最終更新日 2025-10-05

興津宿整備(1601)

1601年、徳川家康は東海道興津宿を整備。薩埵峠の要衝に位置し、駿府の陸海交通網の拠点として、戦国終焉と泰平の礎を築いた。
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戦国時代の終焉と国家建設の黎明:慶長六年「興津宿整備」の戦略的意義に関する徹底分析

序論:慶長六年の布告、その戦国時代的文脈

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の地で天下分け目の戦いに勝利した徳川家康は、名実ともに日本の最高権力者の地位を確立した。しかし、この軍事的勝利は、長く続いた戦国乱世の完全な終焉を意味するものではなかった。西国には依然として豊臣恩顧の大名が割拠し、大坂城には豊臣秀頼が存在するという、潜在的な政治的火種を抱えていた。家康にとっての真の課題は、戦乱で疲弊し、分断された国家をいかにして実効支配し、恒久的で安定した統治体制を築き上げるかにあった。この壮大な国家再建事業において、家康が最優先課題の一つとして着手したのが、全国的な交通網の整備であった 1

慶長六年(1601年)、関ヶ原の戦いの熱気も冷めやらぬうちに発令された東海道宿駅伝馬制度の制定は、この文脈で理解されねばならない 3 。そして、その一環として行われた駿河国「興津宿」の整備は、単なるインフラ整備という次元を遥かに超える、深遠な戦略的意図を内包していた。それは、戦国時代の経験から導き出された、軍事、経済、そして情報を一体として掌握するための国家統治システムの構築であり、来るべき泰平の世の礎を築くための布石であった。

本レポートは、この「興津宿整備(1601年)」という事象を、それが持つ戦国時代的文脈、すなわち軍事的緊張と国家建設への意志が交錯する時代の視点から徹底的に分析するものである。特に、徳川の政策が、今川氏や武田氏といった先達の戦国大名がこの地で築き上げた交通・兵站システムの遺産をいかに継承し、そして発展させたのかを解明する 4 。興津宿の誕生は、平和な時代の旅人の往来を支える宿場町の始まりであると同時に、戦国の論理に基づいた兵站線確保という、極めて現実的な要請から生まれた、新時代の幕開けを象徴する出来事だったのである。

第一章:天下統一の兵站線:徳川家康の全国交通網構想

徳川家康が構想した全国交通網、とりわけその中核をなす宿駅伝馬制度は、全くの白紙から創造されたものではない。それは、戦国時代の諸大名が、自らの領国支配と軍事行動のために整備した伝馬制度を継承し、それを全国規模で再編・統一するという、壮大な試みであった 4 。この章では、家康の構想の全体像と、その実現に向けた具体的な仕組みを解明する。

戦国時代における伝馬制度の遺産

戦国時代、各大名は領国内の迅速な情報伝達と軍勢移動のために、独自の伝馬制度を整備していた。駿河国においても、今川氏がその先進的な支配体制の一環として伝馬制度を運用していたことが史料から確認できる。例えば、永禄三年(1560年)に今川氏真が発給した文書には、駿河国丸子宿における伝馬賃銭の規定が見られ、既に宿駅を拠点とした交通システムが機能していたことがわかる 5 。今川氏親の時代には、駿府から遠江各地への連絡路が整備され、伝馬制度が充実されたことが、広域支配を可能にした要因の一つとされている 6

今川氏の支配を覆した武田氏もまた、この地の交通網の重要性を深く認識していた。武田勝頼は、本国である甲斐と新たに支配下に置いた駿河を結ぶ中道往還沿いの集落に伝馬制度を定めるなど、軍事・経済両面から交通制度の整備を進めている 7 。これらの戦国大名による制度は、あくまで領国内に限定されたものであったが、宿駅を中継点として人馬をリレー形式で継ぎ立てるという基本構造は、後の徳川幕府の制度に直接的な影響を与えた。家康は、これらの先行事例を、いわば「実証実験」として学び、その有効性と課題を分析した上で、自らの全国統一構想へと昇華させたのである。

伝馬朱印状による権力の一元化

慶長六年(1601年)正月、家康は天下統一事業の具体的な第一歩として、東海道の各宿場に対し、一斉に「伝馬朱印状」を交付した 8 。これは、桑名宿や吉田宿といった東海道の要衝はもちろん、興津宿にも「百姓・年寄中」宛てに下付された 10 。この朱印状には、馬の手綱を引く馬士の姿が描かれた「駒曳朱印」と呼ばれる家康自身の朱印が押されており、その権威は絶大なものであった 10

朱印状と共に、代官頭であった伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の連署による「御伝馬之定」も交付され、宿場が果たすべき義務が具体的に定められた 9 。その核心は、幕府の公用旅行者が、朱印状と同じ「駒曳朱印」が押された伝馬手形を提示した場合、宿場は無料で人馬を提供しなければならないという点にあった 10 。これにより、幕府は江戸から上方までを結ぶ安定した公用交通網を手中に収めることになった。

この「伝馬朱印状」システムは、単なる交通制度の整備に留まるものではなかった。なぜ朱印状という極めて格式の高い文書形式が用いられたのか。それは、この制度が徳川の権威を全国の末端にまで浸透させるための「権力の象徴」としての役割を担っていたからである。各宿場にこの朱印状を常備させ、日々、公用旅行者の手形と照合させるという行為は、徳川の支配権を現場レベルで繰り返し確認・再生産する儀式的な意味合いを持っていた。興津のような一宿場の住民たちは、この朱印状を介して、自分たちが天下人である家康の命令系統に直接組み込まれていることを日々意識させられたのである。これは、物理的な交通網の整備と同時に、人々の心に徳川の支配を刻み込む、高度な統治技術であった。来るべき大坂の陣(1614-15年)を見据えれば、この東海道の完全掌握は、有事の際に瞬時に大軍を動員・維持できる体制を平時から構築しておくための、国家規模の兵站システムへの先行投資という側面も持っていた。


表1:戦国期から徳川初期における駿河の伝馬制度比較

項目

今川氏

武田氏

徳川幕府

主体

駿河・遠江の戦国大名

甲斐・信濃・駿河等の戦国大名

全国統一政権

目的

領国支配、軍事行動

領国間(甲駿)の連絡、軍事行動

全国支配、公用交通、軍事行動

管理体制

領国内に限定

支配地域内に限定

全国規模(五街道)で統一

権威の源泉

朱印状、判物 5

朱印状、掟書 7

伝馬朱印状(駒曳朱印) 10

特徴

宿駅での賃銭規定など、経済的側面も考慮 5

征服地と本国を結ぶ戦略的路線を重視 14

全国統一基準による制度化、幕府権威の象徴 9


第二章:駿河国の地政学的重要性:薩埵峠と清見関の遺産

徳川家康が東海道の数ある場所の中から、特に興津を宿駅として指定したのには、歴史的・地理的に見て必然とも言える理由があった。その鍵を握るのが、東海道随一の難所であり、古来より軍事上の要衝として知られてきた「薩埵峠」の存在である。興津の価値は、この峠をいかに管理下に置くかという、戦国時代を通じて繰り返された命題と分かちがたく結びついていた。

古代からの交通・軍事の要衝

興津の地が持つ重要性は、江戸時代に始まったものではない。遡ること飛鳥時代、680年頃には既に、東北の蝦夷に対する備えとして「清見関」がこの地に設けられていた 15 。これは、興津が古くから大和朝廷にとって、坂東(関東地方)を抑えるための極めて重要な戦略拠点と認識されていたことを示している。関所の鎮護のために建立された仏堂が、後の名刹・清見寺の始まりと伝えられていることからも、この地が単なる通過点ではなく、国家的な意味を持つ場所であったことがうかがえる 16

平安時代には、延喜式に「息津(おきつ)の駅家」として駅馬が十匹配置された記録があり、律令制下の公式な交通網の一部を担っていた 16 。このように、古代から交通と軍事の結節点としての役割を担ってきた歴史的蓄積が、近世における宿駅選定の強固な素地となっていたのである。

戦国時代における薩埵峠の攻防

時代が下り、戦国時代に入ると、興津の戦略的価値は薩埵峠をめぐる攻防によって一層高まることとなる。薩埵峠は、山塊が駿河湾にまで迫り、道が著しく狭隘になる地形的な特徴を持つ 17 。この天然の要害を抑えることは、駿河国、ひいては東西日本の交通路を掌握することを意味した。

そのため、この峠は繰り返し合戦の舞台となった。南北朝時代には、足利尊氏と弟の直義が覇権を争った「観応の擾乱」において、両軍がこの地で激突している 17 。戦国時代で最も著名なのは、永禄十一年(1568年)十二月に行われた「薩埵山の戦い」である。駿河への侵攻を開始した甲斐の武田信玄に対し、今川氏真は主力をこの峠に派遣して迎え撃とうとした 18 。甲斐から今川氏の本拠地である駿府へ至るには、この峠を通過するほかなく、まさに駿河防衛の生命線であった 18 。結果的に今川軍は敗れ、氏真は本陣を置いていた清見寺から撤退を余儀なくされる 18 。翌年には、今川氏の援軍として駆けつけた北条氏政の軍勢が、再びこの峠で武田軍と数ヶ月にわたり対峙するなど、薩埵峠は駿河支配の帰趨を決する戦略的チョークポイントとして機能した 17

また、この峠は純粋な交通の難所でもあった。かつて旅人たちは、崖下の海岸線を波の合間を縫って駆け抜ける「親知らず子知らず」と呼ばれる危険なルートを通らねばならなかった 17 。峠越えの道が開かれてからも、険しい山道が続くことに変わりはなく、西へ向かう旅人は峠を越えて興津でようやく一息つき、東へ向かう旅人はこの難所を前に興津で旅装を整えた 15

家康にとって、この薩埵峠は、戦国時代の記憶が生々しく残る「不安定要素」の象徴であった。支配者が変わるたびに通行が脅かされるような場所を放置したままでは、恒久的な全国支配は成し得ない。彼が目指したのは、このような軍事的な要衝を、逆に自らの支配を強化する拠点へと転換することであった。峠の東麓に位置する興津に幕府の公式な宿駅を設置し、厳格な管理下に置くことで、峠の通行管理、情報収集、そして有事の際の部隊展開の拠点を恒久的に確保することができる。つまり、興津宿の設置は、薩埵峠という「不安定な点」を、「安定した支配の結節点」へと変貌させるための、極めて戦略的な一手だったのである。これにより、戦国時代の「戦いの場」は、徳川の泰平の世における「支配の場」へと、その性格を根本から変えることになった。

第三章:興津宿整備のリアルタイム・クロノロジー(慶長五年~六年)

慶長六年(1601年)の「興津宿整備」は、ある日突然完了した静的な事象ではない。それは、関ヶ原の戦いという激動の時代背景の中で、幕府のトップダウンの指令と、現地の村落共同体の対応が交錯する、動的なプロセスであった。本章では、関連する出来事を時系列で再構築し、当時の人々がどのような手順で宿駅という新たなシステムを立ち上げていったのかをリアルタイムで追跡する。


表2:興津宿整備に関連する主要年表(1600年~1635年)

年号

西暦

主要な出来事(幕府・全国)

興津宿における関連事項

慶長5年

1600年

9月、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利。

東海道筋の徳川氏による支配が確定。

慶長6年

1601年

1月、東海道宿駅伝馬制度を発令。

興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状が下付され、正式に宿駅となる 12 。問屋場が設置され、伝馬役の運営が開始される。

慶長12年

1607年

徳川家康、駿府城を大御所政治の拠点とする。

駿府の外港・江尻湊との連携が強化され、興津宿の重要性が増す 22

元和元年

1615年

大坂夏の陣。豊臣氏が滅亡し、元和偃武。

全国的な泰平の世が到来し、交通量が次第に増加。

寛永12年

1635年

参勤交代が制度化される(武家諸法度)。

交通量が激増。本陣制度が確立され、市川家(東本陣)と手塚家(西本陣)が月番で務めることになる 23 。常備人馬が100人・100疋に増強される 24


慶長五年秋~六年正月:宿駅指定への道

全ての始まりは、慶長五年(1600年)九月の関ヶ原の戦いにおける家康の勝利であった。これにより、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道筋の支配権は、名実ともに徳川氏のものとなった。戦後処理と並行して、家康は直ちに新たな国家体制の構築に着手し、その中核に交通網の整備を据えた 1

そして年が明けた慶長六年(1601年)正月、家康は江戸において、東海道に宿駅を設け、伝馬制度を施行することを正式に布告した 3 。この時、吉原宿、吉田宿など東海道の主要な地点に対して、一斉に「伝馬朱印状」が交付された 8 。興津も例外ではなく、この時に「興津の百姓・年寄中」を名宛人として朱印状が下付され、江戸日本橋から数えて十七番目の宿場として公式に指定されたのである 12

この「百姓・年寄中」という名宛人は、極めて重要である。幕府は、興津という地域全体に漠然と命令を下したのではなく、地域の意思決定を担う村の有力者層を直接のカウンターパートとして選んだ。これは、既存の村落共同体の自治構造を利用しつつ、その中に幕府の統治システムを巧みに組み込むという、家康の統治手法を象徴している。

慶長六年春以降:現場でのシステム構築

伝馬朱印状という幕府からの絶対的な指令を受け取った興津の有力者たちは、直ちに宿場としての運営体制構築に着手した。そのプロセスは、既存の村の仕組みを土台としながらも、幕府が要求する新たな機能を追加していく形で進められたと考えられる。

まず設置されたのが、宿場の心臓部となる「問屋場」である 26 。ここは、幕府の公用旅行者の荷物を次の宿場まで継ぎ立てるための人馬の手配、いわゆる「継立業務」を行う中核施設であった 28 。現在の興津宿公園がその跡地とされている 29 。当初、宿場に常備を義務付けられた人馬の数は、由比宿の例などから推測すると36疋程度であった可能性が高い 30 。これは、後に参勤交代が制度化され、100人・100疋という膨大な数が義務付けられる時代に比べれば、比較的小規模なスタートであった 24

次に、大名や公家といった高位の旅行者の宿泊施設の問題である。寛永十二年(1635年)に「本陣」という制度が公式に確立される以前ではあったが、実質的にそれに準ずる機能を持つ施設は、宿駅指定当初から必要とされた 31 。興津においては、古くからの地域の有力者であった市川家(後の東本陣)や手塚家(後の西本陣)、そして戦国時代に武田氏の家臣で、武田氏滅亡後に商人となった望月氏(屋号は水口屋、後の脇本陣)などが、その役割を担う有力候補として、この初期段階から幕府との関係を深めていったと考えられる 16

こうして、興津は本宿と中宿町を中心とした宿場町としての骨格を形成し始めた 25 。幕府からの宿駅指定は、単に公的な義務を課すだけでなく、問屋役人や本陣役といった特権的な地位と、それに伴う経済的利益をもたらした。これにより、幕府に協力的な地域の有力者たちは、単なる村の長老から、幕府の権威を背景に持つ新たな「支配エリート層」へと変貌を遂げていく。例えば、東本陣を務めた市川家は、後に宿場が大火に見舞われた際に私財を投じて復興を支援するなど、公私にわたって宿場の中心的存在となった 33 。これは、戦国時代の在地領主であった興津氏などに代わる、近世的な新しい支配構造を末端レベルで構築する、巧みな社会再編のプロセスでもあった。家康は、武力だけでなく、制度を通じて地方を着実に掌握していったのである。

第四章:陸路と海路の結節点:興津宿と江尻湊の戦略的連携

慶長六年の興津宿整備の真の戦略的価値を理解するためには、興津宿を単体の「点」としてではなく、隣接する江尻宿、その背後にある江尻湊(現在の清水港)、そして徳川家康が晩年の拠点とした駿府城との関係性の中で、一つの広域的な「システム」として捉える必要がある。家康の狙いは、陸路と海路・水路を緊密に連携させた複合的な物流・兵站ネットワークを構築し、自身の政治的・軍事的拠点である駿府の機能を盤石にすることにあった。興津宿は、この壮大な構想を実現するための、東の玄関口として極めて重要な役割を担っていた。

駿府の外港・江尻湊の再整備

江尻湊は、その歴史を古く、室町時代には既に今川氏の駿府における外港として機能し、軍船の基地が置かれるなど、重要な役割を果たしていた 22 。戦国時代末期、駿河に侵攻した武田信玄は、この地の重要性をさらに高め、湊の対岸に江尻城を築き、水軍の基地を置いて駿河支配の拠点とした 34

家康もまた、この湊が持つ潜在能力を深く認識していた。特に関ヶ原の戦い以降、そして慶長十二年(1607年)に大御所として駿府城に入ってからは、江尻湊を「駿府の外港」として本格的に再整備する 22 。慶長十九年(1614年)には、奉行の彦坂光正に命じて湊周辺を埋め立てて新たな湊町を造成し、廻船問屋が集まる商業地区を形成させた 22 。これにより、江尻湊は江戸や大坂、さらには富士川水運を通じて甲斐・信濃からもたらされる物資が集積する、一大物流ハブへと変貌を遂げた 38

駿府城への兵站線の確立

家康の構想は、単に湊を整備するだけに留まらなかった。彼の独創性は、湊で陸揚げされた大量の物資を、いかにして効率的かつ安全に内陸の駿府城まで輸送するかに向けられた。その答えが、巴川を利用した舟運の確立であった 40 。家康は、巴川の流れを物資輸送に活用する計画を立て、江尻の港から駿府城下までを「水の道」で結んだ 36 。これにより、駿府城築城のための資材や、城下の十万人の人口を支える食糧、塩といった生活必需品、さらには有事の際の兵糧や武具など、あらゆる物資が安定的に供給される体制が整った 22

この陸海連携の思想は、東海道のルート設定にも明確に表れている。江尻宿付近の東海道は、不自然なほど大きく迂回し、江尻湊に隣接するルートを通っている 22 。これは、幕府がこの陸海交通の結節点である江尻を、国家の大動脈である東海道に意図的に組み込もうとした動かぬ証拠である。

複合ネットワークにおける興津宿の役割

この駿府を中心とした壮大な兵站ネットワークにおいて、興津宿は決定的に重要な役割を果たした。興津宿は、この「駿府城(司令部)- 江尻湊(兵站拠点)」というシステムの、東側の玄関口に位置していたからである。

第一に、興津宿は薩埵峠という最大のボトルネックを越えてくる陸路の交通を管理し、統制下に置く前方基地であった。東国からの人、モノ、情報は、まず興津宿で集約・管理され、そこから江尻湊、そして駿府へと繋がれた。第二に、興津は甲斐国へと通じる身延街道(甲州往還)の分岐点でもあった 15 。これは、武田氏の旧領であり、依然として戦略的に無視できない甲斐方面へのアクセスを確保するという意味でも重要であった。山国である甲斐への塩や海産物の供給ルートの起点として、経済的な意味合いも大きかった 31

このように見ていくと、家康が駿河国において構築しようとしたのは、単なる街道と港の集合体ではない。それは、「駿府城」という頭脳・司令部があり、「江尻湊」という物資の集積・分配を担う心臓部があり、そして「興津宿」という東からの脅威を警戒し、陸路の交通を円滑にするための前方警戒・中継基地がある、という三位一体の軍事・経済ブロックであった。このシステムは、平時においては駿府を中心とする経済圏を潤し、有事においては瞬時に軍事拠点として機能する、極めて強靭な構造を持っていた。慶長六年の興津宿整備は、この壮大なパズルの、まさに最後のピースをはめ込む行為だったのである。

第五章:宿駅制度の確立と地域社会への影響

慶長六年に発令された宿駅伝馬制度は、興津の地域社会に根底からの変革をもたらした。問屋場や本陣といった新たな施設と役職が生まれ、人々の生活は伝馬役という公的な義務と密接に結びついた。街道を往来する無数の人々は、地域に経済的な繁栄をもたらす一方で、住民には新たな負担を強いることにもなった。ここでは、宿駅制度の確立が興津の社会にもたらした光と影の両側面を分析する。

宿場運営の中核:問屋場と本陣

宿場の運営において最も重要な施設は「問屋場」であった 28 。ここは、幕府の公用旅行者や大名行列が必要とする人馬を手配し、次の宿場まで荷物を継ぎ立てる業務を取り仕切る、宿場の心臓部であった 27 。同時に、幕府の書状を中継する飛脚業務も担っており、交通と通信の拠点として機能した 42 。問屋場では、宿役人が旅行者の持つ手形や証文を確認し、人馬指(じんばさし)と呼ばれる役人が人足や馬に指示を与え、前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えるという光景が日常的に繰り広げられていた 27

大名や公家、幕府の高級役人といった要人の宿泊・休憩施設として指定されたのが「本陣」と「脇本陣」である。興津宿では、寛永十二年(1635年)の参勤交代制度化に伴い本陣制度が確立されると、市川家が東本陣、手塚家が西本陣を務め、両家が月交代でその任にあたった 23 。彼らは地域の有力者であり、本陣役を務めることは大きな名誉であると同時に、宿場運営における中心的な役割を担うことを意味した。また、脇本陣であった水口屋は、武田氏の旧臣であった望月氏が商人となり、旅籠を営んだのが始まりとされる 16 。明治時代以降も、西園寺公望や伊藤博文といった政財界の要人が宿泊する名旅館として、その名を知られた 16

住民への負担:助郷制度の導入

宿駅制度は、宿場の住民に伝馬役という重い負担を課した。特に、参勤交代が制度化され、交通量が激増すると、各宿場に常備を義務付けられた人馬(当初は36疋程度だったものが、後に100人・100疋に増強された)だけでは、到底需要を賄いきれなくなった 24 。この不足分を補うために導入されたのが「助郷(すけごう)」制度である。これは、宿場周辺の村々に対し、要請に応じて人馬を提供する義務を課すものであった 44

この助郷役は、指定された村々にとって極めて過酷な負担であった。農繁期であろうと、幕府の命令があれば人馬を供出しなければならず、村の農業生産に深刻な打撃を与えることも少なくなかった 46 。隣の由比宿では、宿場単独での対応が困難であったため、周辺の11か村が「加宿」として指定され、共同で問屋場を運営したという記録が残っている 30 。興津宿においても、同様に周辺の村々が助郷に指定され、宿場の機能を支えるために大きな犠牲を強いられたことは想像に難くない。

宿駅制度は、結果として地域社会に新たな「分断と再編」をもたらした。宿場町は、伝馬役の代償として年貢の一部免除といった特権を得て、旅人相手の商業で経済的に潤った 47 。一方で、助郷を課せられた周辺の農村は、直接的な見返りもないまま重い負担を強いられ、疲弊していった。街道沿いの「都市」である宿場と、その機能を支える「農村」である助郷村との間に、新たな経済的・社会的格差が生まれることになったのである。東海道の繁栄という華やかな歴史の裏には、国家の公用交通を支えるために犠牲を強いられた農村の存在があった。

経済と文化の変容

一方で、宿駅の設置は地域に新たな経済的・文化的な活気をもたらした。絶え間なく人々が往来することで、旅籠や茶屋、土産物屋といった商業が発展した 48 。興津宿では、駿河湾で獲れる新鮮な魚を使った「興津鯛」や、旅の疲れに効くとされる「万能膏」が名物として知られるようになった 50 。また、江戸時代の中期から後期にかけては、背後を流れる興津川流域で生産される和紙の集散地としても栄えた 51

文化的な交流も活発になった。特に、江戸時代を通じて12回来日した朝鮮通信使は、興津の清見寺を常宿としており、随員たちは地域の文人や学者たちと詩文や書画を通じて深い交流を行った 53 。彼らが残した記録には、清見寺からの眺望の美しさが「仙境のようであった」と記されており、国際的な文化交流の舞台としての側面も持っていた 55 。興津宿の整備は、この地を徳川幕府の統治システムに組み込むと同時に、全国、さらには海外へと開かれた文化の窓口へと変貌させたのである。

結論:戦国から泰平へ、興津宿が果たした役割

慶長六年(1601年)の「興津宿整備」は、日本の歴史が戦国の動乱から近世の泰平へと大きく舵を切る、その転換点に位置する象徴的な出来事であった。本レポートで詳述してきたように、それは単なる一つの宿場の誕生に留まらず、徳川家康が戦国時代の経験を糧として築き上げた、新たな国家統治システムの縮図であった。

第一に、興津宿の整備は、戦国時代の軍事的要請が、近世の公的交通・物流システムへと昇華されていく歴史的プロセスを明確に示している。家康は、今川氏や武田氏が領国経営のために築いた地域的な伝馬制度を継承・発展させ、それを全国規模の統一的な支配網へと再編した。特に、軍事上の最大の難所であった薩埵峠の麓に興津宿を設置したことは、戦国時代における「不安定な戦いの場」を、徳川の支配下にある「安定した交通の結節点」へと転換させる、極めて戦略的な一手であった。

第二に、興津宿は、家康の拠点である駿府を中心とした、陸海連携の複合的な兵站・物流ネットワークの重要な構成要素であった。興津宿(陸路の中継点)と江尻湊(海路・水路の拠点)、そして駿府城(政治・軍事の中心)が一体となることで、平時における経済的繁栄と、有事における迅速な軍事行動を両立させる強靭なシステムが構築された。これは、兵站の重要性を骨身に染みて理解していた戦国武将・家康ならではの深謀遠慮の現れであった。

第三に、宿駅制度の導入は、興津の地域社会を根底から再編した。問屋場や本陣といった新たな支配機構が生まれ、幕府に協力的な有力者層が新たなエリートとして台頭する一方で、助郷という形で周辺農村に重い負担が課せられた。これは、徳川の統治システムが、地域の隅々にまで浸透していく過程で生じた光と影の両側面を示している。

総括すれば、慶長六年の興津宿整備は、戦国という時代の終わりと、徳川による泰平の世の始まりを告げる画期的な事業であった。それは、薩埵峠という物理的な「断絶」の象徴を、陸と海を結ぶ「結合」の拠点へと変貌させ、人・モノ・情報が安定的に流通する新たな時代の礎を築いた。興津宿の歴史は、軍事力による支配から、制度とインフラによる統治へと移行していく、近世日本の黎明期そのものを体現しているのである。

引用文献

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  49. 岡屋旅館の創業 / 江戸から続く宿場・興津宿の最後の一軒、その歴史とともに後世へ - Readyfor https://readyfor.jp/projects/okayaryokan/announcements/80546
  50. 東海道~東と西が出会う場所~:静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009497.html
  51. 興津宿 - しずおか東海道まちあるき https://shizuoka.tokaido-guide.jp/shukuba/4
  52. 駿河歩人(するがあいんど):興津宿 https://www.suruga-aind.biz/navi/okitsu/
  53. 東海道五十三次の宿場町を巡ろう!由比宿〜興津宿 - EXダイナミックパック https://travel.jr-central.co.jp/service/tokaido53/yui-okitsu/
  54. 興津宿 日本はここから見えていた 約4km https://www.city.shizuoka.lg.jp/documents/4321/okitu.pdf
  55. 興津宿 | 【日本遺産】駿州の旅(静岡市・藤枝市) 弥次さん喜多さんと巡る東海道中膝栗毛 https://tokaido-sunshu.jp/spots/4.html