最終更新日 2025-09-25

米子城築城(1591)

吉川広家は1591年、豊臣政権下の山陰経略と毛利家の戦略的布石として米子城を築城。中海に面した要衝に、朝鮮出兵で得た「登り石垣」技術を導入。関ヶ原で広家は去るが、堅固な城は後の米子発展の礎となった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正十九年 米子城築城始末 ― 豊臣政権下の山陰経略と吉川広家の戦略的布石

序章:天正十九年(1591年)の刻

天正18年(1590年)の小田原征伐完了をもって、豊臣秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た。日本全土が新たな支配者の下に再編され、各地の大名は豊臣政権という巨大な権力構造の中で、自らの新たな序列と役割を模索する激動の時代を迎えていた。この天正19年(1591年)という年は、国内の平定が成り、秀吉の目が次なる対外政策、すなわち朝鮮半島への出兵へと向き始める、まさに歴史の転換点であった。

かつて織田信長と中国地方の覇権を巡り激しく争った西国の雄、毛利氏もまた、この新たな秩序の中で大きな変革を迫られていた。当主・毛利輝元は、豊臣政権において最高の意思決定機関である五大老の一人に列せられ、政権中枢に重きをなす存在となっていた 1 。しかしその内実は、独立した戦国大名から豊臣政権の一翼を担う一大名へと、その立場を大きく変えざるを得なかった緊張感を内包していた。

このような時代背景の中、伯耆国米子の地で一つの巨大プロジェクトが始動する。毛利家の重臣、吉川広家による米子城の築城である。本報告書は、この天正19年に開始された「米子城築城」という事象を単なる一城郭の建設記録として捉えるのではなく、当時の豊臣政権の支配構造、毛利家の内部事情、そして来るべき文禄・慶長の役という対外戦争の予兆までを映し出す鏡として、その多層的な背景と歴史的意義を、時系列に沿って徹底的に分析・解明するものである。

第一章:築城前夜 – 伯耆国米子の戦略的価値と吉川広家の台頭

第一節:中海を望む要衝

吉川広家が新たな城の地として選んだ伯耆国米子は、古来より地政学的に極めて重要な位置を占めていた。この地は、日本海と広大な汽水湖である中海を結ぶ水運の結節点であり、同時に出雲国、伯耆国、因幡国を繋ぐ山陰道の陸路が交差する交通の要衝でもあった 3

この地を掌握することは、単に軍事的な優位を確保するに留まらず、山陰地方の経済、特にこの地域で産出される鉄や伯州綿といった重要物資の流通網を支配することを意味した 3 。米子を押さえる者は、山陰全体の経済と軍事を掌握する上で、決定的な鍵を握っていたのである。広家がこの地に壮大な城郭を構想した背景には、このような米子の持つ潜在的な戦略価値への深い洞察があった。

第二節:飯山砦を巡る攻防の歴史

広家が湊山に近世城郭の築城を開始する以前、米子における軍事拠点は、湊山に隣接する小高い丘、「飯山(いいのやま)」に築かれた砦であった 4 。この飯山砦の歴史は古く、応仁の乱の時代、1467年頃に伯耆守護であった山名氏が、出雲国側に対する備えとして築いたのが始まりとされる 4

以来、この地は山陰の覇権を巡る争奪戦の舞台となり、山名氏、出雲から勢力を伸ばした尼子氏、そして中国地方全域を支配下に収めようとする毛利氏の間で、幾度となく城主が入れ替わる激しい攻防が繰り広げられた 4 。『伯耆民談記』や『出雲私史』といった後世の記録には、山名秀之、福頼元秀、そして後に広家の築城で重要な役割を果たす古曳吉種など、様々な武将の名が城主として記されており、この地がいかに戦略的に重要視されていたかを物語っている 4

ただし、これらの記録、特に『伯耆民談記』には、湊山への築城開始年や主体について、既に故人であった吉川隆久(広家の叔父)が天正16年(1588年)に築城を開始したとするなど、明らかに史実と矛盾する記述も散見される 8 。これは、後世に様々な伝承が混入した結果であると考えられ、史料を扱う上では批判的な検討が不可欠である。いずれにせよ、広家が築城を決断した時点で、米子の地には長年にわたる軍事拠点としての歴史が刻み込まれていたのである。

第三節:毛利の両輪から豊臣の縁者へ ― 吉川広家の特異な政治的立場

米子城の築城主である吉川広家は、当時の大名の中でも極めて特異な政治的立場にあった。彼は、祖父・毛利元就が築いた毛利家を支える二つの柱「毛利両川」の一翼、吉川元春の子として生まれ、毛利一門の中で絶大な影響力を持つ重臣であった 9

その一方で、広家は豊臣政権とも深い繋がりを築いていた。天正16年(1588年)、広家は豊臣秀吉の養女・容光院(宇喜多直家の娘)を正室に迎える 11 。これにより、彼は天下人・秀吉の娘婿となり、豊臣一門に準ずる特別な地位を得たのである。秀吉は広家の武功を高く評価し、九州平定などでの活躍を賞賛していた 9

そして、米子城築城が開始される天正19年(1591年)、この広家の二重性が決定的な形で現れる。秀吉は、毛利本家を介さず、直接広家に対して出雲国の月山富田城を本拠として、出雲・伯耆・隠岐などにまたがる広大な所領を与えたのである 12 。これにより広家は、毛利家の家臣でありながら、同時に秀吉に直属する「豊臣大名」としての性格を色濃く帯びるに至った。

この広家の持つ「二重性」こそ、米子城築城を理解する上で最も重要な鍵となる。毛利家にとって、この築城は山陰地方の統治を盤石にするための拠点強化策であった。一方で豊臣政権、すなわち秀吉にとっては、巨大な外様大名である毛利氏の内部に、豊臣恩顧の有力大名を「楔(くさび)」として打ち込むことで、西国支配をより確実なものにするという高度な戦略的意図があった。米子城は、この二つの異なる戦略的意図が交差する一点に計画された、極めて政治的な意味合いの濃い城郭だったのである。

第二章:天正十九年、普請始まる – 築城のリアルタイム・クロニクル

第一節:下知と縄張り

天正19年(1591年)、出雲・伯耆等の新たな領主となった吉川広家は、その支配領域の中心に、近世的な大規模城郭を築くことを決断し、家臣団に普請(土木工事)の下知を下した 6 。その地として選ばれたのが、古くからの砦があった飯山の隣、中海に突き出すように位置する湊山であった。

この一大事業の技術面を統括する築城奉行には、家臣の祖式九右衛門が任命された 4 。彼の詳細な経歴は史料に残されていないが 17 、広家の構想を具現化する縄張り(設計)と普請の実行において、中心的な役割を担ったと推察される。初期の構想は、湊山山頂に本丸を置き、東の飯山を出丸として取り込む、広大で立体的な防衛網を意図したものであった 6 。築城に必要な膨大な石材は、主に城が築かれる湊山そのものの岩盤を切り出して調達されたと考えられており、現在も本丸の枡形内には、割り残された矢穴の痕跡が生々しく残っている 22

第二節:現場の指揮官 ― 城代・古曳吉種

実際の築城現場で最高責任者として指揮を執ったのは、古曳吉種であった 4 。彼は築城以前から飯山砦の城代を務めており、現地の地理や統治に精通した人物であった 24 。元々は中国地方の有力大名・大内氏に仕えていたが、毛利氏、杉原氏の配下を経て吉川広家の被官となった経歴を持ち、その経験と能力を広家から高く評価されていた 24 。彼の存在は、この巨大プロジェクトの初期段階を円滑に進める上で不可欠であった。

記録によれば、古曳吉種は築城に際して、湊山と飯山の中間地点に母の菩提を弔うための寺院、浄昌寺(後の本教寺)を建立したとされる 24 。戦国時代の寺院は、単なる宗教施設に留まらず、集会所や宿泊施設としての機能も併せ持っていた。この浄昌寺も、築城のために動員された多くの人々の拠点として機能した可能性が指摘されている 25

第三節:中断 ― 文禄の役勃発

順調に始まったかに見えた米子城の築城工事は、しかし、開始の翌年に大きな転機を迎える。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が大陸への野望を現実のものとすべく、朝鮮半島への大軍の派遣を命令したのである。世に言う「文禄の役」の勃発である。

この国家的な大事業には、全国の大名が動員された。築城主である吉川広家、そして現場責任者の古曳吉種も例外ではなく、それぞれが軍勢を率いて九州の名護屋城を経て、朝鮮半島へと渡海した 4 。これにより、米子城の普請現場は、プロジェクトを推進するべき意思決定者と現場監督者を同時に失うという事態に陥った。工事は事実上の中断、あるいは大幅なペースダウンを余儀なくされたと考えるのが自然であろう。遠い異国の戦場へと向かった主君たちの無事を祈る人々の不安と、槌音の止んだ現場の静寂が、当時の米子を覆っていたに違いない。

以下の表は、築城開始から中断に至るまでの国内外の情勢と関係者の動向を対照的に整理したものである。これにより、中央の政治・軍事動向が、いかに直接的に一地方の土木事業に影響を与えたかをリアルタイムで俯瞰することができる。

西暦(和暦)

国内外の主要動向(豊臣政権・朝鮮半島)

吉川広家の動向

米子城における動向(関係者含む)

1591年(天正19年)

豊臣秀吉、千利休に切腹を命じる。国内の支配体制を一層強化。

出雲・伯耆等の領主となる 15

米子城築城開始 。築城奉行に祖式九右衛門、城代に古曳吉種を任命 4

1592年(文禄元年)

文禄の役(朝鮮出兵)勃発 。日本軍が釜山に上陸。

軍勢を率いて朝鮮へ渡海 26

築城主・広家と現場責任者・古曳吉種が不在となり、 築城工事が事実上中断

第三章:文禄・慶長の役と米子城 – 朝鮮半島の先進技術

第一節:倭城の衝撃

朝鮮半島に渡った吉川広家は、東莱城などの倭城(わじょう)、すなわち日本軍が朝鮮半島南部に築いた拠点城郭の構築と、それを巡る明・朝鮮連合軍との激しい防衛戦に身を投じることとなった 26 。敵地において、数で優る敵を相手に繰り広げられた籠城戦の経験は、国内の平定が成りつつあった日本の城郭とは全く異なる、より実践的で高度な防御思想を広家にもたらした。肥前名護屋城で目の当たりにした壮大な前線基地の規模と、朝鮮での実戦経験は、彼の城郭観を根底から変えるほどの衝撃であったと推察される 10

第二節:「登り石垣」の導入

米子城の構造における最大の特徴であり、広家が朝鮮で得た教訓を最も象徴するのが「登り石垣」の存在である 16 。これは、山頂に位置する本丸と、山麓や尾根続きにある別の郭(米子城の場合は北の出丸である内膳丸)とを、山の斜面を這い上がるような二条の石垣で連結させる防御施設である。この技術の目的は、敵が山の中腹から侵入し、山上と山麓の連絡を断ち切ることを防ぎ、城全体を一体的に運用することにあった 28

この登り石垣は、まさに朝鮮半島の倭城において、敵の分断戦術に対抗するために多用された最新の築城技術であった 16 。広家がその絶大な有効性を実戦の場で学び、帰国後に再開する米子城の設計に意図的に導入した可能性は極めて高い。

この技術の導入は、広家だけの特例ではなかった。同じく朝鮮出兵に参加し、水軍を率いた脇坂安治が居城とした淡路国の洲本城や、加藤嘉明が築いた伊予国の松山城にも、同様の登り石垣が確認されている 30 。これらの事実は、文禄・慶長の役という対外戦争が、参加した武将たちを通じて日本の城郭技術に革新的な影響を与えたことを示す好例と言える。米子城は、その最先端技術が導入された、いわば「戦うための要塞」としての性格を色濃く持つ城郭だったのである。

第三節:古曳吉種の戦没

築城工事が中断していた文禄元年(1592年)11月、米子城にとって大きな悲報がもたらされる。現場の最高責任者であった古曳吉種が、朝鮮の地で戦死したのである 4 。一説には、翌年2月の碧蹄館の戦いでの戦死とも伝えられている 25

現地の事情を知り尽くした有能な指揮官の死は、米子城の築城計画にとって計り知れない打撃であった。彼の不在は、広家が帰国して直接指揮を執るまでの間、工事の停滞を決定的なものにしたと考えられる。未来の城主となるべき人物が、城の完成を見ることなく異国の土となったという事実は、この築城事業が戦乱の時代といかに密接に結びついていたかを物語っている。

第四章:築城再開と関ヶ原への道 – 未完の巨城

第一節:慶長三年の帰国

慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、朝鮮半島からの日本軍の撤兵が本格化する。吉川広家も長い戦役を終え、本拠地である出雲国の月山富田城へと帰国した 4

帰国した広家がまず精力的に取り組んだのが、中断していた米子城の築城再開であった。彼は自ら湊山に入り、工事の監督にあたった 4 。この時、朝鮮での経験に基づき、登り石垣をはじめとする先進的な防御構想が本格的に具現化されていったと考えられる。さらに広家は、単に城郭を築くだけでなく、その経済的・軍事的価値を最大限に高めるため、米子港や深浦港の整備にも着手した 4 。これは、米子城を中海・日本海の水運ネットワークと直結させ、山陰支配の拠点として盤石なものにしようという、彼の壮大な構想の表れであった。

第二節:完成度七割

築城は急ピッチで進められたが、天下の情勢は広家の計画が完成するのを待ってはくれなかった。秀吉の死後、豊臣政権内部では徳川家康が急速に台頭し、天下は再び動乱の兆しを見せ始めていた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発する直前の時点で、米子城の工事は全体の七割程度まで進行していたと、当時の記録(『戸田幸太夫覚書』)は伝えている 4 。この時点で、広家が計画した初代天守(後の四重櫓)や、城の骨格をなす登り石垣を含む主要な石垣群はほぼ完成していたと推測される。しかし、城内の御殿や多数の櫓、門といった作事(建築工事)は、まだ多くが未完成の状態であったと考えられる。

第三節:運命の転換

慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。毛利家は西軍の総大将として担がれるという難しい立場に置かれた。この国家的な危機に際し、吉川広家は徳川家康と密かに内通し、毛利軍本隊の戦闘参加を阻止することで、毛利本家の存続を図るという苦渋の決断を下す。

この広家の行動により毛利家は改易こそ免れたものの、戦後、その所領は中国地方の大半を失い、周防・長門の二国へと大幅に減封された。これに伴い、広家も心血を注いできた出雲・伯耆の地を去り、周防国岩国3万石(後に6万石)へと転封されることとなった 4 。ここに、吉川広家による米子城築城は、完成を見ることなく、志半ばで終わりを告げたのである。

第五章:米子城の構造と特徴 – 吉川広家が遺した遺産

第一節:海と山を制する縄張り

吉川広家が構想し、その礎を築いた米子城は、海城と山城の性格を巧みに融合させた、極めて戦略的な縄張り(城郭全体の設計)を特徴とする。標高約90mの湊山山頂に本丸を置き、そこから北に伸びる尾根には出丸として「内膳丸」を、東には独立峰である「飯山」を配し、これらが相互に連携して立体的な防衛網を形成していた 6

山麓には、城主の居館が置かれた二の丸、そして藩の諸施設が集中する三の丸が広がり、これらは中海から直接水を引き込んだ二重の堀によって厳重に守られていた 6 。さらに、湊山の南麓、中海に面した深浦には水軍の拠点である「御船手郭(おふなでくるわ)」が設けられ、海上からの攻撃に備えると共に、城下に出入りする船舶を監視する役割を担っていた 6 。このように、山頂からの眺望による監視機能、山城としての堅固さ、そして水運を最大限に活用する海城としての機能を併せ持っていた点に、米子城の縄張りの先進性が見て取れる。

第二節:初代天守「四重櫓」― 戦国の面影

広家が築城した初代の天守は、後の城主・中村一忠によって新たな天守が隣に建てられた後、「四重櫓」あるいは「古天守」「副天守」などと呼ばれるようになった 16 。この建物は、独立式望楼型3重4階の大型櫓であり、事実上の天守として機能していた 16

特筆すべきは、この四重櫓が築かれた天守台の形状である。それは整然とした方形ではなく、歪んだ五角形に近い不整形なものであった 34 。これは、石垣を正確に加工し、隅角を直角に組み上げる「算木積み」の技術が確立される以前、戦国末期の築城技術の様相を色濃く残すものである 21 。石垣の形状に合わせて建物を建てるという、実戦的で質実剛健な時代の思想が反映されている。内部には石落としなどの防御設備も備えられており、まさに「戦うため」の天守であったことが窺える 16

第三節:後継者による完成 ― 中村一忠の増築

広家が去った後、伯耆一国の新たな領主として米子城に入ったのは、駿河国府中城主であった中村一忠であった 4 。彼は、広家が残した七割方完成した城を引き継ぎ、その普請を完成させた。

一忠は、広家が建てた四重櫓を取り壊すのではなく、その横に、より大規模で壮麗な独立式望楼型4重5階の新たな天守を建造した 16 。この新天守は、正確な方形に整形された石垣(天守台)の上に築かれており、関ヶ原の戦いを経て飛躍的に進歩した近世城郭の技術と思想を体現していた 34

結果として、米子城の本丸には、吉川広家が築いた戦国期の面影を残す古雅な四重櫓と、中村一忠が築いた近世の威容を誇る壮大な五重天守が、大小二つ並び立つという、全国的にも極めて珍しい景観が出現した。この光景は、米子城の歴史そのものを象徴している。すなわち、吉川広家が築いた「戦国の礎」の上に、中村一忠が「近世の威容」を接ぎ木することで、この城は完成に至ったのである。米子城の遺構は、日本の城郭建築史における二つの異なる時代の技術と思想が、一つの場所で「地層」のように重なり合って現存する、学術的にも極めて貴重な価値を持つと言えよう。

結論:山陰の要、その礎

天正19年(1591年)に始まった米子城の築城は、単なる一地方における城郭建設に留まらない、重層的な歴史的意義を持つ事業であった。それは、毛利家の重臣、そして豊臣政権の縁者という二つの顔を持つ吉川広家が、自身の政治的・軍事的キャリアの集大成として計画した一大プロジェクトであり、毛利家臣としての山陰統治と、豊臣大名としての天下人への奉公という二つの使命を同時に果たすための、高度な戦略的布石であった。

技術史的な観点から見れば、米子城は日本の城郭史における重要な転換点を象徴している。文禄・慶長の役という未曾有の対外戦争で得られた実戦の教訓、特に「登り石垣」という先進的な防御技術を、いち早く国内の城郭設計に導入した先駆的な事例として特筆すべき価値を持つ。米子城は、戦いの経験が直接的に技術革新へと繋がった、生きた証左なのである。

歴史の皮肉と言うべきか、築城主である吉川広家は、自らが心血を注いで築き上げたこの最新鋭の城に、城主として居住することは遂に叶わなかった。関ヶ原の戦いという時代の奔流が、彼の夢を未完のまま押し流したのである。しかし、彼が築いた堅固なインフラと、海と山を制する壮大な城郭の基本設計は、決して無駄にはならなかった。それは後継の中村氏に引き継がれ、江戸時代の鳥取藩主席家老・荒尾氏による城預かりの時代を通じて、米子の町の繁栄の礎となった。

吉川広家の夢は未完に終わった。しかし、彼が遺した「山陰の要」の礎は、その構想の壮大さゆえに、後世数百年にわたる地域の発展を静かに支え続けた。米子城は、戦国乱世の終焉期における、一人の武将の野心と、時代の要請が結実した巨大プロジェクトの記念碑として、今なおその姿を伝えている。

引用文献

  1. 毛利輝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
  2. 毛利輝元の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37323/
  3. 第6章 歴史文化遺産の一体的・総合的な保存と活用 - 米子市 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/51486/6.pdf
  4. 米子城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/142/memo/2031.html
  5. 飯山城|伯耆国古城跡図録 https://shiro-tan.jp/castle-yonago-iinoyama.html
  6. 米子城について https://yonagocastle.com/about/
  7. 米子城の歴史 https://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
  8. 米子城|伯耆国古城跡図録|伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸 ... https://shiro-tan.jp/castle-yonago-yonago.html
  9. 「吉川広家と天下人豊臣秀吉」展 https://www.kikkawa7.or.jp/schedule/20240924/
  10. 吉川広家(きっかわ ひろいえ) 拙者の履歴書 Vol.269~二つの時代を生き抜いた智将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n0c8c1c776a71
  11. 吉川広家(吉川広家と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/84/
  12. 吉川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F
  13. 歴史の目的をめぐって 吉川広家 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-07-kikkawa-hiroie.html
  14. 第2号 米子城 入門の巻 https://www.yonago-toshokan.jp/wp-content/uploads/2019/02/furusatoyonago02.pdf
  15. 資 料 - 米子市 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/33380/siryou.pdf
  16. 米子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%AD%90%E5%9F%8E
  17. 宮本充|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ - アニメイトタイムズ https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=335
  18. 斉藤壮馬|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ - アニメイトタイムズ https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=4144
  19. 岡倉天心 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83
  20. 菅原兼茂――父・菅原道真の怨霊に乗っ取られた?息子が取った行動とは - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90709
  21. <米子城(前編)> 広い桝形虎口、登り石垣、そして4段の天守台石垣! | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12771338139.html
  22. 見どころマップ – 米子城公式ホームページ https://yonagocastle.com/about/highlight-map/
  23. 【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第26回 石材の調達と運搬方法 https://shirobito.jp/article/1093
  24. 古曳長門守吉種|伯耆国人物列伝 https://shiro-tan.jp/history-k-kobiki-yoshitane.html
  25. 古曳吉種が城内に建てた寺 浄昌寺 - 米子歴史浪漫プロジェクト http://www.ydpro.net/diary/c/c16.html
  26. 岩国市史 - 錦帯橋を世界遺産に推す会 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/5.html
  27. 第3章 米子城の概要 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/31030/3.pdf
  28. 隠れたる名城 米子城 -その価値と魅力に迫る https://www.city.yonago.lg.jp/secure/23896/nakaisensei.pdf
  29. 登り石垣 - 米子城の写真 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/142/photo/177772.html
  30. 洲本城 [2/6] 壮大な高石垣と武者走台を持つ立派な本丸へ。 https://akiou.wordpress.com/2016/08/07/sumotojo-p2/
  31. 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【脇坂安治編】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1028227
  32. 「登り石垣」とは - 松山城 https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/shitestukoen/matsuyamajyo/noboriishigaki.html
  33. 重文七城「松山城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16946_tour_027/
  34. 米子高専 知的セミナー:米子城を探る② 米子城の大小2基の天守(2014.04) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TET4mVawZx8
  35. 甦る威容。個性あふれる日本の名城。 袴腰の板壁で覆われた 勇壮無骨、風格漂う古式天守閣。「米子城」 - 幻の城 - 建築デザイン http://castle.atorie-ad.com/yonago.shtml