最終更新日 2025-10-06

逢坂関跡管理再編(1603)

逢坂関跡は、古代から中世を経て、1603年の徳川家康による管理再編で交通管理拠点へ変貌。織豊政権の交通自由化から幕府の国家管理化への転換を象徴。
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逢坂関跡管理再編(1603年)に関する総合分析報告:戦国から天下泰平へ、交通支配の変容

序章:逢坂関の歴史的積層 ― 古代から戦国時代の終焉まで

慶長八年(1603年)という時点における逢坂関を理解するためには、まずその地が単なる地理的要衝ではなく、幾重にも歴史的意味が堆積した「記憶の場」であったことを認識する必要がある。徳川幕府による「再編」は、この歴史的積層の上に新たな秩序を築く試みであり、その前提条件を把握することは本報告書の根幹をなす。

古代の軍事拠点「三関」として

逢坂関は、古代国家の成立期から、日本の東西を結ぶ交通の結節点として極めて重要な位置を占めていた 1 。その戦略的価値が国家によって明確に意識されたのは、平安時代初期、美濃国の不破関、伊勢国の鈴鹿関と並び、都(畿内)を防衛する最重要拠点「三関(さんげん)」の一つに数えられたことである 2 。弘仁元年(810年)以前に、それまでの愛発関に代わって三関の一つとなり、天皇の代替わりや政変といった国家の非常時には固関使(こげんし)が派遣され、厳重に封鎖された 3 。これは、逢坂関が国家の安寧を左右する軍事的な門であり、その開閉が中央政権の権威と統制力を象徴するものであったことを示している。この「国家防衛の記憶」は、後世に至るまで逢坂関の性格を規定する最も根源的な要素となった。

平安時代の文化的象徴「歌枕」として

軍事的な緊張が常態でなくなると、逢坂関は新たな意味合いを帯び始める。平安京の東の玄関口として、都から東国へ旅立つ人々を見送り、帰京する人々を迎える場所となった逢坂関は、出会いと別れ、期待と哀愁が交錯する場として、人々の心象風景に深く刻み込まれていった。この情景は数多くの和歌に詠まれ、逢坂関は近江を代表する「歌枕」としての地位を確立する 2

盲目の琵琶法師であり歌人でもあった蝉丸が詠んだとされる「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という一首は、その象徴である 2 。また、『枕草子』で清少納言が藤原行成との贈答歌として詠んだ「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」という歌も、男女の駆け引きの舞台として逢坂関を描き出しており、この地が人々の文化的な想像力を掻き立てる特別な場所であったことを物語っている 4 。物理的な関所としての機能が形骸化していく中で、文化的な象徴としての逢坂関は、その存在感を一層強めていったのである。

中世の経済利権の源泉として

平安後期から中世にかけて、中央政権の統制力が弱まると、逢坂関は再びその性格を変容させる。交通の要衝という立地は、通行する人や物資から通行税(関銭)を徴収するのに絶好の場所であった。南北朝時代以降、この地の管理権は比叡山延暦寺や三井寺(園城寺)といった有力寺社、あるいは近江守護の佐々木氏などの手に渡り、彼らの重要な財源となった 3

この時代の関所は、古代のような国家防衛の拠点ではなく、純粋に経済的な利権の対象であった。各地の荘園領主や国人が私的に設置した「新関」が乱立し、物流を著しく阻害する要因ともなった 8 。逢坂関もまた、こうした中世的な権力構造と既得権益の象徴となり、その通行管理は、統一された国家の意思ではなく、地域の権力者の都合によって左右される状態にあった。

1603年の徳川家康による「再編」は、こうした逢坂関が持つ「①国家防衛の記憶」「②文化・詩情の象徴」「③既得権益の巣窟」という三重の性格を一度解体し、近世的な国家統治システムに適合する新たな意味合い、すなわち「④幕府による公道の管理拠点」として再定義する行為であった。それは単なるインフラ整備に留まらず、旧時代の権力構造を清算し、新たな支配の形をこの象徴的な地に刻み込むという、高度な政治的行為だったのである。

第一章:関所なき道 ― 織豊政権下の交通革命とその帰結

徳川家康による交通政策を理解する上で、その直前の時代、すなわち織田信長と豊臣秀吉が断行した交通秩序の抜本的な改革を避けて通ることはできない。彼らの政策は、中世以来の関所が持つ意味を根底から覆し、徳川幕府が新たな交通網を構築するための素地を整えた一方で、新たな課題をもたらした。1603年の「再編」が持つ歴史的意義は、この織豊政権の遺産をどのように継承し、あるいは乗り越えようとしたのかという視点から解明されなければならない。

信長の「関所撤廃」― 経済的・軍事的合理主義

戦国時代の日本列島には、有力大名から地域の国人、寺社勢力に至るまで、様々な主体が設置した関所が網の目のように存在し、それぞれが関銭を徴収していた。これは人や物の自由な移動を著しく妨げ、経済発展の大きな足かせとなっていた 9 。この状況を打破し、交通秩序に革命をもたらしたのが織田信長である。

信長は、領国を拡大するごとに、その地域内に存在する関所を徹底的に撤廃する政策を打ち出した 10 。永禄十一年(1568年)の上洛に際しては、美濃から京に至る道中の関所を廃止し、商人の自由な往来を保証した 12 。この政策の目的は二つあった。第一に、関銭を廃止して物流を円滑化し、商業活動を活性化させることである。これは、城下で実施した「楽市楽座令」と連動し、領国経済を振興させるための合理的な経済政策であった 13 。第二に、関所からの収入に依存していた地域の土豪や寺社勢力の経済基盤を破壊し、その力を削ぐことで、中央集権的な支配体制を確立することであった 9 。信長の関所撤廃は、単なる交通政策に留まらず、中世的な荘園制の残滓を解体し、統一された経済圏を創出するための、極めて戦略的な国家改造計画の一環だったのである。

秀吉による全国への展開

信長の政策は、その後継者である豊臣秀吉によって、さらに大規模かつ全国的な範囲で推し進められた。秀吉は天下統一事業を遂行する中で、天正十三年(1585年)ごろには諸国に対して関銭や港湾税(浦役)の徴収を禁じ、全国的な関所の撤廃を断行した 8 。これにより、戦国末期から安土桃山時代にかけて、日本国内では原理原則として自由な通行が保証される状況が生まれた。これは、中世以来数百年にわたって続いてきた交通の分断状態に終止符を打ち、日本規模での人流・物流の飛躍的な増大を促す画期的な変革であった 14

光と影―自由化がもたらした新たな課題

織豊政権による関所撤廃は、経済を活性化させ、天下統一を促進するという「光」の側面を持つ一方で、新たな「影」も生み出した。関所が担っていた機能は、関銭徴収という経済的なものだけではなかった。国境の関所は、敵対勢力の侵入を防ぐ軍事的な機能や、犯罪者の逃亡を阻止し、治安を維持する警察的な機能も有していた 8

これらの関所が撤廃されたことで、統一政権による人の流れの監視や統制は著しく困難になった。経済の自由化は、同時に統制の緩みを意味した。この「自由」な状態は、平時においては経済成長を促すが、一度政情が不安定になれば、敵対勢力の自由な移動や武器の密輸を許し、政権の安定を脅かす危険性をはらんでいた。関ヶ原の戦いを経て天下の支配者となった徳川家康にとって、この織豊政権が残した「自由だが統制の効かない交通網」をいかにして新たな支配体制に適合させるかは、喫緊の課題だったのである。

この課題に対するアプローチの違いは、織豊政権と徳川幕府の国家観の根本的な相違を浮き彫りにする。前者が経済の解放による国力増強を目指した「交通の自由化」であるとすれば、後者は政治的安定を最優先し、国家によるインフラの全面的な管理を目指した「交通の国家管理化」であった。1603年の逢坂関における一連の動きは、まさにこの統治思想の歴史的な転換点を象徴する事象であったと言える。

比較項目

織豊政権

徳川幕府

政策目的

経済振興、旧勢力の打破、中央集権化

治安維持、大名統制、江戸中心の支配体制確立

主な対象

領国内の私的な関所(寺社、国人等)

幕府が必要と認める全国の戦略的要衝

管理主体

統一政権(撤廃を命令)

幕府(設置権を独占)

経済への影響

市場活性化、物流の円滑化、商工業の発展

公用交通を優先、一部では民間の経済活動の停滞要因

軍事・警察的機能

意図的に低下させ、経済的自由を優先

再強化し専門化(例:「入鉄砲に出女」の監視)

第二章:天下泰平への布石 ― 慶長八年(1603年)、徳川家康の国家構想

慶長八年(1603年)は、日本の歴史における大きな分水嶺である。この年、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。これは単に新たな武家政権が誕生したことを意味するだけでなく、百年に及ぶ戦乱の時代が終わり、新たな秩序に基づく「天下泰平」の時代が始まることを告げる出来事であった。逢坂関で起こったとされる「管理再編」は、この新たな時代を築くための家康の壮大な国家構想の中に位置づけられる。

征夷大将軍就任と江戸幕府の開闢

慶長八年二月十二日、徳川家康は伏見城において征夷大将軍の宣下を受けた。これにより、関ヶ原の戦い以降、事実上の最高権力者であった家康は、名実ともに天下の支配者としての地位を確立した。この就任が持つ重要な意味は、それが豊臣政権のような個人的なカリスマに依存した支配ではなく、法と制度に基づく恒久的な統治体制の始まりを意図していたことにある 17 。家康は、武力による競争が繰り返される戦国の世に終止符を打ち、徳川家を頂点とする安定した社会秩序を構築することを目指した。江戸幕府の開闢は、そのための第一歩であった。

恒久支配体制の構築―幕藩体制の礎

家康の目標は、自身一代の支配に留まらず、徳川家による永続的な支配体制、すなわち「幕藩体制」を確立することにあった。そのために、将軍就任直後から、全国支配を実効的なものにするための様々な布石が打たれた。京都・伏見・大坂といった重要都市や、佐渡金山、石見銀山といった主要鉱山を幕府の直轄地(天領)とし、経済の根幹を掌握した 17

また、諸大名に対しては、江戸への参勤を促し、その力を江戸に集中させると同時に、監視下に置く体制を徐々に整えていった。後に「武家諸法度」として制度化される大名統制策の原型は、この時期に既に形成されつつあった 17 。これらの政策は全て、地方に割拠する大名の力を相対的に弱め、将軍を頂点とする中央集権的な支配構造を築き上げることを目的としていた。

交通網整備の戦略的重要性

この全国支配体制を盤石なものにする上で、家康が最も重視したのが、江戸を起点とする全国的な交通・通信網の整備であった。織豊政権下で関所が撤廃され、道は「自由」にはなったが、それは統一された規格や管理体制を欠く、いわば自然発生的な状態に近かった。家康は、これを国家のインフラとして再定義し、幕府の厳格な管理下に置くことを目指した 17

その目的は多岐にわたる。第一に、参勤交代(この時点ではまだ制度化されていないが、大名の江戸参府は常態化しつつあった)や軍役のために、大名を迅速かつ確実に江戸へ動員するため。第二に、幕府の命令を全国に迅速に伝達し、各地からの情報を正確に収集するための公用飛脚制度を確立するため 20 。第三に、天領から産出される年貢米や鉱物といった物資を、安全かつ効率的に江戸や大坂へ輸送するためである 19

これらの目的は、織豊政権が物流の活性化という経済的側面を重視したのとは対照的に、あくまで政治的・軍事的な統制を最優先するものであった。家康にとって、道は経済のための道である前に、天下を治めるための道であった。慶長八年という年は、この新たな国家構想が具体的に動き出し、逢坂関を含む全国の主要街道が、その壮大な計画の中に組み込まれていく、まさにその始点だったのである。

第三章:逢坂関・1603年のクロニクル ― 「管理再編」の時系列再構築

「逢坂関跡管理再編」という単一の事件を示す直接的な史料は現存しない。しかし、慶長八年(1603年)から九年(1604年)にかけての全国的な動向と、逢坂関が持つ戦略的重要性を踏まえれば、この地で何が起こったのかを蓋然性の高いシナリオとして時系列で再構築することは可能である。それは、徳川幕府という新たな中央政権が、その権威を確立し、国家インフラを掌握していくダイナミックな過程の一断面を浮き彫りにする。

時期

全国の動向

逢坂関周辺での推定される動き

慶長八年 春(2月~4月)

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開闢。

祝賀や挨拶のための諸大名の参府、幕府役人の往来が激増。東海道の交通量が爆発的に増加し、公用交通の円滑化が喫緊の課題となる。

慶長八年 夏~秋(5月~9月)

幕藩体制の基礎固め。主要都市・鉱山の直轄化推進。朱印船制度による対外交易の管理開始。

幕府より代官頭・大久保長安らに東海道筋の路線調査・実態把握が命じられる。逢坂関周辺が旧来の寺社勢力等の管理下にある実態が報告され、幕府による直接管理の方針が固まる。

慶長八年 冬(10月~12月)

全国支配のための制度設計が本格化。

幕府から旧権益者(三井寺等)に対し、管理権の返上または幕府の監督下に入ることを通達。大津宿に対し、公用交通に備えるための伝馬・人足の常備体制構築に関する内示が出される。

慶長九年 春(3月~)

幕府、全国の諸大名に対し、一里塚の設置を伴う全国的な道路改修事業を正式に命令(五街道整備の開始)。

全国事業の一環として、逢坂関周辺の本格的な整備工事が開始。道幅の拡張、路面の改良、測量などが実施され、大津宿の宿駅機能と一体化した新たな通行管理体制が施行される。

【慶長八年 春(2月~4月)】幕府始動と交通需要の爆発的増加

慶長八年二月、家康が征夷大将軍に就任すると、江戸は日本の新たな政治的中心地としての地位を確立した。この報は全国を駆け巡り、各地の譜代大名や外様大名たちは、祝賀の意を表し、新たな主君への忠誠を誓うため、こぞって江戸への参府を開始した。同時に、幕府の役人たちが、政務のために江戸と、依然として政治・経済の重要拠点であった京・大坂との間を頻繁に往来するようになった。

この結果、両者を結ぶ大動脈である東海道、とりわけ京への最後の難所である逢坂関周辺の交通量は、かつてないほどに増大した。しかし、当時の道はまだ戦国時代の名残をとどめ、管理も不十分であったため、急増した公用交通を円滑に処理することは困難を極めた。人馬の継立は滞り、情報の伝達にも遅れが生じたであろう。この状況は、全国支配を目指す新政権にとって看過できない問題であり、交通インフラの抜本的な改革が喫緊の課題として浮上した瞬間であった。

【慶長八年 夏~秋(5月~9月)】実態調査と権限の掌握

課題を認識した家康は、腹心の能吏を用いて具体的な行動を開始したと推測される。特に、鉱山開発や検地で優れた手腕を発揮した代官頭・大久保長安のような人物が、街道整備の奉行に任じられ、東海道筋の現地調査に着手した可能性は高い 21

調査団は、江戸から京に至る道の状態、宿場の機能、そして通行管理の実態を詳細に調べ上げた。その過程で、京の喉元に位置する逢坂関周辺が、依然として三井寺などの旧来の権益者の影響下にあり、幕府の意向とは無関係に管理されている実態が明らかになった。全国の道を幕府の直接管理下に置こうとする家康にとって、この象徴的な場所が旧勢力の手にあることは、支配体制の確立を妨げる障害であった。この調査報告を受け、幕府は東海道全域、特に逢坂関を含む重要地点の管理権を完全に掌握する方針を固め、旧権益者からその権限を移譲させるための準備に入った。これが「管理の再編」における、権力構造の転換を意味する第一段階であった。

【慶長八年 冬~慶長九年 春】新体制の具体化と全国整備事業への移行

権限掌握の方針が固まると、幕府は具体的な行動に移った。慶長八年の後半には、逢坂関周辺の旧権益者に対し、管理権を幕府に返上するよう、あるいは幕府の厳格な監督下に入るよう、強い圧力を伴う通達が出されたと考えられる。同時に、逢坂関の麓に位置し、東海道最大の宿場町であった大津宿 22 に対して、来るべき交通量の増大に備え、公用のための人馬を常に一定数確保しておく「伝馬役」の体制を整備するよう内示が与えられた。

そして慶長九年(1604年)、これらの準備期間を経て、幕府は全国的な道路改修事業と一里塚の設置を正式に命令する 23 。これは、江戸日本橋を起点とする五街道整備の本格的な始まりを告げるものであった 24 。この国家的なプロジェクトの一環として、逢坂関周辺の「再編」も最終段階に入った。

ここで行われたのは、単なる管理者の交代ではない。道幅を六間(約10.8メートル)に拡張し、路面を固め、牛馬の通行を妨げる石を取り除くといった物理的な整備 23 。そして、隣接する大津宿の宿駅機能と一体化させ、公用交通を最優先で継ぎ送るためのルールを策定するという制度的な整備である。これにより、逢坂関跡は独立した関所ではなく、東海道という長大な交通システムを円滑に機能させるための一つの「部品」として、新たな役割を与えられた。これこそが、ご依頼の「旧関跡の通行管理を再編・標準化」という事象の具体的な実態であったと考えられる。

第四章:「再編」の本質 ― 新時代の「関」と道の機能

慶長八年(1603年)前後に逢坂関跡で行われた「管理再編」は、単に管理者が交代したという表面的な変化に留まらない。それは、中世以来の「関」という概念そのものを、徳川幕府が目指す新たな国家体制に合わせて根本的に作り変えるプロセスであった。その本質を理解するためには、機能の変容、幕府の関所制度全体における位置づけ、そして隣接する大津宿との関係性という三つの側面から分析する必要がある。

「関所」から「交通管理拠点」へ―機能の変容

再編後の逢坂関跡が担った役割は、中世的な関銭徴収の場でもなければ、後に江戸幕府が箱根や新居に設置したような、厳格な軍事・警察目的の「関所」とも大きく異なっていた。箱根関などが「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まり、幕府に対する謀反の芽を摘むことを主目的としたのに対し 8 、この時期の逢坂関跡に求められた最も重要な機能は、通行人や物資を厳しく検閲することよりも、むしろ幕府の公用交通をいかに円滑に、滞りなく処理するかという点にあった。

具体的には、大津宿の問屋場と連携し、幕府役人や参勤交代の大名行列が通過する際に必要な人馬の数を確保し、次の宿場まで確実に継ぎ送るための手配を行うこと、そして街道そのものの維持管理を行うことが中心的な業務であったと考えられる。これは、通行を「遮断」し「監視」する旧来の関所のイメージとは対極にある。むしろ、交通の流れを「促進」し「管理」する、現代の高速道路の管理事務所や、鉄道の指令室に近い行政的な機能であった。この機能の変容は、徳川幕府が道を、支配のための効率的なツールとして捉えていたことの証左である。

幕府の関所制度における位置づけ―「関所」と「口留番所」

江戸幕府が全国に張り巡らせた交通監視網は、一枚岩ではなかった。箱根関に代表される、幕府が五街道などの主要幹線道路に直接設置した大規模で厳格な施設は「関所(せきしょ)」と呼ばれた 28 。一方で、諸藩が自領の境界や脇街道の要所に設置した、より小規模な検問施設は「口留番所(くちどめばんしょ)」と称された 29 。口留番所は、主として領内の産物が他領へ流出するのを防ぐ経済的な目的や、領内の治安維持を目的としており、関所破りに比べれば、その禁を破った際の罰も軽かったとされる 28

では、再編後の逢坂関跡はどちらに分類されるのか。結論から言えば、そのどちらにも厳密には当てはまらない、特殊な位置づけにあった。幕府の直接管理下にあり、東海道という最重要幹線に位置する点では「関所」に近い。しかし、その主機能が「入鉄砲に出女」のような厳格な警察的監視よりも、行政的な交通管理に特化していた点では、本来の関所の定義から外れる。これは、逢坂関が京の喉元という極めて重要な地点でありながら、すぐ麓に東海道五十三次最大の宿場町である大津宿を擁するという、他に類を見ない立地条件を反映した結果であった。幕府は、厳格な検問機能をこの地に置くのではなく、大津宿全体の宿駅機能と一体化させることで、より柔軟かつ効率的な管理体制を選択したのである。

大津宿との一体化―「点」から「面」への支配

この「再編」を理解する上で最も重要な鍵は、逢坂関跡の管理が、大津宿の機能と不可分の一体として構想されたことである。大津は、東海道の終着点であるだけでなく、北国海道との分岐点であり、さらに琵琶湖水運を通じて若狭や北陸からの物資が集まる一大港湾都市でもあった 22 。元禄時代には人口一万八千人を超えるほどの繁栄を見せていた 32

徳川幕府は、逢坂の坂道という「点」を単独で支配するのではなく、大津の宿場町、そして琵琶湖の港湾機能までを含む広域交通システム全体を「面」として捉え、その中枢機能を掌握しようとした。逢坂の通行管理は大津宿の問屋場が担い、大津に集積された物資と情報は、整備された東海道を通って江戸へと送られる。このように、陸路と水路の結節点を一体的に管理することで、幕府は京・大坂と東国を結ぶ人流・物流・情報流のすべてをその掌中に収めることができた。これは、単に点を押さえるだけの旧来の関所支配とは次元の異なる、より高度でシステム化された統治技術の現れであった。

この一連の変革は、多くの人々が抱く「徳川時代=関所の復活」という単純なイメージを覆すものである。逢坂関の事例が示すのは、中世的な関所の単純な再設置ではなく、宿駅制度と連動した、よりシステム化・官僚化された近代的な道路管理システムの萌芽であった。それは、封建領主が私的に利権を貪るための「関」から、中央集権国家が統治のために管理する「公道」へと、道そのものの概念が歴史的に転換したことを明確に示している。

結論:戦国の終焉と近世の黎明を告げた道標

本報告書で分析した「逢坂関跡管理再編(1603年)」は、特定の固有名詞を持つ単一の歴史的事件として記録されているわけではない。しかし、それは徳川幕府の開闢という時代の大きな転換点において、日本の交通秩序が根底から再構築されていく過程を象徴する、きわめて重要な一連の歴史的動態であった。

織田信長と豊臣秀吉は、中世的な関所を撤廃することで、経済の自由化と物流の活性化という革命を成し遂げた。彼らが目指したのは、規制を緩和し、経済のエネルギーを解放することで国力を増強する「交通の自由化」であった。しかし、その遺産は、統一政権による統制の緩みという、新たな支配者にとっては看過できない脆弱性を内包していた。

慶長八年(1603年)、徳川家康が創始した江戸幕府は、この織豊政権の遺産を継承しつつも、全く異なる国家ビジョンに基づき、その再編成に着手する。家康が目指したのは、二百六十年に及ぶ「天下泰平」という新たな秩序の構築であり、そのためには、自由で混沌とした交通網を、江戸を中心とする中央集権的で安定した統治システムの一部として制度化する必要があった。それは、経済効率よりも政治的・軍事的安定を最優先する、「交通の国家管理化」への歴史的転換であった。

この壮大な構想の下、逢坂関跡は新たな役割を与えられた。それはもはや、関銭を徴収する利権の場でも、都を固守する軍事拠点でもない。東海道という国家の大動脈を円滑に機能させ、幕府の意思を全国に迅速に伝達するための、システム化された「交通管理拠点」への変貌であった。大津宿の宿駅機能と一体化し、陸路と水路の結節点として幕府の厳格な管理下に置かれた逢坂関は、新たな時代の到来を象徴する存在となった。

したがって、「逢坂関跡管理再編」は、混沌としていた戦国の交通秩序に名実ともに終止符を打ち、近世という新たな社会の礎となる全国的な交通インフラを築き上げる、徳川幕府の力強い第一歩であったと言える。この地に刻まれた変革の痕跡は、まさに戦国の終焉と、長く続く平和な時代の黎明を告げる、歴史の道標なのである。

引用文献

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  28. 口留番所 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E7%95%99%E7%95%AA%E6%89%80
  29. 口留番所(くちどめばんしょ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A3%E7%95%99%E7%95%AA%E6%89%80-250699
  30. 八王子見て歩記/口留番所跡 https://utrblog.exblog.jp/30603360/
  31. No.53大津宿 -琵琶湖と歴史が交差する町 - Life&Tripふじえだ https://fujieda-life-trip.com/toukaidou-shukuba/otsu-juku/
  32. 大津百町|テーマ展示|常設展示室 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/event/jyousetsu/theme_3.html
  33. 3 大津市の歴史文化 https://www.city.otsu.lg.jp/material/files/group/67/rekibun_h_3.pdf