最終更新日 2025-10-08

篠山城築城(1609)

1609年、徳川家康は天下普請で篠山城の築城を西国大名に命じた。豊臣家を封じ込め、大名の財力を削ぐ政治的意図があった。設計は築城の名手、藤堂高虎が担当した。
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慶長十四年 篠山城築城 ― 天下普請が刻んだ徳川の天下 ―

序章:天下泰平への最後の布石

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから9年の歳月が流れた。徳川家康は征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り、駿府に大御所として君臨していたが、天下は未だ完全な静謐には至っていなかった。その最大の要因は、大坂城に座す豊臣秀頼の存在である。秀頼は、依然として西国に蟠踞する旧豊臣恩顧の大名たちにとって、精神的な支柱であり続けていた 1 。関ヶ原の戦いは、あくまで豊臣政権内部の私闘という建前で行われたため、豊臣家そのものは依然として一大名として存続し、その威光は衰えていなかったのである 2

この潜在的な脅威に対し、家康は周到かつ冷徹な布石を打ち続けていた。それは、大坂城を物理的、そして心理的に包囲する壮大な城郭ネットワークの構築であった。関ヶ原の戦後直後から、二条城、伏見城、膳所城といった対大坂を強く意識した拠点の築城・改修が次々と行われる 2 。世に言う「慶長の築城ラッシュ」である。そして慶長14年(1609年)、この大坂包囲網を完成させるための最後にして最大の楔が、丹波国に打ち込まれることとなる。それが篠山城の築城であった 3

この築城は、単なる軍事施設の建設を遥かに超える意味を持っていた。それは、徳川による天下支配の最終的な意思表示であり、極めて高度な政治的宣言であった。家康は、この城を西国大名たち自身の労力と財力で築かせる「天下普請」という手法を選択した 1 。かつての主家である豊臣家を封じ込めるための城を、旧豊臣恩顧の大名たちの手で築かせるという行為。それは、彼らの財力を削ぐという直接的な目的以上に、誰が新たな天下人であるかを天下に示し、豊臣家への忠誠心を物理的・心理的に断ち切らせるという、恐るべき政治的デモンストレーションであった。篠山城の石垣の一つ一つは、西国大名が徳川へ臣従を誓った証そのものであり、来るべき時代の到来を告げる巨大なモニュメントとなる運命にあった。

第一章:盤上の駒、丹波に落つ ― 築城地選定の攻防

物語は、慶長13年(1608年)、一人の武将が丹波の地に入るところから始まる。その男の名は松平康重。徳川家康の腹心中の腹心であり、一説には家康の落胤とも噂される譜代の重臣である 1 。康重は常陸笠間3万石から、5万石へと加増の上で丹波八上城へと移封された 7 。この人事は、来るべき新城建設の地ならしであった。

康重が新たに入った八上城は、丹波富士の異名を持つ高城山に築かれた、戦国時代を代表する堅固な山城であった 10 。しかし、鉄砲の普及と集団戦術が主流となった新たな時代において、山城は政庁としても軍事拠点としても、もはや時代遅れの存在となっていた。康重は当初、この八上城を修築して本拠としようと試みたが、近世城郭としての機能を持たせることは不可能であると判断し、計画を断念する 7 。平地に新たな城を築き、城下町を一体的に整備する必要性が、誰の目にも明らかとなったのである。

丹波国、とりわけ篠山盆地は、古来より京都と山陰、山陽を結ぶ交通の要衝であり、軍事戦略上、決して手放すことのできない土地であった 1 。康重は築城候補地として、盆地に点在する独立丘陵の中から「笹山」「王地山」「飛の山」の三つを選定する。そして、単に地図を送るのではなく、地形の高低を精密に再現した張り子の模型まで作らせ、家臣の石川信昌に持たせて駿府の家康の元へと届けさせた 1 。自らの居城の場所を、わざわざ大御所である家康に最終決定させるというこの行為は、単なる敬意の表明に留まらない。それは、これから築かれる城が、松平康重個人の私的な居城ではなく、徳川幕府の国家戦略の一翼を担う「公儀の城」であることを明確に示すための、重要な儀式であった。戦国時代の在地領主が持っていた自律性はもはや過去のものとなり、全てが中央の意向によって決定される新しい時代の統治システムが、ここにも明確に表れている。

模型と絵図面を検分した家康は、次のように述べたと伝えられる。「東に間近く王地山あるは武運長久、幸せの前兆なり。急ぎ城郭を築くべし」 1 。吉兆を口にしながらも、彼の選択は極めて合理的であった。選ばれた「笹山」は、独立した丘陵であるため防御性に優れ、周囲を流れる篠山川と黒岡川が天然の外堀として機能するという、まさに要害の地だったのである 13 。家康の裁可により、徳川の新たな拠点の位置は、丹波篠山盆地の中心、笹山に定まった。

第二章:当代随一の異才たち ― 計画の全貌

国家プロジェクトとも言うべき篠山城築城を遂行するため、当代最高の専門家たちが召集された。この一大事業の総監督である普請総奉行には、家康の娘婿であり、52万石を領する姫路城主「姫路宰相」池田輝政が任命された 1 。西国大名に絶大な睨みをきかせる輝政は、この事業の総責任者として、これ以上ない人選であった。

そして、城の心臓部である設計、すなわち「縄張」を担当する縄張奉行に抜擢されたのが、「築城の名手」として天下にその名を知られた藤堂高虎であった 18 。浅井長政から徳川家康に至るまで7人の主君に仕えたという異色の経歴を持つ高虎は、戦国の実戦の中で、城がいかにあるべきかを徹底的に追求したリアリストであった 21 。彼が篠山城に込めた設計思想は、来るべき徳川の世を象徴する、革新的なものであった。

高虎の設計思想は、過剰な装飾や複雑さを排し、徹底的に実用性と防御力を追求する点に特徴があった 21

第一に、「方形の縄張」である。加藤清正が築いた熊本城に見られるような、複雑に入り組んだ曲輪配置とは対照的に、高虎の城は単純な四角形の曲輪を重ね合わせたような、明快な構造を持つ 19 。これは、少数の兵で複雑な防衛線を維持するのではなく、大軍を城内に展開し、圧倒的な火力で「面」として敵を迎え撃つという、新たな時代の戦闘思想を反映したものであった。

第二に、「直線的な高石垣と広大な水堀」である。高虎が手掛ける石垣は、優美な曲線を描くのではなく、見る者を威圧するかのように、ほぼ垂直にそそり立つ 21 。篠山城の石垣もまた、敵兵が取り付くことすら困難な威容を誇った。さらに、その周囲には広大な水堀が巡らされた。その幅は、当時の主要な飛び道具であった弓の射程を遥かに超えており、敵の攻撃を寄せ付けない思想が徹底されていた 22

そして第三に、篠山城の縄張を最も特徴づける防御施設、「馬出(うまだし)」の設置である 25 。方形の城は、構造上、出入り口である虎口(こぐち)が最大の弱点となる。高虎は、この弱点を補強するため、城の北(大手)、東、南の三方の虎口の前面、外堀に突出する形で、独立した防御拠点である「馬出」を設けた 23 。これにより、敵は城門に到達する前に、この馬出からの十字砲火を浴びることになる。

これらの設計は、高虎個人の美学に留まるものではない。それは、家康が構想する「徳川の平和」を維持するための、いわば軍事インフラの標準規格であった。コスト効率が良く短期間で建設でき、防御力が高く維持が容易で、構造が単純で運用しやすい。この「徳川スタンダード」は、篠山城を皮切りに、その後の名古屋城や徳川大坂城の築城にも採用されていくことになる 21 。高虎は単なる築城家ではなく、徳川の天下泰平という国家ビジョンを、石と堀で具現化するプロジェクトマネージャーだったのである。

第三章:天下普請令、西国を揺るがす

慶長14年(1609年)春、徳川家康の名において、西国15ヶ国20の大名に対し、「篠山城御普請助役」の命令が下された 18 。これは、幕府が全国の大名に命令して行わせる公共事業、すなわち「天下普請」であった。この命令は、西国の諸大名に大きな衝撃をもって受け止められた。

動員の対象となったのは、山陰道、山陽道、南海道にまたがる広大な地域の、主に旧豊臣恩顧の大名たちであった 5 。その顔ぶれは、安芸広島49万8千石の福島正則、周防長門36万9千石の毛利秀就、紀伊和歌山37万6千石の浅野幸長、伊予松山20万石の加藤嘉明など、いずれも一国一城の主として絶大な力を持つ大名たちであった 18 。彼らが動員する石高の合計は、実に354万石余に達した 1

天下普請の掟は過酷であった。工事にかかる莫大な資材費、そして数万人に及ぶ人夫たちの食費や人件費は、そのすべてが助役を命じられた大名の負担とされたのである 28 。幕府からの命令である以上、これを拒否することは許されない。この普請には、大坂に対する軍事拠点を築くという表向きの目的と同時に、西国大名の財力を削ぎ、彼らが徳川に反旗を翻すための経済的基盤を根こそぎ奪うという、明確な政治的意図が込められていた 1

以下の表は、この未曾有の国家事業に動員された助役大名の一覧である。

藩主名

居城・国

石高(万石)

池田輝政

姫路・播磨

52

池田忠雄

岡山・備前

28

森 忠政

津山・美作

18.65

戸川逵安

庭瀬・備中

2.9

木下勝俊

足守・備中

2.5

福島正則

広島・安芸/備後

49.8

毛利秀就

萩・周防/長門

36.9

浅野幸長

和歌山・紀伊

37.6

蜂須賀至鎮

徳島・阿波

18.6

生駒一正

高松・讃岐

17.3

山内康豊

高知・土佐

20.2

加藤嘉明

松山・伊予

20

富田信高

宇和島・伊予

10.1

藤堂高吉

今治・伊予

2

京極高知

宮津・丹後

12.3

有馬豊氏

福知山・丹波

8

松平康重

八上・丹波

5

織田信包

柏原・丹波

2

谷 衛友

山家・丹波

1.6

別所吉治

北由良・丹波

1.5

(出典: 18 の情報を基に作成)

この表が示す事実は、単なる参加者のリストに留まらない。第一に、総石高350万石を超える大名たちが動員されたという事実は、このプロジェクトが一個人の城を築くという規模を遥かに超えた、国家的な事業であったことを物語っている。第二に、福島正則、毛利秀就、浅野幸長といった、関ヶ原では東軍に与しながらも、その出自は豊臣恩顧である有力大名が軒並み名を連ねている点は、家康の狙いが西日本全体の有力大名を対象とした、広範な勢力抑制策であったことを示している。彼らが自らの血と汗と金で「豊臣包囲網」を築かされるというこの構図は、徳川の支配体制が完全に確立したことを、天下に雄弁に物語るものであった。

第四章:慶長十四年、笹山の夏 ― 8万人の槌音

慶長14年(1609年)の春から夏にかけ、静寂に包まれていた丹波篠山盆地は、未曾有の喧騒と熱気に包まれた。天下普請の号令一下、西国各地から集められた人夫、それを監督する武士、そして彼らを相手にする商人たちが、この狭い盆地に殺到したのである。動員された人夫の数は、石高100石につき2人という当時の基準で計算すると、7万人から8万人にも達したと推定される 1 。当時、普請に参加した土佐高知藩(山内家)の記録には、「せばき谷に右の御普請衆入こみ申候故、野も山も人にて御座候(狭い谷にこれだけの普請の人々が入り込んだので、野も山も人で埋め尽くされているようであった)」とその凄まじい混雑ぶりが生々しく記されている 1

【1609年 6月:鍬初めと岩盤との死闘】

古記録である『篠山城記』によれば、6月1日、普請総奉行の池田輝政らの立ち合いのもと、「鍬初め」の儀式が執り行われ、土木工事が正式に開始された 19 。しかし、彼らを待ち受けていたのは、想像を絶する難工事であった。築城地である笹山は、その名の通り小高い山ではあるが、その実態は巨大な一枚岩盤だったのである 1 。通常の土木技術では、掘削すらままならない。

この巨大な岩盤を克服するため、当時の土木技術の粋を集めた壮絶な工法が採用された。それは、「夜な夜なは薪を積みかけ焼きて、昼はかなつき、つるのはしにて地形引きさけ申候(夜毎に薪を積んで火を放ち、昼になると鑿と鶴嘴で岩を砕いた)」というものであった 1 。夜間に猛火で岩盤を熱し、昼間に急激に冷やす(自然冷却、あるいは水をかけた可能性もある)ことで、熱膨張と収縮による亀裂を生じさせ、脆くなった部分を人海戦術で砕いていく。火と水、そして人間の力が一体となったこの原始的かつ合理的な工法によって、篠山の岩盤は少しずつ、しかし確実に削られていった。

【1609年 7月~9月:石垣の競演と驚異の工期】

岩盤との死闘を経て基礎工事に目処が立つと、城の骨格となる石垣の構築が驚異的な速度で進められた。石材は、城の南に位置する栗栖野や当野といった地区に設けられた石切丁場から、昼夜を問わず運び込まれた 29

天下普請において、各大名は割り当てられた工区(丁場)の工事に責任を負った。その証として、自らが調達し、組み上げた石には、責任の所在と自家の威信を示すための「刻印」が刻まれた。篠山城の石垣には、今なお約150種類にも及ぶ多様な刻印が残されており、この普請がいかに多くの大名の参加によって成り立ったかを物語っている 2 。中でも、普請総奉行であった池田輝政の家臣団が担当したことを示す「三左之内(池田三左衛門輝政の家臣の意)」という刻印は特に有名である 2

しかし、篠山城の刻印には奇妙な点がある。名古屋城など他の天下普請の城では、工区ごとに同じ大名の刻印がまとまって発見されるのが一般的である。ところが篠山城では、様々な大名の刻印が、特定の場所にまとまることなく入り乱れて発見されるのである 31 。これは、単なる偶然では説明がつかない。この刻印の「乱れ」は、当時の現場の状況を物語る貴重な物証である。わずか6ヶ月という異常な短工期、岩盤という予期せぬ難工事、そして8万人もの労働力がひしめく現場 8 。おそらく、厳密な工区割りを維持するよりも、とにかく石材を現場に運び込み、熟練した石工集団(公儀お抱えの穴太衆なども参加した可能性がある 31 )が、所属に関わらず手にした石を次々と積み上げていくという、効率を最優先したワークフローが採用されたのであろう。「現場は大混乱であった」という記録も残っており 31 、篠山城の石垣に見られる刻印の不規則性は、家康が課した政治的デッドラインが生んだ、計画的な「統制された混乱」の痕跡と言える。

このすさまじい突貫工事の結果、土木工事は9月にはほぼ完了するという、驚異的な成果を上げた 1

第五章:「堅固に過ぎる」― 天守なき要塞の完成

1609年の秋から冬にかけて、石垣の上に櫓や門、塀といった作事(建築工事)が急ピッチで進められ、篠山城はその威容を現した。しかし、城の象徴であり、画竜点睛となるべき天守が、その頂にそびえ立つことはなかった。

立派な天守台が築かれたにもかかわらず、天守の建築は土壇場で中止されたのである。その命令を下したのは、他ならぬ徳川家康自身であった。伝えられるところによれば、家康は完成に近づいた城の堅固さを見て、「城郭が堅固に過ぎる」と述べ、天守の建築を差し止めたという 1 。この言葉の裏には、家康の深い戦略的思考が隠されている。

天守は、城主の権威を天下に示すための象徴的な建造物である。しかし、家康にとって篠山城は、城主である松平康重個人の威光を示すための城ではなかった。それはあくまで、徳川幕府という巨大な統治機構の出先機関であり、対大坂政策を遂行するための純粋な軍事装置であった。過度に壮麗な天守を築き、城主個人の権威を高めることは、幕府の統制という観点から見て、むしろ不要であり、潜在的なリスクですらあった。天守が遠方からの格好の標的となり、実戦において必ずしも有利ではないという、高虎流の現実主義的な判断も影響したであろう 5 。計画の痕跡として巨大な天守台だけが残され、その代わりとして天守台の南東隅に、わずか二間四方(約4メートル四方)の小さな隅櫓が建てられたのみであった 25

権威の象徴である天守を排した一方で、城の政治的中核を担う施設には、破格のものが用意された。二の丸に建てられた「大書院」である 5 。この建物は、藩の政務や儀礼を執り行うための施設であるが、その規模と格式は、将軍が上洛した際の宿所である京都・二条城の二の丸御殿に匹敵する、壮大なものであった 11 。壮麗な天守をあえて築かず、実務と儀礼の場である大書院に最高の格式を与えたこと。それは、この城が一個人の武威によってではなく、徳川幕府という組織の力によって機能することを示す、計算され尽くした設計思想の表れであった。戦国的な個人のカリスマの時代が終わり、江戸的な官僚的統治の時代が到来したことを、篠山城の構造そのものが物語っている。

終章:石垣は語り、城下町は生まれる

慶長14年(1609年)12月、普請がほぼ完了した城に、初代城主・松平康重が入城した 1 。ここに丹波篠山藩5万石が成立し、城はその機能を本格的に始動させた。康重は藩政の基礎を固めた後、元和5年(1619年)に大坂南方の要衝である和泉岸和田へと移封されるが 9 、篠山城はその後も譜代の有力大名に引き継がれ、西国監視の拠点としての役割を果たし続けた。

築城から5年後の慶長19年(1614年)に大坂冬の陣、翌年に大坂夏の陣が勃発すると、篠山城は築城の意図通り、西国大名の不穏な動きを牽制し、大坂方への補給路を遮断するという、極めて重要な戦略的役割を担った。巨大な石垣と堀は、一度も戦火を交えることなく、その存在自体によって徳川の勝利に貢献したのである。

篠山城築城という一大事業は、城の完成だけで終わりではなかった。それは、新たな都市の創造へと続く、壮大な物語の序章に過ぎなかった。徳川政権が目指したのは、軍事拠点と経済・行政の中心が一体となった、持続可能な統治システムの構築である。

城の完成直後である慶長15年(1610年)1月15日、新たな城下町の建設が開始される。『篠山城下町屋由来』には、「慶長十五年正月十五日ヨリ八上町家ヲ笹山町江移ス」と記されている 7 。これは、旧来の拠点であった八上城の城下町から、商人や職人、寺社などを計画的に新城下へ移転させるという、大規模な都市計画の始まりであった。

城下町の整備は、京都への玄関口にあたる「河原町」から着手され、城を中心に武家屋敷が広がる区画と、町人たちが住み商いを営む商家町の区画が明確に区分された、近世城下町の骨格が形成されていった 14 。八上城のような山中の孤立した拠点から、平地の城と城下町が一体となった都市への移行は、時代の大きな転換を象徴していた。旧来の地域共同体を解体し、城を中心とした新しい社会秩序へと人々を組み込むこの事業は、一種の社会工学的な試みでもあった。

篠山城の石垣が徳川の軍事力という「ハードパワー」の象徴であるならば、同時に整備された城下町は、人々の生活と経済を掌握する「ソフトパワー」の基盤であった。慶長14年の篠山城築城という事変は、単に一つの城を築いただけではない。それは、一つの都市を無から創造し、その後の400年にわたる丹波篠山の歴史の礎を築いた、壮大な創世の物語だったのである。

引用文献

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  2. 100名城を巡る 篠山城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/13676
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  4. 関ヶ原後に「大坂」包囲網を築いた家康の知略 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22951
  5. 天下普請で築かれた「篠山城」 https://geo.d51498.com/qbpbd900/sasayamajo.html
  6. 東条松平家と松井松平家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/tojo-matsui
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