身分統制令(1591)
天正十九年、豊臣秀吉は朝鮮出兵に備え身分統制令を発令。武家奉公人の離脱や百姓の離農を禁じ、兵力と兵糧を確保し、国家総動員体制を確立。近世社会の礎を築いた。
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天正十九年「身分統制令」の総合的分析:戦国から近世へ、国家総動員体制の確立
序章:天下統一の完成と新たな秩序への胎動 ― 天正十九年に至る前史
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を小田原征伐にて屈服させ、間髪入れずに東北地方の奥州仕置を断行した。これにより、約150年にわたって続いた戦国時代の動乱は名実ともに終焉を迎え、日本は強力な中央集権のもとに統一された 1 。しかし、この国内平定は、列島に恒久的な平和をもたらすための最終目標ではなかった。むしろそれは、秀吉の構想する新たな国家体制構築の出発点であり、次なる段階への序曲に過ぎなかったのである。
戦乱の終結は、巨大な軍事力を保持する大名たちの有り余るエネルギーを、国内の領土再分配から国外へと向けさせるという新たな政治的課題を生み出した。国内統一の最終段階と並行して、秀吉の視線はすでに海峡の彼方、明国の征服へと注がれていた 1 。この「唐入り」と呼ばれる壮大な構想は、単なる領土的野心にとどまらず、東アジアの広大な交易圏を日本の影響下に置き、莫大な富を独占しようとする経済的動機も内包していたとされる 1 。
この壮大な対外戦争を遂行するためには、国内のあらゆる資源、すなわち土地、富、そして「人間」そのものを、国家の意思のもとに効率的に動員できる体制を構築することが不可欠であった。天正19年(1591年)に発布された、通称「身分統制令」と呼ばれる一連の法令は、国内が平定されたからこそ発布されたのではない。むしろ、国内平定の次なる目標として「対外戦争」を計画したからこそ、その準備段階として絶対に必要とされた法令であった。したがって、この法令を理解する上での大前提は、「平時」の社会秩序の維持ではなく、「戦時」における国家総動員体制の構築という、秀吉の壮大な国家戦略そのものにある。
第一章:天正十九年のリアルタイム ― 法令発布の政治的・社会的文脈
天正19年(1591年)という年は、豊臣政権がその支配の質を、物理的な国土の統一から、国家の構成員たる「人間」という資源の直接的な管理・統制へと大きく転換させる画期であった。この年の日本列島は、一見平穏を取り戻したかに見えながら、水面下では来るべき大戦に向けた巨大な社会変革の槌音が響き渡っていた。
権力構造の変化と太閤秀吉の立場
この年の12月、秀吉は関白職と政庁である聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自らは「太閤」と称するようになった 3 。これは名目上、政務の第一線から退いたことを意味するが、実態は、秀吉が実質的な最高権力者として君臨し続けるための巧妙な政治的演出であった。煩雑な日常政務を秀次に委譲することで、秀吉自身はより大規模な国家プロジェクト、すなわち大陸侵攻の計画と準備に専念できる体制を整えたのである。
大規模プロジェクトの同時進行と国家資源の再編成
天正19年、豊臣政権は複数の巨大国家事業を同時に推し進めていた。その筆頭が、朝鮮出兵の前線基地となる肥前名護屋城の築城である。この年、築城が開始された名護屋城は、大坂城に次ぐ規模を誇り、全国の大名が普請のために動員された 5 。最盛期には城下と陣屋に10万人を超える人々が集結し、一大軍事都市が出現した 7 。
時を同じくして、秀吉は自身の隠居後の政治拠点として、京都南郊の伏見に新たな城の建設を計画し始めていた 8 。これは、秀次が継承した聚楽第中心の政治秩序を相対化し、自らの権威を再確認するための新たな政治センターを構築する意図があった(本格的な築城は文禄元年から) 10 。
これらの巨大土木事業は、全国から膨大な労働力と物資を徴発する必要があり、必然的に人民の移動や職業からの離脱を厳しく管理する必要性を高めた。国家の号令一下、人々を意のままに動員するためには、彼らが土地や職業に安易に縛られず、また勝手に離脱しないような強固な社会統制が求められたのである。
戦乱終結がもたらした社会の歪み
奥州仕置という最後の大きな戦が終結したことで、社会には新たな問題が浮上していた。戦働きが主な生業であった多くの武家奉公人、すなわち若党、中間、小者といった階層の人々が、主家を離れて町人や百姓になろうとする動きが顕在化したのである 12 。これは、来るべき大戦を前にした兵力の流出であり、豊臣政権にとっては看過できない事態であった。
同時に、長年の戦乱や太閤検地による農村構造の変化に伴い、耕作地を放棄して商人や日雇い労働者になる百姓も増加していた 13 。これは年貢収入の不安定化を意味し、遠征軍の生命線である兵糧の確保という観点から、極めて深刻な問題と認識された。社会の流動性は、戦国時代においては下剋上を生むエネルギーであったが、統一政権にとっては国家の基盤を揺るがす不安定要因以外の何物でもなかった。天正19年8月21日の法令は、このような切迫した政治的・社会的要請を背景として発布されたのである 15 。
第二章:「身分統制令」三箇条の徹底解剖
一般に「身分統制令」として知られるこの法令は、特定の正式名称を持たず、天正19年8月21日付で全国の大名に向けて発給された三箇条からなる朱印状形式の法令である 13 。そのため、「身分法令三箇条」とも称される 17 。その内容は、現在「小早川家文書」に所収されているものが最も信頼性の高い史料として伝わっており、本報告書における分析の基礎となる 13 。
この法令の最大の特徴は、個人の違反に対し、その個人が所属する共同体(町や村)全体に責任を負わせるという、極めて厳格な連座制を多用している点にある 18 。これは、当時の政権には全国の末端までを監視する警察機構が存在しなかったため、共同体内部での相互監視と密告を強制することで、法の執行を担保しようとした高度な統治技術の現れであった。違反者を匿うことのリスクを、それによって得られる利益(労働力の確保など)よりも圧倒的に高く設定することで、共同体自らが違反者を摘発せざるを得ない状況を作り出したのである。
以下に、三箇条の条文を詳細に分析する。
表1:身分統制令(天正十九年八月二十一日付)三箇条の条文分析
条 |
原文(『小早川家文書』所収) |
読み下し文 |
現代語訳 |
主たる対象と目的の分析 |
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第一条 |
一 奉公人侍中間小者あらし子に至迄 去七月奥州へ御出勢より以来 新儀に町人百姓に成者於在之者 其町中地下人として相改一切置へからす もし隠置付而は 其一町一在所可被加御成敗事 |
一、奉公人、侍・中間・小者・あらし子に至る迄、去る七月奥州へ御出勢より以来、新儀に町人・百姓に成る者之在らば、其の町中・地下人として相改め、一切置くべからず。若し隠し置くに付いては、其の一町一在所御成敗を加へらるべき事。 |
武家に仕える奉公人、すなわち侍・中間・小者・あらし子に至るまで、昨年七月の奥州出兵以降に、新たに町人や百姓になった者がいるならば、その町や村の責任において調査し、決して(町や村に)置いてはならない。もしこれを隠し置いた場合は、その町や村全体を処罰する。 |
対象: 武家奉公人全般。特に注目すべきは「侍」の語である。近年の研究により、これは武士一般を指すのではなく、武士に個人として雇用され、戦闘員としての役割も担う「若党」を特定して指していることが明らかになっている 13 。「あらし子」は戦場で土木作業や輜重輸送などに従事した最下層の雑兵である 18 。 |
目的: 朝鮮出兵を目前にした 兵力の確保 。戦乱の終結によって戦闘員が武士身分から離脱することを防ぎ、大名が動員すべき兵力の基盤を維持する。基準時を「奥州へ御出勢より以来」と具体的に設定することで、直近の離脱者を遡及的に摘発するという政権の強い意志を示している。 |
第二条 |
一 在々百姓等 田畠を打捨 或はあきなひ或は賃仕事に罷出輩有之は 其者之事は不及申 地下中可為御成敗 并奉公をも不仕田畠も作らさるは 代官給人として堅相改置へからす 若出無其汰は 給人過怠にし其在所可被召上 為町人百姓於隠置は 其一郷同一町可為曲事 |
一、在々の百姓等、田畠を打ち捨て、或いは商ひ、或いは賃仕事に罷り出づる輩之有らば、其の者の事は申すに及ばず、地下中御成敗たるべし。并びに奉公をも仕らず田畠も作らざるは、代官・給人として堅く相改め置くべからず。若し其の沙汰無くば、給人の過怠にし、其の在所召し上げらるべし。町人・百姓の為に隠し置かば、其の一郷同一町曲事たるべき事。 |
諸国の村々の百姓が、田畑を放棄して商いや日雇い仕事に出るような者がいれば、その者本人は言うまでもなく、村全体を処罰する。また、武家への奉公もせず、田畑も耕作しない者(遊民)を、代官や給人は厳しく取り調べ、村に置いてはならない。もしこの取り締まりを怠れば、その給人の責任とし、知行地を没収する。町や村が(違反者を)隠した場合は、その郷や町全体が罪となる。 |
対象: 百姓(農業従事者)。 目的: 兵糧米の安定的確保 。太閤検地によって検地帳に登録された耕作者を、年貢を納める生産者として土地に縛り付けることが狙いである。農業からの離脱は、遠征軍の補給を支える国家の経済基盤を揺るがす重大事と見なされた。さらに、現地の支配者である代官や給人にも厳罰(知行地没収)を科すことで、支配機構の末端に至るまで法令遵守の責任を徹底させている。 |
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第三条 |
一 侍小者ニよらす 其主に不乞暇罷出輩一切抱へからす 能々相改請人をたて可置事 但右者主人在之て出相届は 互事ニ以之条柦捕 前之主之所ヘ可相渡若此御法度を相背 其者逃し候ニ付而は 其一人之代ニ三人首をきらせ 彼相手之所へ可下渡三人之人代於不申付は 不及是非之条 其主人を可被加御成敗事 |
一、侍・小者に依らず、其の主に暇を乞はず罷り出づる輩、一切抱ふべからず。能々相改め、請人を立て置くべき事。但し、右の者、主人之在りて出で相届かば、互ひの事にて之に依り搦め捕り、前の主の所へ相渡すべきなり。若し此の御法度を相背き、其の者を逃し候に付いては、其の一人の代に三人の首を斬らせ、彼の相手の所へ下し渡すべきなり。三人の人代申し付けざれば、是非に及ばざるの条、其の主人を御成敗加へらるべき事。 |
侍や小者など身分によらず、元の主人に許可なく辞めてきた者を、決して新規に召し抱えてはならない。新規に雇用する際は、身元をよく調査し、保証人を立てること。もし、元の主人がいると届け出があった場合は、双方で協力してその者を捕らえ、元の主人のもとへ引き渡さなければならない。もしこの法度に背いて逃亡者を見逃した場合は、その者一人につき三人の首を斬り、相手方(元の主人)に引き渡すこと。もし三人の身代わりを差し出せない場合は、問答無用で、その者(逃亡者を匿った新たな主人)を処罰する。 |
対象: 武家奉公人を雇用するすべての武士。 目的: 武士団内部の秩序維持と主従関係の固定化 。奉公人がより良い待遇を求めて主君を自由に変えることを禁じ、武士が安定した家臣団を維持できるようにすることが目的である。違反者に対する「一人の代りに三人の首を斬らせる」という規定は、極めて過酷であり、法令遵守を徹底させるための強烈な威嚇であった。これは、奉公人の流動化に対する豊臣政権の強い危機感の表れに他ならない。 |
第三章:法令の真意 ― 「身分固定」ではなく「国家総動員」
かつて、この天正19年の法令は、江戸時代の「士農工商」という厳格な身分制度を確立した画期的な法令であると広く理解されてきた 20 。武士は武士、百姓は百姓として、その身分と職業が固定化され、相互の移動が禁じられた社会の始まりと見なされていたのである。
しかし、近年の研究の進展により、この通説は大きく見直されている。第一条で言及される「侍」が武士階級全体ではなく、特定の武家奉公人である「若党」を指すことからも明らかなように、この法令の主目的は、身分秩序という理念的な社会構造の構築にあったわけではない 13 。その真意は、目前に迫った朝鮮出兵という未曾有の国策を遂行するため、国家的資源を確保するという、より具体的で緊急性の高い目標にあった 18 。つまり、これは「身分固定令」というよりも、来るべき大戦に向けた「国家総動員準備法」と呼ぶべき性格の法令だったのである。
軍事的側面 ― 「兵」の確保と固定
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、数十万の兵力を長期間にわたり海外へ派遣するという、日本史上前例のない規模の軍事行動であった 23 。この大軍を編成し、維持するためには、兵力の中核をなす武家奉公人たちが、安定して主君のもとに留まり、いつでも動員に応じられる状態にあることが絶対条件であった。第一条と第三条が、奉公人の転職や逃亡を厳しく禁じたのは、まさにこの兵力基盤の流動化を防ぐための「兵力凍結令」としての役割を担っていた 18 。
経済的側面 ― 「農」の確保と固定
数十万の軍勢の活動を支えるのは、兵糧、すなわち米である。第二条が百姓の離農や転業を厳しく禁じたのは、年貢徴収の対象となる農業生産者を耕作地に確実に縛り付け、遠征軍への兵糧米の安定供給を国家レベルで保証するためであった 18 。これは、軍事と経済が一体となった国家総力戦体制の構築を目指すものであり、兵(軍事力)と農(経済力)をそれぞれの持ち場で固定化させるという、極めて合理的な政策であった。
翌年の「人掃令」への連続性
天正19年の法令が「身分の移動を禁止する」ものであったのに対し、翌天正20年(文禄元年、1592年)に全国へ発令された「人掃令(ひとばらいれい)」は、より踏み込んだ政策であった。これは全国的な戸口調査を命じるものであり、「奉公人は奉公人、町人は町人、百姓は百姓」として、各人の身分を明確に区分し、台帳に登録させることを目的としていた 24 。
この二つの法令は、断絶したものではなく、連続した一つの政策として理解されるべきである 26 。まず天正19年の法令で人々の「移動を禁止(ロックダウン)」し、社会の流動性を強制的に停止させる。その上で、翌年の人掃令によって「実態を調査・登録(センサス)」する。これは、国家が全国の人的資源を正確に把握し、管理するための、合理的かつ段階的な人民把握策であった。その意味で、天正19年の法令は、より大規模な人口管理政策である人掃令を実効性あらしめるための、不可欠な準備段階だったのである。
第四章:豊臣政権のグランドデザイン ― 政策群の連環
天正19年の身分統制令は、単独で発布された政策ではない。それは、豊臣秀吉が天下統一の過程で推し進めてきた一連の社会改革の総仕上げであり、巨大なパズルの最後のピースであった。太閤検地、刀狩令、海賊停止令といった先行する政策群は、すべて「あらゆる中間団体・独立勢力を解体し、すべての土地と人民を国家(豊臣政権)が一元的に直接支配する」という、共通の強固な意志によって貫かれている。身分統制令は、この壮大なグランドデザインを完成させるための決定的な一手に他ならなかった。
兵農分離の完成プロセス
戦国時代、地方には地侍(じざむらい)と呼ばれる、農業を営みながら武装し、地域の領主として君臨する半農半士の階層が広く存在した 29 。彼らは大名の支配に服しつつも、村落に根差した独立性の高い存在であった。豊臣政権の一連の政策は、この地侍層に「城下町に移住し、完全に武士となる」か、あるいは「村に残り、武装を解除された百姓となる」かの二者択一を迫り、職業と身分が一致する社会、すなわち「兵農分離」を強制的に実現するプロセスであった 30 。
- 太閤検地: 全国の田畑を測量し、耕作者を検地帳に登録する「一地一作人」の原則を確立した 21 。これにより、土地に対する複雑な中世的権益は整理され、農民は国家の直接の年貢負担者として位置づけられた。これは、武士が農村に持っていた経済的基盤を切り離す効果も持っていた 33 。
- 刀狩令(天正16年、1588年): 百姓から刀や鉄砲などの武器を没収し、武力による抵抗(一揆)の可能性を根絶すると同時に、「武器を持つ者=武士」「持たざる者=百姓」という身分上の明確な標識を作り出した 20 。
- 身分統制令(天正19年、1591年): そして本法令が、武士と百姓の間の身分移動を法的に禁止することで、この分離を決定的なものにした。これら一連の政策の連携によって、職業に基づく身分制度が確立され、兵農分離は完成へと至ったのである 22 。
他の社会統制令との思想的共通性
豊臣政権の支配原理は、農村だけでなく、社会のあらゆる領域に及んだ。
- 海賊停止令(天正16年、1588年): 全国の海上勢力(海賊衆)に対し、大名への完全服属か、漁民・商人への転身を強制した 39 。これにより、独立した武装集団は解体され、海上交通と海上戦力は国家の管理下に置かれた 40 。
- 人身売買禁止令: 特に九州平定後、戦乱に乗じて国内外で行われていた日本人の人身売買を厳しく禁じた 41 。これは、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見られるように、ポルトガル商人による日本人奴隷の輸出という実態に対する国家的威信の表明であると同時に、「日本の民はすべて国家(秀吉)に帰属する」という人民への直接支配を宣言するものであった 42 。
太閤検地が「土地」を、刀狩令が「武器」を、海賊停止令が「海上交通」を、そして身分統制令が「人間」そのものを国家の管理下に置いた。これは、荘園領主、寺社勢力、地侍、惣村、海賊衆といった多様な権力が重層的に存在した中世社会の統治パラダイムを根本から覆し、近世的な中央集権国家を創出しようとする、歴史的な大事業であった。
終章:近世社会への分水嶺
天正19年(1591年)の身分統制令は、その直接的な目的を朝鮮出兵という軍事行動のための国家総動員体制の構築に置いていた。しかし、歴史の皮肉とでも言うべきか、この法令がもたらした意図せざる結果は、その後の日本の社会構造に、より永続的で深刻な影響を与えることになった。
秀吉の軍事的目的のために設計された「身分と職業が固定化され、人民が土地に縛り付けられた社会」は、奇しくも、彼の死後に天下を掌握した徳川家康が目指す、安定した封建社会の理想的なモデルと合致していた 36 。秀吉が戦争のために作り上げた社会システムは、徳川幕府によって、長期的な平和を維持するための統治システムとして流用・継承され、江戸時代を通じて日本の社会の根幹をなし続けたのである。
農民の子から天下人へと駆け上がった、まさに下剋上の体現者である秀吉自身が、その後の下剋上を不可能にする社会構造を創り上げたという逆説は、歴史の大きな転換点においてしばしば見られる現象である。この法令は、戦国時代のダイナミックで時に残酷な社会流動性の時代の終わりと、近世の静的で固定化された身分制社会の始まりを明確に告げる、一つの分水嶺として位置づけられる。
総括すれば、天正19年の「身分統制令」は、単なる身分法令ではない。それは、豊臣秀吉という一人の権力者の壮大な野望を実現するために、日本の社会構造全体を根底から再設計しようとした、極めて実践的かつ強権的な「国家総動員法」の先駆けであった。その影響は秀吉個人の一代にとどまらず、中世という時代を終わらせ、近世の扉を開いた、日本史における最も重要な法令の一つとして、今日でも評価されるべきである。
引用文献
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- 豊臣秀吉の朝鮮出兵はいつ・なぜ行われた?理由について徹底解説! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/toyotomihideyoshi-korea/
- 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/jsetumei.html
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- 豊臣秀吉の朝鮮出兵で栄えた 「名護屋城」の歴史の跡を歩く 大名が構えた陣跡巡りも | 記事 https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/53f8aa98-00e4-460f-afcf-3bcf24f9d6f9
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- 【ビジネスの極意】太閤検地、身分統制令、豊臣秀吉に学ぶマネジメントの極意 | サライ.jp https://serai.jp/business/1056571
- 太閤検地をわかりやすく知りたい!豊臣秀吉の政策の目的とは - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/taiko-kenchi
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- 日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由 天正遣欧少年使節がみた「日本人奴隷」の悲惨な姿 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/59341?page=2
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