福島正則安芸入封(1600)
豊臣秀吉の子飼い武将。関ヶ原の戦いで東軍に貢献し、安芸・備後49万8千石を与えられ広島に入封。毛利氏への抑えとして西国の重鎮となる。広島城改修や検地を行い、近世広島藩の基礎を築いた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年、芸備易主:福島正則、安芸広島入封の時系列的考察 ― 関ヶ原の戦後処理と西国統治の黎明
序章:天下分け目の関ヶ原へ ― 福島正則の決断
慶長5年(1600年)の福島正則による安芸広島への入封は、単なる一武将の栄達を意味するものではない。それは、豊臣政権の内部矛盾が天下分け目の大戦へと発展し、徳川家康による新たな支配体制が構築される過程で起きた、地政学的な大変動の象徴であった。この歴史的転換の起点には、豊臣恩顧の筆頭格でありながら、徳川方として参戦した福島正則の決断が存在する。
豊臣政権下の亀裂:武断派と文治派の相克
福島正則は、豊臣秀吉の母方の従兄弟という極めて近い血縁にあり、幼少期より小姓として秀吉に仕えた、文字通りの子飼いの武将であった 1 。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正らと共に「七本槍」の筆頭として獅子奮迅の働きを見せ、その武功を以て出世の道を駆け上がった 2 。彼に代表される、戦場での働きを立身の基盤とする武将たちは「武断派」と称され、豊臣政権の軍事的中核を形成していた 4 。
一方で、石田三成は卓越した吏僚的実務能力によって秀吉に重用され、政権の財政や行政を司った「文治派」の代表格であった。両派閥の対立は、特に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を巡って先鋭化する。戦地での軍功を主張する武断派に対し、軍監として渡海した三成が戦果を過小に報告したことなどが、埋めがたい亀裂を生んだとされる 6 。これは単なる感情的な対立に留まらず、豊臣政権内における主導権争いの様相を呈していた。
「三成憎し」:個人的感情と政治的判断の交錯
豊臣政権の重石であった五大老・前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、抑えられていた対立はついに暴発する。福島正則は加藤清正、黒田長政ら七将と共に石田三成の屋敷を襲撃する事件を起こし、両者の関係は破局を迎えた 5 。この事件は、正則の東軍参加を決定づける伏線となる。
彼の行動原理を分析すると、それは「豊臣家への裏切り」という単純な図式では捉えきれない。正則の視点から見れば、政権を壟断し、武功派をないがしろにする石田三成こそが、豊臣家、ひいては幼き主君・秀頼を危うくする「奸臣」であった。したがって、徳川家康に与することは、三成という存在を排除し、豊臣家を守るための彼なりの「忠義」の発露であったと解釈できる。家康をその目的達成のための「手段」として捉えていたからこそ、戦後、家康が天下人としての地位を確立していく様に驚愕することになるのである 4 。彼の動機は、「豊臣家のため」という大義名分以上に、「三成憎し」という強烈な個人的感情が先行していたことも否定できない 7 。
小山評定:東軍参加の決定打
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐のため会津へ軍を進める中、石田三成挙兵の報が下野国小山にもたらされる。豊臣恩顧の大名を多く含む東軍諸将は、大坂に残した妻子を人質に取られ、激しく動揺した。この軍議、いわゆる「小山評定」において、全体の趨勢を決定づけたのが福島正則であった。
家康は、諸将が去就に迷うことを見越していた。そこで、最も三成への憎悪が強く、かつ影響力のある正則に最初に口火を切らせることで、他の大名が雪崩を打って東軍に与しやすくなる状況を演出したのである。黒田長政による事前の懐柔があった上で 8 、正則は家康の意を汲み、諸将の機先を制していち早く家康への味方を表明。「こたびの治部少の挙兵は、彼一身の野望から発したことである。内府殿が秀頼様に敵意なしと申されるならば、われら妻子のことなど顧みるものでは御座らぬ。この正則、先鋒をうけたまわって治部少を討滅つかまつろう」と戦場声で言い放った 6 。この発言は、評定の空気を完全に支配し、他の豊臣恩顧大名の同調を促し、東軍の反転西上という方針を決定づけた。小山評定は家康が仕掛けた「公開踏み絵」であり、正則はその最も重要な役者として、歴史の舵を切ったのである。
第一章:関ヶ原の戦いにおける福島正則の武功
安芸・備後49万8千石という破格の恩賞は、福島正則が関ヶ原の戦いにおいて挙げた多大な武功に対する見返りであった。彼は東軍の先鋒として、本戦およびその前哨戦において決定的な役割を果たした。
東軍の先鋒として:岐阜城攻略
小山から西上を開始した東軍の先鋒部隊は、慶長5年8月、まず西軍の織田秀信(三法師)が籠る美濃岐阜城の攻略へと向かった 8 。正則は、同じく先鋒を担う池田輝政と先陣を争いながら猛攻を加え、黒田長政らと連携して、わずか一日でこの要衝を陥落させた 8 。岐阜城の早期攻略は、西軍の防衛計画に大きな打撃を与え、東軍の士気を大いに高める重要な勝利であった。
本戦での死闘:西軍最強部隊・宇喜多勢との激突
同年9月15日、関ヶ原の地で天下分け目の決戦の火蓋が切られた。東軍の布陣において、福島正則隊(兵数約6,000)は最前線の中央左翼、西軍の主力である宇喜多秀家隊と真正面から対峙する位置を占めた 8 。
当初の先鋒は正則が務める手筈であったが、戦功を焦る徳川家康の四男・松平忠吉と、その後見役である井伊直政が抜け駆けし、宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけたことで戦闘が開始された 11 。これに続き、正則隊も西軍最大の約17,000の兵力を誇る宇喜多隊と激突した 8 。宇喜多隊の先陣を率いる猛将・明石全登の凄まじい猛攻の前に、福島勢は一時後退を余儀なくされるほどの激戦となったが、正則は必死にこれを防ぎきり、東軍中央の戦線を支え続けた 8 。
正則のこの働きは、単なる一隊の奮戦以上の戦略的価値を持っていた。彼の部隊が西軍最強の宇喜多隊を長時間にわたって正面で引きつけ、持ちこたえたこと、その「防波堤」としての役割が、東軍全体の戦線崩壊を防いだのである。これにより、松尾山に布陣する小早川秀秋が日和見から裏切りを決断するまでの貴重な時間を稼ぎ、戦術的に東軍の勝利を可能にしたと言える。
戦後の残敵掃討と大坂城接収
松尾山の小早川秀秋の裏切りを合図に、西軍は総崩れとなった。戦機を捉えた正則隊も追撃に転じ、東軍の勝利に貢献した。
合戦が終結した後、正則には軍事的な任務だけでなく、極めて重要な政治的任務が与えられた。それは、西軍総大将として大坂城に籠る毛利輝元からの城の接収であった 8 。これは、輝元に徹底抗戦を断念させ、豊臣秀頼の身柄と天下の拠点である大坂城を無血で明け渡させるための、高度な政治交渉を伴う役割であった。家康がこの大役を正則に任せたことは、彼を単なる武将としてではなく、豊臣恩顧大名の代表格として認識し、毛利氏を説得する最適任者であると判断したことを示している。この戦後処理における功績もまた、後の破格の論功行賞に繋がる重要な要素となった。
第二章:西軍総大将・毛利輝元の誤算と防長減封
福島正則の安芸入封は、前領主である毛利輝元の失領という事象と表裏一体の関係にある。西国に覇を唱えた大大名・毛利氏が、なぜその本拠地を失うに至ったのか。その背景には、輝元自身の判断と、徳川家康の冷徹な戦後戦略が存在した。
輝元の大坂城入城と西軍総大将就任
毛利輝元は、祖父・元就、父・隆元から受け継いだ中国地方8か国、120万石余を領する、豊臣政権五大老の一人であった 13 。秀吉の死後、台頭する徳川家康に対抗しうる唯一の大名として、石田三成や安国寺恵瓊らによって西軍の総大将に擁立された。慶長5年7月19日、輝元は大坂城西の丸に入り、豊臣秀頼を擁することで、西軍の挙兵に「公儀の軍」としての大義名分を与えた 15 。
従来の歴史観では、輝元は三成らに担がれただけの形式的な総大将であったと見なされがちであった。しかし近年の研究では、輝元自身が家康打倒の意志を持ち、大坂城から四国や九州の東軍方大名の領国へ軍を派遣して攪乱工作を指示するなど、主体的に西軍を主導していたとする見方が有力となっている 16 。彼は西国の統治者としての自負から、この戦いを機に毛利家のさらなる勢力拡大を期していたのである。
関ヶ原における「毛利の不戦」:吉川広家の内通
西軍の戦略では、関ヶ原の南宮山に布陣した毛利秀元率いる毛利本隊が、東軍の背後を突く重要な役割を担っていた 16 。しかし、この大軍は、決戦の日に一兵も動くことはなかった。
毛利一門であり、輝元の従兄弟にあたる吉川広家は、早くから西軍の敗北を予見していた。彼は毛利本家の安泰を最優先に考え、東軍の黒田長政を通じて徳川家康と密かに内通。「毛利勢は本戦に参加しない」ことを条件に、毛利本領の安堵を求める密約を取り付けていたのである 19 。決戦当日、毛利本隊に出撃の機が訪れても、広家は「兵の食事中である」などと理由をつけて進軍を拒否し続け、総大将・毛利秀元の動きを物理的に封じ込めた。結果として、毛利の大軍は戦況をただ傍観するに終わり、西軍敗北の大きな一因となった 16 。
戦後交渉の破綻と120万石から30万石への大減封
戦後、輝元は吉川広家が取り付けた所領安堵の密約を頼りに、家康との交渉に臨んだ。そして一度は家康から所領安堵を約束する起請文を受け取り、慶長5年9月25日に大坂城を退去した 16 。
しかし、これは家康の周到な策略であった。輝元が大坂城という最大の交渉カードを手放したのを見計らい、家康は態度を豹変させる。大坂城に入った家康は、輝元が西軍総大将として主体的に戦争を指揮していた証拠となる、花押が押された多数の書状を押収 19 。これを口実に、「広家の説明は事実と異なり、輝元こそが首謀者である」として、所領安堵の約束を一方的に反故にした。家康は一度、毛利家を完全に改易、すなわち領地を全て没収すると断じたのである 19 。
この事態に、広家や井伊直政らが必死に助命を嘆願した結果、毛利家の改易は免れた。しかし、最終的に家康が下した処分は、山陽・山陰8か国120万石余から、周防・長門の二国、わずか29万8千石への大減封という、極めて厳しいものであった 14 。家康ほどの情報網を持つ人物が、輝元の主体的な関与を戦後まで知らなかったとは考え難い。むしろ、当初から西国最大の脅威である毛利氏の力を削ぐことを狙っており、広家の内通を利用して毛利軍を無力化させ、戦後に輝元の「罪」を問うて減封に追い込むという、二段構えの計画であった可能性が極めて高い。この「防長減封」は、単なる懲罰ではなく、徳川政権が西国支配体制を構築するための、旧勢力を一掃する戦略的な「更地化」作業であったと言える。
第三章:論功行賞と安芸広島49万8千石への入封決定
毛利氏がその本拠地であった安芸・備後から追われたことで、中国地方の中心に広大な「権力の空白地」が生まれた。関ヶ原の戦後処理、すなわち論功行賞において、この地が誰に与えられるかは、徳川家康の天下統一戦略を占う上で最大の焦点の一つであった。そして、その最大の受益者となったのが、福島正則である。
正則への大加増:49万8千石の巨大領地
徳川家康は、関ヶ原の戦後処理において、味方した者には恩賞を、敵対した者には減封や改易という「信賞必罰」を徹底し、新たな支配秩序を構築した。その中で福島正則は、東軍勝利への多大な貢献が認められ、それまでの尾張清洲24万石 20 から、安芸国と備後国にまたがる49万8,223石へと、倍以上の大加増を受けた 4 。この決定は、慶長5年10月15日に行われたとされる 23 。これは、東軍に参加した豊臣恩顧の大名の中では最大級の恩賞であり、彼の武功がいかに高く評価されたかを物語っている。
家康の戦略的意図:対毛利氏への「楔」
しかし、家康が正則に毛利氏の旧本拠地である広島を与えたのは、単にその功績に報いるためだけではなかった。そこには、徳川の天下を盤石にするための、冷徹かつ緻密な戦略的意図が隠されていた。
減封されたとはいえ、長門・周防に拠点を移した毛利氏は、依然として西国に大きな影響力を持つ有力大名であり、将来にわたって徳川政権の潜在的な脅威となりうる存在であった。その毛利氏の東隣、かつての心臓部である安芸・備後に、武勇に優れ、関ヶ原で徳川方として忠誠を示した福島正則を配置することは、毛利氏を監視し、その東進を封じ込めるための強力な「楔(くさび)」を打ち込むことを意味した 2 。勇猛果敢で知られる正則の武将としての性格は、この重責を担わせるに最適であった。
関ヶ原の戦いを境に、中国地方の勢力図がいかに劇的に塗り替えられたかを以下の表に示す。
|
大名家 |
戦前の所領(国名) |
戦前の石高(推定) |
戦後の所領(国名) |
戦後の石高 |
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毛利輝元 |
安芸・備後・周防・長門など8か国 |
約120万5千石 |
周防・長門 |
29万8千石 |
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福島正則 |
尾張 |
約24万石 |
安芸・備後 |
49万8千石 |
この表が示す通り、約90万石もの領地が移動したこの大変動は、福島正則の入封が単なる個人の栄達ではなく、日本の勢力地図を根本から書き換える地政学的な大変革の一部であったことを物語っている。
正則への大加増は、豊臣恩顧大名を分断し、徳川体制へと組み込むための巧みな「アメとムチ」政策の象徴でもあった。三成に与した西軍の豊臣系大名には改易という厳しい「ムチ」を振るう一方で、東軍についた正則らには破格の「アメ」を与えることで、彼らを徳川の覇権下に積極的に取り込んだのである。福島正則の安芸入封は、他の豊臣恩顧大名に対し、「徳川に従えばこれだけの見返りがある」という強力なメッセージとなった。そして、49万8千石という石高は、西国の潜在的な反徳川勢力と単独でも対峙しうる軍事力を維持するために必要な規模であり、家康は正則に領地を与えただけでなく、徳川の西国方面における軍事的な代理人としての重責を負わせたのである。
第四章:広島城入城 ― そのリアルタイムな時系列と実態
福島正則が安芸・備後の新領主となることが決定した後、実際に彼が広島の地に入り、統治を開始するまでの過程は、これまで必ずしも明確ではなかった。しかし、近年の史料研究により、そのリアルタイムな動向がより具体的に明らかになりつつある。
通説「慶長6年3月入城説」とその根拠の脆弱性
従来、多くの自治体史などでは、福島正則の広島入城は論功行賞の翌年である慶長6年(1601年)3月とされてきた 21 。この説の主な根拠とされてきたのは、正則の一代記である『福島太夫殿御事』であった。しかし、この史料を詳細に再検証した結果、正則の入国時期に関する直接的な記述は存在しないことが判明し、通説の根拠は極めて脆弱であることが指摘されている 23 。
新説「慶長5年内入城説」の浮上と史料的裏付け
通説に代わり、現在では複数の史料的裏付けから、正則は慶長5年(1600年)中にすでに入城し、統治を開始していたとする説が有力となっている。
第一に、イエズス会宣教師による年報の記述である。西暦1600年10月から1601年2月(和暦の慶長5年8月下旬から慶長6年1月下旬)までの出来事を記録したこの報告書には、宣教師が広島の地で福島正則自身に面会したという記録が残されている 23 。これは、遅くとも慶長6年1月下旬までには、正則が確実に広島に在城していたことを示す決定的な証拠である。
第二に、毛利家および福島家双方の古文書が、慶長5年内の動きを具体的に示している。
- 広島城の引き渡し交渉 :慶長5年10月23日付の毛利家家臣・二宮就辰の書状には「福島殿下向に付き」との文言があり、この時点で正則の広島入りが具体的に計画・準備されていたことがわかる 23 。
- 引き渡しを巡る抵抗 :広島城の留守居役であった毛利家臣・佐世元嘉は、当初、城の明け渡しに抵抗したとされる 21 。これは単なる一個人の忠義心だけでなく、毛利氏による長年の統治が終焉し、見知らぬ武断派の大名に支配されることへの、地域社会全体の動揺と不安を象徴する出来事であった。最終的に佐世は、主君・輝元から「城を渡さねば木津の屋敷で切腹するまでだ」という強い説得を受け、やむなく城を明け渡した 23 。
- 引き渡しの完了 :毛利輝元が同年11月23日付で、城からの荷物搬出に尽力した家臣を労う書状を送っていることから、11月中旬頃には城の引き渡しが完了し、毛利方の家臣団も防長への退去を終えていたと推測される 23 。
第三に、福島正則自身が発給した文書の存在である。慶長5年12月には、正則が広島の地から、家臣への知行地の割り当てを命じる「知行宛行状」などを発給していることが確認されている 23 。領国支配の根幹に関わる重要文書を現地で決裁していたと考えられ、彼がすでに広島で新領主としての執務を開始していたことを強く示唆している。
結論:慶長5年11月~12月には入城し、統治を開始
以上の史料を総合的に考察すると、福島正則の広島入城に至るまでの時系列は以下のように再構築できる。
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年月日(慶長5年) |
出来事 |
主要人物 |
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9月15日 |
関ヶ原の戦い、東軍勝利 |
徳川家康、福島正則、毛利輝元 |
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9月25日 |
毛利輝元、所領安堵の起請文を受け取り大坂城を退去 |
毛利輝元、徳川家康 |
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10月10日 |
毛利氏の防長二国への減封が決定 |
徳川家康、毛利輝元 |
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10月15日 |
論功行賞により、福島正則が安芸・備後を拝領 |
徳川家康、福島正則 |
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10月下旬~11月中旬 |
広島城の引き渡し交渉と実行(一部抵抗あり) |
佐世元嘉(毛利方)、入江左近(福島方) |
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11月下旬~12月上旬(推定) |
福島正則、広島城に入城 |
福島正則 |
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12月4日以降 |
正則、広島から領国支配に関する文書を発給開始 |
福島正則 |
この時系列は、徳川家康による戦後処理がいかに迅速であったかを示している。通説の「翌年3月入城」では、西国の中心地が半年近くも権力の移行期間という不安定な状態に置かれることになるが、これは極めて非現実的である。「年内入城」という事実は、家康が関ヶ原の勝利の勢いを駆って、反徳川勢力が再結集する時間的猶予を与えず、間髪入れずに新たな支配体制を既成事実化していった、その老練な政治手腕を如実に物語っている。
第五章:新領主・福島正則の芸備統治始動
広島城に入った福島正則は、単に軍事的な占領者として君臨したわけではない。彼はただちに新領主として精力的に領国経営に着手し、その後の広島藩400年の礎となる統治体制の骨格を築き上げた。酒席での逸話などから「猪武者」のイメージが強い正則だが 4 、その統治政策は極めて体系的かつ計画的であり、優れた統治者としての一面をうかがわせる 2 。
領国支配の基礎固め:慶長検地と知行割
正則は入封の翌年である慶長6年(1601年)から、領内全域で大規模な検地(慶長検地)を実施した 22 。これは、毛利氏時代の石高を再査定(高直し)し、藩の財政基盤を正確に把握・確立するためのものであった。この検地を通じて、村単位で年貢を徴収する「村請制度」が導入され、近世的な支配体制が確立された 26 。
そして、この検地の成果に基づき、同年11月7日付で家臣団への所領の割り当て(知行割)を一斉に行った 26 。これにより、家臣の禄高とそれに応じた軍役が定められ、新たな支配階級の秩序が制度的に確立された。これらの政策は、毛利時代には不徹底であった兵農分離と石高制への移行を強力に推進するものであった 22 。
広島城の大規模改修と城下町の整備
正則は、毛利輝元が築いた広島城に大規模な増改築を施した。特に城の外郭部分の整備は正則の時代に完成したとされ、城郭全体の防御能力と、大大名の居城としての威容を大きく向上させた 6 。また、洪水対策として城の外周を流れる川の堤防を高くするなどの治水工事も行っている 21 。
城下町の整備にも力を注ぎ、それまで城の北部を迂回していた西国街道を城下町の中心部に引き入れるという、画期的な都市計画を実施した 21 。これにより、広島は交通の要衝としての機能を高め、商業の発展が促された。正則の統治は、近世城下町・広島の骨格を形成したと言える。
対毛利氏を睨んだ支城網の構築
領国支配を盤石にし、西の毛利氏に備えるため、正則は領内の要所に支城を配置し、有力な家臣を城主として置いた 6 。備後国の三原城、神辺城、鞆城、安芸国の三次城などがその例である 6 。
中でも、対毛利氏への備えという戦略的意図が最も明確に現れているのが、慶長8年(1603年)から築城が開始された亀居城である 6 。この城は、毛利領との国境である安芸国西端の小方に位置し、陸路と海路を同時に監視できる要衝であった。しかし、この大規模な新規築城は、大名の力を削ぎ、幕府の絶対的な権威を確立しようとする二代将軍・徳川秀忠の政権には警戒された。結果として、亀居城は幕府からの圧力により築城が中止され、廃城となった 6 。この一件は、家康から「対毛利の楔」という役割を与えられた正則が、その役割を忠実に果たそうとした結果、かえって幕府から危険視されるという、豊臣恩顧の外様大名が置かれた立場の困難さと限界を象徴する出来事であった。
旧勢力への対応:アメとムチ
領内には、旧領主である毛利家に仕えていた武士(毛利牢人)や、在地で力を持つ土豪が多数存在した。正則はこれらの旧勢力に対し、厳しい刀狩りを実施して武装解除を進めるという強硬策(ムチ)をとる一方で、特に有力な者に対しては郷士としての身分を認めて体制内に取り込むという柔軟な策(アメ)も用いた 6 。硬軟両様の政策を駆使して、領内の安定化を図ったのである。
結論:西国の重鎮としての福島正則とその後の展望
慶長5年(1600年)の「福島正則安芸入封」は、単なる一武将の栄転という枠を遥かに超える、日本の歴史における画期的な出来事であった。それは、関ヶ原の戦いの直接的な帰結として、徳川家康が日本の勢力地図を自らの構想の下に再編し、新たな支配体制、すなわち幕藩体制を西国にまで及ぼせる過程で起きた、極めて重要な地政学的変動であった。
この大変動の中で、福島正則は家康の意図通り「西国の重鎮」として、減封されたとはいえ依然として強大な潜在力を持つ毛利氏への「楔」という重責を担った。彼の19年間にわたる芸備統治は、検地による財政基盤の確立、広島城と城下町の大規模な整備などを通じて、近世広島藩の基礎を築き、その後の浅野氏による長期安定支配の礎となった点で、大きな歴史的功績を残したと言える。
しかし、彼の栄光の頂点であった安芸入封には、すでにその後の悲劇的な末路の萌芽が内包されていた。豊臣家への恩義を捨てきれず、またその武骨な性格が災いし、徳川の世が盤石になるにつれて彼の立場は次第に危ういものとなっていく。最終的に、正則は広島城の無断修築という些細な咎めによって改易され、信濃川中島へと転封される 30 。
彼の生涯は、関ヶ原で家康に協力することで生き残りを図った多くの豊臣恩顧大名が、徳川の天下が完成した後には、いかにしてその牙を抜かれ、体制の中に埋没させられていったかという、より大きな歴史の流れを象徴している。福島正則の安芸入封は、戦国乱世の終焉と、新たな時代の幕開けを告げる、栄光と悲哀が交錯する一大転換点だったのである。
引用文献
- 東軍 福島正則/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41106/
- 「福島正則」関ケ原で大活躍を見せるも、不遇の晩年を過ごした ... https://sengoku-his.com/566
- 秀吉の死後、いち早く家康方についた、福島正則が辿った生涯|石田三成と対立し、豊臣家分裂のきっかけを作った猛将【日本史人物伝】 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1146423
- 福島正則の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7557/
- 関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41104/
- [広島城の歴史]「福島正則」 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page058.html
- 関ヶ原の決断を一生後悔し続けた福島正則 | 『日本の人事部』プロフェッショナルコラム https://jinjibu.jp/spcl/SP0005752/cl/detl/1423/
- 福島正則 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
- 関ヶ原本戦の配置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE
- 福島正則コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/fukushima-masanori/
- 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
- 西軍総大将 毛利輝元/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41115/
- 毛利輝元公没後400年 - 萩市観光協会公式サイト https://www.hagishi.com/mouriterumoto400/
- 毛利輝元は何をした人?「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/terumoto-mouri
- 毛利輝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
- なぜ毛利輝元は敗北してしまったのか - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_25/
- 西軍総大将の毛利輝元は関ヶ原合戦で何を考えていたのか? 敗戦よる失意のスタートとなった長州藩での功績とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/231
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- 福島正則屋敷跡 ~豊家随一の猛将、終焉の地 - 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/hukushimamasanoriyakata
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- キレた妻に薙刀で追い回された!戦国一(?)酒癖の悪い男、福島正則のやっちまったエピソード集 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88616/
- 福島正則の身を滅ぼした「自尊心」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23546
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- 広島城外堀跡城北駅北交差点地点発掘調査報告 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/16/16104/12026_1_%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E5%A4%96%E5%A0%80%E8%B7%A1%E5%9F%8E%E5%8C%97%E9%A7%85%E5%8C%97%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E7%82%B9%E5%9C%B0%E7%82%B9%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf
- 広島城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/tyugoku/hiroshima/hiroshima.html
- 福島正則(福島正則と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/57/
- 広島城 - 江戸の世のひろしま探訪 https://hiroshima-history.com/spot/hiroshima-castle/