最終更新日 2025-10-07

軽井沢宿整備(1602)

慶長7年(1602年)軽井沢宿は徳川家康の五街道整備で創設。碓氷峠麓に位置し、戦国終焉と泰平の礎石。強制移住を伴い、交通の要衝として発展した。
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慶長七年 軽井沢宿創設―戦国終焉の象徴、天下泰平の礎石―

序章:天下統一のグランドデザイン

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原における徳川家康の勝利は、一世紀以上にわたって続いた戦乱の世に、事実上の終止符を打った。しかし、軍事的な勝利は、新たな秩序の始まりに過ぎない。家康の真の偉業は、武力によって獲得した覇権を、恒久的な支配体制へと昇華させた点にある。その国家再編という壮大なグランドデザインの中核をなしたのが、全国規模での交通網整備、すなわち「五街道」の創設であった。慶長七年(1602年)に実行された中山道・軽井沢宿の整備は、この巨大事業の一環であり、戦国時代の終焉と新たな時代の到来を告げる、象徴的な出来事であった。

関ヶ原の戦い後の政治状況 (1600年以降)

関ヶ原の戦後処理において、家康は迅速かつ徹底的に新たな支配体制の基盤を固めた。西軍に与した大名の領地を没収・減封する一方、豊臣氏が直接支配していた蔵入地や豊臣系大名の所領を収公し、幕府の直轄領へと組み込んでいった 1 。美濃国をはじめとする要衝には代官が配置され、徳川による直接的な支配が確立される。さらに、京都、大坂、堺といった主要都市や、佐渡金山、石見銀山などの鉱山も幕府の管理下に置き、国家の経済的動脈を完全に掌握した 2 。この一連の措置は、徳川家が他の大名とは一線を画す、超越的な全国統治者であることを内外に示すものであった。しかし、物理的・経済的な支配だけでは不十分である。この広大な領土を実効的に統治するためには、中央からの命令を迅速に伝え、各地の情報を正確に吸い上げ、そして潜在的な反乱勢力を常に監視・抑制する、高度な神経網が不可欠であった。その答えが、街道整備だったのである。

「道を制する者」の思想―戦国から江戸へ

道を整備し、兵馬の往来を円滑にすることの重要性は、戦国の武将たちも十分に認識していた。織田信長や豊臣秀吉は、領国経営と軍事行動のために道路の大改修を行った 3 。武田氏や織田氏は、東山道(後の中山道)と東海道を結ぶ連絡路を整備し、軍勢の機動性を高めた 4 。しかし、これらの整備はあくまで各々の大名が自身の領国内で行う、部分的かつ軍事優先の事業であった。国境を越えれば道の規格は異なり、統一された宿駅伝馬の制度も存在しない。戦国時代の道は、いわば各々の領国という「点」を結ぶ、分断された「線」の集合体に過ぎなかった。

これに対し、家康が構想した街道整備は、その目的と規模において根本的に異なっていた。彼の目的は、単なる軍事輸送路の確保に留まらない。第一に、江戸と領地を一年おきに往復させる「参勤交代」制度を確立し、大名の経済力を削ぎ、その妻子を江戸に住まわせることで、物理的・精神的な統制下に置くこと 5 。第二に、幕府の公文書を運ぶ「継飛脚」の制度を確立し、江戸から全国への情報伝達網を独占すること 7 。そして第三に、全国的な物流を活性化させ、江戸を中心とする経済圏を構築すること 7 。これらはすべて、戦国的な「分断国家」を克服し、幕府を頂点とする統一的な「幕藩体制国家」を構築するための、高度な統治システムであった。家康の街道整備は、このシステムを機能させるための、国家の骨格であり、神経網そのものであったのである。

五街道整備計画の始動

驚くべきことに、家康がこの壮大な計画に着手したのは、彼が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く(1603年)よりも前のことであった 3 。関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)には、すでに行動を開始している 6 。これは、彼が朝廷からの公的な権威付けを待つまでもなく、実質的な天下人として国家の再編に着手していたことを示している。街道整備は、幕府という統治機構を円滑に機能させるための「器」をあらかじめ用意するという、極めて計画的かつ戦略的な事業だったのである。江戸の日本橋を起点として、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の五つの幹線道路を整備する計画が立てられ、実行に移された 2

先行事例としての東海道伝馬制

その最初のモデルケースとなったのが、江戸と京・大坂を結ぶ最重要幹線、東海道であった。慶長六年(1601年)正月、家康は東海道の各宿場に対し、「伝馬掟朱印状」と「伝馬定書」を一斉に発給した 1 。これにより、各宿場は公用のために常時36疋の伝馬(人馬)を用意することが義務付けられた 8 。その代償として、宿場の土地に対する税(地子)が免除されるという特権が与えられた。荷物の積載量や、次の宿場までの継立方法なども統一的に規定され、ここに全国初の標準化された交通システム「宿駅伝馬制度」が誕生した 1 。この東海道での成功は、翌慶長七年(1602年)から本格化する中山道をはじめとする他の街道整備の、確固たる雛形となったのである 3 。軽井沢宿の整備もまた、この大きな潮流の中に位置づけられるべき事業であった。


【表1】戦国時代と江戸初期の交通制度比較表

項目

戦国時代

江戸初期(徳川幕府)

目的

軍事輸送、領国経営の補助

行政(参勤交代、公文書伝達)、経済、軍事

整備主体

各地の戦国大名

徳川幕府(中央政府)

規格

領国ごとに不統一

全国統一規格(道幅、一里塚、伝馬数など)

利用者

軍勢、使者、一部の商人

公用役人、大名行列、商人、一般庶民(次第に増加)

維持制度

不定、臨時的な伝馬徴発

宿駅伝馬制度、助郷制度による恒久的な維持


この比較が示すように、軽井沢宿の創設は、単に新しい宿場が一つできたという話ではない。それは、国家のあり方そのものを、戦国時代の「武」による支配から、江戸時代の「法」と「システム」による支配へと転換させる、巨大なパラダイムシフトの一環であった。軽井沢の地に新たな宿場を築くという行為は、まさに戦国という時代を克服し、天下泰平の世を築くための礎石を一つ置くことに他ならなかったのである。

第一章:中山道―もう一つの大動脈と碓氷の壁

徳川家康が整備した五街道の中で、東海道と並ぶもう一つの大動脈が中山道であった。江戸・日本橋から内陸部を通り、京・三条大橋に至るこの道は、全長約534km、69の宿場を擁する長大な街道である 4 。軽井沢に新たな宿場を建設するという決定は、この中山道が持つ独自の特性と、その経路上に立ちはだかる最大の物理的障壁「碓氷峠」の存在によって、必然的にもたらされたものであった。

中山道の歴史と特性

中山道の起源は古く、律令時代に畿内と東国を結ぶ幹線道路として整備された「東山道」にまで遡る 4 。戦国時代には、武田氏や織田氏などによって軍事的に利用され、部分的な改修も行われた 4 。徳川の世になると、この古道は「中山道」として国家的な幹線道路網に組み込まれ、再整備されることとなる 18

中山道は、東海道と比較していくつかの際立った特徴を持っていた。最大の利点は、河川交通のリスクが少ないことであった。東海道には大井川や安倍川、富士川といった大河が流れ、架橋が許されていなかったため、川が増水すれば「川止め」となり、旅人は何日も足止めを食らうことが珍しくなかった 8 。一方、中山道は山岳地帯を通過するため険しい峠道が多いものの、川止めになるような大河は存在しなかった 16 。このため、幕府の公用、特に将軍家への輿入れを果たす皇女和宮の降嫁(1861年)のように、遅延が許されない厳格な日程での通行には、東海道よりも中山道が選ばれることがあった 16 。東海道が何らかの理由で不通になった際の代替路として、中山道は幕府にとって極めて重要なバックアップ・ルートとしての戦略的価値を有していたのである。この代替路を常に安定して機能させるためには、その経路上にあるいかなる障害も克服しておく必要があった。

地理的要衝「碓氷峠」

その中山道における最大の障害、それが上野国(群馬県)と信濃国(長野県)の国境にそびえる碓氷峠であった 21 。この峠は、古くは日本武尊の伝説にも登場するほど、古来より交通の難所として知られていた 22 。江戸側から見た場合、手前の坂本宿から峠の頂上までは約13kmにも及ぶ、長く険しい登り道が続いていた 19 。旅人や荷を運ぶ人馬は、この過酷な峠越えに多大な体力と時間を消耗することを強いられた 23 。明治時代に鉄道が敷設された際にも、この峠は日本最大の難所となり、特殊な機関車(アプト式)を必要としたほどである 24 。江戸時代の旅人にとって、この峠を徒歩で越えることがいかに困難であったかは、想像に難くない。

この峠は、単なる地理的な難所であるだけでなく、軍事的・経済的にも極めて重要な拠点であった。古くから関所が置かれ、人や物の往来が厳しく監視されていた 21 。江戸幕府もこの関所を重視し、「入鉄砲に出女」―すなわち、江戸へ持ち込まれる武器と、江戸から逃亡する大名の妻子―を厳しく取り締まることで、江戸の防衛体制の一翼を担わせた 23 。碓氷峠は、江戸を守る最後の防衛線の一つだったのである。

宿場設置の必然性

このような過酷かつ重要な碓氷峠を安定的に通行可能にすることこそ、中山道を国家の幹線道路として機能させるための絶対条件であった。そのためには、峠越えという極めて特殊な需要に応えるためのインフラが不可欠となる。

西へ向かう旅人(江戸方面から)にとっては、これから始まる長く険しい登りに備え、人馬を休ませ、食料や装備を整えるための前線基地が必要であった。一方、東へ向かう旅人(京方面から)にとっては、ようやく難所を越えきった安堵の地であり、疲弊した心身を癒すための休息地が求められた。どちらの方向の旅人にとっても、碓氷峠の麓に、十分な規模と機能を持つ宿場を設置することは、旅程を計画し、安全を確保する上で死活問題であった。

もし碓氷峠がなだらかな丘陵であったならば、軽井沢に大規模な宿場が建設されることはなかったであろう。軽井沢宿の存在意義、その規模、そして機能は、すべて「碓氷峠」という巨大な地理的障壁を克服するという一点によって規定されている。徳川幕府のインフラ整備が、単なる机上の計画ではなく、日本の厳しい地理的条件を乗り越えるという、極めて現実的な課題解決のプロセスであったことを、軽井沢宿の立地は雄弁に物語っている。軽井沢の地に新たな宿場を創設するという決定は、中山道を、ひいては江戸と京・大坂を結ぶ日本の大動脈全体の安定性を確保するという、国家戦略上の必然だったのである。

第二章:慶長七年、軽井沢―宿場創設のリアルタイム・ドキュメント

慶長七年(1602年)、徳川家康による天下統一事業が着々と進む中、信濃国の一角で、新たな時代を象徴する一つのプロジェクトが始動した。それは、中山道最大の難所・碓氷峠の麓に、全く新しい宿場町「軽井沢宿」を建設するという壮大な計画であった。この章では、幕府の指令から宿場の完成までを時系列で追い、国家の意思がいかにして地方で実行され、そこに生きた人々の運命を動かしていったのかを、リアルタイムのドキュメントとして再現する。

発端:幕府の指令と小諸藩の始動 (推定:1601年後半~1602年初頭)

慶長六年(1601年)に東海道の伝馬制度が確立されると、幕府の目は次なる大動脈、中山道へと向けられた。家康、あるいは彼の下で交通政策を主導した代官頭・大久保長安らから、中山道筋に領地を持つ大名たちへ、街道整備と宿駅設置の命令が下されたと考えられる 1

この時、軽井沢を含む佐久郡一帯を治めていたのは、小諸城を居城とする小諸藩主・仙石秀久であった 27 。秀久は、美濃の出身で、若くして豊臣秀吉に仕えた最古参の家臣の一人である 29 。一時は淡路一国を任されるなど秀吉の寵愛を受けたが、九州平定の前哨戦である戸次川の戦いでの失態により改易されるという苦杯をなめた 28 。その後、小田原征伐での軍功によって許され、天正十八年(1590年)に家康の関東入国に伴い、信濃国小諸に5万石を与えられて大名として復活したという経歴を持つ 28

豊臣恩顧でありながら、一度は失脚し、家康の取り成しによって復活した秀久にとって、徳川の世における自らの立場は決して安泰ではなかった。彼にとって、この街道整備という幕府の巨大プロジェクトは、新時代の支配者である徳川家への忠誠を具体的に示し、仙石家の存続を確かなものにするための絶好の機会であった。幕命を受けた秀久は、直ちに領内の中山道および、追分宿で分岐する北国街道の整備事業に着手した 27

計画:無からの創造 (推定:1602年春)

事業に着手した仙石秀久と彼の家臣団は、すぐに一つの大きな問題に直面する。碓氷峠の西麓にあたる軽井沢周辺の現地調査を行った結果、その一帯が浅間山の火山活動によって堆積した火山灰や軽石に覆われた、極めて不毛な土地であることが判明したのである 31 。標高が高く冷涼な気候も相まって、作物の栽培には適さず、わずかな民家が点在するだけの寒村に過ぎなかった 32 。既存の集落を拡張するだけでは、碓氷峠越えの拠点となる大規模な宿場の機能を到底担うことはできない。

ここで、極めて大胆な計画が策定される。それは、既存の村を改修するのではなく、徳川の新しい交通システムに最適化された宿場町を、この不毛の地にゼロから「人工的に建設する」というものであった。これは、戦国時代の発想にはない、国家の戦略的必要性に基づいて都市機能そのものを創造するという、まさに新時代の土木事業であった。

しかし、町を建設しても、そこに住み、宿場の機能を担う住民がいなければ意味がない。農業に適さないこの地に、自発的に移り住む者など期待できなかった。そこで、計画はさらに非情な一面を帯びる。宿場の労働力と人口を確保するため、峠の東側、上州(群馬県)にあった「入山集落」の住民を、軽井沢の予定地へ強制的に移住させることが決定されたのである 31

実行:入山集落の移転と町の建設 (推定:1602年夏~秋)

計画が決定されると、実行は迅速に進められた。入山集落の住民たちに、小諸藩からの移住命令が通達された。先祖代々の土地を離れ、生活の基盤をすべて捨てて、未知の寒冷地へ移ることを一方的に強制された人々の驚きと悲しみ、そしておそらくは抵抗もあったであろう。しかし、藩の命令は絶対であり、逆らうことは許されない。彼らは家財をまとめ、住み慣れた故郷に別れを告げ、中山道を西へと向かう苦難の旅に出た。この強制移住は、個人の意思や生活よりも国家の戦略的要請が絶対的に優先される、新たな中央集権体制の厳しさを象徴する出来事であった。戦国時代であれば、領民は合戦や城普請のために動員された。しかし徳川の世では、国家インフラを建設するための「部品」として、コミュニティごと移転させられるという、新たな形の支配が始まっていたのである。

一方、軽井沢の建設予定地では、移住民の到着を待たずして、大規模な建設工事が始まっていた。街道に沿って計画的な区画整理(町割り)が行われ、町の骨格が形作られていく。中心部には、大名や公家、幕府役人が宿泊するための「本陣」と、その予備施設である「脇本陣」の敷地が確保された 33 。そして、宿場の心臓部ともいえる、公用荷物の継ぎ送りや人馬の差配を行う「問屋場」が設置された 17 。これらの公的施設を中心に、移住民の住居や、一般の旅人を泊める「旅籠」、食事や休息を提供する「茶屋」、そして様々な商品を売る商店の区画が、整然と配置されていった 35 。生活に不可欠な用水路の敷設など、インフラ整備も急ピッチで進められた。この事業を通じて、戦場で武功を立てることだけが能であった仙石秀久のような戦国武将は、幕府の政策を忠実に実行する「行政官」としての役割を担うことを求められた。これは、全国の大名が、もはや独立した軍事勢力ではなく、幕府という中央政府の地方出先機関へと変貌していく、時代の大きな転換点を如実に示していた。

完成:軽井沢宿の誕生 (推定:1602年冬~1603年)

秋が深まり、冬の気配が近づく頃、不毛の原野には真新しい町並みが姿を現した。入山からの移住民も到着し、新たな家での生活を始める。そして慶長七年の終わり、あるいは翌八年の初頭には、中山道六十九次のうち、江戸・日本橋から数えて十八番目の宿場「軽井沢宿」が、公式にその業務を開始した 31

問屋場には、幕府の規定に基づき、伝馬役を担う人馬が常備された。創業四百年以上の歴史を誇る「つるや旅館」の前身である旅籠「鶴屋」も、この頃に休泊茶屋として営業を開始したと伝えられている 32 。碓氷峠の険しい道を越えてきた旅人たちが、初めてこの新しい宿場に足を踏み入れ、安堵のため息をつく。これから峠に挑む旅人たちが、ここで最後の休息を取り、決意を新たにする。こうして、国家のグランドデザインと、一藩の行政能力、そして名もなき人々の犠牲の上に、軽井沢宿はその歴史的な第一歩を踏み出したのである。


【表2】軽井沢宿創設に関する推定年表(1601-1603年)

時期

出来事(幕府レベル)

出来事(小諸藩・軽井沢レベル)

1601年(慶長6年)

正月、東海道に伝馬制を施行 1

1602年(慶長7年)

中山道をはじめとする諸街道の整備命令を発令 3

仙石秀久、幕命を受領。中山道整備に着手 27

現地調査と軽井沢宿の建設計画を策定。入山集落からの強制移住を決定 31

入山集落へ移住命令を通達。軽井沢予定地で整地・建設工事を開始。

入山集落の住民が軽井沢へ移住。宿場の主要な建物が完成。

軽井沢宿が宿場としての公式業務を開始。伝馬役の人馬を配備。

1603年(慶長8年)

2月、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く 10

軽井沢宿が本格的に稼働し、中山道の交通を支え始める。


この年表が示すように、軽井沢宿の建設は、幕府開闢という歴史的な節目と並行して、わずか1年ほどの極めて短期間で計画・実行された、国家主導の迅速なプロジェクトであった。それは、徳川による新たな支配体制が、いかに強力な実行力を伴っていたかを物語っている。

第三章:新設宿場の構造と課せられた宿命

慶長七年に誕生した軽井沢宿は、国家の戦略的要請によってゼロから創られた「人工都市」であった。その構造と社会システムは、中山道という幹線道路の機能を維持するという唯一無二の目的のために、極めて合理的に設計されていた。しかし、その合理性の裏には、宿場自身と周辺の農村に課せられた重い宿命が潜んでいた。

宿場町の構造

軽井沢宿の町並みは、街道に沿って家々が軒を連ねる、典型的な宿場町の形態をとっていた 4 。町の中心には、大名や幕府役人といった公用旅行者のための宿泊施設である本陣と脇本陣、そして宿場の業務を統括する問屋場が置かれた 33 。これらの公的施設を核として、一般の旅籠、茶屋、商店などが短冊状の区画に沿って整然と並んでいた 35 。妻籠宿など他の宿場町の例に見られるように、火災の延焼を防ぐための「うだつ」や、生活・防火用水を確保するための用水路なども整備されていたと考えられる 36 。そのすべてが、旅人に休息と便宜を提供し、公用交通を円滑に進めるという機能に奉仕するよう配置されていた。

伝馬役という中核機能

この宿場に課せられた最も重要な義務が「伝馬役」であった 37 。これは、幕府の公用で旅をする役人や、公用の荷物を、次の宿場(軽井沢の場合は東の坂本宿、西の沓掛宿)まで、定められた人馬を用いて無償、あるいは非常に低い公定賃金で輸送する制度である 14 。宿場は、この伝馬役を滞りなく果たすため、常に一定数の人足と馬(例えば、後に標準となる人馬25人25疋など)を問屋場に常備しておくことを義務付けられた。大名行列や幕府の急使がいつ通行しても対応できるよう、この負担は宿場にとって最も重く、経営の根幹を揺るがすものであった。

助郷という名の収奪システム

しかし、参勤交代の大名行列や、皇女和宮の降嫁のような大規模な通行があった場合、宿場が常備している人馬だけでは到底足りなくなる。その不足分を補うために設けられたのが「助郷(すけごう)」制度である 37 。これは、宿場周辺の村々に対し、要請に応じて人馬を提供する義務を課すものであった 33

軽井沢宿は、碓氷峠越えという特に多くの人馬を必要とする区間を控えていたため、その助郷に指定された村々の範囲は極めて広大であった。史料によれば、軽井沢宿の助郷村は30ヵ村、石高にして1万1720石にも及び 38 、中には中山道から遠く離れた更級郡や水内郡の村々までもが、追分宿や沓掛宿への「増助郷」として動員されていた記録がある 39

農村にとって、この助郷役は極めて過酷な負担であった。農繁期であろうと、藩の命令があれば人馬を差し出さねばならず、農業生産に深刻な打撃を与えた。しかも、その対価はほとんど支払われなかった。これは、街道という「線」の機能を維持するために、その周辺に広がる「面」である農村が、一方的にそのコストを負担させられる収奪的なシステムであった。街道の繁栄という光は、助郷村の農民たちの疲弊という影によって支えられていたのである。この構造的な矛盾は、しばしば助郷村からの負担軽減を求める訴えや、宿場との間の紛争を引き起こす原因となった 40

不毛の地での経済

さらに、軽井沢宿は創設時から経済的な脆弱性という宿命を背負っていた。前述の通り、この地は火山灰土に覆われた冷涼な土地であり、安定した農業生産はほとんど期待できなかった 32 。周辺の助郷村のように、農業を基盤とした経済を築くことは不可能であった。

したがって、軽井沢宿の経済は、その収入のほぼすべてを、街道を往来する旅人たちが落とす金銭(路銀)に依存せざるを得なかった 33 。宿場の住民たちの生活は、旅籠の宿泊料、茶屋の飲食代、土産物の売上など、旅人の消費活動によってのみ成り立っていた。このため、宿場は旅人の滞在時間を延ばし、消費を促すための努力をしなければならなかった。後の時代になると、追分宿のように多くの飯盛女(実質的な遊女)を抱え、旅人の歓心を買うことで繁栄した宿場もあった 31 。軽井沢宿の東の入り口にあった「二手橋」が、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所と伝えられていることは、この宿場もまた、そうした側面を持っていたことを示唆している 33

このように、軽井沢宿は、自己完結的な生産基盤を持たず、街道交通という外部要因に100%依存して成立した、極めて特殊な「人工都市」であった。その存在は、参勤交代をはじめとする徳川幕府の交通政策によってのみ保証されていた。したがって、その政策が失われ、交通の主役が徒歩から鉄道へと移り変わった時、この宿場が急速にその存在理由を失い、衰退していくのは、創設の経緯そのものに内包された、避けられない宿命だったのである 32

終章:礎石の意義―軽井沢宿整備が後世に遺したもの

慶長七年(1602年)に行われた軽井沢宿の創設は、単に中山道に一つの宿場が加わったという事実以上の、深い歴史的意義を持つ。それは、戦国乱世の完全な終焉と、徳川による二百数十年にわたる天下泰平の時代の到来を告げる、象徴的な事業であった。武力による支配から、法とインフラによる統治への転換を体現したこの事業は、新たな時代のまさに「礎石」であったと言える。

支配体制確立への貢献

軽井沢宿を含む五街道と宿駅伝馬制度の整備は、徳川幕府による全国支配を盤石なものとする上で、決定的な役割を果たした。江戸の中央政府から発せられる命令は、この交通網を通じて全国の隅々にまで迅速かつ確実に伝達された。また、大名たちに義務付けられた参勤交代は、この安定した街道なくしては到底不可能であった。定期的に江戸と領地を往復させることで、幕府は大名を物理的に統制下に置き、その経済力を削ぎ、謀反の機会を奪った。軽井沢宿は、この巨大な統治システムを円滑に機能させるための、不可欠な結節点として創られたのである。

「線の支配」への転換の象徴

この事業が持つ最も重要な意義は、支配のあり方を根本的に変えたことにある。戦国大名の支配が、城郭を中心とした領国内の「点」の支配であったのに対し、徳川の支配は、全国に張り巡らされた街道ネットワークによる「線」の支配であり、それによって結ばれる全国土を対象とした「面」の支配であった。戦争のためのインフラであった道は、平和を維持するためのインフラへとその役割を変えた。大名行列を整然と通行させ、幕府の情報を迅速に伝えることで、中央の権威を示し、武力に頼らずして秩序を維持する。軽井沢宿の建設は、このような新しい時代の支配システムを象徴する存在であった。

経済・文化への影響

整備された街道は、当初の目的であった公用交通だけでなく、やがて経済と文化の交流にも多大な影響を及ぼした。安定した交通路は、全国規模での商品の流通を可能にし、商人たちの活動を活発化させた。平和な時代が続くと、伊勢参りや金毘羅参りといった庶民の旅も盛んになり、街道は多くの人々で賑わうようになった 6 。この人々の往来は、各地の文化を運び、交流させ、新たな文化を生み出す土壌となった。軽井沢の浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)を往来した馬子唄が起源とされる「追分節」が、やがて全国的な民謡として広まったのは、その好例である 43 。軽井沢宿は、この物と文化の大きな流れの中で、重要な中継地としての役割を果たしたのである。

近代への遺産

明治維新を迎え、参勤交代が廃止され、さらに信越本線の開通によって交通の主役が鉄道に移ると、中山道の宿場町としての軽井沢は急速にその役割を終え、一時は「再び不毛の地とも言うべき原始の寒村」へと戻ってしまった 32 。しかし、江戸時代を通じて「中山道最大の難所・碓氷峠の麓にある宿場」として確立されたその立地と知名度は、完全に失われたわけではなかった。明治十九年(1886年)、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショウがこの地を訪れ、その冷涼な気候と美しい自然に故郷の風景を重ね合わせた時、軽井沢は「避暑地」という新たな価値を見出されることになる 32 。江戸時代に国家の戦略拠点として築かれた礎なくして、近代以降の国際的リゾート地としての軽井沢の発展はあり得なかったであろう。

結論として、慶長七年の軽井沢宿整備は、徳川家康による天下泰平の世の構築という、壮大な構想の一部であった。それは、戦国の価値観を克服し、システムによる恒久的な統治を目指した、新時代の幕開けを告げる事業であった。一つの宿場の誕生というミクロな事象の中に、日本の歴史が大きく転換するマクロな動きが凝縮されている。軽井沢宿は、まさに平和な時代の礎石として、その歴史的使命を果たしたのである。

引用文献

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  14. 宿駅伝馬制度って、なんのこと? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm
  15. 道路:道の歴史:近世の道 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-3.htm
  16. 中山道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/
  17. 街道を歩くシリーズ1 中山道(なかせんどう) - ここ滋賀 -COCOSHIGA- https://cocoshiga.jp/official/topic/nakasendo/
  18. 江戸時代の旅情を感じる旅へ!中山道観光ガイド | GOOD LUCK TRIP https://www.gltjp.com/ja/article/item/20876/
  19. 長野県 軽井沢宿から和田宿までの宿場・歴史・史跡・観光施設をご紹介 - 東信州中山道 http://www.higashi-shinshu-nakasendo.com/arukikata/index.html
  20. 中山道 碓氷峠 https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/65_nakasendo_usui/
  21. 碓氷峠鉄道文化むら整備事業 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/chiikishinko/houkokusho/pdf/2-1-4-1.pdf
  22. 碓氷峠 - Antrip ( Annaka - Karuizawa - Tomioka ) - http://movie.antrip.jp/%E7%A2%93%E6%B0%B7%E5%B3%A0/
  23. 碓氷峠は鉄道でも難所だった!江戸時代に関所が置かれた通行の難所 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/9314/
  24. 「碓氷線」立ち入り禁止の鉄路を往く ー過去と未来を繋ぐ「廃線ウォーク」ー https://gunma-kanko.jp/features/12
  25. 鉄道文化むらについて - 碓氷峠交流記念財団 https://www.usuitouge.com/bunkamura/about/
  26. 慶長時代古文書[けいちょうじだいこもんじょ] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課) http://www.pref.gifu.lg.jp/page/6747.html
  27. 小諸城の歴史 | 信州・小諸|詩情あふれる高原の城下町 - こもろ観光局 https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/history/
  28. 小諸藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AB%B8%E8%97%A9
  29. 仙石秀久(小諸藩初代藩主) | 信州・小諸|詩情あふれる高原の城下町 - こもろ観光局 https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/history/person04/
  30. 唐松一里塚/小諸市オフィシャルサイト https://www.city.komoro.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/bunkazai_shogaigakushuka/2/1/1/bunkazai/sisitei/1095.html
  31. 軽井沢日本史 https://karuizawa-kankokyokai.jp/about_karuizawa/524/
  32. 暖かな雰囲気の中で執筆を行いました。 そして、今、幾度かの改装を重ねながら、軽井沢の昔を今につなぐ旅館として、歴史を守り続けています。 https://www.tsuruyaryokan.jp/history.html
  33. 【軽井沢宿】江戸時代を迎え、繁盛した軽井沢宿の歩みを知る - cocodoco 軽井沢 https://cocodoco-karuizawa.info/karuizawa-edo
  34. その壱 中山道【信濃(軽井沢宿~塩尻宿)十三宿】 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000912885.pdf
  35. 中山道望月宿の宿駅構造と変貌 https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/36771/files/002222_rev.pdf
  36. 町並みの保存について | 妻籠宿公式ウェブサイト https://tsumago.jp/learn/
  37. 歴史を訪ねて 街道筋の助郷制度 - 目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/sukego.html
  38. 中山道和田宿(※1)軽井沢宿迄十一ヶ宿助郷留 写 | 信州デジタルコモンズ https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622103700
  39. 【北国往還の助郷】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100030/ht002520
  40. 小県郡大石村他十二ヶ村軽井沢宿助郷免除嘆願書写 | 信州デジタルコモンズ https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0622104600
  41. 軽井沢 別荘文化の歴史と景観保全 年表 https://kyukaruizawa.com/wp-content/uploads/2022/08/%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2-%E5%88%A5%E8%8D%98%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%99%AF%E8%A6%B3%E4%BF%9D%E5%85%A8-%E5%B9%B4%E8%A1%A8-%EF%BC%98-10-2022.pdf
  42. 「五街道」とは?江戸時代に整備された陸上交通路をかんたんに解説! | ノミチ https://nomichi.me/gokaido/
  43. 軽井沢町・追分宿で、郷土の歴史文化と文学を学ぶ - ASAMA AREA SIX https://takamine-resort.com/asamasix/karuizawa/881/
  44. 軽井沢・旧三笠ホテルが伝える“メイドインジャパン”の西洋建築 - ホームズ https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00261/