最終更新日 2025-09-13

聚楽第造営(1587)

天正十五年、豊臣秀吉は京都内野に聚楽第を造営。政庁、居館、城郭を兼ね、天下普請で築く。後陽成天皇行幸で大名統制を強化したが、秀次事件で破却され、栄華は短命に終わった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

聚楽第造営の総合的研究 ― 天正十五年、天下人の首都創生クロニクル ―

序章:聚楽第とは何か ― 「第」と「城」の狭間で

豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第は、安土桃山時代を象徴する建築物でありながら、その実像は多岐にわたる複雑な性格を帯びている。本報告書で論じる聚楽第は、単なる一つの機能に収斂される施設ではない。それは、関白としての政務を執り行う「政庁」、秀吉とその家族が暮らす私的な「居館」、そして堅固な石垣と広大な堀を有する軍事的な「城郭」という、少なくとも三つの異なる顔を持つ複合体であった 1 。この多層的な性格こそが、聚楽第を理解する上での第一の鍵となる。

その名称自体が、秀吉の高度な政治的意志を内包している。なぜ、実態が最新鋭の軍事要塞であるにもかかわらず、武力を象徴する「城(しろ)」ではなく、公家の邸宅を意味する「第(てい)」と命名されたのか 1 。この問いの答えに、秀吉の統治理念の核心が隠されている。武家の頂点に立ちながら、公家の最高位である関白の地位をも手中に収めた秀吉は、武力(武)と伝統的権威(文)を統合し、さらには超越する新たな統治者像を志向していた。織田信長が京都の外に安土城を築き、既存の権威から物理的・精神的な距離を置いたのに対し、秀吉は関白として京都の中心部、しかもかつて天皇の政庁が存在した聖地に拠点を構えた。これは、信長とは明確に異なる、朝廷権威との一体化戦略を示すものであった。しかし、全国の大名を軍事的に威圧する必要性は依然として存在した。それゆえ、実態は最新鋭の「城」でありながら、呼称は伝統的な「第」とするハイブリッドな存在を創造したのである。この命名は、戦国の世を終焉させるために、「武」の象徴たる「城」を、「文」の象徴たる「第」というオブラートに包んで提示するという、諸大名と朝廷の双方に対する秀吉の二元的な支配構造を完璧に体現する政治的宣言であったと言えよう。

さらに、聚楽第は桃山文化の精華を結集した建築物でもあった。屋根を飾る金箔瓦、そして内部を彩ったであろう狩野派の壮麗な障壁画は、信長の安土城で開花した豪華絢爛たる気風を発展させ、桃山文化の一つの頂点を形成していた 2 。このように、聚楽第は政治、軍事、文化のあらゆる側面において、豊臣政権の本質を映し出す鏡であり、その造営過程を詳細に追うことは、天下人・秀吉の国家構想そのものを解き明かすことに繋がるのである。

第一章:造営前夜 ― 天正十五年(1587年)の政治情勢と豊臣秀吉

聚楽第が完成した天正15年(1587年)は、豊臣秀吉の天下統一事業が事実上の完成を見た、画期的な年であった。この年の政治情勢を理解することは、聚楽第造営の歴史的意義を把握する上で不可欠である。

天下統一の総仕上げ

天正15年、秀吉は自ら20万を超える大軍を率いて九州へ出陣し、長らく抵抗を続けていた島津氏を降伏させた 6 。これにより、東国の北条氏と奥州の伊達氏を除き、日本全土が豊臣政権の支配下に組み込まれることとなり、天下統一は最終段階へと入った 8 。この九州平定という軍事的成功は、秀吉の権力が盤石であることを内外に示し、国内に大規模な建設事業を安定して遂行する政治的・経済的余力を生み出した。聚楽第の造営開始(1586年)と完成(1587年)が、この九州平定と並行して進められたという事実は、秀吉が軍事(征伐)と内政(首都建設)を同時に推進できる、圧倒的な権力と高度な組織力を有していたことの証左である。九州平定の成功は、聚楽第を「平時の政庁」として本格的に機能させるための、最後の仕上げであったとも言える。九州から凱旋した秀吉が、完成したばかりの聚楽第に「天下人」として入城するという一連の流れは、地方の反抗勢力を武力で平定し、中央に壮麗な首都を建設するという、古代中国の皇帝が行った王道的な天下平定のプロセスを意識的に踏襲したものであり、秀吉の自己認識と政権の正統性を強くアピールする壮大な政治的演出であった。

盤石な政治的地位

軍事的な成功と並行して、秀吉は朝廷内での地位も確立していた。天正13年(1585年)には、本来公家の最高位である関白に就任。翌14年(1586年)には朝廷から豊臣の姓を賜り、太政大臣に任官した 10 。これにより秀吉は、武士としてだけでなく、公家社会においても名実ともに人臣の最高位に到達した。聚楽第の造営は、この比類なき最高権威を、誰もが目に見える形で具現化するための国家的プロジェクトであった。

国内政策の展開

九州平定直後の天正15年6月、秀吉は博多の筥崎宮に滞在中、突如として「伴天連追放令」を発令した 12 。これは、キリスト教宣教師の国外追放と信仰の禁止を命じたものであり、秀吉が国内の思想・宗教統制にも本格的に着手し、絶対的な支配者としての意志を明確にし始めたことを示している。聚楽第の完成と伴天連追放令の発令が同年に行われたことは、秀吉が軍事、政治、思想のあらゆる領域において、日本を自らの構想の下に再編成しようとしていたことを物語っている。

京都への首都機能集約の必然性

この時期、秀吉はすでに大坂城を巨大な軍事拠点かつ経済の中心として整備していた 14 。しかし、政権の正統性を担保するためには、伝統的権威の中心である朝廷との連携が不可欠であった。また、全国の大名を統制し、彼らに政務への参与を促すためには、京都に新たな政治の中枢を設けることが戦略的に重要であった 15 。聚楽第は、大坂城が持つ軍事・経済機能とは別に、京都における「政治・儀礼の首都」としての役割を担うべく計画されたのである。

第二章:聚楽第造営 ― 「内野」という地の選択と天下普請

聚楽第の造営は、その場所の選定からして、極めて象徴的な意味を持っていた。それは単なる建築事業ではなく、新たな時代の幕開けを告げるための、周到に計算された国家的なプロジェクトであった。

立地の選定 ― なぜ「内野」だったのか

聚楽第が建設されたのは、平安京の大内裏跡、特にその北東部に位置する「内野(うちの)」と呼ばれる一帯であった 2 。この地は、平安遷都以来、天皇の政庁である朝堂院や住まいである内裏が置かれた、日本の政治と文化の中心地そのものであった 18 。しかし、相次ぐ戦乱や火災により内裏が東方の里内裏(現在の京都御所)へ移転して以降、この広大な敷地は次第に荒廃し、人々が顧みない野原と化していた 19

秀吉がこの「内野」を選んだのは、単に広大な空き地があったからという理由だけではない。むしろ、かつて天皇の権威の源泉であった聖地を自らの権力基盤とすることで、その伝統的権威を継承し、かつ凌駕しようとする明確な政治的意図があったと考えられる 1 。律令国家の理想を体現した平安宮の跡地に、戦国乱世を終わらせた新たな支配者の政庁を建設する行為は、秀吉自身が天皇に代わる新たな秩序の創出者であることを宣言するに等しかった。荒れ果てた「内野」の再生は、荒廃した天下の再生のメタファーでもあったのである。

基本設計と造営奉行

聚楽第の縄張り(設計)は、本丸を中心に、西ノ丸、南二ノ丸、そして後に関白職を継いだ豊臣秀次によって増築された北ノ丸を配した、典型的な平城の形式を取っていた 2 。その壮大なプロジェクトを現場で指揮する造営奉行には、秀吉の信頼厚い重臣、前野長康が任命された 24 。長康は普請の全体を統括し、驚異的なスピードでの完成に貢献した 27 。また、京都所司代として洛中の民政を担い、朝廷との複雑な交渉や調整役を果たした前田玄以の存在も、この事業の円滑な遂行には不可欠であった 28

天下普請の実態

聚楽第の建設は、秀吉個人の事業としてではなく、全国の諸大名を動員する「天下普請」として行われた 31 。具体的には、工事区画を各大名に割り当て、責任を持って完成させる「割普請」という手法が採用された 31 。これは、大名たちにとって多大な経済的負担を強いるものであったが、同時に豊臣政権への忠誠心を示す絶好の機会でもあった。また、秀吉の側から見れば、大名たちの財力を削ぎ、中央の事業に従事させることで、彼らの力を抑制するという巧みな統制策でもあった。

動員された人員は、数万人規模に達したと推定されている。『多聞院日記』などの記録から、その規模は大坂城の築城に匹敵するか、あるいはそれを凌ぐものであった可能性も指摘されている 33 。全国から集められた人夫や職人によって、京都の内野は昼夜を問わず活気に満ち溢れていたことであろう。

【表1】聚楽第造営に関わった主要人物とその役割

役割

人物

主な職務内容

総指揮

豊臣秀吉

全体の構想立案、計画の承認、進捗の監督

造営奉行(現場総監督)

前野長康

普請全体の指揮、工程管理、資材・人員の差配 24

京都所司代(対朝廷・民政)

前田玄以

朝廷との交渉・調整、洛中における行政・治安維持 28

普請参加大名(一部)

黒田如水(孝高)、蒲生氏郷、宇喜多秀家、加藤清正など

担当工区の石垣・堀普請、および聚楽第城下への屋敷建設 1

この表は、聚楽第造営という巨大プロジェクトが、秀吉一人の独裁によってではなく、適材適所に配置された家臣団の機能的な働きによって実現したことを示している。それは、豊臣政権が単なる軍事政権ではなく、高度な行政能力を持つ官僚機構を備えていたことの証左に他ならない。

第三章:造営のリアルタイム・クロニクル(天正14年~15年)

聚楽第の造営は、驚異的な速度で進行した。当時の日記史料などを基に、その過程を時系列で再現することで、天下人の意志がいかにして巨大な建築物を現出させたか、そのリアルタイムな状況を追体験する。

天正14年(1586年)2月 ― 工事開始

奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』によれば、聚楽第の普請は天正14年2月21日から開始されたと記録されている 16 。また、京都吉田神社の神官であった吉田兼見の日記『兼見卿記』の同年2月24日の条には、聚楽第の堀の規模について「幅二十間(約36メートル)、深さ三間(約5.4メートル)、周囲の長さ千間(約1.8キロメートル)」に及ぶと記されており、プロジェクトがまず大規模な土木工事から着手されたことがわかる 16 。この巨大な堀の掘削作業には、数万の人々が動員され、内野の風景は瞬く間に変貌していったであろう。

天正14年(1586年)中盤~後半 ― 基礎工事の進捗

堀の掘削と並行して、その内側には堅固な石垣が築かれていった。天下普請として、全国の諸大名が割り当てられた工区で、互いに競うようにして石垣の構築を進めた 31 。石材は近江の山々などから切り出され、琵琶湖の水運を利用して京都まで運ばれた後、多くの人夫の手によって建設現場へと搬入された。この時期、秀吉自身も本拠地である大坂城と建設中の聚楽第を頻繁に往復し、工事の進捗を自らの目で厳しく確認していたと伝えられている 33 。その情熱と卓越したプロジェクト管理能力が、この巨大事業を支える原動力であった。

天正15年(1587年)前半 ― 建築工事の本格化

年が明けて天正15年に入ると、堀と石垣という基礎構造の完成に伴い、本丸御殿や櫓、門といった上部構造物の建築工事が本格化する。巨大な木材が組み上げられ、城郭の骨格が次々と姿を現していった。この時期、屋根を飾るための金箔瓦が大量に生産され、現場に搬入された。瓦の表面(凸面)にのみ金箔を貼るという様式は、豊臣政権下の城郭に特徴的なもので、限られた金の使用で最大の視覚的効果を生み出す、経済的合理性と豪華絢爛たる美意識の融合であった 35 。陽光を浴びて黄金に輝く屋根は、天下人の権威を何よりも雄弁に物語るものであった。

天正15年(1587年)9月 ― 竣工と移徙

着工からわずか1年半という、当時としては驚異的なスピードで、聚楽第の主要部分は完成した 1 。そして同年9月、九州平定を成し遂げ凱旋した秀吉は、大政所(母)、北政所(正室・ねね)とともに盛大な行列を組み、大坂城からこの新たな政庁兼居館へと移り住んだ 1 。この「移徙(いし)」の儀式をもって、聚楽第は正式に豊臣政権の政治的中枢として機能を開始したのである。

【表2】聚楽第造営から完成までの詳細年表

年月日

聚楽第関連の動向

国内情勢

典拠史料

天正13年(1585)7月

-

秀吉、関白に任官

-

天正14年(1586)2月21日

内野にて普請(工事)開始

秀吉、豊臣姓を賜り、太政大臣に任官(前年12月)

『多聞院日記』 16

天正14年(1586)2月24日

堀の規模(幅20間、深さ3間)が記録される

-

『兼見卿記』 16

天正15年(1587)5月

建築工事が最盛期を迎える

島津義久が降伏し、九州平定が完了

-

天正15年(1587)6月

-

秀吉、伴天連追放令を発令

12

天正15年(1587)9月

主要部分が竣工し、秀吉が大坂城より移徙

秀吉、九州より凱旋

1

この年表は、聚楽第の造営が、秀吉の権力が頂点に達する過程と完全に同期して進行したことを明確に示している。例えば、普請が開始されたのは秀吉が公家社会の頂点である太政大臣に就任した直後であり、完成は日本全土の軍事的平定が完了した直後である。このように、聚楽第の建設は、豊臣政権の確立という歴史の大きな流れと不可分に結びついた、象徴的な事業であったことが理解できる。

第四章:完成後の聚楽第 ― その構造と壮麗さ

わずか1年半で完成した聚楽第は、当時の技術と芸術の粋を集めた、壮麗な城郭風邸宅であった。その構造と装飾は、天下人・豊臣秀吉の権威を可視化するために、細部に至るまで計算し尽くされていた。

城郭としての構造

聚楽第は「第」と称しながらも、その実態は堅固な防御施設を備えた平城であった。

石垣と堀

近年の発掘調査により、その規模の一部が明らかになっている。平成24年(2012年)の調査では、本丸南面の石垣が総延長約32メートルにわたって検出された 1 。石材は自然石を巧みに組み合わせた「乱石積み」であったと推定され、桃山時代の城郭石垣の特徴を示している 22 。また、別の調査では本丸南堀の幅が約43.5メートルに達することが判明しており、これは当時の城郭の中でも最大級の規模を誇る 11 。これらの考古学的知見は、『兼見卿記』が記した堀の巨大さを裏付けるものである。

天守の謎

聚楽第に天守が存在したか否かは、研究者の間でも意見が分かれる大きな論点である。『聚楽第図屏風』(三井記念美術館蔵)などの絵画史料には、4層から5層の壮麗な天守らしき建物が描かれている 22 。しかし一方で、秀次の家臣であった駒井重勝の日記『駒井日記』をはじめとする、信頼性の高い同時代の一級文献史料には、天守の存在を示す直接的な記述が見当たらない 38 。この事実は、聚楽第が純粋な軍事拠点としてよりも、後述する天皇行幸などの政治儀礼を執り行う「舞台装置」としての性格がより強かったことを示唆しているのかもしれない。聚楽第の権威の源泉は、天守という物理的な高さではなく、そこで行われる儀式という「コト」の神聖さに求められていた可能性がある。

御殿建築と内部装飾

聚楽第の内部には、多様な機能を持つ御殿が配置されていた。その中心となったのが、天皇を迎えるために特別に設けられた「行幸御殿」である 40 。その他にも、政務や諸大名との謁見に用いられる大広間、秀吉やその家族が日常生活を送るための私的な居室、そして千利休が関与したであろう茶室などが甍を並べていたと推測される 40 。徳川家康が後に築いた二条城二ノ丸御殿は、この聚楽第の御殿建築を参考にしたとも言われており、その豪華な内部空間を類推する上での重要な手がかりとなる 39

これらの御殿の内部は、狩野永徳を筆頭とする当代随一の絵師集団・狩野派によって描かれた金碧障壁画で埋め尽くされていたと考えられている 2 。主題としては、覇者の威厳を象徴する「唐獅子図」や、永遠の繁栄を願う吉祥的な「花鳥図」などが多用されたであろう 4 。金箔を背景に、極彩色の絵具で描かれた壮大なスケールの障壁画は、訪れる者を圧倒し、豊臣政権の絶大な権力と富を視覚的に訴えかけたに違いない。

権威の象徴たる金箔瓦

聚楽第の建築群で最も目を引く特徴は、その屋根を飾った金箔瓦であった 2 。瓦の表面に金箔を施すこの手法は、豊臣政権下の城郭に広く見られるもので、太陽の光を反射して建物全体が黄金に輝くという、劇的な視覚効果を狙ったものであった 35 。聚楽第跡地からの発掘調査では、豊臣家の家紋である桐紋をあしらった金箔軒丸瓦などが多数出土している 5 。特に、平成3年(1991年)のハローワーク西陣の建設に伴う調査では、約600点もの金箔瓦がまとまって発見され、国の重要文化財に指定された 2 。これらの考古資料は、文献や絵画史料に描かれた聚楽第の壮麗な姿を裏付ける、何より雄弁な物証である。

城下町の形成

聚楽第は単体の城郭として孤立していたわけではない。その周囲には、徳川家康、前田利家、黒田如水、蒲生氏郷といった、全国の有力大名たちが屋敷を構えることを義務付けられた 1 。これにより、聚楽第を中心とした一大政治都市が形成されたのである。大名たちは妻子をこの地に住まわせることを求められ、事実上の人質として豊臣政権への服従を誓わされた。現在も京都市上京区には、「如水町」(黒田如水)、「飛騨殿町」(蒲生氏郷)、「浮田町」(宇喜多秀家)など、当時の大名屋敷に由来する町名が数多く残っており、往時の都市構造を今に伝えている 1

第五章:政治の舞台としての聚楽第 ― 後陽成天皇行幸と大名統制

完成した聚楽第は、単なる豪華な邸宅ではなく、豊臣政権の権威を確立し、全国の大名を統制するための壮大な政治の舞台として機能した。その頂点に立つのが、後陽成天皇の行幸であった。

後陽成天皇行幸(天正16年)

天正16年(1588年)4月14日から18日にかけての5日間、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎えた 1 。この「聚楽第行幸」は、聚楽第が果たした最も重要かつ輝かしい政治的役割であった。室町幕府3代将軍・足利義満が後小松天皇を自邸の室町第(花の御所)に迎えて以来、実に約150年ぶりとなる、天皇の武家邸宅への公式訪問であり、秀吉の権威が朝廷によって公に承認されたことを天下に示す、画期的な出来事であった 2

『聚楽第行幸記』などの記録によれば、当日の儀式は壮麗を極めた。天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)が御所を出発し、聚楽第へと向かう行列は、公家や武士たち数千人が供奉する絢爛豪華なものであった 44 。聚楽第の内部では、天皇臨席のもとで盛大な和歌会や能楽の会が催され、連日連夜、贅を尽くした饗宴が開かれた 46 。この一連の儀式は、秀吉が脚本・演出・主演を務めた壮大な政治劇であった。聚楽第という比類なき「舞台装置」を使い、天皇を「最高の権威の象徴」として主賓席に配置し、全国の有力大名を「観客兼出演者」として参加させることで、秀吉自身が日本の唯一無二の支配者であることを、全国に視覚的に知らしめたのである。

大名統制の完成

この行幸の政治的なクライマックスは、参列した諸大名が天皇の御前で、秀吉への忠誠を誓う起請文を提出した儀式であった 11 。徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といった、かつては秀吉と覇を競った有力大名たちが、天皇の前で秀吉への臣従を誓約したのである。

この儀式には、極めて巧妙な政治的計算があった。戦国時代、権力はあくまで実力(軍事力)によって決まるものであった。天下統一を成し遂げた秀吉は、その実力を恒久的な「権威」へと転換する必要があった。そのために、日本における最高の伝統的権威である天皇を利用したのである。天皇に自らの邸宅へ来てもらい、その面前で諸大名に忠誠を誓わせる。この行為は、第一に「秀吉が天皇を動かすことができる存在であること」、第二に「秀吉への忠誠が天皇によって是認されていること」という、二重の強力なメッセージを諸大名に発信するものであった 48 。これにより、秀吉への忠誠を破ることは、すなわち天皇への反逆と同義であると認識させることが可能となった。武力による支配は、伝統と神聖さに裏打ちされた「公儀」による統治へと昇華され、豊臣政権の正統性がここに確立されたのである。聚楽第は、まさにそのための「権威の製造工場」であったと言えよう。

外交の舞台

聚楽第の役割は、国内政治に留まらなかった。天正19年(1591年)には、ローマ教皇の使節として日本を訪れた天正遣欧少年使節が聚楽第で秀吉に謁見し、西洋音楽を演奏したと記録されている 25 。また、明の征服計画に先立ち、朝鮮からの使節との交渉の場としても使用された 33 。これらの事実は、聚楽第が国内統治の中枢であると同時に、国際関係における豊臣政権の公的な顔としての役割も担っていたことを示している。

終章:栄華と悲劇 ― 秀次事件、破却、そして後世への影響

栄華を極めた聚楽第の歴史は、しかし、予期せぬ形で唐突に終焉を迎える。その背景には、豊臣政権が内包していた後継者問題という深刻な脆弱性があった。

秀次への継承

天下統一を成し遂げた秀吉は、後継者の育成に着手する。実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591年)、姉の子である甥の秀次を養子とし、関白の職と政庁である聚楽第を譲り渡した 1 。これにより、聚楽第は二代目の主を迎え、豊臣政権の安定した継承を象徴するかに見えた 51

秀次事件と破却

しかし、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀吉と秀次の関係は急速に悪化していく 3 。秀吉の愛情が実子である秀頼に集中する中で、秀次は次第に疎ましい存在となっていった。そして文禄4年(1595年)7月、秀次は突如として謀反の嫌疑をかけられ、弁明の機会も与えられぬまま高野山へ追放され、自害に追い込まれた 3

秀吉の怒りは秀次一人の死では収まらなかった。彼は、秀次の存在の痕跡そのものをこの世から抹消するかのように、翌8月から聚楽第の徹底的な破却を命じたのである 16 。この破壊は、単に建物を解体するだけにとどまらず、堀を埋め立て、堅固な石垣の石材すら一つ残らず抜き取らせるという、凄まじいものであった 33 。天下人の権威の象徴であった壮麗な城郭は、その主の命令によって、わずか1ヶ月余りで地上から完全に姿を消した。

この常軌を逸した徹底的な破壊は、秀吉の秀次に対する個人的な憎悪や、秀頼への盲目的な愛情といった感情的側面のみでは説明できない。そこには、「謀反人」の居城を地上から消し去ることで、豊臣政権に叛逆する者がいかなる運命を辿るかを全国の諸大名に見せつけるための、冷徹な政治的パフォーマンスという側面があった 24 。聚楽第を「創造」することで自らの権威を絶対的なものにした秀吉は、それを自らの手で「破壊」することで、その権威に逆らう者を決して許さないという絶対的な意志を示したのである。この一連の行為は、豊臣政権が法や制度といったシステムによる統治よりも、秀吉個人のカリスマと恐怖に大きく依存していたことを示唆している。

後世への影響

地上から姿を消した聚楽第だが、その記憶と痕跡は様々な形で後世に伝えられた。

移築遺構の伝説

破却された聚楽第の部材は、新たに築城が始まった伏見城の資材として転用されたほか 11 、一部は功のあった寺社に下賜されたと伝えられている。その代表例として、西本願寺の飛雲閣(国宝)や大徳寺の唐門(国宝)が挙げられる 3 。特に飛雲閣については、聚楽第からの移築を示す確実な史料がなく、建築史的な観点からも京都新城からの移築説などがあり、長年の議論が続いている 55 。一方、大徳寺唐門は、平成15年(2003年)の修復調査の際に、飾り金具の下から「天正」の年号が刻まれた銘が発見され、聚楽第の遺構である可能性が極めて高いことが明らかとなった 24

文化に残る痕跡

聚楽第の名は、京都の文化にも深く刻み込まれている。聚楽第の跡地から採れる良質な壁土は「聚楽土(じゅらくつち)」と呼ばれ、茶室などの最高級の壁材として珍重された 2 。また、埋められた堀の跡地に自生したとされる太いゴボウは「聚楽牛蒡」と名付けられ、京野菜の一つとして知られている 2 。これらの名称は、聚楽第が人々の記憶の中でいかに大きな存在であったかを物語っている。

歴史的意義の再評価

結論として、聚楽第は、その壮麗な造営と、わずか8年という短期間での完全な消滅という、極めて対照的な運命によって、豊臣政権の栄華の頂点と、その内に秘めた脆さや非情さを最も雄弁に物語る歴史的モニュメントであると言える。聚楽第の建設が豊臣政権の安定と繁栄という「陽」の側面を象徴するならば、秀次事件とそれに伴う破却は、後継者問題に揺らぐ政権の不安定さと秀吉の猜疑心という「陰」の側面を象徴している。この「陽」と「陰」が、わずか8年という短い期間に凝縮されている点に、聚楽第の歴史の特異性がある。

それは、一人の天下人の意志によって巨大な都市空間が創造され、また同じ意志によって跡形もなく消去され得た、絶対王政的時代の象徴であった。幻の如く現れ、幻の如く消え去ったこの城郭は、まさしく「豊臣家の夢の跡」 50 そのものであり、そのはかなさ故に、今なお我々の歴史的想像力をかき立て続けているのである。

引用文献

  1. 聚楽第【お城観光ガイド】豊臣秀吉の政庁兼邸宅 - 「天下人の城」 http://tokugawa-shiro.com/2177
  2. 聚楽第について http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/syokai.htm
  3. 古城の歴史 聚楽第 https://takayama.tonosama.jp/html/juraku.html
  4. 唐獅子図屏風 | TSUMUGU Gallery 紡ぐギャラリー https://tsumugu.yomiuri.co.jp/gallery/karajishizu_byobu_story.html
  5. 20 聚楽第 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/20jurakudai.pdf
  6. 豊臣秀吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
  7. 秀吉の九州遠征 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/kyusyu.html
  8. No.161 「豊臣秀吉の九州平定と熊本城&本丸御殿」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/161.html
  9. 九州平定 (日本史) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2)
  10. 豊臣秀吉の関白就任 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/hideyoshi-kanpaku/
  11. 聚楽第跡の調査 https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/seminar/pdf/s125.pdf
  12. 豊臣秀吉朱印状 天正16年卯月2日 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/450940
  13. キリシタンの受難のはじまり:豊臣秀吉から徳川幕府初期まで 豊臣秀吉と伴天連追放令 日本に https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553813.pdf
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  51. 豊臣秀次の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/88131/
  52. 「豊臣秀次」とはどんな人物? 「殺生関白」と呼ばれ切腹に至るまでの生涯を詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/612055
  53. 城ぶら「聚楽第」!権力の象徴から悲劇の城へ…8年で消滅した京の城 https://favoriteslibrary-castletour.com/kyot-jurakudai/
  54. 都市史18 聚楽第と御土居 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi18.html
  55. 飛雲閣 秀吉の足跡 それは聚楽第・伏見城の遺構なのか - こうへいブログ 京都案内と文章研究について https://www.kouhei-s.com/entry/2021/06/04/123304
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  57. 飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 前編 - 3D京都 https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-243.html
  58. 飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 後編 - 3D京都 - FC2 https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html
  59. 国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構 - 京都発! ふらっとトラベル研究所 http://flattravel.blog.fc2.com/blog-entry-39.html