最終更新日 2025-10-01

臼杵南蛮寺破却(1587)

豊臣秀吉の伴天連追放令により、1587年、大友宗麟が築いた豊後府内の南蛮寺は破却された。これはキリシタン文化の終焉と弾圧の時代の始まりを告げる歴史的事件であった。
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天正十五年、豊後府内デウス堂破却の真相 ―栄華から灰燼へ、キリシタン王国の終焉―

序章:栄華を極めし「豊後の王国」―キリシタン文化の黎明

天正十五年(1587年)、豊後国府内(現在の⼤分市)で起こった教会堂の破却事件は、日本のキリスト教史における画期的な、そして悲劇的な転換点として刻まれている。この出来事を単なる禁教政策の一環として捉えるだけでは、その本質を見誤るであろう。破却されたのは、単なる一つの宗教施設ではなかった。それは、戦国大名・大友宗麟の庇護のもと、三十年以上にわたって育まれた、日本で最も先進的かつ国際的な文化複合体の象徴そのものであった。事件の真相に迫るためには、まず、いかにして豊後府内がキリシタン文化の一大中心地、すなわち「豊後の王国」と呼ぶにふさわしい栄華を築き上げたのかを詳述する必要がある。

大友宗麟とキリスト教の邂逅

豊後におけるキリシタン文化の濫觴は、天文二十年(1551年)、時の豊後国主・大友義鎮(後の宗麟)が、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを府内の館に招き入れたことに始まる 1 。当初、宗麟の動機は多分に政治的・経済的な計算に基づいていた。南蛮貿易がもたらす硝石や鉄砲といった最新の軍事物資、そして莫大な富は、九州に覇を唱えようとする彼にとって不可欠なものであった 3 。キリスト教の保護は、その貿易利権を独占するための最も有効な手段だったのである。

しかし、宗麟とキリスト教の関係は、単なる政略的な利用に終始しなかった。宣教師たちとの交流を深める中で、彼はその教義に深く心を惹かれていく 5 。そして天正六年(1578年)、宗麟はフランシスコ・カブラル神父から洗礼を受け、キリシタン名「ドン・フランシスコ」を授かるに至る 4 。彼の信仰は、日向国にキリスト教の教えに基づく理想郷を建設するという壮大な計画を抱かせるほど、熱烈なものへと昇華していった 7

国際都市「府内」の繁栄と南蛮文化

宗麟の強力な庇護のもと、豊後府内は未曾有の発展を遂げた。西の山口、国際貿易港の堺や博多と肩を並べる大都市へと変貌し、宣教師の記録においては、織田信長の安土や豊臣秀吉の大坂と同等の存在として扱われるほどであった 10 。府内の街角には南蛮文化が溢れ、日本で初めての西洋音楽(オルガン、ビオラ)が奏でられ、聖書に基づく宗教劇が演じられた 1 。西洋画の技法や西洋医学といった、当時の日本人にとっては未知の知識や技術が、この地を窓口として伝播したのである 13 。近年の発掘調査で明らかになった大友氏館跡の壮大な庭園は、京都の将軍御所を模したものであり、南蛮貿易で得た富がいかに巨大なものであったかを物語っている 2

この豊後府内の繁栄は、大友宗麟個人の信仰心と、南蛮貿易がもたらす経済的・軍事的利益という二つの強力な推進力によって支えられた、他に類を見ない「複合的発展モデル」であった。他のキリシタン大名領が主に貿易港としての性格が強かったのに対し、府内は学術、医療、福祉といった社会基盤をも包含する総合文化都市としての性格を際立たせていた。それゆえに、後の破却は単なる宗教弾圧に留まらず、この先進的な文化複合体そのものを日本から喪失させるという、より深刻な意味を持つことになるのである。

府内デウス堂(府内教会)の建立と活動

府内のキリシタン文化の中核を成したのが、天文二十二年(1553年)に建立された教会堂、通称「デウス堂」である 1 。ポルトガル語では「Nossa Senhora da Piedade(我らが慈悲の聖母の教会)」と呼ばれたこの教会は 15 、江戸時代の古図などから、現在の大分市顕徳町にあったと推定されている 15 。興味深いことに、「顕徳」という地名は、デウス堂が仏教寺院風に「顕徳寺」と呼ばれていたことに由来するという説もあり、この施設がいかに地域に根差していたかを物語っている 15 。デウス堂では日々のミサが執り行われ、少年合唱隊が歌う聖歌が響き渡り、宗教劇が上演されるなど、府内のキリスト教徒にとって信仰と文化の中心地として機能していた 1

日本初の教育・福祉施設群

宗麟の支援は、単に教会を建てるだけに留まらなかった。デウス堂の周辺には、日本初とされる施設が次々と誕生した。ポルトガル人医師ルイス・デ・アルメイダは、日本で初めての西洋式総合病院と育児院を設立し、多くの人々を救った 2 。さらに、宣教師を養成するための高等教育機関「コレジオ(大神学校)」も開設された 2 。ここでは、神学や哲学といった高度な学問に加え、ラテン語、日本語、そしてグレゴリオ聖歌や楽器演奏などの音楽教育まで行われていた 17 。これらの施設群の存在は、府内が単なる信仰の拠点ではなく、南蛮文化の学術・医療・福祉における日本随一の中心地であったことを明確に示している。


表1:主要関係者一覧表

氏名

立場・役職

洗礼名

本事件における役割

豊臣 秀吉

関白・天下人

-

九州平定を機に伴天連追放令を発布。事件の直接的な原因を作った。

大友 宗麟

前豊後国主

ドン・フランシスコ

豊後キリシタン王国の庇護者。追放令直前に病死し、力の均衡を崩した。

大友 義統

豊後国主

コンスタンチノ

宗麟の嫡男。秀吉の圧力により棄教し、父の遺産である府内教会を破却した。

志賀 親次

岡城主(大友家臣)

ドン=パウロ

豊薩合戦の英雄。義統の命令に背き、棄教を拒否して宣教師を保護した。

ガスパール・コエリョ

イエズス会日本準管区長

-

秀吉との会見で不興を買い、追放令の引き金の一つとなった。

ルイス・フロイス

イエズス会宣教師

-

『日本史』の著者。本事件を含む当時の状況を後世に伝える貴重な記録を残した。


第一章:忍び寄る戦乱の影―島津の侵攻と宗麟の死

栄華を極めた豊後キリシタン王国であったが、その繁栄は盤石なものではなかった。天正六年(1578年)の耳川の戦いにおける島津軍への歴史的大敗は、大友氏の軍事的権威を失墜させ、長い衰退期の始まりを告げるものであった 6 。この敗戦を機に、九州の勢力図は大きく塗り替えられ、薩摩の島津氏が九州統一へと大きく歩を進める一方、大友氏はその版図を次第に侵食されていく。府内デウス堂破却という悲劇は、この抗いがたい戦乱の渦と、王国の支柱であった大友宗麟の死という、二つの決定的な出来事によって引き起こされたのである。

豊薩合戦の勃発と府内への影響(1586年〜)

天正十四年(1586年)、九州制覇を目前にした島津義久は、大友氏の息の根を止めるべく、大軍を豊後へと侵攻させた。世に言う「豊薩合戦」の勃発である 22 。この報に接した大友宗麟は、もはや自力での防衛は不可能と判断し、中央の覇者である豊臣秀吉に臣従し、援軍を請うために大坂城へと赴いた 10

宗麟不在の豊後は、島津軍の蹂躙するところとなった。府内の町は戦火に包まれ、三十年以上にわたってキリシタン文化の象徴であったデウス堂やコレジオ、病院といった関連施設も、この時にその多くが破壊され、灰燼に帰したと記録されている 22 。これは、秀吉の伴天連追放令に先立って行われた、純然たる軍事侵攻による物理的な破壊であった。多くの宣教師たちは、宗麟が手配した船で辛くも戦火を逃れ、山口へと避難した 23 。この絶望的な状況の中、後に重要な役割を果たすことになる岡城主・志賀親次は、圧倒的な兵力差にもかかわらず城を固守し、島津軍の猛攻を幾度となく撃退するという驚異的な武勇を示した 26

秀吉の九州平定と宗麟の最期(1587年)

大友氏の救援要請に応え、天正十五年(1587年)春、豊臣秀吉は自ら大軍を率いて九州へと出陣する。秀吉の弟・秀長を総大将とする豊臣本隊が豊後に上陸すると、戦局は一変し、島津軍は総崩れとなって豊後から撤退を開始した 25

九州平定が成り、大友家が滅亡の危機を脱したことを見届けたかのように、王国の偉大な庇護者は静かにその生涯を閉じた。同年5月23日(旧暦4月17日)、大友宗麟は、晩年を過ごした豊後津久見の地で病のため死去した 4 。享年58(満57歳)。その葬儀は、彼の信仰に従い、キリスト教の様式で盛大に執り行われた 25 。しかし、これが豊後の地で、公然と行われた最後の荘厳なキリスト教儀式となることを、その時誰が予想できただろうか。

府内のキリシタン施設は、まず島津の侵攻という「軍事的要因」によって物理的に破壊され、その直後に、キリスト教への政策転換という「政治的要因」が襲いかかった。そして、大友宗麟の死は、この二つの破壊的な力が豊後に直接作用するのを防いでいた「最後の防波堤」の喪失を意味した。彼が生きていれば、長年の功績と秀吉との直接的な関係をもって、豊後における禁教令の適用を緩和させる交渉の余地があったかもしれない。しかし、その死は、経験の浅い新当主・義統を、天下人の圧倒的な権力の前に、孤独で無防備な状態で立たせることになった。宗麟の死は、単なる一個人の逝去ではなく、豊後キリシタン共同体の運命を決定づける政治的空白を生んだ、歴史の転換点だったのである。

第二章:天下人の九州平定とキリスト教への眼差し

大友宗麟の死と時を同じくして、九州を席巻した豊臣秀吉は、この地で初めてキリスト教の勢力と深く対峙することになる。当初、信長と同様にキリスト教に融和的であった秀吉が、なぜ突如として厳しい禁教令を発布するに至ったのか。その心変わりの背景には、九州平定という事業を通じて得られた衝撃的な情報と、天下統一という壮大な国家構想に基づく、冷徹な政治的判断があった。

九州平定とキリスト教の実態把握

秀吉は、九州を平定する過程で、この地におけるキリスト教の浸透が自らの想像をはるかに超えていることを目の当たりにした 29 。特に彼を驚愕させたのは、肥前の大名・大村純忠が、日本における貿易の最重要拠点である長崎をイエズス会に寄進していたという事実であった 30 。これは、秀吉にとって、日本の領土が外国の宗教団体の管理下に置かれているという、天下人として到底容認できない事態であった。国家の主権を脅かすこの現実は、秀吉にキリスト教に対する強い警戒心を抱かせるのに十分であった 32

ガスパール・コエリョとの会見と秀吉の不信感

九州平定が完了した直後、秀吉は博多の陣中にて、イエズス会の日本における責任者である準管区長ガスパール・コエリョと会見した 29 。この会見が、秀吉の態度を硬化させる決定的な契機となった。コエリョは、秀吉の歓心を買おうとしたのか、あるいは自らの影響力を誇示しようとしたのか、秀吉の島津征伐に対して軍事的な援助を申し出たり、キリシタン大名を動員できるかのような発言を行ったとされる 29 。この言動は、秀吉の逆鱗に触れた。彼は、キリスト教組織が単なる宗教団体ではなく、日本の大名に影響力を行使しうる、独立した政治的・軍事的な力を持つ潜在的な脅威であると認識したのである。

日本人奴隷問題の発覚

さらに秀吉を激怒させたのが、九州各地で日本人がポルトガル商人によって買い集められ、奴隷として海外に売られているというおぞましい実態であった 29 。一説にはその数は5万人にものぼったという 29 。自らが統べるべき「神国」の民が、まるで家畜のように外国人に売買されている現実は、秀吉の国家観と自尊心を著しく傷つけた。これは、彼の統治の根幹を揺るがす大問題であった。

神国思想と天下統一の論理

秀吉の根底には、「日本は神国である」という強い思想があった 34 。彼の目には、唯一絶対の神を掲げ、日本の神仏を邪教として退けるキリスト教の教えは、この神国の秩序を破壊する「邪法」と映った。また、キリシタン大名が領内の神社仏閣を破壊し、領民に改宗を強制する行為は 16 、秀吉が目指す中央集権的な統一国家の建設とは相容れない、地方の無秩序な行動に他ならなかった。

秀吉の伴天連追放令は、決して突発的な感情論によるものではない。それは、九州平定を通じて得られた複数の「情報」に基づき、天下統一という国家構想の論理的帰結として発せられた、極めて合理的な「政治的決断」であった。その核心は、宗教の教義そのものへの憎悪というよりは、むしろ、 外国勢力と結びつき、日本の主権の及ばない「治外法権的」かつ「超国家的」な組織が、自らの統治構造の内部に存在することへの断固たる拒絶 であった。長崎の寄進は領土主権の侵害、コエリョの言動は軍事統帥権への挑戦、そして奴隷貿易は人民支配の根幹への介入と、秀吉には映ったのである。彼が追放令の後も、貿易そのものは認可し続けたという事実が 31 、この決断が宗教的情熱ではなく、冷徹な政治的・経済的計算に基づいていたことを何よりも雄弁に物語っている。

第三章:天正十五年、夏―伴天連追放令の発布

九州で得た情報に基づき、キリスト教組織への不信と脅威を確信した豊臣秀吉の決断は、迅速に具体的な法令として形を成した。天正十五年(1587年)6月、筑前筥崎(現在の福岡市箱崎)の陣中にて発せられた一連の布告は、日本のキリスト教の運命を決定的に変える歴史的な一撃となった。それは、それまでの融和的な時代に終止符を打ち、長い弾圧の時代の幕開けを告げる号砲であった。

追放令前夜の布石:覚書11か条(1587年6月18日)

運命の日を迎える前日、秀吉は来るべき大方針を示すかのように、11か条からなる覚書を発している 37 。この覚書には、牛馬の売買禁止など様々な規定が含まれていたが、その中でひときわ重要な意味を持つのが、日本人奴隷貿易に関する条項であった。「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事(日本人の海外への売却は違法である)」と、人身売買を明確に禁じたのである 37 。これは、翌日に発布される追放令の正当性を補強し、自らの措置が日本の民を保護するための正義の行動であると内外に示すための、巧みな布石であった。

運命の日:定5か条の発布(1587年6月19日)

天正十五年六月十九日(西暦1587年7月24日)、秀吉は筥崎の陣中において、5か条からなる「定」、すなわち「伴天連追放令」を公布した 30 。その内容は、秀吉の意図を明確に反映した、緻密かつ政治的なものであった。

  • 第一条 では、日本が「神国」であることを高らかに宣言し、キリシタン国(キリスト教国)から「邪法」が広まることを禁ずる大義名分を掲げた。
  • 第二条 では、キリシタン大名が領民を強制的に改宗させ、神社仏閣を破壊する行為を、日本の「仏法」を破壊する許されざる行為であると断じた。
  • 第三条 で、核心である「伴天連(バテレン=宣教師)は、日本の地にいることはできない」と断定し、 今日より二十日の内に支度をして帰国すべし と、具体的な退去期限を命じた。ただし、この期間中に彼らに危害を加える者は罰するとし、国外退去の安全は保障した 34
  • 第四条 では、「黒船(ポルトガル船)の商売の儀は別儀」であるとし、貿易はこれまで通り許可することを明言した 34
  • 第五条 では、仏法を妨げない限りにおいて、商人たちの来日は自由であると定め、貿易関係の維持を改めて示した 39

この法令は、キリスト教の「信仰」そのものを禁じたのではなく、「宣教師」という布教組織の存在と、彼らが主導する「布教活動」を狙い撃ちにした、極めて選択的な禁止令であった。秀吉の真の狙いは、貿易という経済的実利は確保しつつ、社会秩序を乱し、自らの統治の障害となりうる宗教組織の頭脳と神経系を抜き去り、無力化することにあった。この「選択的排除」こそが、伴天連追放令の本質であり、秀吉という政治家のリアリズムを如実に示している。

宣教師たちの反応と行動

この突然の追放令は、九州各地にいた宣教師たちに大きな衝撃と混乱をもたらした 40 。命令に従い、ガスパール・コエリョをはじめとする宣教師たちは、ひとまず肥前の平戸に集結し、絶望的な状況の中で今後の対策を協議した 30 。しかし、20日という短い期間で全員が日本を離れることは物理的に不可能であり、また、三十年以上にわたって築き上げてきた布教の成果を放棄することもできなかった。結果として、一部の者はマカオなどへ退去したが、ルイス・フロイスを含む多くの宣教師は、再び日本各地へと散り、キリシタン大名や信徒の庇護のもとで潜伏し、水面下で布教活動を継続する道を選んだのである 30 。こうして、追放令は当初、実効性の面で部分的に空文化し、宣教師と秀吉政権との長い「隠れんぼ」の時代が始まった。

第四章:府内南蛮寺の終焉―義統の苦悩と破却の実行

天下人・豊臣秀吉による伴天連追放令は、九州の諸大名に踏み絵を迫るものであった。中でも、父・宗麟が築き上げた「キリシタン王国」を継承したばかりの若き国主・大友義統は、最も過酷な選択を突きつけられた。父の死と追放令という二つの激震に揺れる中、彼が下した決断は、豊後キリスト教の象徴であった府内デウス堂を自らの手で破壊するという、悲劇的なものであった。この章では、義統の苦悩と、それに抗った家臣の抵抗、そして破却が実行されるまでの緊迫した状況を時系列で再現する。

新当主・大友義統の苦境

天正十五年(1587年)5月23日の父・宗麟の死から、わずか一ヶ月足らずの6月19日に発せられた伴天連追放令。この二つの出来事は、大友義統を絶望的な苦境に陥れた 24 。義統自身、九州平定の過程で黒田孝高の勧めを受け、「コンスタンチノ」という洗礼名を持つキリシタンになったばかりであった 42 。しかし、その信仰は、理想郷の建設を夢見るほどに燃え上がった父のものとは異なり、多分に政治的な色彩を帯びたものであった可能性が高い。島津との戦いで疲弊し、秀吉の力によってかろうじて領国を安堵された彼にとって、天下人の意向は絶対であった。

棄教と弾圧への転換

秀吉は、追放令を発すると同時に、高山右近や小西行長といった畿内のキリシタン大名に棄教を迫った。その圧力は、豊後の義統にも及んだ 43 。領国の存続という現実的な利益を前に、義統に選択の余地はなかった。彼は早々に棄教を決断し、秀吉への恭順の意を明確に示す 25 。その変節の速さを象徴するのが、父・宗麟の墓をめぐる逸話である。追放令から一ヶ月も経たないうちに、義統は父の荘厳なキリスト教式の墓を掘り起こし、仏式に改葬させた 25 。これは、父の時代との決別を内外に示す、痛烈なパフォーマンスであった。さらに義統は、秀吉の意を汲み、豊後国内の宣教師を追放し、家臣や領民に対しても信仰を捨てるよう命じる布告を発したのである 41

府内デウス堂・関連施設の破却命令

そして、この弾圧政策の総仕上げとして、義統は府内のデウス堂、コレジオ、病院といった、父・宗麟が心血を注いで築き上げたキリシタン関連施設すべての破却を命じた。島津軍の侵攻によって半壊していたこれらの施設群は、今度は領主自身の命令によって、完全なる破壊、すなわち「公式な破却」という最後の一撃を受けることになった。誰が、どのように破壊を実行したかについての詳細な記録は乏しいが、ルイス・フロイスが『日本史』の中で、義統が棄教後に「キリシタン宗門を迫害する」側に回ったと記していることから 21 、義統の家臣団によって組織的に、かつ徹底的に行われたと推測される。

この義統の行動は、単なる「裏切り」と断じるのは早計であろう。それは、巨大な中央権力に飲み込まれていく戦国大名が、自らのアイデンティティを犠牲にしてでも家名を存続させようとした、「生き残り戦略」の最大の悲劇であった。父が築いた文化的・宗教的遺産を自らの手で破壊するという行為は、豊臣政権下での大名としての存続を許されるための、あまりにも大きな代償だったのである。

信仰と忠誠の狭間:志賀親次(ドン=パウロ)の抵抗

しかし、大友家中の全ての者が、義統のように天下人の意向に唯々諾々と従ったわけではなかった。豊薩合戦の英雄であり、ドン=パウロの洗礼名を持つ熱心なキリシタンであった岡城主・志賀親次は、主君・義統の命令に公然と異を唱えた 26 。彼は棄教を断固として拒否し、豊後から追放された宣教師たちを自領である岡城に迎え入れ、手厚く保護したのである 25

義統が家臣たちに棄教の誓いを立てるよう「誓詞」の提出を強要した際には、親次は宣教師と密かに相談し、誓いの文言にキリスト教の様式を巧みに盛り込んだ折衷案を提出して抵抗した。義統は、島津の大軍を撃退した親次の軍事力と家中での声望を恐れ、彼に対してそれ以上強く出ることはできなかった 25 。この義統と親次の間の深刻な対立は、秀吉の禁教令が大友家中に深い亀裂を生んだことを象徴している。主君が「大名」として中央政権との関係を最優先したのに対し、家臣である親次は、旧来の独立性の高い「国衆」としての誇りと純粋な信仰を貫こうとした。府内デウス堂の破却は、単なる宗教事件ではなく、戦国時代的な地方分権体制が、豊臣政権による中央集権体制へと移行する過程で発生した、文化的・政治的断絶の象徴的事件でもあったのだ。

第五章:灰燼の中から―宣教師の潜伏と信仰の行方

府内デウス堂の破却は、豊後におけるキリスト教の公的な歴史に終止符を打った。壮麗な教会、先進的なコレジオ、慈悲の病院、それらすべてが灰燼に帰し、信仰の物理的な拠点は失われた。しかし、信仰の灯そのものが消え去ったわけではなかった。灰燼の中から、日本のキリスト教は新たな、そしてより強靭な形態へと変容を遂げていく。それは、公然たる拡大の時代から、深く静かな潜伏の時代への移行であった。

宣教師たちの潜伏と避難

大友義統による追放令を受け、豊後を追われた宣教師たちは、新たな安住の地を求めて流浪の身となった。彼らの多くは、義統の命令に背いてまで信仰を守ろうとした志賀親次を頼り、その居城である岡城に身を寄せた 25 。また、一部は周防の山口など、まだ監視の目が比較的緩やかであった地域へと避難した。ルイス・フロイスがイエズス会本部に送った書簡や年次報告書には、この追放令後の困難な状況下で、いかに彼らが信徒を励まし、秘密裏に布教活動を続けたかが生々しく記録されている 40

指導者を失った信徒たちの動揺と分化

最大の庇護者であった大友宗麟を失い、信仰の中心地であったデウス堂を破壊された豊後の信徒たちは、大きな混乱と岐路に立たされた。領主である義統の命令に従い、表向き棄教する者が多数を占めた 41 。しかし、その内実は様々であった。完全に信仰を捨てる者、仏教徒を装いながらも密かに信仰を守り続ける「潜伏キリシタン」となる者、そして弾圧を逃れて他領へと移住する者へと分化していったのである 26

この時から、日本のキリスト教のあり方は質的な大転換を遂げる。宣教師という公的な指導者を失った潜伏キリシタンたちは、自らの共同体の中から指導者を選び出し、独自の信仰組織を形成していった。洗礼を授ける「水方(みずかた)」や、教義と暦を伝える「帳方(ちょうかた)」といった役職が生まれ、信徒主導の秘密結社的な共同体が各地に根付いていく 46 。また、弾圧の目を逃れるため、仏像に見立てたマリア観音を崇拝したり、人里離れた洞窟を礼拝の場としたりするなど、日本の土着の宗教や自然観と融合した、特異な信仰形態が育まれていった 47 。府内デウス堂の破却は、宣教師主導の「公的で拡大志向の宗教」を終焉させ、信徒主導の「秘教的で内向的な信仰共同体」を誕生させる決定的な契機となった。物理的な拠点の喪失が、かえって信仰の内面化と独自の文化形成を促したという、逆説的な結果を生んだのである。

「豊後崩れ」への序章

天正十五年(1587年)のこの一連の事件は、豊後におけるキリシタン弾圧の序章に過ぎなかった。江戸時代に入ると、徳川幕府はさらに厳格な禁教政策を全国で展開する。豊後の地でも、かつてキリシタンであった者たちへの監視は強化され、寛文年間(1661年〜1673年)には「豊後崩れ」と呼ばれる大規模な一斉検挙が行われ、数百人もの信徒が捕らえられ、殉教した 26 。1587年の悲劇は、この長く続く受難の時代の始まりを告げるものであった。

失われた先進技術:キリシタン版印刷機の行方

府内デウス堂の破却が象徴する文化的損失の一つに、活版印刷技術の行方がある。天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルク式活版印刷機は、当初、肥前加津佐のコレジオに設置され、日本初の活字本である「キリシタン版」の印刷を開始した 50 。その後、弾圧を逃れて印刷所は天草、長崎へと移転を繰り返したが、最終的には慶長十九年(1614年)の全国禁教令によって、印刷機そのものがマカオへと持ち去られてしまった 52 。府内コレジオの閉鎖と破却は、この先進的な印刷文化が日本から失われる過程における、象徴的な出来事でもあったのだ。


表2:天正14年〜15年 関連年表

年月日(西暦/和暦)

出来事

場所

関連人物

影響・意義

1586年(天正14年)12月

島津軍、豊後に侵攻。豊薩合戦始まる。

豊後国

島津義久, 大友宗麟

府内の教会施設が戦火で物理的な被害を受ける(第一次破壊)。

1587年(天正15年)4月

豊臣秀長軍、豊後上陸。島津軍撤退開始。

豊後国

豊臣秀長, 黒田孝高

豊薩合戦の戦局が転換。大友氏は滅亡を免れる。

1587年5月23日

大友宗麟、病死(享年58)。

豊後国津久見

大友宗麟

豊後キリシタンの最大の庇護者が死去。追放令への防波堤を失う。

1587年6月18日

秀吉、「覚」11か条を発布。人身売買を禁止。

筑前国

豊臣秀吉

追放令の正当性を補強する布石。

1587年6月19日

秀吉、「定」5か条(伴天連追放令)を発布。

筑前国箱崎

豊臣秀吉, G.コエリョ

宣教師に20日以内の国外退去を命令。日本のキリスト教政策の歴史的転換点。

1587年7月〜

大友義統、秀吉の勧告を受け棄教。

豊後国府内

大友義統

領国安堵のため、天下人の意向に従う。

1587年7月〜8月頃

義統、府内デウス堂・コレジオ等の破却を命令・実行。

豊後国府内

大友義統, 志賀親次

豊後キリシタン王国の象徴が公式に破壊される(第二次破壊)。志賀親次は抵抗。

1587年7月以降

追放された宣教師、平戸に集結後、各地に潜伏。

平戸、山口、岡城など

ルイス・フロイス

宣教師による公的な布教活動が終わり、潜伏の時代が始まる。


終章:歴史的意義と後世への影響

天正十五年(1587年)の豊後府内デウス堂破却は、戦国時代の終焉と近世社会の到来を告げる、日本の歴史における一つの分水嶺であった。この事件は、単に豊後という一地方の悲劇に留まらず、日本の宗教、文化、そして国際関係のあり方に、深く、そして永続的な影響を及ぼした。

日本キリシタン史における転換点

本報告書で詳述してきた通り、府内デウス堂の破却とそれに連なる伴天連追放令は、織田信長の時代から続いたキリスト教の「公然たる拡大期」に、決定的な終止符を打った。それは、豊臣政権、そして続く徳川幕府による約250年間にも及ぶ、長く厳しい弾圧と潜伏の時代の幕開けを告げる画期的な事件であった。この日を境に、日本のキリスト教は、社会の表舞台から姿を消し、深く内面化された信仰として、あるいは為政者にとって排除すべき異物として、全く異なる歴史を歩むことを運命づけられたのである。

大友氏の没落との関連

皮肉なことに、父・宗麟が築いた偉大な文化遺産を破壊し、秀吉への絶対的な恭順を示すことで家の存続を図った大友義統であったが、その願いは叶わなかった。彼は、キリシタンという大友氏の先進性と独自性を象徴するアイデンティティを自ら放棄することで、結果的に家中の求心力をも失っていった。志賀親次との対立に象徴される家臣団の分裂は、その後の文禄の役における義統の致命的な失態へと繋がり、最終的に大友氏は改易され、戦国大名としての歴史に幕を下ろすことになる 3 。府内デウス堂の破却は、大友氏の栄光の終わりと、その没落の始まりを告げる弔鐘でもあったのだ。

遺跡として、記憶として:現代に遺る豊後キリシタン文化の痕跡

かつて南蛮文化が花開いた豊後の地には、今なおその記憶を伝える史跡が点在している。大分市顕徳町には「デウス堂跡」の碑が静かに佇み 15 、大友氏遺跡に隣接する「南蛮BVNGO交流館」は、往時の国際都市の姿を現代に伝えている 56

府内での悲劇の後も、信仰の灯は多様な形で受け継がれた。弾圧を逃れた宣教師をかくまった竹田の「キリシタン洞窟礼拝堂」 58 、信徒たちが祈りを捧げた臼杵の「磨崖クルス」 60 、そして奇しくも府内が破却された年に国東半島で生を受け、遥かローマを目指した日本人司祭を記念する「ペトロ・カスイ岐部記念公園」 61 。これらの遺産は、公的な拠点を失った後も、人々の心の中で生き続けた信仰の強靭さを物語っている。

天正十五年の臼杵(府内)南蛮寺破却は、近世日本の「鎖国」体制へと向かう、大きな歴史の潮流における最初の大きな一歩であった。それは、異文化とどのように向き合い、自らの社会をいかに構築していくかという、時代を超えて繰り返される普遍的な問いを、現代の我々にも鋭く投げかけているのである。

引用文献

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  61. ペトロ・カスイ岐部記念公園(大分県国東市)ーー「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2021/08/11/000000
  62. ペトロ・カスイ岐部 -日本人巡礼者として聖地エルサレムへ- - 大分県ホームページ https://www.pref.oita.jp/site/archive/200588.html