族は日本国家の枠組みの中で、間接的に「松前藩の支配下にある交易民」として制度的に位置づけられ、その後の非対称的な関係がここに確定したのである。福山館は、この新たな支配・収奪システムの物理的な象徴として、蝦夷地の台地にその姿を現しつつあった。

第三章:六年の歳月 ― 福山館整備のリアルタイム・クロニクル(1600年~1606年)

慶長5年(1600年)の着工から慶長11年(1606年)の完成に至るまでの6年間は、松前氏がその総力を挙げて蝦夷地に新たな権力の中枢を築き上げた期間であった。この章では、断片的な記録を基に、福山館の建設プロセスを段階的に再現し、当時の国内外の情勢と連動させながら、そのリアルタイムな様相を描き出す。

初期段階(1600年~1602年):設計思想と基礎工事

築城は、まず縄張(設計)から始まった。福山館の設計思想には、関ヶ原合戦前後に最盛期を迎えた「慶長期」の築城技術、すなわち織田信長や豊臣秀吉によって発展させられた「織豊系城郭」の影響が色濃く反映されていたと推察される 21 。石垣で郭を囲み、複数の曲輪(本丸、二ノ丸、北ノ丸)を配置し、櫓で防御を固めるという構造計画は 1 、それまでの蝦夷地にあった土塁と木柵を主とする中世的な「館(たて)」とは一線を画す、本格的な近世城郭のそれであった。

実際の工事(普請)は、福山台地の地形を造成し、大規模な堀を掘削することから始まった。膨大な土木作業には、領内の和人だけでなく、交易関係を通じて松前氏の影響下にあったアイヌも、労働力として動員された可能性が考えられる。この基礎工事は、新たな支配体制の物理的な土台を築く作業に他ならなかった。

中期段階(1603年~1604年):構造物の建設

基礎工事に続き、城郭の骨格をなす石垣の普請が本格化した。石材の調達ルートや具体的な加工方法は詳らかではないが、慶長期に全国で標準技術となった、角部を直角に堅固に組み上げる「算木積み」などの技法が用いられたと見られる 21 。石垣の存在は、福山館が単なる「館」ではなく、永続的な支配を前提とした軍事要塞であることを示す決定的な証拠であった。この時期までに、本丸、二ノ丸、北ノ丸といった主要な区画の造成が完了し、福山館は城郭としての基本的な姿を現した 1

後期段階(1605年~1606年):殿舎の造営と竣工

城郭の骨格が完成すると、最後の仕上げとして作事(建築工事)が行われた。本丸には藩主の居館であり政務を執り行う表御殿、防衛の要となる隅櫓、そして城の出入りを固める諸門などが次々と建設された 1 。これらの建築物は、松前藩の統治機構であると同時に、本州の先進的な建築文化を蝦夷地に移植する役割も果たした。

そして慶長11年(1606年)8月、6年の歳月を費やした大事業はついに完成の日を迎えた 1 。松前慶広は、自らの権力と威光を蝦夷全土に示す、壮麗かつ堅固な新たな本拠地を手に入れたのである。

福山館整備 年表(1600年~1606年)

福山館の築城プロセスと、松前氏および徳川幕府の動向を一覧化することで、慶広の意思決定の背景をより明確にすることができる。

西暦(和暦)

福山館の工事進捗(推定)

松前氏の動向

国内(徳川幕府等)の主要動向

1600年(慶長5年)

福山台地にて縄張・着工。基礎的な土木工事を開始 1

家督を長男・盛広に譲るも、実権は掌握 3

関ヶ原の戦い。松前氏は東軍に与する。

1601年(慶長6年)

堀の掘削、曲輪の造成が進行。

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1602年(慶長7年)

石垣の基礎工事、石材の調達・加工が本格化。

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1603年(慶長8年)

石垣普請の最盛期。本丸、二ノ丸等の主要区画が完成 1

慶広、江戸に参勤し、百人扶持を得る 3

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府を開府。

1604年(慶長9年)

主要な土木工事が完了。殿舎等の建築準備に入る。

家康よりアイヌ交易独占を認める黒印状を下賜される 3

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1605年(慶長10年)

本丸御殿、櫓、門などの作事(建築工事)が本格化。

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徳川秀忠、二代将軍に就任。

1606年(慶長11年)

全ての工事が完了し、福山館が竣工 1

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この年表から読み取れるのは、福山館の建設が、徳川幕府による全国支配体制の確立と並行して進められたという事実である。特に1603年の幕府開府と1604年の黒印状下賜は、松前氏の地位が徳川政権下で公的に安定したことを意味する。これにより、慶広はより大きな確信をもって、この巨大プロジェクトを完成へと推し進めることができたのである。福山館は、松前氏の独立の象徴であると同時に、徳川の権威を背景とした、新たな支配秩序の拠点でもあった。

第四章:ベールを脱いだ北の牙城 ― 完成後の福山館の構造と戦略的意義

慶長11年(1606年)に完成した福山館は、単なる居館ではなかった。それは、政治、軍事、経済、そして象徴という多面的な機能を持つ、蝦夷地における初の本格的な近世城郭であった。本章では、その具体的な構造を分析し、特に「館」と「城」という二重性に込められた松前慶広の巧みな政治戦略を解き明かす。

「館」にして「城」という二重性

福山館の最も興味深い特徴は、その呼称と実態の間に見られる意図的な乖離である。

幕藩体制において、松前氏は米の獲れない「無石」の藩であったため、正式な城を持つことを許されない「無城待遇」の大名であった 1 。そのため、幕府に対しては、この建造物をあくまで「館」あるいは「陣屋」と称した 10 。これは、大名の武力を抑制しようとする幕府の意向を忖度し、無用な警戒心を抱かせないための、極めて高度な政治的配慮であった。

しかし、その実態は、この呼称とは全く異なっていた。福山館は、堅固な石垣と深い堀で周囲を固め、本丸、二ノ丸、北ノ丸といった複数の曲輪で階層的に防御され、要所には櫓が築かれていた 1 。これは、紛れもなく「城郭」そのものの構造である。この圧倒的な威容は、領内の和人や、とりわけアイヌ民族に対し、松前氏の揺るぎない武威と、その統治が永続的であることを視覚的に示すための、計算され尽くした演出であった 27 。慶広は、幕府への恭順の姿勢と、領内への威圧という二つの顔を、この建造物の「呼称」と「実態」を使い分けることで巧みに両立させたのである。

縄張の分析

福山館の縄張(設計)は、近世城郭が持つべき多様な機能を備えていた。

  • 防御機能 : 本丸を中心に二ノ丸、北ノ丸を配する階層的な曲輪構成は、敵の侵入を段階的に阻むという、当時の城郭における基本的な防御思想を忠実に反映している 1 。津軽海峡を望む台地という立地も、海上からの監視と防御を意識したものであった。
  • 政庁機能 : 中枢である本丸には、藩主の私的な居住空間であると同時に、藩の公的な政務を執り行う「表御殿」が置かれた 2 。福山館は、名実ともに松前藩の行政の中枢として機能した。
  • 交易拠点機能 : 福山館の完成に伴い、その麓には城下町が形成され、本州から来た商人たちが集住した。アイヌとの交易で得られた毛皮、干鮭、昆布といった蝦夷地の産物は、一度福山館の城下に集積され、ここから全国へと送られていった 28 。福山館は、藩の財政を支える一大経済センターとしての役割も担っていたのである。

蝦夷地における「石と瓦」の象徴性

福山館が蝦夷地の歴史において画期的であったのは、その構造だけでなく、使用された素材にもある。それまでの蝦夷地における和人の拠点(館)が、土塁と木柵を主とした一時的・仮設的な性格のものであったのに対し、福山館は本格的な石垣と、おそらくは瓦葺きの建物を導入した。

これは、単なる建築技術の進歩以上の意味を持っていた。アイヌが築いた砦である「チャシ」が、自然の地形を利用した土と木の構造物であったのに対し、和人が持ち込んだ「石と瓦」の技術は、自然を加工し、支配する高度な文明の力を見せつけるものであった。堅固で風雪に耐える石垣と、耐火性に優れた瓦は、和人による支配が一時的なものではなく、この地に永続的に根を下ろすものであることを誰の目にも明らかにした。福山館は、和人の持つ圧倒的な技術力と権力を可視化し、アイヌ社会に畏怖の念を抱かせるための、巨大な象徴的装置だったのである。

福山館と慶長期城郭・陣屋の比較

福山館の構造的特異性を客観的に示すため、同時代の典型的な城郭および陣屋との比較を行う。

構造要素

福山館(1606年時点)

典型的な慶長期城郭(例:姫路城)

典型的な陣屋

石垣

有り(野面積み主体か) 1

有り(高石垣、算木積み) 21

一部有り、または無し

有り(空堀か) 1

有り(多重の水堀・空堀) 30

有り(一重)、または無し

天守

無し

有り(層塔型・望楼型) 21

無し

有り 1

有り(多種多様な櫓) 31

御殿のみ、櫓は稀

曲輪構成

複数(本丸、二ノ丸等) 1

複雑・多重(本丸、二ノ丸、三ノ丸等) 30

単郭、または小規模な複数郭

公称

館、陣屋 10

32

陣屋、御殿 33

この比較から明らかなように、福山館は「天守を持たない城」というべきハイブリッドな性格を有している。幕府への配慮から城の最も象徴的な部分である天守は設けなかったものの、石垣、堀、複数の曲輪、櫓といった城郭の基本要素は全て備えていた。この構造こそが、松前慶広が置かれた、中央政権と辺境支配の狭間という絶妙な政治的立ち位置を、建築という形で表現したものであったと言える。

第五章:静かなる征服 ― 福山館が蝦夷地社会にもたらした変容

福山館の完成は、単に一つの建造物が誕生したという出来事にとどまらない。それは、蝦夷地における和人とアイヌの関係を「接触・交易」の段階から「支配・収奪」の段階へと決定的に移行させる、歴史的なパラダイムシフトの象徴であった。物理的な拠点の確立が、経済システムと社会構造、そして人々の意識をいかに静かに、しかし根底から変容させていったのかを考察する。

交易独占体制の物理的固定化

徳川家康から与えられた黒印状は、松前藩にアイヌ交易の独占権という法的な後ろ盾を与えた 8 。そして福山館は、その権利を現実世界で実行し、維持するための物理的な司令塔となった。これ以降、アイヌは交易を行うために福山城下まで貢物を持参するか、あるいは藩が蝦夷地各地に派遣する交易船を待つしか選択肢がなくなった 14 。かつて存在した、多様な和人商人と自由に行う交易活動は、制度的にも物理的にも封じ込められたのである 5

この構造変化は、交易のパワーバランスを松前藩側に圧倒的に有利なものへと傾けた。競争相手のいない松前藩やその許可を得た商人は、一方的に交換レートを決定することが可能となり、アイヌにとって極めて不利な不平等交易が常態化していく。例えば、干鮭100匹に対して交換される米の量が、かつての半分以下にまで引き下げられるといった事態が頻発した 15 。福山館の石垣は、この経済的収奪システムを守るための壁でもあった。

「和人地」と「蝦夷地」の境界確定

福山館という恒久的で強大な政治・軍事中心地の出現は、松前藩の直接支配が及ぶ領域としての「和人地」と、交易利権の源泉である「蝦夷地」との境界を、物理的にも心理的にも明確に画定させる役割を果たした 4 。福山館を中心とする渡島半島南部が和人の定住・統治領域として確立される一方、それ以外の広大な土地はアイヌの住まう場所、すなわち「外地」として扱われるようになった。

この境界設定に伴い、和人が許可なく蝦夷地へ定住することは厳しく禁じられ、アイヌが和人地へ移動する際も藩の管理下に置かれるようになった。これにより、両者の生活空間は人為的に分離され、交流は藩が管理する交易という限定的な接点に集約されていった。福山館は、この境界線の起点であり、蝦夷地を内部(和人地)と外部(蝦夷地)に分ける分断の象徴となった。

シャクシャインの戦い(1669年)への伏線

福山館によって確立された松前藩の強固な支配体制と、それに伴う経済的収奪は、約60年の歳月をかけてアイヌ社会に深刻な不満と困窮を蓄積させていった。和人商人による鮭漁場への侵出や資源の乱獲は、アイヌの伝統的な生活基盤を破壊した 5 。藩の権力を背景とした和人の横暴や不公正な取引は、アイヌの尊厳を深く傷つけた 35

これらの鬱積した不満は、やがて大規模な抵抗運動へと発展する。寛文9年(1669年)、アイヌの首長シャクシャインを中心に、広範な地域のアイヌが蜂起し、和人との全面戦争に至った(シャクシャインの戦い) 37 。この戦いの遠因は、福山館の完成と共に始まった、構造的な支配と収奪の歴史の中にあったと言える。福山館の礎石は、皮肉にも、その後の蝦夷地における最大の抵抗運動の火種を内包していたのである。福山館の建設は、武力による征服ではなく、経済と制度による「静かなる征服」の始まりを告げるものであり、この構造こそが、幕末、さらには明治以降の北海道史にまで続く和人とアイヌの非対称的な関係性の原点となった。

終章:北の礎

慶長11年(1606年)の福山館整備は、日本の歴史、とりわけ北方の辺境史において、一つの時代を画する出来事であった。本報告書で詳述してきたように、この事象は単なる「拠点整備」や「防衛体制の強化」といった言葉では捉えきれない、より深く広範な歴史的意義を持っている。

「拠点整備」から「国家創生」へ

結論として、福山館の建設は、松前藩という独自の政治・経済空間、すなわち一つの領域「国家」を蝦夷地に創生する事業であったと評価できる。松前慶広は、戦国武将としての知略と外交手腕を駆使して中央政権から独立性を勝ち取り、徳川幕府から交易独占権という経済基盤の承認を得た。そして、福山館という物理的な中枢を築くことで、その権力と権益を蝦夷地の隅々にまで及ぼす体制を確立した。それは、法(黒印状)、経済(独占交易)、軍事・行政(福山館)の三位一体となった、精緻な国家形成の試みであった。

その後の福山館

福山館は、その完成後も蝦夷地の歴史の中心にあり続けた。寛永14年(1637年)には火災に見舞われるも修復され、その支配機能は維持された 2 。時代が下り、19世紀になるとロシアの南下という新たな脅威に対応するため、幕府の命により大規模な改修が施され、砲台などを備えた本格的な「松前城」へと生まれ変わる 1 。そして幕末の動乱期には、箱館戦争の舞台の一つとなり、土方歳三率いる旧幕府軍によって一時占領されるという劇的な歴史を辿った 1 。その姿は、時代の要請に応じて、国内支配の拠点から対外防衛の最前線へと、その役割を変化させていったのである。

現代への遺産

今日、松前城跡として残る福山館の遺構は、我々に多くのことを物語っている。それは、戦国の気風を色濃く残した一人の武将が、北の果てに築き上げた権力の礎である。同時に、その礎の上に築かれた支配体制が、先住民族であるアイヌとの間に長く複雑な関係史を生み出した出発点でもある。福山館の石垣の一つ一つは、北海道における和人支配の始まりと、それに伴う栄光と葛藤の歴史を、今なお静かに語り継いでいる重要な歴史遺産なのである。

引用文献

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  3. 松前慶広 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E6%85%B6%E5%BA%83
  4. 松前藩(まつまえはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9-136741
  5. Ⅱ.近世のアイヌ民族と和人の戦い https://eainu21.wordpress.com/%E2%85%B1-%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%A8%E5%92%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  6. 【歴史百話-境界領域の日本史】 56.松前藩の由来 http://kinnekodo.web.fc2.com/link-56.pdf
  7. 松前慶広(まつまえよしひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E6%85%B6%E5%BA%83-1111208
  8. No.7 松前慶広、家康より黒印状を受ける。松前藩、北方の交易権独占。 https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/tenjikan/contents/page-hoppou07.html
  9. 徳川幕府の北方政策 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/ainudoukasaku.html
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  11. 松前慶広とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E6%85%B6%E5%BA%83
  12. 【松前城】海防最強の幕末の城郭!しかし、土方歳三に陸から攻められて即日落城(北海道松前町) https://rekishi-kun.com/album/hokkaido/matumaejyo/
  13. 松前氏城跡福山城跡 | | まつまえの文化財 - 松前町 https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail_sp/00001681.html
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  17. 東アジアの中の蝦夷地 - アイヌ民族文化財団 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1401.pdf
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  20. 中近世の蝦夷地 - AKARENGA(あかれんが) https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/kaitaku/k-01/
  21. 【お城の基礎知識】江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/keichoki-boom/
  22. 特集 発掘調査が明かす築城技術の発展 - 兵庫県まちづくり技術センター https://www.hyogo-ctc.or.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/hyogoremains86.pdf
  23. 松前城③ ~最北の日本式城郭~ | 城館探訪記 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-2512.html
  24. 旧福山城本丸表御殿 玄関 | | まつまえの文化財 - 松前町 https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001822.html
  25. 松前城 | 松前町公式観光サイト https://travel-matsumae.jp/spot/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%9F%8E/
  26. 松前城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.matsumae.htm
  27. 蝦夷の時代14 福山館の新築|あなたが選んだ北海道のビューポイント - note https://note.com/hokkaido_view/n/n002c7fd2aed5
  28. 蠣崎慶広(かきざき よしひろ/松前慶広) 拙者の履歴書 Vol.154~蝦夷の海を渡り世をつなぐ https://note.com/digitaljokers/n/n81a2094d0c8e
  29. 「松前藩とは?」「松前藩のアイヌ交易や場所請負制度とは?」わかりやすく解説! https://kiboriguma.hatenadiary.jp/entry/matumae
  30. 徳川家康による“対豊臣”の巧妙な布石 「慶長の築城ラッシュ」で注目したい城トップ3 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33380
  31. 今治城について | 今治市 文化振興課 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/imabarijo/about/
  32. 超入門! お城セミナー 第134回【歴史】江戸時代に造られたお城ってどれくらいあるの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1852
  33. 城郭・陣屋内の楼閣建築再考 - 数寄屋建築の構成に関する研究 - https://kindai.repo.nii.ac.jp/record/9594/files/AN00064168-20060930-0121.pdf
  34. 交易に力を入れたむかわのアイヌ民族 http://www.town.mukawa.lg.jp/4890.htm
  35. シャクシャイン 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shakushain/
  36. 4.和人とのかかわり https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/pdf/03-04-wajin_kakawari-p136-143.pdf
  37. シャクシャインの戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  38. 東京 8/21・23 「シャクシャインの蜂起とその周辺」 浪川 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1305.pdf
  39. ③ シャクシャインの戦い https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc-att/ctll1r000000cz1o.pdf
  40. 福山(松前)城と寺町|松前町 - 函館国際観光コンベンション協会 https://hakodate-kankou.com/spot/440/
  41. 松前城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/matumaejo/