金毘羅大権現社領安堵(1601)
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戦国動乱の終焉と信仰の黎明:慶長六年「金毘羅大権現社領安堵」の時系列的・多角的分析
序章:象頭山の神仏 ― 戦国前夜の金毘羅大権現
古代信仰と神仏習合の複合的性格
讃岐国、象頭山(ぞうずさん)の中腹に鎮座する金毘羅大権現、後の金刀比羅宮は、その起源を古代の山岳信仰にまで遡ることができる 1 。主祭神として大物主神(おおものぬしのかみ)を祀り、古くは「琴平神社」と称されていた 2 。この地が海上交通の要衝である瀬戸内海を見渡す位置にあることから、航海の安全を司る神として古くから崇敬を集めていたと考えられる 4 。
平安時代後期に入ると、仏が神の姿を借りて現れるとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まり、琴平神社は「金毘羅大権現」と改称する 3 。金毘羅とは、仏法を守護する十二神将の一人、宮比羅(くびら)大将に由来するとされ、神道の神と仏教の尊格が融合した神仏習合の象徴的存在となった 4 。さらに、永万元年(1165年)、保元の乱に敗れて讃岐に配流された第75代崇徳天皇が崩御すると、その御霊が相殿に合祀された 1 。これにより、金毘羅大権現は、古代の神、仏教の守護神、そして怨霊信仰の対象ともなった崇徳上皇という、三つの異なる性格を併せ持つ、極めて重層的な信仰の対象へと変貌を遂げていった。
この神仏習合の体制は、真言宗の象頭山松尾寺が金毘羅大権現を伽藍の守護神として祀り、その別当寺院として金光院が祭祀を司るという形で具体化された 2 。当初、松尾寺の中心は本尊である十一面観音であったが、時代が下るにつれて金毘羅大権現への信仰が篤くなり、その威光は本尊を凌駕するほどの隆盛を見せるようになった 8 。
修験道の拠点としての金毘羅
中世末期、金毘羅大権現の発展に決定的な役割を果たしたのが修験道であった。山林を修行の場とし、独自の呪術や信仰体系を持つ修験者(山伏)たちが、この象頭山を拠点の一つとしたのである 6 。元亀4年(1573年)には、修験者であった金光院第三代別当・宥雅(ゆうが)によって金毘羅宝殿が建立された記録が残っており、この頃には修験者が金毘羅の運営の中核を担っていたことがわかる 6 。
修験道の影響は、金毘羅信仰の細部にまで色濃く浸透した。特に、金毘羅権現の眷属(けんぞく、神の使い)が天狗であるとする信仰は、修験道に由来するものである 1 。この天狗信仰は、後に江戸時代を通じて全国に広まる「金毘羅参り」において、参詣者が天狗の面を背負うという独特の習俗を生み出す源流となった 10 。
戦国時代において、金毘羅大権現は単なる静的な信仰の場ではなかった。別当の宥雅が在地領主であった長尾氏の弟であったという事実が示すように 6 、宗教勢力と地域の武家権力が一体化し、自律的な領域を形成していた。修験者は全国的なネットワークを持ち、時には大名の密使や情報収集役を担うなど、軍事的・政治的にも重要な存在であった 12 。しかし、この在地領主との協力関係に依存した体制は、より強大な外部勢力の侵攻に対しては極めて脆弱であった。金毘羅大権現が間もなく直面することになる戦国の荒波は、その脆弱性を白日の下に晒し、存亡の危機へと追い込むことになる。
第一章:戦火と断絶 ― 長宗我部元親の侵攻と金毘羅の受難(天正6年~天正13年頃)
讃岐侵攻と金毘羅の荒廃
天正6年(1578年)頃、土佐の長宗我部元親による四国統一の戦いが讃岐国に及んだ 6 。当時、讃岐では三好氏の勢力が衰退しており、元親はその政治的空白を突く形で支配域を拡大していた 14 。この長きにわたる戦乱の過程で、象頭山の金毘羅大権現は壊滅的な被害を受ける。天正6年から天正12年(1584年)にかけての兵火により、多くの堂宇が焼失し、境内は甚だしく荒廃した 6 。
この破壊は、金毘羅大権現が単に戦火に巻き込まれたというだけでなく、明確な政治的理由を持っていた。当時の金毘羅は、在地領主である長尾氏の強い影響下にあり、別当の宥雅自身が長尾氏の一族であった 6 。長尾氏は元親と敵対関係にあったため、金毘羅大権現もまた元親軍の攻撃対象と見なされたのである。戦国の世において、宗教施設が特定の武家勢力と結びつくことは、その庇護を受けると同時に、敵対勢力からの攻撃を受けるリスクを負うことを意味していた。
指導者層の断絶と交代劇
長宗我部軍の侵攻が迫る中、天正7年(1579年)、別当宥雅は金毘羅の正統な後継者としての地位を放棄せざるを得なくなる。彼は一山の宝物や貴重な記録文書を携え、戦火を逃れて和泉国堺へと亡命した 6 。これにより、古くから続いてきた金毘羅の指導者層の系譜は、ここに断絶することとなった。
讃岐を支配下に置いた長宗我部元親は、金毘羅(松尾寺)の持つ宗教的権威と影響力を無視できなかった。彼は宥雅に代わる新たな統治者として、自らの配下であった土佐出身の修験者・宥厳(ゆうごん)を院主に据えた 8 。元親は宥厳を通じて金毘羅を間接的に支配し、天正12年(1584年)には二天門(現在の賢木門)を寄進するなど、自らの権威を示すための復興事業も行った 8 。この宥厳の弟子であり、同じく土佐の修験者で元親の家来であった人物こそが、後の金毘羅中興の祖、宥盛(ゆうせい)である 6 。
しかし、天正13年(1585年)に豊臣秀吉による四国平定が行われ、長宗我部氏の勢力は讃岐から一掃される。その後、宥厳は元親によって土佐へ呼び戻され、慶長5年(1600年)にその弟子である宥盛が金光院院主の地位を継承した 8 。
興味深いのは、後の金刀比羅宮の公式な歴史において、宥盛が「中興の祖」として篤く祀られる一方で、その師である宥厳と、その最大の庇護者であった長宗我部元親の功績が、ほぼ完全に抹消されている点である 8 。これは、江戸時代に入り徳川の治世が確立する中で、関ヶ原の戦いで敗者となった「逆賊」長宗我部氏との関係を歴史から消し去り、新たな支配者である生駒氏や徳川幕府との関係を正当化するための、意図的な歴史の再編纂であったと考えられる。戦国期の寺社の荒廃を全て長宗我部氏の侵略のせいにするという風潮が、この歴史解釈を後押しした 8 。宥盛自身、自らの出自を巧みに乗り越え、新たな時代の支配者に対して金毘羅再興の旗手として自身を位置づけることに成功したのである。慶長6年の社領安堵は、この宥盛の華麗なる「転身」が、新たな権力者によって公的に承認された瞬間でもあった。
第二章:天下分け目と讃岐の新支配者(慶長5年)
長宗我部家の没落
慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。長宗我部元親の跡を継いだ四男・盛親は、豊臣恩顧の大名として西軍に与した 15 。しかし、布陣した南宮山の麓では、西軍諸将の足並みの乱れや東軍の牽制により、実際の戦闘に参加することなく敗戦を迎えるという不運に見舞われた 17 。
戦後、盛親は徳川家康に謝罪の意を示すべく動いたが、帰国直後に家臣たちが起こした浦戸一揆の責任を問われるなど、戦後処理の不手際が致命的となる 17 。結果として、家康は盛親の土佐一国22万石の所領を全て没収し、改易を命じた 16 。これにより、戦国時代に四国を席巻した長宗我部氏の支配は、完全に終焉を迎えた。かつて金毘羅大権現を庇護下に置いた権力は、歴史の舞台から姿を消したのである。
生駒氏の台頭と讃岐統治
長宗我部氏に代わり、讃岐国の新たな支配者として確固たる地位を築いたのが生駒氏であった。生駒親正は、織田信長の家臣であったが、後に羽柴秀吉の与力となり、天正15年(1587年)の秀吉による四国平定後、その功績を認められて讃岐一国17万石余を与えられた 20 。親正は高松に新たな城を築き(高松城)、城下町を整備するなど、近世讃岐の礎を築いた 22 。
関ヶ原の戦いにおいて、生駒氏は戦国武将特有の巧みな生存戦略を展開した。父である親正は、豊臣家への旧恩から西軍に付き、大坂城の守備に就いた。一方で、嫡男の一正は徳川家康率いる東軍に参陣し、本戦で武功を挙げたのである 21 。この「両天秤」戦略により、東軍が勝利を収めた後も、生駒家は一正の功績が評価され、所領を安堵されたばかりか、1万5千石の加増を受けるという最良の結果を手にした 24 。
こうして、関ヶ原の戦いを経て讃岐国の支配を盤石にした生駒氏にとって、最優先の課題は領国経営の安定化であった。彼らは美濃出身の外様大名であり、讃岐の在地勢力との結びつきは元々希薄であった。長年にわたる戦乱で疲弊した領民の人心を掌握し、旧支配者である長宗我部氏の影響力を払拭するためには、強力な政策が求められた。その中で、地域の精神的支柱であり、特に海上交通を担う塩飽水軍などから広範な信仰を集めていた金毘羅大権現の保護と復興は、極めて有効な政治的手段であった。生駒氏の寺社政策は、単なる宗教的敬虔さから発せられたものではなく、新たな領国支配を円滑に進めるための、高度な政治的判断に基づいていた。慶長6年の社領安堵は、その象徴的な一手として、まさに時宜を得たものであったと言える。
第三章:慶長六年の決断 ― 金毘羅大権現社領安堵のリアルタイム分析(1601年)
慶長6年(1601年)の政治状況
慶長6年(1601年)は、関ヶ原の戦いの熱狂が冷め、徳川家康による新たな天下統一事業が本格的に始動した年である。全国各地で戦後処理としての論功行賞や改易が進み、大名配置が大きく再編される中、日本全体が新たな秩序の形成期にあった。
讃岐国においても、この年は大きな転換期であった。領主である生駒家では、当主の親正が76歳で隠居し、関ヶ原で武功を挙げた嫡男の一正に家督を譲った 22 。この世代交代は、豊臣政権下の大名から徳川政権下の大名へと、生駒家が名実ともに移行したことを象徴する出来事であった。社領安堵は、この新当主・一正の治世の初期に行われた、領国経営における重要な政策の一つと位置づけられる。
宥盛の働きかけと生駒氏の決断
一方、金毘羅大権現では、前年に院主となった宥盛が、荒廃した境内の再興を悲願としていた。長宗我部氏という旧来の後ろ盾を失った宥盛にとって、新たな領主である生駒氏の公的な承認と経済的支援を取り付けることは、再興事業に不可欠な第一歩であった。彼は、自らの長宗我部氏との過去を清算し、新たな支配体制へ恭順の意を示すことで、生駒氏との関係構築に努めたと推察される。
生駒氏側にとっても、宥盛の申し出は渡りに船であった。宥盛を金毘羅復興の責任者として公認することは、旧長宗我部勢力に連なる宗教者を自らの統治体制に円滑に組み込むことを意味した。また、宥盛が持つ修験者のネットワークは、信仰の普及のみならず、領内の情報収集や民衆把握の観点からも利用価値が見込まれたであろう 12 。こうして、金毘羅の再興を願う宥盛の宗教的情熱と、領国支配の安定化を目指す生駒氏の政治的思惑が一致し、「社領安堵」という形で結実したのである。
「社領安堵」の多角的意義
慶長6年に行われた「社領安堵」は、単に土地の所有権を認めるという以上の、複合的な意義を持っていた。
- 経済的意義: 長年の戦乱で完全に失われていた金毘羅大権現の経済的基盤を回復させる、決定的な一歩であった。これにより、堂宇の本格的な再建や、途絶えていた祭祀の維持が可能となった。この時に安堵された具体的な社領の石高に関する直接的な史料は現存しないものの、これが後の慶安元年(1648年)に徳川幕府から与えられる330石の朱印地の礎となったことは疑いない 9 。
- 政治的意義: 生駒氏が讃岐国の新たな支配者として、地域の最高位の宗教的権威を公的に保護し、自らの支配下に置くことを内外に宣言する行為であった。これは、豊臣秀吉の太閤検地以降、全国の寺社が一度その所領を没収され、新たな天下人や大名による再認定(安堵や寄進)によってのみ存続が許されるという、近世的な寺社支配のあり方を踏襲するものであった 28 。
- 宗教的意義: 戦乱によって地に堕ちていた金毘羅の神威と権威を、新たな領主の公的な承認によって復活させる、極めて象徴的な出来事であった。これにより、宥盛は金毘羅復興事業に着手するための正統性と大義名分を得た。
この「安堵」は、既存の権利を認め保証するという意味合いを持つ一方で、生駒氏という新たな世俗権力が、金毘羅大権現を自らの支配構造の中に正式に位置づける「承認」行為であり、同時に寺社に対する「支配」の始まりでもあった。これは、中世における寺社の自律的なあり方から、近世の幕藩体制下における国家の統制下へと移行する、時代の大きな転換点を示す典型的な事例である。慶長6年の安堵は、金毘羅が戦国の混乱から救済された瞬間であると同時に、近世的な国家の秩序に組み込まれていく第一歩であったと評価できる。
表1:金毘羅大権現を巡る主要年表(1573年~1648年)
西暦(和暦) |
讃岐・四国の政治情勢 |
金毘羅大権現の動向 |
主要人物 |
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1573(元亀4) |
- |
金光院別当・宥雅により金毘羅宝殿が建立される 6 。 |
宥雅 |
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1578(天正6) |
長宗我部元親、讃岐への侵攻を開始 6 。 |
兵火により堂宇が荒廃し始める 6 。 |
長宗我部元親、宥雅 |
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1579(天正7) |
- |
別当・宥雅が宝物を持って堺へ亡命する 9 。 |
宥雅 |
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1584(天正12) |
- |
元親の寄進により二天門(現・賢木門)が建立される 8 。元親配下の宥厳が院主となる。 |
長宗我部元親、宥厳 |
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1587(天正15) |
豊臣秀吉が四国を平定。生駒親正が讃岐国主に任じられる 30 。 |
- |
豊臣秀吉、生駒親正 |
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1600(慶長5) |
関ヶ原の戦い。西軍に付いた長宗我部氏が改易 16 。生駒氏は東軍の功により所領安堵・加増 24 。 |
宥厳の弟子・宥盛が金光院院主となる 8 。 |
徳川家康、長宗我部盛親、生駒親正・一正、宥盛 |
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1601(慶長6) |
生駒親正が隠居し、一正が家督を相続する 25 。 |
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新領主・生駒氏より社領を安堵される。 |
生駒親正・一正、宥盛 |
1611-13(慶長16-18) |
- |
宥盛による本格的な復興事業が進められる 6 。 |
宥盛 |
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1642(寛永19) |
生駒騒動により生駒氏が改易。松平頼重が高松藩主として入封 30 。 |
- |
松平頼重 |
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1648(慶安元) |
- |
徳川家光より社領330石の朱印状を受け、幕府公認の朱印地となる 9 。 |
徳川家光、松平頼重、宥典 |
第四章:復興から隆盛へ ― 近世的金毘羅信仰の確立
宥盛による復興と信仰の再構築
慶長6年の社領安堵によって経済的基盤と政治的正統性を得た宥盛は、金毘羅大権現の本格的な復興に着手する。彼の指導のもと、慶長18年(1613年)頃までには荒廃した御堂の再建が進められた 6 。宥盛の功績は絶大であり、彼は後世「金毘羅信仰の中興の祖」として崇められることになる。その神格化は、死の間際に「永く当山を守護せん」と言い残して天狗と化したという伝説にまで昇華された 31 。現在、奥社に「厳魂彦命(いずたまひこのみこと)」として祀られているのが、この宥盛である 8 。
宥盛の活動は、単に堂宇の再建に留まらなかった。彼は四国内の徳島や松山に金毘羅権現を勧請したのを皮切りに、遠く東北地方にまで足を運び、金毘羅信仰を積極的に広めたと伝えられている 8 。この精力的な布教活動が、戦国時代の混乱で讃岐の一地方神に過ぎなくなっていた金毘羅を、全国的な信仰対象へと押し上げる礎となった。
公的権威による後ろ盾の強化
生駒氏による保護政策は、寛永17年(1640年)の生駒騒動による改易の後、新たに入封した高松藩主・松平頼重(水戸徳川家・徳川頼房の長男)にも引き継がれた 30 。頼重は金毘羅への崇敬が篤く、境内諸堂の建築や修復に多大な寄進を行った 9 。現在も境内に残る大門は、頼重によって寄進されたものである 36 。
そして、金毘羅の地位を決定的にしたのは、幕府による公的な権威付けであった。松平頼重は幕府に働きかけ、慶安元年(1648年)、三代将軍・徳川家光から社領330石を認める朱印状が下賜された 9 。これにより金毘羅大権現は幕府直轄の保護を受ける「朱印地」となり、その経済的基盤と社会的地位は盤石なものとなった。この朱印状による安堵は、将軍の代替わりごとに更新され、明治維新まで続くことになる。
全国へ広がる信仰ネットワーク
近世社会が安定期に入ると、金毘羅信仰は驚異的な速度で全国の民衆へと浸透していく。
- 金毘羅講と金毘羅参り: 庶民にとって旅が制限されていた江戸時代においても、社寺への参詣は例外的に許されていた 39 。中でも伊勢神宮への「お伊勢参り」と並び、讃岐の「こんぴらさん」への参詣は庶民の一生に一度の憧れとなった 35 。しかし、その旅費は莫大であったため、村や町単位で資金を積み立て、代表者が代参する「金毘羅講」という互助組織が全国各地で結成された 1 。飼い主の代わりに参詣する「こんぴら狗(いぬ)」や、海に流された樽を拾った者が代参する「流し樽」といったユニークな風習も生まれた 1 。
- 海上交通との結びつき: 金毘羅が「海の神様」として広く信仰された背景には、塩飽(しわく)水軍の存在が大きい 1 。瀬戸内海の制海権を握っていた彼らは金毘羅権現を深く信仰し、その航海活動を通じて全国の寄港地で金毘羅信仰を広める重要な役割を担った 1 。
- 門前町と港の発展: 全国からの参詣者の増加に伴い、その玄関口となる丸亀港や多度津港は、大坂をはじめとする各地からの参詣船で賑わった 43 。象頭山の麓には広大な門前町が形成され、旅籠や土産物屋が軒を連ね、全国屈指の歓楽地として発展した 37 。信仰が経済を活性化させ、経済の発展がさらに信仰を広めるという好循環が、近世における金毘羅隆盛の原動力となったのである。
終章:戦国の終焉が生んだ「こんぴらさん」
慶長六年社領安堵の歴史的再評価
慶長6年(1601年)の「金毘羅大権現社領安堵」は、単なる一寺社に対する土地所有権の確認行為に留まるものではない。本報告書で詳述したように、それは戦国時代の動乱によって破壊され、指導者層の系譜すら断絶した金毘羅の旧体制に終止符を打ち、徳川の天下という新たな政治秩序のもとで、新たな指導者(宥盛)と新たな庇護者(生駒氏)による再生を公的に宣言した、画期的な出来事であった。
この事変の本質は、戦国の混乱を生き延び、自らの出自さえも乗り越えて新たな時代の波に巧みに乗った修験者・宥盛の宗教的・政治的力量と、新領主として領国支配の安定化を渇望した生駒氏の戦略的判断とが、絶妙なタイミングで交差した点にある。
戦国から近世への転換点として
この安堵は、戦国時代的な武力による寺社の破壊と支配から、近世的な法と秩序による寺社の保護と統制へと移行する、時代の大きな転換点を象徴している。安堵によって金毘羅は経済的基盤を取り戻したが、同時にそれは世俗権力である大名の支配下に組み込まれることを意味した。中世的な自律性を失う代償として、近世的な安定と繁栄の礎を築いたのである。この構造は、後の松平氏による庇護、そして徳川幕府による朱印地化によってさらに強化され、金毘羅は幕藩体制下の巨大宗教機関として確立していく。
民衆信仰の黎明
この政治的安定を礎として、金毘羅大権現は近世を通じて、武士や豪商だけでなく、全国の庶民に至るまで、広範な階層から信仰を集める「こんぴらさん」として、飛躍的な発展を遂げることになる。海上安全、五穀豊穣、商売繁盛といった現世利益を願う人々の祈りが、象頭山へと絶え間なく寄せられた。その壮大な民衆信仰の黎明を告げる一筋の光こそが、まさしく慶長6年、戦国の闇がようやく明けようとする中で行われた、この社領安堵であったと結論づけることができる。
引用文献
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- 由緒 - 金刀比羅宮 https://www.konpira.or.jp/articles/20200814_history/article.htm
- 平成三十年 大海原の神 金毘羅大権現 - 青森魚類株式会社 https://www.aogyorui.co.jp/exhibition/%E5%B9%B3%E6%88%90%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E6%B5%B7%E5%8E%9F%E3%81%AE%E7%A5%9E-%E9%87%91%E6%AF%98%E7%BE%85%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE/
- 金毘羅様(こんぴらさん)の姿と伝承|ご利益・神社 - 日本の神様|種類と一覧 https://xn--u9ju32nb2az79btea.asia/shinto4/shrine18.html
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- 金刀比羅宮・奥社 - 偲フ花 https://omouhana.com/2021/10/12/%E9%87%91%E5%88%80%E6%AF%94%E7%BE%85%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%A5%A5%E7%A4%BE/
- こんぴらさん - 香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット https://www.my-kagawa.jp/blog/blog-20220304
- 金刀比羅宮――過去から現代へ - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55459038532.htm
- 金刀比羅宮|金刀比羅宮|金刀比羅宮|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット https://www.my-kagawa.jp/konpira/feature/kotohiragu/guide1
- 近世における讃岐金毘羅門前町の研究 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/223197728.pdf
- 金丸座(旧金毘羅大芝居)と琴平町のまちづくり - 神戸女学院大学機関リポジトリ https://kobe-c.repo.nii.ac.jp/record/5323/files/201612_177-06.pdf
- 金刀比羅宮|金刀比羅宮|金刀比羅宮|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット https://www.my-kagawa.jp/konpira/feature/kotohiragu/about
- 江戸時代から庶民の憧れの地「金刀比羅宮」/香川県琴平町 - NIHONMONO https://nihonmono.jp/article/13815/
- 金毘羅大権現 https://www.mmdb.net/yamagata-net/usr/nishikawa1/nisikawasekihisekibutusiryou/pageo/A0838.html
- 金毘羅街道 - 丸亀市公式ホームページ https://www.city.marugame.lg.jp/page/3064.html
- 江戸期における一般庶民の丸亀から室津までの渡海方法について - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000057342
- 多度津 | 金毘羅参詣の上陸港 四国の鉄道起点 舟運陸運拠点の町 - まちあるきの考古学 http://www3.koutaro.name/machi/tadotsu.htm
- こんぴら今昔、そして未来へ - 全国町村会 https://www.zck.or.jp/site/essay/5899.html