最終更新日 2025-10-05

藤枝宿整備(1601)

1601年、徳川家康は東海道藤枝宿を整備。関ヶ原後の天下統一に向け、田中城と一体化し、戦国終焉と江戸の統治システムを象徴する重要な拠点となった。
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慶長六年の道標:戦国終焉の象徴としての藤枝宿整備

序章:天下分け目の翌年、駿河国に引かれた一本の線

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わり、日本における百年に及ぶ戦乱の時代は事実上の終焉を迎えた。しかし、軍事的な勝利が、そのまま安定した政治的支配を意味するわけではない。家康が次に直面した課題は、この勝利をいかにして恒久的かつ全国的な統治体制へと転換させるかという、壮大な国家建設の事業であった。その最初の一手として、家康が驚くべき速さで着手したのが、全国の街道整備、とりわけ江戸と京を結ぶ大動脈、東海道の再構築であった 1

慶長六年(1601年)正月、関ヶ原の墨痕も乾かぬうちに発令された東海道宿駅伝馬制度の制定は、単なるインフラ整備事業ではなかった。それは、戦国の世を終わらせ、徳川による新たな支配秩序を全国の隅々にまで浸透させるための、極めて高度な政治的・軍事的意図を内包したグランドデザインの幕開けであった。情報伝達の迅速化、有事における軍隊の迅速な展開、そして全国規模での物流の掌握。これら全てが、新時代の統治者に不可欠な要素であり、街道整備はその根幹をなすものであった。

本報告書は、この壮大な計画の中で、東海道二十二番目の宿場として整備された「藤枝宿」に焦点を当てる。駿河国に位置するこの一宿場の整備というミクロな事象を通して、徳川による国家建設というマクロな歴史の転換点を解き明かすことを目的とする。戦国の遺風が色濃く残る時代に、一本の街道と一つの宿場がいかにして新時代の秩序を体現する「装置」として設計され、構築されていったのか。その過程を多角的に分析することで、慶長六年という年が持つ、日本の歴史における画期的な意味を明らかにしていく。

第一章:戦国時代の道と支配 ― なぜ街道整備が急務だったのか

徳川家康がなぜこれほどまでに迅速に街道整備に着手したのかを理解するためには、まず戦国時代における道と支配の実態を把握する必要がある。特に藤枝宿が位置する駿河国は、戦国期を通じて地政学的な要衝であり、その支配権を巡って絶え間ない角逐が繰り広げられた地であった。

1-1. 駿河国の戦略的重要性:戦国大名の角逐

古来、藤枝を含む志太地域は、駿府(現在の静岡市)から高草山を隔てた西側に位置することから「山西」と呼ばれていた 3 。この地は、駿河・遠江・三河を支配した戦国大名・今川氏にとって、その支配圏の西の守りを固める重要な拠点であった。岡部氏や朝比奈氏といった在地武士団は、早くから今川氏に仕え、その支配構造を支える重要な役割を担っていた 3

しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の権勢は急速に衰退する。その力の空白を突くように、甲斐の武田信玄が駿河への侵攻を開始した。永禄十一年(1568年)、信玄は今川方の徳一色城を攻略し、これを「田中城」と改名。堅固に改修した上で、西方の徳川家康が支配する遠江国攻略の拠点とした 6 。これ以降、藤枝周辺は、武田氏と徳川氏が覇権を争う最前線となり、田中城を巡って十数年にわたり激しい攻防が繰り返された 8

このような長期にわたる戦乱は、この地域の交通網に決定的な影響を与えた。街道は、軍勢の移動や兵站の確保といった軍事目的のために部分的に維持されることはあっても、統一された規格や安定した継立システムは存在しなかった。支配者が変わるたびに、あるいは戦況に応じて、道は寸断され、その機能は著しく不安定な状態に置かれていたのである 10 。旅人や商人の自由な往来は著しく制限され、経済活動は停滞し、人々の生活圏は狭い地域に分断されていた。

この状況は、家康にとって看過できるものではなかった。藤枝周辺は、今川、武田、そして徳川という三つの大勢力が数十年にわたり覇を競った「係争地」であった。関ヶ原の勝利は、この長期にわたる係争に終止符を打つものであり、この地に新たな秩序の象徴を打ち立てることは、喫緊の課題であった。家康がこの地に新たな宿場を迅速に構築しようとした背景には、単なる交通の利便性向上という目的を超えて、旧敵対勢力圏に対し「徳川の支配」を視覚的かつ恒久的に刻み込むための、極めて重要な戦後処理プロセスという側面があった。武力による制圧の次の段階として、インフラによる統治が始まろうとしていたのである。

1-2. 家康の構想:天下統一のためのインフラ戦略

徳川幕府が創始した宿駅伝馬制度は、全くの独創ではない。その原型は、戦国大名が自領内において、公用文書の伝達や物資輸送のために整備した伝馬制度に求めることができる 11 。家康自身も、三河・遠江・駿河を支配する中で、その有効性を熟知していた。彼の構想の画期的な点は、この制度を一つの領国規模から、日本全国を覆う統一された規格の国家的ネットワークへと昇華させようとしたことにあった。

この壮大な構想には、三つの主要な目的があった。第一に、 情報伝達の迅速化 である。広大な国土を統治するためには、中央(江戸)の命令を地方へ迅速かつ正確に伝え、同時に地方の情報を遅滞なく吸い上げる情報網が不可欠であった。宿駅伝馬制度は、まさしくこのための神経網を全国に張り巡らせる事業であった 12

第二に、 軍事的・政治的支配の確立 である。整備された街道は、平時においては幕府の権威を知らしめる役割を担うが、有事の際には、反乱鎮圧などのための軍隊を迅速に展開させるための軍事路として機能する。家康が、江戸や大坂といった大都市周辺や交通の要衝に、徳川一門である親藩大名や古くからの家臣である譜代大名を配置した政策と、街道整備は表裏一体の戦略であった 13 。これにより、万が一外様大名が反乱を起こしても、即座に江戸や大坂に到達することを防ぐ防衛網が形成された。

第三に、 経済的支配の掌握 である。安定し、規格化された街道は、人々の安全な往来を保障し、物流を飛躍的に活性化させる。これは、全国的な市場の形成を促し、江戸を中心とする経済圏を確立するための大動脈となる 13 。経済を掌握することは、長期的な安定政権を築く上での必須条件であった。

家康の構想は、単に物理的に国土を繋ぐことだけに留まらなかった。江戸の日本橋を起点とし 13 、全国へと伸びる街道網は、そこに住む人々や往来する旅人たちの意識にも変革をもたらす。慶長九年(1604年)以降に設置される一里塚は、「江戸から何里」という距離を示す道標である 16 。旅人たちは、この一里塚を目にするたびに、自らが江戸を中心とする広大な国家的秩序の一部であることを無意識のうちに認識するようになる。つまり、藤枝宿の整備を含む街道整備事業は、物理的な国土統一と、人々の心理的な国土統一を同時に目指す、深遠な意図を持ったプロジェクトであったと言えるだろう。

第二章:徳川のグランドデザイン ― 全国宿駅伝馬制度の制定

家康の構想を実現するための具体的な制度設計が、慶長六年に発令された宿駅伝馬制度である。この制度は、各宿場に義務と権利を明確に与えることで、国家的交通網を効率的かつ持続的に維持することを可能にした、極めて洗練されたシステムであった。

2-1. 慶長六年正月の号令:制度の骨格

慶長六年正月、家康は東海道の主要な宿場に対し、二つの重要な文書を発給した。一つは、幕府の公的な宿駅であることを認可し、伝馬の常備を命じる朱印状「伝馬朱印状」。もう一つは、伝馬の数や継立の方法、荷物の重量制限といった具体的な運営規則を定めた「伝馬定書(御伝馬之定)」である 15 。これにより、戦国時代には各領主の都合で運営されていた宿駅は、幕府の直接的な管理下に置かれ、統一された交通機構の一部として再編成された。

この制度の中核をなすのが、宿駅に課された 義務 である。各宿は、幕府公用の書状や荷物、あるいは公用の旅人を、次の宿場までリレー形式で輸送するために、定められた数の人足と伝馬(当初は36疋が標準とされた)を常に用意しておくことを義務付けられた 1 。この継送業務は「人馬継立(じんばつぎたて)」と呼ばれ、宿場の最も重要な役割であった 20 。幕府の使者は、この人馬を無料で利用することができたため、宿場にとっては極めて重い負担であった 12

一方で、この重い負担の見返りとして、宿駅には大きな 権利 も与えられた。その一つが「地子免許」である。これは、宿場内の家屋敷にかかる土地税(地子)が免除されるという税制上の優遇措置であった 18 。さらに、宿場は公用交通の担い手であると同時に、公用以外の一般旅行者を相手にした商業活動、すなわち旅籠(はたご)での宿泊業や、一般貨物の運送業を営むことが公認された 12 。これにより、宿場町は経済的な利益を追求することが可能となり、多くの人々が集まる活気ある町として発展していく土台が築かれた。

この制度設計は、徳川幕府の統治思想を巧みに反映している。幕府は、公用交通という国家的インフラの維持・運営という極めて重要な業務を、全て幕府の役人による直轄で行うのではなく、各宿場の民間(宿場町人)の力に委ねた。その見返りとして、税制優遇と商業活動の独占権という経済的なインセンティブを与える。これは、幕府がインフラの「規格」を定め「監督」を行い、実際の運営は民間の活力と自己利益の追求に委ねるという構造である。この仕組みによって、幕府は最小限の行政コストで全国的な交通網を維持することが可能となり、同時に宿場町という新たな経済拠点を全国に創出することにも成功した。これは、現代における官民連携(Public-Private Partnership)の先駆的なモデルであり、極めて合理的かつ持続可能なシステムであったと言えよう。

2-2. 街道の物理的整備

制度の確立と並行して、街道そのものの物理的な改良も精力的に進められた。戦国時代の道は、軍事的な必要性から狭く、曲がりくねっていることが多かったが、徳川の天下では、人馬や荷車の円滑な往来を前提とした、新たな規格の道が求められた。

まず、道幅が拡張され、見通しの悪い屈曲部は可能な限り直線化された。路面は、牛馬の往来によって生じた窪みに砂や石を敷いて固めるなど、常に良好な状態に保つよう管理された 22 。また、雨水による道の浸食を防ぐため、道の両側には排水溝が設けられ、必要に応じて土手(堤)が築かれるなど、土木技術を駆使した整備が行われた 23

さらに、旅人の利便性を高めるための施設も計画的に設置された。慶長九年(1604年)には、江戸日本橋を起点として、一里(約3.9km)ごとに土を盛り上げた塚を築き、その上に榎や松などを植えた「一里塚」の設置が命じられた 16 。これは、旅人にとって距離を知るための重要な目印となった。

街道の両側には、松や杉、榎といった木々が植えられ、美しい並木道が形成された 12 。これらの並木は、夏の強い日差しや冬の厳しい風雪から旅人を守るだけでなく、街道の景観を整え、旅に潤いを与える役割も果たした 23 。これらの物理的な整備は、東海道を単なる移動のための道から、安全で快適な旅を約束する、まさに天下の公道へと変貌させていったのである。

第三章:藤枝という舞台 ― 田中城と東海道が交差する地

慶長六年の東海道整備において、藤枝宿が選ばれたのは偶然ではない。この地には、戦国時代を通じて極めて重要な役割を果たしてきた田中城が存在し、徳川家康自身がこの城と深い因縁を持っていたからである。藤枝宿の整備は、この田中城の存在と不可分に結びついていた。

3-1. 田中城の特異性:円郭式城郭とその歴史

田中城は、日本の城郭史上、極めて特異な構造を持つ城として知られている。それは、本丸を中心に、同心円状に二の丸、三の丸といった曲輪と、それらを隔てる水堀が幾重にも広がる「円郭式」と呼ばれる縄張りを採用した平城であることだ 9 。亀の甲羅のようなその形状から「亀城」とも呼ばれたこの城は、特定の正面を持たず、あらゆる方角からの攻撃に対応できる、非常に防御能力の高い構造をしていた 27

この城の歴史は、室町時代に今川氏が築いた徳一色城に遡る 7 。その後、前述の通り、駿河に侵攻した武田信玄がこの城を攻略し、馬出曲輪を設けるなど、武田流の築城術を加えて改修し、その戦略上の重要性をさらに高めた 6 。そして天正年間、家康はこの田中城を武田氏から奪取すべく、幾度となく執拗な攻撃を仕掛け、激しい攻防戦を繰り広げた 8 。この経験は、家康にこの地の戦略的重要性を骨身に染みて認識させたに違いない。

天下統一後も、家康と田中城の縁は続いた。趣味であった鷹狩りの際には、水鳥が多く飛来する湿地帯に囲まれた田中城を頻繁に訪れている 9 。そして元和二年(1616年)、家康がその波乱の生涯を閉じるきっかけとなったとされるのが、田中城で食した鯛の天ぷらであったという逸話はあまりにも有名である 7 。攻防の記憶から晩年の逸話まで、田中城は家康にとって、単なる一つの城ではなく、特別な思い入れのある場所であった。

3-2. 慶長六年の人事:酒井忠利の田中城主就任

慶長六年三月、東海道宿駅伝馬制度が発令されてからわずか二ヶ月後、徳川譜代の重臣である酒井忠利が、一万石をもって田中城主として入封した 8 。この人事は、極めて重要な意味を持っていた。忠利に与えられた任務は、単に城主としてこの地を治めることだけではなかった。彼の最大のミッションは、幕府の国家プロジェクトである東海道整備を、この要衝において責任者として確実に実行することにあった。

具体的には、城域を拡張し、新たに設定される「藤枝宿」を城下町の一部として取り込み、一体的な都市計画を推進することであった 26 。これは、戦国時代には純粋な「軍事拠点」であった田中城の役割を、根本から変えることを意味していた。

戦国時代の城の価値は、いかに敵の攻撃を防ぎ、多くの兵を駐留させるかという軍事機能にあった。しかし、天下が統一され、大規模な戦争の時代が終わりを告げたとき、城の役割もまた変化する必要があった。酒井忠利に課せられた「藤枝宿の城下町への取り込み」とは、田中城を、閉鎖的な軍事要塞から、開かれた交通・経済の結節点である宿場町を内包する「近世的な政治・行政拠点」へと転換させる作業であった。城と宿が一体化することで、軍事的な威光を背景に持ちつつも、人々の往来と経済の流れを管理する、新しい時代の都市が生まれようとしていた。藤枝宿の整備は、街道の整備であると同時に、戦国時代の象徴であった「城」を、新たな江戸時代の統治システムに適応させるための「再定義」のプロセスでもあったのである。

第四章:慶長六年、藤枝宿誕生のリアルタイム再現

慶長六年という一年間、藤枝の地では具体的に何が起こっていたのだろうか。断片的な記録を繋ぎ合わせ、当時の状況を推察することで、一つの宿場町が誕生するまでの動的なプロセスを時系列で再現する。

【正月~二月】指令受領と計画始動

慶長六年正月、江戸城において東海道宿駅伝馬制度が正式に発令された 1 。この幕府の決定は、早馬によって駿府城に滞在していた家康の家臣団、そして現地の代官へと伝えられた。東海道のルート上にあり、古くから交通の要衝であった藤枝周辺が、新たな宿駅の設置候補地として選定されるのは、地理的にも歴史的にも必然であった 32 。この時期、現地の役人たちは、幕府からの正式な指令を待ちながら、来るべき大事業に向けた情報収集と準備を進めていたであろう。

【三月~四月】新城主着任と現地調査

三月、酒井忠利が新たな田中城主として着任する 8 。彼の最初の、そして最も重要な仕事は、幕府の指令に基づき、新たな宿場の具体的な場所と規模を決定するための現地調査であった。忠利と彼の家臣団は、既存の集落の状況、河川や地形、そして何よりも田中城との位置関係を綿密に調査した。東海道の幹線が、城の権威を示すように城下を通過し、かつ効率的な継立業務が可能なルートが慎重に検討された。この段階で、測量が行われ、宿場の中心となる通り、区画の割り方、主要施設の配置などを定めた、町割りの基本計画(ゾーニング)が策定されたと考えられる。

【五月~八月】町割り(都市計画)と普請の開始

春から夏にかけて、酒井忠利の指揮の下、大規模な都市計画が実行に移された。これが「藤枝宿の城下町への取り込み」の具体的なプロセスである 26

まず、東海道となるメインストリートの拡幅と直線化工事が開始された。戦国時代の不規則な道を、規格化された近世の街道へと造り変える作業である 22 。次に、その通りの両側に、旅籠や商家、職人たちが家を建てるための土地が短冊状に区画整理された。これが、後の藤枝宿の美しい家並の基礎となる 33 。同時に、宿場の心臓部となる問屋場、大名や公家が宿泊する本陣・脇本陣、そして幕府の法度を掲示する高札場といった、公的な施設の建設用地が確保された 20

特に重要だったのは、城と宿場の接続である。田中城の大手口(正面玄関)と宿場を結ぶ道が新たに整備され、その周辺には忠利の家臣たちが住む武家屋敷が計画的に配置された 20 。これにより、城と宿場は物理的にも機能的にも有機的に結合され、藤枝宿は単なる宿場町ではなく、田中藩の城下町としての性格を併せ持つことになった。この時期の藤枝は、まさに巨大な「建設現場」であった。周辺の村々から多くの人足が動員され、測量を行う役人、普請を指揮する武士、木材を運ぶ人々、槌音を響かせる大工たちの姿が、至る所で見られたはずである。それは、静的な「事変」というイメージを覆す、多くの人々の労働と汗によって新しい町がゼロから生み出されていく、活気に満ちた、あるいは混沌とした光景であっただろう。

【九月~十二月】施設の建設と機能の発動

秋から冬にかけて、町の骨格が出来上がると、主要な施設の建設が急ピッチで進められた。人馬継立業務の中心となる問屋場、宿場の格式を象徴する本陣などが次々と姿を現した。そして、宿場の東西の出入り口には、防犯と時間管理(明け六つに開き、暮れ六つに閉める)のための「木戸」が設置された 20

決定的に重要だったのが「高札場」の設置である。宿場の中心部など、人々の目に最も触れやすい場所に高札場が設けられ、そこには伝馬の公定運賃(駄賃)や、キリシタンの禁制、徒党の禁止といった、幕府の基本的な法令が墨痕鮮やかに記された高札が掲げられた 36 。これは、藤枝宿が徳川幕府の法の下にある公的な空間であることを、全ての往来者に対して宣言する、極めて象徴的な行為であった。

年末までには、これらの主要施設は完成し、問屋場は正式に業務を開始したと推測される。最初の公用荷物が藤枝宿に到着し、用意された人馬によって次の島田宿へと継ぎ立てられていった瞬間、藤枝宿は名実ともに東海道の公式な宿駅として、その歴史的な第一歩を踏み出したのである。

第五章:新時代の宿場の解剖 ― 整備後の藤枝宿の姿

慶長六年の集中的な整備を経て誕生した藤枝宿は、徳川の平和な時代の到来を象徴する、機能的で秩序だった空間であった。その構造と機能を解剖することで、家康のグランドデザインがどのように具現化されたかを見ることができる。

5-1. 宿場の空間構造

整備後の藤枝宿は、東の木戸から西の木戸まで、全長およそ2kmにわたって町並みが続く、東海道でも有数の規模を誇る宿場町であった 20 。最盛期には、旅籠や商家などおよそ670軒もの家々が軒を連ね、多くの旅人で賑わった 20

宿場の空間は、極めて機能的に配置されていた。天保十三年(1842年)に作成された「東海道藤枝宿往還家並絵図」などの資料や、現在の地名から、その姿を窺い知ることができる 33 。宿場の中心部である上伝馬・下伝馬といった地域には、宿駅の中核機能が集中していた。大名や公家、幕府の役人といったVIPが宿泊・休憩するための施設である「本陣」は、上本陣と下本陣の二軒が設けられていた 27 。本陣に次ぐ格式を持つ「脇本陣」も存在し、大規模な大名行列などに対応できる体制が整っていた 10 。そして、人馬継立業務を司る「問屋場」が、これらの近くに置かれていた 20 。幕府の法令を掲示する「高札場」も、往来の多い目立つ場所に設置され、幕府の権威を常に人々に示していた 35

藤枝宿の最大の特徴は、田中城の城下町と完全に一体化していた点にある。宿場町の中、下伝馬町には田中城の大手口へと通じる木戸が設けられ、その周辺には武家屋敷が配置されていた 20 。城の防衛ラインである三の丸の内側には、藩の重臣である家老たちの屋敷が置かれるなど、宿場の町割りと城の縄張りが密接に連携していた 27 。これにより、藤枝宿は単に旅人が通過する宿場であるだけでなく、田中藩の政治的・軍事的な中心地と不可分の、複合的な都市空間を形成していたのである。


表1:慶長六年整備後の藤枝宿における主要施設の配置と機能

施設名

推定所在地

機能・役割

考察・関連情報

本陣(上・下)

上伝馬・下伝馬(現在の藤枝4丁目周辺) 39

大名、公家、勅使など、身分の高い公用旅行者のための宿泊・休憩施設。

苗字帯刀を許された有力者が経営。藤枝宿には二軒存在し、宿場の規模と重要性を示している。

脇本陣

本陣の周辺

本陣を補完する宿泊施設。本陣が満室の場合や、大名行列の随員などが利用した。

岡部宿の例では本陣の向かいに設置されるなど、密接な関係にあった 10

問屋場

上伝馬(現在の交番付近) 27

幕府公用の荷物や書状を次の宿場へ継ぎ送るための人馬の手配(人馬継立)を行う宿駅業務の中核施設。

歌川広重の浮世絵「藤枝 人馬継立」に描かれた活気ある場所 21

高札場

宿場の中心部など人通りの多い場所

幕府や領主が定めた法度や掟書(駄賃、禁令など)を板札に記し、民衆に周知させるための掲示施設 35

幕府の法治が及ぶ公的空間であることを示す象徴的な施設。

木戸(東・西)

宿場の東西の出入り口

宿場の範囲を画定し、防犯や治安維持の役割を担う門。夜間は閉鎖された 20

開閉は「明け六つ」「暮れ六つ」と定められ、宿場の一日の始まりと終わりを告げた。

田中城大手口木戸

下伝馬町

宿場から田中城へと至る道に設けられた門。武家地と町人地の境界でもあった 20

藤枝宿が田中城の城下町と一体であったことを示す重要な構造物。

一里塚

志太、上青島 27

江戸日本橋を起点に一里ごとに設置された塚。旅人の距離の目安となった。

慶長9年以降に整備。江戸中心の国家秩序を旅人に意識させる役割も担った。


5-2. 宿場の機能と経済

整備された藤枝宿は、多様な機能を持つ活気ある町であった。その中核をなすのが、問屋場が担う「人馬継立」である。歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立』は、その様子を生き生きと伝えている 21 。問屋場の役人が帳面を片手に荷物を検め、汗をぬぐう人足、荷駄を積み替える人足、次の出発を待つ馬子など、多くの人々が慌ただしく立ち働く姿は、藤枝宿が全国的な交通・通信網の重要な結節点であったことを示している 42

宿泊機能も充実していた。前述の本陣・脇本陣に加え、一般の武士や庶民が利用する「旅籠」が37軒も存在した記録があり 38 、あらゆる階層の旅人を受け入れる体制が整っていた。

さらに、藤枝宿は経済的にも大いに栄えた。その理由の一つは、東海道の宿場としての機能に加え、塩の産地であった相良(現在の牧之原市)へと至る「田沼街道」の分岐点でもあったからである 38 。これにより、藤枝宿は単なる通過点ではなく、物資が集散する商業地としての性格も帯び、多くの商人が店を構え、地域経済の中心地として発展していったのである。

結論:戦国の終止符、江戸の礎石

慶長六年(1601年)の藤枝宿整備は、単なる一つの宿場の誕生という出来事に留まるものではない。それは、徳川家康が構想した新たな国家秩序の、物理的な具現化であった。戦乱によって分断され、疲弊した国土を、規格化された「道」という血管で繋ぎ、江戸という心臓部から発せられる命令と法、そして経済の活力を全国の隅々にまで行き渡らせる。藤枝宿は、この壮大な事業の、まさに最初の段階に築かれた重要な結節点であった。

この一つの宿場の整備というミクロな事象の中には、時代が大きく転換するダイナミズムが凝縮されている。戦国時代の象徴であった「城」(田中城)が、その役割を軍事拠点から政治・行政拠点へと変え、開かれた「宿場」(藤枝宿)を内包する。これは、武力による支配が絶対であった「戦国」の論理から、法とインフラによる統治を基本とする「江戸」の論理へと、社会システムそのものが移行していく過程を象徴している。

慶長六年に藤枝の地に引かれた一本の道と、そこに築かれた整然とした町並みは、百年に及んだ戦国時代の終焉を告げる明確な「終止符」であった。そして同時に、それはこれから始まる二百六十余年の長きにわたる「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」を支える、巨大な社会基盤の揺るぎない「礎石」の一つとなったのである。

引用文献

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