最終更新日 2025-10-05

藤川宿整備(1601)

慶長6年、家康は東海道整備の一環で藤川宿を新設。岡崎城の東の防衛線、そして交通の難所・矢作川渡河の拠点という軍事・交通の要衝として、計画的に整備された宿場だった。
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藤川宿整備(1601年):戦国終焉の象徴としての一考察

序章:関ヶ原の戦塵、未だ収まらぬ天下

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。しかし、この勝利が即座に徳川による盤石な支配体制を意味したわけではない。戦塵が収まり始めた日本の政治情勢は、依然として複雑かつ流動的であった。大坂城には豊臣秀頼が君臨し、西国には島津氏をはじめとする潜在的な敵対勢力が温存されていた 1 。家康の覇権は、あくまで豊臣家臣団の内訌を制したという建前の上に成り立つ、未だ脆弱な基盤の上にあったのである。

この勝利の直後、家康は「戦後処理」という名の新たな戦いに直面する。それは、論功行賞による大名の再配置といった政治的駆け引きに留まらない。武力による一時的な制圧から、恒久的で安定した支配体制をいかにして構築するかという、国家統治の根幹に関わる課題であった。家康が描いた新時代の設計図において、その最優先事項とされたのが、全国的な交通網、とりわけ日本の大動脈である東海道の完全な掌握であった 3 。軍勢の迅速な移動、正確な情報伝達、そして全国規模での経済の掌握。これらすべてが、整備され、管理された街道に依存していたからである 5

この文脈において、慶長六年(1601年)正月という、関ヶ原の戦いからわずか四ヶ月足らずの時期に発令された東海道の伝馬制度整備は、驚異的な速度感を持つ政策であった 7 。この迅速さは、それが単なる戦後処理の一環ではなく、家康が関ヶ原の以前から周到に準備していた国家構想の実行段階であったことを示唆している。戦の勝敗と並行して、すでに「戦後の統治」は始まっていたのである。

本報告書で詳述する三河国「藤川宿」の整備は、この壮大な計画の一部として実行された一事象である。しかし、それは単なるインフラ整備ではない。戦国時代、道は各大名の領国ごとに分断されていた 8 。家康が東海道全線を統一規格で整備し、幕府の朱印状を持つ者だけが公的な輸送システムを利用できる制度を確立したことは、物理的な交通路の確保以上の意味を持っていた。それは、徳川の権威が日本の隅々まで浸透し、新たな支配秩序が確立されたことを、全国の大名や民衆に可視化する、強力な政治的パフォーマンスであった。藤川宿という新たな宿場が幕府の命令一つで誕生する様は、まさに新しい時代の権力構造そのものを見せつける行為だったのである。

第一章:戦国時代の終焉と国家構想 ― 徳川家康の描いた「道」―

慶長六年(1601年)正月、徳川家康は、江戸幕府開闢に先駆けて、日本の統治構造を根底から変革する一大事業に着手した。それが「東海道宿駅伝馬制度」の制定である 3 。この制度は、江戸と京都を結ぶ東海道の各宿場に、公用の旅人や物資を輸送するための人馬を常備させ、宿場から宿場へとリレー形式で継ぎ送ることを義務付けたものであった 5 。これにより、情報伝達と物資輸送の速度、そして安定性は飛躍的に向上し、中央集権的な国家運営の物理的基盤が築かれた。

この制度は、戦国大名が領内で行っていた伝馬制度を継承し、全国規模に拡大・標準化したものである 8 。しかし、その目的と規模において質的な転換を遂げていた。特定の軍事作戦の成功を目的とした戦国期のそれとは異なり、家康の制度は、参勤交代の円滑化、幕府役人の巡察、公文書の迅速な伝達といった、恒久的な国家統治システムの維持を目的としていたのである 6 。当初、各宿に36疋と定められた伝馬は、後に交通量の増大に伴い100人・100疋へと拡充されており、社会の安定と共に街道が軍事路から経済・文化路へと変貌していく様を映し出している 6

この壮大な国家プロジェクトを現場で推進したのは、家康が絶対の信頼を置くテクノクラート(技術官僚)たちであった。伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安といった代官頭がその中心人物であり、彼らの連署による「御伝馬之定」が、家康の朱印状と共に各宿へ交付された 7 。中でも特筆すべきは、関東代官頭であった伊奈忠次の存在である。三河国小島(現在の愛知県西尾市)に生まれた忠次は、一度は三河一向一揆で家康に敵対した家系の出身であったが、その卓越した土木・行政手腕を高く評価され、家康に重用された人物である 10 。家康の関東入府後は、検地、新田開発、そして利根川の治水事業などで絶大な功績を挙げ、大都市・江戸の礎を築いた 10

東海道整備という国家事業において、地理を熟知し、忠誠心の高い三河出身のテクノクラートを奉行に据えることは、計画を円滑に進める上で極めて合理的であった。藤川宿もまた、この制度に基づいて幕府から公式に人馬の提供を義務付ける「駒曳朱印状」が発給され、徳川政権の公的な交通ネットワークの一部として正式に組み込まれたのである 15 。それは、家康の故郷である三河の地に、三河出身のテクノクラートが最新の国家システムを実装するという、象徴的な意味合いを持つ事業でもあった。藤川宿の整備は、単なる一つの宿場の誕生に留まらず、戦国の論理が終わり、泰平の世の統治システムが始動したことを告げる号砲だったのである。

第二章:三河という「基盤」 ― 岡崎城と暴れ川「矢作川」―

慶長六年の伝馬制度制定において、なぜ岡崎と赤坂という比較的大きな宿場の間に、新たに藤川という宿場を設置する必要があったのか。その答えは、徳川家康の故郷であり、その支配の原点でもある三河国の地勢、とりわけ「岡崎城」の戦略的重要性、そして古来より最大の交通障害であった「矢作川」の存在に求められる。藤川宿が選ばれた背景には、計算され尽くした地理的・軍事的必然性があった。

岡崎城は、言うまでもなく徳川家康生誕の地であり、徳川家にとっては聖地とも言うべき場所である 16 。戦国時代を通じて三河武士団の揺るぎない拠点であり 18 、家康が三河を平定し、天下統一への第一歩を記した場所でもあった 17 。江戸時代に入ってからも「神君出生の城」として神聖視され、城主には譜代大名が任じられるなど、江戸を防衛する上で西の要衝として極めて重要な役割を担い続けた 20 。藤川宿は、この岡崎城下から東へわずか一里半(約6.7km)という至近距離に位置していた 22 。これは、平時においては岡崎宿の機能を補完し、有事においては岡崎城と一体となって機能する、戦略的な配置であった。

この地域の軍事的重要性を考える上で、もう一つ無視できないのが、最大の自然障害であった矢作川の存在である。矢作川は古来より幾筋にも分かれて平野を流れる「乱流」河川であり、ひとたび大雨が降れば氾濫を繰り返し、交通を寸断する「暴れ川」として知られていた 23 。旅人にとって矢作川の渡河は、旅程における最大の難所の一つであり、天候によっては何日も足止めを食らう危険な場所であった。

この矢作川の治水に関しては、戦国末期に一つの転換点があった。家康が関東へ移封された後、岡崎城主となった豊臣秀吉の家臣・田中吉政が、大規模な堤防工事を行い、複雑な流路の一本化を進めたのである 15 。しかし、この近代的な治水工事は、皮肉にも川の洪水を調整する役割を果たしていた遊水地(妙覚池など)の消失を招き、かえって水害を激化させるという結果をもたらした 23 。家康が天下人として三河に戻った時、彼が向き合わなければならなかったのは、この田中吉政が残した「負の遺産」であった。

このような状況下で、藤川の地が宿場として選ばれた理由は明白である。藤川は、三河高原の山がちな地形が終わり、広大な岡崎平野へと開ける、まさにその「出入口」に位置していた 28 。西へ向かう旅人にとっては、矢作川越えという最大の難関を前に、人馬を整え、情報を収集し、天候の回復を待つための最後の拠点となる。逆に、東へ向かう旅人にとっては、無事に川を渡り終えた安堵のため息をつく最初の休息地となる。つまり、藤川宿は、矢作川の渡河を円滑かつ安全に行うためのサポート機能に特化した、不可欠な存在だったのである。

さらに軍事的な視点を加えるならば、藤川宿は岡崎城の「東の防衛線」兼「兵站ハブ」として設計されたと見ることができる。有事の際、岡崎城から出撃する軍勢は藤川に集結し、ここを兵站基地として東へ進軍できる。逆に、東から江戸を目指す敵勢力にとっては、岡崎城を攻略する手前の最初の障害となる。この地域には、戦国期に内藤家長の藤川城 29 や、より大規模な山中城 30 といった城砦が存在したことからも、古くから交通と防衛の要衝であったことが窺える。藤川宿の整備は、平時の交通円滑化と、有事の軍事拠点化という二重の役割を担う、深謀遠慮の現れであった。

そして、この計画はさらに長期的な視点を持っていた。藤川宿が整備されたのは慶長六年(1601年)。そのわずか4年後の慶長十年(1605年)、家康は米津清右衛門に命じ、矢作川の流路を根本的に変える大規模な「矢作新川開削」事業に着手する 23 。この二つの事業は、決して無関係ではない。まず宿場という交通の拠点を整備して人の流れを安定させ、その上で、数年をかけて交通の根本的なボトルネックである河川そのものを改修する。これは、交通(陸路)と治水(水路)を一体のものとして捉えた、壮大な地域開発計画であった。藤川宿の整備は、単なる宿場の新設に留まらず、家康の故郷・三河国全体のインフラを再構築する巨大プロジェクトの、重要な布石だったのである。

第三章:慶長六年、藤川宿整備のリアルタイム・クロノロジー

関ヶ原の戦塵がようやく収まり、徳川による新たな世の礎を築く巨大な歯車が、静かに、しかし力強く回り始めた慶長六年(1601年)。この年、三河国藤川の地で、一つの宿場が国家の意思によって「創造」されていく。その一年間のプロセスを、あたかもドキュメンタリーのように時系列で再構成する。

慶長六年 正月(1601年初頭):指令発動

年の初め、江戸の徳川家康の名の下、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安ら奉行連署による「御伝馬之定」が、東海道の要衝と目される各地に通達された 7 。その中には、三河国藤川の地も含まれていた。この地に対し、新たに宿駅を設置し、公用交通のために人馬を常備することを命じる朱印状が下されたのである 15 。この時点では、藤川はまだ正式な宿場ではなく、鎌倉街道の時代から旅人の休息地として機能してきた古い集落が存在するに過ぎなかった 31 。幕府からの指令は、この地に全く新しい役割と機能を与えることを意味していた。

春:計画と測量

指令を受け、幕府から派遣された役人、あるいは関東代官頭・伊奈忠次の配下と思われる実務官僚たちが現地入りした。彼らの任務は、新たな宿場の具体的な青写真を描くことであった。既存の集落や地形、そして東海道の道筋を精査し、宿場の範囲を画定する。西の岡崎宿、東の赤坂宿との距離を勘案しつつ、約一キロメートルにわたる細長い宿場町の町割りが計画された 31 。宿場の運営の中核となる問屋場、幕府の法令を掲示する高札場、そして大名や公家が宿泊する本陣・脇本陣といった公的施設の配置が、地図の上に定められていった。

夏:建設開始と空間の再編

計画が固まると、いよいよ建設工事が開始された。周辺の村々から人足が動員され、土地の造成が進められる。この「整備」は、単なる建設事業ではなかった。資料には「集落地を移転させて、約1kmにもわたる長い宿場町を作った」と記されており 31 、これは幕府の計画に基づき、既存のコミュニティを解体・再配置するという、極めて強力な権力の発動であったことを物語っている。自然発生的に形成された村を追認するのではなく、国家の計画に従って空間を再編する。戦国の世が終わり、中央権力が個人の居住地さえも規定できる時代が到来したことの証左であった。公的施設の建設が優先的に進められると同時に、一般の旅籠や茶屋、商店を営む者たちを誘致するため、区画された土地への移住が促された。

秋~年末:機能の実装と稼働開始

建物の建設と並行して、宿場の生命線である「人」と「馬」の確保が急ピッチで進められた。宿場周辺の村々に対し、伝馬役を担う人足と馬の供出が割り当てられる。彼らは問屋場に登録され、厳格な管理体制の下で公務に従事することになった 28 。問屋、年寄、人馬差といった役職が定められ、宿場の運営組織が形成されていく。年末に近づく頃には、建物というハードウェアと、運営体制というソフトウェアが一体となり、藤川宿は宿場としての基本的な機能を備え始めた。江戸と京・大坂を結ぶ公用の使者や荷物が、真新しい藤川宿で人馬を乗り継ぎ、西へ東へと向かう光景が、この年の終わりにはすでに見られるようになっていたのである。

この一連のプロセスは、藤川宿の整備が単なるインフラ事業に留まらなかったことを示している。それは、徳川の支配体制を末端の村々にまで浸透させるプロセスであり、同時に、建設という巨大な公共事業を通じて地域経済に需要を生み出す行為でもあった。戦乱で疲弊した地域に対し、公役という負担を課す一方で、宿場という新たな経済活動の場を提供する。藤川宿の整備は、支配と振興を両輪とする、徳川政権の巧みな地方統治術の一端を示す事例であったと言えよう。

第四章:宿駅の誕生 ― 藤川宿の構造と機能 ―

慶長六年の国家プロジェクトを経て誕生した藤川宿は、東海道五十三次、品川から数えて37番目の宿場として、その歴史を歩み始めた 22 。隣接する岡崎宿(城下町)や赤坂宿と比較して「小さな宿だった」と評されることが多いが 33 、その構造と機能は、徳川政権がこの地に求めた役割を的確に反映した、効率的で洗練されたものであった。

宿場の規模と構成

天保年間(1830-1844年)の記録である「宿村大概帳」によれば、藤川宿の概要は以下の通りである 22

項目

内容

本陣

1軒

脇本陣

1軒

旅籠屋

36軒(大7、中16、小13)

総家数

302軒(市場村を含む)

人口

1,213人(男540人、女673人)

宿場の中心には、人馬の継立業務を司る問屋場が置かれ、問屋、年寄、帳付といった役人が詰めていた 28 。町の東西の出入口には「棒鼻(ぼうばな)」と呼ばれる木戸が設けられ、宿場の境界を明確に示していた 32 。この規模は、城下町として広大な市街地を持つ岡崎宿や、飯盛女を抱え独自の賑わいを見せた赤坂宿に比べれば、確かに小規模であった。しかし、この「小ささ」は機能不全を意味するものではない。むしろ、藤川宿が担っていた「矢作川渡河のサポート」という特殊な役割に最適化された結果であった。渡河前の最終準備、渡河後の休息、そして川の増水による滞在に備えるための宿泊・補給能力は十分に備えつつ、岡崎宿が持つような大規模な商業機能は持たない。これは、大宿場を補完し、特定の機能に特化するという、効率的な役割分担の証左であった。

成長する宿場町

藤川宿は、整備後も時代の要請に応じて成長を続けた。設置当初の家数は万治三年(1660年)の記録で43軒であったが 28 、交通量の増加に伴い、その機能強化が図られた。特筆すべきは、慶安元年(1648年)に行われた住民の移住である。幕府は、近隣の山中郷や舞木村市場から住民を強制的に移住させ、宿場の東側に「加宿(かしゅく)」として市場村を成立させた 28 。これは、当初の想定を超える交通需要、特に寛永十二年(1635年)に制度化された参勤交代 6 による大名行列の通行増加に対応するための措置であった。

この加宿の成立は、東海道が単なる「軍事・行政路」から、人・物・文化が絶え間なく交流する「経済・文化の大動脈」へと変貌していく過程を象徴している。泰平の世が到来し、伊勢参りに代表される庶民の旅が活発化するにつれて 35 、街道と宿場が担う役割はますます増大していった。藤川宿の成長の歴史は、そのまま江戸時代の社会が成熟していく過程と軌を一にしているのである。

旅人の視点から見た藤川宿

当時の旅人は、一日に八里から十里(約32kmから40km)を歩くのが一般的であった 35 。岡崎宿から藤川宿までは約6.7km、藤川宿から赤坂宿までは約9.4kmという距離は、旅人にとって非常に利用しやすい位置関係にあった。

岡崎の城下町で用事を済ませた旅人が、その日のうちにもう少し足を延ばして宿泊する場所として。あるいは、東から来て矢作川を前に一泊し、翌朝万全の態勢で渡河に臨む場所として。藤川宿は、旅程を調整する上で絶妙な位置にあった。宿場には、松尾芭蕉が「爰(ここ)も三河 むらさき麦のかきつばた」と詠んだ名物のむらさき麦が広がり 33 、約1kmにわたって続く松並木が旅人に木陰を提供した 32 。脇本陣の門や本陣の石垣といった遺構は、今なお往時の面影を色濃く伝えている 33 。藤川宿は、国家の動脈を支える重要な結節点であると同時に、道行く旅人にとっては、三河の美しい風景の中で心身を癒す安らぎの場でもあったのである。

第五章:戦国から泰平へ ― 藤川宿整備が持つ歴史的意義 ―

慶長六年に行われた藤川宿の整備は、単に東海道に一つの宿場を追加したという事実以上の、多層的な歴史的意義を持っている。それは、約150年にわたって続いた戦国の論理が終焉を迎え、徳川による新たな時代の支配秩序が始まることを告げる、象徴的な事業であった。この事業を「支配の形態」と「国家の機能」という二つの観点から総括することで、その本質的な重要性が明らかになる。

第一に、支配の形態が「点」から「線」へと移行したことを示している。戦国時代の覇権争いは、究極的には城や砦といった軍事拠点、すなわち「点」を奪い合うものであった。しかし、天下統一を目前にした家康の統治構想は、それとは次元を異にしていた。彼は、街道という「線」を全国に張り巡らせ、それを完全に掌握することによって、日本全土を一つのネットワークとして支配しようとした。藤川宿は、この壮大なネットワークを構成する不可欠な結節点(ノード)であった。宿場という結節点を幕府の管理下に置くことで、人、物、情報の流れをコントロールし、全国を効率的に統治する体制を築き上げたのである。

第二に、この事業が軍事・政治・経済という多様な国家機能を融合させた点である。藤川宿の整備は、第一義的には、有事の際に軍勢を迅速に移動させるための兵站路確保という軍事的目的を持っていた。しかし同時に、参勤交代や幕府役人の往来を円滑にし、中央の意思を地方に迅速に伝達するという政治的機能も果たした。さらに、安定した交通路は物流を活性化させ、全国市場の形成を促し、経済的な繁栄の基盤となった。一本の道が、そしてその結節点である宿場が、多様な国家機能を担うという、極めて効率的な統治システムがここに見て取れる。

そして何よりも、藤川宿に代表される地道なインフラ整備の積み重ねこそが、その後260年以上にわたって続く「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を支える物理的な基盤となった。武力による支配は、抵抗と反乱の火種を常に内包する。しかし、人々が安全に旅をし、物資が安定的に流通する社会の実現は、人々の生活に恩恵をもたらし、支配の正当性を内面から支える力となる。

この統治思想の背景には、徳川家康自身の「原体験」が色濃く反映されている。幼少期を人質として過ごし、青年期は織田信長との同盟、そして武田信玄との死闘など、家康の生涯は常に移動と兵站の重要性と隣り合わせであった 1 。特に三方ヶ原における惨敗と命からがらの逃避行は、安全で迅速な移動路の確保がいかに死活問題であるかを、彼の骨身に刻み込んだはずである。また、故郷三河の暴れ川・矢作川の扱いにくさも、誰よりも熟知していた。藤川宿の整備と伝馬制度の確立は、家康自身の戦国武将としての苦難の経験から導き出された、「二度とあのような不便と危険を繰り返させない」という強い意志の現れであり、彼の統治哲学の根幹をなすものであった。

宿場は、中央の権力と地方の民衆が直接触れ合う「インターフェース」でもあった。高札場には幕府の法令が掲示され、問屋場では公役が課される。それは支配の現場である。しかし同時に、旅籠では様々な身分の人々が情報交換を行い、全国の文化が伝播する交流の場でもあった。藤川宿の整備は、徳川の支配を物理的に支えるだけでなく、人々の意識の中に「天下」という統一国家の概念を根付かせる上で、重要な役割を果たしたのである。

結論:一本の道が繋いだ天下

慶長六年(1601年)、三河国藤川の地で行われた一つの宿場整備。それは、関ヶ原の戦いにおける軍事的勝利を、揺るぎない恒久的な支配へと昇華させるための、徳川家康の深謀遠慮の現れであった。

戦国という視点からこの事変を捉えるとき、我々はそれが単なる土木事業ではなく、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる画期であったことを理解する。城を拠点とする「点」の支配から、街道を掌握する「線」の支配へ。武力による制圧から、制度による統治へ。藤川宿の誕生は、この歴史的なパラダイムシフトを象徴するミクロな事例である。

家康の故郷・岡崎城の防衛という軍事的要請、そして最大の難所・矢作川渡河の円滑化という交通政策上の必然性。この二つが交差する点に、藤川宿は戦略的に配置された。その整備は、伊奈忠次のような優れた技術官僚の能力を最大限に活用し、関ヶ原の戦後わずか一年という驚異的な速さで断行された。それは、家康が戦の前から描いていた緻密な国家構想の存在を雄弁に物語っている。

藤川宿という一つの結節点は、やがて東海道という一本の線となり、日本全土を覆う交通網へと発展していく。この物理的な繋がりが、人、物、情報の流通を促し、260年以上にわたる泰平の世の礎を築いた。一本の道が、戦乱で引き裂かれた日本を繋ぎ、真の「天下統一」を成し遂げたのである。藤川宿の整備は、その壮大な物語の、確かな一歩であった。

引用文献

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  32. 宿場町の面影残す道の駅【藤川宿】! 地元の直売や名物が味わえる食事処まで満喫! - 岡崎おでかけナビ https://okazaki-kanko.jp/feature/michinoeki.hujikawa-juku/top
  33. 藤川宿 - あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/fujikawa.html
  34. 藤川町_(岡崎市)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%97%A4%E5%B7%9D%E7%94%BA_%28%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%29
  35. 東海道五十三次沼津宿 庶民の旅 https://www.tokaidou.jp/syomin.html
  36. 東海道と旅 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012162.html
  37. 江戸時代の旅人は1日で何キロくらい歩いたの? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index4/answer1.htm
  38. 【第16回】みちびと紀行 東海道を往く~シーズン1を終えて https://michi100sen.jp/specialty/michibito/016.html
  39. 東海道藤川宿・藤川宿資料館 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/1615/