最終更新日 2025-10-02

金沢寺町台造成(1599)

慶長4年、秀吉死後、家康台頭で前田利長は危機に。金沢城下を惣構えで要塞化し、卯辰山に寺院を配置。これは前田家の存亡をかけた戦略的決断であった。
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慶長四年の激震:前田利長、存亡の危機と防御都市金沢の胎動

序章: 巨星墜つ - 豊臣政権の均衡崩壊と前田家の岐路

慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じた。幼い遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は、五大老と五奉行による合議制によってその存続が託された。しかし、この制度は秀吉という絶対的な権力者の存在を前提とした、極めて脆弱な均衡の上に成り立っていた。秀吉の死は、その均衡を支えていた重石が取り除かれたことを意味し、天下は再び動乱の時代へと逆行を始める。

この権力の真空を、誰よりも早く、そして巧みに突き始めたのが、五大老の筆頭、徳川家康であった。家康は、秀吉が生前に固く禁じた大名間の私的な婚姻を主導し、伊達政宗や福島正則といった有力大名と次々に縁戚関係を結んでいく 1 。これは豊臣家が定めた法度を公然と破る行為であり、自らの政治的影響力を急速に拡大させ、豊臣政権を内部から切り崩そうとする明確な意志の表れであった。

この家康の独走に対し、最後の防波堤として立ちはだかったのが、同じく五大老の一人であり、秀吉の盟友であった前田利家である 2 。利家は秀頼の後見役として、豊臣家の忠臣という立場から家康の専横を厳しく牽制し、両者の間には一触即発の緊張が走った。この時点において、豊臣政権の命運は、利家という一個人の威光と政治力によってかろうじて保たれていたのである。

しかし、その最後の砦も、長くはもたなかった。慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が病のため大坂の自邸で死去する 2 。この巨星の墜落は、単に一人の大名の死に留まらず、豊臣政権という「秩序」そのものの崩壊を告げる弔鐘であった。利家の死の翌日には、反家康派の急先鋒であった五奉行の一人、石田三成が七将に襲撃される事件が発生するなど、これまで水面下で燻っていた対立は即座に、そして暴力的に表面化した。

父の跡を継いで家督を相続し、五大老に列した若き当主・前田利長は、否応なく「反徳川の急先鋒」という、父が担っていた重責を背負わされることとなった 2 。しかし、父ほどの威光も政治的経験も持たない利長にとって、老獪な家康と単独で対峙することは、あまりにも荷が重いものであった。利家の死によって生まれた権力の空白は、前田家を豊臣政権の守護者から、家康が築こうとする新秩序における最大の標的へと、その立場を劇的に変貌させた。慶長4年(1599年)に金沢で始まる一連の都市改造計画は、こうした中央政界の地殻変動に直接連動した、前田家の存亡を賭けた「生存戦略」そのものであったと結論付けられる。それは平時における都市整備などではなく、来るべき軍事的脅威に対する、極めて具体的かつ切迫した応答だったのである。

第一章: 緊迫の九十日 - 「加賀征伐」という名の恫喝

前田利長の運命が暗転し始めたのは、慶長4年(1599年)の夏であった。父・利家は、秀頼の後見役として大坂に留まるよう利長に遺言していた 3 。しかし、同年8月、利長は徳川家康の強い勧め、あるいは巧妙な誘導によって、その遺言に背き金沢への帰国を決断する 3 。この行動は、結果として豊臣政権における最重要の責務を放棄し、家康の権勢を黙認する形となり、「前田の利長は、徳川家康の家来も同然」という世評を招くことにも繋がった 4

利長が国元にある間に、事態は最悪の方向へと突き進む。同年9月、五奉行の一人である増田長盛らが大坂の家康を訪れ、利長に関する恐るべき讒言を告げた。その内容は、「利長が浅野長政、大野治長らと共謀し、家康暗殺を企てている」というもの、さらには「利長は淀君と不義密通の関係にあり、秀頼を廃して自らが天下を狙っている」という、荒唐無稽でありながら、利長を政治的に抹殺するには十分すぎるほど致命的なものであった 4

この讒言を口実として、家康はついに天下掌握へと動く。9月上旬、伏見にいた家康は大軍を率いて大坂へ下向し、下旬には大坂城西の丸に入城。「天下の御仕置」を宣言し、事実上の最高権力者として振る舞い始めた 3 。諸大名はこぞって家康のもとに参上し、その権威を認めた。しかし、家康は利長に対してのみ「上洛無用」と通告する 3 。これは、利長を「謀反人」として公に断罪し、弁明の機会すら与えないという、極めて厳しい政治的宣告であった。

ここに至り、「家康が加賀征伐の軍を起こす」という噂は、単なる風聞ではなく、目前に迫った現実の脅威として前田家を震撼させた 6 。前田家中は騒然となり、「前田の家運もこれまでか」と嘆く古参の家臣もいたという 4 。この絶体絶命の状況下で、利長は金沢城下で臨戦態勢を固めると同時に、必死の外交交渉を展開する。数ヶ月にわたる緊迫した駆け引きの末、利長は母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送るという苦渋の決断を下し、家康との和議を成立させた 3 。これは事実上の屈服であり、前田家が徳川家の支配体制下に組み込まれることを意味するものであった。

この一連の「慶長の危機」は、単なる軍事侵攻の脅威ではなかった。それは、讒言という情報操作によって標的を社会的に孤立させ、政治的に追い詰めていく、家康による高度な「政治戦」であった。利長が金沢で開始する城下の要塞化は、この物理的・政治的という二重の脅威に対する、具体的な応答であった。それは、家康に対し「我々を攻めるのであれば、相応の覚悟と犠牲を強いることになる」という明確な意思を、都市の構造そのものをもって示す、物理的なカウンターメッセージとしての意味合いを強く帯びていたのである。

第二章: 危機への即応 - 金沢城下「惣構」の緊急築造

徳川家康による「加賀征伐」という未曾有の脅威に直面した前田利長は、即座に金沢城下の防衛体制を根本から見直すという決断を下す。これまでの金沢城の防衛思想が、城郭そのものの堅固さに主眼を置いていたのに対し、利長は城下町全体を長大な堀と土塁で囲い込む「惣構(そうがまえ)」の構築という、壮大かつ緊急の計画に着手したのである 7

惣構とは、城の中枢部だけでなく、武家屋敷や町人地を含む城下町全体を防衛線の中に取り込む、大規模な防御施設である 8 。その最大の目的は、敵の侵攻を城下町の外縁部で食い止め、都市全体を一つの巨大な要塞として機能させることにあった。万が一、籠城戦に突入した場合でも、惣構の内部に兵力、物資、そして住民を保護することで、長期戦に耐えうる能力を飛躍的に向上させることが可能となる 8

この惣構の構築という決断は、利長が家康の脅威を、国境付近での小競り合いなどではなく、領国の首都そのものを標的とした「殲滅戦」のレベルで認識していたことを示す、何よりの物理的証拠である。城下町の経済活動や住民の生活をある程度犠牲にしてでも、首都を防衛するという思想は、野戦での決着ではなく、金沢での徹底抗戦と長期籠城を覚悟していたことの表れに他ならない。

そして、この惣構という防衛ラインを構成する重要な要素として、寺院群が位置づけられた。戦国時代において、堅固な土塀や大規模な建築物を持つ寺院は、有事の際に兵士が駐屯する陣地や砦として機能する、極めて有効な軍事拠点であった 9 。利長は、惣構の構築と並行して、城下に点在していた寺院を戦略的に再配置し、防衛システムの一部として組み込む計画を始動させる。1599年という年に行われた金沢の都市改造は、この戦国時代特有の軍事セオリーに基づいた、極めて実践的なものであった。この決断の瞬間、金沢は単なる城下町から、領国の存亡を賭けた「要塞都市」へと、その性格を大きく変貌させ始めたのである。

第三章: 鬼門を封じよ - 卯辰山寺院群の戦略的配置(1599年~)

慶長4年(1599年)、前田家が存亡の危機に瀕するまさにその最中、金沢の都市改造計画は、一つの具体的な行動として開始された。それが、金沢城の鬼門(北東)に位置する卯辰山への寺社の配置である。史料によれば、この年、八幡宮が「御城より鬼門卯辰山御勧請」されたと記録されており、これが金沢における戦略的な寺院群形成の号砲となった 7

この配置には、二重の意図が込められていた。一つは、陰陽道に基づく「鬼門封じ」という宗教的・呪術的な意味合いである。城の鬼門に神仏を祀ることで、災厄から城と城下を守護するという思想は、当時の武将にとって極めて重要なものであった。しかし、それと同時に、卯辰山は金沢城の北東方面を一望できる、軍事上の要衝でもあった。利長は、領民の精神的な安寧を図る宗教的権威と、敵の侵攻を物理的に阻止する軍事的機能という二つの目的を重ね合わせ、この地に防衛拠点を築き始めたのである。

もし、この計画が平時における都市整備であったならば、城下全体のバランスを考慮し、南の寺町台や東の小立野といった地域も同時に計画されたであろう。しかし、史料が慶長4年の動きとして明確に卯辰山を指し示していることは、これが平時の計画ではなく、危機下における緊急対応であったことを物語っている。城の防衛において、北東方面が特に脆弱であると認識されていたか、あるいは家康軍の侵攻ルートとして想定されていた可能性も考えられる。さらに、「鬼門」という概念を持ち出すことで、この軍事行動に「領国鎮護」という大義名分を与え、家臣や領民の精神的結束を図るという、高度な統治術の一環でもあった。

この計画は、危機が一段落した後も着実に継続された。慶長6年(1601年)には、真言宗の観音院、法住坊、宝泉坊、賢聖坊といった寺院が相次いで卯辰山に屋敷地を拝領し、移転してくる 7 。その後も数十年にわたり寺院の移転は続き、最終的には50数ヶ寺からなる一大寺院群が形成された。

卯辰山麓の寺町は、その地形を巧みに利用して設計されている。起伏に富んだ山麓の地形に合わせ、道は狭く、意図的に屈曲させている。また、主要な街道から各寺院へ向かう参道を基本とした独特の町割りが形成された 11 。これらは、平地での大規模な戦闘を避け、侵攻してくる敵軍の兵力を分散させ、その進軍を遅滞させるための、計算され尽くした軍事的設計であった。金沢の寺院群形成は、まず「最も脆弱な一点」を塞ぐことから始まった。この一点突破的なアプローチこそが、1599年の計画が、いかに切迫した状況下で断行されたかを如実に示している。

第四章: もう一つの1599年 - 野田山御廟所の創設と前田家の権威

慶長4年(1599年)、金沢城下で惣構の普請や卯辰山の寺社配置といった物理的な防衛体制の構築が急ピッチで進められる一方で、もう一つの巨大なプロジェクトが並行して始動していた。それが、藩祖・前田利家の墓所となる野田山御廟所の造成である。これは、同年閏3月に没した利家の「野田山に塚をつかせ可被申(野田山に墓を造るように)」という遺言に基づいて開始されたものであった 13

金沢城の南東、城下を一望できる「絶景」の地である野田山 13 。利長は父の遺言に従い、この地に壮大な墓所を造営し、翌慶長5年(1600年)にはその麓に菩提寺として桃雲寺(当初は宝円寺)を建立した 13 。これにより、野田山は単なる墓地ではなく、前田家の権威と歴史を象徴する「聖域」としての性格を帯びることになる。

軍事的緊張が最高潮に達している中で、なぜ墓所の造営という、一見すると不急の事業が推進されたのか。それは、この事業が、外的脅威に対する物理的防御とは異なる、もう一つの重要な目的を持っていたからである。讒言によって当主の権威が失墜し、家臣団が動揺するという「内的脅威」に対しては、いかに堅固な堀や土塁も無力である。この内的危機に対し、利長は「偉大な父・利家」の記憶と権威を最大限に利用した。野田山に壮大な御廟所を築くことは、自らが利家の正統な後継者であることを内外に宣言し、家臣たちに改めて前田家への忠誠を誓わせるための、極めて象徴的な儀式であった。それは、藩祖の威光を拠り所に家臣団の結束を固め、領民の心を一つにするための、高度な政治的パフォーマンスだったのである。

やがて野田山には、藩主一族のみならず、横山家や村井家といった加賀八家をはじめとする重臣たちの墓も次々と造られるようになった 14 。藩主の墓所を頂点とし、その周囲を重臣たちの墓が固めるという配置は、前田家を核とした加賀藩の強固な支配体制を、空間的に可視化する役割をも果たした。

このように、1599年の金沢では、「物理的防御(惣構、卯辰山)」と「精神的・権威的防御(野田山御廟所)」が、同時に、そして相互補完的に進められた。これらは、若き当主・前田利長が、内外の危機に対して仕掛けた「領国防衛」というコインの裏表であったと言えよう。

第五章: 壮大なる構想の継承 - 寺町台・小立野寺院群への展開

慶長4年(1599年)に前田利長が着手した防衛都市化の構想は、一つの緊急対応に留まらず、加賀藩の基本的な都市計画思想として次代に受け継がれた。この構想を、より体系的かつ大規模に展開し、今日の金沢の骨格を完成させたのが、三代目藩主・前田利常である。

寺町台寺院群の形成と戦略的価値

犀川南岸の台地に広がる寺町台への本格的な寺院集団移転は、大坂の陣が終結し、徳川の世が盤石となった後の元和元年(1615年)頃から本格化する 7 。この移転の直接的な契機は、城下の武家屋敷地の拡張・整備であった。城内や片町周辺の商業中心地にあった寺院を「御用地」として召し上げ、その代替地として寺町台が与えられたのである 7 。この時期、日蓮宗4ヶ寺、浄土宗3ヶ寺、臨済宗1ヶ寺を含む計10ヶ寺のまとまった移転が確認されている 7

しかし、この移転は単なる都市再開発ではなかった。寺町台は、金沢城の南西方面を守る上で、極めて重要な戦略的価値を持っていた。台地とその手前を流れる犀川は、それ自体が天然の要害であり、強力な防御線となる 9 。この地に約70ヶ寺もの寺院を集積させることで、利長が築いた北東の卯辰山寺院群と対をなし、金沢城を南北から挟み込むような鉄壁の防衛網が形成された。1599年の利長の決断が「点」の防御であったとすれば、利常による寺町台の整備は、都市全体をシステムとして捉えた「面」の防御へと発展したことを示している。

小立野寺院群の役割と宗教政策

金沢城の東南に位置する小立野台地にも、寺院群が形成された。しかし、その性格は卯辰山や寺町台とは異なっていた。ここには、藩祖・利家の菩提寺である宝円寺(元和6年に移転)や、二代・利長の菩提寺である天徳院(元和9年創建)、さらには三代・利常の生母である寿福院ゆかりの経王寺など、前田家と極めて関わりの深い大寺院が集められた 7 。小立野寺院群の役割は、軍事的な最前線というよりも、藩主家の権威を顕示し、藩内の寺院を宗教的に統括する、精神的な中心地としての意味合いが強かった 11

また、これらの寺院配置には、かつて加賀一国を支配し、織田・前田軍を長年にわたって苦しめた一向一揆(浄土真宗)への根強い警戒心も見て取れる。強大な動員力を持つ真宗寺院は、これら三つの寺院群の中核から意図的に外され、城下の膝元に分散配置されるなど、厳重な監視下に置かれた 9 。これは、軍事力と宗教的結束力が結びつくことの危険性を熟知していた前田家ならではの、巧みな宗教統制政策であった。

このように、金沢の三寺院群は、それぞれが異なる時期に、異なる目的で形成された、機能分化した都市モジュールであった。その壮大な都市システムの設計図に、最初の、そして最も決定的な一筆を記したのが、1599年の利長の決断だったのである。

寺院群

主な形成時期

主な契機・理由

関連する藩主

戦略的・政治的機能

卯辰山寺院群

慶長4年(1599年)~

「慶長の危機」に伴う緊急防衛、鬼門鎮護 7

前田利長

城下北東方面の物理的防御、呪術的防衛

寺町寺院群

元和元年(1615年)~

武家屋敷整備(御用地化)、惣構の恒久的強化 7

前田利常

城下南西方面の物理的防御、都市内部の再編

小立野寺院群

元和6年(1620年)~

藩主家関連大寺院の整備、宗教政策 7

前田利常

藩主家の権威顕示、藩内寺院の宗教的統括

第六章: 比較史的考察 - 同時代の城下町計画との対比

金沢の都市計画が持つ独自性は、同時代に建設された他の主要な城下町と比較することで、より一層鮮明になる。特に、関ヶ原の戦いを挟んで計画された伊達政宗の仙台と、毛利輝元の萩は、その好対照をなす事例である。

「開かれた都市」仙台と伊達政宗

関ヶ原の戦いを東軍として乗り切り、徳川体制下での地位を確固たるものとした伊達政宗は、慶長6年(1601年)から仙台の城下町建設に着手する 17 。政宗の都市計画は、軍事一辺倒ではなく、将来の経済的発展を見据えたものであった。仙台城下には、金沢や萩に見られるような惣構は設けられず、経済活動の活性化を促す整然とした碁盤目状の町割りが採用された 19 。また、寺社配置には六芒星の結界を形成させるといった呪術的・象徴的な意図が見られるものの、その全体像は開放的である 17 。政宗にとって、もはや最大の防御とは物理的な壁ではなく、領国の豊かさ、すなわち「経済こそ最大の防御」であった 17 。これは、新時代における勝者の余裕と未来志向を象徴している。

「閉ざされた都市」萩と毛利輝元

一方、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として敗北し、中国地方の大半を失って防長二国に減封された毛利輝元は、慶長9年(1604年)から萩の城下町を建設した 21 。萩の都市構造は、仙台とは対照的に、防御と統制を最優先した「閉ざされた都市」であった。城と、毛利一門や永代家老といった上級武士の居住区である堀内地区は、幅の広い外堀によって城下町から厳格に区画されていた 23 。その設計思想の根底には、敗者としての屈辱と、徳川幕府への警戒心、そして再起への密かな意志が色濃く反映されており、極めて内向的かつ軍事的な性格を持っている。

ハイブリッド都市・金沢の位置づけ

金沢の都市計画は、この仙台と萩の中間に位置する、極めて特異な性格を持つ。その計画が始動したのは、関ヶ原の戦いの「前」、豊臣政権内の政治的緊張が最高潮に達していた慶長4年(1599年)である。そのため、萩に見られるような徹底した軍事思想が、その根底に深く刻み込まれている。しかし、前田家は毛利家のように決定的な敗北を喫したわけではなく、関ヶ原の戦い後も百万石の所領を維持し、徳川政権下で最大の藩として存続した。その結果、後の利常の時代には、仙台のように経済や文化を育む都市機能も組み込む余地が残された。

城下町の設計思想は、その藩主が「関ヶ原の戦い」という歴史の分水嶺を、どの立場で、どのように経験したかを映し出す鏡である。毛利は「敗者」、伊達は「勝者」、そして前田は、そのどちらでもない、「最大の被警戒者」であった。金沢の寺町配置に代表される都市構造の独自性は、この特異な政治的ポジションから生まれた、他に類を見ない歴史的解答だったのである。

結論: 1599年の決断が刻んだ、百年の計

本報告書で詳述してきたように、ユーザーが当初認識していた「金沢寺町台造成(1599)」という事象は、1599年という単年で完結した寺町台への集団移転を指すものではない。それは、慶長4年(1599年)に勃発した、徳川家康による「加賀征伐」の脅威という政治的激震を直接の引き金として始まった、壮大かつ長期的な防衛都市化計画の序章であった。

若き当主・前田利長が、存亡の危機の最中に下した「惣構」の構築と、鬼門である「卯辰山」への寺社配置という緊急の決断は、金沢の都市構造に「徹底した防衛思想」という、消えることのないDNAを深く刻み込んだ。それは、来るべき戦乱の時代に対する、具体的で、かつ悲壮な覚悟の表れであった。

このDNAは、三代目藩主・前田利常へと確実に受け継がれた。利常は、利長が描いた防衛都市の青写真を発展させ、城下南西の要衝である寺町台、そして藩主家の権威を象徴する小立野という新たな寺院群を形成した。これにより、金沢は、軍事、政治、宗教が一体となった、機能的で美しい、他に類を見ない都市システムとして完成の域に達したのである。

我々が今日、金沢の地に立ち、三寺院群が織りなす静謐で美しい歴史的景観を目の当たりにするとき、その風景の原点が、400年以上前の、あの緊迫した日々に下された一つの政治的決断にあることを想起すべきである。1599年の前田利長の苦悩と覚悟がなければ、今日の金沢の姿は存在しなかった。一つの政治的危機が、いかにして永続的な都市の骨格を形成し、数百年後の我々にまでその類稀な遺産を伝えうるのか。金沢の事例は、その問いに対する、比類なき歴史的実例として、我々の前に静かに佇んでいる。

引用文献

  1. 1599年 家康が権力を強化 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1599/
  2. 前田利長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7
  3. 「家康暗殺計画」を目論んだ、前田利長が辿った生涯|関ヶ原の戦い前に - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1156561/2
  4. 利長の窮地 - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_1.html
  5. 高岡の祖・前田利長略年譜 https://www.e-tmm.info/tosinaga.htm
  6. 徳川家を鼻毛で翻弄? 前田利常のかぶき者伝説/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17934/
  7. 寺院の移動からみた 城下の形成 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/jiingun.pdf
  8. 超入門! お城セミナー 第88回【歴史】城下町はどうやって敵から守られていたの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1056
  9. 金沢|今も市中に残る藩政期の町割り - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_116/feature02.html
  10. 寺町台 - 町のかたち 村のかたち https://machinokatachi.main.jp/17/17_teramachidai.html
  11. 百万石の城下町 : 江戸時代の寺町と寺院の形成 https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/record/5904/files/AN10180493-64-1-3.pdf
  12. 新規選定① 起伏ある山麓地形に形成された金沢城下の寺町 金沢市 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/juudenken_sentei_231129.pdf
  13. 平成25年度 夏 季展 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/nodayama.pdf
  14. 野田山墓地の無縁墳墓の改葬に関する実証的研究 https://www.icc.ac.jp/univ/morizemi/Date/PDF/Muen-2.pdf
  15. 野田山墓地(加賀前田家:墓所) - 石川県:歴史・観光・見所 https://www.isitabi.com/bodaiji/nodayama.html
  16. 戦国の世、城下町金沢を守ってきた3つの寺院群 https://kanazawa.hakuichi.co.jp/blog/detail.php?blog_id=140
  17. 独眼竜・伊達政宗を歩く 第2回〜仙台の街に残る都市伝説 - note https://note.com/rootsofjapan/n/ndf9a096f15df
  18. 仙台 - まちあるきの考古学 http://www2.koutaro.name/machi/sendai.htm
  19. 現代宮城風土記#41:仙台城下町の構造と現代の町|みやせん(宮城仙台の豆知識) - note https://note.com/miya_sen_mame/n/n668c58805708
  20. 【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第2回 常識はずれの城下町づくり 後編 | ARTICLES | Kappo(仙台闊歩) https://kappo.machico.mu/articles/1749
  21. 萩市観光協会公式サイト https://www.hagishi.com/wp/wp-content/uploads/2025/02/hagiguide_202404.pdf
  22. 萩城(城の歴史) https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/075hagi/20190104152014.pdf
  23. (2) 資産に含まれる文化財 - 萩市 https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/3861.pdf
  24. 萩城跡 - 山口県の文化財 https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/sp/bunkazai/summary.asp?mid=10024