最終更新日 2025-09-14

蒲生氏郷会津転封(1590)

天正18年(1590年)、秀吉は奥羽仕置で蒲生氏郷を会津42万石に転封。氏郷は会津を近世都市へと発展させ奥羽安定に貢献したが、早逝が蒲生家凋落と豊臣政権不安定化を招いた。
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天正十八年、奥羽の激動:蒲生氏郷、会津転封の真相

序章:天下統一の最終章、奥羽

天正18年(1590年)、日本列島は一人の天下人の手によって、その形を大きく変えようとしていた。豊臣秀吉である。同年7月、難攻不落を誇った相模の小田原城は開城し、関東に君臨した北条氏は滅亡した。これにより、秀吉の天下統一事業は事実上の完成を見たかに思われた。しかし、彼の視線の先には、まだ中央の秩序が完全には及んでいない広大な領域が残されていた。陸奥国と出羽国、すなわち「奥羽」地方である 1

この地は、伊達、南部、最上といった古くからの大名たちが独自の権力構造を維持し、中央の動乱とは一線を画した歴史を歩んできた。秀吉にとって、この奥羽地方を自らの築き上げた新たな「天下」の秩序に組み込むことは、天下統一事業を完遂させるための最後の、そして不可欠な一章であった 3

秀吉の政策は、単なる軍事的な平定に留まるものではなかった。「奥羽仕置」という言葉が示す通り、それは中央集権的な法と秩序(惣無事令)、全国統一基準に基づく経済システム(太閤検地、石高制)、そして新たな社会構造(刀狩、兵農分離)を、旧来の慣習が根強く残る奥羽の地へ「移植」する、壮大な国家改造計画であった 5 。この壮挙を現地で断行する最高責任者として白羽の矢が立ったのが、蒲生氏郷であった。

したがって、天正18年8月に下された蒲生氏郷の会津への転封命令は、単なる一大大名の配置転換という事象を遥かに超える意味を持っていた。それは、戦国の世を終わらせ、豊臣政権という新たな支配体制を日本列島の隅々にまで浸透させるための、極めて象徴的かつ戦略的な一手だったのである。本報告書は、この蒲生氏郷会津転封という事変を軸に、その前史から結末までを時系列に沿って詳述し、奥羽の地が経験した歴史的激動の真相に迫るものである。

【表1:蒲生氏郷会津転封 関連年表(1589年~1595年)】

年月

主な出来事

天正17年(1589年)6月

摺上原の戦い。伊達政宗が蘆名義広を破り、会津黒川城を攻略。南奥羽の覇権を握る 9

天正18年(1590年)6月

伊達政宗、小田原へ遅れて参陣。白装束で秀吉に謁見し、謝罪する 10

天正18年(1590年)7月

小田原城が開城し、北条氏が滅亡。秀吉、宇都宮にて奥羽諸大名の処分(宇都宮仕置)を行う 2

天正18年(1590年)8月

宇都宮仕置において、政宗の会津領没収が決定。8月9日、蒲生氏郷に会津42万石への転封が命じられる 10

天正18年(1590年)10月

奥羽仕置への反発から、旧葛西・大崎領で大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発 10

天正19年(1591年)

氏郷、一揆鎮圧軍の総大将として出陣。伊達政宗も鎮圧に参加。一揆を平定する 5

天正19年(1591年)10月

一揆鎮圧の功により、氏郷は伊達・信夫郡などを加増され、石高が最終的に92万石となる 3

文禄4年(1595年)2月

蒲生氏郷、京都の伏見屋敷にて病没。享年40 11

第一章:龍の咆哮 ― 伊達政宗と蘆名氏の終焉

蒲生氏郷が会津の地を踏む直接的な原因は、その前年に遡る。天正17年(1589年)、奥羽の勢力図を根底から塗り替える一大決戦が行われた。伊達政宗率いる伊達軍と、蘆名義広率いる蘆名軍が激突した「摺上原の戦い」である 9

当時、23歳の伊達政宗は、「独眼竜」の異名と共に破竹の勢いで勢力を拡大していた若き野心家であった。彼の目標は、父祖伝来の地を遥かに超え、南奥羽全域をその手中に収めることにあった。その最大の障壁として立ちはだかったのが、会津黒川城を本拠とする名門・蘆名氏であった 15

一方の蘆名氏は、当主・義広が常陸の佐竹氏から養子として入った経緯もあり、家中の統率に問題を抱えていた。この内部の不協和音を政宗は見逃さなかった。彼は蘆名氏の重臣である猪苗代盛国を巧みに調略し、内応させることに成功する 17 。これにより、政宗は黒川城へ直接迫る道筋を確保した。

天正17年6月5日、磐梯山麓の摺上原にて両軍は対峙した。兵力は伊達軍約23,000に対し、蘆名軍は約16,000。緒戦は蘆名軍が優勢に進めたものの、突如として風向きが変わり、伊達軍に有利に働くという天運も味方した 9 。政宗はこの好機を逃さず、巧みな用兵で蘆名軍を分断し、壊滅に追い込んだ。総大将の蘆名義広は辛うじて戦場を離脱し、実家の佐竹氏のもとへ逃亡。これにより、会津に長年君臨した戦国大名・蘆名氏は事実上滅亡した 19

勝利した政宗は、同年6月11日に無血で黒川城に入城し、会津一円をその支配下に置いた 9 。これは、戦国時代の価値観においては、実力で領土を勝ち取った完璧な成功であった。しかし、時代は既に大きく変わっていた。この政宗の行動は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発令し、諸大名間の私的な戦闘を禁じた「惣無事令」に対する公然たる違反行為だったのである 9 。政宗は、旧時代の論理に基づく軍事的勝利によって、秀吉が構築しつつあった新時代の秩序への明確な挑戦状を叩きつけてしまった。この輝かしい勝利こそが、皮肉にも、彼が手にしたばかりの会津を失う最大の原因となる。政宗は「戦に勝ち、政治に負けた」のである。秀吉にとって、この惣無事令違反は、奥羽に中央の権威を介入させるための、またとない大義名分となった。

第二章:天下人の裁定 ― 小田原、そして宇都宮へ

摺上原の戦いから約一年後の天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が開始された。全国の諸大名に参陣が命じられる中、伊達政宗の動向は遅々としていた。奥羽の諸勢力との調整や、母・義姫による毒殺未遂事件など、領内の問題に追われていたためである。しかし、天下の趨勢が完全に秀吉に傾く中、もはや選択の余地はなかった。

同年6月5日、政宗はようやく小田原に到着した。その際、彼は死を覚悟していることを示すため、白装束に身を包んで秀吉の前に進み出たという逸話が残っている 10 。秀吉は政宗の遅参と惣無事令違反を厳しく詰問したが、千利休や前田利家らの取りなしもあり、最終的にはその命を奪うことはなかった。

秀吉の判断は、単なる温情によるものではない。奥羽最大の勢力を持つ政宗を処刑すれば、かえって奥羽地方に深刻な混乱を招きかねない。それよりも、生かして自らの巨大な権威の前に屈服させる方が、はるかに効率的に支配体制を確立できるという、高度な政治的計算が働いていた。

小田原城開城後、秀吉は下野国宇都宮に陣を移し、関東・奥羽の諸大名に対する戦後処理、いわゆる「宇都宮仕置」を開始した 2 。ここで、政宗に対する正式な裁定が下される。惣無事令違反の罪を問い、摺上原の戦いで獲得した会津、岩瀬、安積の三郡を没収。一方で、伊達家伝来の所領(長井、伊達、信夫など)は安堵された 10

この処置は、秀吉の巧みな戦略を見事に示している。「惣無事令違反は決して許さない」という法の支配を貫徹するという「ムチ」を振るう一方で、政宗が豊臣体制の中で大名として存続する道を残すという「アメ」を与えたのである。これにより、秀吉は一滴の血も流すことなく、最も危険視していた東北の雄を体制に組み込むことに成功した。そして、政宗から没収された会津の地は、豊臣政権が奥羽を支配するための新たな拠点として、最も信頼のおける将に与えられることになった。

第三章:選ばれし将 ― なぜ蒲生氏郷だったのか

奥羽の心臓部ともいえる会津の地を、秀吉はなぜ蒲生氏郷に託したのか。その理由は、氏郷が持つ類稀な資質と、秀吉との深い信頼関係にあった。

蒲生氏郷は弘治2年(1556年)、近江日野の城主・蒲生賢秀の嫡男として生まれた 20 。永禄11年(1568年)、織田信長が上洛の途上で近江に侵攻すると、父・賢秀は信長に臣従し、13歳の氏郷(当時は鶴千代)は人質として岐阜に送られた 11 。しかし、信長は氏郷の非凡な才気を一目で見抜き、人質でありながらも我が子同然に寵愛したという 21 。元服の際には信長自らが烏帽子親を務め、名を「忠三郎賦秀」と授けた。さらに翌年には、信長の娘である冬姫を正室に迎え、信長の一門衆に準じる破格の待遇を受けた 22

信長の死後は羽柴秀吉に仕え、賤ヶ岳の合戦や小牧・長久手の合戦などで武功を重ね、伊勢松ヶ島12万石(後に加増され18万石とも)を与えられた 20 。氏郷の能力は戦場での武勇に留まらなかった。伊勢では新たに松坂城を築城し、城下町を整備。楽市楽座を導入して商業を振興するなど、卓越した内政手腕を発揮し、今日の松阪市の礎を築いた 14

さらに氏郷は、当代随一の文化人でもあった。茶の湯においては千利休に深く師事し、その高弟7人の中でも筆頭格である「利休七哲」に数えられた 14 。利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と絶賛している 14 。また、和歌や能にも通じ、キリシタン大名(洗礼名レオン)として先進的な南蛮文化にも触れていた 20

武勇、統治能力、経済感覚、文化的教養、そして国際性。これらは、秀吉が理想とする「近世大名」が備えるべき資質そのものであった。秀吉が氏郷を選んだのは、単に忠実で有能な部下だからという理由に留まらない。氏郷は、豊臣政権が目指す新しい時代の統治者の「生きた見本」のような存在だったのである。彼を、旧来の価値観を持つ伊達政宗の隣に、未開の地・奥羽に送り込むこと。それは、豊臣政権の先進的な統治と文化を東北全土に知らしめるための、最も効果的な「文化侵攻」であり、強力なプロパガンダでもあったのだ。氏郷は、いわば「歩く豊臣政権の広告塔」として、会津に送り込まれたのである。

第四章:運命の勅命 ― 1590年8月、会津への道

天正18年(1590年)8月9日、宇都宮に滞在していた蒲生氏郷のもとに、豊臣秀吉からの正式な辞令が下った。伊達政宗から没収した会津の地に加え、白河義親、石川昭光から没収した領地を合わせ、計42万石で会津黒川城へ転封せよ、というものであった 10

これは、氏郷がそれまで領有していた伊勢松坂の約12万石~18万石からすれば、実に2倍以上の大加増であり、破格の栄転であった 27 。大名にとって石高は収入源であり、軍団を養う経済基盤である。石高が倍増するということは、それだけ大きな軍団を率いることを期待され、重い責任を託されたことを意味する 27 。この人事は、氏郷に対する秀吉の絶大な信頼を物語っていた。

しかし、この報せに対する氏郷と家臣団の反応は、単純な喜びだけではなかった。ある夜、氏郷が家臣の山崎家勝が涙ぐんでいるのを見つけ、あまりの出世に感極まったのかと声をかけた。すると家勝は、「これほどの大領を賜っても、都から遠く離れた田舎にあっては、武人としての本望を遂げることはできません」と嘆いたという逸話が残っている 13

この逸話は、この転封が持つ二面性を象徴している。石高という「実」を取れば紛れもない栄転だが、政治・文化の中心である畿内から遠く離れた、寒冷で未開の地と見なされていた奥羽へ移ることは、一種の「都落ち」、あるいは「流刑」にも等しいという側面を持っていた。特に、氏郷のように中央の文化に深く通じた人物やその家臣団にとって、その感慨はひとしおであっただろう。

秀吉の側にも、冷徹な計算があった可能性は否定できない。有能すぎる家臣が中央で巨大な力を持つことを、秀吉は常に警戒していた。氏郷の類稀な能力を、伊達政宗の監視と東北の安定化という形で最大限に活用しつつ、同時に彼を物理的に中央から引き離すことで、自らの権力を脅かす潜在的なリスクを管理しようとしたのではないか。石高という「実利」を与える代わりに、中央での影響力という「名誉」を制限する。氏郷は、いわば「金の鎖」で東北に縛り付けられたとも言える。

いずれにせよ、命令は絶対である。氏郷は、長年統治し、近代的な城下町を築き上げた伊勢松坂の地を後にし、多くの家臣、商人、職人を引き連れて、新天地・会津への長く困難な道のりを進むことになった 11

【表2:蒲生氏郷 領地比較(伊勢松坂 vs 会津)】

項目

伊勢松坂

会津

石高

約12万石~18万石 20

42万石(初期)→ 92万石(最終) 10

地理的条件

畿内に近く、商業・交通の要衝

奥羽の中心地、未開拓地

戦略的重要性

対織田信雄・徳川家康の前線

対伊達政宗の最前線、奥羽全体の鎮撫 22

主な任務

畿内周辺の安定化

東北地方の平定と豊臣体制の導入 28

第五章:新時代の礎 ― 蒲生氏郷の会津経営

会津に入部した蒲生氏郷は、すぐさま精力的に領国経営に着手した。彼がわずか数年の間に実行した一連の政策は、会津の地を中世的な領国から近世的な都市国家へと劇的に変貌させるものであった。

インフラ整備と都市計画

まず氏郷は、蘆名氏時代から続く「黒川」という地名を改めた。城の名は、自らの幼名「鶴千代」と蒲生家の家紋「対い鶴」にちなんで「鶴ヶ城」と命名。そして城下町の名は、故郷・近江日野の若松の森に由来するとも、あるいは若々しい発展を願って「若松」と改称した 26

最大の事業は、黒川城の大改築であった。氏郷は「蒲生群流」と呼ばれる、当時最先端の築城術を用いて城の縄張りを根本から見直し、近世城郭へと大改造した 26 。特に天守閣は、それまでの望楼型から層塔型へと改められ、壮麗な七層の天守が会津盆地に聳え立ったと伝えられる 26 。この新しい鶴ヶ城は、単なる軍事拠点ではなく、豊臣政権の権威と先進性を奥羽の地に見せつけるためのモニュメントでもあった。

城下町の整備も並行して進められた。伊勢松坂での経験を活かし、城を中心に碁盤の目状に町割りを実施。城の内堀の内側には家臣団の武家屋敷を、外側には商人や職人の町人地を計画的に配置し、さらにその外周を寺院で囲むという、防御と機能を両立させた都市計画を導入した 31 。そして、織田信長が創始した「楽市楽座」の制度を若松にも適用し、商業の自由を保障することで、各地から商人を呼び込み、城下の経済を活性化させた 20

産業振興

氏郷の慧眼は、新たな産業を興し、領国の経済基盤を確立することにも向けられていた。彼は、故郷である近江日野から、優れた技術を持つ木地師や塗師といった職人たちを若松に呼び寄せた 32 。彼らがもたらした先進技術が、会津の伝統と融合することで、今日の「会津塗」として知られる漆器産業の礎が築かれたのである 34

同様に、近江や伊勢から酒造りの技術者も招聘した。会津の良質な米と清らかな水は酒造りに最適であり、彼らの手によって会津の酒造業は飛躍的に発展した 33 。現在も全国的に名高い会津の日本酒の歴史は、この氏郷の産業振興策に端を発するといっても過言ではない。

氏郷が会津で行った一連の政策は、単なる領国経営の枠を超えていた。それは、堅固な軍事拠点(鶴ヶ城)、計画的な都市空間(城下町)、そして自立した経済基盤(地場産業)を三位一体で整備するという、豊臣政権が理想とする近世都市国家のモデルを、まっさらな土地に一から構築する壮大な社会実験であった。会津若松は、東北における豊臣政権の権威と先進性を示す「ショーケース」となるべく、氏郷の手によってデザインされたのである。

第六章:再度の戦火と栄光 ― 葛西大崎一揆と92万石への道

蒲生氏郷が会津で新たな国づくりを進める一方、奥羽の地は依然として不安定であった。天正18年(1590年)10月、秀吉による奥羽仕置で改易された旧葛西氏・大崎氏の領地において、大規模な一揆が勃発した(葛西大崎一揆) 1 。この一揆は、検地や刀狩といった豊臣政権の強硬な政策に対する在地領主や農民の強い反発が爆発したものであり、仕置によって新たに領主となった木村吉清・清久父子は居城の佐沼城に追い詰められた 5

事態を重く見た秀吉は、この一揆の鎮圧を蒲生氏郷と伊達政宗に命じた。しかし、この鎮圧には複雑な政治的背景があった。一揆の背後で、伊達政宗が扇動しているのではないかという疑惑が浮上したのである。氏郷は、政宗が一揆勢に与えたとされる密書を入手し、秀吉に報告。これにより、氏郷と政宗の間には一触即発の激しい緊張が走った 12

秀吉は、最終的に氏郷を鎮圧軍の総大将に任命し、政宗をその指揮下に置くという形で事態の収拾を図った。天正19年(1591年)、氏郷は豊臣軍を率いて出陣し、見事に一揆を平定。一方、政宗も自らへの嫌疑を晴らすため、一揆勢を容赦なく撫で斬りにしたと伝えられる 13

この一揆鎮圧は、単なる反乱の鎮圧以上の意味を持っていた。それは、奥羽における旧来の在地勢力(一揆勢)と、それに通じる可能性のあった旧守護大名(伊達政宗)の影響力を完全に排除し、豊臣政権の代理人である蒲生氏郷が、名実ともに東北の支配者として君臨することを天下に示した、決定的な出来事であった。

戦後、秀吉は氏郷の功績を「古今未曽有の大功」と激賞した 28 。その功により、氏郷には大幅な加増がなされた。一揆扇動の責任を問われた政宗の旧領であった伊達郡、信夫郡、長井郡などが氏郷に与えられ、その所領は73万石に、後の検地によって最終的には92万石に達したことが確認された 10 。これは、徳川家康(関東250万石)、毛利輝元(中国120万石)に次ぐ、全国第3位の石高であった 13

この一件をもって、秀吉による「奥羽仕置」は武力によって最終的に完成した。抵抗勢力は一掃され、旧来の有力者であった伊達政宗はさらに弱体化させられ、豊臣直系の代理人である蒲生氏郷が圧倒的な軍事力と経済力を背景に東北に君臨する。奥羽地方は、完全に豊臣政権のヒエラルキーの中に組み込まれたのである。

終章:巨星墜つ ― 氏郷の早逝と残された遺産

92万石という未曾有の大領を治め、名実ともに関東以北の押さえとして、その威光は天下に轟いた。蒲生氏郷の栄光は、まさに頂点に達していた。しかし、その栄華はあまりにも短かった。文禄4年(1595年)2月7日、氏郷は京都の伏見屋敷にて病に倒れ、この世を去った。享年わずか40であった 11

偉大すぎた当主の早すぎる死は、蒲生家に深刻な動揺をもたらした。跡を継いだ嫡男・秀行はまだ13歳と若年であり、巨大な家臣団を統率する力はなかった。氏郷という絶対的なカリスマによって束ねられていた家臣団は、やがて重臣間の派閥対立を激化させ、「蒲生騒動」と呼ばれるお家騒動へと発展していく 36

この家中騒動は、豊臣政権にとっても看過できない問題であった。慶長3年(1598年)、秀吉は「御家の統率がよろしくない」として、秀行に対して裁定を下す。会津92万石は没収され、下野国宇都宮18万石への大減封という厳しい処分であった 36 。氏郷が一代で築き上げた巨大な領国は、彼の死からわずか3年で瓦解したのである。

この蒲生家の凋落は、豊臣政権が抱える構造的な脆弱性を露呈するものであった。法や制度といったシステム以上に、蒲生氏郷という特定の個人の傑出した能力に、東北支配は過度に依存していた。氏郷という強力な「楔」が抜けた途端、東北の安定は揺らぎ、秀吉は越後から上杉景勝を120万石で会津に入封させるという、別の巨大な「楔」を打ち込むことでしか対応できなかった 36 。これは、秀吉自身の死後、豊臣政権そのものが後継者問題と有力大名の対立によって瓦解していく未来を暗示する、象徴的な出来事であったと言える。

蒲生氏郷が会津を治めた期間は、わずか5年にも満たない。しかし、彼がこの地に残した遺産は計り知れない。近世城郭としての鶴ヶ城、計画的な城下町・若松の町割り、そして会津塗や清酒といった地場産業。その全てが、今日の会津若松の礎となっている。蒲生氏郷は、戦国乱世の終焉と新たな時代の到来を、奥羽の地に誰よりも鮮烈に刻み付けた武将として、今なお記憶されている。

引用文献

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  2. 「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/14
  3. 奥州仕置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
  4. 青森・岩手・宮城「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/tohoku_01_2021y.html
  5. 奥羽再仕置 年 - 新潟県立歴史博物館 https://nbz.or.jp/uploads/2021/11/d02ab3177c0bcd18d7d49d1b55a3e3a3.pdf
  6. 【歴史】秀吉天下統一最後に選んだ東北 - 家庭教師のマナベスト https://manabest.jp/blog/10662/
  7. 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
  8. 【中学歴史】「豊臣秀吉の政治」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-2955/lessons-2956/point-3/
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  15. [合戦解説] 10分でわかる摺上原の戦い 「伊達政宗は風をも味方につけ蘆名軍を殲滅!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=A_oAOJ78apY
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  17. 蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9599
  18. 摺上原の戦い~伊達政宗、葦名義広を破り、南奥州の覇者となる | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3973
  19. Battle of SURIAGEHARA - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=y8SK-5P81vg&pp=ygUHI-e-qeWnqw%3D%3D
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  31. 織田信長の寵愛を受けた蒲生氏郷 会津若松でゆかりの地を巡る旅行へ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170803fukushima-aizuwakamatsu-5/
  32. 会津塗の歴史 - 白木屋漆器店 https://www.shirokiyashikkiten.com/museum/historical-study/craft-history.html
  33. Untitled - 会津若松商工会議所 http://www.aizu-cci.or.jp/forum/panf.pdf
  34. 会津塗とは。秀吉の采配から戊辰戦争の受難まで | 中川政七商店の読みもの https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/119500
  35. 会津の酒|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00508.html
  36. 蒲生騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%A8%92%E5%8B%95
  37. 蒲生氏郷が家臣に発揮した「統御力」と子孫を苦しめた副作用 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23832
  38. 蒲生氏郷 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/gamou.html
  39. 【27 会津領時代の郡山地方】 - ADEAC https://adeac.jp/koriyama-city/text-list/d100010/ht000730