最終更新日 2025-09-20

金沢城大火(1602)

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慶長七年 金沢城大火の真相:加賀百万石、徳川の天下に揺らぐ

序章:天下人の視線と百万石の巨城

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が事実上の天下人として君臨し、日本は新たな秩序形成の時代へと突入した。この激動の時代において、最もその動向が注視された大名が、加賀百万石の領主、前田利長であった。父・利家から家督を継いだ利長は、加賀・能登・越中の三国を領し、外様大名としては最大規模となる120万石の所領を誇っていた 1 。その圧倒的な国力は、成立まもない徳川政権にとって、潜在的な脅威と映らざるを得なかった。

事実、関ヶ原の戦いの前後から、徳川家と前田家の間には極度の緊張が走っていた。家康は利長に謀反の嫌疑をかけ、加賀征伐の軍を起こす寸前にまで至った。この危機に対し、利長は母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送るという苦渋の決断を下し、辛うじて征伐を回避した経緯がある 2 。この一件は、外様筆頭たる前田家が、常に徳川家の厳しい監視下に置かれているという冷徹な現実を物語っていた。

この政治的文脈において、前田家の居城である金沢城、とりわけその天守は、特別な意味を持っていた。父・利家の代から利長へと引き継がれ、改修が重ねられた金沢城は、単なる軍事拠点ではなく、前田家の武威と経済力を天下に示す象徴であった 4 。記録によれば、天守は天正14年から15年(1586-1587年)頃に創建されたとされ、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城に連なる、豊臣政権下の大名城郭の威容を誇っていたと推察される 6 。しかし、時代が徳川へと移り変わる中で、その壮麗な天守の存在自体が、旧時代の権威の象徴として、新たな天下人の猜疑の視線を集めることとなる。慶長七年(1602年)に発生した金沢城の大火は、このような極度の政治的緊張下で起きた、単なる自然災害に留まらない「政治的事件」としての側面を色濃く帯びていたのである。

第一章:災禍の刻 ― 慶長七年十月三十日

運命の日、金沢城下の情景

慶長七年十月三十日(西暦1602年12月12日)、その日の金沢城下は、稲荷社の「宇賀祭り」の宵宮で賑わいを見せていたとされる 7 。収穫への感謝と来年の豊穣を祈る祭りの灯りが町を照らし、人々の間には平穏な日常が流れていた。北陸の冬の訪れを間近に控えたこの日、城下に暮らす誰もが、この後に城を襲う未曾有の大惨事を予測することはできなかった。

第一報:天守への落雷と炎上

夜が更け、天候は急変する。激しい風雨と共に雷鳴が轟き、稲光が闇を切り裂いた。そして、その一筋が、金沢城本丸に聳え立つ天守を直撃したのである 4 。瞬く間に、城の最上部から黒煙と炎が噴き上がった。木造建築の塊である天守は、格好の燃料となり、火の手は瞬く間に全体を包み込んだ。夜空を焦がす巨大な火柱と化した天守の姿は、城下のどこからでも望むことができたであろう。当時の消火技術は未熟であり、城内に配備されていたであろう竜吐水(りゅうどすい)などの簡易的な消防用具では、天守のような巨大建築物の火災を食い止めることは不可能に近かった 10 。城内の武士たちはなすすべもなく、燃え盛る自らの権威の象徴を見上げるしかなかった。

破局への連鎖:延焼と大爆発

災禍は天守の焼失だけに留まらなかった。折からの強風に煽られ、炎は隣接する大台所、そして藩主・利長の居住空間であった本丸御殿(当時の呼称で「御新宅」)へと容赦なく燃え広がっていった 11 。城の中枢機能が、刻一刻と灰燼に帰していく。そして、金沢城の悲劇を決定的なものにする、城郭史上でも稀に見る二次災害が発生する。本丸の一角に備蓄されていた、鉄砲の弾薬庫(丸薬蔵)に火の粉が引火したのである 10

次の瞬間、城全体を揺るがす轟音と共に、凄まじい大爆発が起こった。この爆発の威力は、単なる火災の被害を遥かに凌駕するものであった。爆風は周辺の建物を吹き飛ばし、堅固な石垣をも崩落させ、城内にいた人々に甚大な被害をもたらした。事件から約百年後の記録である『三壺記(さんこき)』には、その惨状を生々しく伝える一節が残されている。爆発によって「弾き飛ばされた人間が三階建ての櫓の屋根の上にくの字に折り重なるように引っかかっていた」というのである 11 。この記述は、爆発がもたらした破壊の凄まじさと、多くの人命が失われたであろう地獄絵図を我々に伝えている。

一夜明けた金沢城:惨状と混乱

長い夜が明け、立ち上る煙が薄らいだ後に現れたのは、信じがたい光景であった。加賀百万石の権威の象徴であった天守は跡形もなく焼け落ち、黒い残骸を晒していた。藩主の住まいであった本丸御殿も全焼し、爆心地となった弾薬庫周辺は、櫓や塀が木っ端微塵に破壊され、石垣は無残に崩れ落ちていた。藩主・前田利長と家臣団が直面したであろう絶望と混乱は、察するに余りある。

この大火と爆発による死傷者の正確な数は、残念ながら詳細な記録が残されていない 13 。しかし、城の中枢部で発生した大規模な爆発であったことを考えれば、相当数の藩士や関係者が犠牲になったと推測される。この火災は、単に建物を焼失させただけでなく、爆発という二次災害を伴うことで、金沢城の軍事拠点および政治拠点としての機能を、一夜にして完全に破壊したのである。この機能不全は、常に徳川家の監視の目に晒されていた前田家にとって、計り知れない対外的な脆弱性を生む結果となった。

年月日 (西暦)

出来事

主要関連人物

典拠史料・意義

慶長4年 (1599)

前田利家死去、利長が家督相続。

前田利家、前田利長

徳川家康による加賀征伐の遠因となる。

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い。利長は東軍に与する。

前田利長、徳川家康

戦後、120万石の大大名となるも、徳川の警戒は続く。

慶長7年10月30日 (1602.12.12)

金沢城天守に落雷。本丸御殿、弾薬庫に延焼し大爆発。

前田利長

『三壺記』等。城の中枢機能が壊滅。

慶長7年11月15日 (1602.12.27)

徳川秀忠が結城秀康からの報告を受け、書状を送付。

徳川秀忠、結城秀康

『徳川秀忠書状』。徳川の監視網の実在を示す一級史料。

慶長7年12月 (1603.1)

戸室中山村に石垣普請に関する高札が掲示される。

前田利長

『加賀藩史料』等。迅速な復興事業の開始を示す。

慶長10年 (1605)

前田利長、家督を利常に譲り隠居。

前田利長、前田利常

大火後の政治的判断を経て、次代への継承が行われる。

(時期不詳)

天守は再建されず、代わりに御三階櫓が建造される。

前田利長、高山右近

幕府への恭順と大名の威信を両立させる苦心の策。

第二章:静かなる衝撃 ― 幕府への報告と監視の網

金沢城大火がもたらした衝撃は、物理的な破壊だけに留まらなかった。水面下では、この事件を巡る情報が驚くべき速さで駆け巡り、前田家を更なる政治的苦境へと追い込んでいた。その実態を明らかにするのが、近年、徳川美術館の再調査によってその真価が解明された一通の書状である 11

この書状は、慶長七年十一月十五日付で、時の将軍・徳川秀忠が、実兄であり隣国越前の領主であった結城秀康(官職から「越前宰相」と称された)に宛てて送ったものである 11 。その文面には、次のような趣旨が記されていた。「金沢に雷火があったことについて、早々に報告をいただき、かつ飛脚をもって知らせてくれたことは、念の入ったことであり、大変うれしく思う」 11

この短い一文は、近世初期の政治史を読み解く上で、極めて重要な三つの事実を我々に示している。第一に、情報の伝達速度である。火災が発生したのは十月三十日。秀忠が江戸でこの書状を認めたのが十一月十五日。つまり、金沢での大火の情報は、わずか半月という、当時の通信事情を考えれば驚異的な速さで、江戸の幕府中枢にまで達していたのである。

第二に、そして最も重要なのが、その情報の伝達経路である。秀忠が謝意を示している相手は、火災の当事者である前田利長ではない。隣国を治める、徳川家の親族大名である結城秀康なのだ 11 。これは、前田家の一大事が、当事者からの公式な報告よりも先に、隣国大名からの「密告」に近い形で幕府に伝わっていたことを意味する。

第三に、この書状の存在自体が、徳川幕府が構築しつつあった巧妙な全国支配システムの動かぬ証拠となる。幕府は、加賀前田家のような巨大な外様大名の周辺に、結城秀康のような親藩や譜代の大名を意図的に配置し、彼らを監視役および情報提供者として機能させる、緻密な情報ネットワークを張り巡らせていた。この一件は、慶長七年という早い段階で、その監視網が既に有効に機能していたことを如実に示している。

自領内の城が焼け落ちたという一大事が、自分たちよりも先に幕府に知られていた。この事実を前田利長が知ったとすれば、その衝撃は計り知れない。それは、自らの一挙手一投足が常に「天下人の視線」に晒されているという、逃れようのない現実を突きつけられることに他ならなかった。徳川の天下が、単なる軍事力によってではなく、高度な情報戦によっても支えられていたことを、この大火は期せずして暴き出したのである。

第三章:苦渋の決断 ― 天守なき城への道

一夜にして城の中枢を失った前田家にとって、復興は喫緊の課題であった。特に、大爆発によって崩落した石垣の修復は、金沢城の防御機能を回復させる上で最優先事項であった。その迅速な対応を示す史料が残されている。火災発生からわずか2ヶ月後の慶長七年十二月、加賀藩は城の石垣に用いられる戸室石の産地、戸室中山村に高札を掲げた。これは、石材の確保を領民に厳命し、大規模な普請事業を開始するための布告であり、藩の行政機能が速やかに災害復旧へと動員されたことを示している 12

しかし、物理的な復旧作業以上に、利長を悩ませたのは、より高度な政治的判断を要する問題であった。それは、焼失した城の象徴、天守を再建するか否かという選択である。結論から言えば、利長は天守を再建するという道を選ばなかった 8 。以後、金沢城に天守が築かれることはなかった。

この決断の背景には、もちろん莫大な費用を要するという財政的な問題もあったであろう。だが、それ以上に大きな要因は、徳川幕府に対する政治的な配慮であったと考えられている 3 。天守は、戦国時代においては大名の独立性と武威を象徴する建造物であった。徳川の天下が定まろうとするこの時期に、外様筆頭の前田家が壮麗な天守を再建することは、幕府の猜疑心を再び煽りかねない、極めて危険な行為と映る可能性があった。特に、火災の一件が隣国経由で幕府中枢に筒抜けであったという事実を鑑みれば、利長がこれまで以上に慎重な判断を下さざるを得なかったことは想像に難くない 11

天守の再建を断念する一方で、加賀百万石の権威を全く損なうわけにもいかない。このジレンマの中で、前田家が下した絶妙な決断が、「御三階櫓(ごさんがいやぐら)」の建造であった 4 。本丸の天守跡に建てられたこの建物は、呼称こそ「櫓」であるが、実質的には天守の代わりを務める、壮麗な三層構造の建築物であった 21 。この選択は、「天守は持たない」という形で幕府への恭順の意を示しつつも、天守に匹敵する威容を持つ建物を築くことで、大大名としての体面と権威を保とうとする、前田家の高度な政治的バランス感覚の表れであった 21

なお、この大火後の金沢城の修築には、築城の名手としても知られたキリシタン大名、高山右近が深く関与したと伝えられている 23 。天守の代わりとして建てられた御三階櫓の設計にも、右近の知識や技術が生かされた可能性が指摘されている 24 。天守の非再建と御三階櫓の建造という一連の決断は、前田家がもはや武力で天下を窺う「戦国大名」ではなく、幕藩体制という新たな秩序の中で、その地位を安堵されることを目指す「近世大名」へと、自己変革を遂げたことを示す象徴的な出来事であった。建築様式の変更は、そのまま政治姿勢の変更を可視化したものだったのである。

終章:大火が刻んだ加賀藩の針路

慶長七年の大火と、それに続く天守の非再建という決断は、その後の加賀藩と金沢城のあり方を大きく規定することになった。城の象徴であった天守を失ったことで、金沢城の機能的中心は、軍事的な拠点であった本丸から、藩主の居館であり政務や儀礼の場である二の丸御殿へと明確に移行していった 18 。これは、加賀藩の統治理念が、戦国的な「武」の支配から、近世的な「文」の支配へと重心を移していく過程と軌を一にするものであった。

この後、加賀藩は強大な武力を背景に持ちつつも、学問や文化、工芸を積極的に奨励する「文化の藩」としての側面を強めていく。大火による天守の喪失は、結果的にその歴史的な転換を促す一つの契機となったと見ることもできよう。

幕府との関係においても、この事件は重要な意味を持った。天守を再建しないという恭順の姿勢は、徳川家の警戒心を和らげ、その後の前田家の安泰に大きく寄与した。利長が母を人質に出してまで回避しようとした加賀征伐の危機は、この大火を巡る慎重な対応を経て、過去のものとなっていった。一つの不幸な災害が、逆説的にも前田家の長期的な存続と繁栄の礎の一つとなったのである。

また、この大火は、後の金沢の都市づくりにも影響を与えた。慶長の大火、そして寛永八年(1631年)に城下を襲った更なる大火の教訓から、金沢では防火対策が重視されるようになる。特に、寛永の大火後に掘削された辰巳用水は、城下への生活用水供給のみならず、城内の堀に水を引くことで、防火用水としての重要な役割も担うことになった 14 。災害の教訓が、都市インフラの整備へと結実したのである。

結論として、慶長七年の金沢城大火は、単なる一城郭の災害史に留まるものではない。それは、徳川による新たな天下秩序が確立していく過程で、最大の外様大名がいかにしてその巨大な力を「無害化」し、新時代に適応していったかを示す、政治史・建築史・社会史の交差点に位置する極めて重要な事件であった。夜空を焦がした天守の炎は、戦国の時代の終焉を告げ、近世という新たな時代の到来を告げる、象徴的な狼煙だったのである。

引用文献

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  2. 前田利長 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/maeda-toshinaga/
  3. 金沢城で城郭建築の美を感じる!~謎多き加賀百万石の居城~ (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14396/?pg=2
  4. 金沢城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E
  5. 金沢城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/03/
  6. 金沢城の建造物について教えてください - 石川県 https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/qa-kj0.html
  7. 天守閣落雷 - 古城万華鏡Ⅳ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_6.html
  8. 金沢城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-kanazawa-castle/
  9. 歴史について | 金沢城と兼六園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/history.html
  10. 金沢の火事とカロ賀鳶反! https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/kaji.pdf
  11. 【155】徳川秀忠書状 越前宰相(結城秀康)宛 金沢城が落雷で大 ... http://tokugawa-shiro.com/1530
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  13. 現在までに語り継がれる『災害』について https://www.fdma.go.jp/publication/database/item/database009_01_01.pdf
  14. 金沢史上最大の大惨事「愛をも焼きつくした」宝暦の大火!ブラタモリでは金沢はどう守られたか?だったが「守りきれなかった金沢」を紹介します! - ビューティーホクリク https://beauty-hokuriku.com/p/houreki-no-taika
  15. 文献の調査(21年度) - 石川県 https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/bun21-1.html
  16. 作品詳細 | 徳川秀忠書状 越前宰相(結城秀康)宛 (慶長七年)霜月十五日 | イメージアーカイブ https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM47364
  17. 金沢城シンポジウム「近世城郭 金沢城の成立-本丸御殿の時代-」 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/61/61577/122072_1_%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC19%E5%8F%B7.pdf
  18. 兼六園の歴史と見どころ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/79138/
  19. 【ホームメイト】兼六園と金沢城 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/274/
  20. 金沢城公園 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/
  21. 理文先生のお城がっこう 城歩き編 第63回 櫓⑤ 天守代用の櫓2 - 城びと https://shirobito.jp/article/1840
  22. 金沢城の統一デザイン - 古城万華鏡Ⅳ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_7.html
  23. 金沢城 高山右近が修築した城 - Laudate | キリシタンゆかりの地をたずねて https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20140818_kanazawajo.php
  24. 激動の時代のキリシタン、高山右近と金沢|maki.Kanazawa - note https://note.com/makiko03112002/n/n6f64e8e4a776
  25. 藩政期・金沢城下の大火 - 吉村外喜雄のなんだかんだ https://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2010/04/post_134.html