織田信雄改易(1589)
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天正十八年の激震 ― 織田信雄改易の真相と、天下統一最終章の力学
序章:天下人の足元で揺らぐ織田家の名跡
天正十八年(1590年)、日本史における一つの時代が、その頂点を迎えていた。関白・豊臣秀吉が率いる二十万を超える大軍の前に、関東の雄・小田原北条氏は屈服し、ここに秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た。その栄光の絶頂において、かつて秀吉が仕えた主君・織田信長。その信長の次男にして、織田家の嫡流を継ぐとされた一人の大名が、歴史の表舞台から突如として姿を消すことになる。その人物こそ、尾張・伊勢を中心に約百万石の広大な所領を誇った清洲城主、織田信雄である 1 。
信雄の改易、すなわち所領の全面没収と大名身分の剥奪というこの事変は、単に一個人の失脚劇に留まるものではない。それは、豊臣秀吉が、旧主・織田信長の子という「血の権威」を、自らが築き上げた「実力の権威」の下に完全に屈服させた、天下統一事業の総仕上げとも言うべき象徴的な出来事であった。秀吉の権力は、信長の後継者という立場から出発したものであり、小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康が信雄を「織田家の正統な後継者」として担ぎ上げたことからも 3 、信雄の血筋が依然として無視できない政治的価値を有していたことは明らかである。
しかし、この改易事変は、その「血の権威」の最後の残滓を公衆の面前で消し去り、豊臣政権の正統性が秀吉自身の力量にのみ由来することを天下に宣言する、壮大な政治的儀式としての意味合いを帯びていた。本報告書は、天正十八年に起きたこの「織田信雄改易」という事変について、その背景にある秀吉と信雄の複雑な関係性の変遷から、事変が進行していく様相、そしてその歴史的意義に至るまでを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一章:改易に至るまでの道程 ― 織田信雄と豊臣秀吉、その複雑なる関係性の変遷
織田信雄の改易は、天正十八年の夏に突如として発生した事件ではない。その根源は、本能寺の変以降、約八年間にわたって積み重ねられた、信雄と秀吉との間の歪な関係性の中に深く横たわっている。
第一節:本能寺の変後の権力闘争と信雄の立場
天正十年(1582年)六月、父・信長の横死という未曾有の事態に直面した信雄は、織田家の家督を巡り、弟の信孝と激しく対立した 4 。この権力闘争の過程で、信雄は明智光秀を討ち、織田家中で急速に発言力を増していた羽柴秀吉と手を結ぶ。その結果、清洲会議において、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)の後見人という立場を得て、尾張・伊賀・南伊勢にまたがる百万石の広大な領地を相続することに成功した 2 。さらに翌年には、秀吉の軍事力を背景に、対立していた弟・信孝を岐阜城に包囲し、自害へと追い込んでいる 4 。
この時点での信雄は、秀吉を巧みに利用し、織田家内での地位を固めたかに見えた。しかし、実態はその逆であった。秀吉こそが、信雄を「信長の遺児」という神輿として担ぐことで、自らの権力基盤を盤石なものにしていたのである。信雄は、自らが主導権を握っていると錯覚する一方で、実際には秀吉の天下取りの駒として、その掌の上で動かされていたに過ぎなかった 6 。
第二節:小牧・長久手の戦い ― 同盟者から対立者へ
やがて、織田家を事実上掌握し、天下人への道を突き進む秀吉に対し、信雄は強い危機感を抱き始める。天正十二年(1584年)、信雄は父・信長の盟友であった徳川家康と結び、ついに「打倒秀吉」の兵を挙げた。これが世に言う「小牧・長久手の戦い」である 1 。
この挙兵の直接的な引き金となったのは、信雄自身の短慮で衝動的な行動であった。彼は、秀吉と内通しているとの疑いから、重臣である津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名を断罪・誅殺してしまう 4 。この暴挙は秀吉に絶好の口実を与え、両者の対立はもはや避けられないものとなった。信雄の行動原理は、父・信長のような天下への展望ではなく、常に「織田家の家督」と「父祖伝来の地・尾張」という、極めて内向的で限定的な視野に支配されていた。この自己の権益保持への固執が、大局的な判断を曇らせ、秀吉に付け入る隙を与え続けることになる。
第三節:単独講和と力関係の逆転 ― 主従の軛(くびき)
戦いは、局地的な戦闘では家康が軍事的優位に立つ場面もあったものの、両軍合わせて十万を超える兵力が睨み合う膠着状態に陥った 11 。この状況を打破するどころか、事態を決定的に悪化させたのもまた、信雄であった。彼は、自らの領国である伊勢が秀吉軍の攻勢に晒され、困窮すると、同盟者である家康に一切の相談なく、独断で秀吉との和睦交渉を開始したのである 3 。
天正十二年十一月、信雄は伊賀と南伊勢の割譲を条件に、秀吉と単独で講和を結んだ 1 。この信雄の裏切りとも言える行為により、彼を支援するという大義名分を失った家康は、兵を引かざるを得なくなる。軍事的には優勢を保ちながらも、政治的には秀吉が完全な勝利を収めた瞬間であった。
この単独講和こそ、信雄と秀吉の立場を完全に入れ替えた決定的な転換点であった。信雄は、織田家の当主として秀吉を「臣下」として見ていた立場から、秀吉の許しを得て領地を安堵される「臣従大名」へと転落したのである 8 。秀吉はその後、関白、太政大臣へと昇りつめ、官位においても信雄を遥かに凌駕していく 10 。ここに、両者の主従関係は、名実ともに逆転したのである。
第二章:天正十八年、小田原 ― 運命の歯車が動き出す
小牧・長久手の戦いを経て、豊臣政権下の一大名として組み込まれた織田信雄。彼の運命は、秀吉が推し進める天下統一事業の最終章、小田原征伐とその戦後処理の中で、大きく揺さぶられることとなる。
第一節:小田原征伐における信雄の役割と戦功
天正十八年(1590年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏政・氏直親子を討伐する大軍を編成した。織田信雄もまた、豊臣配下の大名としてこの「小田原征伐」に従軍する 4 。彼は伊豆・韮山城の攻略部隊の指揮を任されたが、城をなかなか落とすことができず、途中で指揮権を交代させられるという不手際を見せている 4 。その後は小田原城の包囲軍に加わったが、軍事指揮官としての彼の評価が決して高くなかったことを窺わせる。それでも、豊臣政権の一員として一大名の責務を果たしたこの事実は、彼がもはや秀吉の構築した秩序から逃れられない存在であったことを示している。
第二節:戦後処理と天下人の大構想 ― 徳川家康の関東移封
同年七月、北条氏が降伏し、小田原城は開城。ここに戦国時代は終焉を迎え、豊臣秀吉による天下統一が完成した。戦後、秀吉は大規模な論功行賞と、それに伴う全国的な国替え(領地替え)を断行する。
この国替え政策の最大の眼目であり、最も衝撃的であったのが、東海地方に駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヵ国、約二百万石の広大な領地を有していた徳川家康を、旧北条領である関八州へ移封させるというものであった 16 。これは、家康の強大な力を削ぐと同時に、豊臣政権の東の守りとして、伊達政宗ら東北の諸大名への睨みを効かせるという、秀吉の深謀遠慮に基づくものであった。
秀吉の国替え政策は、単なる論功行賞や大名の配置転換ではなかった。それは、各大名とその家臣団を、先祖代々受け継いできた土地との伝統的な結びつきから物理的に引き剥がし、秀吉個人への忠誠心のみに依存する、より中央集権的な近世的支配体制を構築するための、国家的プロジェクトであった。家康という最大の実力者ですら、この原則の例外ではないことを天下に示す必要があった。家康がこの前代未聞の命令を受け入れたことで、他のいかなる大名も秀吉の意向に逆らうことは不可能となったのである。そして、この家康の関東移封こそが、織田信雄の運命を決定づける直接の引き金となった。
第三章:リアルタイム・ドキュメント:織田信雄改易事変
徳川家康の関東移封という大事業が決定される中、空席となった家康の旧領五ヵ国を誰に与えるかという問題が浮上する。ここに、秀吉の周到な政治劇の幕が上がった。その主役に仕立て上げられたのが、織田信雄であった。
【表1:織田信雄改易事変に至る主要年表】
年代(西暦) |
主要な出来事 |
信雄の立場・行動 |
天正10年(1582) |
本能寺の変、清洲会議 |
弟・信孝と対立。秀吉と結び、三法師の後見人となる。 |
天正11年(1583) |
賤ヶ岳の戦い、信孝の自害 |
秀吉方として参戦。秀吉の命で信孝を自害に追い込む。 |
天正12年(1584) |
小牧・長久手の戦い |
家康と結び秀吉と敵対。戦後、家康に無断で秀吉と単独講和し、臣従する。 |
天正18年(1590) |
小田原征伐 |
豊臣軍の一員として従軍。 |
天正18年7月 |
織田信雄改易 |
小田原征伐後の国替え命令(家康旧領への移封)を拒否し、全所領を没収される。 |
天正18年- |
流罪・出家 |
下野国烏山へ流罪。出家して「常真」と号す。 |
文禄元年(1592) |
赦免 |
家康の執り成しにより秀吉から赦免され、御伽衆となる。 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い |
東西両軍の誘いを傍観。戦後、西軍に付いた子の所領が没収される。 |
慶長19年(1614) |
大坂の陣 |
豊臣方の総大将就任を拒否し大坂城を退去。家康を頼る。 |
元和元年(1615) |
大名復帰 |
大坂の陣後の論功行賞で、大和宇陀松山藩5万石の大名として復活。 |
寛永7年(1630) |
逝去 |
73歳で生涯を閉じる。 |
第一節:移封命令の内示 ― 水面下の交渉と葛藤
小田原城の陥落後、秀吉は信雄に対し、家康の旧領である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヵ国への移封を内示した 14 。これは石高の上では、信雄の旧領百万石を上回る大幅な加増であり、表向きは破格の厚遇であった。しかし、それは同時に、父・信長以来の織田弾正忠家の本拠地であり、信雄自身のアイデンティティの根幹をなす尾張・伊勢の地を完全に手放すことを意味していた 17 。
秀吉は、家康の時と同様、この命令を公式に下す前に、事前に情報をリークし、信雄の内諾を得ようと水面下で働きかけていた形跡がある 17 。これは、信雄とその家臣団の反応を探るための観測気球であった。案の定、この内示は信雄の陣営に激しい動揺をもたらした。信雄自身、大幅な加増という魅力と、父祖伝来の地を失うことへの抵抗感との間で激しく葛藤したであろうことは想像に難くない。さらに、長年尾張・伊勢の地に根を張ってきた家臣団からは、移封に反対する強い声が上がったと推察される 13 。家康が家臣たちの反対を抑え込んで移封を受け入れたのとは対照的に、信雄にはその統率力が欠けていた。
第二節:運命の決断 ― 尾張への固執と命令拒否
数日間の熟慮の末、あるいは家臣団の反発を抑えきれなかった結果、織田信雄は秀吉の移封命令を正式に拒否するという、致命的な決断を下す 4 。彼の主張は、「父祖より受け継いだ所領は、いかに広大な土地を与えられようとも手放すことはできない」という、ただ一点に尽きた 6 。
これは、豊臣政権という新たな秩序の論理よりも、旧来の「家」と「土地」の不可分な結びつきという価値観を優先した、時代の流れを全く読めない判断であった。秀吉が全国規模で推し進める大名統制策の本質を、彼は最後まで理解することができなかったのである。秀吉は、信雄がこの心理的弱点に固執し、命令を拒否することまで計算に入れていた可能性が高い。
第三節:秀吉の激怒と改易処分の下知(天正18年7月13日)
信雄からの拒絶の返答は、秀吉を激怒させた 17 。秀吉にとって、これは単なる命令不服従ではなく、自らが築き上げた天下の秩序に対する公然たる挑戦と映った。
天正十八年(1590年)七月十三日、小田原城に滞在していた秀吉は、一切の躊躇なく、織田信雄の全所領没収、すなわち「改易」を断行する 19 。(なお、改易の日付については、七月十四日から八月四日の間とする異説も存在する 20 )。交渉の余地も、弁明の機会も与えられない、迅速かつ苛烈極まる処分であった。信雄が「反逆」の意思を明確にした瞬間、秀吉はそれを最大限に利用し、自らの権威を知らしめるための政治劇のクライマックスを演出したのである。
第四節:衝撃と波紋 ― フロイスが記した「言いようもない恐怖」
織田信長の次男であり、つい先刻まで百万石を領有していた大大名・織田信雄の、あまりにも唐突な改易。この報は、小田原に参集していた全国の諸大名に、瞬く間に伝わった。当時日本に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、この事件が「日本中に言いようもない恐怖と驚愕を与えた」と記している 17 。
それは、秀吉の命令に背けば、いかなる由緒ある家柄も、過去の実績も、広大な所領も、一夜にして無に帰すという、強烈なメッセージであった。まさに「一罰百戒」である 17 。諸大名は「明日は我が身」と震え上がり、関白豊臣秀吉への絶対服従を、その心に改めて深く刻み込むこととなった。秀吉は、信雄一人を生贄とすることで、全国の大名を完全に掌握する、完璧な「見せしめ」を成功させたのである。
第四章:改易後の織田信雄 ― 流転と再生の半生
天下人の怒りを買い、全てを失った織田信雄の人生は、しかしここで終わらなかった。彼は武将としての誇りを捨て、ただひたすらに「織田信長の息子」という血筋の価値を生存の資本とすることで、激動の時代を巧みに生き抜いていく。
第一節:流罪と出家 ― 常真としての雌伏の日々
所領を全て没収された信雄は、下野国烏山(一説には那須とも)へと流罪の身となった 4 。そこで彼は剃髪して仏門に入り、「常真(じょうしん)」と号した 14 。大名・織田信雄の死と、隠遁者・常真の誕生である。その後、身柄は佐竹氏預かりとなり、出羽国秋田の八郎潟湖畔、さらには伊予国へと、流転の日々を送ることになる 14 。かつての百万石の大大名とは思えぬ、雌伏の時であった。
第二節:家康の執り成しと御伽衆としての復帰
改易から二年後の文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)のために肥前名護屋に在陣していた折、信雄の運命は再び動き出す。旧知の間柄である徳川家康が、信雄のために強く秀吉に働きかけ、ついに赦免を取り付けたのである 14 。
しかし、許された信雄に与えられたのは、大名の地位ではなかった。彼は秀吉の側近である「御伽衆(おとぎしゅう)」の一人として召し抱えられることになった 18 。御伽衆とは、主君の側近くに侍り、雑談の相手を務めたり、自らの経験談や書物の講釈をしたりする名誉職である 23 。秀吉は、かつての主家の嫡流を、自らの話し相手という形で手元に置くことで、旧主家を完全に手中に収めたことを内外に誇示する狙いがあった。信雄は屈辱を飲み込み、この役目を受け入れた。
第三節:関ヶ原、大坂の陣 ― 時代の激流を乗りこなす生存戦略
慶長三年(1598年)に秀吉がこの世を去ると、天下は再び動乱の時代へと突入する。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、信雄の立場は極めて微妙であった。石田三成率いる西軍からは、織田家の権威を担ぐべく、総大将としての擁立を打診されたという 26 。しかし、彼はこの誘いに乗らず、かといって家康の東軍に積極的に味方することもなく、曖昧な態度に終始した 14 。結果、西軍に与した息子・秀雄の所領が戦後に没収され、信雄は再び無禄の身となってしまう 1 。
さらに十数年後、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の陣(1614年〜15年)が勃発すると、大坂城に入城していた信雄は、再び豊臣方の総大将として城内の浪人衆から期待を寄せられた 7 。武将としての名誉を回復する最後の機会であったかもしれない。しかし、彼は豊臣方の勝利はあり得ないと冷静に判断し、総大将就任を拒否すると、戦いが始まる前に大坂城を退去し、家康のもとへと身を寄せた 4 。彼は、華々しく散る名誉よりも、生き残るための実利を選択したのである。
第四節:大名としての復活と宇陀松山藩の成立
この大坂の陣での信雄の行動は、徳川家康から高く評価された。豊臣方の内情を知る重要人物が味方に付いたことの価値は計り知れない。そして大坂の陣が終結した元和元年(1615年)、信雄は家康から大和国宇陀郡および上野国甘楽郡などに合わせて五万石の所領を与えられ、宇陀松山藩主として、奇跡的とも言える大名への復活を遂げたのである 1 。
信長の息子であるという出自から、五万石ながらも国主格の待遇を受け、その家系は江戸時代を通じて存続した 30 。信長の直系男子の中で、唯一大名家としてその血脈を明治維新まで繋いだという事実は、彼の選択が「生存戦略」としては、この上なく正しかったことを証明している。
第五章:旧織田信雄領の行方と豊臣政権の統制強化
織田信雄の改易は、豊臣秀吉にとって、自らの政権基盤をより強固なものにするための、大規模な領土再編の好機となった。信雄が失った広大な旧領は、秀吉の戦略的な意図に基づき、豊臣一門および譜代の信頼できる大名たちに再分配された。
【表2:旧織田信雄領の再分配】
旧領地 |
改易前の領主 |
石高(推定) |
改易後の主要な新領主 |
備考 |
尾張国 |
織田信雄 |
約57万石 |
豊臣秀次 |
秀吉の後継者。日本の中心地を豊臣一門で固める。 |
伊勢国 |
織田信雄 |
約45万石 |
豊臣秀次(北伊勢) |
尾張と一体で支配。 |
|
|
|
蒲生氏郷(南伊勢) |
勇猛な武将を配置し、紀伊方面への睨みを効かせる。 |
伊賀国 |
織田信雄 |
- |
筒井定次 |
小牧・長久手の戦いの和睦で秀吉に割譲済みだが、影響下にあった。 |
第一節:尾張・伊勢の再分配 ― 豊臣秀次と蒲生氏郷
信雄の旧領の中でも、最も重要であった尾張国と北伊勢は、秀吉の甥であり、当時すでに後継者として関白の地位を継ぐことが内定していた豊臣秀次に与えられた 32 。秀次は信雄の居城であった清洲城に入り、百万石級の大大名となる。これにより、日本の経済・交通の中心地とも言える濃尾平野は、豊臣一門の手によって完全に掌握されることとなった。また、南伊勢十二郡は、秀吉がその武勇を高く評価していた蒲生氏郷に与えられ、松ヶ島城に入った 35 。
第二節:関東の家康を包囲・監視する戦略
この新たな大名配置は、関東へ移った徳川家康を牽制・包囲するという、秀吉の明確な戦略的意図を反映していた。東海道の要衝である尾張・伊勢に後継者の秀次を、そしてその周辺に蒲生氏郷をはじめとする豊臣系の大名を配置することで、家康が西へ軍を進めることを物理的・心理的に困難にする狙いがあった 17 。信雄の改易は、結果として、この対家康包囲網を完成させるための、極めて重要な布石となったのである。
第三節:家臣団のその後 ― 離散と再仕官
主君を失った旧織田信雄家臣団の多くは、離散の憂き目に遭った。しかし、有能な人材は秀吉によって巧みに吸収されている。例えば、信雄の家老格であった土方雄久は、信雄改易後に秀吉の直臣として召し抱えられた 36 。また、同じく重臣であった滝川雄利に至っては、信雄が改易されたにもかかわらず、自身の所領は安堵され、そのまま秀吉の直臣となっている 37 。これは、秀吉の懲罰の対象が、あくまで信雄個人とその「織田家」という権威に向けられたものであり、政権にとって有用な人材は積極的に登用するという、彼の現実的な統治術を示している。
終章:織田信雄改易が戦国史に刻んだもの
天正十八年(1590年)の織田信雄改易は、戦国時代の終焉と、新たな支配秩序の確立を告げる画期的な事件であった。その歴史的意義を、多角的に考察することで本報告書の締め括りとしたい。
第一節:信雄個人の資質の問題か、秀吉の周到な政治的計算か
本事変の直接的な原因が、信雄の軽率さ、時勢を読む能力の欠如、そして父祖伝来の地への過度な固執にあったことは疑いようがない 4 。彼は最後まで、秀吉が構築しようとしていた新しい天下の形を理解できず、旧来の価値観に縛られ続けた。
しかし、それ以上に看過できないのは、秀吉が信雄のその性格的欠陥を完全に見抜き、自らの絶対的権力を確立するために、周到に仕掛けた政治的罠であったという側面である 20 。秀吉は、信雄が拒否せざるを得ないような移封命令を突きつけ、彼がそれに反発することを見越した上で、それを口実に最大級の罰を与えるという筋書きを描いていた。信雄は、秀吉という当代随一の演出家が用意した舞台の上で、悲劇の主役を演じさせられたのである。
第二節:豊臣政権における大名統制の完成と、織田家権威の終焉
この一件を通じて、豊臣秀吉は、出自や家格、過去の功績がいかなるものであろうとも、関白である自身への絶対服従こそが、大名が存続するための唯一の条件であることを、全国の諸大名に痛感させた。これにより、豊臣政権の大名統制は完成の域に達したと言える。
同時に、織田信長から続いてきた「織田家」という存在が持っていた、特別な政治的権威は、この瞬間に完全に終焉を迎えた。信長の息子であるというだけでは、もはや何の保証にもならない。天下は、血筋ではなく、実力によって支配される新しい時代へと、完全に移行したのである。
第三節:「愚将」か「生存者」か ― 織田信雄の再評価
織田信雄は、父・信長に無断で伊賀に侵攻して大敗したり、同盟者の家康を裏切って単独講和を結んだりといった数々の失態から、伝統的に「愚将」として評価されることが多い。しかし、彼の生涯を俯瞰した時、別の側面も見えてくる。
彼は、戦国の動乱期から江戸初期の泰平の世までを生き抜き、寛永七年(1630年)に七十三歳で大往生を遂げた 1 。改易、流罪という最大の危機を乗り越え、最終的には大名として家名を再興し、信長の血筋を後世に伝えた 7 。その処世術は、決して「愚か」の一言で片付けられるものではない。彼は、武将としての名誉や誇りがもはや生存の足枷にしかならないと悟った時、それを潔く捨て去り、「信長の血」という最後の資産を最大限に活用して生き残る道を選んだ。その意味において、織田信雄は、戦国乱世における「究極の生存者(サバイバー)」として、再評価されるべき人物なのかもしれない。
引用文献
- 織田信雄(オダノブカツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%9B%84-17784
- 最後はどうなった?長いものに巻かれ続けた織田信雄の人生をご紹介【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/205550/2
- 徳川家康の「小牧・長久手の戦い」|織田信雄・家康の連合軍と秀吉が対決した合戦を解説【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1130498
- 織田信雄は何をした人?「北畠家を乗っ取ったけど織田家を乗っ取られてしまった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nobukatsu-oda
- 【入門】5分でわかる豊臣秀吉 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/560
- 天下人の息子『織田信雄』秀吉に利用され捨てられたが、戦国乱世を生き抜いた異能生存体 https://www.youtube.com/watch?v=Ttri2XGPDPw
- 天下人の息子『織田信雄』戦国乱世を生き抜いた異能生存体。家系図も紹介! https://sengokubanashi.net/person/odanobukatsu/
- 織田信雄と徳川家康の明暗を分けた「市場価値」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22632/2
- 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
- 【どうする家康】織田信雄はバカ息子ではない!創業家出身「副会長」の巧みな処世術とは? | ニュース3面鏡 | ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/328175?page=3
- 小牧・長久手の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/komakijo/
- 「小牧長久手の戦い」家康が秀吉と対立深めた真意 信長の次男と秀吉の関係もどんどん悪化する https://toyokeizai.net/articles/-/690090?display=b
- 大坂の陣の際、豊臣方は織田信雄を総大将に迎え入れようとしていた! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/628
- 織田信雄(おだのぶかつ)【小牧・長久手の戦い】 | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/oda_nobukatsu/
- 三介殿(信雄)の聞くと、凡庸、優柔不断、大う喫したのである。これを知ったの旧領への転封を命じられた。 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2020/07/%E6%A7%99%E8%89%AF%E7%94%9F.pdf
- 織田信雄と徳川家康の明暗を分けた「市場価値」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22632
- だから織田と豊臣はあっさり潰れた…徳川家康が「戦国最後の天下人」になれた本当の理由 ピンチをチャンスに変える名将の処世術 (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/64535?page=4
- 信長の次男・織田信雄が辿った生涯|長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1130528/2
- 歴史の目的をめぐって 織田信雄 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-05-oda-nobukatsu.html
- 「織田信雄は(外交官として)優秀で、巨大な勢力を築き始めたので秀吉に改易された」との説(センゴク権兵衛) - INVISIBLE Dojo. ーQUIET & COLORFUL PLACE- https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2020/05/28/093617
- 織田信雄と側室・久保三右衛門娘について - note https://note.com/kind_quokka5070/n/n01011283a4b5
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- 「むしろ凡庸だから生き残れた」秀吉、家康の天下になっても織田家が幕末まで続いたワケ 織田信長の次男・信雄の意外な生涯 (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/52823?page=4
- 「織田信雄」ちょっと残念な信長次男坊?でも、終わり良ければすべて良し! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/491
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- NHK大河ドラマ どうする家康 特別編・解説 織田信雄~ポンコツでも愛される武将の秘訣とは~ 戦国最大のポンコツ武将と言われる織田信雄 その生涯はどの様なものだったのでしょう・・ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vIV0JTqCZ9U
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- 【第十一代・犬山城主】豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は尾張を、そして父・三好吉房(みよしよしふさ)は犬山を治めることに! | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/inuyama-jyo/miyoshi-yoshifusa-11th-owner/
- 豊臣秀次(とよとみひでつぐ) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_to/entry/035495/
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- 【 織田信雄が築き、蒲生氏郷も入った「松ヶ島城」(お城編)】 - 松阪市 https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/31536.pdf
- 谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 土方雄久 http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/hijikataKatsuhisa.htm
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