最終更新日 2025-10-07

追分宿整備(1602)

慶長7年(1602年)の追分宿整備は、徳川家康の五街道整備の一環。戦国から泰平への転換点であり、真田信之が指揮。交通の要衝として発展し、独自の文化を育んだ。
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慶長七年(1602年)追分宿整備の総合的考察 ―戦国から泰平への転換点として―

序章:慶長七年という時代―戦乱の終焉と秩序の胎動

慶長七年(1602年)は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた時期である。そのわずか二年前にあたる慶長五年(1600年)九月、天下分け目の関ヶ原の合戦において徳川家康は石田三成率いる西軍を破り、軍事的な覇権を確立した 1 。しかし、この勝利はあくまで新たな時代の序曲に過ぎなかった。全国には依然として豊臣恩顧の大名が多数存在し、大坂城には豊臣秀頼が君臨していた 2 。戦国の気風は社会の隅々にまで色濃く残り、武力による秩序形成が未だ絶対的な価値を持つ時代であった。このような状況下で、家康が目指したのは、単なる軍事的な支配者として君臨することではなく、法と制度に基づいた恒久的な国家秩序、すなわち「天下泰平」の世を創出することであった。

この壮大な構想を実現するため、家康は武力による威嚇と並行して、新たな国家統治システムの構築に精力的に着手した。その政策は多岐にわたる。慶長七年六月には江戸城内に文庫を造営し、学問を奨励する姿勢を示す一方で 2 、全国の大名を統制するための「武家諸法度」の制定準備を進め、官僚機構の整備にも着手していた 4 。これらの政策群の中で、物理的に国家の骨格を形成する上で最も重要な意味を持ったのが、全国交通網の整備事業であった。

家康が構想した交通網整備は、単に人々の往来や物資の輸送を円滑にするためのインフラ整備事業ではなかった。それは、江戸を絶対的な中心として全国の大名を結びつけ、情報伝達の迅速化、参勤交代の円滑化、そして経済活動の管理を通じて、中央集権的な支配体制を確立するための国家的プロジェクトであった 4 。戦国時代、道は主に軍勢を迅速に移動させるための「軍事路」としての性格が強かったが、家康はそれを平時の統治を支える「動脈」へと変貌させようとしたのである。この巨大なパラダイムシフトが、信濃国の山中の一地点で具体的に現れた事例こそが、本稿で論じる「慶長七年 追分宿整備」である。

信濃国佐久郡に位置する追分は、江戸と京を結ぶ中山道と、越後国(現在の新潟県)を経て日本海側へと至る北国街道が分岐する、古来からの交通の要衝であった 8 。戦国時代においては、武田氏、上杉氏、そして後の徳川氏といった大名たちが軍勢を動かす上で、この地の戦略的な価値は極めて高かった。その軍事的な結節点が、新たな時代において経済と統治の結節点としていかに再定義され、整備されていったのか。本稿では、この追分宿の整備というミクロな事象を詳細に分析することを通じて、日本の歴史が「戦(いくさ)」の論理から「治(ち)」の論理へと大きく舵を切った慶長七年という時代の本質を解き明かすことを目的とする。それは、戦国的な「点の支配(城の確保)」から、近世的な「線の支配(街道の掌握)」へと移行する、歴史のダイナミズムを象徴する出来事であった。

第一章:天下統一のグランドデザイン―五街道整備と伝馬制度の創設

追分宿の整備は、孤立した事業として行われたわけではない。それは、徳川家康が天下統一事業の総仕上げとして構想した、より壮大な国家インフラ計画、すなわち「五街道整備」と「伝馬制度」の創設というグランドデザインの一部であった。この全体像を理解することなくして、追分宿整備の歴史的意義を正確に捉えることはできない。

慶長六年(1601年)の始動と中山道への展開

関ヶ原の合戦で勝利を収めた家康は、その翌年の慶長六年(1601年)、間髪を入れずに全国の交通網整備に着手した 11 。最初に手がけられたのは、江戸と京・大坂を結ぶ最重要幹線である東海道であった 11 。家康は東海道の各要所に宿駅を定め、公用のための人馬を提供する「伝馬制」を施行した。これは、政治・経済の中心地を確実に掌握し、自身の権力基盤を固めようとする明確な意図の表れであった。

そして慶長七年(1602年)、この整備計画は中山道へと拡大される 12 。東海道が太平洋沿岸の平野部を主として通るのに対し、中山道は本州内陸の険しい山岳地帯を貫く第二の幹線道路であった。この中山道を押さえることは、東海道に不測の事態が生じた際の代替路を確保するという安全保障上の意味合いに加え、信濃、上野、美濃といった内陸の諸大名を江戸の支配下に組み込む上で不可欠であった。日本の大動脈を複線化し、支配体制を盤石にするという家康の深謀遠慮がそこにはあった。追分宿の整備は、この中山道整備計画が本格化した慶長七年に、その一環として実行されたのである。

伝馬制度の本質―標準化とネットワーク化

徳川幕府が創設した街道システムの核心は、「伝馬制度」にある。これは、各宿駅に公用旅行者のために一定数の人馬を常備させ、彼らの荷物や書状を次の宿駅までリレー方式で継ぎ送る制度である 13 。戦国時代にも、各大名は自領内に限定された伝馬制度を整備していたが、それらは領国ごとに分断された閉鎖的なシステムであった 15 。家康の伝馬制が画期的であったのは、それを全国規模で統一された規格とルールのもとに再構築した点にある。

幕府は、街道の重要度に応じて各宿場が常備すべき人馬の数を定めた。東海道では原則として100人・100疋、中山道では50人・50疋、その他の街道では25人・25疋とされ、この義務を果たす見返りとして、宿場には様々な特権が与えられた 15 。これにより、幕府は私的な契約に頼ることなく、安定的かつ効率的に公用交通を確保することが可能となった。

この制度は、まさに「標準化」と「ネットワーク化」の巨大プロジェクトであったと言える。全国の宿場を同じルール(伝馬役の義務、公定駄賃など)で縛り、それらを街道という線で結ぶ。そして、そのネットワークの絶対的な中心に江戸を置くことで、新たな情報・物流・権力空間を創造したのである 6 。追分宿がこのシステムに組み込まれることは、単に道が整備される以上の意味を持っていた。それは、追分という地域が徳川の新たな統治システム、すなわち「標準化された全国ネットワーク」の重要な結節点として、正式に機能し始めることを意味していたのである。

街道の機能変革―軍事路から統治の動脈へ

五街道の整備は、日本の「道」の持つ機能を根本的に変革した。前述の通り、戦国時代の道は主として軍事目的で利用され、その整備も軍事行動の必要性に応じて行われることが多かった。しかし、徳川の世における街道は、平時の国家統治を支える多機能な社会インフラへとその姿を変貌させた。

その筆頭に挙げられるのが、大名行列、すなわち参勤交代の通路としての機能である。全国の大名が定期的(原則として一年おき)に江戸と自領を往復するこの制度は、大名に経済的負担を強いると同時に、彼らを江戸に物理的に結びつけることで幕府への忠誠を誓わせる、極めて高度な統治システムであった 7 。この参勤交代を円滑に実施するためには、規格化された街道と安定した宿駅機能が不可欠であった。

さらに、街道は幕府の役人が全国を巡察するための公用路であり、飛脚制度による迅速な情報通信網でもあった。そして時代が下るにつれて、伊勢参りや善光寺詣でといった庶民の旅行や、全国的な商品流通を支える経済の大動脈としての役割も増していくことになる 6 。慶長七年の追分宿整備は、このような多機能な「近世の道」を創り出すための、壮大な事業の確実な一歩だったのである。

第二章:動乱の信濃―真田信之による上田統治の開始

幕府が描いた壮大なグランドデザインは、それだけでは絵に描いた餅に過ぎない。それを現実に落とし込み、実行に移す現地の為政者の存在が不可欠であった。追分宿が位置する信濃国佐久郡は、当時、初代上田藩主・真田信之の所領であった。追分宿整備の具体的な指揮を執ったのは、この真田信之その人である。彼の置かれた特異な立場と、彼が目指した領国経営を理解することは、追分宿整備の背景を深く知る上で極めて重要である。

関ヶ原、真田家の選択と信之の立場

真田家は、信濃の小豪族から知謀と策略を駆使して戦国乱世を生き抜いた一族である 16 。関ヶ原の合戦に際し、当主であった真田昌幸は、一族の存亡をかけた重大な決断を下す。自らと次男の信繁(後の幸村)は西軍(豊臣方)に、そして長男の信之は東軍(徳川方)に与するという、父子兄弟が敵味方に分かれるという苦渋の選択であった 17 。これは、どちらが勝利しても真田の家名を存続させるための、昌幸一流の深謀遠慮であったとされる。

結果として東軍が勝利し、西軍に与した昌幸と信繁は高野山への配流を命じられた 18 。一方で、東軍として徳川方で戦った信之は、その功績と、妻が徳川四天王・本多忠勝の娘である小松姫であったことなどから、父・昌幸の旧領であった上田と、上野国沼田領を合わせた9万5千石の所領を安堵された 18 。こうして信之は、初代上田藩主として、新たな時代の領主としての一歩を踏み出したのである。

しかし、その立場は決して安泰なものではなかった。父と弟は徳川に敵対した罪人であり、信之自身もいつ疑いの目を向けられてもおかしくない、いわば「要注意大名」であった。彼が徳川の世で生き残り、真田家を繁栄させるためには、もはや父・昌幸のような戦国の武勇や策略ではなく、新たな時代の支配者である徳川幕府に対して、有能な統治者としての能力と、揺るぎない忠誠心を示す必要があった。

初代上田藩主・真田信之の領国経営

上田の領主となった信之は、父とは異なる為政者として、戦乱で疲弊した領国の復興と民政の安定に心血を注いだ。彼の藩政は、近世的な領主としての資質を如実に示している。まず、上田城下の城下町整備を進め、商業の基盤を整えた 19 。農村に対しては、重税に苦しむ農民が逃亡することのないよう年貢の減免措置を行い、耕作放棄地を減らす政策をとった 19 。さらに、用水堰の開削やため池の築造といった灌漑施設の整備を積極的に進め、農業生産力の向上を図った 19 。これらの政策は、領民の生活を安定させ、藩の財政基盤を強化することを目的とした、極めて現実的かつ長期的な視点に立ったものであった。

信之の統治スタイルは、まさに戦国の「智将の子」から、徳川の世の「有能な統治者」へと自らを変革していく過程そのものであった。彼の民政重視の姿勢は、幕府が掲げる「天下泰平」の理念とも合致するものであり、徳川家康や後の幕府首脳に対して、真田家がもはや一介の地方豪族ではなく、幕藩体制を支える信頼できるパートナーであることを証明する行為でもあった。

信之にとっての街道整備の意義

このような状況下で、幕府から「中山道の宿駅を整備せよ」という命令が下された。これは、信之にとってまさに渡りに船であった。この事業は、幕府からのトップダウンの命令であると同時に、彼の政治的立場を強化し、藩政を安定させる絶好の機会だったのである。

第一に、幕府の国家プロジェクトを迅速かつ的確に実行することは、徳川家に対する絶対的な恭順の意を示す最良の手段であった。第二に、宿駅の建設や運営体制の構築を滞りなく進めることは、為政者・行政官としての自らの有能さを幕府に示す格好の機会となる。そして第三に、整備された街道と宿場は、領内の物資流通を活性化させ、商業を振興し、藩に経済的な利益をもたらす。また、藩主自身が参勤交代で江戸と上田を往復する際や、藩の公務においても、交通の円滑化は不可欠であった。

このように、追分宿の整備は、真田信之にとって、幕府の命令を忠実に実行することで自らの政治的立場を強化し、同時に領国の実利的な発展をも図るという、一石二鳥の効果を持つ極めて戦略的な事業であった。この事業の成功は、彼が戦国の遺臣から、新たな時代の藩主へと完全に脱皮するための重要な試金石となったのである。

第三章:追分宿、誕生の刻―慶長七年(1602年)の時系列分析

「追分宿整備」という事象を、単なる歴史的事実として静的に捉えるのではなく、慶長七年という一年の中で、関係者たちがどのように動き、物事が進行していったのかを動的に再構築する。断片的な記録をつなぎ合わせることで、当時の「リアルタイムな状態」に可能な限り迫る試みである。

慶長七年初頭~春:計画策定期

慶長七年の年が明けると、前年に東海道で始まった街道整備の波は、中山道へと及ぶことになった。幕府の中枢(当時はまだ道中奉行は設置されていなかったが、それに類する機能を持つ組織)から、中山道沿いの諸大名、すなわち上田藩主・真田信之のもとへ、宿駅設置に関する具体的な指示が通達されたと推察される。

この命を受けた信之は、直ちに家臣を現地に派遣し、詳細な調査を開始させたであろう。追分は、古代の官道時代から集落が存在し、交通の要地としての素地があった 8 。調査団は、この既存の集落を基盤としながら、幕府が定める宿駅の規格に合致するよう、町の区画整理計画を策定した。宿駅の心臓部となる本陣や問屋場、そして幕府の権威の象徴である高札場をどこに配置するか。また、建設に必要な木材や石材、そして労働力をいかにして調達するか。これらの具体的な計画が、春にかけて練り上げられていったと考えられる。

慶長七年春~初夏:建設・組織編成期

計画が固まると、いよいよ実際の普請が開始された。高札場の設置に関する後年の古文書には、その詳細な規模(広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、5寸角の柱を使用)が記録されており、こうした施設が計画的に建設されたことを物語っている 21

物理的な建設と並行して、宿場の運営を担う組織体制の編成も急ピッチで進められた。宿駅運営において最も重要な役割を担う本陣役には、その地域の有力者であった土屋市左衛門家が任命された 22 。本陣は、大名や幕府役人の宿泊所であると同時に、宿場全体の公的な業務を統括する拠点でもあった。また、伝馬継立の実務を取り仕切る問屋役や、宿場の自治を担う年寄といった宿役人たちも、この時期に選任され、それぞれの役割が定められていった。こうして、追分宿は新たな「宿駅」という生命を宿すための骨格と神経網を、着々と形成していったのである。

慶長七年六月十日:宿駅機能の公式発足

そして、運命の日が訪れる。 慶長七年(1602年)六月十日 。この日、追分宿の本陣を務めることになった土屋家に伝わる古文書、**「定路次駄賃之覚(じょうろじだちんのおぼえ)」**が制定された 22

この文書は、追分宿から次の中山道の宿場である小田井宿まで、そして手前の沓掛宿までの区間における、公定の輸送運賃(駄賃)を定めたものである。これは、追分宿が単なる旅人の集落から、幕府の定めた伝馬制度という公的なルールに基づいて輸送業務を行う「宿駅」として、正式に機能を開始したことを示す、決定的な証拠である。この日をもって、追分宿は法的に誕生したと言える。まさに「追分宿整備」が完了し、宿駅としての歴史が幕を開けた瞬間であった。この日、本陣兼問屋場となった土屋家の屋敷には、真田家の役人と新たに任命された宿役人たちが集い、この新しい規則を確認し、最初の公用荷物の継立業務が厳かに行われたであろう光景が目に浮かぶ。

慶長七年夏~年末:運用開始と定着期

公式な発足後、追分宿は実質的な運用段階に入った。「定路次駄賃之覚」に基づき、幕府役人や諸大名の通行に際して、人馬を提供する継立業務が開始された。当初は、まだ制度が始まったばかりで、公用旅行者の往来もそれほど多くはなかったかもしれない。人馬の確保や業務の手順など、現場では試行錯誤が繰り返されたであろう。宿役人たちは、幕府の定めた規則と現地の事情をすり合わせながら、宿場機能を円滑に軌道に乗せるべく奮闘したと考えられる。

また、公的な宿駅として幕府の公認を得たことで、追分宿の商業的な魅力も高まった。一般旅行者の増加を見込んだ旅籠や茶屋が、街道沿いに次々と建てられ、町の形が次第に整えられていった。慶長七年の年末を迎える頃には、追分宿は戦国の面影を残す単なる分岐点の集落から、新たな時代の秩序を体現する活気ある宿場町へと、その姿を大きく変え始めていたに違いない。

表1:慶長五~七年(1600~1602年)における関連動向年表

追分宿整備という事象を、より広い文脈の中に位置づけるため、当時の全国、信濃国、そして追分宿の動向を時系列で整理する。

年月

全国(幕府)の動向

信濃国(上田藩)の動向

追分宿の動向

典拠

慶長5年 (1600)

9月:関ヶ原の合戦で徳川家康勝利。

真田昌幸・信繁は西軍、信之は東軍に属す。

(前史:古来からの交通の要地)

1

慶長6年 (1601)

徳川家康、五街道整備に着手。東海道に伝馬制を施行。

真田信之、父・昌幸の旧領である上田領9万5千石を安堵される。初代上田藩主となる。

幕府の中山道整備計画に基づき、宿駅設置の候補地として具体化される。

11

慶長7年 (1602)

2月:家康、大坂城で豊臣秀頼と会見。6月:江戸城に文庫を造営。中山道の伝馬制整備を本格化。

真田信之、幕府の命を受け、領内の中山道宿駅(追分宿等)の整備を指揮。民政にも注力。

計画策定、本陣・問屋等の組織編成、インフラ建設が進む。

3

慶長7年6月10日

(文治政策を推進)

(藩政の基礎固め)

「定路次駄賃之覚」が制定され、宿駅としての公的機能が正式に開始される。

22

この年表は、慶長七年六月という同じ月に、江戸では家康が文庫を造営するという文治政策を進め、信濃の山中では追分宿が公的な輸送システムとして稼働し始めたことを示している。これは、徳川政権が中央と地方で、また武断と文治の両面で、いかに精力的かつ同時並行的に新秩序の構築を進めていたか、そのダイナミズムを如実に物語っている。

第四章:宿駅の解剖―整備直後の追分宿の構造と機能

慶長七年の整備によって誕生した追分宿は、単に家々が並ぶ集落ではなかった。それは、幕府の定めた規格に基づき、明確な役割を持つ施設と組織が有機的に連携して機能する、精緻に設計された一個の社会装置であった。ここでは、整備直後の追分宿の内部構造を解剖し、各要素が担った機能を具体的に解説する。

宿場の骨格―施設と配置

  • 本陣・脇本陣
    宿場の中心に位置し、最も格式の高い施設が本陣であった。これは、参勤交代で往来する大名や公家、旗本といった幕府の高級役人など、身分の高い者だけが利用できる公式な宿泊・休憩施設である。追分宿では、地域の有力者であった土屋市左衛門家が代々その役職を世襲した 22。本陣の建物は、単なる宿泊施設ではなく、領主の権威を象徴するものでもあり、その規模は壮大であった。記録によれば、追分宿本陣の建坪は238坪にも及び、これは中山道六十九次の宿場の中でも、塩尻宿、上尾宿に次ぐ屈指の規模を誇った 23。脇本陣は、本陣が利用中である場合や、大名の供の身分の高い家臣が宿泊するために設けられた補助的な施設であり、追分宿には2軒の脇本陣があった 9。
  • 問屋場(といやば)
    問屋場は、宿駅機能のまさに心臓部と言える最重要施設であった 14。その主な業務は、幕府の公用旅行者や大名行列が必要とする人馬を差配し、彼らの荷物を次の宿場まで滞りなく継ぎ送る「人馬継立」である 14。問屋場の役人は、前の宿場から到着した荷物と公的な証明書(朱印状など)を確認し、規定通りの人馬を用意して次の宿場へと送り出した。また、幕府の書状などを運ぶ飛脚業務の中継も担っており、情報通信ネットワークの拠点でもあった 26。追分宿では、当初、本陣である土屋家がこの問屋役を兼務していた記録がある 22。
  • 高札場(こうさつば)
    高札場は、宿場の目立つ場所(多くは出入り口や中心の広場)に設置され、幕府や領主が発する法度(法律)や掟書、禁制などを木の札に書いて掲示する場所であった 21。文字の読めない庶民にも内容が伝わるよう、役人が読み聞かせを行うこともあった。これは、為政者の意思を民衆に周知徹底させるための重要な情報発信拠点であり、幕府の権威を視覚的に示す装置でもあった。
  • 旅籠・茶屋
    本陣や脇本陣が公的な身分の高い者専用であったのに対し、武士や一般の旅行者のための宿泊施設が旅籠であり、休憩や飲食を提供したのが茶屋であった。これらは民間によって経営され、宿場の経済的な賑わいの源泉となった。慶長七年の整備を機に、こうした民間施設も徐々に数を増やし、街道沿いに軒を連ねるようになっていったと考えられる 9。
  • 貫目改所(かんめあらためしょ)
    貫目改所は、街道を通る荷物の重量を検査する施設である 26。伝馬制度では、馬一頭あたりに積載できる荷物の重量(通常40貫=約150kg)が定められていた。規定以上の荷物を運ばせることは、人馬の疲弊を招き、公的な輸送システム全体の停滞につながるため、これを厳しく取り締まる必要があった。追分宿には御影陣屋の支配下にある貫目改所が設置され、制度の安定的な維持に貢献した 9。

宿場を動かす人々―組織と役割

  • 宿役人
    宿場の公的な運営は、宿役人と呼ばれる人々によって担われた。その筆頭が本陣や脇本陣の当主であり、実務の中心が問屋役であった。その他、宿場全体の取りまとめ役である年寄(おとな)、問屋場での事務作業を行う帳付(ちょうつけ)などがいた。彼らの多くは地域の有力な家柄から選ばれ、苗字帯刀を許されるなど、一定の社会的地位と権威が与えられていた。
  • 馬借・人足
    実際に荷物を運び、馬を引くという末端の労働を担ったのが、馬借(ばしゃく)や人足(にんそく)と呼ばれる人々であった。彼らは、宿場内に住む住民や、近隣の村々から動員された。特に、宿場の人馬だけでは需要に応えきれない場合に、周辺の村々が補助的に人馬を提供する「助郷(すけごう)制度」が後に確立されるが、慶長七年の時点でも、それに類する形で近隣村落の協力があったと考えられる 15。彼らの労働なくして、伝馬制度は一日たりとも機能しなかった 27。

表2:追分宿の主要機能と担当組織

整備直後の追分宿が有していた主要な機能を、施設・役職と担当組織の観点から以下に整理する。

施設・役職

主な機能

担当者・組織

典拠

本陣・脇本陣

大名・幕府役人等の公式な宿泊・休憩

土屋家(本陣)、他有力者

9

問屋場

伝馬・人足の継立業務、公用荷物の差配、飛脚(通信)の中継

問屋役(当初は本陣が兼務)、帳付

14

高札場

幕府・藩の法令・禁制の掲示(情報伝達)

宿役人

21

旅籠・茶屋

一般旅行者の宿泊・休憩、飲食の提供

民間経営者

9

貫目改所

輸送荷物の重量検査(制度維持)

幕府(御影陣屋)の役人

9

馬借・人足

荷物の運搬、馬の牽引(実務労働)

宿場および近隣村落の住民

15

この表が示すように、慶長七年の整備によって、追分宿には統治、運輸、通信、宿泊、そして制度維持といった多様な機能を持つ体系化されたシステムが一挙に導入された。それは、戦国の混沌から、新たな時代の秩序ある社会への移行を象徴するものであった。

第五章:追分宿の遺産―その後の繁栄と文化の醸成

慶長七年(1602年)の整備は、追分宿のその後の歴史を決定づける画期的な出来事であった。幕府の政治的・経済的な目的によって人工的に創出されたこの宿場は、やがてその意図を超えて、独自の文化を育み、歴史に深く名を刻む場所へと成長していく。

交通の要衝としての繁栄

幕府公認の宿駅として整備された追分宿は、中山道と北国街道が交わる交通の要衝という地理的優位性を最大限に発揮し、急速な発展を遂げた。江戸と京を結ぶ旅人、善光寺や越後へと向かう旅人、そして参勤交代の大名行列が絶えず往来し、宿場は活気に満ち溢れた。その繁栄の頂点であった元禄時代(17世紀末~18世紀初頭)には、旅籠屋が71軒、茶屋が18軒、各種商店が28軒も軒を連ねるほどであった 9 。これは、軽井沢宿、沓掛宿とともに「浅間根腰の三宿」と呼ばれた中でも、群を抜く規模であった 28

「追分節」の誕生と飯盛女

宿場の繁栄は、多くの人々を惹きつけた。その中で、追分宿の名を不朽のものとする独自の文化が生まれる。それが、日本を代表する民謡の一つ「追分節」である。その源流は、険しい碓氷峠を越える馬を操る馬子(まご)たちが、仕事の辛さや旅情を紛らわすために口ずさんでいた仕事唄(馬子唄)であった 30

この素朴な労働歌が、追分宿の旅籠で働く飯盛女(めしもりおんな)たちの手によって、新たな生命を吹き込まれた。飯盛女は、表向きは給仕女であったが、実質的には遊女を兼ねることが多く、最盛期の追分宿には200人から270人もいたとされる 9 。彼女たちは、旅人をもてなす宴席で、馬子唄に三味線の伴奏をつけ、洗練された節回しを加えて、情緒豊かな座敷唄へと昇華させたのである 31 。こうして誕生した「追分節」は、哀愁を帯びたメロディーと、旅の別れや恋心を歌った歌詞が旅人たちの心を捉え、彼らによって全国各地へと運ばれ、広まっていった 8

この一連の過程は、慶長七年の整備がもたらした意図せざる結果であった。幕府が創り出した「ハードウェア」(街道と宿場というインフラ)の上で、そこに集う名もなき民衆が「ソフトウェア」(追分節という文化コンテンツ)を創出し、そのネットワークを通じて流通させたのである。統治と経済の効率化というトップダウンの目的が、結果としてボトムアップの民衆文化が花開くための豊かな土壌を創り出した。これは、制度やインフラが、作り手の当初の意図を超えた社会的・文化的価値を生み出す好例と言える。

松尾芭蕉の来訪―整備から約80年後の風景

追分宿が宿場町として成熟期を迎えた貞享五年(1688年)、俳聖・松尾芭蕉が「更科紀行」の旅の途中でこの地を訪れている 29 。その際に詠まれたのが、浅間山の雄大さと麓を吹き荒れる強風(野分)を鋭く捉えた名句、「吹き飛ばす 石も浅間の 野分かな」である 34

芭蕉が訪れた頃の追分宿は、慶長七年の整備初期の緊張感に満ちた雰囲気とは異なり、安定した繁栄を享受する成熟した宿場町となっていたことであろう。旅籠が軒を連ね、多くの旅人が行き交い、夜ごとどこかの宴席からは追分節が聞こえてくる。芭蕉が目にしたのは、そのような活気と旅情が交錯する風景であったに違いない。彼の句碑は、現在も追分宿の浅間神社境内に建てられており、この地が歴史と文化の交差点であったことを静かに物語っている。

戦国から江戸、そして近代へ

慶長七年に確立された「旅人が交錯する場所」としての追分宿のDNAは、時代を超えて受け継がれていく。江戸時代を通じて交通の要衝として栄えた後、明治時代に鉄道が開通すると宿場としての機能は一旦衰退する。しかし、その静かなたたずまいと豊かな自然は、新たな時代の人々を惹きつけた。昭和初期には、堀辰雄や立原道造、室生犀星といった近代文学を代表する作家たちがこの地に滞在し、創作活動を行った 9 。特に堀辰雄の小説『菜穂子』や『ふるさとびと』では、旧脇本陣であった旅館「油屋」をモデルにした宿が登場し、追分は文学の舞台として新たな名声を得ることになる 9

軍事戦略の拠点から、経済と統治の結節点へ。そして、民衆文化の発生地、さらには近代文学の舞台へ。追分宿の歴史は、その役割を時代と共に変えながらも、一貫して「人々が出会い、交差し、新たな価値が生まれる場所」であり続けた。そのすべての原点は、戦国の世が終わりを告げ、新たな秩序が模索される中で断行された、慶長七年の宿駅整備にあったのである。

結論:追分宿整備が象徴する時代の転換

慶長七年(1602年)に行われた信濃国追分宿の整備は、一見すれば地方の一インフラ事業に過ぎないかもしれない。しかし、その背景と過程、そして後世への影響を多角的に分析することで、この事象が日本の歴史における極めて重要な転換点を象徴するものであったことが明らかになる。

第一に、追分宿整備は 徳川国家秩序の縮図 であった。江戸の中央政権が壮大な国家計画を立案し、現地の藩主(真田信之)がその実行責任を負い、全国で標準化されたシステム(伝馬制度)を導入するという一連の流れは、その後260年以上にわたって日本を統治することになる「幕藩体制」の基本構造そのものである。追分宿という一点に、新たな統治の理念と手法が凝縮されていた。

第二に、この事業は**「道」の価値の根本的な転換**を象徴している。戦国時代、道が主に軍勢を動かし、敵国へ侵攻するための「軍事路」であったのに対し、慶長七年以降の街道は、人・物・情報を運び、参勤交代や全国市場を支える、平時の統治と経済の「動脈」へとその本質を変えた。追分宿の整備は、この歴史的な価値転換が、具体的な形で現れた瞬間であった。

第三に、この事業を指揮した真田信之の役割は、 近世大名に求められる新たな資質 を示している。戦国武将に不可欠であった武勇や策略ではなく、領国を豊かにし、民政を安定させ、幕府の政策を的確に実行する「行政官」としての能力こそが、新たな時代の支配者には求められた。信之の成功は、戦国の価値観の終焉と、新たな時代の到来を告げるものであった。

信濃国の一宿場の整備という微視的な事象から、我々は戦国乱世の終焉と、それに続く二百数十年の泰平の世、すなわち日本の近世社会がいかにして形作られていったのか、そのダイナミックな成立過程を鮮やかに読み解くことができる。追分宿整備は、まさに戦国と江戸という二つの時代を分かつ、静かな、しかし決定的な分水嶺であったと言えるだろう。

引用文献

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