細川忠興豊前統治整備(1600)
慶長5年(1600年)、細川忠興は関ヶ原の戦功により豊前国を与えられ、藩政を開始。黒田家との年貢問題を経て権威を確立し、小倉城を築城。紫川を境に武家地と町人地を分けた。
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細川忠興の豊前統治整備:関ヶ原後の新秩序構築(1600年~)
序章:関ヶ原の戦塵、そして西国へ
慶長五年(1600年)九月十五日、天下分け目の関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。この戦いは、日本の歴史を大きく転換させる分水嶺であったが、同時に一人の武将、細川忠興の運命をも劇的に変えることとなる。丹後国宮津十二万石の領主であった忠興は、この戦いの功績により、豊前一国および豊後二郡、都合三十九万九千石という破格の加増をもって九州の地に新たな領国を与えられた。これは単なる論功行賞ではない。彼の武功、妻ガラシャの悲劇的な死、そして徳川家康の深謀遠慮が複雑に絡み合った、新時代における国家鎮護の礎を築くための戦略的人事であった。本報告書は、忠興がこの新領地・豊前において、いかにして混沌から秩序を創造し、近世大名としての盤石な支配体制を確立していったのか、その過程を時系列に沿って詳細に解明するものである。
第一節:東軍勝利への貢献と忠興の武功
細川忠興の関ヶ原における活躍は、戦場での武勇に留まらない。戦に至るまでの政治的動向において、彼は早くから家康への与同を明確にし、東軍勝利の潮流を形成する上で極めて重要な役割を果たした。慶長四年(1599年)、加藤清正、福島正則らと共に石田三成を襲撃した「七将襲撃事件」に名を連ね、豊臣政権内の武断派として三成との対立を先鋭化させた 1 。翌慶長五年、家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、忠興はいち早くこれに従う姿勢を示した。豊臣恩顧の大名が多く去就に迷う中、彼のこの早期の表明は、他の大名の動向に少なからぬ影響を与えたとされる 2 。
関ヶ原の本戦において、忠興は黒田長政らと共に東軍の右翼を担い、石田三成本隊と激しく衝突した。この戦闘で彼は自ら太刀を振るい、百三十六もの首級を挙げるという凄まじい武功を立てた 2 。この勇猛さは、彼が多芸多才な文化人であると同時に、戦国の修羅場を生き抜いてきた歴戦の武将であることを雄弁に物語っている。彼はまた、甲冑の考案にも長けており、関ヶ原で着用したとされる山鳥の尾をあしらった「越中頭形兜」と「黒糸威二枚胴具足」は、その勝利も相まって細川家中で「御吉例の甲冑」として尊ばれることとなった 1 。
さらに、忠興の功績を語る上で、父・細川幽斎(藤孝)の丹後田辺城における籠城戦を欠かすことはできない。忠興が東軍として出陣したため、手薄となった丹後には、小野木重次を総大将とする一万五千の西軍が殺到した。わずか五百の兵で城に籠もった幽斎は、朝廷からの勅命が下るまで五十日以上も持ちこたえ、西軍の主力を丹後の地に釘付けにした。この戦いは、関ヶ原に向かうはずだった西軍の兵力を削ぐという点で、東軍の勝利に間接的ながら絶大な貢献を果たし、結果として忠興の東軍内での立場をより一層強固なものにしたのである。
第二節:ガラシャの死と豊前拝領の意義
忠興が家康から受けた恩賞の背景には、彼の戦功と並び、妻・玉(洗礼名ガラシャ)の壮絶な死が深く関わっている。関ヶ原の戦いの直前、石田三成は家康に従う諸大名の妻子を人質に取り、その動きを牽制しようと図った。その標的の一人が、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャであった 2 。
しかし、ガラシャは人質となることを断固として拒絶。「武士の妻として、辱めを受けることはできない」との決意のもと、家臣に自らを介錯させ、屋敷に火を放って三七歳の生涯を閉じた 2 。この事件は、西軍の人質作戦を頓挫させただけでなく、その非道な手法を天下に知らしめる結果となった。忠興にとって、それは耐え難い悲劇であったが、同時に妻の誇りを守るため、三成を討つという強烈な大義名分を得ることにも繋がった 2 。
戦後、徳川家康は忠興の戦功を賞賛すると共に、ガラシャの「忠節」を高く評価した 7 。そして、丹後十二万石から、豊前一国(企救、田川、京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐の八郡)と豊後二郡(国東、速見)を合わせた、実高三十九万九千石余りという破格の領地を与えたのである 3 。
この大幅な加増転封は、単なる功績への報酬という一面的な見方では捉えきれない。そこには家康の高度な政治的計算があった。ガラシャの死は、東軍の正当性と西軍の非道を象徴する事件として、家康によって巧みに政治利用された。忠興に個人的な悲劇に対する慰撫として大恩を着せることで、彼を徳川体制に対する絶対的に忠実な支柱として組み込もうとしたのである。さらに、豊前国は九州の玄関口である関門海峡を扼する戦略的要衝であり、島津、鍋島、黒田といった西国の有力外様大名を監視・牽制する上で、これ以上ない立地であった。豊臣恩顧でありながら、ガラシャの一件で石田三成、ひいては豊臣家(西軍)に深い憎しみを抱き、家康に忠誠を誓う忠興をこの地に配置することは、家康の天下統一後の九州経営における最重要課題の一つであった。したがって、この豊前拝領は、忠興個人の功績と悲劇、そして家康の国家構想が交差した点に成立した、極めて戦略的な意味合いを持つ決定だったのである。
【表1:細川忠興 豊前統治整備 年表(慶長五年~寛永九年)】
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
1600年 |
慶長五年 |
関ヶ原の戦いで東軍として戦功を挙げる。戦後、豊前一国・豊後二郡(三十九万九千石)を拝領。11月、家臣・松井康之らを派遣し黒田家との領地引継ぎを開始するも、年貢先納問題が発覚。12月26日、忠興、中津城に入城。 |
1601年 |
慶長六年 |
1月、家臣に対し九カ条の「覚」を発布。年貢問題で家康に直訴し「勝手次第」との許可を得る。黒田家との交渉が決裂し、関門海峡で黒田領の船を差し押さえる実力行使に出る。領内検地を実施。 |
1602年 |
慶長七年 |
小倉城の本格的な築城と城下町の整備を開始。年貢先納問題が、片桐且元らの仲介により解決。冬までに黒田家からの返済が完了。 |
1604年 |
慶長九年 |
腕利きの漁師を行橋市今井から中津の小祝に移住させるなど、領内開発を進める。 |
1607年 |
慶長十二年 |
幕府による駿府城普請に参加。この際に十三箇条の掟書を制定。 |
1609年 |
慶長十四年 |
約七年の歳月をかけた小倉城が完成。 |
1614年 |
慶長十九年 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣。 |
1615年 |
元和元年 |
大坂夏の陣に参陣。幕府より「一国一城令」が発布されるも、中津城の存続が特例として認められる。 |
1620年 |
元和六年 |
家督を三男・忠利に譲り隠居。「三斎」と号す。中津城を隠居城とする。 |
1626年 |
寛永三年 |
藩主・忠利が検地帳の改正を行う。 |
1632年 |
寛永九年 |
二代藩主・忠利が肥後熊本五十四万石へ加増転封。忠興もこれに従い、豊前を去る。 |
第一章:波乱の幕開け ― 黒田家との年貢先納問題(慶長五年~七年)
新たな領国経営の第一歩は、多くの場合、在地勢力の懐柔や抵抗の鎮圧から始まる。しかし、細川忠興が豊前で最初に直面した最大の試練は、内部の敵ではなく、同じく東軍の功労者であり、隣国筑前の新領主となる黒田長政との間に生じた深刻な経済紛争であった。この「年貢先納問題」は、単に米の所有権を巡る争いに留まらず、徳川政権という新たな統治機構の下で、大名間の取り決めや公儀の決定がいかに遵守されるべきかを問う、象徴的な事件へと発展していく。
第一節:豊前国の前任者たち
関ヶ原の戦い以前、豊前国は二人の大名によって分割統治されていた。国の大部分である六郡(京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐)と中津城を拠点とするのは、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田孝高(如水)・長政父子であり、その石高は十八万石余に及んだ 11 。一方、国の北東部、関門海峡に面する企救郡・田川郡と小倉城を領していたのは毛利勝信で、石高は六万石であった 11 。
黒田氏の豊前統治は決して平穏なものではなかった。天正十五年(1587年)、秀吉の九州平定に伴い豊前を与えられた黒田氏は、城井谷城主の宇都宮鎮房をはじめとする在地国人衆の激しい抵抗に直面した 13 。この豊前国一揆は、長政が一度は大敗を喫するなど熾烈を極め、最終的に黒田官兵衛が鎮房を謀殺するという苦渋の決断によって鎮圧された経緯がある 13 。この歴史は、豊前という土地が、新来の支配者に対して容易には服従しない気風を持つことを示唆していた 14 。
慶長五年の戦後処理は、この豊前の支配構造を一変させる。東軍勝利に多大な貢献をした黒田長政は、筑前一国五十二万石余という大幅な加増をもって転封されることとなった 11 。一方、西軍に与した毛利勝信は改易(領地没収)処分となった 11 。これにより、豊前一国は完全に空白地となり、その全てが細川忠興の新たな所領として与えられることになったのである 12 。
第二節:発覚した「先納」― 慶長五年十一月~十二月
領地の引き継ぎは、勝者である東軍大名同士、すなわち細川家と黒田家の間で行われることになった。慶長五年十一月、忠興は入国に先立ち、重臣の松井康之と実弟の長岡興元を引継ぎの責任者として豊前へ派遣した 11 。この時点で忠興は、新領地での最初の収入源となる年貢の徴収を非常に重要視しており、十一月六日付で松井康之に宛てた書状の中でも「所務かた」「先納かた」について細かく気にかけ、三日後の書状では黒田如水とよく相談するよう指示している 11 。
中津城に入った松井らは、黒田如水と面会し、その年の年貢は新領主である細川家が徴収するという取り決めを確認した。そして、その旨を領内に周知させるため、「一、年貢・諸物成等相抱えるべき事」と記した制札を村々に掲げた 11 。これは、年貢米を村の蔵に留め置き、後日細川家の役人が収納することを意味していた。
しかし、この取り決めは反故にされた。黒田家の家臣たちは、筑前への移転に際し、制札を無視して村々から年貢米を徴収し、そのまま筑前へと持ち去ってしまったのである 11 。
同年十二月二十六日、忠興は嫡男の忠利を伴い、意気揚々と居城となるべき中津城に入った 8 。しかし、彼を待ち受けていたのは、空になった蔵と、年貢が持ち去られたという衝撃の報告であった。問題の深刻さをここで初めて完全に把握した忠興の怒りは、想像に難くない。
第三節:交渉と対立の激化 ― 慶長六年三月~
忠興にとって、この「年貢先納」は単なる裏切り行為以上の、死活問題であった。彼は、前領地である丹後国の年貢を徴収せずに九州へ赴いていたため、家臣団の給与や当面の藩政運営資金が枯渇寸前という、極めて厳しい財政状況に置かれていたのである 11 。
翌慶長六年三月から六月にかけ、忠興は上洛し、この問題を直接解決すべく行動を開始する。彼は徳川家康や、その側近である本多忠勝、榊原康政らに面会し、黒田家の契約不履行と不当性を強く訴えた 11 。忠興の訴えと、彼の東軍における功績を鑑みた家康は、「勝手次第に致すべし(よしなに取り計らえ)」との返答を与えた。これは、事実上、忠興の行動に幕府のお墨付きを与えるものであった。
公儀の許可という強力な後ろ盾を得た忠興は、黒田長政に対して速やかな返済を催促した。しかし、長政からの返答は「すぐには返済できない」という、忠興からすれば不埒極まりないものであった 11 。この不誠実な対応に、忠興の堪忍袋の緒はついに切れた。両家の関係は急速に悪化し、軍事衝突も辞さない緊張状態へと突入していく 17 。
第四節:実力行使と裁定 ― 関門海峡の緊張
激怒した忠興は、交渉による解決を諦め、実力行使という極めて危険な手段に打って出た。彼は、豊前と筑前の国境であり、海上交通の要衝である関門海峡の門司に番船を配置し、海峡を通過する筑前(黒田領)の船から穀物を差し押さえるという、海上封鎖にも等しい強硬措置を開始したのである 11 。これは、同じ徳川方の大名同士が武力衝突を起こしかねない一触即発の事態であり、天下統一を果たしたばかりの徳川政権の権威を揺るがしかねない行動であった。
しかし、この忠興の行動は、単なる激情に駆られた暴挙ではなかった。それは、家康から得た「勝手次第」という言質を最大限に活用した、高度な政治的パフォーマンスであった。忠興はこの紛争を、細川家と黒田家という二大名間の私的な金銭トラブルから、「徳川家康公の裁定に従うか否か」という公的な問題へと巧みに昇華させたのである。海上封鎖は、黒田長政に対し、「速やかに返済に応じるか、さもなくば公儀への反逆者となるか」という、究極の二者択一を迫るための最後通牒であった。
この異常事態に、両家と親交のあった片桐且元や、仲介を依頼された本多忠勝、榊原康政らが慌てて調停に乗り出した 11 。彼らの説得と、これ以上事態を悪化させれば徳川家からの心証を著しく損なうことを悟った黒田長政は、ついに屈服した。長政は返済を約束する「一札(証文)」を細川方に提出し、慶長七年(1602年)の冬までに、持ち去られた五万石相当の年貢米の返済が完了した 11 。
この一件で、両家の関係はその後長く断絶するほど悪化したが 17 、忠興は所領経営の危機を脱しただけでなく、それ以上のものを手に入れた。彼はこの紛争を通じて、豊前の在地勢力や周辺大名に対し、「細川家の背後には公儀(徳川家康)がついている」という厳然たる事実を強烈に印象付けた。これは、新領主として豊前統治を開始するにあたり、何物にも代えがたい圧倒的な権威の確立に繋がったのである。
【表2:関ヶ原戦後における豊前国の支配体制の変遷】
区分 |
領主 |
居城 |
支配領域 |
石高(表高) |
備考 |
関ヶ原以前 |
黒田孝高・長政 |
中津城 |
豊前国六郡 |
約18万1千石 |
豊臣政権下の大名 12 |
|
毛利勝信 |
小倉城 |
豊前国二郡 |
6万石 |
豊臣政権下の大名 12 |
関ヶ原以後 |
細川忠興 |
中津城 → 小倉城 |
豊前国一国、豊後国二郡 |
39万9千石 |
関ヶ原の戦功により加増転封 3 |
|
黒田長政 |
(中津城)→ 名島城 → 福岡城 |
筑前国一国 |
52万3千石 |
関ヶ原の戦功により加増転封 11 |
|
毛利勝信 |
- |
- |
- |
西軍に与し改易 11 |
第二章:国家百年の計 ― 小倉城と城下町の創造(慶長六年~)
年貢先納問題という最初の嵐を乗り越え、領主としての権威を確立した忠興は、次なる段階へと駒を進めた。それは、豊前支配の恒久的な拠点となるべき、新たな城と城下町を建設するという壮大な計画であった。黒田氏の旧居城であった中津城に当初は入ったものの、彼はその地を安住の地とはしなかった。九州の玄関口・小倉の地に、全く新しい構想のもと、国家百年の計とも言うべき一大都市を創造しようとしたのである。この決断には、彼の類稀な戦略眼と、統治者としての強い意志が明確に表れている。
第一節:中津から小倉へ ― 戦略的拠点移動の決断
慶長五年十二月に入城した中津城は、黒田官兵衛が築いた堅城であり、豊前統治の拠点として十分な機能を備えていた 3 。しかし忠興は、入国からわずか一年余りの慶長七年(1602年)には、毛利勝信の旧居城があった小倉の地に、大規模な城郭を新たに築き、藩庁を移すという重大な決断を下す 19 。
この拠点移動の背景には、小倉という土地が持つ圧倒的な地政学的優位性があった。小倉は関門海峡に面し、西国と九州を結ぶ海上交通、そして山陽道と九州各地を結ぶ陸上交通の結節点であった 22 。この地を押さえることは、九州全体の物流と人の流れを掌握することを意味した。
この選択は、単なる領内の利便性を超えた、より大局的な国家戦略に基づいていた。中津城は、隣国となった筑前黒田藩との国境に近く、その視線は必然的に黒田家との局地的な緊張関係に向けられる。しかし小倉は、関門海峡を通じて九州全体の動向を監視し、有事の際には幕府軍の上陸拠点ともなりうる場所であった。忠興は、自らの役割を単なる「豊前一国の統治者」から、徳川の天下における「九州全体の監視役・鎮護役」へと再定義しようとしていたのである。小倉への拠点移動は、その役割転換を内外に宣言する、国家戦略的な意思表示であった。来るべき新時代を見据え、彼は黒田家だけでなく、島津、鍋島といった九州の有力外様大名すべてに対し、徳川の権威を象徴する巨大なモニュメントとして、新城「小倉城」を構想したのである。
第二節:名城・小倉城の築城 ― 技術と美学の結晶
小倉城の築城は、慶長七年(1602年)に始まり、約七年の歳月をかけて行われた 19 。これは、毛利氏が築いた既存の城郭を基礎としながらも、全く新しい構想のもとに大規模な拡張と改修を行うものであった。
その最大の特徴は、天守閣の特異な構造にある。「唐造り(からづくり)」と呼ばれるこの様式は、四階と五階の間に屋根の庇がなく、五階部分が下の四階よりも大きく張り出しているのが特徴である 24 。一般的な日本の城郭が上層階ほど小さくなる「層塔型」であるのに対し、この他に類を見ないデザインは、見る者に強烈な印象を与えた。一説には南蛮文化の影響とも言われ、進取の気性に富んだ忠興の独創的な美意識が色濃く反映されている 26 。
城を支える石垣には、加工した切石を用いず、自然の石を巧みに組み上げる「野面積み(のづらづみ)」という技法が採用された 24 。足立山から運び出されたというこれらの石垣は、一見すると粗野であるが、堅固で豪壮な風情を醸し出している 22 。
城の縄張り(設計)は、本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸を配し、それらを二の丸、三の丸が囲む梯郭式平城であった 27 。城内には大天守と小天守のほか、実に百十七基もの平櫓、十六基の二重櫓が林立し、極めて堅固な防衛体制を誇っていた 27 。それは、戦国の気風が未だ色濃く残る時代にあって、あらゆる事態を想定した実戦的な城であった。
第三節:城下町のグランドデザイン ― 紫川が分かつ武と商
忠興の都市計画は、城郭の建設だけに留まらなかった。彼は城と城下町を一体化した、壮大な防衛都市を構想した。城の東を流れる紫川を天然の外堀として巧みに利用し、さらに城下町の外周を堀で囲む「総構え」の構造を採用したのである 27 。これにより、有事の際には町全体が巨大な要塞として機能するようになっていた。
さらに注目すべきは、その計画的な町割りである。忠興は紫川を境として、城のある西側を上級・中級武士が住む武家屋敷町とし、川の東側を商人や職人、そして下級武士が住む町人町として明確に区分した 31 。このゾーニングは、単に身分秩序を可視化するだけでなく、商業活動の活性化と武士の生活空間の分離という、近世城下町に求められる複合的な機能を満たすものであった。忠興によって描かれたこの都市の骨格は、その後三百年にわたる小倉藩の基礎となり、さらには近代以降の北九州市の中心市街地の原型として、現代にまでその名残を留めている 32 。
第三章:新たな秩序の鋳造 ― 法度と検地による支配の浸透
小倉城と城下町という物理的な支配拠点(ハードウェア)の建設と並行して、忠興は法制度や経済基盤といった統治の仕組み(ソフトウェア)の整備にも精力的に取り組んだ。戦国の世が終わり、新たな「天下泰平」の時代が到来する中で、領国をいかに効率的かつ安定的に治めるか。この課題に対し、彼は検地による経済基盤の掌握と、法度(掟書)による秩序の形成という二つのアプローチで臨んだ。ここには、彼の統治者としての冷徹な実務能力が遺憾なく発揮されている。
第一節:領国経済の掌握 ― 慶長六年の検地
新領主がその支配権を領内の隅々にまで及ぼす上で、最も重要かつ不可欠な作業が検地である。検地とは、単に田畑の面積と収穫量(石高)を調査するだけでなく、土地の所有関係を確定させ、領主がその土地と人民を直接支配する権利を確立するための、極めて政治的な行為である。
忠興は、豊前入国の翌年という極めて早い段階、慶長六年(1601年)に領内全域での検地の実施に踏み切った 33 。これは、豊臣秀吉が全国的に推し進めた太閤検地の原則に倣うものであり、統一された基準で土地を測量し、土地台帳である「検地帳」を作成するものであった。この検地によって、豊前国と豊後二郡の正確な石高(実高三十九万九千五百九十九石六斗)が把握され、近世的な年貢徴収システムの基礎が確立された 8 。
それ以上に重要なのは、この検地が、宇都宮氏や佐々木氏といった在地国人衆が中世以来保持してきた旧来の権益を根本から否定するものであった点である 14 。土地の価値と所有者は、もはや伝統や慣習によってではなく、藩主である細川家の絶対的な権威によって決定される。この宣言こそが、検地の持つ最大の政治的意味であり、細川氏による一円支配の正統性を領内に知らしめる強力な手段となったのである。なお、この検地帳は、その後の新田開発などを反映させるため、二代藩主・忠利の代である寛永三年(1626年)に改正が行われている 33 。
第二節:家臣と領民への規範 ― 掟書の発布
支配体制の確立には、領民だけでなく、支配の担い手である家臣団の統制も不可欠である。忠興は、法度(掟書)の制定を通じて、新たな時代の武士(藩士)として求められる規範を家臣たちに徹底させようとした。
その最初の現れが、入国直後の慶長六年(1601年)正月に、給人(家臣)や代官に対して発布した九カ条からなる「覚」である。この中で彼は、農民から不当な「礼物」(賄賂)を受け取ることを厳しく禁じている 8 。これは、新領主として民政を重視し、公正な統治を行うという姿勢を明確に示すものであり、領民の信頼を得るための重要な布石であった。
忠興の統治哲学がより具体的に示されているのが、慶長十二年(1607年)に幕府の命令で行われた駿府城普請(建設工事)に際して、動員された家臣団に対して定められた十三箇条の掟書である 34 。この掟書の内容は、驚くほど詳細かつ具体的であった。
- 他大名の家中との喧嘩、およびその見物の禁止(違反者は成敗) 34 。
- 奉公人が他家に逃亡しても、強引に取り返してはならない。逆に他家から逃亡してきた者は、普請が終わってから返却すること 34 。
- 振舞酒は厳禁。弁当を持ち寄って食べるのは良いが、酒は「小盃三杯まで」とすること 34 。
- 他家の風呂に入ることの禁止、相撲を取ることやその見物の禁止 34 。
これらの条文は、一見すると些細な行動規範の羅列に見える。しかし、その背後には忠興の深い意図が隠されている。戦国時代の大名家は、それぞれが独立した軍事集団であり、家臣たちの気風も荒々しかった。些細な揉め事が、家中の面子をかけた大規模な紛争に発展する危険性は常に存在した。忠興は、自家の家臣が起こしたトラブルが、主君である徳川家康に迷惑をかけることを何よりも恐れたのである。
この掟書は、単なる服務規程を超えて、家臣一人ひとりに対し、「我々はもはや独立した戦闘集団ではない。徳川公儀という大きな秩序の下にある一藩の構成員なのだ」という、新たな時代の自覚を徹底させるための、精神的な「鋳型」として機能した。忠興の統治が、自らの領国(内)だけでなく、徳川の天下(外)という公的な秩序の中でいかに振る舞うべきかという、広範な視野を持っていたことをこの掟書は示している。それは、戦国の気風を残す武士たちを、近世的な「藩士」へと意識改革させるための、一種の教育プログラムでもあった。
第三節:軍事体制の再編
ソフト面での支配浸透と同時に、軍事的な支配体制の強化も着実に進められた。忠興は、本拠である小倉城に加え、領内の要所に重臣を配置することで、領国全体に軍事的な監視網を張り巡らせた 17 。
具体的には、関門海峡の入り口を押さえる企救郡の門司城、筑前との国境に近い田川郡の香春城や岩石城など、七カ所の支城に信頼の厚い家臣を城代として配置した 17 。これにより、在地勢力が反乱を起こす隙を与えず、同時に隣国である筑前黒田藩の動向を常に監視する体制を整えた。この堅固な軍事ネットワークは、後に忠興が隠居して中津城に移った後も、藩主・忠利の小倉藩統治を支える屋台骨として機能し続けたのである 9 。
第四章:豊饒なる領国へ ― 経済と文化の振興
支配体制の基盤が固まると、忠興の関心は、領国をいかにして豊かにするかという、経済的・文化的な側面に向けられていった。彼は戦国武将としての峻烈な顔を持つ一方で、千利休の高弟(利休七哲の一人)であり、「三斎」と号した当代随一の文化人でもあった。彼のこの特異な個性は、小倉藩の統治に色濃く反映され、武力による支配の上に、経済と文化という新たな価値を重ね合わせることで、その統治をより豊かで強固なものへと昇華させていった。
第一節:海を越える富 ― 朱印船貿易への参画
九州の玄関口という小倉の地理的優位性を、忠興が見過ごすはずはなかった。彼は徳川家康から朱印状の交付を受け、幕府公認の海外貿易である朱印船貿易に積極的に参画した 22 。
細川藩が直接、藩の船を東南アジアに派遣したのは一度きりであったが、それ以外にも小倉の商人である船本弥七郎や、在留中国人の船に藩の資金を投資する「委託貿易」の形で、継続的に交易に関与した 38 。主な貿易相手国は安南(ベトナム)などで、日本からは銀、銅、漆器、そして戦国時代が終わり国内で余剰となっていた刀や鉄砲といった武器が輸出された 40 。見返りとして、当時国内で非常に高価であった生糸や絹織物、鹿皮、砂糖などが輸入され、藩に莫大な利益をもたらした 40 。この貿易により、小倉の港は国際貿易港として大いに賑わい、藩の財政を潤す重要な柱となった。
第二節:藩の美意識 ― 茶の湯と産業の育成
忠興にとって、茶の湯は単なる趣味や教養の域を超え、政治や経済とも密接に結びついた、統治における重要なツールであった 6 。彼は自らの茶の湯の精神を、領国の産業育成へと注ぎ込んだ。その最も代表的な例が、現在まで続く伝統工芸「上野焼(あがのやき)」の創始である。
忠興は、朝鮮出兵の際に日本へ渡ってきた朝鮮人陶工・尊楷(そんかい)を招き、彼に「上野喜蔵」という日本名を与えて手厚く保護した。そして、小倉城下の菜園場に窯を築かせ、茶の湯に用いるための茶器を焼かせたのである 42 。この菜園場窯が、後の上野焼の原点となった。忠興の深い美意識と指導のもと、上野焼は素朴でありながら洗練された「わび・さび」の風情を持つ茶陶として高い評価を得て、細川家の御用窯として発展していく。
また、小倉の地で古くから織られていた木綿の織物にも着目し、その振興に力を入れた。これが「小倉織」である。縦糸を密に織り込むことで生まれる、丈夫でしなやかな生地と、立体的な縞模様が特徴の小倉織は、武士の袴や帯として全国的な名声を得た 43 。徳川家康が鷹狩りの際に小倉織の羽織を愛用したという逸話も残っており、忠興自身も他の大名への格好の贈答品として活用した 43 。
忠興にとって、文化振興は単なる慰めや装飾ではなかった。茶の湯は、他の大名や幕閣との重要な外交・社交の場となり、上野焼や小倉織は、藩の財政を潤す特産品となると同時に、小倉藩の文化的格の高さを象徴する「ブランド」として、細川家の威光を高める役割を果たした。武力というハードパワーで固めた支配基盤の上に、文化というソフトパワーを重ねることで、彼の統治はより深みと持続性を増していったのである。
第三節:文化人との交流
忠興が統治した時代の小倉は、彼の名声を慕って多くの文化人や武芸者が集う、活気あふれる地でもあった。その中でも特筆すべきは、剣豪・宮本武蔵との関わりである。
宮本武蔵と佐々木小次郎の有名な決闘が、小倉藩領であった舟島(巌流島)で行われたのは、細川氏の治世下での出来事であった 44 。また、武蔵の養子である宮本伊織は、後に細川氏の後任として小倉藩主となる小笠原家の筆頭家老にまで出世するが、その縁は細川時代に遡ると考えられている 44 。忠興自身が武蔵をどのように評価していたかを示す直接的な史料は少ないが、当代随一の剣豪がその領内で活動していたという事実は、当時の小倉が様々な才能を引きつける磁場のような場所であったことを物語っている。
終章:豊前三十二年の礎
寛永九年(1632年)、細川家は肥後熊本五十四万石へと加増転封となり、約三十二年間にわたる豊前統治に終止符が打たれた。しかし、忠興がこの地に築き上げた統治のシステムと、彼が蒔いた文化の種は、その後も深く根付き、この地域の歴史を形作っていくことになる。彼の豊前統治は、単なる一過性の支配ではなく、未来へと続く確かな礎を築く事業であった。
第一節:肥後への転封と隠居
寛永九年(1632年)、二代藩主となっていた細川忠利は、加藤忠広の改易に伴い、肥後熊本五十四万石の新たな領主として白羽の矢を立てられた 6 。これは、九州における外様大名の雄・加藤家に代わり、徳川家への忠誠心が厚い細川家を配置するという、幕府の九州支配戦略の一環であった。
この転封に伴い、家督を譲り隠居していた忠興も豊前を去り、肥後の八代城を隠居所として新たな生活を始めることになった 6 。こうして、関ヶ原の戦い直後から始まった細川家の豊前時代は、一つの区切りを迎えた。
第二節:後任・小笠原氏への円滑な引き継ぎ
細川家の後任として豊前小倉に入国したのは、播磨明石から十五万石で移ってきた譜代大名の小笠原忠真であった 22 。九州の玄関口という要衝に、外様大名である細川家に代わり、徳川家への忠誠が厚い譜代大名を配置することは、幕藩体制が安定期に入る中での自然な流れであった 23 。
この際の領地引き継ぎは、三十二年前に細川家と黒田家の間で見られたような険悪な雰囲気とは全く無縁の、極めて円満なものであった。その背景には、二代藩主・忠利の妹が小笠原忠真の正室であったという姻戚関係があったことに加え 23 、忠利が城を明け渡す際に、城内の薪に至るまで残していったという逸話が残されている 45 。これは、かつて年貢米を根こそぎ持ち去られ、苦境に陥った父・忠興の経験を繰り返させまいとする忠利の配慮であったのかもしれない。この円滑な権力移譲は、忠興が築き上げた豊前の統治基盤が安定し、後任者がスムーズに藩政を開始できる状態にあったことを何よりも雄弁に物語っている。
第三節:細川忠興が残した遺産
細川忠興が豊前の地に残した遺産は、計り知れない。彼が自らデザインした小倉城と、紫川を軸に広がる城下町の骨格は、後任の小笠原氏、そして明治維新後の近代都市へと受け継がれ、現在の北九州市中心部の景観の基礎となっている 32 。
彼が茶の湯への情熱から生み出した上野焼や、武士の気概を映した小倉織といった産業と文化は、幾多の変遷を経ながらも、この地域の誇るべき伝統として今なお息づいている 42 。
結論として、細川忠興の豊前統治は、関ヶ原の戦いという時代の大きな転換点において、一人の傑出した武将が、その戦略眼、実務能力、そして文化的素養の全てを動員して、新たな時代に即した近世的な領国「小倉藩」をゼロから創造した画期的な事業であったと言える。彼の豊前における三十二年間は、単なる武力による「支配」ではなく、法と経済と文化を駆使して未来への礎を築いた、卓越した「経営」であった。その功績は、今日の北九州地域の歴史と文化の中に、今もなお鮮やかに刻み込まれている。
引用文献
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- 毛利勝信・勝永と関ヶ原の戦い - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/12/story6-sekigahara/
- 細川忠興 陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/hosokawatadaoki.html
- 第31話 細川忠興から妻・ガラシャへの「思い」とは - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2021/01/story31/
- 細川忠興(ほそかわ ただおき) 拙者の履歴書 Vol.69~戦と茶と忠の道を生きる - note https://note.com/digitaljokers/n/ne11f57ebaca9
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- となり、子の勝永とともに土佐に流された。 豊前六郡を領有し、 中津城にいた黒田長政は東軍方に属して活 http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/5-3-1-1.pdf
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- 細川忠興~父・幽斎譲りの文武両道も、一筋縄ではいかぬ人物だった!? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4513
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