最終更新日 2025-09-22

葛西大崎一揆後仕置(1591)

1590年、豊臣秀吉の奥羽仕置で葛西・大崎氏が改易され、新領主・木村吉清の統治に不満が爆発し一揆が発生。伊達政宗が鎮圧するも扇動疑惑が浮上。秀吉の裁定で政宗は減転封され、岩出山城へ移り仙台藩の礎を築いた。
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葛西大崎一揆と奥羽再仕置の全貌:豊臣天下統一の最終局面における動乱と秩序形成

序章:天下統一の波、奥羽へ

天正18年(1590年)7月、小田原北条氏の滅亡をもって、豊臣秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た 1 。残された最後の広大な領域である奥羽に対し、秀吉は中央集権的な支配体制を確立すべく、同年8月、自ら会津黒川城(後の会津若松城)に下向し、奥羽の諸大名に対する大規模な領地再編、すなわち「奥羽仕置」を断行した 1 。これは、奥羽地方に長らく根付いていた伝統的な政治秩序を根底から覆し、豊臣政権の絶対的な権威をこの地に刻み込むための強硬な措置であった。

改易された名門、葛西氏と大崎氏

この奥羽仕置において、陸奥国中部に広大な所領を有していた葛西晴信と大崎義隆は、小田原征伐に参陣しなかったことを理由に、その全領地を没収される「改易」という最も厳しい処分を受けた 2 。葛西氏と大崎氏は、共に鎌倉時代以来の名門であり、数百年にわたり地域社会に深く根を張った存在であった 5 。しかし、当時の彼らは伊達政宗の強大な勢力下に事実上組み込まれており、独自の判断で軍勢を動かし小田原へ参陣することが能わない状況にあった 4 。秀吉は、この形式的な不参を口実に、両氏の長年の歴史と権威を一切顧みることなく、容赦のない裁定を下したのである。これは、秀吉が奥羽の旧来の権力構造を解体し、自らの基準による新たな秩序を構築する強い意志を持っていたことの証左に他ならない。

新領主・木村吉清の登場とその構造的欠陥

葛西・大崎両氏が支配していた旧領13郡、その石高は実に約30万石に及んだが 7 、この広大な土地は秀吉の側近である木村吉清・清久父子に与えられた 2 。吉清は元々明智光秀の旧臣であり、蒲生氏郷の推挙によって秀吉に取り立てられた新興の武将であった 3 。奥州仕置においては浅野長吉(長政)の下で政宗の指南役を務めるなど、秀吉の側近として功績を挙げていたが、その出自は5千石程度の小身に過ぎなかった 8

この人選には、秀吉の高度な政治的計算が隠されていた。すなわち、伊達政宗の勢力圏に隣接するこの戦略的要地に、自らの意向を忠実に実行する直臣を配置することで、奥州の最大実力者である政宗への強力な牽制とする狙いがあった 9 。しかし、この決定は同時に、来るべき動乱の根本的な原因を内包していた。5千石の小身から一気に30万石の大領主へと抜擢された木村氏には、広大な領国を安定的に統治するために不可欠な、譜代の家臣団も、在地社会との繋がりも、そして統治のノウハウも決定的に不足していたのである 3 。この統治能力と領地規模の著しい不均衡は、中央の論理を地方の現実に優先させた結果であり、悲劇の序章となった。


【表1】葛西大崎一揆 詳細年表

年月日 (天正)

主要な出来事

関係人物

場所

18年 (1590)

8月

奥羽仕置。葛西・大崎両氏が改易。木村吉清が新領主となる。

豊臣秀吉, 葛西晴信, 大崎義隆, 木村吉清

会津黒川城

10月初旬

伝馬役を巡る紛争が発生。一揆の予兆となる。

木村氏家臣, 旧大崎家臣, 領民

加美郡米泉

10月16日

旧葛西家臣らが蜂起し、岩手沢城を占拠。一揆が全域に拡大。

氏家吉継旧臣, 領民

岩手沢城

10月中旬

木村吉清・清久父子、一揆勢に包囲され佐沼城に籠城。

木村吉清, 木村清久, 一揆勢

佐沼城

10月26日

浅野長吉、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子救出を命令。

浅野長吉, 蒲生氏郷, 伊達政宗

二本松城

11月15日

政宗家臣・須田伯耆らが氏郷に「政宗が一揆を扇動」と密告。

須田伯耆, 曾根四郎助, 蒲生氏郷

氏郷陣中

11月16日

氏郷、共同作戦を拒否し単独で名生城を占領、籠城。

蒲生氏郷

名生城

11月24日

政宗、単独で佐沼城を攻略し木村親子を救出。

伊達政宗

佐沼城

12月7日

大崎義隆、上洛し秀吉から旧領1/3の安堵朱印状を得る。

大崎義隆, 豊臣秀吉

19年 (1591)

1月10日

石田三成、政宗に上洛を命令。

石田三成, 伊達政宗

相馬領

2月4日

政宗、京で査問を受ける。「鶺鴒の目に針の穴」の弁明。

伊達政宗, 豊臣秀吉

5月

政宗、米沢に帰還。秀吉は秀次・家康を総大将とする再征軍を派遣。

伊達政宗, 豊臣秀次, 徳川家康

米沢

6月14日

政宗、一揆の再討伐に出陣。

伊達政宗

米沢

6月25日

伊達軍、宮崎城を攻略。

伊達軍, 一揆勢

宮崎城

7月3日

伊達軍、佐沼城を総攻撃の末に陥落させ、籠城者を撫で斬りにする。

伊達軍, 一揆勢

佐沼城

7月4日

寺池城が陥落。一揆が事実上鎮圧される。

伊達軍, 一揆勢

寺池城

8月14日

政宗、降伏した一揆の主謀者らを須江山に呼び寄せ謀殺(口封じ)。

伊達政宗, 泉田重光, 屋代景頼

桃生郡須江山

9月23日

家康らによる検地・城割完了。政宗に新領地が引き渡され、岩出山城へ移る。

徳川家康, 伊達政宗

葛西大崎旧領


第一章:新領主の統治と不満の胎動(天正18年8月~10月)

統治の開始と性急な改革

旧葛西・大崎領の新領主となった木村吉清は、葛西氏の旧居城であった寺池城に本拠を置き、息子の清久を大崎氏の旧居城・名生城に配置して、広大な新領地の統治を開始した 4 。秀吉の側近として大抜擢された吉清は、その期待に応えようと意気込み、中央政権の基本政策を性急かつ強引に実行に移していく 7 。しかし、その手法は在地社会の実情を全く顧みないものであり、急速に領内の不満を増大させる結果となった 8

摩擦の源泉 ― 太閤検地と刀狩り

吉清が推し進めた政策の柱は、「太閤検地」と「刀狩り」であった。これらは豊臣政権が全国支配を確立するための根幹をなす政策であったが、奥羽の地では深刻な摩擦を生んだ。まず、検地の強行は、従来の慣習を無視した新たな基準による年貢の徴収を意味し、領民にとっては過酷な増税として受け止められた 7 。特に、何世紀にもわたって葛西・大崎氏の支配下で安定した生活を送ってきた人々にとって、突如現れた新領主による厳しい取り立ては、理不尽な搾取以外の何物でもなかった 11

さらに深刻な反発を招いたのが刀狩りである。これは、兵農分離を徹底し、武士以外の者が武器を所有することを禁じる政策であったが、葛西・大崎旧領においては、旧家臣団である地侍層から武士としての身分と誇りを剥奪し、強制的に農民へと転換させることを意味した 11 。彼らは、単なる農民ではなく、それぞれの土地に根ざした小領主としての側面も持つ存在であり、刀狩りは彼らの生活基盤とアイデンティティを根底から揺るがすものであった 13

在地社会の反発と一揆への胎動

こうした性急な改革に加え、木村氏が統治のために新たに召し抱えた家臣たちの質も問題であった。彼らの多くは領内で乱暴狼藉を働き、領民の不満に油を注いだ 11 。統治の失敗は、単に吉清個人の資質の問題に帰せられるものではない。それは、在地社会の慣習やプライドを無視した中央政策の画一的な適用、統治を担うべき家臣団の質的・量的不足、そして旧領主層の根強い影響力という、三つの要因が複合的に作用した必然的な結果であった。

ついに天正18年10月初旬、加美郡米泉において、伝馬役の賦課を巡るトラブルから、旧大崎家臣や百姓らによる100名規模の抵抗運動が発生する 4 。これは、領内に充満していた不満が初めて具体的な形となって現れた瞬間であり、大規模な一揆へと発展する直接的な引き金となった。

第二章:反乱の狼煙と炎上する旧領(天正18年10月~11月)

蜂起の瞬間(10月16日)

天正18年10月16日、旧葛西領の岩手沢城において、旧城主・氏家吉継の家臣らが領民と共に蜂起し、城を占拠した 4 。これを狼煙として、それまで抑圧されていた旧葛西・大崎家臣団や領民の不満が一斉に爆発。反乱の炎は驚異的な速度で旧領全域へと燃え広がり、組織化された大規模な一揆へと発展した 4 。この一揆は、単なる農民の自然発生的な蜂起ではなく、武士としての誇りを奪われた旧家臣団が指導層となり、計画的に引き起こした武力反乱であった 1

領主の孤立と支配体制の完全崩壊

名生城にいた木村清久は、父・吉清と対策を協議するために寺池城へ向かったが、その帰路、佐沼城において一揆勢に行く手を阻まれ、籠城を余儀なくされた。息子の窮地を知った吉清が救援に駆けつけたものの、彼もまた一揆勢の強固な包囲網を突破できず、息子と共に佐沼城に閉じ込められるという絶望的な状況に陥った 4

領主父子が共に孤立したことで、木村氏の支配体制は完全に麻痺した。本拠地であった寺池城、そして名生城も一揆勢の手に落ち、旧葛西・大崎領は統治機能を完全に失った「一揆もち」と称される無政府状態となった 4 。入部からわずか2ヶ月余りでのこの事態は、木村氏の支配がいかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを如実に物語っている。

第一報と初期対応

一揆勃発の報は、奥州仕置の執行責任者として白河城に滞在していた浅野長吉のもとにもたらされた 17 。事態の深刻さを認識した長吉は、直ちに二本松城まで引き返すと、会津42万石の領主である蒲生氏郷と、米沢72万石の領主である伊達政宗に対し、木村親子の救出と一揆の鎮圧を命じた 4 。この時点では、奥羽に駐留する豊臣政権の二大巨頭による共同作戦が想定されていた。しかし、この命令が、後に複雑な政治的駆け引きと深刻な対立の火種となることを、まだ誰も予測していなかった。

第三章:鎮圧軍の亀裂と伊達政宗への疑惑(天正18年11月~12月)

共同戦線の形成と不信の影

浅野長吉からの命令を受け、天正18年10月26日、蒲生氏郷と伊達政宗は黒川郡の下草城で会談し、11月16日を期して共同で一揆鎮圧の軍事行動を開始することに合意した 4 。しかし、両者の間には当初から深い不信感が渦巻いていた。氏郷は、秀吉の命により奥羽に配置された、中央政権の忠実な代行者である 9 。対する政宗は、自らの実力で領土を拡大してきた野心的な在地の大名であり、奥州仕置によって領地を大幅に削減されたことに強い不満を抱いていた 10 。氏郷にとって、政宗は鎮圧の協力者であると同時に、最も警戒すべき監視対象でもあった。

疑惑の浮上(11月15日)

共同作戦開始を翌日に控えた11月15日、事態は急転する。政宗の家臣であった須田伯耆が氏郷の陣中に駆け込み、「今般の一揆を裏で扇動しているのは、我が主君・政宗にございます」と衝撃的な密告を行ったのである。さらに、政宗の祐筆(書記役)であった曾根四郎助が、その動かぬ証拠として、政宗が一揆勢に与えたとされる密書を持参した 4

この密告が須田個人の怨恨によるものか、あるいは氏郷による策略であったかについては諸説あるが、いずれにせよ、氏郷はこの情報を政宗を失脚させる絶好の機会と捉えた。彼は直ちに政宗との共同作戦を破棄し、この一件を秀吉に急報した 8

共同戦線の崩壊と政宗の単独行動

梯子を外された氏郷は、単独で行動を開始。一揆勢が占拠していた名生城を電光石火の速さで奪還すると、そこに籠城し、眼前の敵である一揆勢と、背後の潜在的な敵である政宗の双方に備えるという異例の態勢を取った 4

一方、裏切られた形の政宗もまた、単独での行動を余儀なくされた。彼は高清水城、宮沢城などを次々と攻略し、11月24日には一揆勢が包囲する佐沼城を陥落させ、ついに木村親子を救出することに成功する 4 。しかし、政宗が救出した木村親子を氏郷のいる名生城へ送り届けても、氏郷の態度は硬化したままであった。彼は政宗に人質として重臣の伊達成実らを要求するなど、両者の対立はもはや修復不可能なレベルに達していた 4

この一連の出来事により、葛西大崎一揆の鎮圧は、単なる地方の反乱から、伊達政宗と蒲生氏郷という二人の大名による、豊臣秀吉という中央権力者を審判とした高度な政治闘争へとその様相を完全に変えた。一揆勢は、政宗の謀略に利用され、そして氏郷と政宗の政争の駒として使われるという、二重に悲劇的な存在となったのである。

第四章:京での政治対決:政宗の弁明と秀吉の裁定(天正19年1月~5月)

中央の介入と政宗の上洛

蒲生氏郷からの詳細な報告を受け、事態を極めて重く見た豊臣秀吉は、腹心である石田三成を奥州へ派遣した 4 。天正19年1月10日、相馬領に到着した三成は、政宗に対し、一揆扇動疑惑の真偽を問いただすため、直ちに上洛するよう秀吉の厳命を伝えた 4 。伊達家は改易の危機という絶体絶命の窮地に立たされた。

死装束での上洛と奇抜な弁明

同年2月4日、政宗は京に到着した。その姿は、小田原参陣の遅延を詫びた時と同様、死を覚悟したことを示す白装束であった 18 。これは、自らの命を秀吉の裁定に完全に委ねるという、計算され尽くした強烈なパフォーマンスであった。

秀吉の前で行われた査問において、証拠として突きつけられた密書に対し、政宗は動じることなくそれが偽書であると主張した。そして、その根拠として驚くべき弁明を行った。自らが正式な文書に用いる花押(サイン)は、鶺鴒(せきれい)を模した図案になっているが、本物の花押には必ず鳥の目の部分に針でごく小さな穴を開ける慣わしがある。しかし、この密書の花押にはその穴がない、と述べたのである 4

秀吉の裁定とその真意

この「鶺鴒の目に針の穴」という逸話が、事前に用意された事実であったのか、あるいはその場でのでっち上げであったのかは定かではない。しかし、重要なのは、この奇抜な弁明が、秀吉に「政宗を許すための政治的な口実」を与えた点である 20 。秀吉は、政宗の言い分が苦しいものであると見抜きつつも、ここで奥羽の最大実力者である伊達家を改易することが、天下の安定にとって得策ではないと判断した。政宗の類稀なる才覚と、将来的な利用価値を認めた上での、極めて高度な政治的裁定であった 20

秀吉は、表向きには政宗の主張を認め、彼を赦免した 4 。しかし、その裁定は二重のメッセージを含んでいた。一つは、政宗に「自らの手で一揆を完全に鎮圧し、疑惑を払拭する最後の機会を与える」という温情。そしてもう一つは、甥の豊臣秀次と徳川家康を総大将とする数万の大軍を奥州へ派遣することで、「次に裏切れば、この圧倒的な軍事力で伊達家を完全に殲滅する」という強烈な脅迫であった 4 。政宗は許されると同時に、豊臣政権という巨大な権力構造の中に、より強固に組み込まれることになったのである。

第五章:鉄槌による鎮圧 ―「後仕置」の実態(天正19年6月~8月)

再征軍の出陣と苛烈な掃討作戦

天正19年5月に米沢へ戻った政宗は、自らにかけられた疑惑を払拭し、秀吉への絶対的な忠誠を証明するため、6月14日に一揆の再討伐へと出陣した 4 。その背後には、豊臣秀次、徳川家康、そして蒲生氏郷らが率いる豊臣政権の中核軍が控え、政宗の行動を厳しく監視していた 16 。もはや政宗に失敗や躊躇は許されなかった。

この二度目の鎮圧戦は、前回の木村親子救出作戦とは比較にならないほど苛烈を極めた。政宗は、自らが扇動した証拠をこの世から抹消するため、かつての協力者であった一揆勢に対し、一切の容赦を見せなかったのである 14

宮崎城・佐沼城の攻防と大虐殺

伊達軍は破竹の勢いで進撃し、6月25日には加美郡の宮崎城を攻略 12 。そして7月1日、一揆勢の最大拠点である佐沼城への総攻撃を開始した 8 。数千の兵と百姓が立て籠もる城は頑強に抵抗したが、伊達軍の猛攻の前に7月3日には完全に制圧された 4

この時、政宗は降伏を許さず、城内にいた武士約500名、百姓やその家族ら2,000名以上を、女子供の区別なく皆殺しにする「撫で斬り」を命じた 8 。その様は「城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど」であったと伝えられている 8 。この凄惨な殲滅行為は、秀吉への忠誠を最も過激な形で示すと同時に、一揆の内情を知る者を物理的に消し去るための、冷徹な計算に基づいていた。討ち取られたおびただしい数の首は、城の近くに築かれた「首壇」と呼ばれる塚に埋められたという 8

終結と口封じ

佐沼城の悲劇は、一揆勢の戦意を完全に打ち砕いた。翌7月4日には寺池城も陥落し、伊達軍の残虐さを恐れた残りの一揆勢は次々と降伏した 8 。しかし、政宗の証拠隠滅はまだ終わらなかった。8月14日、彼は降伏した一揆の指導者たちを桃生郡の須江山に呼び寄せると、泉田重光、屋代景頼らに命じて全員を謀殺した 4 。これにより、自らの扇動計画に関わった者たちを抹殺し、口封じを完了させたのである 14 。この一連の行為は、政宗が生き残るために支払わなければならなかった、血塗られた代償であった。

第六章:新たな秩序の誕生 ― 減転封と仙台藩の礎(天正19年8月以降)

関係者の処遇

一揆の完全鎮圧後、豊臣政権による最終的な裁定、すなわち「後仕置」が下された。一揆発生の直接的な原因を作った新領主・木村吉清は、統治能力の欠如を問われ、領地を全て没収(改易)された。彼はその後、かつての推挙者であった蒲生氏郷のもとに身を寄せたとされる 4 。また、一時は旧領の三分の一の復帰を許されていた旧領主・大崎義隆の朱印状も、この動乱の結果、反故にされた 4

伊達政宗への裁定 ―「減転封」

一方、伊達政宗は、一揆を鎮圧した功績により、葛西・大崎の旧領13郡を与えられることになった 4 。しかし、これは単純な加増ではなかった。その代償として、伊達家が代々受け継いできた本領地である伊達郡、信夫郡、長井郡など6郡が没収されたのである 24 。結果として、政宗の所領の石高は、奥州仕置直後の約72万石から約58万石へと減少した 2 。これは、一揆扇動の疑惑に対する実質的な懲罰であり、「減転封」と呼ばれる極めて巧妙な処分であった。

この裁定は、秀吉の政治家としての老獪さを示すものであった。政宗の野心を削ぎ、懲罰を与えつつも、一揆で荒廃した統治の難しい土地を与えることで手柄を立てさせた形を作り、さらに本拠地を伝統的な支持基盤から切り離すことで弱体化させるという、複数の目的を同時に達成する見事な一手だったのである。


【表2】伊達政宗の所領石高の変遷(天正18年~19年)

時期

状況

主要な所領

推定石高

備考

奥州仕置前

最大版図

会津、伊達、信夫、仙道、その他多数

約114万石

秀吉への服属前の最大勢力範囲 2

奥州仕置後

減封

米沢、伊達、信夫、長井など13郡

約72万石

小田原参陣遅延の懲罰として会津などを没収 2

葛西大崎一揆後

減転封

葛西・大崎旧領13郡

約58万石

伊達・信夫などの本領を没収され、葛西・大崎旧領へ移封 2


岩出山城への移転と新領国の経営

天正19年9月23日、徳川家康らによる検地と城砦の改修(城割)が完了し、政宗は新たな領地を正式に引き渡された 4 。彼は、かつて一揆の震源地の一つであった岩手沢城を「岩出山城」と改名し、長年本拠地としてきた米沢から居城を移した 4 。これは、伊達氏が過去と決別し、新たな土地で近世大名として再出発することを象徴する出来事であった。この岩出山への移転こそが、後の62万石を誇る仙台藩の直接的な礎となるのである 25 。虐殺を免れた葛西・大崎の旧臣たちは、一部は伊達家臣団に組み込まれ、多くは帰農して在地に土着した 1 。彼らをいかに統治し、荒廃した領国を復興させていくかが、その後の政宗に課せられた大きな課題となった。

終章:葛西大崎一揆が残したもの

葛西大崎一揆とそれに続く後仕置は、奥羽地方の歴史、そして日本の戦国時代の終焉を語る上で、極めて重要な意義を持つ事件であった。

第一に、この一揆と、それに連動して発生した和賀・稗貫一揆、九戸政実の乱が豊臣政権の圧倒的な軍事力によって鎮圧されたことで、奥羽地方における中央政権への組織的な抵抗は完全に終焉した 16 。これにより、秀吉による「天下統一」は名実ともに完了し、奥羽地方は完全に中央の支配体制下に組み込まれ、中世的な在地領主による分権的秩序は解体された。

第二に、この事件は伊達政宗という武将の成長と、仙台藩の形成に決定的な影響を与えた。政宗は、自らの謀略が招いた絶体絶命の危機を、弁舌とパフォーマンス、そして過剰なまでの忠誠の表明によって乗り切った。この経験を通じて、彼は単なる武力や謀略だけでなく、中央権力との向き合い方、すなわち高度な政治的交渉や駆け引きの重要性を痛感したであろう。彼が新たな領地で開始した困難な統治の経験は、結果的に仙台藩62万石という強固な近世大名の基盤を築くことに繋がっていく。

総じて、葛西大崎一揆は、単なる地方の反乱ではない。それは、日本の歴史が「中世」から「近世」へと移行する際に生じた、最後の大きな「陣痛」の一つであった。在地に深く根差した旧来の権力が、中央集権化という抗いがたい時代の大きな波に飲み込まれていく過程を、極めて暴力的かつ劇的な形で象徴する事件として、後世に記憶されているのである。

引用文献

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  23. 伊達政宗が口封じの為に行った一揆制圧 - 横町利郎の岡目八目 - FC2 https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-270.html
  24. 伊達政宗と愛刀/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sengoku-sword/favoriteswords-datemasamune/
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