最終更新日 2025-09-25

近江八幡町割(1585)

天正十三年、豊臣秀次は叔父秀吉の命で近江に新都市を築く。八幡堀で琵琶湖の水運を活かし、楽市楽座で商業を振興。秀次の悲劇的な死後もその都市構想は生き続け、八幡商人の活躍と町の繁栄の礎となった。
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天正十三年 近江八幡町割の全貌 ― 豊臣秀次の都市革命とその遺産 ―

序章:天下布武の夢の跡 ― 1585年、近江国の戦略的転換

本能寺の変後の近江:権力の真空と地政学的重要性

天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げたことは、日本の歴史における一大転換点であった。この政変は、信長の天下統一事業を未完に終わらせただけでなく、彼の権力とビジョンを象徴した壮麗な安土城をも歴史の舞台から引きずり下ろした。原因は定かではないものの、城は焼失し、事実上の廃城と化したのである 1

信長の死後、その後継者の座を巡る争いが激化する。清洲会議を経て、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで織田家筆頭家老の柴田勝家を破った羽柴秀吉が、信長の実質的な後継者としての地位を不動のものとした 2 。天下統一事業の継承者となった秀吉にとって、近江国は最重要戦略拠点であった。京都に隣接し、東国、西国、そして北国を結ぶ交通の要衝である近江を完全に掌握することなくして、日本の支配はあり得なかった 2 。信長の死によって生じたこの地の権力の真空を、秀吉は自らの色で、しかも早急に埋める必要に迫られていた。

安土城再興の放棄:織田から豊臣へのパラダイムシフト

当初、清洲会議の時点では、信長の後継者とされた三法師(後の織田秀信)の居城として、安土城を再建する計画が存在した 2 。しかし、天下の実権を握った秀吉は、この計画を反故にする。彼は、織田政権の絶対的なシンボルであった安土城を再利用する道を選ばなかった。その代わりに、安土からわずか西に約6kmという近距離に、全く新しい城と城下町を建設するという壮大な構想を打ち出したのである 1

この決断は、単なる物理的な代替都市の建設を意味するものではなかった。それは、織田信長の時代の終焉と、豊臣秀吉の時代の幕開けを天下に宣言する、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。安土城下に取り残され、庇護者を失い将来に不安を抱えていた商人や職人たちを、新都市へ強制的に移住させることで 4 、秀吉は安土の持つ政治的・経済的価値を意図的に剥奪し、それを自らが創造する新都市へと吸収しようとした。これは、旧体制(織田)を過去の遺物として清算し、新体制(豊臣)の絶対性を確立するための、周到に計算された戦略であった 2

天正13年(1585年)の豊臣秀吉:天下統一事業の加速

近江八幡の町割が開始された天正13年(1585年)は、秀吉の権勢が頂点に達した年である。この年、秀吉は3月から4月にかけて紀州征伐を断行し、雑賀衆・根来衆を平定 7 。息つく間もなく6月から8月にかけては四国平定を成し遂げ、長宗我部元親を降伏させた 2 。破竹の勢いで支配領域を拡大する中、同年7月11日には朝廷より関白の宣下を受ける 7 。これにより秀吉は、武家社会の頂点としてだけでなく、朝廷の権威をもその手に収め、名実ともに天下人としての地位を確立した。近江八幡という新都市の建設は、まさにこの絶頂期にあった秀吉が描く、壮大な国家構想の重要な一環として計画・実行されたのである。

第一章:若き城主の誕生 ― 豊臣秀次、八幡山に入部す

豊臣一門の期待を背負う若者:羽柴秀次

この国家的な大事業の主役として秀吉が選んだのは、自身の姉・とも(後の日秀尼)の子、羽柴秀次(後の豊臣秀次)であった 12 。当時、秀吉には実子がおらず、成人していた男子血縁者は秀次唯一人であったことから、彼は豊臣政権の後継者最有力候補と目されていた 14

天正13年当時、秀次はわずか18歳 4 。この若さで、天下の要衝に新都市を建設するという重責を任されたことは、異例中の異例であった。しかし、秀次は単なる縁故によって抜擢されたわけではない。本能寺の変後の山崎の戦いを初陣に 14 、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いといった主要な合戦に参加し、着実に武功を重ねていた。叔父である秀吉に尽くす一人の武将として、すでに一定の経験と実績を積んでいたのである 14

近江43万石の拝領:戦功への報奨と未来への投資

天正13年、秀吉は紀州征伐や四国征伐における副将としての秀次の戦功を高く評価し、彼に近江国のうち蒲生・神崎・野洲の三郡を中心とする43万石という広大な領地を与えた 2 。この破格の加増は、単なる戦功への報奨に留まらない。それは、秀次を次世代の豊臣政権を担う中核的存在として育成しようとする、秀吉の明確な政治的意図の表れであった。そして、その壮大な育成プログラムの実践の場として選ばれたのが、近江八幡の都市建設だったのである。

秀吉自身もかつて長浜城主として城下町経営を成功させ、その後の飛躍の礎を築いた経験を持つ 16 。ゼロから城を築き、人を集め、法を定め、経済を活性化させるという一連の統治プロセスは、為政者にとって最高の教育となる。秀吉は、自らの成功体験を甥である秀次に追体験させることで、彼に帝王学を実地で学ばせようとした。近江八幡の町割は、秀次個人のための事業ではなく、豊臣政権の永続的な安定という国家戦略の一環として、後継者を育成するための壮大な実地研修の場であったのだ。

八幡山(鶴翼山)への築城開始:軍事と経済を見据えた拠点選定

天正13年、近江43万石の領主となった秀次は八幡山(鶴翼山)に入り、自身の居城となる八幡山城の築城を開始した 6 。普請の総指揮は秀吉自身が執ったとも伝えられており、この事業に対する秀吉の並々ならぬ意気込みが窺える 2

八幡山城は、標高271.9mの山頂に本丸を置き、北ノ丸、西ノ丸、二ノ丸といった複数の曲輪をY字型に配置した、本格的な防衛機能を持つ山城であった 2 。戦国時代の気風が未だ色濃く残る当時において、軍事拠点としての堅牢さが重視されたのは当然であった。しかし、この城の立地選定の妙は、それだけではなかった。山麓は琵琶湖に面した広大な平野であり、水陸交通の結節点として、経済発展の絶大なポテンシャルを秘めていたのである 3 。軍事的な防御と経済的な発展。この二つの要素を両立させる絶妙な立地選定にこそ、八幡という都市の未来が託されていた。

第二章:無から有を生む ― 八幡堀開削と碁盤目状都市のグランドデザイン

【リアルタイム解説】沼沢地の変貌:八幡堀の開削

近江八幡の都市建設は、文字通り「無から有を生む」壮大な挑戦であった。八幡山麓に広がる土地は、もともと沼沢地であり、都市の基盤としては極めて脆弱な地勢であった 19 。この湿地帯を一大商業都市へと変貌させるための、最初の、そして最も重要な一手が、八幡堀の開削であった。

この工事は、全長約4.7kmから6km 20 、幅約15m 21 にも及ぶ巨大な人工水路を掘削するという、当代随一の土木事業であった。この堀は、第一義的には八幡山城を防御するための外堀としての軍事的役割を担っていた 19 。しかし、秀次と秀吉が見据えていたのは、その先にある経済的な価値であった。八幡堀の真の目的は、堀を琵琶湖と直結させることで、湖上を往来する全ての荷船を城下町内部に引き込む巨大な内港、すなわち経済の大動脈を創出することにあったのである 4

さらに、この都市計画には、当時の水準を遥かに超える先進的なインフラ思想が盛り込まれていた。町には「背割の溝」と呼ばれる計画的な下水道システムが整備され、衛生環境の維持が図られた 19 。また、竹の管を用いた上水道も整備されたと伝えられており 19 、住民の生活基盤を支えるための細やかな配慮がなされていた。八幡堀の開削は、単なる堀の建設ではなく、水利、防御、物流、そして生活インフラを統合した、極めて高度な都市基盤整備事業だったのである。

商業効率を最大化する都市設計:碁盤目状の町割

八幡堀と並ぶ、近江八幡の都市計画のもう一つの大きな特徴は、その整然とした町並みにある。当時の城下町の多くは、敵の侵入を困難にするため、道を意図的に屈曲させたり、袋小路を設けたりするなど、防衛を最優先した複雑な構造を持っていた。しかし、近江八幡はそうした常識とは一線を画し、縦12筋、横4筋を中心とする、見通しの良い碁盤目状(グリッドプラン)の町割を採用した 3

この設計思想は、軍事的な防御力よりも、物資輸送の円滑さ、商業活動の効率性、そして行政管理の容易さを最優先するものであった 3 。天下統一が目前に迫り、大規模な内乱の時代が終わりを告げつつあることを秀吉と秀次は正確に予見していた。彼らにとって、もはや国内の小規模な戦闘は国家の存亡を揺るがす脅威ではなく、むしろ国家の富をいかに増大させるかが最優先課題となっていた。碁盤目状の町割は、土地の区画整理、人口の把握、そして税収の管理を容易にする。それは、近世的な中央集権体制の確立を目指す豊臣政権の統治思想と完全に合致するものであった。この都市設計は「城を守る」ためのものではなく、「国を豊かにする」ための装置として構想されたのである。近江八幡の町割は、戦国的な「軍事優先」の価値観から、近世的な「経済・行政優先」の価値観への歴史的転換点を象徴する、思想的なモニュメントであったと言える。

計画的なゾーニング:身分と機能に応じた区画配置

碁盤目状の町には、計画的なゾーニングが施されていた。八幡堀が明確な境界線となり、その北側は武家地、南側は町人地として厳密に区分された 24 。これにより、武士の居住空間と商工業者の活動空間が分離され、都市機能の明確化が図られた。

さらに、広大な町人地も、機能に応じて合理的に細分化されていた。町の西側は商人町、北東側は鍛冶屋町や大工町などの職人町として指定され、同業者が集住することで生産性と情報交換の効率を高める工夫がなされていた 3 。また、安土から移築された本願寺八幡別院 31 や、築城に伴い山上から山麓に移された日牟禮八幡宮 32 といった大規模な寺社も、町の精神的な中心、あるいは外交使節の宿舎といった重要な構成要素として、計画的に配置された。これら全ての要素が、計算され尽くしたグランドデザインのもと、一つの機能的な都市として有機的に結合していたのである。

第三章:商都繁栄の法 ― 『八幡山下町中掟書』の公布

壮大な都市インフラという「ハードウェア」が完成しつつある中、そのポテンシャルを最大限に引き出すための「ソフトウェア」、すなわち法と制度の整備が急がれた。天正14年(1586年)6月、城主・豊臣秀次は、城下の永続的な繁栄を確固たるものにするため、「八幡山下町中掟書」を発布した 5

織田信長からの継承:安土の理念を受け継ぐ

この掟書は、天正5年(1577年)に織田信長が発布した画期的な経済政策「安土山下町中掟書」を色濃く踏襲するものであった。その核心は、第一条に高らかに謳われた「楽市楽座」の導入である。これにより、旧来の同業者組合「座」が持つ特権は廃止され、市場税(市座役)やその他の諸役・諸公事が一切免除された 5 。誰もが自由に商売を営むことができる環境が、法によって保障されたのである。

さらに、城の普請役や公用のための人馬を提供する伝馬役の免除、領主が領民の債務を一方的に破棄する徳政令の適用除外など、商人たちが経済活動に専念し、安心して財産を蓄積できるための様々な特権が盛り込まれていた 35 。これは、信長が安土で試みた先進的な商工政策の理念を、秀次が正統に継承し、発展させようとする明確な意志の表れであった。

秀次の革新:陸路から水路へ ― 物流革命の条項

しかし、秀次は単に信長の模倣に留まらなかった。「八幡山下町中掟書」には、安土の掟書にはない、極めて革新的な条項が加えられていた。それは、八幡という都市の地理的特性を最大限に活かす、物流革命とも言うべき一文であった。

安土の掟書が、中山道(上海道)を通行する商人に対して安土への寄宿を義務付けるなど、陸上交通の支配に重点を置いていたのに対し 36 、八幡の掟書はそれに加えて次のように定めた。

「船の上下儀、近遍の商舟これをあい留め、当浦へ出入りすべし」 35

この条項は、琵琶湖を航行する全ての商船に対し、八幡堀に造成された港(当浦)への寄港を法的に義務付けるものであった。これは、単なる市場の開設とは次元の異なる、交通と物流の強制的な集中を意図した国家レベルの政策であった。この一文により、近江八幡は単なる地方の市場から、琵琶湖水運のハブ港湾へとその性格を劇的に変貌させた。人、物、そして情報が、陸路と水路の両方からこの新都市に強制的に集積する巨大な物流ターミナルが、ここに誕生したのである 19

【比較分析】安土・八幡 両掟書の比較

安土と八幡の掟書を比較すると、秀次が信長の理念を継承しつつも、いかに独自の発展を遂げたかが明確になる。

条項の趣旨

安土山下町中掟書(天正5年)の条文(要約)

八幡山下町中掟書(天正14年)の条文(要約)

比較分析と考察

楽市楽座

当所を楽市とし、諸座・諸役・諸公事をことごとく免除する 36

当所を楽市とし、諸座・諸役・諸公事をことごとく免除する 35

信長の基本政策を完全に継承。自由な商業活動の保障が都市繁栄の根幹であるという思想を共有している。

交通の統制

往還の商人は上海道(中山道)の通行をやめ、必ず当町に寄宿すること 36

往還の商人は上海道の通行をやめ、必ず当町に寄宿すること。 加えて、琵琶湖を航行する商船は必ず当浦(八幡港)へ出入りすること 35

八幡の掟書の最大の革新点。 陸路の支配に留まっていた信長の構想を、水路にまで拡大。八幡堀というインフラと法制度を直結させ、琵琶湖水運全体を支配下に置くことで、物流の独占的集積を図った。

債権保護

領国で徳政令が実施されても、当町では免除する 37

領内で徳政令が実施されても、当町では免除する。当町内での貸借は棄破しない 35

安土の政策を継承し、さらに町内での金融取引の安定性を明確に保障。これにより、商人たちは安心して信用取引を行うことができ、商業資本の蓄積が促進された。

治安維持

喧嘩口論、押買・押売、宿の押借などを一切禁止する 37

喧嘩口論、押買・押売、宿の押借などを一切禁止する 35

商業活動の前提となる安全な環境を保障する条項を継承。経済特区としての秩序維持を重視した。

市場の集約

国中の馬の売買は、全て当所で行うこと 37

国中の馬の売買は、全て当町で行うこと。 加えて、領内や周辺の諸市は当町へ集約すること 35

安土の特定品目(馬)の市場独占を、より広範な「全ての市」の集約へと発展。八幡を唯一無二の商業中心地とする強い意志が見られる。

この比較から明らかなように、秀次の都市政策は、信長の理念を土台としながらも、八幡堀という独自のインフラを最大限に活用し、「水運の掌握」という新たな次元へと昇華させたものであった。それは、来るべき豊臣の世における経済のあり方を規定する、壮大なビジョンに基づいていたのである。

第四章:八幡商人の揺籃期 ― 新都市に集う者たち

【リアルタイム解説】新都市の誕生と人々の流入

物理的なインフラと法的な制度が整うと、近江八幡は磁石のように人々を引き寄せ始めた。まず、秀次の命令によって安土城下から移住させられた商人や職人たちが、町の最初の核を形成した 1 。彼らは信長の下で楽市楽座の恩恵を経験しており、新都市のポテンシャルを誰よりも理解していた。

それに加え、掟書によって保障された商機を求める人々が、近隣の村々からも続々と八幡に集まり始めた 30 。その中には、中世以来、近江の商業を担ってきた保内や五個荘といった地域の商人の系譜を引く者たちも含まれていた 40 。こうして、安土の先進的な商人と、近江の伝統的な商人がこの新都市で融合し、新たなエネルギーが生まれつつあった。八幡堀には全国からの物産を積んだ船が絶えず出入りし、碁盤目状の通りに設けられた市場は、日夜を問わず活気に満ち溢れていた。

初期八幡商人の勃興:西川甚五郎の先見の明

この活気の中から、後に「近江商人」の中核を担うことになる「八幡商人」と呼ばれる一群が誕生した 5 。彼らは、秀次が創り出したこの計画的な経済特区の恩恵を最大限に享受し、全国的な商業ネットワークを築き上げていく。

その象徴的な存在が、蚊帳や畳表の行商で財を成した西川甚五郎(初代)である。彼は、町が開かれて間もない天正15年(1587年)、いち早く八幡の中心地に本店「山形屋」を構えるという先見の明を示した 13 。伝承によれば、西川は八幡山城の築城に工務監督として関わった功績により、城下の最も有利な場所に出店する権利を得たとされる 41 。これは、豊臣政権の国家事業と個人の商業活動が、いかに密接に結びついていたかを示す好例である。西川をはじめとする八幡商人たちは、八幡に本家を置きながらも、八幡堀という優れた物流インフラを駆使して、江戸や大坂、さらには全国各地に出店を構え、広域的な商業活動を展開していった 31

「諸国産物回し」の原点:八幡が創出したビジネスモデル

八幡商人の商法で特筆すべきは、「諸国産物回し」と呼ばれる独創的な交易手法であった 24 。これは、単に地元の産物(例えば畳表や蚊帳)を他国へ運んで売るだけではない。Aという土地で仕入れた産物をBという土地で売り、そこでまたCという土地の産物を仕入れてDで売る、というように、各地の産物を循環させることで利潤を生み出す、高度な仲介貿易である。

このビジネスモデルは、まさに近江八幡という都市の構造そのものが可能にしたものであった。「掟書」によって全国の物資が八幡堀に強制的に集積されるため、八幡は多種多様な産物の巨大な見本市となった。商人たちは、八幡にいながらにして全国の産物の需給情報を得ることができ、最も効率的な交易ルートを構築することができた。近江八幡は、物資の「生産地」ではなく、物資の「集積・再分配の拠点」となることで、莫大な付加価値を生み出すことに成功したのである。秀次が創り出したこの環境は、単なる自由市場に留まらなかった。それは、最高のインフラとルール、そして才能を集積させ、新たなビジネスモデルを生み出すための、まさに「インキュベーションセンター」であった。近江八幡町割は、戦国大名による城下町経営という枠を遥かに超え、日本の商業資本主義の礎を築く、極めて近代的で実験的なプロジェクトだったのである。

終章:束の間の城主、永遠の都市 ― 秀次の悲劇と近江八幡の自立

栄華と悲劇:関白秀次と文禄の死

近江八幡の開町の祖として、卓越した行政手腕を発揮した豊臣秀次であったが、その後の運命は栄華と悲劇が交錯するものであった。八幡山城主となってわずか5年後の天正18年(1590年)には尾張へ移封となり、その後、叔父・秀吉から関白職を譲られ、聚楽第に入って名実ともに天下の第二人者となった 2

しかし、秀吉に実子・秀頼が誕生すると、叔父と甥の関係は急速に悪化する。文禄4年(1595年)、秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山において自害を命じられた。享年28。その悲劇は秀次一人に留まらず、彼の妻子や側室、さらには多くの家臣団までもが粛清されるという、凄惨な結末を迎えた(秀次事件) 2

主を失った城と町:八幡山城の廃城

秀次の死に伴い、彼が心血を注いで築いた八幡山城もまた、その運命を絶たれた。築城からわずか10年にして、城は徹底的に破却され、廃城とされたのである 2 。後年の発掘調査では、山麓の居館跡が取り壊された後、粉々に砕かれた瓦で意図的に埋め尽くされていたことが判明している 6 。これは、秀次の存在そのものを歴史から抹消しようとする、秀吉の凄まじいまでの憎悪と意志の表れであった。

戦国の常識で言えば、権力の象徴である城を失った城下町は、その求心力を失い、急速に衰退の一途をたどるのが必定であった。ましてや、その創設者が「謀反人」として断罪されたとなれば、町の存続自体が危ぶまれてもおかしくなかった。

自律する経済都市へ:近江八幡の奇跡的な繁栄

しかし、近江八幡は歴史の常識を覆した。政治的・軍事的な中心を失った後も、この町は衰退するどころか、むしろ純然たる商業都市として、江戸時代を通じてさらなる繁栄を遂げたのである 5

その奇跡を可能にした理由こそ、豊臣秀次がこの地に遺した不滅の都市システムにあった。彼が築いた「八幡堀による物流ネットワーク」と、「掟書による自由な経済環境」は、もはや特定の城主という政治的な庇護者を必要としない、自律的で強固な経済エンジンとして完成されていた。八幡商人たちは、創設者という最大の保護者を失った後も、秀次が遺したインフラと制度という偉大な遺産を最大限に活用し、自らの才覚と努力だけで町を発展させ続けたのである 7

結論:不滅の都市計画 ― 歴史遺産としての近江八幡町割

豊臣秀次は、政治史においては悲劇の人物として記憶されている。しかし、近江八幡の統治者として見れば、彼は時代を数十年、あるいは数百年先取りした、卓抜な都市プランナーであり、稀代の行政官であった 32

天正13年(1585年)に始まった近江八幡町割は、単なる一つの城下町の建設ではない。それは、戦国時代の終焉と、経済が社会を牽引する近世という新しい時代の到来を告げる、日本の都市計画史・経済史における画期的な事変であった。その合理的な設計思想と先進的な経済政策は、八幡商人を育て、後の日本の商業発展に計り知れない貢献をした。秀吉は秀次の名を歴史から抹消しようとしたが、秀次が創造した都市そのものが、彼の最大の功績として、400年以上の時を超えて今日まで生き続けている 12

近代化の過程で一時は埋め立ての危機に瀕した八幡堀が、市民たちの熱心な保存運動によってその美しい姿を取り戻し、今や町のシンボルとして多くの人々に愛されている事実は 22 、豊臣秀次の遺産が、今なおこの地に生きる人々によって深く理解され、大切に守り継がれていることの何よりの証左と言えるだろう。

引用文献

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  2. 八幡山城 ~秀吉に切腹に追い込まれた関白秀次の居城 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/157_hachimanyamajo-html.html
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  4. 【古都の名水散策 第10回】悲運の関白・豊臣秀次が開いた城下町、近江八幡へ名水を訪ねる https://serai.jp/tour/1018559
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  38. 近江八幡市共有文書(楽市令) - rekishi https://hiroseki.sakura.ne.jp/rakuichi.html
  39. 【八幡山下町中掟書】(目録) - ADEAC https://adeac.jp/omihachiman-city/catalog/mp210002-200010
  40. 近江八幡 八幡商人 - 日野・五個荘・近江八幡 近江商人のふるさと https://omi-syonin.com/hachiman_syounin/
  41. 西川三社統合を前に、創業の地を訪ね、450余年にわたる西川の歴史を紐解く | 西川チェーンの店 https://www.nishikawa1566.com/contents/nishikawa-chain/about/history01/
  42. 近江八幡の古い町並み - 一路一会 http://www.ichiro-ichie.com/05kinlki/shiga/omihachiman/omihachiman01.html
  43. 近江八幡とは 滋賀県近江八幡市は、京都から電車で約 40 分、琵琶湖の南東に位置する小さな都 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653760.pdf
  44. 近江八幡市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82
  45. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  46. 豊臣秀次について|【公式】近江八幡市観光情報サイト https://www.omi8.com/stories/hidetsugu