最終更新日 2025-09-27

金沢城三御門整備(1592)

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文禄元年の攻防:金沢城三御門整備の深層分析 – 激動の時代における前田家の戦略的布石

序章:文禄元年の前夜 – 金沢城と前田家の台頭

文禄元年(1592年)に敢行された金沢城の大規模な整備、とりわけその防衛の要となる三御門の建設は、単なる城郭の増改築に留まるものではない。それは、豊臣政権下で最大級の外様大名へと成長した前田家が、激動の時代の渦中で自らの存続と繁栄を賭して打った、極めて戦略的な布石であった。この歴史的事業の真髄を理解するためには、まずその前史、すなわち金沢城の来歴と、前田利家が如何にしてその地位を築き上げたかを紐解く必要がある。

加賀一向一揆の拠点から織田家の城へ

金沢城が位置する小立野台地の先端は、前田家の居城となる以前、約一世紀にわたり加賀国を支配した一向一揆の拠点、金沢御堂(尾山御坊)が置かれた場所であった 1 。天文15年(1546年)に創建されたこの寺院は、信仰の砦であると同時に、強固な防御施設を備えた政治・軍事の中心地であり、織田信長の天下統一事業にとって大きな障壁となっていた。天正8年(1580年)、信長の命を受けた重臣・柴田勝家は、激しい攻防の末にこの金沢御堂を陥落させ、加賀支配の楔として甥の佐久間盛政を城主とした 1 。盛政は、一向一揆の記憶が色濃く残るこの地に、全く新しい支配の象徴として城郭の建設に着手する。これが金沢城の濫觴である 3 。盛政は在城期間こそ短かったものの、後の城下町の原型となる尾山八町の整備や、城の防御線を画する百間堀の開削など、城郭の基本的な縄張りの基礎を築いた 2

前田利家の入城と初期の領国経営

歴史の転換点となったのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。柴田勝方に与した佐久間盛政が敗死すると、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は長年の盟友であった前田利家に加賀二郡を加増し、能登から金沢城へと本拠を移させた 2 。この配置は、利家個人の功績に報いるだけでなく、北陸地方における反秀吉勢力の鎮撫と、越後の上杉景勝への牽制という、秀吉の天下統一戦略における極めて重要な意味を持っていた 6

金沢城主となった利家は、直ちに城郭の大規模な改修と城下町の整備に着手する 5 。一説には、金箔瓦を用いた壮麗な天守を築いたとも伝えられ、これは後の「加賀百万石」の威容を予感させるものであった 5 。しかし、豊臣政権の重鎮としての利家の活動拠点は、あくまで京・大坂であった。秀吉の側近として政権中枢の運営に深く関与したため、金沢に腰を据えることは稀であり、領国は常に「留守」の状態にあったと言える 4 。この統治形態は、必然的に嫡男である利長をはじめとする家臣団に、領国経営の大きな裁量権を与えることになり、後の文禄元年の大事業において、利長がその全権を担う素地を形成したのである。

1592年への胎動 – 近代城郭への脱皮の必要性

九州征伐(1587年)、小田原征伐(1590年)を経て、秀吉による天下統一事業が完成に近づくと、全国の大名は新たな時代への対応を迫られた。もはや戦乱の世は終わり、大名間の私闘は許されない。その一方で、自らの領国を安泰にし、豊臣政権下での序列と威信を内外に示す必要があった。佐久間盛政が築いた当初の金沢城は、あくまで一向一揆の砦を改修したものであり、北陸道に睨みを利かせ、百万石に迫る大大名の本拠地としては、その規模、機能、そして威容の全てにおいて不十分であった。

この時期、全国の主要な城郭では、土塁を中心とした中世的な構造から、高石垣を多用し、複雑な虎口(城門)や天守を備えた「近世城郭」への大転換が進んでいた。金沢城の大改修は、この時代の必然的な潮流の中に位置づけられる。それは単なる物理的な増改築ではなく、この土地に刻まれた記憶を新たな支配者の物語で上書きする、象徴的な意味合いを強く帯びていた。一向一揆の「聖地」であった記憶を、壮大な石垣と堅固な城門によって完全に封じ込め、この地が紛れもなく「前田家の城下」であることを万人に宣言する、政治的・文化的デモンストレーションだったのである。高く積まれた石垣の一つひとつが、前田家の支配の永続性を謳う、無言の声明であったと言えよう。

第一章:激動の1592年 – 文禄の役と天下の動静

文禄元年の金沢城整備を理解する上で決定的に重要なのは、この事業が、日本全体を揺るがした未曾有の対外戦争、すなわち「文禄の役」の勃発と完全に同時進行であったという事実である。この特異な状況は、金沢城の改修が単なる一地方大名の内政問題ではなく、豊臣政権が推進する国家戦略と、それに伴う国内の緊張状態に深く根差したものであったことを示している。

豊臣秀吉の号令 – 朝鮮出兵の発令

天正19年(1591年)、国内の統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その膨大な軍事力を海外へと向け、明の征服を最終目標とする大陸侵攻計画を具体化させた 7 。その第一歩として、朝鮮に対して明への道を拓くよう要求するも拒絶されると、秀吉は武力による侵攻を決断する 7 。明けて天正20年(1592年)、年号がまだ改元される前の1月には、全国の諸大名に対して動員令が発せられ、総勢25万とも言われる大軍が九州北部の肥前名護屋に集結を開始した 8 。3月13日には朝鮮へ渡海する軍団の編成が正式に発令され、4月には小西行長率いる第一軍が対馬から釜山へと上陸、戦端が開かれた 7 。これは、日本の歴史上、前例のない規模の海外派兵であり、各大名はその国力を問われる総力戦体制へと突入した。

前田利家の役割 – 出兵と中央政権の重鎮として

前田利家は、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家(後に小早川隆景が加わる)らと共に豊臣政権の最高意思決定機関である「五大老」の一角を占める、名実ともに政権の重鎮であった 6 。秀吉とは織田信長配下時代からの旧友であり、その信頼は絶大であった 10 。この国家的大事業において、利家が重要な役割を担うのは当然のことであった。

文禄元年(1592年)3月16日、利家は8,000の兵を率いて諸将に先駆け京都を出立し、名護屋へと向かった 11 。彼は名護屋に在陣し、渡海こそしなかったものの、後詰の部隊として、また秀吉の軍議に加わる最高顧問として、戦争指導の中枢に位置した。特に、当初は自ら朝鮮へ渡る意思を固めていた秀吉に対し、徳川家康と共にその無謀を説き、思いとどまらせたことは、利家の政権内における影響力の大きさを示す逸話である 11 。利家という大黒柱が長期間にわたり領国を離れることは、残された加賀・能登・越中の統治体制に大きな変化をもたらすことを意味した。

国内の緊張 – 「空の巣」となった諸大名の領国

西国を中心とする多くの大名が、当主自ら主力部隊を率いて朝鮮半島や名護屋へ赴く中、その領国は事実上の「空の巣」状態となった。これは、領国経営における深刻なリスクを内包していた。一向一揆の記憶も生々しい加賀のような国では、支配者の不在が新たな反乱の火種となりかねない。また、諸大名間の潜在的な対立関係が完全に消滅したわけではなかった。例えば、徳川家康は「関東の統治に専念する」との名目で、最小限の派兵で済ませており、その勢力を温存していた 12 。このような状況下で、万が一にも国内で不測の事態が発生した場合、留守中の領国は極めて脆弱な状態に置かれることになる。

したがって、当主の出陣と並行して、留守を守る本拠地の城郭を徹底的に強化することは、豊臣大名にとって最優先の課題であった。それは、豊臣政権への軍役という「公儀」への奉仕と、自家の領国と家臣団を守るという「私儀」の保全を両立させるための、必然的な行動であった。1592年の金沢城改修は、まさにこの文脈の中で理解されなければならない。それは、「外征への貢献」と「内なる防衛」という、二正面作戦を同時に遂行しようとする前田家の高度な戦略的判断の表れであった。秀吉への忠誠を8,000の派兵という形で示しつつ、その遠征がもたらす国内のパワーバランスの揺らぎというリスクに対しては、金沢城の石垣を高く積み上げることで備える。これは、戦国の世を生き抜いてきた大名ならではの、極めて現実的な危機管理であったと言えるだろう。

第二章:留守を預かる利長 – 金沢城大改修のリアルタイム・シークエンス

父・利家が国家レベルの戦略に関与し、名護屋の陣中にその身を置く一方、本国・金沢では嫡男の前田利長が未曾有の大事業の指揮を執っていた。1592年という一年間、朝鮮半島、名護屋、そして金沢という三つの舞台で繰り広げられた出来事を時系列で追うことで、金沢城の改修がいかに緊迫した状況下で、かつ迅速に進められたかが明らかになる。

父から子への指令 – 文禄元年の大事業開始

文禄元年(1592年)、名護屋に到着した利家は、金沢にいる利長に対し、金沢城の大規模な石垣普請を命じた 13 。これが、一連の改修工事の号砲となる。この時、利長は31歳。既に父の代理として領国経営の実務に深く関わってはいたが、本拠地の根幹に関わるこれほどの大事業を全面的に委任されることは、彼にとって統治者としての能力を内外に示す絶好の機会であり、事実上の権力移譲の始まりを告げるものであった 14 。父は外征において豊臣家への忠誠を示し、子は内政において前田家の基盤を固める。この役割分担こそ、前田家がこの国難を乗り切るための基本戦略であった。

城郭の根幹をなす普請 – 石垣と堀の造成

利長がまず着手したのは、城の防御力を根底から覆す、土木工事であった。記録によれば、この年に高石垣の築造と百間堀の造成が行われたとされている 2 。これは、佐久間盛政時代までの土塁を主とした城郭から、石垣を駆使する「近世城郭」へと金沢城が質的な変貌を遂げた決定的な瞬間であった 5 。現在、城内に残る石垣の中で最古とされる東の丸東面の石垣は、この文禄元年の普請によるものと考えられている 2 。約8キロメートル離れた戸室山から切り出された石材を運び込み、高度な技術を持つ石工集団を動員して巨大な石垣を組み上げる作業は、前田家が領内を完全に掌握し、その人的・物的資源を意のままに動員できることを示す、実力行使の場でもあった 14

防衛の要衝 – 三御門整備の位置づけ

城全体の防御基盤が石垣と堀によって強化される中で、次に焦点となったのが、城の中枢部への侵入経路をいかに防ぐかという問題であった。その答えが、城の主要な入口である三つの門を、当時の最新技術を結集した堅固な防御施設として再構築すること、すなわち「三御門整備」である。

三御門とは、城の実質的な正門として機能した「河北門」、搦手(裏門)にあたる「石川門」、そして藩主の政庁兼住居である二の丸御殿への最終関門となる「橋爪門」の総称である 1 。これらの門を、単なる通路ではなく、敵を袋小路に追い込み殲滅するための戦闘空間である「枡形門」形式で整備することは、金沢城の防御思想を新たな段階へと引き上げるものであった 22 。石垣と堀という「線」の防御、そして三御門という「点」の防御が有機的に結合することで、金沢城は難攻不落の要塞へと生まれ変わろうとしていたのである。

以下の対照表は、1592年という激動の一年において、天下の動静と金沢城での整備が、いかに密接に連動しながら進行したかを示している。

時期(1592年)

天下の動静(秀吉・中央政権)

朝鮮半島の戦況(文禄の役)

前田家の動向(利家・利長)

1月

肥前名護屋に諸大名が集結開始 8

-

利家、出陣準備。利長、金沢で留守居。

3月

秀吉、京都を出陣 8 。朝鮮出兵の陣立てを発令 8

-

3月16日、利家が8,000の兵を率い京を出陣、名護屋へ 11

4月

秀吉、名護屋に到着 8

4月12日、小西行長らの第一軍が釜山に上陸、戦闘開始 7

利家、名護屋にて軍議に参加。利長に対し金沢城改修を命令か 13

5月~6月

秀吉、名護屋にて采配を振るう。

日本軍が破竹の進撃。漢城(ソウル)を陥落させる 24

利家、家康と共に秀吉の渡海を諫止 11 。利長、金沢城にて石垣・堀普請に着手 3

7月

秀吉の母・大政所が危篤となり、秀吉は急遽帰京 11

李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍の補給路を脅かし始める 25

利家、名護屋にて秀吉の留守を預かる。利長、三御門を含む城郭の本格整備を推進。

8月以降

秀吉、大坂・京に戻るも、引き続き朝鮮出兵を指揮。

戦線が膠着し始める。明の援軍が本格的に介入 25

利家、中央政権の重鎮として政務に関与。利長、改修工事を継続。

12月

12月8日、「文禄」に改元 8

平壌などで激戦が続く。

利家、引き続き在京・在名護屋。利長、冬期も可能な範囲で普請を継続か。

この表が示すように、朝鮮半島で戦火が拡大し、秀吉が名護屋で采配を振るっているまさにその時、金沢では利長が来るべき国内の不測の事態に備え、槌音を響かせていたのである。このリアルタイムの連動性こそ、1592年の金沢城整備の本質を物語っている。

第三章:三御門の構造と戦略的意図 – 威信と防備の融合

文禄元年の大改修において中核をなした三御門の整備は、前田家が志向した「威信と防備の両立」という思想を具現化したものであった。ここでは、その具体的な構造と、そこに込められた戦略的な意図を深く分析する。三つの門はそれぞれ異なる役割と格式を与えられ、城全体の防衛システムの中で有機的に機能するよう、緻密に設計されていた。

戦国末期の城門技術 – 枡形門の圧倒的優位性

三御門に共通して採用された「枡形門」は、戦国末期から江戸初期にかけての城郭建築において、最も先進的かつ効果的な城門形式であった 22 。その構造は、城外に面した一の門(多くは高麗門形式)と、城内に面した二の門(堅固な櫓門形式)を直角、あるいはL字型に配置し、その間を石垣や多聞櫓で囲んで方形の閉鎖空間(枡形)を作り出すものである 22

この構造がもたらす防御上の利点は絶大であった。攻撃側は、まず一の門を突破しなければならないが、仮に突破に成功しても、その先にあるのは狭い枡形空間である。ここに突入した敵兵は、正面の二の門に阻まれ、さらに周囲の石垣や櫓の上から、鉄砲や弓矢による十字砲火を浴びることになる。敵の突進の勢いを削ぎ、混乱に陥れ、防御側が一方的に攻撃できる状況を作り出す、まさに「キルゾーン(殺戮空間)」であった。この枡形門を主要な入口に設置することは、城の防御力を飛躍的に向上させるための定石となっていた。

三御門の格付けと役割分担

金沢城の三御門は、単に三つの入口というわけではなく、それぞれに明確な格付けと役割が与えられていた。

  • 河北門 : 新丸から三の丸へと入る、城の実質的な正門(大手門)であった 1 。城を訪れる使者や諸大名が最初に目にする「顔」であり、前田家の威光を示すため、最も壮麗な意匠が求められた。防御機能はもちろんのこと、その威容によって見る者を圧倒する象徴的な役割を担っていた。
  • 石川門 : 城の南東、現在の兼六園側からの入口であり、搦手門(裏門)としての性格を持っていた 21 。大手門に攻撃が集中している隙に、裏手から奇襲をかけられることを防ぐための重要な防衛拠点である。そのため、華やかさよりも実戦的な堅牢さが重視されたと考えられる。
  • 橋爪門 : 三の丸から、藩主の公邸であり政務の中枢である二の丸御殿へと至る最後の関門であった 19 。城内で最も格式が高く、警備も最も厳重な門であり、万が一にも敵の侵入を許してはならない最終防衛線であった。そのため、枡形の規模や付随する櫓の構造も、他の二門を凌駕するものであったと推測される 22

1592年当時の姿の推定

現在見ることができる石川門(重要文化財)や、平成期に復元された河北門、橋爪門は、いずれも江戸時代中期以降の火災で焼失した後に再建された姿である 19 。したがって、文禄元年に建設された当初の門がそのまま残っているわけではない。しかし、発掘調査によって後年の遺構の下からさらに古い時代の石垣などが確認されており 17 、門の基本的な配置や枡形門という形式そのものは、この1592年の大整備によって確立されたと考えるのが妥当である。

当時の門は、おそらく現在のものよりもさらに武骨で、戦闘を意識した構造であった可能性が高い。例えば、復元された河北門の二の門に見られるように、門扉や柱、梁に厚い鉄板を鋲で打ち付けるといった防御性を高める装飾 26 や、戦時には武器庫ともなり、また延焼を防ぐ効果もあるとされる鉛瓦の使用 26 などは、戦国の気風が色濃く残るこの時代から採用されていたと考えられる。

見せるための城 – 百万石の威光

一方で、これらの堅固な門は、単なる軍事施設に留まらなかった。高くそびえる石垣、複雑に入り組んだ枡形、そして重厚な櫓門の姿は、それ自体が前田家の圧倒的な財力と、高度な技術者集団を動員できる強大な権威の象徴であった。利家が天守に金箔瓦を用いたという逸話 5 が象徴するように、この時代の城は「戦うための砦」であると同時に、領民や他の大名に「見せるための舞台装置」でもあった。三御門の整備は、金沢を訪れる全ての者に対し、前田家の威光を視覚的に訴えかけ、その支配の正当性と永続性を知らしめる、強力な政治的メッセージだったのである。

比較項目

河北門(Kahoku-mon)

石川門(Ishikawa-mon)

橋爪門(Hashizume-mon)

位置づけ

三の丸 正門 1

三の丸 搦手門(裏門) 21

二の丸 正門 19

主要機能

城外から三の丸への主たる入口。城の「顔」としての役割。

兼六園方面からの出入口。搦め手の防衛拠点。

城の中枢である二の丸御殿への最終関門。最重要防衛線。

格式

高い(城の実質的な正門)

中程度

最高(城内で最も格式高い門) 19

想定される構造(1592年当時)

櫓門と高麗門による枡形門形式。威容を重視した意匠。

櫓門と高麗門による枡形門形式。防御を重視した堅牢な造り。

最大規模の枡形と、三重櫓(後の橋爪門続櫓)に繋がる構造か 22

戦略的意味

前田家の威光を内外に示す象徴的な門。

城の弱点となりうる背面を固める、実戦的な門。

藩主の身辺を守る最後の砦。侵入を絶対に許さないための門。

第四章:築城術の巨匠、高山右近の影

文禄元年の金沢城大改修を語る上で、避けては通れない人物がいる。キリシタン大名として知られ、また当代随一の築城家、茶人でもあった高山右近である。彼の関与は、金沢城の技術的先進性を説明する鍵であると同時に、明確な一次史料の欠如から、今なお歴史の謎として議論の対象となっている。

客将・高山右近 – なぜ彼は加賀にいたのか

高山右近は、摂津高槻城主などを務めた有力な大名であったが、その篤実なキリスト教信仰が、天下人・豊臣秀吉の政策と衝突する。天正15年(1587年)、秀吉が発令したバテレン追放令に対し、右近は信仰を捨てることを拒否し、領地と大名の地位を全て没収された 27 。追放の身となった右近に救いの手を差し伸べたのが、旧知の仲であった前田利家である。利家は、秀吉の不興を買うリスクを承知の上で右近とその一族を庇護し、1万5千石とも言われる破格の待遇で客将として加賀に迎え入れた 1 。これは、利家の情の厚さを示すものであると同時に、彼が右近の持つ卓越した文化的・技術的才能、とりわけ茶の湯と築城術を高く評価し、自らの領国経営に活かしたいという、極めて合理的な判断があったことの証左である 28

右近の築城術と金沢城への影響

高山右近は、独創的な縄張り(城の設計)を行う築城の名手として、その名を轟かせていた 29 。彼が手掛けたとされる城は、従来の定石に囚われることなく、地形を巧みに利用し、極めて合理的で防御機能の高い設計がなされているのが特徴である。金沢城においても、利家入城後の本格的な城づくり、特に新丸や大手門の整備は右近の指導によるものと広く伝えられている 31 。文禄元年の大改修、とりわけ三御門のような複雑な防御施設の設計において、彼の先進的な築城思想が反映された可能性は極めて高い。枡形門の巧妙な配置や、城全体の防御線を考慮した縄張りには、右近の知見が生かされていたと考えるのが自然であろう。

「右近縄張り説」の検証 – 伝説と史実の狭間

しかしながら、「高山右近縄張り説」には大きな壁が立ちはだかる。それは、右近が金沢城の設計に直接関与したことを明確に示す、同時代の一次史料(書状や公的記録など)が、現在のところ一点も確認されていないという事実である 33 。後世の編纂物や伝承にはその名が頻繁に登場するものの、確たる証拠がないため、彼の関与はあくまで伝説の域を出ないとする見方も根強く存在する。

この史料の不在は、一体何を意味するのか。一つには、単純に関与の事実がなかった、あるいは非常に限定的であったという可能性。しかし、もう一つの可能性として、彼の関与が「公式記録に残すことができなかった」、あるいは「意図的に残されなかった」という解釈も成り立つ。この謎を解く鍵は、当時の前田家と豊臣秀吉との間の、緊張感をはらんだ政治的関係にある。

右近は、秀吉の命令に背き、天下人から睨まれた「お尋ね者」であった。前田利家が彼を庇護していること自体が、秀吉の逆鱗に触れかねない、薄氷を踏むような行為であった。そのような状況下で、前田家の本拠地であり、豊臣政権下における軍事拠点ともなる金沢城の改修という国家的事業に、右近が公式の責任者として関与したという記録を残すことは、秀吉に対するあからさまな挑発行為と受け取られかねない。

したがって、最も蓋然性の高いシナリオは、利家や利長が「非公式の技術顧問」として右近に助言を求め、その先進的なアイデアを、前田家お抱えの奉行や工兵集団に実行させたというものであろう。実際の普請は前田家の家臣が指揮を執り、公式な記録上の功績は全て前田家のものとする。一方で、その背後では右近が黒子として、その卓越した築城術を存分に振るう。これにより、前田家は最先端の技術を導入して城を強化するという実利を得つつ、秀吉に対する政治的リスクを最小限に抑えることができる。高山右近の影は、史料の行間にこそ、最も色濃く浮かび上がってくるのかもしれない。

結論:百万石の礎 – 金沢城三御門整備が持つ歴史的意義

文禄元年(1592年)に行われた金沢城三御門の整備は、単なる一過性の築城事業ではなかった。それは、戦国乱世の終焉と豊臣政権の確立、そして文禄の役という未曾有の国難という、時代の大きな転換点において、前田家が自らの未来を切り拓くために打った、多層的な意味を持つ戦略的事業であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約することができる。

危機管理の結晶

第一に、この事業は前田家の優れた危機管理意識の表れであった。豊臣秀吉による朝鮮出兵は、諸大名に「外征への貢献」という絶対的な義務を課した。利家は8,000の兵を率いて名護屋に赴くことで、この義務を忠実に果たした。しかし同時に、当主と主力部隊の長期不在は、「内なる危機」を誘発する可能性を秘めていた。金沢城の徹底的な防備強化、とりわけ三御門の整備は、この国内の潜在的な不安定化という脅威に正面から向き合うための、具体的な備えであった。外に忠誠を示しつつ、内に備えを固めるという二正面戦略は、戦国の世を生き抜いた大名ならではの、現実的かつ高度な統治術の結晶であった。

次世代への権力委譲と継承儀式

第二に、この大事業は、前田家の次世代への権力委譲を内外に示す、壮大な継承儀式としての側面を持っていた。利家が、本拠地の根幹をなす城郭改修の全権を嫡男・利長に一任したことは、単なる実務上の分担を超えた、明確な政治的意図があった 14 。利長はこの重責を見事に果たし、巨大な土木工事を完遂することで、次期当主としての統治能力とリーダーシップを家臣団および他家に証明した。この成功体験は、利長の自信を深めさせ、利家の死後、徳川家康との困難な政治交渉を乗り越え、加賀藩の安泰を確保する上での大きな礎となった。

加賀百万石の物理的・象徴的基盤

そして最後に、文禄元年の大改修によって、金沢城は名実ともに大大名の本拠地にふさわしい、堅固な要塞かつ壮麗な殿堂へと昇華した。高くそびえる石垣、複雑に防御線を構成する三御門、そして威容を誇る天守や櫓群。これらが一体となった金沢城の存在そのものが、後の江戸時代を通じて前田家が「加賀百万石」としての威勢を保ち、徳川幕府とも対等に近い関係を維持するための、物理的かつ象徴的な支柱となり続けた。

結論として、1592年の金沢城三御門整備は、単に三つの門が建設されたという事実以上に、豊臣政権下における前田家の生存戦略、次世代への円滑な権力継承、そして未来にわたる藩の永続的な繁栄を確立するための「礎石」を置く、画期的な事業であったと評価することができる。今日、我々が目にする金沢城の威容の原点は、まさしくこの激動の一年に築かれたのである。

引用文献

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  2. 金沢城 - - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-445.html
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  5. 金沢城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-kanazawa-castle/
  6. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
  7. 文禄・慶長の役|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=495
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  9. 利長の窮地 - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_1.html
  10. 前田利家 戦国がたり!徳川家康殿との関係性と戦国時代について語る! https://san-tatsu.jp/articles/218343/
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  12. 第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp38.html
  13. 金沢城の歴史的経緯|金沢城公園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/history.html
  14. 古城万華鏡Ⅳ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_16.html
  15. 金沢城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/03/
  16. 【石川県】金沢城の歴史 加賀百万石のシンボルとして名高い、日本百名城のひとつ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/790
  17. 金沢城史料叢書 8 - 金沢城跡埋蔵文化財確認調査報告書 I https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/53/53998/37565_1_%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8I.pdf
  18. 金沢城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/hokuriku/kanazawa/kanazawa.html
  19. 橋爪門|金沢城公園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/hashizume-gate/
  20. 石川門、河北門、橋爪門は金沢城を守った三御門 | 金沢を観光してみたいかも https://kanazawa-tourism.net/kanazawa-castle/3gate/
  21. 石川門と石川櫓 | 金沢城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/53/memo/540.html
  22. 金沢城の三御門 年表 https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/035kanazawa/panf03.pdf
  23. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  24. 朝鮮出兵|宇土市公式ウェブサイト https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/32.html
  25. www.y-history.net https://www.y-history.net/appendix/wh0801-111.html#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E3%81%AF%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7,%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%82%81%E8%8B%A6%E6%88%A6%E3%80%81%E4%B8%80%E6%97%A6%E8%AC%9B%E5%92%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  26. 河北門|金沢城公園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
  27. 高山右近を訪ねて | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ https://www.takatsuki-kankou.org/takayama-ukon/
  28. 高山右近:加賀藩に仕えたキリシタン大名の足跡をたどる|特集 - 金沢旅物語 https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/article/detail_544.html
  29. 高岡城と高山右近 - 古城万華鏡Ⅰ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou/kojyou1.html
  30. (高山右近と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/17/
  31. 金沢城公園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/
  32. 加賀藩 客将 高山右近ゆかりの地をめぐる - 金沢旅物語 https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/feature/kagahan-yukari/article/kakushou_01.html
  33. 高岡城の縄張は高山右近が行ったのか? https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/takaoka/6.htm