福岡城築城(1601)
関ヶ原の功労者、黒田長政は父如水と共に筑前国に福岡城を築いた。これは黒田家の安泰と繁栄を願う壮大な計画であり、武士の町「福岡」と商都「博多」の双子都市を生み出した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
近世の黎明、筑前の巨城 ― 福岡城築城の軌跡(1601-1607)―
序章:天下分け目の功と野心 ― 筑前入国の背景
慶長六年(1601年)に鍬入れが行われた福岡城の築城は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、戦国乱世の終焉と徳川の世の黎明という、時代の巨大な転換点において、黒田家がその存亡と未来を賭けて打った一大戦略の帰結であった。この壮大な事業の背景には、父子の間に交錯する、周到な計算と抑えがたい野心が存在した。関ヶ原の戦いという日本史上最大の分水嶺を、黒田長政と父・如水(官兵衛)は、全く異なる二つの舞台で、しかし一つの家の未来のために戦い抜いたのである。
黒田長政の「一番の功労」
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原。天下分け目の決戦において、黒田長政の働きは、徳川家康率いる東軍の勝利に決定的な貢献を果たした。長政の真価は、戦場での武勇のみならず、戦況そのものを支配する卓越した調略能力にあった。彼は戦前から東軍の調略担当として、西軍に与する諸将の切り崩し工作を精力的に展開していた 1 。
その最も顕著な功績が、西軍の有力武将であった小早川秀秋の寝返り工作である 2 。戦局が膠着する中、松尾山に陣取る秀秋の動向が勝敗の鍵を握っていた。長政は、親族でもあった平岡頼勝らを通じて秀秋に接触を重ね、東軍への寝返りを確約させることに成功する 2 。決戦当日、逡巡する秀秋に対し、鉄砲を撃ちかけて決断を促したという逸話は、長政の機を見るに敏な判断力を物語っている。また、毛利輝元の従弟である吉川広家にも内通し、毛利本隊の動きを封じ込めることにも成功した 2 。
戦場においても長政の部隊は勇戦し、石田三成の腹心であり西軍最強の猛将と謳われた島左近を討ち取るという大功を挙げた 1 。これらの調略と武功が一体となった働きは、わずか一日で関ヶ原の戦いを東軍の圧勝に導く最大の要因となった。
戦後、徳川家康は長政の功績を「関ヶ原の戦い一番の功労者」と最大級に称賛し、子々孫々まで罪を免除するという破格のお墨付きを与えた 2 。そして恩賞として、豊前中津十二万石から四倍以上となる筑前国五十二万三千石余という広大な領地が与えられたのである 1 。これにより黒田家は、一躍九州を代表する大大名へと飛躍を遂げた。福岡城築城は、この輝かしい「一番の功労」に対する報酬から始まったのである。
父・黒田如水の「天下への賭け」
長政が関ヶ原で家康への忠誠を尽くしている頃、その父であり、豊臣秀吉の天下取りを支えた天才軍師・黒田如水(官兵衛)は、九州の地で全く別の戦いを始めていた。公式には隠居の身であったが、彼の胸中には天下への最後の野望が燻っていた 4 。
関ヶ原の戦いが始まると、如水は「家康に味方し、西軍勢力を掃討する」という大義名分を掲げ、長年蓄えた私財を惜しげもなく投じて浪人衆をかき集め、瞬く間に一万を超える軍勢を組織した 6 。家康には事後報告の形で九州の「領地切り取り次第」を申し入れ、その返事を待つことなく電光石火の進撃を開始する 6 。
その初戦となったのが、豊後国での石垣原の戦いであった。西軍の毛利輝元の支援を受けてお家再興を図る大友義統を撃破すると、その勢いのままに九州内の西軍方の城を次々と攻略し、南下を続けた 4 。その最終目標は、九州全土を平定し、関ヶ原の戦いで疲弊した勝者(それが家康であれ三成であれ)と対峙し、天下の実権を握るという壮大な計画であったとされる 4 。長政を家康のもとに送ったのは、この九州での軍事行動をカモフラージュする狙いもあった 6 。
しかし、歴史の歯車は如水の思惑通りには進まなかった。関ヶ原の戦いが、彼の予想を遥かに超えるわずか一日という短時間で決着してしまったのである。息子の長政が、あまりにも見事に東軍を勝利に導いてしまったが故に、父の野望は潰えた。後に長政から勝利の報告を聞いた如水が、家康を讃える息子に対し「その時、汝の左手は何をしていたのか(なぜ家康を刺さなかったのか)」と漏らしたという逸話は、彼の野望の大きさと、それが潰えた瞬間の無念さを象徴している 6 。
二元戦略としての関ヶ原
一見すると、長政の忠勤と如水の野心は矛盾しているように見える。しかし、これら二つの動きは、一つの家が生き残りを賭けて実行した、極めて高度な「二元戦略(デュアル・ストラテジー)」として理解することができる。
まず、長政の東軍参加は、黒田家の存続を保証するための最も確実な「保険」であった。徳川方が勝利した場合、その功労者として家名安泰と大幅な加増が期待できる。これは、時代の流れを冷静に読み切った上での現実的な選択であった。
一方で、如水の九州での挙兵は、関ヶ原の戦いが長期化するという、十分にあり得たシナリオに備えた「本命」の賭けであった。もし東西両軍が protracted な消耗戦を繰り広げれば、九州を完全に掌握した如水が第三勢力としてキャスティングボートを握り、あるいは天下をその手に収める可能性さえあった。
この父子の役割分担は、黒田家が東西どちらに転んでも生き残り、かつ最大の利益を得ることを可能にする、リスクヘッジと野心の両立を目指した戦略であった。長政の行動が如水の行動を正当化し、如水の行動が長政の功績の価値を(潜在的に)高めるという、相互補完的な関係にあったのである。この関ヶ原における複眼的な戦略思考こそが、後の福岡城築城において、徳川幕府への恭順の意を示しつつ、西国随一の堅城を築いて潜在的な軍事力を誇示するという、二面性を持つ事業へと繋がっていくのである。
第一章:旧主の城、新時代の構想 ― 名島城の限界と新城建設の決断
関ヶ原の戦いの論功行賞により筑前一国を手にした黒田長政は、慶長五年(1600年)末、新たな領国へと入った。しかし、新時代の領国経営の拠点として彼らを待っていたのは、多くの課題を抱えた旧領主の城であった。莫大な費用と労力を投じて新城を築くという決断は、黒田家にとって単なる選択肢ではなく、必然であった。
筑前入国と名島城
筑前国の新領主となった黒田長政は、家臣団や領民を率いて大規模な移転、いわゆる「筑前御討入り」を敢行した 7 。彼らが最初に入ったのは、前領主である小早川秀秋の居城であった名島城である 1 。名島城は博多湾に浮かぶ名島に築かれた海城であり、家臣の後藤又兵衛らが長政を丁重に出迎えた記録が残っている 9 。
しかし、この名島城は、五十二万石という大封を得た黒田家の本拠地としては、多くの点で不十分であった。父子ともに築城の名手であった長政と如水が、その欠陥を見抜くのに時間はかからなかった。
名島城の戦略的欠陥
名島城が抱える問題点は、地理的、経済的、そして軍事的な側面に集約される 7 。
第一に、地理的な制約である。名島城は博多湾に突き出た半島状の丘陵地に位置しており、天然の要害ではあった。しかし、その地形ゆえに城の周囲には平地が極めて少なく、大規模な城下町を形成・発展させるための物理的なスペースが絶望的に不足していた 1 。これは、多くの家臣団を抱え、新たな都市を形成する必要がある大大名にとっては致命的な欠点であった。
第二に、経済的・政治的中心からの乖離である。当時、この地域の経済の中心は、豊臣秀吉による「太閤町割り」を経て戦国の荒廃から復興を遂げた、国際貿易港としての歴史を持つ商都・博多であった 7 。名島城はこの博多から地理的に離れており、領国経営の根幹である商業の掌握や、効率的な統治を行う上で不便な立地であった 7 。
第三に、軍事思想の旧態化である。名島城の構造は、切り立った崖などを利用する中世的な山城の性格を色濃く残していた。これは、鉄砲の集団運用や大規模な兵力の展開を前提とする近世的な籠城戦には適しておらず、黒田家が求める新しい時代の拠点としては能力不足であった。
新城建設の意思決定と候補地の選定
これらの戦略的欠陥を前に、長政と如水は速やかに新城の建設を決断する 1 。これは、単に快適な居城を求めるという次元の話ではなく、黒田藩の未来百年の計を左右する重要な経営判断であった。
新城の候補地として、福崎、荒津、箱崎、住吉の四ヶ所が比較検討された 7 。それぞれの土地が持つ地理的条件、防御能力、そして将来性が慎重に吟味された結果、最終的に選ばれたのが「福崎」と呼ばれた丘陵地であった 7 。
福崎が選ばれた理由は、名島城の欠点をすべて克服するポテンシャルを備えていたからである。第一に、商都・博多に隣接しており、経済の中心と政治の中心を一体的に運営することが可能であった 7 。第二に、古代から造成が行われていたため地盤が安定しており、広大な平地に計画的な城下町を形成できる見込みがあった 7 。そして第三に、南に連なる丘陵と北の海という自然地形を利用することで、堅固な城を築くのに適していたのである。
城の移転は「統治理念」の表明
名島城を捨て、全く新しい場所に城を築くという決断は、物理的な必要性以上に、強力な政治的メッセージを含んでいた。名島城は、豊臣政権下でこの地を治めた小早川氏の居城であり、豊臣時代の統治の象徴であった。関ヶ原の戦いを経て時代は徳川のものとなり、黒田家は家康によって任命された新時代の統治者である。
既存の城を改修して使い続けるのではなく、それを解体し、全く新しい城と城下町をゼロから創造するという行為は、旧時代の終焉と新時代の到来を領民や周辺大名に視覚的に宣言する、極めて象ें powerful な政治的パフォーマンスであった。それは、「この筑前の地は、我々黒田家が、徳川の権威の下で新たに治める」という、揺るぎない統治理念を大地に刻み込む行為に他ならなかった。新城建設は、黒田藩の幕開けを告げる壮大な祝砲だったのである。
表1:名島城と福岡城(福崎)の戦略的比較
項目 |
名島城 |
福岡城(福崎) |
評価 |
立地 |
博多湾に突き出た半島状の丘陵 |
博多湾に面し、商都博多に隣接する丘陵地 |
福岡城が圧倒的に優位 |
規模・拡張性 |
城郭、城下町ともに拡張の余地が乏しい |
広大な平地を有し、大規模な城郭と城下町の建設が可能 |
福岡城が圧倒的に優位 |
防御思想 |
中世的な海城・山城の性格が強い |
自然地形と堀を組み合わせた近世的な平山城 |
福岡城が新時代の戦術に適応 |
経済・政治連携 |
商都博多から離れており、非効率 |
博多と一体化した都市圏を形成でき、効率的な領国経営が可能 |
福岡城が圧倒的に優位 |
城下町形成 |
物理的に大規模な城下町の形成は不可能 |
計画的な武家屋敷街の建設が可能 |
福岡城が圧倒的に優位 |
第二章:天才軍師のグランドデザイン ― 福岡城の縄張りと設計思想
福岡城の設計、すなわち「縄張り」には、戦国時代最高の知性と謳われた黒田如水の築城哲学が色濃く反映されている。それは単なる軍事要塞の設計図ではなく、自然と調和し、実戦を徹底的に想定し、そして未来の都市の繁栄までも見据えた壮大なグランドデザインであった。福崎の地に描かれたその縄張りは、如水の思想そのものを物理的に表現したものであった。
黒田如水の築城哲学
黒田如水は、豊臣秀吉の下で数々の戦功を挙げた軍師として知られるが、同時に当代随一の築城家でもあった。備中高松城の水攻めにおける独創的な献策をはじめ、自らの居城となった中津城、さらには広島城や肥前名護屋城など、数多くの重要な城郭の築城や改修に深く関与している 13 。
彼の築城術の根幹には、二つの大きな柱があった。一つは「水陸の利便性の重視」であり、城が交通の要衝として機能し、経済活動の拠点となることを常に意識していた 13 。もう一つは「自然地形の最大限の活用」である。地形を無理に変えるのではなく、その土地が持つ本来の形状や特性を読み解き、防御上の利点として最大限に引き出すことを得意とした 13 。また、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において倭城の築城に関わった経験から、最新の石垣構築技術にも精通していた 13 。
福岡城の縄張りは、公式には藩主である長政が担当したとされるが、築城初期、如水は太宰府に仮の住まいを構え、現場に頻繁に足を運んで実質的な総指揮を執ったと考えられている 7 。福岡城の随所に見られる独創的な工夫は、まさに如水の手腕の証左と言えるだろう。
福崎の地形と縄張り
福岡城は、何もない平地に一から築かれた城ではない。その設計は、福崎の地が持つ自然の地形を巧みに利用することから始まっている。南に連なる赤坂山系の丘陵が博多湾に向かって突き出した、その先端部分の地形がキャンバスとなった 16 。
如水と長政は、この丘陵を削り(削平)、その過程で出た土を谷部に盛る(盛土)という、大規模な造成工事を行った。これにより、人工的に高さの異なる複数の平坦面を創り出し、城郭を階層的に配置したのである 16 。最も低い三の丸(標高約5-8m)から、二の丸(約16-18m)、本丸(約23m)、そして最も高い天守台(約36m)へと、城の中心に進むにつれて段階的に高くなるこの構造は、敵に絶え間ない仰角での攻撃を強いる、極めて防御的な設計であった 16 。
城全体の配置は、本丸を城郭の北西隅に寄せ、それを二の丸、三の丸がL字型に取り囲む「梯郭式」と呼ばれる縄張りを採用している 7 。これにより、城の北側と西側はそれぞれ博多湾と草香江(くさがえ)の入り江という天然の広大な水堀で守られることになる 13 。その結果、防御の力点を南と東に集中させることができ、効率的かつ堅牢な防衛ラインを構築することが可能となった。
「福岡」命名の由来と意図
新城の建設にあたり、この地は古くからの名である「福崎」から「福岡」へと改名された 12 。この「福岡」という名は、黒田家の祖先が拠点とした備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地に由来する 12 。
これは単なる郷愁から名付けられたものではない。自らのルーツを示す地名を新たな本拠地に冠することで、黒田家がこの筑前の地に永続的に根を下ろし、ここを新たな故郷として繁栄させていくという、内外に対する強い決意表明であった。過去の歴史を受け継ぎ、未来を築くという意志が、その名には込められていたのである。
城は「思想」の物理的表現である
福岡城の設計思想を深く理解するためには、設計者である黒田如水の哲学に触れる必要がある。如水という号は、中国の思想家・老子の「上善は水の如し」という言葉から採られている 15 。これは、水のように、万物に恵みを与えながらも争わず、常に低い場所に身を置き、どのような器にも柔軟に形を変える生き方を理想とする思想である。
この「如水」の思想は、福岡城の縄張りに見事に体現されている。城の設計は、巨大な人工構造物を大地に無理やり押し付けるのではなく、そこにある地形という「自然の流れ」を読み解き、それに沿って最小限の力で最大限の効果を生み出すように考えられている。丘陵を削ってその土で谷を埋めるという造成手法は、まさに地形という「流れ」に逆らわない思想の表れである 16 。後に詳述する、堀の浅さを逆手に取った防御戦術もまた、弱点を強みに転換する柔軟な発想の産物である 17 。
このように、福岡城の縄張りは、単なる軍事技術や土木技術の結晶ではない。それは、黒田如水という人物がその生涯を通じて培った、「自然の理に適応し、逆境を利点に変える」という人生哲学そのものが、大地というキャンバスに刻み込まれた物理的な表現なのである。
第三章:巨城、大地に現る ― 築城工事のリアルタイム・クロニクル(慶長六年~十二年)
慶長六年(1601年)、福崎の丘陵に最初の鍬が入れられた。ここから七年間にわたる壮大な築城工事が始まる。それは、数万の人々が動員され、最新の技術と膨大な資材が投じられた、まさに国家的な巨大プロジェクトであった。その槌音は、新しい時代の到来を告げるファンファーレでもあった。
慶長六年(1601):普請始め
関ヶ原の戦いの翌年、黒田長政は新城の築城を正式に開始した 7 。この巨大事業の成否を左右する石垣工事の総責任者(石垣普請奉行)には、黒田二十四騎の一人に数えられ、石積みの名手として知られた野口左助一成(のぐち さすけ かずなり)が任命された 23 。福岡市博物館には、如水や長政が野口に宛てて石垣普請について指示した書状が残されており、築城過程の生々しい一端を伝えている 25 。
築城における最大の課題は、膨大な量の石材の確保であった。野口らのチームは、まず旧居城である名島城を解体し、その石垣や建材を海上輸送して再利用した 8 。しかし、それだけでは到底足りない。彼らはさらに、鎌倉時代に築かれた元寇防塁の石垣 23 、古代の外交施設であった鴻臚館の礎石 27 、そして周辺地域に点在する古墳の石室材までも動員したと伝えられている 23 。これは、単なる資材の効率的な調達というだけでなく、この地に刻まれた過去の歴史のすべてを新しい城の礎石として取り込み、黒田家の支配の正統性を象徴するという、深い意味合いを持つ行為であった。
興味深いことに、初期の工事においては、近江坂本を拠点とする石工の専門家集団「穴太衆(あのうしゅう)」が不在であり、「素人築き」で進められた部分があったという記録も存在する 26 。これは、関ヶ原直後の当時は全国で大名の移封に伴う築城・改修ラッシュが起きており、熟練した専門技術者の確保が極めて困難だったという時代状況を反映している可能性がある。その後、能古島(のこのしま)や唐泊(からとまり)などから新たに石材を切り出し、本格的な石垣が築かれていった 26 。
慶長七年(1602):本丸への移徙
着工からわずか一年後、城の中核部分である本丸が概ね完成し、黒田長政は名島城からこの未完成の城へと居を移した 7 。城全体が完成するにはまだ六年もの歳月を要する段階での移転は、一刻も早くこの地を新たな政治の中心として機能させ、領国経営を本格化させたいという長政の強い意志の表れであった。藩主自らが槌音響く工事現場の只中で政務を執り始めたことは、家臣団や領民に新時代の到来を強く印象付けたであろう。
慶長九年(1604):設計者の死
築城開始から三年後、この壮大なプロジェクトのグランドデザインを描いた黒田如水が、京都伏見の藩邸でその生涯を閉じた 14 。享年五十九。彼の辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよわじ なるにまかせて(思い残す言葉もなく、今まさに逝こうとしている。道に迷うことはあるまい、なるがままに進むだけだ)」には、激動の生涯を生き抜いた男の達観した心境が滲む 14 。設計の精神的支柱を失ったことは大きな痛手であったが、その卓越した築城思想は、息子の長政と普請奉行の野口一成ら現場の者たちに確かに引き継がれ、工事は滞りなく続行された。
慶長六年~十二年(1601-1607):工事の継続と技術
七年間にわたる工事期間中、様々な技術が駆使された。石垣は、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」や、石をある程度加工して隙間を減らす「打込接(うちこみはぎ)」が主体であった 29 。特に、城の正面玄関にあたる大手門周辺は、客人を迎える「ハレ」の場として、石を精密に加工して隙間なく積み上げる「切込接(きりこみはぎ)」が用いられ、城の裏手にあたる搦手口は実用本位の野面積みと、場所の格式や重要度に応じて工法が意図的に使い分けられた 29 。これは、威厳を示すべき場所と、実用性とコストを優先する場所を区別する、極めて合理的な判断であった。
また、城を囲む堀を掘削する際に出た土は、そのまま土塁の材料として再利用された 30 。特に城の南面を守る土塁は高さ7~8メートルにも達する巨大なもので、石垣と組み合わせることで堅固な防御ラインを形成した 23 。こうして、7年の歳月をかけて、大小47の櫓と10を超える門が次々と姿を現していった 31 。
慶長十二年(1607):竣工
慶長十二年(1607年)、着工から七年の歳月を経て、九州最大級の規模を誇る巨大城郭、福岡城がついに完成した 7 。その威容は、加藤清正が築いた熊本城にも匹敵すると言われ、西国における黒田家の権威と実力を天下に示すに十分なものであった 7 。
表2:福岡城築城に関連する時系列年表
年(西暦/和暦) |
主要な出来事(政治・軍事) |
福岡城築城の進捗 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。黒田長政、筑前国五十二万石余を拝領。 |
名島城に入城。新城建設を決定。 |
1601年(慶長6年) |
- |
築城工事開始(普請始め)。 野口一成が石垣普請奉行に就任。 |
1602年(慶長7年) |
- |
本丸が概ね完成。長政が名島城から移徙。 |
1603年(慶長8年) |
徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。 |
二の丸、三の丸の造成、石垣工事が本格化。 |
1604年(慶長9年) |
黒田如水、京都伏見にて死去。 |
如水の設計思想を引き継ぎ、工事は継続。 |
1605年(慶長10年) |
徳川秀忠、二代将軍に就任。 |
櫓、門などの建築工事が進行。 |
1606年(慶長11年) |
- |
城郭の主要部分がほぼ完成。 |
1607年(慶長12年) |
- |
福岡城、竣工。 |
第四章:鉄壁の要塞 ― 完成後の福岡城の構造分析
七年の歳月を経て完成した福岡城は、単に広大なだけではない。その隅々にまで、歴戦の将である黒田父子の実戦経験に裏打ちされた、合理的かつ独創的な防御思想が貫かれていた。加藤清正をして「この城を攻めるには30日から40日はかかるだろう」と言わしめたその構造は、まさに鉄壁の要塞と呼ぶにふさわしいものであった 15 。
壮大なスケール
福岡城の規模は、同時代の城郭の中でも群を抜いていた。城の中心部である内郭だけでも敷地面積は約47万平方メートル、外堀まで含めた総面積は110万平方メートルに達したとも言われる 20 。これは、江戸時代の平山城としては全国でも有数の規模である。
城内には、大小合わせて47以上もの櫓が林立し、死角のない防衛網を形成していた 31 。これらの櫓は、監視、攻撃、倉庫など多様な役割を担い、城の防御力を立体的に高めていた。また、城内への進入路には10を超える堅固な門が設けられ、敵の侵入を段階的に阻む構造となっていた 33 。
主要な曲輪と防御施設
城郭は、本丸、二の丸、三の丸という主要な曲輪(くるわ)が階層的に配置され、それぞれが独立した防御区画として機能するよう設計されていた 32 。
- 本丸・二の丸・三の丸: 城の最高所に位置する本丸には、藩主の住まいと政庁を兼ねた壮麗な御殿が建てられた。その下に二の丸、三の丸が広がり、三の丸には藩の重臣たちの屋敷が整然と配置されていた 32 。
- 多聞櫓(国指定重要文化財): 城の南側、防御上の弱点となりうるエリアを守るために築かれた長大な櫓である。現存する部分だけでも総延長は72メートルに及び、両端には二層の隅櫓を備えている 37 。この櫓の特筆すべき点は、内部が16もの細かい部屋に仕切られていることである 15 。これは、単なる倉庫や長塀としてではなく、戦闘時に部隊が組織的に連携し、緻密な防御戦闘を展開することを可能にするための構造であった 15 。壁には銃撃用の「狭間(さま)」や、石垣を登る敵に石や熱湯を落とす「石落とし」が設けられ、平時は武器庫として、戦時には強力な防御拠点として機能した 38 。
- 潮見櫓: 城の北西隅、博多湾を望む位置に建てられた櫓で、その名の通り、海上の監視を主な役割としていた 41 。海外からの脅威や不審船の動向をいち早く察知するための、城の「目」であった。
- 桝形虎口(ますがたこぐち): 城の主要な門は、「桝形虎口」と呼ばれる防御性能の高い構造を採用していた。これは、第一の門を突破した敵を、石垣で囲まれた四角い空間(桝形)に誘い込み、第二の門で足止めする仕組みである 44 。桝形に閉じ込められた敵兵は動きを封じられ、周囲の石垣や櫓の上から十字砲火を浴びることになる。これにより、たとえ門が破られても、敵兵の勢いを削ぎ、大損害を与えることができた。
黒田流・独創の防御思想
福岡城の防御思想の中で最も独創的と言えるのが、意図的に浅く設計された堀である。通常、城の堀は深ければ深いほど、敵の物理的な侵入を困難にするため防御上有利とされる。しかし、福岡城の外堀は、一見すると防御上の欠陥とも思えるほど浅く造られていた 17 。
これは、黒田如水の逆転の発想に基づく、計算され尽くした設計であった。深い水堀は、確かに敵兵の渡渉を困難にするが、一方で夜間などに潜入を図る隠密の兵が水中に身を隠す絶好の潜伏場所を提供してしまうという弱点も併せ持つ。敵に見つからずに城壁の直下まで接近することを許してしまうリスクがあった。
そこで如水は、堀をあえて浅く設計した。これにより、堀を渡ろうとする敵兵は、水中に身を隠すことができず、その姿を城内から完全に晒すことになる。さらに、石垣も過度に高くせず、死角をなくすことで、石垣の陰に隠れることも防いだ。福岡城の堀の浅さは、欠陥なのではなく、「敵に隠れる場所を一切与えない」という、極めて攻撃的な監視・迎撃思想に基づいた戦術の一環だったのである 17 。常識を疑い、弱点さえも強みに転換する。これこそが、天才軍師・黒田如水ならではの真骨頂であった。
第五章:幻の天守 ― 福岡城天守存否論争の真相
福岡城跡には、東西約25メートル、南北約22メートル、高さ約10メートルという、五層建ての天守が建てられてもおかしくない壮大な天守台が今なお残っている 15 。しかし、そこに天守閣はない。この「天守の不在」は、福岡城最大の謎として長らく論争の的となってきた。しかし近年の研究は、天守が「最初から無かった」のではなく、「建てられたが、意図的に解体された」という説を有力にしている。その背後には、徳川の世を生き抜くための、外様大名・黒田家の高度な政治戦略があった。
天守を巡る二つの説
福岡城の天守については、大きく分けて二つの説が存在してきた。
一つは「非存在説」である。これは、現存する最古の城絵図である『福博惣絵図』(1646年)に天守が描かれていないことや、「父・如水が『天守は無用の長物である』と遺言したため、建てられなかった」という伝承を主な根拠とする 13 。為政者は民の模範となるべきであり、華美な天守で権威を誇示することを戒めたという、如水の人柄を反映した説である。
もう一つが「存在・解体説」である。これは、これほど大規模な天守台と、天守の柱を支えたであろう礎石が存在することから、一度は天守が建てられたものの、火災やその他の何らかの理由で失われた、あるいは取り壊されたとする説である 15 。
解体説を裏付ける新史料
長らく決着を見なかったこの論争に、近年、大きな進展があった。解体説を具体的に裏付ける複数の史料が発見されたのである 15 。
その一つが、隣国の小倉藩主・細川忠興が父・幽斎に宛てた元和六年(1620年)付の書状である。その中で忠興は、「黒田長政が、徳川の世に城は不要であるとして、幕府への恭順の意を示すために福岡城の天守を解体するつもりだと将軍(徳川秀忠)に語ったと噂されている」という趣旨の内容を記している 15 。
さらに決定的だったのが、細川家の筆頭家老であった松井家に伝わる文書の発見であった。そこには、長政が幕府による大坂城再建工事(天下普請)の遅れを取り戻すため、「福岡城の天守を解体し、その石垣や部材を大坂へ運んだ」という、解体の目的と部材の行先までが具体的に記されていたのである 15 。これらの史料により、福岡城には完成当初天守が存在し、元和六年頃に長政自身の意思によって解体された可能性が極めて高くなった。
天守解体は最高の「忠誠表明」
では、なぜ長政は自らの居城の象徴とも言える天守を、完成からわずか十数年で解体しなければならなかったのか。その理由は、当時の緊迫した政治状況にあった。
元和年間は、大坂の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府がその支配体制を盤石なものにしようとしていた時期である。幕府は、特に豊臣恩顧の有力な外様大名に対して厳しい態度で臨み、些細な法令違反を理由に改易(領地没収)や減封を断行していた。特に、城の無断修築は謀反の疑いを招く重大な禁忌とされ、広島城を無断で修築した福島正則が改易された事件は、諸大名を震撼させた 15 。
このような厳しい政治状況の中で、関ヶ原の功労者とはいえ、豊臣恩顧の有力外様大名である黒田長政は、幕府から常に監視されている立場にあった。彼は、幕府から疑いの目を向けられる前に、自らの判断で「先手」を打ったのである。誰かに命令されるまでもなく、自ら城の最も象徴的で軍事的な部分である天守を解体し、さらにその部材を幕府が主導する国家事業(大坂城再建)に「献上」するという行動に出た。
これは、単なる建築物の破壊ではない。徳川幕府に対し、「我々黒田家は、もはや戦国の世のように巨大な城郭の武威に頼るつもりはありません。これからの我々の守りは、幕府の威光そのものです」と宣言する、最も効果的で雄弁な忠誠表明であった。城の物理的な力を一部放棄することで、藩の政治的な安泰と未来を確保する。それは、父・如水の「万民の手本となれ」という家訓にも通じる 15 、為政者としての冷徹かつ高度なサバイバル戦略だったのである。
第六章:双子都市の誕生 ― 城下町「福岡」と商都「博多」の形成
福岡城の築城は、城という軍事拠点を造るだけで完結する事業ではなかった。それは、新たな城下町「福岡」をゼロから創出し、那珂川を挟んで隣接する既存の商都「博多」と有機的に連携させることで、藩全体の経済的基盤を確立する壮大な都市計画でもあった。こうして、武士の町と商人の町が共存する「双子都市」が誕生したのである。
武士の町「福岡」の計画的形成
福岡城の東側、那珂川までの広大なエリアには、藩士たちの住まいとなる武家屋敷街が計画的に配置された。これが城下町「福岡」の始まりである 46 。この新しい町は、単なる居住区ではなく、城を守る外郭としての機能も持っていた。
町割り(都市計画)には、防衛上の工夫が随所に凝らされた。例えば、道路は敵の軍勢が一直線に城まで到達できないように、意図的に見通しを悪くしたり、T字路や鍵型に曲げたりする「折れ」が多用された 21 。また、町の要所には門が設けられ、有事の際には町全体が防御陣地と化すように設計されていた。このようにして、政治と軍事の中心地としての「福岡」が誕生した。
商人の町「博多」との連携
一方、那珂川の東岸には、古代から国際貿易港として栄えた商都「博多」が存在した。博多は戦国時代の戦乱で一度は灰燼に帰したが、豊臣秀吉による大規模な都市改造事業「太閤町割り」によって復興を遂げ、格子状の整然とした街区を持つ近世的な商業都市として再編されていた 7 。
黒田家は、この既存の商業インフラと経済力を持つ博多を破壊・吸収するのではなく、その活力を維持したまま、巧みに藩の体制下に組み込んだ 48 。博多の商人たちの自治的な伝統をある程度尊重しつつ、城下町の一郭として防衛線に組み込むなど、巧みな都市経営を行った 48 。
こうして、那珂川を境界として、西側に武士が住む政治・軍事都市「福岡」、東側に商人が住む経済都市「博多」という、明確な機能分担を持つ双子都市が形成されたのである 21 。
都市計画による藩経営の安定化
福岡と博多の「双子都市」構造は、単なる地理的な配置以上の、極めて洗練された都市計画思想の産物であった。それは、近世の藩経営における二大命題である「政治的安定」と「経済的発展」を両立させるための、巧みな仕組みであった。
武士の町「福岡」は、城と一体となって藩の権威と軍事力を象徴し、統治の安定を担った。一方、商人の町「博多」は、その活発な商業活動を通じて藩の財政を支える経済エンジンとしての役割を担った。
この明確な機能分担は、武士と商人の間に無用な軋轢が生じるのを防ぐ効果があった。武士は藩の統治に専念し、商人は経済活動に集中することができた。黒田家は、博多が生み出す莫大な富を藩の財源として活用しつつ、その経済力が政治的な脅威とならないよう、権力の中心地である「福岡」から巧みにコントロールしたのである。武士と商人がそれぞれの役割を果たすことで、藩全体が安定的に発展していく。福岡と博多の双子都市構造は、黒田藩二百六十年の繁栄を支える、まさに礎となる都市計画であった。
終章:黒田家の礎、未来への遺産
慶長六年に始まった福岡城の築城は、単に一つの城を造る事業ではなかった。それは、戦国の終焉と近世の黎明という時代の節目において、黒田家が自らの未来を切り拓くための戦略的投資であり、現代の福岡市へと繋がる大都市の原点を創り出す壮大なプロジェクトであった。その遺産は、400年以上の時を超えて今なお生き続けている。
福岡藩二百六十年の礎として
慶長十二年(1607年)に完成した福岡城は、その後、明治維新に至るまでの約二百六十年間、黒田家十二代にわたる福岡藩の居城として、筑前国の政治、経済、そして文化の中心であり続けた 20 。
この巨大な城郭の存在そのものが、九州における有力な外様大名としての黒田家の権威を象徴し、藩内外に対する強力な抑止力として機能した 50 。城を中心とした統治システムは、藩の長期的な安定に大きく寄与し、福岡藩が幕末まで大きな動乱なく存続する基盤となった。福岡城は、まさに黒田家と福岡藩の礎石だったのである。
近代以降の変遷と史跡としての保存
明治維新という新たな時代の転換点を迎え、城は本来の役割を終える。明治六年(1873年)の廃城令により、城内の天守台以外の御殿や多くの櫓は解体され、その部材は民間に払い下げられたり、他の場所に移築されたりした 7 。広大な城跡は、陸軍の歩兵連隊の駐屯地や福岡県庁の敷地として利用され、その姿を大きく変えていった 7 。
しかし、その歴史的価値が失われたわけではなかった。戦後の昭和三十二年(1957年)、城跡の中心部約48万平方メートルが国の史跡に指定され、「舞鶴公園」として保存・整備される道が開かれた 7 。
近年では、歴史的遺産としての価値を後世に伝えるための積極的な保存活用が進められている。平成二十年(2008年)には、火災で焼失していた下之橋御門が往時の姿に復元された 7 。さらに、かつて海を監視した潮見櫓を、江戸時代の伝統的な工法と部材を用いて本来の場所に復元するという、意欲的なプロジェクトも進行中である 21 。これらの事業には、市民や全国からの寄付を募るふるさと納税制度「福岡みんなの城基金」が活用されており、城が現代の市民にとっても大切な宝であることが示されている 21 。
総括:一つの城から始まった大都市の物語
福岡城の築城は、黒田如水と長政という、戦国乱世を生き抜いた二人の武将が描いた壮大なグランドデザインであった。それは、徳川の世における自家の安泰を確保するための政治戦略であり、藩の経済を支えるための都市計画であり、そして未来への希望を託した一大事業であった。
那珂川を挟んで武士の町「福岡」と商人の町「博多」が共存共栄する都市構造は、今日の福岡市が持つ二つの中心地、天神と博多の原型となった。一つの城の建設から始まった物語は、やがて九州を代表する大都市の歴史へと繋がっていったのである。
今、福岡城跡に残る壮大な石垣や広大な堀は、単なる過去の遺物ではない。それは、400年以上前にこの地で繰り広げられた壮大なプロジェクトの痕跡であり、時代の変化を読み、未来を見据えて大胆な決断を下した人々の卓越したビジョンを、現代に生きる我々に静かに、しかし雄弁に語りかけている。
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- 福岡城 / 黒田官兵衛・長政が築いた福岡藩52万石のお城の見どころ - 石高マニアの旅ブログ https://kokudakamania.com/shiro-18/
- 黒田長政 - 【公式】福岡城・鴻臚館 https://fukuokajyo.com/person/kuroda-nagamasa/