福知山城改修(1580)
1580年、丹波を平定した明智光秀は福知山城を近世城郭へ大改修。転用石の石垣や治水事業、地子銭免除など善政で知られ、領国経営の拠点とした。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正八年 福知山城改修の深層 ― 明智光秀の国家構想と丹波経営のリアルタイム・ドキュメント
序章:天正八年、丹波国の新時代 ― 黎明と野心
天正七年(1579年)10月、明智光秀による足掛け五年に及ぶ丹波攻略戦が、ついに終結の時を迎えた 1 。長年にわたり中央の支配を拒み、在地豪族たちが割拠してきたこの地は、織田信長の天下布武の前に、その様相を一変させようとしていた。この困難な平定事業を成し遂げた光秀に対し、信長は「天下の面目をほどこし候」「粉骨のたびたびの功名、比類なき」と、織田家臣団の中でも類を見ない最大級の賛辞を送った 3 。この功績により、光秀は丹波一国、約二十九万石という広大な領地を与えられ、名実ともに行政と軍事の両面で織田政権の中枢を担う存在となったのである 4 。
しかし、この栄誉は単なる恩賞ではなかった。天正八年(1580年)という時点において、織田政権は西国の雄・毛利氏との全面対決を目前に控えていた。京都に隣接し、山陰道を通じて中国地方へと至る丹波国は、この西国攻略における兵站と出撃の最重要拠点であった 2 。したがって、信長が光秀に丹波一国を委ねたのは、この地を次なる大戦への前線基地として完璧に機能させることを期待してのことであった。
この期待に応えるべく光秀が着手したのが、福知山城の大規模な改修と、それに付随する城下町の建設である。これは単なる戦後処理や居城の整備という次元の事業ではない。信長から与えられた「丹波国」という経営資源の価値を最大化し、軍事・経済の両面で織田政権の次なる戦略に貢献するための、壮大な国家プロジェクトであった。福知山での事業の成否は、光秀自身の統治能力と構想力を天下に示す試金石であり、織田政権内での彼の将来を左右する、極めて重要な意味を持っていた。本報告書は、この天正八年の「福知山城改修」という事象を、当時の政治・軍事的情勢の中に位置づけ、光秀の野心とビジョンがどのように具現化されていったのかを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一章:丹波平定への道程 ― 福知山選定の戦略的必然性(天正三年~七年)
光秀が福知山を北丹波の拠点として選定するに至った背景には、丹波平定戦で彼が経験した苦難と、そこから得た戦略的な教訓が存在する。その道程は、決して平坦なものではなかった。
苦難の攻略戦(時系列解説)
丹波攻略は、天正三年(1575年)に信長の命令によって開始された 2 。当初、光秀は周辺の豪族を味方につけ、丹波市に拠点を置く「丹波の赤鬼」の異名を持つ猛将・赤井(荻野)直正が籠る黒井城を包囲するなど、順調に進撃しているかに見えた 2 。しかし、天正四年(1576年)正月、突如として味方であったはずの八上城主・波多野秀治が裏切り、赤井勢と連携して光秀軍を挟撃した 2 。この「第一次黒井城の戦い」における予期せぬ敗北は、光秀軍を総退却に追い込み、彼自身も命からがら京へ逃げ帰るという屈辱的な大敗であった。
この失敗は、光秀の丹波戦略を根本から見直させる契機となった。彼は、個別の城を攻略する「点」の制圧から、兵站線を確保し、支配領域を確立する「面」の制圧へと戦略を転換する。そのための恒久的な拠点として、天正五年(1577年)から築城を開始したのが、丹波の南の玄関口に位置する亀山城(現・亀岡市)であった 2 。光秀は亀山城を丹波平定の本拠地と定め、ここを起点として周辺の城を一つずつ、時間をかけて確実に制圧していく、慎重かつ周到な持久戦を展開した 4 。
この新戦略は功を奏し、天正七年(1579年)には丹波平定の最終局面に至る。光秀は長期の兵糧攻めの末に八上城の波多野氏を降し、その勢いのまま鬼ヶ城を攻略。同年八月には、かつて苦杯をなめさせられた黒井城を陥落させ、さらにその直後、塩見信房が守る横山城(後の福知山城)をも制圧した 4 。こうして同年十月までに、丹波・丹後地方はほぼ光秀の手に落ち、長きにわたる戦乱は終わりを告げたのである。
亀山城と福知山城の役割分担
平定後、光秀は丹波統治のための新たな拠点配置を構想する。その中で、亀山城と福知山城には、それぞれ異なる戦略的役割が与えられた。亀山城は、京都との連携を密にし、丹波国全体の政治と軍事を統括する「本拠地」としての役割を担った 4 。光秀自身も主にこの城で政務を執り、丹波統治の司令塔とした。
一方、福知山は、平定された丹波のさらに先、丹後・但馬、ひいては山陰道全体を睨む「前方展開拠点」として位置づけられた。地理的に北近畿の中心にあり、由良川水運の結節点でもあるこの地は、経済と物流の要衝となる潜在能力を秘めていた 6 。光秀は、福知山を単なる軍事拠点ではなく、北近畿における経済の中心地として開発することで、丹波国の安定と繁栄を確固たるものにしようと考えたのである。この選定には、一度の敗北から学び、支配体制を再構築しようとする光秀の明確な意図が反映されていた。彼は旧勢力の城を徹底的に破却する一方で 2 、亀山と福知山という二大拠点を中心とした新たな支配ネットワークを構築し、丹波に新しい秩序をもたらそうとしたのであった。
年月 |
主要な出来事 |
備考 |
天正三年(1575年) |
織田信長より丹波攻略を命じられる。第一次黒井城の戦い開始。 |
2 |
天正四年(1576年) |
波多野秀治の裏切りにより大敗、丹波から撤退。 |
2 |
天正五年(1577年) |
第二次丹波平定を開始。亀山城の築城に着手。 |
2 |
天正六年(1578年) |
亀山城を丹波平定の本拠地とする。八上城の包囲を完成させる。 |
4 |
天正七年(1579年) |
八上城、黒井城、横山城(後の福知山城)などを次々と攻略。丹波平定を完了。 |
1 |
天正七年(1579年)頃 |
横山城を「福智山城」と改名し、大規模な改修(築城)を開始。 |
8 |
天正八年(1580年) |
信長より丹波一国を与えられる。由良川の治水工事(明智藪の築堤)と城下町整備を本格化。 |
4 |
天正九年(1581年) |
「明智光秀家中軍法」を制定。 |
6 |
天正十年(1582年) |
6月、本能寺の変。山崎の戦いで敗死。福知山城は羽柴軍の手に渡る。 |
11 |
第二章:横山城から福知山城へ ― 近世城郭への変貌(天正七年~八年)
天正七年八月、光秀の手に落ちた横山城は、在地豪族・塩見氏が築いた中世的な砦に過ぎなかった 13 。土塁や小規模な曲輪で構成されたであろうこの城は、光秀が構想する北近畿の拠点としては、規模も機能もあまりに不十分であった。光秀は、この旧時代の城を、自身の先進的な築城術と統治思想を体現する「近世城郭」へと、全く新しく生まれ変わらせることを決意する。
光秀の縄張り思想 ― 「見せる城」への転換
光秀がまず選択したのは、城の形式そのものの変革であった。彼は、防御のみを優先し、領民から隔絶された山頂に築かれる「山城」ではなく、丘陵(城)と平地(城下町)が一体となった「平山城」という形式を採用した 4 。この選択は、城を単なる戦闘施設ではなく、統治と経済の中心として領民に「見せる」ことで、新しい支配者の権威と、彼がもたらすであろう繁栄を象徴させようという、明確な政治的ビジョンを反映していた 6 。城はもはや領民から収奪し、身を隠す場所ではなく、人々を惹きつけ、守り、豊かにする場所でなければならなかった。
その象徴が、城の中心にそびえる天守であった。江戸時代の絵図や天守平面図によれば、福知山城の天守は、三重四階の大天守に、二重二階の小天守、そしてそれらを繋ぐ櫓門が連結した、壮麗かつ複雑な構造を持っていた 15 。発掘調査によれば、光秀の時代に築かれた石垣は、後の時代に増築された部分と明確に区別でき、光秀期に既に天守台が築かれていたことが判明している 9 。この天守は、単なる物見櫓ではなく、畳の敷かれた居住空間や政務空間としての機能も備えており 15 、城主の権威を視覚的に示すための装置であった。福知山城の設計思想は、光秀が発する政治的メッセージそのものであり、「私の統治の下に来れば、安全と繁栄が約束される。旧時代の支配は終わったのだ」というビジョンを、建築という形で雄弁に物語っていたのである。
城郭の具体的施設
光秀の城づくりは、その細部においても合理性と先進性に貫かれていた。
本丸に掘られた「豊磐(とよいわ)の井戸」は、深さが50メートルにも達し、城郭の本丸内にある井戸としては日本一の深さを誇る 17 。これは、籠城戦を想定した生命線の確保という純粋な軍事的合理性と、これほどの大規模な掘削を可能にする技術力と財力を誇示するという、二重の意味を持っていた。
防御設備にも、知将・光秀ならではの巧妙な工夫が見られる。通常、城壁を登る敵兵に石や熱湯を浴びせる「石落とし」は、一階の屋根の下など、敵から視認しやすい場所に設けられることが多い。しかし福知山城では、敵の意表を突く二階の隅に設置されていた 6 。「石落としは無い」と油断して城壁に取り付いた敵兵が、頭上から予期せぬ攻撃を受けるという、心理的な罠が仕掛けられていたのである。
また、明治時代の廃城令による取り壊しを免れ、現在までその姿を伝える唯一の建造物が「銅門(あかがねもん)番所」である 1 。元は二の丸の入り口にあり、城の中心部への人の出入りを管理する重要な施設であったこの番所は、光秀時代の建築様式を今に伝える貴重な遺構として、城の歴史を静かに物語っている 17 。
第三章:石垣に刻まれた光秀の意志 ― 転用石の謎と合理主義
福知山城を訪れる者を最も強く印象付けるものの一つが、天守台を支える無骨な石垣である。自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み」という古い技法で築かれたこの石垣には、この城の最大の特徴ともいえる秘密が隠されている。それは、石垣の随所に埋め込まれた、おびただしい数の「転用石」である 19 。
転用石の実態
福知山城の石垣に使用されている転用石は、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)といった仏塔、石仏、さらには墓石や石臼に至るまで多岐にわたり、その総数は約500点にも及ぶとされている 21 。これらの石は、発掘調査によって天守台内部からも多数発見されているが、特に光秀が築いたとされる天守台の南側石垣には、約181点のうち94点が集中しており、明らかに意図的に配置されていることがわかる 17 。石に刻まれた年号を調査した結果、最も古いものは南北朝時代の延文四年(1359年)、最も新しいものでも天正三年(1575年)であり、すべて光秀が福知山に入城する以前のものであることが確認されている 21 。これは、光秀が築城に際して、近隣の寺社や墓地から大量の石造物を集めてきたことを示す動かぬ証拠である。
多用された理由の多角的検証
では、なぜ光秀はこれほど大量の転用石を使用したのか。その理由については、単一の説明では解き明かせない、複数の説が複雑に絡み合っている。
説の名称 |
根拠となる事実や伝承 |
背景にある思想・目的 |
考察 |
合理主義説 |
近隣に石垣用の石材が乏しかった可能性。短期間での築城(突貫工事)の必要性。 |
工期短縮とコスト削減を最優先する、極めて現実的な判断。 |
17 |
示威行為説 |
抵抗した寺社勢力への見せしめ。旧支配者の権威の象徴を破壊し、自らの礎とする。 |
新しい支配者としての絶対的な権力を誇示し、旧勢力を心理的に屈服させる。 |
22 |
呪術的守護説 |
墓石や石仏に宿る霊的な力を、城の守護に利用するという考え方(「穢れの逆転」)。 |
城の物理的な防御に加え、呪術的な力による加護を求める、当時の精神世界を反映。 |
21 |
領民融和説 |
石を提供した領民や寺社への感謝を示すため、あえて目立つ場所に配置したという見方。 |
領主と領民の一体感を醸成し、新たな統治体制への協力を促す懐柔策。 |
17 |
これらの説は、互いに排他的なものではない。光秀という人物は、相手や状況に応じて巧みにアプローチを使い分ける、高度な政治感覚を持った統治者であった。したがって、転用石の使用も、彼の多面的な統治術の現れと見るべきである。例えば、最後まで抵抗した寺社に対しては、その権威を打ち砕く「示威行為」として石塔を破壊・徴用し、一方で、早々に恭順の意を示した寺社や村落に対しては、その協力に報いる「融和の証」として、提供された石を目立つ場所に配置した可能性が考えられる。そして、築城事業全体としては、工期短縮という「合理性」と、城の安寧を願う「呪術性」を同時に追求した。
福知山城の転用石の一つ一つは、光秀が丹波統治において駆使した「アメとムチ」の使い分けを物語る、生々しい物証なのである。それは、彼が単なる破壊者でも、理想に燃える為政者でもない、極めて現実的かつ多角的な思考を持つ、ルネサンス的な万能人であったことを示唆している。
第四章:「福の智」の城下町創生 ― 治水と経済による領国経営(天正八年)
天正八年(1580年)、福知山城の改修が本格化するのと並行して、光秀は城下町の建設という、さらに壮大な事業に着手した。それは、単に武士や商人を住まわせる町を造るのではなく、この地の根本的な課題を解決し、恒久的な繁栄の礎を築くという、国家的な規模のプロジェクトであった。
【時系列解説】暴れ川・由良川との闘い
福知山盆地は、由良川とその支流である土師川が合流する地点にあり、古来より度重なる洪水に悩まされ続けてきた土地であった 25 。光秀は、堅固な城下町を建設するためには、まずこの「暴れ川」を治めることが絶対条件であると看破した。
彼の治水計画は、当時としては極めて大胆かつ画期的なものであった。伝承によれば、天正八年、光秀は城下町の南側を大きく蛇行していた由良川の流れを、長大な堤防を築くことによって、北側へ直線的に付け替えるという大規模な河川改修工事を断行した 10 。これにより、城下町建設のための広大で安全な土地を確保したのである。
さらに光秀は、築いた堤防の川側に、意図的に竹などを植えた藪を造成した 28 。これは、洪水の際に水の勢いを和らげ、堤防の決壊を防ぐための遊水地としての機能を持たせるための、巧みな治水技術であった。自然の力を巧みに利用したこの緩衝帯は、後に光秀の功績を称えて「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれ、福知山の治水の象徴として長く語り継がれることとなる 10 。
計画都市の誕生
由良川の治水によって生み出された安全な平地に、光秀は全く新しい計画都市を建設した。その最大の特徴は、碁盤の目のように整備された直線的な道路網である 6 。これは、物資の輸送効率を高めるという経済的な目的と同時に、敵が侵入した際には見通しが利き、迎撃しやすいという軍事的な意図も含まれた、合理的な設計であった。
町割りもまた、極めて機能的に行われた。城の周辺には武家屋敷が配置され、その外側には「鋳物師町」や「呉服町」といった職人町が形成された 31 。さらに町の周縁部には寺院が集められ、寺町として防御の一翼を担わせた。このように、身分や職業ごとに居住区を定め、都市全体を効率的に機能させるという思想は、まさに近世城下町の嚆矢と呼ぶにふさわしいものであった 6 。
経済活性化政策
光秀は、インフラと都市計画というハード面を整備するだけでなく、人々を惹きつけるためのソフト面の政策も断行した。その最も画期的なものが、「地子銭(じしせん)」の免除であった 4 。地子銭とは、現代でいう宅地税や固定資産税にあたるもので、これを永代にわたって免除するという政策は、全国から商人や職人を呼び寄せるための強力なインセンティブとなった 26 。
さらに、治水によって流れが安定した由良川の水運を最大限に活用し、福知山を丹後・但馬・若狭と京阪を結ぶ物流の一大拠点(ハブ)へと変貌させた 26 。安全な都市、整備された交通網、そして破格の税制優遇。これらの政策が一体となって機能した結果、福知山城下町は急速に発展し、北近畿随一の商業都市としての地位を確立していった。
光秀が福知山で展開した一連の事業は、「治水(インフラ整備)」→「都市計画(プラットフォーム構築)」→「経済政策(インセンティブ付与)」という、驚くほど現代的な地域開発のセオリーに沿っている。彼は、軍事力で土地を支配するだけでなく、新たな価値を創造することによって領国を豊かにするという、次世代の統治モデルを福知山で実践したのである。この地は、光秀の理想とする「国づくり」の、壮大な実証実験の場であった。
第五章:統治の実態 ― 城代・明智秀満と光秀の丹波経営
福知山城の改修と城下町の建設という巨大プロジェクトと並行して、光秀は丹波国全体の統治体制を確立していった。その統治は、旧来の戦国大名に見られた属人的な支配とは一線を画す、近代的で組織的なアプローチによって特徴づけられる。
城主・光秀と城代・秀満の役割
丹波一国の主となった光秀は、亀山城を全体の統治拠点としつつも、北近畿の要である福知山の統治は、最も信頼する腹心であり、娘婿でもあった明智秀満(通称・左馬助)に委ねた 6 。秀満は、単なる城の留守居役ではなく、光秀の代理人として現地の行政・軍事の全権を担う「城代」であった 11 。後に本能寺の変の計画を事前に打ち明けられた数少ない重臣の一人であったことからも 32 、光秀がいかに秀満に絶大な信頼を寄せていたかが窺える。
この統治体制は、現代の組織経営におけるCEOと事業部長の関係にも似ている。光秀は丹波国全体のグランドデザインを描き、重要な戦略決定を下すCEOとして機能し、秀満は福知山という重要拠点のオペレーションを任された有能な事業部長として、光秀の意図を汲み取り、現地の統治をきめ細かく執行した。
現存する「明智秀満書状」は、その統治の実態を具体的に示している。この書状には、贈答品に対する丁重な礼状といった儀礼的な内容に加え、由良川での鮭漁の管理について指示を与えるなど、地域の産業政策にまで踏み込んだ具体的な行政指導が記されている 32 。これは、秀満が光秀の方針の下、福知山の経済振興に深く関与していたことを示す貴重な一次史料である。
「明智光秀家中軍法」の先進性
光秀の統治思想を最も明確に示しているのが、天正九年(1581年)に制定された全十八ヶ条からなる「明智光秀家中軍法」である 4 。この法令は、単なる戦闘時の規律を定めたものではなかった。その画期的な点は、家臣が受け取る給料(禄高)に応じて、彼らが負うべき軍役(兵士や武具の数)を明確に定め、それ以上の負担を領主が求めてはならないと規定したことにあった 6 。
これは、戦国時代においては革命的なことであった。多くの大名家では、領主の都合で家臣に過大な軍役が課され、家臣団が疲弊する原因となっていた。しかし光秀は、領主と家臣の関係を契約に基づいたものと捉え、公平なルールを定めることで、家臣の生活の安定を図り、結果として軍団の戦闘意欲と持続可能性を高めようとしたのである。城郭考古学者の千田嘉博氏がこれを「持続可能な戦国の働き方改革」と評するように 6 、この理念は、福知山の領民統治においても、公平な税負担や労役を通じて応用されたと考えられる。
光秀は、カリスマ的な指導者の個人的な才覚に依存する支配から脱却し、明確なルールと有能なマネージャーによって自律的に機能する、近代的で合理的な統治システムを構築しようとしていた。福知山は、その先進的な統治モデルが実践された最前線であり、彼が目指した国家像を垣間見ることができる、極めて重要な場所なのである。
第六章:束の間の栄華と本能寺の変 ― 福知山城の運命(天正八年~十年)
天正八年から天正十年(1582年)にかけての約二年間、福知山城と城下町は、明智光秀の栄光の頂点を象徴する存在であった 9 。堅固にして壮麗な城、計画的に整備された町並み、そして治水によってもたらされた豊かな実りは、光秀の卓越した統治能力を天下に示す、輝かしい成果であった。しかし、その栄華はあまりにも短く、歴史の激流に飲み込まれる運命にあった。
本能寺の変と福知山城
天正十年六月二日、未明。光秀は「敵は本能寺にあり」の号令の下、主君・織田信長を討った。この歴史的謀反の際、光秀自身は丹波亀山城から出陣したとされるが 34 、福知山城を守る城代・明智秀満もまた、この計画の中核を担う存在であった 32 。福知山城は、謀反決行に際して、丹波・丹後方面の兵力を固め、後方の安全を確保するという、重要な後方支援拠点としての役割を担ったと考えられる。光秀が決断に至った背景には、信長からの過酷な要求や叱責に加え、丹波平定の際に人質となった母を見殺しにされたという伝承に象徴されるような、深い心理的負担があったとも言われている 35 。丹波での成功が彼に自信を与えた一方で、その過程で蓄積された苦悩が、彼を破滅的な行動へと駆り立てたのかもしれない。
光秀の死と城のその後
信長を討った光秀の天下は、わずか十数日で終わりを告げる。中国大返しによって驚異的な速さで畿内に戻った羽柴秀吉との山崎の戦いで、光秀軍は敗北 12 。光秀自身も落ち延びる途中で命を落とした。主君の死を受け、福知山城もまた羽柴軍の攻撃に晒されることとなる。城代・秀満は、光秀の居城であった坂本城で最後まで抵抗した末、明智一族と共に滅び去った 32 。
光秀の死後、福知山城の城主は、豊臣秀勝、杉原家次、小野木重勝と目まぐるしく入れ替わった 11 。関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入ると、有馬氏、朽木氏などが城主となり、福知山藩の藩庁として明治維新まで存続した 18 。しかし、明治政府の廃城令により、城の建造物はことごとく取り壊され、往時の姿を留めるのは、壮大な石垣と、奇跡的に残された銅門番所のみとなった 1 。
光秀が築いた天守が失われてから約100年。昭和六十一年(1986年)、福知山市民の「城を再建したい」という熱い想いが結実する。「瓦一枚運動」と呼ばれる市民からの寄付に支えられ、現在の三層四階の天守が見事に復元されたのである 1 。福知山城の歴史は、まさに明智光秀の人生そのものの縮図と言える。短期間で輝かしい成功を収め、壮大な未来図を描きながらも、一つの決断によって全てが水泡に帰す。城は、光秀が実現しかけた「理想の王国」の遺跡であり、「もし本能寺の変がなければ」という、歴史のifを現代に生きる我々に問いかけ続けている。
結論:明智光秀が福知山に残した遺産
天正八年(1580年)の福知山城改修は、単なる一武将による築城事業に留まらない、日本の歴史において多大な意義を持つ事象であった。明智光秀がこの地に残した遺産は、物理的な構造物を超え、統治の理念として、そして人々の記憶として、400年以上の時を経た今なお生き続けている。
第一に、建築史・都市計画史上の意義は計り知れない。光秀が福知山で実践した、城と城下町を一体的に開発し、軍事拠点と経済拠点を融合させるという先進的なビジョンは、戦国末期から近世初頭へと移行する時代の、都市のあり方の大きな転換点を象徴している 6 。防御一辺倒の中世城郭から、政治と経済の中心となる近世城郭へ。福知山城と城下町は、その過渡期の姿を伝える、他に類を見ない貴重な歴史的証人なのである。
第二に、彼の統治が人々の心に深く刻まれたという事実である。通常、主君を討った「謀反人」は、その後の歴史において徹底的に否定されるのが常である。しかし、福知山の領民は光秀の死後も彼の善政を忘れず、その御霊を祀るために「御霊神社」を創建した 6 。治水工事によって水害から人々を救い、地子銭免除によって町の繁栄の礎を築いた光秀は、この地において「名君」として記憶され、神として信仰の対象となった。謀反人でありながら神として祀られるという、日本史上極めて稀なこの事実は、彼の統治がいかに領民本位のものであったかを何よりも雄弁に物語っている。
最後に、光秀のビジョンが現代にまで繋がっているという点である。彼が築いた城下町の骨格は、現在の福知山市の中心市街地の基礎となり、彼が築いた「明智藪」に代表される治水の思想は、今なおこの地域の防災意識の根幹を成している 25 。明智光秀による福知山城改修は、過去の歴史の一コマではない。それは、一人の武将が描いた理想の国家像が、時代を超えて受け継がれ、現代の町づくりにまで影響を与え続ける、生きた遺産なのである。
引用文献
- 福知山城 天守閣 https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/2014.html
- 第2章 明智光秀が築いた城下町 福知山~このまちの、はじまりのはなし https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/18094.html
- 光秀公のまち - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/
- 丹波平定 京都通百科事典 - 京都通百科事典(R) https://www.kyototuu.jp/History/SengokuTanbaHeitei.html
- 丹波国と明智光秀 | まるごと大丹波 https://marugoto-daitamba.jp/mitsuhide/
- 〈STORY 1〉光秀時代 -築城- | 福知山城【公式】 https://www.fukuchiyamacastle.jp/story1/
- 【公式】福知山城 明智光秀が築いた城 https://www.fukuchiyamacastle.jp/
- 知られざる 「明智光秀」を訪ねて - 福知山市オフィシャル ... https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhide/
- 明智光秀の石垣が残る【福知山城の歴史】を総まとめ - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/fukuchiyamacastle/
- 明智光秀~1人でも多くの人に知ってもらいたい~|明智光秀|ぶらり亀岡 亀岡市観光協会 https://www.kameoka.info/mitsuhide/achievement.php
- 丹波国を平定してから西国の拠点として明智光秀が築いた福知山城 京都府福知山市のまち旅(旅行、観光) https://z1.plala.jp/~hod/trip/home/26/0201.html
- 明智光秀ゆかりの地めぐり 京都市外編 https://souda-kyoto.jp/blog/00913.html
- 福知山城天守閣|おでかけ検索 - 森の京都 https://morinokyoto.jp/spot/spot-556/
- 福知山城桔梗見ごろ2025(6月~9月頃) - 京都ガイド https://kyototravel.info/fukuchiyamajyoukikyou
- 福知山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 明智光秀築城<福知山城> https://sirohoumon.secret.jp/fukuchiyamajo.html
- 福知山城の5つの魅力を徹底解剖 墓石などを使った石垣とは? - ページ 2 / 3 https://tripeditor.com/422509/2
- 京都近郊「丹波之國」的優美名城,明智光秀所築之「福知山城」 - 日本關西旅遊,大阪 https://osaka.letsgojp.com/archives/343700/
- 明智光秀が築いた福知山城の謎と魅力|天守から見えた“戦国の理想郷”とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/147207/
- 〈GUIDE〉城&城下町 | 福知山城【公式】 https://www.fukuchiyamacastle.jp/guide/
- 福知山城石垣の転用石 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/29/memo/495.html
- 440年前の転用石が物語る歴史|ふくたん編集部の「プチっと解説 ... https://fukutan.net/tenyoseki/
- 超入門! お城セミナー 第71回【鑑賞】石垣に石仏や墓石が使われているって本当!? - 城びと https://shirobito.jp/article/831
- 転用石 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E7%94%A8%E7%9F%B3
- 延期【京都府福知山市】戦国武将・明智光秀が築いた城下町から - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000053572.html
- 裏切者と言われても、領民の心は変わらない!知将・明智光秀から ... https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/146266/
- 福知山で愛される明智光秀・丹波平定の足跡をたどるレンタサイクルコース - 海の京都 https://www.uminokyoto.jp/course/detail.php?cid=50
- 明智光秀が築いた城下町「福知山」 | 特集 | 海の京都観光圏 https://www.uminokyoto.jp/feature/detail.php?spid=5
- 由良川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0615_yuragawa/0615_yuragawa_01.html
- 明智藪 (堤防) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E8%97%AA_(%E5%A0%A4%E9%98%B2)
- 明智光秀が築いた城下町について - 福知山市オフィシャルホームページ https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/25/1080.html
- 福知山城 - 福知山市 https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/uploaded/attachment/39936.pdf
- 福知山城 https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/158fukuchiyama/panf02.pdf
- 丹波亀山城と福知山城―明智光秀の実像を求めて(1)|京都府 - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/000433.html
- 明智光秀「本能寺の変 原因説50 総選挙」3万人の“推し説”投票結果発表!【#HNG50】 - 福知山市オフィシャルホームページ https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/hng50result.html
- 明智光秀ゆかりの福知山城は市民に愛され続ける城だった https://mediall.jp/landmark/26713