最終更新日 2025-09-19

金沢城石垣整備(1592)

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文禄元年(1592)金沢城石垣整備の多角的分析:戦時下における領国経営と政治的意図

序章: 1592年、動乱の刻

文禄元年(1592年)は、日本の歴史において類例のない特異な年である。1590年の小田原征伐と奥州仕置によって、豊臣秀吉はついに戦国乱世に終止符を打ち、名実ともに天下を統一した 1 。しかし、その平和は束の間のものであった。秀吉の野心は国内に留まらず、海を越えて明を征服するという壮大な「唐入り」構想へと向かったのである 3 。この空前絶後の計画は、文禄の役(朝鮮出兵)として現実のものとなり、日本全土を巻き込む国家総力戦の様相を呈し始めた 3

この国家的な動乱の渦中にあって、豊臣政権の中枢を担う一人の大名が、自らの本拠地で巨大な土木事業に着手した。加賀・能登・越中を領有し、五大老の一人として重きをなした前田利家である 1 。秀吉とは織田信長配下時代からの旧知の仲であり、政権内では徳川家康に次ぐ実力者と目されていた利家は 2 、この国家事業において極めて重要な役割を期待されていた。

本報告書の中心的な問いは、まさにこの点にある。なぜ、国家の命運を賭した大規模な外征が開始されたまさにその年に、前田家は本拠地である金沢城で、これまた大規模な石垣普請を断行したのか。これは単なる留守中の防衛力強化策だったのか、それともその背後には、より高度で複雑な政治的・戦略的意図が隠されていたのか。本報告書は、この問いを解明するため、1592年という時間軸の中で並行して進む二つの事象―朝鮮半島での戦争と加賀国での城普請―をリアルタイムで再現し、その相互関係を多角的に分析するものである。

第一章: 緊迫の前夜 ― 文禄の役と前田家の動員

文禄の役の開戦は、豊臣政権下の大名たちに未曾有の緊張と動員を強いた。特に政権の重鎮である前田利家にとって、その動向は天下の耳目を集めるものであった。

肥前名護屋城への大動員

文禄元年(1592年)正月、秀吉から全国の大名に動員令が発せられると、総勢25万ともいわれる大軍が九州北西の果て、肥前国名護屋に集結した 7 。この地には、大陸侵攻のためだけに出兵拠点として巨大な名護屋城が築かれ、その周囲には諸大名が陣屋を構えた 8 。全国から大名が集う様は、さながら戦国の世の縮図であり、秀吉の権力が日本全土に及んでいることを天下に示す一大デモンストレーションでもあった。

前田利家の出陣と名護屋在陣

前田利家もまた、この国家的な号令に応じて軍勢を率い、文禄元年4月中旬には名護屋に到着し、陣を構えた 10 。利家の陣跡は、名護屋城の諸大名の陣屋の中でも最大級の規模を誇り、その約10万平方メートルという広さは、彼の石高と豊臣政権内での序列を雄弁に物語っている 10

利家は、徳川家康らと共に渡海組には加わらず、名護屋城に留まるよう命じられた。その役割は、後詰め部隊としての待機、朝鮮半島への兵站の維持、そして秀吉不在中の国内統治に関わる政務の補佐など、多岐にわたる極めて重要なものであった。彼の名護屋在陣は、文禄2年(1593年)8月下旬に名護屋を発つまでの一年以上に及んだ 10

忠誠の可視化という政治的意図

一部の記録には、利家が病によって名護屋への出陣が遅れ、秀吉の不興を買ったという逸話が残されている 12 。この逸話の真偽を確定することは困難であるが、これが事実であれ、あるいはそのような噂が立つ可能性があっただけであれ、当時の大名たちが秀吉の意向にいかに神経を尖らせていたかを示す重要な状況証拠となる。

この文脈において、金沢城の石垣整備という巨大事業が持つ意味合いは、単なる軍事的なものに留まらない。当時の城普請、特に石垣を多用した近世城郭の建設は、領主の経済力、動員力、そして領国経営能力を誇示する最も効果的な手段であった 13 。利家は、国家事業である文禄の役へ最大限の協力をするという「公儀」への奉公を果たすと同時に、本国では巨大な城普請を滞りなく進めることで、自身の忠誠心と前田家の揺るぎない国力を秀吉や他の大名たちに対して「可視化」しようとしたのではないか。

つまり、1592年の石垣整備は、秀吉の不興を払拭し、あるいはそのような疑念を未然に防ぐための、極めて高度な政治的パフォーマンスであった可能性が考えられる。それは、「我が前田家は、貴殿(秀吉)の大事業に全面的に協力しつつ、同時にこれほどの規模の領国開発をも成し遂げる力があります」という、無言のうちの強力なメッセージだったのである。

第二章: 遠き名護屋からの指令 ― 普請の開始と現地の体制

当主・利家が1年以上もの長きにわたり遠く九州に在陣するという異例の事態の中で、金沢城の巨大普請は計画され、実行に移された。これは、不在の当主に代わって現地で指揮を執る強力なリーダーシップと、それを支える高度な専門家集団の存在なくしては成し得なかった。

利家から嫡男・利長への命令

利家は名護屋への出陣に際し、加賀国に残る嫡男・前田利長に対して、金沢城の大規模な修築を命じた 12 。当時31歳であった利長にとって、これは父からの信頼の証であると同時に、次期当主としての能力を試される極めて重大な任務であった。

大規模な城普請は、資材の調達、数千人規模の人員の動員と管理、莫大な予算の差配、そして最新技術を持つ専門家の統率など、領国経営のあらゆる要素を内包する総合的なプロジェクトである。利家は、自身が不在の間にこの大事業を利長に完遂させることで、彼の統治者としての力量を家臣団や他の大名、そして何よりも豊臣秀吉に示すことを意図していたと考えられる。この普請は、利長にとって次期当主としての能力を証明するための、いわば実地試験(On-the-Job Training)であり、前田家の将来を見据えた極めて戦略的な後継者育成プログラムの一環であったと解釈できる 17

軍師・高山右近と専門家集団「穴生衆」

利長の指揮を技術面で支えたのが、二つの重要な存在であった。一人は、キリシタン大名として知られる高山右近である。秀吉による天正15年(1587年)のバテレン追放令によって領地を没収された右近を、利家は庇護し、客将として厚遇した 18 。右近は築城術に深い造詣を持つ当代一流の知識人であり、利家は彼を参謀として重用した。金沢城の修築においても、大手門の位置変更など、右近の知識と経験が大きく活かされたとされている 12

そしてもう一つが、石垣構築の専門家集団である「穴生衆(あのうしゅう)」の存在である 20 。近江国穴太村(現在の滋賀県大津市坂本)出身の石工たちで構成された彼らは、織田信長の安土城築城でその名を馳せ、当時最新かつ最高の石垣技術を保有していた 21

ここで極めて重要な事実は、利家が最初の穴生である穴生源助を召し抱えたのが、この普請が開始される5年も前の天正15年(1587年)であったという点である 20 。これは、1592年の石垣整備が、文禄の役の勃発を受けて急遽計画されたものではなく、それ以前から金沢城の抜本的な近代化改修が構想されていたことを強く示唆している。つまり、前田家は長期的な視点で領国の拠点整備を計画しており、文禄の役という国家的危機は、その計画を実行に移すための政治的・軍事的な「好機」として捉えられたのである。「当主不在時の本拠地防衛強化」という大義名分は、この長年の計画を断行するための、またとない口実となったのだ。

第三章: 巨大事業の実像 ― 石垣普請の技術と労働

文禄元年に開始された普請は、金沢城を中世的な城砦から、石垣を多用した壮麗な近世城郭へと変貌させる第一歩であった 23 。その実像は、現存する遺構と、それを築き上げた技術や労働力から具体的に読み解くことができる。

石材の調達と普請を支えた人々

普請の根幹をなす石材は、城の東方約8kmに位置する戸室山から切り出された安山岩、通称「戸室石」が用いられた 20 。この大規模な採石と、重量のある石材を城まで運搬する作業は、前田家の高い組織力と領民を動員する統治力がなければ不可能であった。

この巨大事業を支えたのは、多様な階層の人々であった。頂点に立つのは、近江から招聘された専門技術者集団「穴生衆」である 20 。彼らの指揮の下、石垣専門の職人として「扶持人石切」や「二十人石切」といった身分の足軽や小者が配属され、手足となって働いた 20 。そして、石材を切り出し、現場まで運ぶ「石引き」などの大規模な作業には、数えきれないほどの武家奉公人や日雇人足が動員された 20 。領国全体を挙げた一大プロジェクトであったことが窺える。

東の丸石垣の分析:城内最古の高石垣

この文禄元年の普請で築かれた石垣のうち、その姿を今に伝える最も代表的な遺構が、「東の丸東面(または北面)」の石垣である 26 。これは、金沢城内に現存する最古の高石垣とされ、その総高は実に21mに達する 26 。この圧倒的な高さは、文禄年間(1592-1596)に築かれた石垣としては日本有数の規模を誇り、単なる防御施設としての機能を超え、見る者を威圧し、前田家の権威を象徴するモニュメントとしての役割も担っていた。

この石垣に用いられている工法は、「野面積み(のづらづみ)」または「自然石積み」と呼ばれるものである 27 。これは、自然石や、大まかに割っただけの粗加工の石を、その形に合わせて巧みに積み上げていく技法である。一見すると荒々しく、古風な印象を与える。

しかし、これは決して技術的な後退を意味するものではない。穴生衆は、石材をより精密に加工し、隙間なく積み上げる「打込接(うちこみはぎ)」や「切込接(きりこみはぎ)」といった、より高度な技術も有していた 32 。にもかかわらず、この戦時下の普請において野面積みが採用されたことには、明確な戦略的意図があったと考えられる。野面積みは、石材の加工に手間がかからないため、他の工法に比べて格段に速く積み上げることが可能である。また、石同士の噛み合わせが柔軟であるため、地震などの揺れに対して崩れにくい「柔構造」を持つという利点もある 31

つまり、文禄元年という戦時下の緊迫した状況において、美観(aesthetics)よりも、構築速度(speed)と耐久性(durability)を優先した、極めて合理的かつ戦略的な技術選択だったのである。この荒々しい石垣の表情こそが、普請が行われた時代の緊張感を今に伝えている。

第四章: 並行する二つの時間軸 ― 1592年のクロニクル

金沢城の石垣整備の歴史的意義を深く理解するためには、それが進行していたまさにその時、国家レベルで何が起きていたかを知る必要がある。ここでは、1592年という一年間における「文禄の役の動向」と「金沢城での普請」を並行して示すことで、二つの事象が相互に与えた影響を考察する。

時期(1592年)

文禄の役の主要動向(於:朝鮮半島・名護屋城) 7

金沢城及び前田家の動向(於:加賀国)

分析・考察

1月~3月

諸大名、名護屋城に集結。3月13日、秀吉が出兵命令を発令。

利家、上洛し出陣準備。下旬、嫡男・利長に金沢城の修築を命じる 16

普請命令は、利家が出陣する直前の最終指示として発せられた。これは、当主不在という非常事態における領国経営の最重要課題として位置づけられていたことを示す。

4月~5月

4月12日、小西行長ら第一陣が渡海開始。釜山鎮、東萊城を攻略。4月28日、忠州の戦いで朝鮮軍主力を撃破。5月3日、首都・漢城を無血で占領。日本軍の破竹の快進撃が続く。利家は4月中旬に名護屋に到着 10

利長の指揮の下、石垣普請が本格的に開始される。城東の戸室山から石材の切り出しと運搬が始まり、普請現場は活況を呈したと推測される 20

名護屋にいる利家や、金沢の利長のもとにもたらされる日本軍快進撃の報は、普請計画の正当性を後押しし、事業を順調に進める上での心理的な追い風となった可能性がある。

6月~8月

6月15日、小西行長らが平壌を占領。しかし、海上では李舜臣率いる朝鮮水軍の反撃が激化。7月8日の閑山島海戦などで日本水軍は大きな被害を受け、制海権を脅かされ始める。これにより兵站線に深刻な懸念が生じる 33

普請は最盛期を迎える。東の丸の巨大な高石垣が、穴生衆の指揮のもと、日ごとにその高さを増していく。領内から動員された多くの人足が作業に従事した 26

日本水軍敗北の報は、戦争が短期決戦では終わらない可能性、すなわち長期化を予感させたはずである。これにより、本拠地・金沢城の防衛力を抜本的に強化する必要性が再認識され、普請の継続がより強く支持されたと推測される。

9月~12月

明の援軍が本格的に参戦し、戦線は次第に膠着状態に陥る。日明間での和平交渉が水面下で模索され始める。12月8日、元号が「文禄」と改元される。

北陸の厳しい冬の到来を前に、普請の第一次目標区画であった東の丸の完成が目指されたと考えられる。労働環境は過酷を極めたであろう。

戦線の膠着は、利家をはじめとする名護屋在陣大名の帰国を遅らせることを意味した。父の不在がさらに長引くことを見越し、利長は翌年以降の普請計画の再検討や、さらなる予算・人員の確保に動いた可能性がある。

この年表は、金沢城の石垣普請が、決して平時の開発事業ではなく、海の向こうの戦況と密接に連動した、緊迫感あふれる戦時下のプロジェクトであったことを明確に示している。

終章: 1592年の石垣が語るもの

文禄元年(1592年)に開始された金沢城の石垣整備は、日本の戦国時代末期という激動の時代を象徴する、多層的な歴史的意義を持つ事変であった。

第一に、それは豊臣政権という巨大な権力構造の中で前田家が生き残り、その地位を盤石なものにするための、高度な 生存戦略としての城普請 であった。外征への全面協力という「忠誠」の義務を果たしつつ、同時に本国で巨大な領国開発を成し遂げるという「実力」を誇示すること。この二つの課題を同時に達成することで、前田家は秀吉や他の有力大名に対し、その総合的な国力と統治能力を強烈に印象付けたのである。

第二に、この普請は来るべき**「天下普請」の時代の幕開けを予感させる**ものであった。秀吉、そして後の徳川幕府は、全国の大名に城郭やインフラの普請を命じる「天下普請」を、大名の財力を削ぎ、中央の権力に従属させるための巧みな統治手段として用いることになる 13 。前田家が1592年に自主的に行ったこの巨大普請は、その技術力と動員力において、来るべき時代に前田家が重要な役割を担うであろうことを示す、先駆的な事例であったと言える 14

そして最後に、この普請は 加賀百万石の物理的・象徴的な礎 を築いた。この大改修によって近世城郭へと変貌を遂げた金沢城は、その後三百年にわたる江戸時代を通じて、日本最大の外様大名と称される前田家の威勢を象徴する政治・経済・文化の中心地として君臨し続けた 23

今日、金沢城公園の東の丸に静かに佇む、あの荒々しくも雄大な野面積みの高石垣。その一つ一つの石は、単なる建築資材ではない。それは、海の向こうで繰り広げられる国家規模の戦争の報に一喜一憂し、主君の猜疑心を恐れ、そして自家の未来を嫡男に託しながら、動乱の時代を生き抜こうとした前田家の、したたかで強靭な生存戦略そのものを、四世紀以上の時を超えて我々に語りかけているのである。

引用文献

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  2. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
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  6. 前田利家ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/807
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  18. 前田利家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
  19. 前田利家、我が金沢城を紹介致す! 多種多様な石垣から重要文化財まで、見どころ満載じゃ https://san-tatsu.jp/articles/419945/
  20. 金沢城の石垣について教えてください | 石川県 https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/qa-is1.html
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  31. 「石垣の博物館」金沢城の楽しみ方。プロに教わる謎多き庭園の魅力 https://story.nakagawa-masashichi.jp/57171
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