赤間関港修復(1600)
慶長五年、関ヶ原敗戦で毛利氏は大減封。赤間関港は軍事要衝から経済生命線へ転生。長府藩が管理し、北前船寄港地として繁栄。これは毛利家再建の象徴であり、港湾都市の再生を物語る。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年、赤間関の転生:関ヶ原の敗戦は毛利氏の港湾戦略を如何に変えたか
序章:問いの再設定 —「赤間関港修復(1600)」の歴史的実像
慶長五年(1600年)という年は、日本の歴史における一大転換点として記憶されている。この年に行われた関ヶ原の戦いは、徳川家康による江戸幕府の成立を決定づけ、その後の約260年間にわたる泰平の世の礎を築いた。この歴史的激動の渦中において、「赤間関港修復(1600)」という事象が記録されている。しかし、この言葉が指し示す具体的な土木事業の記録を、同時代の史料から見出すことは困難である。
本報告書は、この「修復」という言葉を、単一の物理的な港湾工事として捉えるのではなく、より広範な歴史的文脈の中に位置づけ直すことを試みる。すなわち、1600年の関ヶ原の戦いにおける西軍総大将・毛利輝元の敗北と、それに続く未曾有の大減封という国家的カタストロフが、結果として毛利氏の領国経営戦略、ひいては長門国・赤間関(現在の山口県下関市)という港湾都市の戦略的価値と機能を根本から変容させ、その後の港湾機能の再編・再整備へと繋がった一連の歴史的動態こそが、「赤間関港修復」の歴史的実像であると再定義する。
この視座に立てば、1600年は物理的な「修復」の年ではなく、赤間関が毛利氏の広大な領国を支える軍事・外交の要衝から、減封後の限られた領国を生き永らえさせるための経済的生命線へと、その存在意義を劇的に「転生」させられることを余儀なくされた、運命の年であったと理解できる。本報告書は、この転生のプロセスを、関ヶ原の戦いの前史から戦後の毛利氏の絶望的な再建事業に至るまで、時系列に沿って詳細に解明することを目的とする。
第一部:関ヶ原以前 — 西国に覇を唱えた毛利氏と海洋拠点・赤間関
1600年の激変を理解するためには、まず、それ以前の毛利氏がいかにして海洋勢力として西国に覇を唱え、その壮大な領国経営において赤間関がいかに枢要な役割を果たしていたかを把握する必要がある。赤間関は単なる一地方港ではなく、毛利氏の軍事力と経済力を支える心臓部であった。
第一章:地政学の要衝、赤間関
赤間関が位置する関門海峡は、本州の西端と九州の北端が最も接近する、地理的な隘路である。この海峡は、瀬戸内海と日本海、そして大陸へと続く東シナ海を結ぶ海上交通の結節点であり、古来より西日本の物流と軍事を制する上で決定的な重要性を持っていた。
毛利氏がこの地を支配下に置く以前から、赤間関は国際的な港湾都市としての歴史を重ねていた。特に室町時代、周防・長門を支配した大内氏の時代には、日明貿易における遣明船の重要な拠点として機能した。当時、赤間関には「抽分司」という機関が置かれていた記録が残っている 1 。これは、遣明船がもたらす利益の一部を徴収・管理する役所であり、この港が単なる船舶の停泊地ではなく、国家レベルの経済・外交機関として機能していたことを明確に示している。対岸の門司関とともに、この海峡を押さえることは、国際貿易の富を独占し、西国における支配的地位を確立するための絶対条件であった。
第二章:毛利水軍と海洋交易の心臓部
戦国大名としての毛利氏の台頭は、その強力な水軍の存在と不可分であった。毛利元就は、安芸武田氏や小早川氏といった瀬戸内沿岸の国人の水軍を巧みに吸収・再編し、一代で強力な直轄水軍を組織した 2 。さらに、芸予諸島に拠点を置き、当時最強と謳われた村上水軍(能島・来島・因島)をもその支配下に組み込むことで、瀬戸内海の制海権を完全に掌握するに至った 2 。この圧倒的な海上戦力こそが、毛利氏が中国地方一円にその勢力を拡大する上での最大の原動力となったのである。
この毛利水軍の活動を支え、毛利氏の領国経営の根幹をなしたのが、海洋拠点としての赤間関であった。赤間関は、毛利氏の戦略において、軍事・経済・外交の三つの側面から極めて重要な役割を担っていた。
第一に、軍事拠点としての役割である。赤間関は、毛利水軍の艦船が集結し、兵員や兵糧を補給し、各地へ出撃するための前線基地として機能した。その重要性が天下に示されたのが、織田信長との10年以上にわたる抗争、特に石山合戦である。天正四年(1576年)、石山本願寺を包囲する織田軍に対し、毛利氏は村上水軍を中核とする700〜800艘もの大船団を組織し、大量の兵糧を大坂湾へと運び込んだ。この第一次木津川口の戦いにおいて、毛利水軍は織田方の水軍を撃破し、本願寺への補給を成功させている 3 。この大規模な海上作戦を可能にした背景には、赤間関をはじめとする瀬戸内の港湾ネットワークの存在があったことは想像に難くない。
第二に、そしてより決定的に重要だったのが、経済・外交拠点としての役割である。毛利氏は赤間関を海外交易の窓口として積極的に活用し、領国経営に必要な物資、特に戦略物資の調達を行った。その中でも最重要品目が、火縄銃の火薬の主原料となる 硝石 (塩硝)であった 1 。戦国時代の日本では硝石は産出されず、その全量を明や南蛮からの輸入に頼っていた。強力な鉄砲隊を維持するためには、硝石の安定的な輸入ルートを確保することが死活問題であり、赤間関はこの生命線を担うための核心的な拠点であった。毛利輝元が赤間関代官に対し、「塩硝一廉」の入手を命じた書状が残っており、この港が戦略物資調達の最前線であったことがうかがえる 4 。
この赤間関の重要性を深く認識していた毛利輝元は、その運営を腹心の部下に委ねていた。天正七年(1579年)頃から赤間関の代官を務めた高須元兼は、その中心人物である 5 。元兼は、明の泉州から来航する商船の入港を保障し、彼らとの交易を通じて、硝石や唐糸、緞子といった大陸の産品を調達する役目を一手に行っていた 4 。これは、毛利氏が赤間関を単なる関税徴収の場としてではなく、領国経営に不可欠な戦略的貿易港として直接管理・運営し、その利益を最大化しようとしていたことの証左に他ならない。
毛利氏の中国地方における支配は、陸上における強大な軍事力のみによって成り立っていたわけではない。赤間関を基盤とする瀬戸内海の制海権と、それによってもたらされる海外交易の莫大な利益、とりわけ硝石という戦略物資の安定供給があってこそ、初めて可能だったのである。陸の力と海の力が両輪となって機能することで、毛利氏は織田信長や豊臣秀吉といった天下人と互角に渡り合う巨大勢力たり得た。赤間関の港湾機能は、毛利軍の鉄砲隊の火力を直接的に支える、代替不可能な要素であり、その機能停止は軍全体の弱体化に直結するものであった。
しかし、この赤間関への高い依存度は、裏を返せば毛利氏の戦略的脆弱性でもあった。万が一、瀬戸内海の制海権を失い、赤間関を含む領国の支配権が揺らぐような事態に陥れば、毛利氏は経済的にも軍事的にも致命的な打撃を受ける運命にあった。そして、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いは、この潜在的なリスクを、まさに現実のものとする歴史的引き金となったのである。
第二部:慶長五年(1600年) — 運命の刻、動かぬ総大将
ユーザーが求める「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるべく、この部では1600年の夏から秋にかけての数ヶ月間に焦点を絞り、毛利氏が西軍総大将に就任してから、関ヶ原で戦うことなく敗北に至るまでの過程を、時系列に沿って克明に追跡する。それは、巨大勢力・毛利家が内部から崩壊していく悲劇の記録でもある。
第三章:西軍総大将への道 — 輝元の決断と毛利家の内部分裂
豊臣秀吉の死後、その権力構造は大きく揺らぎ、徳川家康が急速に台頭していた。毛利輝元は、家康や前田利家らと共に豊臣政権を支える五大老の一人として、政権の中枢に位置していた 7 。輝元と家康の関係は、表面的には協調を保ちつつも、水面下では緊張をはらんだものであった。
この均衡が破られたのが、慶長五年(1600年)夏である。6月に家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、その隙を突いて7月17日、石田三成が反家康の兵を挙げた 9 。三成は、自らが首謀者となるよりも、家康に匹敵する家格と動員力を持つ大名を総大将に据えることが、反家康勢力を結集させる上で不可欠であると考えた。そして白羽の矢が立ったのが、112万石を領する西国最大の大名、毛利輝元であった。
三成と、毛利家の外交僧として重きをなしていた安国寺恵瓊は、輝元に対して西軍の総大将への就任を執拗に説得した 10 。従来、輝元は彼らの甘言に乗り、不本意ながら「祭り上げられた」無気力な総大将であったという見方が主流であった。しかし近年の研究では、輝元自身も天下への野心を抱き、この機に乗じて徳川に代わる覇権を握ろうとした、より主体的な存在であったとする説も有力視されている 11 。いずれにせよ、輝元はこの説得を受け入れ、大坂城西の丸に入城する。この行動は、彼が名実ともに関ヶ原における西軍の首魁であることを天下に宣言するに等しいものであった 10 。
しかし、この輝元の決断は、毛利家中に深刻な亀裂を生じさせた。特に、毛利元就の次男・吉川元春の子であり、毛利一門の重鎮であった吉川広家は、この挙兵に猛反対した 7 。冷静な現実主義者であった広家は、家康の実力と戦の趨勢を見極めており、三成方に与することは毛利家の滅亡に繋がると判断していた。彼は輝元が大坂城に入ることを必死に止めようとしたが、時すでに遅かった 10 。輝元と恵瓊ら開戦主戦派に対し、広家は毛利家の存続を第一に考え、密かに家康に内通し、東軍の勝利に貢献することで戦後の毛利家の安泰を図るという、苦渋の決断を下す 10 。こうして毛利家は、総大将を擁しながら、その内部に東軍と通じる有力者を抱えるという、致命的な矛盾を抱えたまま、天下分け目の決戦に臨むことになったのである。
第四章:関ヶ原、動かざる毛利軍 — 敗戦に至る時系列分析
関ヶ原の決戦における毛利軍の動向は、不可解の一言に尽きる。西軍最大の兵力を動員しながら、その力は戦場で全く発揮されることがなかった。
毛利軍の布陣は、その分裂した内情を象徴するものであった。総大将であるはずの輝元は、決戦の地である関ヶ原から遠く離れた大坂城に留まり、後方支援に徹した 10 。前線に派遣されたのは、輝元の養子であり、一門の筆頭であった毛利秀元を総大将とする約1万5千の主力部隊であった 13 。この部隊は、吉川広家、安国寺恵瓊らの軍勢と共に、関ヶ原の戦場を見下ろす南の要衝、南宮山の山頂に布陣した。この位置は、東軍の背後を突き、戦況を決定づけることができる絶好の戦略拠点であった。
運命の日、慶長五年九月十五日。早朝から関ヶ原で東西両軍の激しい戦闘が始まった。西軍は緒戦で優勢に戦いを進めるが、次第に東軍の猛攻に押され始める。西軍の諸将は、南宮山に陣取る毛利軍が山を下り、東軍の側背を攻撃してくれることを今か今かと待ち望んでいた。
しかし、南宮山の毛利軍は動かなかった。総大将の毛利秀元は、眼下で味方が苦戦しているのを見て、何度も出撃の命令を下そうとした。だが、その都度、秀元軍の前面に布陣する吉川広家がそれを阻んだ。広家は「今、兵に弁当を食べさせている最中である」などと不可解な理由を付けて進軍を拒否し、物理的に秀元軍の進路を塞ぎ続けたのである 10 。これが後世に伝わる「宰相殿(秀元)の空弁当」の逸話である。広家は、家康との間に交わした「毛利勢は戦闘に参加しない」という密約を、文字通り命がけで実行していた。
この南宮山での膠着状態と並行して、もう一つの誤算が生じていた。毛利軍の別動隊(毛利元康らが率いる約1万5千)は、関ヶ原の背後に位置する東軍の拠点・大津城の攻略にあたっていたが、城主・京極高次の予想外の頑強な抵抗に遭い、足止めを食らっていた 14 。この大軍が関ヶ原の本戦に間に合わなかったことも、西軍にとって大きな痛手となった。
昼過ぎ、戦況は決定的な局面を迎える。西軍の松尾山に布陣していた小早川秀秋が、かねてからの家康との密約通りに東軍に寝返り、西軍の主力である大谷吉継の陣に襲いかかった。これをきっかけに西軍は総崩れとなり、わずか一日で戦闘は東軍の圧倒的な勝利に終わった。
南宮山の毛利軍は、一度も戦うことなく、味方の敗走をただ見守るしかなかった。敗報に接した輝元は、狼狽し、家康に恭順の意を示すべく、すごすごと大坂城を退去した 15 。西軍総大将という立場でありながら、自らが率いる大軍を全く機能させることができなかった毛利氏の敗北は、戦術的な失敗というよりも、組織としての完全な崩壊であった。
この組織的崩壊と完敗は、単なる領土の喪失以上の、毛利家という統治機構そのものの存亡の危機を意味した。戦後の処理は、領土の再編に留まらず、権力構造、経済基盤、そして家臣団の意識に至るまで、全てを根底から「修復」し、全く新しい体制を構築しなければならないという、絶望的とも言える課題を毛利氏に突きつけることになる。そして、赤間関の港湾機能の再編は、この巨大な再建事業の核心に位置づけられることとなるのである。
【表1】関ヶ原の戦い前後における毛利家の動向(時系列表)
日付(慶長五年) |
毛利家の動向(輝元・秀元・広家) |
関ヶ原・周辺の戦況 |
徳川家康の動向 |
7月17日 |
(輝元)石田三成らの要請を受け、西軍総大将に就任。大坂城西の丸に入る。 |
石田三成ら、家康に対する弾劾状を諸大名に発し、挙兵。 |
会津征伐のため、江戸に滞在。 |
8月 |
(広家)輝元の挙兵に反対し、密かに家康と内通。毛利軍の不戦を約す。 |
西軍、伏見城を攻略。 |
西軍挙兵の報を受け、江戸から西上を開始。 |
9月7日 |
(毛利元康ら)別動隊が大津城の包囲を開始。 |
京極高次、約3千の兵で籠城し、頑強に抵抗。 |
清洲城に到着。東西両軍が美濃に集結。 |
9月14日 |
(秀元・広家)毛利主力部隊が関ヶ原南方の南宮山に布陣完了。 |
東西両軍、関ヶ原に着陣。 |
赤坂に本陣を置く。 |
9月15日(本戦) |
(秀元・広家)広家が進軍を妨害し、毛利軍は終日南宮山に釘付けとなる(宰相殿の空弁当)。 |
午前8時頃、開戦。午後1時頃、小早川秀秋の裏切りにより西軍総崩れ。東軍の勝利が確定。 |
関ヶ原に本陣を移し、全軍を指揮。 |
9月15日 |
(毛利元康ら)大津城をようやく開城させるも、本戦には間に合わず。 |
大津城が開城。 |
- |
9月17日以降 |
(輝元)敗報を受け、家康に謝罪。家康の指示に従い、大坂城西の丸を退去。 |
西軍の残党狩りが行われる。 |
大坂城に入り、戦後処理を開始。 |
10月 |
(輝元・広家)輝元は改易(全領土没収)の危機に。広家が必死の嘆願を行う。 |
- |
毛利氏の処分を検討。当初は改易を決定。 |
第三部:関ヶ原以後 — 絶望からの再出発と港湾都市の再編
関ヶ原の敗戦というカタストロフは、毛利氏の運命を根底から覆した。しかし、この絶望的な状況の中から、毛利氏は新たな国家建設へと踏み出さなければならなかった。この再建事業において、旧領から唯一引き継いだ戦略的資産である赤間関は、決定的な役割を果たすことになる。ユーザーの言う「修復」の実態とは、まさにこの新たな国家建設に向けた、港湾都市の戦略的「再編」であった。
第五章:断罪 — 防長二国への大減封
関ヶ原の戦後処理において、西軍総大将であった毛利輝元は最も厳しい断罪に直面した。徳川家康は当初、輝元を西軍の首魁とみなし、その所領112万石全てを没収する、すなわち「改易」という最も重い処分を下すことを決定していた 10 。これは、戦国大名・毛利家の完全な滅亡を意味した。
この絶体絶命の危機を救ったのが、家康と内通していた吉川広家の奔走であった。広家は、自らが東軍の勝利に貢献した功績を盾に、毛利宗家の存続を必死に嘆願した。黒田長政ら東軍の有力大名もこの嘆願を後押しし、最終的に家康はその改易処分を撤回した 10 。
しかし、許されたのは家の存続のみであった。処分は大幅に減刑されたとはいえ、依然として苛烈を極めた。結果として毛利氏は、本拠地であった安芸国広島をはじめ、備後、備中、出雲など、長年支配してきた中国地方の大半の領地を失い、周防・長門の二国(防長二国)のみにその領地を削減されることとなった 10 。公称石高は、関ヶ原以前の112万石から、表向きには36万9千石へと、実に約3分の1にまで激減した 10 。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名処分の中でも、類を見ない大規模な減封であった。この処分により、毛利家は西国に覇を唱えた大大名の地位から、一地方大名へと転落したのである。
【表2】関ヶ原の戦い前後における毛利氏の国力比較
項目 |
関ヶ原以前(慶長5年) |
関ヶ原以後(慶長6年以降) |
公称石高 |
112万石 |
36万9千石 |
支配国 |
安芸、周防、長門、備後、備中、出雲、石見、隠岐など8ヶ国以上 |
周防、長門の2ヶ国 |
主要拠点城 |
広島城(本城)、吉田郡山城など |
萩城(新規築城) |
主要直轄港湾 |
赤間関 、草津、尾道、三原など多数 |
赤間関 、上関、三田尻など |
この表が示すように、減封の衝撃は毛利氏の国力を根底から揺るがすものであった。しかし、注目すべきは「主要直轄港湾」の項目である。広島湾の草津や備後の尾道といった数多の良港を失う中で、旧領時代から最も重要な戦略拠点であった赤間関が、奇しくも新たな領国である長門国に含まれていた。この「残された唯一の宝」とも言うべき港湾をいかに活用するか。それが、財政破綻の危機に瀕した毛利家が再興を果たすための、唯一にして最大の鍵となったのである。
第六章:長府藩の成立と赤間関の新たな位置づけ
防長二国への減封後、毛利輝元は徳川幕府の命令により、新たな本拠地として山陰の僻地である萩に城を築くことを余儀なくされた。これが長州藩(萩藩)の始まりである。
これと並行して、毛利家内部で重要な措置が取られた。関ヶ原で毛利軍の総大将を務めた輝元の養子・毛利秀元に対し、長門国豊浦郡を中心に6万石の領地が分与され、長州藩の支藩として長府藩が立藩されたのである 13 。
この長府藩の配置には、極めて明確な戦略的意図が存在した。長府は、赤間関に隣接する地域である。この地に、毛利一門の中で輝元に次ぐ実力者であり、文禄・慶長の役では毛利軍の総大将として朝鮮半島で武功を挙げた経験も持つ秀元を配置したことは、単なる領地の分与ではなかった。それは、減封後の毛利家が生き残りをかけて行った「経営資源の戦略的再配置」と呼ぶべき、高度な政治判断であった。
その意図は二つに集約される。第一は、政治的・国防上の意図である。関門海峡は、新たな領国となった防長二国にとって、九州方面からの玄関口であり、国防上の最重要拠点であることに変わりはなかった。この要衝を、最も信頼のおける一門の重鎮の手に委ねることで、領国の守りを固める狙いがあった。
第二の、そしてより切実な意図は、経済的なものであった。112万石から37万石弱への大減封は、毛利家の財政を破綻寸前に追い込んだ。膨大な数の家臣団を養っていくためには、新たな財源の確保が急務であった。そこで白羽の矢が立ったのが、赤間関の持つ交易機能である。この港がもたらす物流と商業の利益を最大限に活用し、それを本藩である萩藩の財政再建の柱とすること。そのための実務機関として、長府藩が創設されたのである。最も重要な経済資産(赤間関)の管理・運営を、最も有能な経営者(毛利秀元)に委ねるというこの決断は、毛利家が新たな時代を生き抜くための、極めて合理的な選択であった。
第七章:近世港湾としての再整備と繁栄の礎 —「修復」から「再編」へ
長府藩の成立により、赤間関は新たな統治体制の下で、その役割を大きく変貌させていく。それは、戦国時代の軍事・戦略拠点から、江戸時代の平和な世における経済・物流拠点への転換であった。
江戸幕府の成立後、赤間関は新たな公的役割を担うことになる。その一つが、朝鮮通信使の寄港地としての役割である 17 。幕府は、朝鮮との国交回復後、定期的に来日する通信使一行の接待を、対馬藩と長州藩に命じた。赤間関は、その主要な寄港地および接待地の一つとなり、藩は阿弥陀寺を客館として一行を歓待した 17 。これにより、赤間関は幕府公認の外交の舞台としての性格を帯びることになった。
一方で、戦国時代に毛利氏が謳歌したような自由な海外貿易は、次第に制限されていく。幕府はキリスト教の禁教と貿易管理を強化し、ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に限定するなど、段階的に「鎖国」体制を構築していった 18 。最終的には、1635年に外国船の寄港地が長崎出島に限定されたことで、赤間関が持っていた海外への直接的な窓口としての機能は、その重要性を大きく低下させた 18 。
しかし、海外交易の道が狭められた一方で、国内の海上交通網が整備される中で、赤間関は新たな繁栄の時代を迎える。その最大の契機となったのが、寛文十二年(1672年)の西廻り航路の開設である 20 。これは、日本海側の諸藩の産物(特に米)を、瀬戸内海を経由して大坂の蔵屋敷へと運ぶための大動脈であった。この航路を行き交う「北前船」にとって、関門海峡に位置する赤間関は、風待ちや物資補給のための絶好の寄港地となった 20 。
この結果、赤間関は全国の物産が集散する一大商業拠点として、爆発的な発展を遂げる。江戸時代の記録には、港に400軒もの問屋が軒を連ね、「廻船寄らざるはなし」「一日の中、出入各千艘に至る」と記されるほどの賑わいを見せたとある 22 。その繁栄ぶりは「西の浪華(大坂)」とまで称された 20 。
このような商業的発展に伴い、港湾機能の整備も継続的に行われた。それは、1600年という特定の年に行われた単発の「修復」事業ではなく、江戸時代を通じて、増大する商業的需要に応える形で進められた、長期的かつ漸進的なプロセスであった。長州藩は海を埋め立てて港湾を拡張し、新たな時代の港湾経営に乗り出した 22 。また、万延元年(1860年)には、市井の問屋たちが資金を出し合って主体的に港内の浚渫(海底の土砂を取り除く工事)を実施したという記録も残っており 21 、官民一体となって港の機能維持・向上が図られていたことがわかる。
1600年を境として、赤間関の機能は「毛利氏の海外交易と軍事を主軸とする戦略拠点」から、「徳川体制下の国内物流を主軸とする商業拠点」へと大きく転換した。これは、減封後の毛利氏の必死の再建努力と、徳川幕府による全国支配および鎖国政策という、より大きな時代の潮流とが交差した結果であった。
この文脈において、ユーザーが提示した「赤間関港修復(1600)」の歴史的実像が明らかになる。それは、物理的な土木工事を指すのではなく、 関ヶ原の敗戦によって破壊された毛利家の国家体制そのものを、赤間関の持つ経済的ポテンシャルを最大限に引き出すことによって再建(修復)する」という、長期的かつ戦略的な国家再建プロセスそのもの を象徴する言葉であった。毛利秀元による長府藩の立藩は、まさしくその壮大な「修復」事業の第一歩であり、江戸時代における北前船による繁栄は、その戦略が見事に成功したことの証左に他ならない。
終章:総括 — 1600年の敗北がもたらした港湾都市の再生
本報告書が明らかにしてきたように、慶長五年(1600年)は、赤間関にとって物理的な「修復」の年ではなく、その存在意義が根本から問い直され、新たな役割を与えられた「転生」の年であった。関ヶ原における毛利氏の政治的・軍事的な大敗北という歴史的悲劇が、皮肉にも赤間関を戦国時代の軍事戦略の束縛から解放し、純粋な経済・物流拠点として大きく飛躍させるための土壌を整えたのである。
戦国時代、赤間関の価値は、毛利氏の軍事力と領国支配に直結する戦略性にあった。しかしその価値は、毛利氏という特定の政治権力の盛衰と運命を共にする、脆弱なものでもあった。1600年の敗北は、その旧来の価値を一度完全に破壊した。しかし、その瓦礫の中から、毛利氏は赤間関の持つもう一つの価値、すなわち日本の東西を結ぶ海上交通の要衝であるという、より普遍的で持続可能な価値を見出し、そこに全てを賭けた。
この1600年の転換点があったからこそ、赤間関は江戸時代を通じて「西の浪華」と称されるほどの商業的繁栄を享受し、その富は長州藩の財政を支え、ひいては幕末に雄藩として飛躍する原動力の一部となった。そして、幕末の下関戦争を経て事実上の開港を果たすと 23 、近代日本の夜明けと共に、大陸への玄関口として、国際貿易港・下関へとさらなる発展を遂げていく 25 。
結論として、1600年の敗北から始まった「修復」の物語は、単なる港湾の再整備に留まるものではない。それは、絶望的な状況の中から新たな価値を創造し、未来へとその命脈を繋げた、一つの港湾都市の再生をめぐる壮大な序章だったのである。
引用文献
- 解説シート - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi%20all.pdf
- 毛利水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%B4%E8%BB%8D
- 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
- 焔硝(輸入) - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/mono/mono/enshou-yunyu.html
- 高須 元兼 - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/hito1/takasu-motokane.htm
- 赤間関(下関)|戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/minato1/akamagaseki.htm
- 西軍総大将 毛利輝元/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41115/
- 毛利輝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
- 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
- 「毛利輝元」関ヶ原で西軍総大将に担がれ、父祖の築き上げた勢力の大半を失うハメに https://sengoku-his.com/586
- 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
- シリーズ・織豊大名の研究 4 吉川広家 - 戎光祥出版 https://www.ebisukosyo.co.jp/sp/item/289/
- 毛利秀元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%85%83
- 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (6) 「 関ヶ原、前哨戦の城 滋賀県、近江 大津城 」 京極高次は当初、西軍に属し北陸方面へ出陣したが、東軍が岐阜城を攻略した時点で、西軍を離脱し大津城に籠城 - ココログ http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-2f33.html
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 下関市長府の町並 http://matinami.o.oo7.jp/tyugoku2/tyoufu.htm
- 潮待ちの港、赤間関 http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.akamagaseki.html
- 浦賀を中心に見た江戸幕府の対外貿易と海防 - 多摩大学 https://www.tama.ac.jp/cooperation/img/tamagaku/vol12.pdf
- 「鎖国」という外交』(下) http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_14.pdf
- 1)歴史・文化 - 下関市 https://www.city.shimonoseki.lg.jp/uploaded/attachment/5900.pdf
- 事務所の情報 - 国土交通省 九州地方整備局 下関港湾整備事務所 https://www.pa.qsr.mlit.go.jp/shimonoseki/port/
- 日本遺産を訪ねる西への旅 関門“ノスタルジック”海峡 ~時の停車場 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/19_vol_183/issue/02.html
- 馬関港開港150周年 - 下関市 https://www.city.shimonoseki.lg.jp/uploaded/attachment/13931.pdf
- 関門 " ノスタルジック " 海峡 旅のガイドブック - 山口県ホームページ https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/uploaded/attachment/77525.pdf
- 下関港 - 日本港湾協会 https://www.phaj.or.jp/distribution/link/pdf/09/581.pdf
- PORT REPORT 新みなとまち紀行|一般社団法人日本埋立浚渫協会 https://www.umeshunkyo.or.jp/marinevoice21/portreport/246/index.html
- <下関港の歴史> - 下関市 https://www.shimonoseki-port.com/125869.html