最終更新日 2025-10-05

袋井宿整備(1601)

慶長6年、東海道宿駅伝馬制度制定後、袋井宿は元和2年まで15年間設置されなかった。これは戦国から江戸への政策転換と、地域の疲弊が背景。軍事優先から民政安定への移行を象徴。
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慶長六年の国家構想と元和二年の宿駅 ― 戦国終焉の象徴として読み解く袋井宿整備

序章:慶長6年(1601年)の神話と元和2年(1616年)の真相 ― なぜ袋井宿は15年待たねばならなかったのか

日本の歴史において、慶長6年(1601年)は画期的な年として記憶されている。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、天下統一の布石として東海道に宿駅伝馬制度を制定した年である 1 。この国家的なインフラ整備事業によって、江戸と京都を結ぶ大動脈は新たな秩序の下に再編成され、後の「東海道五十三次」の原型が形作られた。このため、「袋井宿整備(1601)」という事象も、この壮大な計画の一環として同年に実施されたと認識されがちである。

しかし、史実を丹念に追うと、異なる姿が浮かび上がる。遠江国に位置する袋井宿が、東海道の正式な宿場として設置されたのは、宿駅伝馬制度の制定から15年もの歳月が流れた元和2年(1616年)のことなのである 4 。この15年という時間差は、単なる行政上の遅延や計画の不備として片付けられるべきものではない。むしろ、この「空白の15年」こそが、戦国という時代の終焉と、徳川による泰平の世、すなわち近世江戸時代が名実ともに確立されるまでの、困難かつダイナミックな移行期間そのものを象徴している。

本報告書は、この15年間の謎を解き明かすことを主眼とする。なぜ袋井宿は、慶長6年の国家構想から漏れ、15年間待たねばならなかったのか。そして、なぜ元和2年という特定の年に設置されるに至ったのか。この問いを、「戦国時代という視点」から深く掘り下げることで、中央の壮大な政策と、戦国の気風がいまだ色濃く残る地方の実情とが、いかにしてせめぎ合い、やがて新たな社会秩序へと収斂していったのかをリアルタイムに描き出す。これは、一つの宿場の成立史に留まらず、徳川の天下平定事業が如何にして完成に至ったのかを、遠江国袋井という一点から照射する試みである。

第一章:天下分け目の直後 ― 慶長6年(1601年)の日本、そして遠江国

「袋井宿整備」を戦国時代の文脈で理解するためには、まず宿駅伝馬制度が制定された慶長6年(1601年)当時の日本、とりわけ遠江国が置かれていた状況を正確に把握する必要がある。この時点では、徳川の支配は決して盤石ではなく、遠江国もまた、長年の戦乱が残した深い傷跡と、複雑な支配関係の再編という過渡期にあった。

第一節:未だ終わらぬ戦国 ― 関ヶ原以降の政治情勢

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利は、徳川家康の覇権を決定づけたものの、それをもって戦国時代が完全に終焉したわけではなかった。最大の脅威であった豊臣家は、依然として莫大な財力と共に大坂城に健在であり、その影響力は西国を中心に根強く残っていた。豊臣恩顧の大名も数多く存在し、徳川政権に対する潜在的な脅威であり続けた。

家康が慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた後も、この基本的な構図は変わらなかった。徳川の天下は、いわば「途上」にあり、その統治は、軍事的な緊張感を常に内包したものであった。このような状況下で幕府が推進する政策は、必然的に軍事・行政上の要請が最優先されることになる。国家の安定と支配の浸透こそが至上命題であり、民政の充実はその次の段階の課題であった。

第二節:支配者がめまぐるしく変わった地、遠江

袋井宿が位置する遠江国は、戦国期を通じて、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして三河の徳川氏という三大勢力が激しく争奪を繰り広げた地であった 7 。特に今川氏の支配は約70年に及んだが、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が討たれると、その支配は急速に揺らぎ、徳川家康による遠江侵攻が開始される 8

その後、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐を経て家康が関東へ移封されると、遠江国は秀吉の支配下に入り、浜松城に堀尾吉晴、掛川城に山内一豊といった豊臣系の大名が配置された 8 。彼らは、関東の家康を牽制するという重要な役割を担っていた。

関ヶ原の戦いを経て、これらの豊臣系大名は他国へ転封となり、遠江は再び徳川の支配に復帰した。その多くは幕府の直轄領(天領)や、譜代大名の所領として再編されたが、慶長6年時点では、この新たな支配体制への移行が始まったばかりであった 10 。長年にわたる支配者の交代は、地域の社会構造や人心に複雑な影響を及ぼしており、徳川による安定した統治を確立するには、なお時間を要する状態だったのである。

第三節:戦国の道、江戸の道 ― 街道の実態と課題

戦国時代の街道は、主に軍勢の迅速な移動を目的とした軍事路であり、平時の安定した交通は二の次にされていた 12 。道幅は狭く、路面の整備も不十分で、ひとたび大雨が降ればぬかるみと化すありさまであった。

特に、後の袋井宿が設置されることになる掛川宿と見付宿の間は、距離が4里(約16キロメートル)近くあり、他の宿場間に比べて長かった 5 。さらに、この区間には原野谷川という河川が存在し、しばしば増水しては交通を途絶させた 14 。これは、旅人はもちろんのこと、公的な物資輸送や情報伝達にとっても致命的な障害であった。治安も決して良いとは言えず、夜道には追いはぎが出没するなど、旅は常に危険と隣り合わせであった 12

徳川政権にとって、全国支配を確立するためには、安全かつ迅速な情報・物資の輸送網の確保が不可欠であった。戦国時代の断続的で不安定な「道」を、泰平の世を支える恒久的で安定した「街道」へと転換させること、それこそが慶長6年時点における喫緊の国家課題だったのである。この課題認識の中で、掛川・見付間の長距離と地理的難所は、いずれ解決すべき問題として明確に認識されていたはずである。しかし、関ヶ原直後の政治・軍事的な現実が、その即時解決を許さなかった。慶長6年の東海道整備計画は、完璧な民生インフラの構築を目指したものではなく、まずは「徳川の支配を維持するための最低限の軍事・行政ネットワーク」を最優先で構築するプロジェクトであった。反乱の鎮圧や重要情報の伝達といった、政権の根幹に関わる機能の確保が何よりも重要視されたのである。そのため、袋井のような「あると便利だが、無くても既存の宿(掛川・見付)で何とか代用できる」場所の整備は、戦略的に後回しにされたと考えられる。袋井の欠落は計画の不備ではなく、当時の政治・軍事状況を色濃く反映した、現実的な優先順位付けの結果であった。

第二章:国家事業としての東海道整備 ― 宿駅伝馬制度の全貌

慶長6年(1601年)正月、徳川家康が発令した東海道の宿駅伝馬制度は、単なる街道整備令ではなかった。それは、戦国の世を経て分断されていた日本を、江戸を中心とする新たな秩序の下に再統合するための、壮大な国家プロジェクトであった。この制度の理解なくして、後の袋井宿設置の歴史的意義を語ることはできない。

第一節:制度の骨格 ― 伝馬36疋の常備

宿駅伝馬制度の核心は、東海道の各宿場に対し、幕府の公用交通に充てるための人馬を常に準備しておくことを義務付けた点にある 1 。制度制定当初、各宿には伝馬(てんま)と呼ばれる馬を36疋(ひき)常備することが命じられた 2 。この「36疋」という数字は、関ヶ原直後の幕府が想定した、全国支配を維持するために最低限必要な公用交通量の基準値であったと言える。

幕府は、指定した宿場に対し、その権威の象徴として「伝馬朱印状」を下付するとともに、遵守すべき規則を詳細に記した「伝馬定書」を与えた 2 。これにより、各宿場は幕府の公的な交通網の一部として明確に位置づけられ、荷物や使者は、宿場から宿場へとリレー方式で、迅速かつ確実に継ぎ送られる体制が整えられたのである 15

第二節:戦国からの継承と発展

伝馬制度そのものは、徳川家康が創始したものではない。今川氏をはじめとする戦国大名たちも、領国経営を円滑に進めるため、自領内において同様の交通制度を整備していた 17 。家康自身も、豊臣政権下で関東を治めていた頃、すでに江戸・小田原間で宿駅を設け、伝馬制度を整えていた実績がある 15

家康の真に画期的な功績は、これまで各大名が領国単位で独自に運用していた制度を、江戸から京都に至る日本の大動脈全体に適用し、全国規模で統一・標準化し、恒久的な国家制度として確立した点にある。これは、戦国時代の統治手法の優れた点を継承しつつ、それを天下泰平の世にふさわしい形へと昇華させる、卓越した行政手腕の現れであった。

第三節:支配の血脈 ― 制度の戦略的意図

この制度が目指した第一の目的は、幕府の命令を全国の隅々にまで迅速に伝達し、大名の往来(後の参勤交代の基礎となる)や公用物資の輸送を円滑にすることで、徳川の支配を物理的に浸透させることにあった 15 。江戸から発せられた指令が、定められた宿場を、定められた人馬によって、定められた速度で伝わっていく。東海道は、まさに江戸幕府という巨大な身体を動かすための「血脈」であり、神経網であった。

同時に、この制度は極めて重要な軍事的側面も有していた。整備された街道は、有事の際に幕府の軍勢を迅速に西国へ派遣することを可能にする。特に、依然として豊臣家が睨みを利かせる大坂への備えとして、江戸と京・大坂を結ぶ東海道の軍事的価値は計り知れないものがあった。宿駅伝馬制度は、平時における統治の道具であると同時に、戦時における勝利の生命線でもあったのである。

この宿駅伝馬制度は、単なる交通インフラの整備事業と捉えるべきではない。それは、徳川家康が「時間」と「空間」を幕府の支配下に置くことで、物理的に日本を再統一しようとした、壮大な国家構想の具現化であった。戦国時代、日本は各地域が独自の論理と尺度で動く、いわば分断された時空間の集合体であった。宿駅制度は、江戸からの指令が何日でどこまで届くかという「時間」の予測を可能にし、後の慶長9年(1604年)に始まる一里塚の設置は、江戸からの「空間」(距離)を全国に可視化する事業であった 21 。これにより、日本中のあらゆる場所が、「江戸を基点とした時間と距離」によって再編成されることになる。これは物理的な支配に留まらず、人々の意識の中に「江戸を中心とする新たな秩序」を植え付ける、高度な統治技術であった。後の袋井宿の設置も、この巨大な時空間グリッドに生じた「空白」を埋め、国家の動脈をより円滑にするための、必然的な措置として位置づけることができる。

第三章:「空白の15年」の時系列分析 ― 袋井宿設置に至るまでの道程

慶長6年(1601年)の国家構想から、元和2年(1616年)の袋井宿誕生まで、15年の歳月が流れた。この「空白の15年」は、徳川の天下が安定へと向かう過程で、中央の政策と地方の現実が交錯した、極めて重要な期間であった。ここでは、その15年間に袋井周辺で何が起きていたのかを時系列で再構築し、宿駅設置に至る必然性を明らかにする。

第一節:慶長6年(1601年) ― なぜ袋井は「選ばれなかった」のか

前述の通り、掛川宿と見付宿の間の距離は約16キロメートルと長く、旅人にとって大きな負担であった 5 。にもかかわらず、慶長6年の当初計画でこの区間に新たな宿場が設けられなかったのはなぜか。それは、当時の幕府が置かれていた状況を鑑みれば、合理的な判断であった。

関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、豊臣家という最大の脅威は存続しており、幕府の最優先課題は軍事的な安定の確保にあった。東海道整備も、まずは江戸と上方を結ぶ最低限の公用交通網を確保するという、軍事・行政上の要請が第一であった。掛川・見付間は確かに不便ではあったが、既存の宿場でなんとか継立業務をこなすことは可能であり、喫緊の課題とは見なされなかったのである。

事実、東海道五十三次の中には、袋井宿以外にも遅れて設置された宿場が存在する。例えば、箱根宿は元和4年(1618年)、川崎宿に至っては元和9年(1623年)の設置である 22 。これは、幕府が当初の計画を固定的なものとせず、実際の交通状況や地域の要請に応じて、制度を柔軟に運用し、見直していった証左である。慶長6年の時点では、袋井は「対応可能」な問題として、優先順位の低い課題に位置づけられたのである。

第二節:疲弊する地域 ― 助郷の重圧と交通の困難

しかし、中央の政策的判断とは裏腹に、現地の負担は深刻であった。宿場がない間も、大名の行列や公用の荷物は絶えずこの区間を往来した。宿場が担うべき人馬の補充は、周辺の村々が「助郷(すけごう)」に類する形で、臨時に、そして不規則に負担させられていたと推察される 25

これは、後に制度化される助郷(元禄7年、1694年)とは異なり、明確な規定のない、より過酷な夫役であった可能性が高い。農繁期であろうとお構いなしの人馬徴発は、地域の農業生産に深刻な打撃を与え、農民の生活を圧迫したであろう 27

これに追い打ちをかけたのが、原野谷川の存在である。度重なる河川の増水による交通の途絶、いわゆる「川止め」は、旅人の足止めはもちろん、幕府の最重要業務である公用の継立にも多大な混乱をもたらした 14 。この地域の交通は、15年間にわたり、極めて不安定かつ住民の犠牲の上に成り立つ、脆弱な状態に置かれ続けていたのである。

第三節:統治の現場 ― 中泉代官の役割

この時期、遠江国の天領を管轄し、地域の統治を担っていたのが中泉(現在の磐田市)に陣屋を構えた代官であった 11 。彼らは、年貢の徴収といった基本的な業務に加え、このような交通問題の最前線で対応に追われていた。古文書には、元和年間(1615-1624年)に「中泉代官中野七蔵」といった具体的な名前も見え、彼らが地域行政の実務を担っていたことがわかる 31

地域の疲弊や交通の混乱に関する詳細な報告は、彼ら現場の代官を通じて、江戸の幕府中枢へと上げられていたと考えられる。袋井宿設置の必要性は、机上の計画としてではなく、日々の統治の中から生まれる切実な要求として、幕府に認識されていったのである。

第四節:元和元年(1615年) ― すべてが変わった年

慶長20年、改元されて元和元年(1615年)。この年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家にとって国内の軍事的脅威は完全に消滅した。これを受けて、幕府は年号を元和とし、「元和偃武(げんなえんぶ)」を宣言した。これは、武器を偃(ふ)せ、戦乱の時代が終わり、天下が泰平の世へと移行したことを内外に示す、歴史的な宣言であった。

この元和偃武こそ、袋井宿の運命を決定づけた画期である。もはや国内に敵はなく、幕府の国内政策の優先順位は、軍事・鎮圧から、民政の安定と経済の振興へと大きく舵を切ることになった。戦国の論理が終わりを告げ、江戸の論理が始まった瞬間であった。

第五節:元和2年(1616年) ― なぜ「この年」だったのか

大坂の陣の終結により、東海道を軍事優先で考える必要性は薄れた。代わって、泰平の世の到来と共に増加が見込まれる平時の交通、すなわち本格化する大名の参勤交代や、活発化する商人の往来、そして庶民の伊勢参りといった需要に、街道インフラが応える必要性が急速に高まった。

掛川・見付間の交通のボトルネックを解消することは、もはや単なる利便性の向上ではなく、新たな時代の国家運営に不可欠な政策となったのである。15年間放置されてきた地域の困難を解消し、安定した統治(撫民)を実現することは、新たな時代の幕開けを象徴する事業として、絶好のタイミングであった。

そして、この元和2年(1616年)4月、天下人・徳川家康がその生涯を閉じる。袋井宿の設置決定は、家康自身の天下統一事業の総仕上げの一つとして、その最晩年に行われた最後の采配であった可能性も否定できない。戦国の世を終わらせた男が、その最後の仕事として、泰平の世の礎となる道の綻びを繕ったのである。

このように、袋井宿の設置は、単なるインフラ整備ではない。「いかにして敵を滅ぼし、支配を固めるか」という戦国の論理から、「いかにして泰平の世を維持し、国家を繁栄させるか」という江戸の論理への歴史的転換を象徴する、極めて政治的な決断であった。15年間という時間は、この時代の論理が転換するために必要不可欠な熟成期間だったのである。


表:戦国終焉から袋井宿誕生までの時系列対照表

年代 (西暦/和暦)

主要な出来事 (全国)

遠江国の動向・支配体制

東海道整備の動向

考察・袋井宿への関連性

1590 (天正18)

豊臣秀吉、天下統一。徳川家康、関東へ移封。

豊臣系大名(山内一豊ら)の支配下に入る 8

豊臣政権下での部分的な整備。

徳川の直接支配が一旦途絶える。

1600 (慶長5)

関ヶ原の戦い。

徳川方の支配に復帰。多くが天領となり、代官支配が始まる 11

-

徳川による再支配の開始。

1601 (慶長6)

徳川家康、東海道に宿駅伝馬制度を制定。

中泉代官所などが設置され、天領支配が本格化 29

主要宿場が一斉に指定される 1

国家構想の始動。しかし袋井は指定されず。

1603 (慶長8)

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。

幕府の直轄支配体制が強化される。

交通量は徐々に増加。

政治的安定が進むが、インフラの課題は残る。

1601-1615

(大御所政治など)

掛川・見付間の交通困難と、周辺村落の重い負担が続く(助郷制度の状況から類推 25 )。

制度の運用と見直しが進む。

「空白の15年」。宿駅設置の必要性が現場レベルで高まる。

1615 (元和元)

大坂夏の陣、豊臣家滅亡。 元和偃武

徳川の支配が盤石となる。

-

「戦国の論理」の終焉。国内政策の優先順位が変化する画期。

1616 (元和2)

徳川家康、死去。

-

袋井宿が正式に設置される 4

15年来の課題が、泰平の世の到来を以て解決される。


第四章:元和2年(1616年)、袋井宿の誕生 ― 整備事業のリアルタイム再現

元和2年(1616年)、袋井宿設置の決定は、単なる机上の計画から、具体的な建設事業へと移行した。これは、徳川幕府の高度な行政能力と、在地社会を動員する強大な権力を示す、近世的都市計画の実践であった。ここでは、そのプロセスを可能な限りリアルタイムに再現する。

第一節:幕府の号令と代官の始動

全ての始まりは、江戸の幕閣、あるいは大御所家康の駿府政権から発せられた一通の指令であった。この指令は、遠江国の天領を管轄する中泉代官(当時の中野七蔵らか 31 )へと下された。代官は、この国家事業の現場責任者として、直ちにプロジェクトチームの編成に着手した。配下の手代(てだい)や村役人(名主など)を動員し、測量、用地交渉、資材調達、労働力確保といった各部門の担当者を任命し、詳細な実施計画の策定に入ったと考えられる。代官の陣屋は、さながら現代の建設プロジェクト事務所のような様相を呈したであろう。

第二節:宿場のグランドデザイン ― 用地選定と町割

次に、宿場の具体的な場所と設計が決定された。おそらくは既存の東海道の道筋を基礎としつつ、原野谷川の治水や、将来的な町の発展を考慮して、最適な用地が選定された。

用地が決定すると、「町割(ちょうわり)」と呼ばれる区画整理が実施された。後の「袋井宿絵図」などから推測するに、まず全長約570メートルに及ぶ宿場の中心線が引かれ、それに沿って町の骨格が設計された 13 。最優先で確保されたのは、大名などが宿泊する「本陣」や、公用荷物の継立業務を行う「問屋場(といやば)」といった公的施設の用地である。袋井宿には本陣が3軒も設けられたことから、その重要性がうかがえる 14 。これらの公的施設の位置を基準に、一般の旅籠(はたご)や商家の敷地が、間口の広さなどに応じて整然と割り当てられていった。これは、無秩序な集落の形成とは一線を画す、明確な意図を持った都市計画であった。

第三節:町の建設 ― 人とモノの集積

設計が完了すると、いよいよ建設工事が始まる。宿場の建設に必要な膨大な量の木材や石材といった資材は、周辺の村々から供出させられた。また、建設を実際に担う大工、左官、石工といった職人たちも、夫役(ぶやく)として近隣から動員されたと考えられる。これは、幕府権力による強制力を伴う、大規模な人的・物的資源の集積であった。

建物が形になるのと並行して、宿場の機能を担う住民の確保も進められた。周辺の農村から人々を移住させるための奨励策が取られたり、商業を活性化させるために有力な商人が誘致されたりしたであろう。こうして、元和2年のうちに、袋井の地には、家数195軒、本陣3軒、旅籠50軒を擁する、比較的小規模ながらも機能的な新しい町が誕生したのである 14

第四節:新たな秩序の形成 ― 助郷村の指定

宿場という「ハードウェア」が完成すると、その運営を支えるための「ソフトウェア」、すなわち助郷制度が正式に導入された。宿場が常備する人馬だけでは公用交通を捌ききれない場合に備え、周辺の村々が「助郷村」として指定され、要請に応じて人馬を提供する義務を負うことになったのである 25

これにより、これまで15年間にわたって不規則かつ過酷な負担を強いられてきた村々は、制度化された新たな役務を負うことになった。これは、負担が予測可能となり安定化したという側面を持つと同時に、彼らが徳川幕府の全国的な支配体制の中に、恒久的に組み込まれたことを意味していた。袋井宿の誕生は、単に一つの町ができたというだけでなく、周辺地域全体が新たな近世的秩序の下に再編成された瞬間でもあった。

結論:戦国の終焉と新たな秩序の礎石

本報告書で検証してきた通り、「袋井宿整備(1601)」という当初の問いは、史実に基づき「慶長6年(1601年)の国家構想が、15年の歳月を経て元和2年(1616年)に結実した事象」として捉え直されるべきである。そして、この15年という時間差こそが、本件の歴史的意義を解き明かす鍵であった。

このタイムラグは、徳川の天下が「戦国の論理」による軍事的制圧の段階から、「江戸の論理」に基づく恒久的な民政の段階へと移行するために、必要不可欠な時間であった。慶長6年時点では、幕府の最優先課題は国内の軍事的安定であり、東海道整備もそのための手段であった。しかし、元和元年(1615年)の大坂夏の陣と元和偃武は、この時代の論理を根底から覆した。泰平の世の到来は、交通の円滑化と民生の安定を、国家の最重要政策へと押し上げたのである。

この歴史的な転換点において、袋井宿は誕生した。それは、15年間にわたり地域の重荷となっていた交通の難所を解消し、徳川による安定した統治が全国の隅々にまで及ぶことを示す象徴的な事業であった。

したがって、袋井宿の整備は、単なる一つの宿場の成立に留まるものではない。それは、戦国時代の混沌が名実ともに終わりを告げ、徳川幕府による安定した近世社会の秩序が、遠江国という一地域に、そして東海道という日本の大動脈に、確固たる礎石として据えられた瞬間を物語る、歴史的な出来事であったと結論付けられる。

引用文献

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  26. 助郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E9%83%B7
  27. 歴史探訪-農民が泣かされた!助郷制度 - 八ヶ岳の里から https://letterhouse.net/78/rekishi/rekishitanbou-12.html
  28. 歴史を訪ねて 街道筋の助郷制度 - 目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/sukego.html
  29. 遠州中泉奉行となる(前島密⑧) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32530000/
  30. 【浜松市立中央図書館】詳細検索 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/detailed-search?mode=text&word=%E4%BB%A3%E5%AE%98
  31. 森町関係略年表(江戸時代) - 静岡県森町 https://www.town.morimachi.shizuoka.jp/gyosei/machinososhiki/shakaikyoikuka/bunkashinkogakari/2/1090.html
  32. 浜松市立中央図書館-浜松市文化遺産デジタルアーカイブ:浜松市史 ニ https://adeac.jp/hamamatsu-city/texthtml/d100020/mp010020-100020/ht004140
  33. 袋井宿 https://fukuroi-digital-archive.com/archive/82/
  34. 東海道、袋井宿を歩こう! https://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/material/files/group/15/140201_20-21.pdf
  35. 袋井宿の日帰り観光、グルメのおすすめスポットをご紹介 - しずおかぷらっと https://shizup.jp/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%BE%A1%E5%AE%BF%E5%A0%B4%E5%8D%B0%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A/%E8%A2%8B%E4%BA%95%E5%AE%BF%E3%81%AE%E6%97%A5%E5%B8%B0%E3%82%8A%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%A1/