最終更新日 2025-09-26

西国街道整備(1604)

慶長九年、徳川家康は西国街道を整備し、戦国の軍事路を行政路へと転換させた。大久保長安が総責任者を務め、宿駅伝馬制度を確立。これは参勤交代の基盤となり、経済と文化交流を促進し、泰平の世の礎を築いた。
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西国街道整備(1604年)の多角的分析:戦国から泰平への道筋

序論:慶長九年という画期

本報告書は、慶長九年(1604年)に徳川幕府によって発令された全国的な街道整備事業、特に西国街道に焦点を当て、その歴史的意義を多角的に分析するものである。利用者が提示した「宿駅と伝馬制を整え幹線交通を統一」という概要は、この事業の核心を的確に捉えている。しかし、この事変の真の重要性は、単一のインフラ整備事業という枠組みを超え、戦国時代の軍事的要請から江戸時代の行政的支配へと移行する、国家統治パラダイムの根本的な転換を象徴する点にある。

したがって、本報告書では特に二つの視座を重視する。第一に、「戦国時代という視点」である。徳川家康によるこの壮大な事業が、先行する織田信長や豊臣秀吉の交通政策をいかに継承し、そしていかに決定的に乗り越えたのかを解明する。これは、武力による天下統一から、制度による国家統治へと移行するプロセスそのものを解き明かす試みである。信長・秀吉にとっての「道」が主に軍勢を動かすための「戦路」であったのに対し、家康にとってのそれは国家を統治するための「行政路」であり、その目的の質的な違いが政策の規模と恒久性を決定づけた。

第二に、「リアルタイムな時系列」での描写である。整備令の発令、総責任者である大久保長安の任命、全国統一規格の策定、具体的な普請の開始、宿駅の設置、そして伝馬制度の運用開始という一連の流れを時系列に沿って詳細に追う。これにより、静的な結果報告ではなく、徳川幕府という新たな中央政権が、いかにして強大な実行力と長期的構想力をもって国家建設を進めていったのか、その動的なプロセスを浮き彫りにすることを目指す。この分析を通じて、慶長九年の西国街道整備が、単なる土木事業ではなく、二百六十余年にわたる徳川の泰平の礎を築いた、極めて重要な政治的・社会的事業であったことを明らかにする。

第一章:戦国時代における交通網の萌芽と限界

徳川家康による慶長九年の街道整備は、決して無から生まれたものではない。それは、戦国時代の動乱の中で、天下統一を目指した織田信長、豊臣秀吉らによって試みられた交通政策の延長線上にありながら、その目的と規模において決定的な一線を画すものであった。この章では、戦国期における街道整備の先進性と、その時代に固有の限界を明らかにする。

第一節:織田信長・豊臣秀吉の統一事業と街道整備

戦国大名は、領国を安定させ富国強兵を推し進めるため、本城と支城を結ぶ道路を整備し、兵員や軍需物資を迅速に輸送するための伝馬制度を構築した 1 。この流れの中で、天下統一事業を本格化させた織田信長は、画期的な交通政策を打ち出した。彼は関所を撤廃して自由な往来と物流を促し、尾張・美濃・近江などで道幅を三間から三間二尺(約5.4mから6m)に拡張し、街道に並木を植えるなど、交通路の整備を積極的に行った 1 。これらの政策は、軍勢の迅速な移動と兵站の確保という、極めて明確な軍事的要請に応えるものであった 1

信長の後を継いだ豊臣秀吉も、この政策を踏襲し、さらなる交通整備に努めた 1 。彼は関所の全廃を推し進め、道路や橋梁の整備を行った 2 。秀吉の政策もまた、特定の軍事行動と密接に結びついていた。例えば、天正十四年(1586年)の島津征伐に際しては毛利氏に命じて山陽道から九州に至る道路を建設させ 2 、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵に先立っては、京都・大坂から肥前名護屋城までの間に駅伝制を採用した 3 。また、秀吉は一里ごとに五間四方の塚を築かせ、新たに定めた度量衡制度を全国に普及させることを意図したが、これは制度として完全に確立するには至らなかった 4

第二節:戦国末期の西国街道:分断された戦略的要衝

西国街道は、その前身である古代山陽道が都と大宰府を結ぶ国家の最重要幹線道路であったように、古来より戦略的に極めて重要な道であった 5 。しかし、戦国時代に入ると、沿線の支配者はめまぐるしく変わり、街道全体を貫く統一されたインフラ管理体制は完全に失われた。

街道沿いの高槻や茨木、広島といった城下町や宿場町は、それぞれの領主の下で局所的に発展した 5 。しかし、それはあくまで各々の領国経営の一環であり、街道は領国ごとに分断されていた。天正三年(1575年)、薩摩の島津家久が上京した際の旅日記には、当時の西国街道の様子が記録されている。それによると、当時摂津国を支配していた荒木村重の伊丹城(有岡城)や茨木城、高槻城などは、防御を優先して街道から少し離れた場所に築かれており、街道そのものが城郭防衛システムの一部として組み込まれていた様子が窺える 6 。道は統一された交通路というよりも、各勢力圏を繋ぐ境界線であり、時に軍事的な緩衝地帯としての性格を帯びていた。

信長・秀吉の政策は、こうした分断された状況に一時的な統一性をもたらしたが、それはあくまで特定の軍事作戦を遂行するためのものであり、恒久的な制度ではなかった。戦国の世が終わるまで、西国街道は統一された国家的インフラではなく、諸勢力がせめぎ合う、分断された戦略的要衝であり続けたのである。


【表1】戦国期~江戸初期における主要街道政策の比較

項目

織田信長

豊臣秀吉

徳川家康(慶長九年)

主目的

軍事行動の迅速化、領内経済の活性化

大規模な軍事遠征(九州、朝鮮)、度量衡統一の試み

全国的・恒久的な支配体制の確立、大名統制

主な施策

関所撤廃、道幅拡張、並木植樹

信長政策の継承、特定の軍事路の重点整備

全国的な道幅・規格の統一(六間)、一里塚の設置

対象範囲

支配地域内(尾張、美濃、近江など)

全国(ただし軍事的に必要な箇所を優先)

全国(五街道および主要脇街道)

制度的特徴

指示は散発的、恒久制度ではない

駅伝制を部分的に採用、制度としては未確立

宿駅伝馬制として全国に制度化、幕府が直接管理


信長・秀吉の街道整備が、特定の軍事作戦を成功させるという「目的」のために行われた「目的論的インフラ」であったのに対し、家康のそれは全く異なる地平を目指していた。関ヶ原の戦いを経て、武力による制圧後の「統治」という新たな段階に入った家康にとって、道はもはや特定の戦のための「戦路」ではなかった。それは、全国の大名を管理し(参勤交代)、経済を掌握し(物流)、情報を伝達する(飛脚)ための、恒久的な国家統治の基盤、すなわち「国家的インフラ」であった。この目的の根本的な違いが、政策の規模、規格の統一性、そして制度としての恒久性において、戦国時代のそれとは比較にならないほどの飛躍をもたらしたのである。

第二章:慶長九年(1604年)「天下普請」としての街道整備令

関ヶ原の戦いから三年、江戸に幕府を開いた翌年の慶長九年(1604年)、徳川家康は天下統一の総仕上げとも言うべき、壮大な国家プロジェクトに着手した。それは、全国の主要街道を統一された規格の下で再整備し、宿駅と伝馬の制度を確立するという、まさに「天下普請」であった。この事業は、徳川の治世が武力のみならず、高度な統治システムによって支えられることを天下に示すものであった。

第一節:関ヶ原後の徳川家康:国家構想と交通政策

徳川家康は、戦乱の世を終結させ、恒久的な平和を築くための国家構想を抱いていた。それは、格差がなく国土が均等に発展する社会を目指すという、仏教的な思想にも裏打ちされたものであり、その具体的な形が幕藩体制であった 9 。この体制を実効的に機能させるためには、江戸を中心とする強力な中央集権機構と、全国の隅々まで幕府の権威を行き渡らせる物理的なネットワークが不可欠であった。

全国的な交通網の整備は、この国家構想の根幹をなす政策であった。特に、豊臣恩顧の大名が多く、潜在的な脅威となりうる西国の外様大名を統制下に置くことは、幕府の最重要課題であった 10 。街道を整備し、後の寛永十二年(1635年)に制度化される参勤交代を円滑に行わせることは、大名の経済力を削ぎ、江戸への忠誠を誓わせるための長期的な布石であった 12

この全国展開に先立ち、家康は慶長六年(1601年)に、最重要幹線である東海道と中山道(東山道)において宿駅を設置し、伝馬制を導入するという先行事業を行っていた 14 。この試みが成功を収めたことが、慶長九年の全国的な街道整備令発布への自信と、具体的なモデルケースとなったのである。

第二節:整備令の具体的内容と技術的側面

『慶長見聞集』によれば、慶長九年(1604年)、江戸幕府は全国的に道路改修事業を命じたと記録されている 15 。その内容は、極めて具体的かつ統一された技術的基準に基づいていた。

第一に、 道幅の規格化 である。後の『家康百箇条』に示された道路政策によれば、東海道を含む五街道の幅員は六間(約10.8m)と定められた 15 。これは、大規模な大名行列の通行や大量の物資輸送を想定した、当時としては破格の広さであった。

第二に、 路面と線形の改良 である。道の屈曲を和らげて見通しを良くし、牛馬の往来の妨げとなる小石を取り除くことが命じられた 15 。さらに、水はけを良くするために道の両側に溝(鍬目)をつけ、水たまりを土で埋め、落ち葉や馬糞を取り除くといった、日常的な維持管理に関する細やかな指示も出されている 16

第三に、 並木の設置 である。大道の両側には並木を植えることが奨励された 15 。これは旅人に日陰を提供するという実用的な目的だけでなく、根が土を固めることで路肩の崩壊を防ぎ、道の境界を明確にする役割も果たした。

そして、この事業の象徴とも言えるのが、 一里塚の全国設置 である。江戸の日本橋を起点として、一里(三十六町、約3.9km)ごとに道の両側に塚が築かれ、榎(えのき)や松などが植えられた 4 。特に榎が多用されたのは、その根が深く広く張り、塚を固めて崩れにくくするという、極めて実用的な理由からであった 4 。一里塚は、旅人にとって明確な距離の目印となると同時に、それまで地域によってまちまちであった距離の概念を全国的に統一し、幕府が定めた基準を視覚的に天下に示すという、強力な政治的メッセージでもあった。

第三節:総責任者・大久保長安の役割と手腕

この国家的大事業の総責任者として家康が抜擢した人物は、譜代の大名ではなく、異色の経歴を持つ一人のテクノクラート、大久保長安であった 4 。長安は元々、甲斐武田氏に仕えた猿楽師の子であったが、その卓越した内政手腕、特に鉱山開発や検地における才能を信玄に見出され、武田家の蔵前衆(代官)として活躍した 17 。武田家滅亡後、家康に仕え、徳川家の重臣・大久保忠隣の与力となったことから大久保姓を名乗るようになった 19

家康は長安の類稀な実務能力を高く評価し、街道整備事業の総轄を任せた 4 。長安は、東海道や中山道、北陸道などに配置された街道奉行たちを統括し、事業全体を指揮した 4 。彼の功績の中でも特筆すべきは、度量衡の標準化である。現在にまで続く「一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺」という距離の基準を定めたのは長安であるとされ、これにより全国の街道整備に統一された規格を適用することが可能となった 19

さらに長安は、街道整備だけでなく、石見銀山、佐渡金山、伊豆金山といった重要な鉱山の奉行も兼任し、その採掘量を飛躍的に増大させることで、幕府の財政基盤の確立に絶大な貢献をした 17 。彼の存在なくして、慶長九年の大規模なインフラ整備と、それを支える財源の確保は不可能であったと言っても過言ではない。

家康がこの国家プロジェクトの責任者に、敵方であった武田家の旧臣で、かつ出自も特殊な大久保長安を抜擢したという事実は、徳川政権初期の極めて実利主義的(プラグマティック)な性格を物語っている。武田家は、鉱山経営や領国経営において高度な専門知識を持つ官僚集団を擁していた 18 。家康は武田家滅亡後、その人材と蓄積されたノウハウを積極的に吸収したのである 19 。長安の登用は、戦国時代の最も進んだ統治システムを継承し、それを全国規模に拡大適用するという家康の明確な意図の表れであった。つまり、慶長九年の街道整備は、物理的な道の建設であると同時に、徳川幕府という新しい統治機構が、旧時代の優れた人材・知識を吸収し、国家規模のプロジェクトを遂行できるだけの高度な行政能力を既に保有していたことの証明でもあった。長安が死後、不正蓄財の嫌疑をかけられ一族が断絶するという悲劇的な末路を辿ったことは 4 、この過渡期におけるテクノクラートの強大な力と、その後の武家社会の身分制が硬直化していくこととの間に存在した、深い緊張関係を暗示している。

第三章:宿駅伝馬制度の確立と西国街道への展開

慶長九年の街道整備令は、単に道を広く、まっすぐにすることだけを目的としたものではなかった。その真の目的は、整備された街道の上で、人・モノ・情報を効率的かつ確実に輸送するための全国的なシステム、すなわち「宿駅伝馬制度」を確立することにあった。この制度は、幕府の権威を全国に行き渡らせるための、いわば国家の神経網であった。

第一節:伝馬制の構造:国家の神経網

幕府は、整備された街道に沿って、およそ二里から三里ごとに宿駅(宿場)を設けた 12 。これらの宿駅には、公的な輸送を担うという極めて重要な役割が課せられた。

各宿駅は、幕府が発行した伝馬朱印状を持つ公用の旅行者や荷物を、次の宿駅まで無賃で輸送する義務を負った 21 。この義務を果たすため、各宿駅には一定数の人足と、伝馬(てんま)と呼ばれる馬を常に準備しておくことが義務付けられた 23 。この輸送は宿場から宿場へのリレー形式で行われ、効率的な長距離輸送を可能にした 23 。当初、東海道の各宿で三十六疋と定められていた伝馬は、交通量の急激な増大に伴い、寛永十五年(1638年)には人足百人・伝馬百疋へと大幅に拡充されている 11

宿駅には、この公的機能を支えるための様々な施設が置かれた。その中核となったのが問屋場(といやば)である。問屋場は、人馬の継立業務、公用荷物の受付、後述する助郷の割り当てなど、宿駅の公的業務の全てを取り仕切る役所であった 24 。また、大名や公家、幕府の役人といった身分の高い者が宿泊・休憩するための施設として

本陣や 脇本陣 が指定された。これらは商業的な旅籠とは一線を画し、門や玄関、書院を構えることが許された特権的な施設であった 24 。一方で、一般の武士や庶民のためには、

旅籠 木賃宿 茶屋 といった多様な施設が軒を連ね、宿場町は賑わいを見せた 24

第二節:西国諸藩による整備の実態:広島藩を事例として

西国街道の整備は、幕府の命令一下、沿道の諸藩によって実行された。ここでは、その具体的な実態を広島藩の事例を中心に見ていく。

関ヶ原の戦いの後、安芸・備後に入封した福島正則は、慶長年間(1600年~)から西国街道の整備に積極的に着手した。彼は広島城下の東端である尾長村岩鼻と西端の草津村に大門を建設して城下内外の区別を明確にし、街道筋の町並みや橋梁を整備した 28 。また、広島城下を宿駅とし、東側の愛宕町界隈に馬六十匹、西側の堺町界隈に馬四十匹を常備させ、宿駅としての機能を確立した 29

元和五年(1619年)に福島氏が改易され、浅野氏が入部すると、交通制度はさらに拡充された。特に画期的だったのは、寛永十年(1633年)に幕府の巡見使が領内を巡察したことである。これを迎えるにあたり、浅野氏は家臣を他国へ派遣して先進事例を視察させた上で、領内の道路、橋、茶屋、一里塚などを急ピッチで再整備した 28 。これにより、広島藩内の西国街道は、幕府の基準に沿った高い水準のインフラへと生まれ変わった。


【表2】西国街道(広島藩内)の主要宿駅一覧(寛永期想定)

宿駅名

所在地(現)

常備伝馬数(目安)

本陣・脇本陣

他街道との接続

備考

尾道

尾道市

25疋

-

港町として海運との結節点

三原

三原市

25疋

-

三原城の城下町

本郷

三原市本郷町

15疋

-

西条四日市

東広島市西条

25疋

-

酒造りの町として発展

海田市

安芸郡海田町

15疋

-

広島城下の東の玄関口

広島(愛宕町)

広島市東区

60疋

御茶屋(本陣格)

雲石街道

城下東側の宿駅機能

広島(堺町)

広島市中区

40疋

御茶屋(本陣格)

出雲石見街道

城下西側、街道分岐点

草津

広島市西区

-

-

-

広島と廿日市の間宿(あいのしゅく)

廿日市

廿日市市

15疋

津和野街道

厳島神社への参詣路との分岐点

玖波

大竹市

15疋

-


西国街道の整備は、広島藩に限ったことではない。幕府の支配体制を支える重要な公役として、沿道の各藩は責任をもってこれに取り組んだ。特に長州藩は整備に熱心で、慶安二年(1649年)に幕府へ提出した絵図には、領内に三十箇所の馬継ぎ(伝馬所)を設置したことが記されている 31

第三節:宿駅の負担と助郷制度という代償

宿駅伝馬制度は、幕府にとって効率的な公的輸送システムであったが、その運営コストは宿駅に重くのしかかった。特に、公用人馬の無賃あるいは低賃での提供(伝馬役)は、宿駅の財政を著しく圧迫した 11

大名行列の通過や公用荷物の輸送が集中すると、宿駅が常備する人馬だけでは到底需要に応えきれなくなる。この不足を補うために導入されたのが、 助郷(すけごう)制度 であった 21 。これは、宿駅周辺の村々に対し、要請に応じて人馬を提供する役を課すものであった。農民にとって、これは極めて過酷な賦役であった。公用通行は農繁期に集中することが多く、田畑を離れて人馬を提供することは、村の生産力に深刻な打撃を与えた 21

助郷役は、無償か、提供されても市場価格よりはるかに安い賃金であり、実質的には強制労働であった 11 。時代が下るにつれて幕府や大名の通行量が増加すると、助郷の負担は雪だるま式に増大し 33 、村の財政を破綻させ、農民の生活を破壊する大きな要因となった。中には、助郷役をきっかけに身を持ち崩す者や、金銭での代納を強いられて困窮する村も少なくなかった 21

このように、宿駅伝馬制度は、表面的には効率的な公的輸送システムであったが、その実態は、宿駅の町人と、さらにその周辺の農民への一方的な負担転嫁によって成り立っていた。幕府は、街道整備と維持管理という巨大な公共事業を、直接的な財政支出を最小限に抑えつつ実現した。その方法は、街道沿いのコミュニティに「公役」という形で義務を課し、その負担をさらに周辺の農村へと転嫁させるという、巧みで、かつ過酷な収奪構造であった。西国街道の賑わいの裏には、助郷村の農民たちの疲弊と犠牲があった。この制度の光と影の両面を捉えることこそ、徳川の泰平という時代の本質を深く理解する鍵となる。

第四章:西国街道整備がもたらした長期的影響

慶長九年の街道整備とそれに続く宿駅伝馬制度の確立は、日本の社会、経済、文化のあり方を根底から変容させる、長期かつ広範な影響を及ぼした。幕府が意図した政治的統制の強化という目的を達成しただけでなく、その意図を超えて、近世という新しい時代を形作る原動力となったのである。

第一節:参勤交代制度の基盤として

寛永十二年(1635年)に武家諸法度によって制度化された参勤交代は、西国街道をはじめとする五街道の整備なくしては物理的に不可能であった 13 。数百人から時には数千人に及ぶ大名行列が、江戸と領国の間を定期的かつ長距離にわたって移動するためには、広く、安全で、継立施設が整った街道が不可欠であった。慶長九年の整備事業は、まさにこの国家的大事業の前提条件を整えたものであった。

大名行列の通行は、街道沿いの宿場町に大きな経済効果をもたらした。大名や上級家臣が宿泊する本陣・脇本陣はもちろんのこと、数多くの随行員が利用する旅籠や商店、飲食店は大いに潤い、宿場町は活況を呈した 13 。ただし、西国街道の郡山宿本陣に残る記録によれば、大名行列の利用は年に平均23日程度と稼働率が低く、経営は必ずしも安定していなかったという側面も指摘されている 32

政治的には、参勤交代は絶大な効果を発揮した。大名が定期的に江戸と領国を往復する行為自体が、将軍との主従関係を再確認させ、幕府への忠誠心を植え付ける儀式となった 35 。また、江戸と領国の両方に屋敷を維持し、長距離を移動するための莫大な経費は、諸藩の財政を圧迫し、謀反を起こす余力を削ぐ結果につながった 35

第二節:「天下の台所」を支える経済の大動脈

幕府の主たる意図は政治的統制にあったが、整備された街道は、意図せざる副産物として、日本経済の飛躍的な発展を促す大動脈となった。

西国街道は、西国諸藩の年貢米や、塩、綿、紙といった特産品を、経済の中心地である大坂(天下の台所)、そして大消費地である江戸へと運ぶための重要な陸路となった 7 。安全で規格化された街道の存在は、物流の安定化と効率化をもたらし、全国的な市場経済の形成を強力に後押しした。宿場町は単なる宿泊地から、物資の中継・集散地として、また新たな商業拠点として発展していった 38

さらに、情報伝達の速度も飛躍的に向上した。宿駅の伝馬制度を利用した「継飛脚」は、公文書や商業上の重要な手紙を、人馬を乗り継ぎながらリレー形式で迅速に運ぶことを可能にした 39 。広島がその中継地点(宿駅)の一つに指定された記録も残っており 8 、これにより江戸を中心とする全国的な情報ネットワークが確立され、政治・経済活動のスピードを格段に高めた。

第三節:人々の往来と文化交流の促進

街道の安全性が向上し、宿場町が整備されたことで、それまで一部の特権階級や商人に限られていた長距離の旅が、庶民にとっても身近なものとなった。伊勢参りや金毘羅参り、善光寺詣でといった社寺参詣を目的とする旅が一大ブームとなり、多くの人々が西国街道を利用して旅をした 28

このような人々の大規模な移動は、文化の交流と均質化を促進した。参勤交代で江戸と国元を往復する多数の武士や、全国を駆け巡る商人、そして各地を旅する庶民を介して、江戸で生まれた先進的な文化(歌舞伎、浮世絵、文芸、風俗など)が西国へともたらされた 35 。同時に、西国各地の多様な文化や言語、風俗もまた江戸へ流入し、相互に影響を与え合った。この文化の双方向の伝播は、地域ごとの閉鎖性を打ち破り、日本全体の文化的な一体性を醸成する上で、計り知れない役割を果たした。

幕府が自らの支配を盤石にするために打った一手であった街道整備は、その結果として生まれた強固な物流・情報・人的交流のネットワークを通じて、当初の政治的目的をはるかに超えた、広範な社会変革を引き起こした。商人の活動は、幕府が直接コントロールしないところで経済を活性化させ、後の時代に幕府の権威を相対化させる力を持つ町人階級の成長を促す土壌となった。これは、歴史におけるインフラ投資が、建設者の意図を超えて社会を根底から変容させる力を持つことの、一つの確かな証左である。

結論:戦国の終焉と泰平の礎

慶長九年(1604年)の西国街道を含む全国街道整備事業は、日本の歴史における画期的な転換点であった。それは、戦国時代を通じて続いた、軍事優先で分断された地域ごとの「道」を、江戸幕府による中央集権的な支配体制を支える、統一規格の「行政・経済回廊」へと質的に変貌させた、壮大な国家建設事業であった。

この事業の成功は、いくつかの重要な要素によって支えられていた。第一に、大久保長安のような、出自にとらわれず登用された専門官僚(テクノクラート)の卓越した実務能力である。彼らは、全国統一規格の導入や、効率的な事業遂行を可能にした。第二に、宿駅伝馬制という公的輸送システムと、その負担を周辺農村に転嫁する助郷制度という、巧みで、かつ過酷な社会システムを組み合わせたことである。これにより、幕府は最小限の財政負担で、国家の動脈を維持管理することができた。

この事業によって、徳川幕府は二百六十余年にわたる長期安定政権の物理的・制度的基盤を築き上げた。西国街道は、単なる人馬の移動路から、人・モノ・カネ・情報が絶え間なく循環する国家の大動脈へと生まれ変わった。それは、参勤交代による大名統制を可能にし、全国市場の形成を促し、そして日本列島全体の文化的な一体性を醸成した。まさしく、この事業は戦乱の時代に終止符を打ち、近世という新たな時代の扉を開いた、「泰平への道筋」そのものであったと言えよう。

引用文献

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