長宗我部盛親改易(1600)
長宗我部元親の四男盛親は、関ヶ原の戦いで西軍に与するも戦わず敗北。家名存続のため兄津野親忠を殺害するが、徳川家康の怒りを買い改易。大坂の陣で豊臣方として奮戦するも敗れ、斬首された。
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長宗我部盛親改易:土佐二十四万石、関ヶ原に沈む
序章:四国の覇者、落日の影
戦国時代、土佐の片隅から現れ、一時は四国全土を席巻した長宗我部氏。その栄光は、当主・長宗我部元親の卓越した武略と統率力によって築き上げられたものであった。「鬼若子」と称された初陣での勇猛さから始まり、元親は土佐国内の群雄を次々と平定し、ついに土佐一国を統一する 1 。その勢いは留まることを知らず、阿波、讃岐、そして伊予へと進出。天正13年(1585年)には、元親がかつて阿波の雲辺寺住職に語った「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」という大言壮語が、現実のものとなろうとしていた 1 。
しかし、その絶頂期は長くは続かなかった。畿内から天下統一の歩みを進める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の圧倒的な国力の前に、長宗我部氏の四国支配は脆くも崩れ去る。秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣。元親は徹底抗戦を主張するも、衆寡敵せず、家臣の説得を受け入れて降伏を決断する 2 。この四国征伐(天正の陣)の結果、長宗我部氏は阿波、讃岐、伊予の三国を割譲させられ、土佐一国の領有のみを許される形で豊臣政権に臣従することとなった 3 。
一度は滅亡の淵に立たされながらも、存続を許された長宗我部氏は、豊臣政権下で「外様大名」として生き残りを図ることになる。九州征伐、小田原征伐、そして二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)と、豊臣家の軍役を忠実に果たし、政権の一翼を担う存在としての地位を確立していった 1 。この過程で、長宗我部氏は徳川家康のような大大名よりも、石田三成ら豊臣政権の中枢を担う奉行衆との関係を深めていく。秀吉に一度は滅ぼされかけた末に存続を許されたという経緯は、長宗我部氏の中に豊臣家に対する強い恩義と忠誠心を育んだ。この主家への意識こそが、後に秀吉が没し、天下が徳川と豊臣に二分された際、長宗我部盛親が西軍に与するという運命的な決断を下す、大きな心理的要因となるのである。
第一章:凋落の序曲 ― 歪んだ家督相続
長宗我部家の栄光と安定は、一人の若者の死によって大きく揺らぎ始める。天正14年(1586年)、豊臣軍の一員として参戦した九州・戸次川の戦いにおいて、元親が最も将来を嘱望していた嫡男・長宗我部信親が、島津軍との激戦の末に戦死したのである 6 。この悲報は、英雄・元親の心身を深く蝕んだ。期待を一身に背負っていた後継者を失った衝撃は計り知れず、以後、彼の判断はかつての精彩を欠き、時に非情で非合理的なものへと変貌していく 7 。長宗我部家を盤石ならしめるはずの家督相続問題は、この時から、一族を分裂させ、やがては滅亡へと導く深刻な内紛の火種となった。
信親亡き後、後継者候補は三人いた。次男の香川親和、三男の津野親忠、そして四男の長宗我部盛親である。次男・親和は讃岐の名族・香川氏へ養子に入っており、秀吉からも後継者として認める朱印状を得ていた。しかし、元親はこの秀吉の意向を黙殺し、親和を事実上、後継者候補から除外した。これに衝撃を受けた親和は、失意のうちに病死、あるいは断食して自害したと伝えられている 7 。
三男の津野親忠は、土佐中部の名族・津野氏の養子となっていた人物で、武勇に優れ、領地経営の手腕も高く、家臣団からの人望も極めて厚かった 8 。順当にいけば、彼が後継者となるのが最も自然な流れであった。しかし、元親の愛情は、末子である四男・盛親に異常なまでに注がれていた。元親は、家臣団の多くが親忠を推す声を無視し、溺愛する盛親に家督を継がせることを強引に決定。さらに、亡き信親の娘を盛親の正室とすることで、その正統性を補強しようと試みた 7 。
この常軌を逸した決定に対し、一門の重臣である吉良親実や比江山親興らが「家の秩序を乱すもの」として猛然と反対の声を上げた。彼らは元親に対し、理を尽くして諫言したが、その忠義が受け入れられることはなかった。この時、盛親を強く支持し、自らの権力拡大を狙う側近・久武親直が暗躍する。親直は元親に対し、「親実らは盛親様を妬み、謀反を企てている」と讒言したのである 7 。信親の死で冷静な判断力を失っていた元親は、この讒言を鵜呑みにし、天正16年(1588年)、長年家を支えてきた吉良親実らに切腹を命じ、その一族郎党までも処罰するという暴挙に出た。この粛清により、元親に諫言できる重臣は家中に存在しなくなり、組織の硬直化は決定的となった。
それでもなお、家臣団の一部には親忠を待望する声が根強く残っていた。これを危険視した元親と盛親、そして久武親直は、さらなる手を打つ。慶長4年(1599年)、親直は再び「親忠に謀反の企てあり」と讒言。元親はこれを受け、三男・親忠を土佐国香美郡岩村の寺に幽閉してしまう 5 。こうして、長宗我部家にとって最も有能な人材の一人であった親忠は、政治の表舞台から完全に隔離された。
同年、家中に修復不可能な亀裂を残したまま、長宗我部元親は京都伏見の屋敷でその波乱の生涯を閉じた 4 。享年61。こうして、25歳の長宗我部盛親が正式に家督を継承したが、その権力基盤は多くの重臣の血と、幽閉された兄の犠牲の上に成り立つ、極めて脆弱なものであった。独裁的なトップが私情によって判断を誤り、その周囲を佞臣が固めることで組織が崩壊していくという悲劇の典型が、そこにはあった。関ヶ原の戦いという未曾有の国難を前に、長宗我部家は最も重要な判断能力と結束力を、自らの手で破壊してしまっていたのである。
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人物名 |
続柄・立場 |
家督相続における動向 |
結末 |
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長宗我部元親 |
当主 |
嫡男信親の死後、判断力を失い四男盛親を偏愛。反対派を粛清。 |
慶長4年病死 |
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長宗我部信親 |
嫡男(長男) |
将来を嘱望されたが、戸次川の戦いで戦死。全ての混乱の発端。 |
天正14年戦死 |
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香川親和 |
次男 |
秀吉から後継者として認められるも、元親に黙殺され失意の内に死去。 |
天正15年病死 |
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津野親忠 |
三男 |
家臣に推されるも、元親・盛親に疎まれ幽閉。後に殺害される。 |
慶長5年自害 |
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長宗我部盛親 |
四男 |
父の偏愛により家督を相続。しかし権力基盤は脆弱。 |
後に改易・処刑 |
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吉良親実 |
一門衆(元親の甥) |
盛親の家督相続に猛反対し、諫言する。 |
讒言により切腹 |
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久武親直 |
側近 |
盛親を強力に支持。反対派を讒言で陥れ、家中の実権を掌握。 |
盛親と共に処刑 |
第二章:運命の関ヶ原 ― 戦わずして敗る
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の未来を決定づける天下分け目の決戦の火蓋が切られた。長宗我部盛親率いる土佐勢もまた、この運命の地に布陣していた。しかし、彼らを待ち受けていたのは、栄光ある武功ではなく、戦うことすらできずに敗北するという、武門にとって最大の屈辱であった。
父・元親の代から続く豊臣家への恩義を重んじた盛親は、石田三成からの檄文に応じ、西軍への参加を決断する 4 。これは、豊臣政権下で生きてきた長宗我部家にとって、ある意味で必然の選択であった。盛親は約6,600の兵を率いて東上し、伊勢方面へと進軍した 13 。決戦当日、長宗我部隊は徳川家康の本陣の背後を衝くことができる戦略上の要衝、南宮山に布陣した。ここには、西軍の総大将である毛利輝元の名代・毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊といった毛利勢、そして長束正家らも陣を構えており、長宗我部隊は毛利隊の後方に位置していた 7 。
午前8時頃、関ヶ原主戦場で戦闘が開始されても、南宮山の軍勢は動かなかった。先鋒に位置していた吉川広家が、密かに徳川家康と内通していたためである 7 。広家は「霧が深くて視界が悪い」「兵の食事の時間だ」などと理由をつけ、頑として進軍命令を拒否。これにより、後方にいた毛利秀元、安国寺恵瓊、そして長宗我部盛親の部隊は、前方の吉川隊に進路を阻まれ、身動きが取れない状態に陥った 14 。盛親は主戦場の戦況を正確に把握できないまま、ただ時間だけが過ぎていくのを、歯噛みしながら見守るしかなかった。
やがて午後になると、西軍の小早川秀秋の裏切りをきっかけに、主戦場の西軍本隊は総崩れとなる。戦いの趨勢は、わずか半日で決してしまった。南宮山の盛親が西軍の壊滅という信じがたい敗報に接したのは、薩摩の島津義弘からの知らせや、家臣・吉田重年の偵察によってであった 14 。戦わずして、敗戦の将となったのである。
盛親は急ぎ撤退を開始するが、その道程は困難を極めた。池田輝政や浅野幸長といった東軍の部隊による追撃を受け、さらに道中では落ち武者狩りを狙う在地の一揆勢の襲撃にも遭った 14 。多くの犠牲を払いながらも、盛親は辛うじて伊賀、和泉を経て大坂の天満へとたどり着き、そこから海路で土佐へと帰還した 7 。
この関ヶ原における盛親の最大の不運は、「戦って負けた」のではなく、「戦わずに負けた」という一点に尽きる。戦国時代の価値観において、戦場で武功を立てることは、たとえ敗軍の将であっても、その後の交渉において家の存続を訴える重要な拠り所となり得た。事実、敵中突破という壮絶な撤退戦を演じた島津義弘は、その武勇を家康に評価され、本領安堵を勝ち取っている。しかし、盛親にはその「武功」も「奮戦の事実」もなかった。これにより、戦後の徳川家康に対する謝罪交渉において、彼の立場は極めて弱いものとなった。この「何もできなかった」という武将としての無力感と、家の存亡をかけた焦りが、彼の冷静な判断力をさらに奪い、やがて自らの手で破滅の引き金を引くという、最悪の選択へと繋がっていくのである。
第三章:改易への転落 ― 兄殺害という最悪の選択
故国・土佐に辛うじて帰り着いた盛親は、絶望的な状況の中で、長宗我部家の存続をかけた必死の模索を開始する。西軍に与し、しかも何ら戦功を挙げられなかった自らの立場を考えれば、厳しい処分は免れない。しかし、全面的な改易ではなく、減封処分で家名を存続させる一縷の望みは、まだ残されているはずだった。その最後の希望の光は、皮肉にも、かつて自らが幽閉した兄・津野親忠からもたらされるはずであった。しかし、焦燥と猜疑心に駆られた盛親は、その光を自らの手で無惨に掻き消してしまう。
家名存続のための交渉において、最大の鍵を握っていたのが、岩村の寺に幽閉中の兄・津野親忠であった。親忠は、かつて豊臣家の人質として大坂にいた頃、徳川四天王の一人である井伊直政の配下で、後に伊勢津藩主となる藤堂高虎と親交を結んでいた 8 。この人脈こそが、敗軍の将となった長宗我部家が徳川家康に恭順の意を示し、赦免を乞うための唯一にして最大の外交ルートであった。事実、親忠は幽閉の身でありながらも、高虎を通じて長宗我部家の存続を家康に願い出ており、一説には家康もこれを了承していたとさえ言われている 8 。
しかし、この水面下での動きが、盛親の側近・久武親直の耳に入る。親直は、もし親忠の手によって家名が存続されることになれば、自らの権力基盤が揺らぎ、親忠が実権を握ることを恐れた。そこで彼は、盛親に対し、再び悪魔の讒言を吹き込む。「津野様(親忠)は藤堂高虎と結託し、この機に乗じて土佐半国を自らの領地として得ようと画策しております。盛親様を裏切るつもりです」と 8 。
敗戦後の混乱と、戦場で何もできなかったという焦燥感の中にあった盛親は、この讒言を信じ込んでしまった。家督相続の経緯から、元々兄に対して抱いていた後ろめたさや警戒心が、猜疑心へと転化した。兄が自分を裏切り、家の危機に乗じて領地を奪おうとしていると誤解した盛親は、取り返しのつかない決断を下す。慶長5年9月下旬、盛親は兄・親忠を自害させるべく、幽閉先の寺に軍勢を差し向けたのである 6 。
討手に囲まれた親忠は、もはや弁明の余地はないと悟り、神妙に自害して果てた。享年29 18 。その際、「同胞の兄を切害して、盛親ひとり安穏でいられると思うのか。天罰たちまち来たりて、おのれもやがてこのようになるだろう。ああ、長宗我部の家もこれまでなり」と、弟の愚行と一族の行く末を嘆いたと伝えられている 19 。
この兄殺害という非道な行いの報は、直ちに徳川家康の耳に届いた。家康は、盛親が西軍についたこと以上に、この人倫にもとる行為に激怒した。「元親の子には似合わしからぬ不義者である」と盛親を断じ、本来であれば誅殺するところであった 17 。この時、井伊直政が必死に盛親のために弁護し、一命だけは取り留めることができたものの、家康の決断は覆らなかった 20 。土佐二十四万石の領地は全て没収、すなわち「改易」という、武家にとって死に等しい最も厳しい処分が下された。
盛親による親忠殺害は、単なる道徳的な罪である以上に、致命的な政治的自殺行為であった。親忠は、敗戦した長宗我部家が徳川という新しい秩序の中に軟着陸するための、唯一の「外交カード」であった。彼を殺害したことは、新政権との対話ルートを自ら破壊し、恭順の意がないことを天下に示すに等しい行為だった。家康の怒りは、武家の棟梁として「不義」を許さないという建前と共に、自らが構築しようとする新しい天下の秩序に非協力的な態度を示した盛親への、冷徹な政治的制裁でもあった。こうして、土佐二十四万石の大名・長宗我部氏は、敵によってではなく、当主自身の愚かな判断によって滅亡したのである。
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年月日(慶長5年) |
出来事 |
関連人物 |
影響 |
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9月15日 |
関ヶ原の戦い。長宗我部軍は戦闘に参加できぬまま西軍敗北。 |
盛親, 吉川広家 |
改易の直接的な原因。戦功なく、交渉の立場が弱まる。 |
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9月下旬 |
盛親、土佐に帰還後、兄・津野親忠を自害させる。 |
盛親, 親忠, 久武親直 |
徳川家康が激怒。改易を決定づける致命的失策。 |
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10月 |
盛親の改易が正式に決定される。 |
盛親, 徳川家康, 井伊直政 |
土佐二十四万石は没収。長宗我部氏は大名としての地位を失う。 |
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11月1日 |
井伊直政の家臣が上使として土佐に来着。浦戸城の明け渡しを要求。 |
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浦戸一揆の直接的な引き金となる。 |
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11月中旬 |
長宗我部旧臣、浦戸城に立てこもり抵抗を開始(浦戸一揆)。 |
一領具足, 竹ノ内惣左衛門 |
山内氏の土佐入国が困難となり、武力鎮圧へ。 |
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11月28日 |
山内一豊の弟・康豊が土佐に到着。鎮圧に着手。 |
山内康豊 |
一揆勢との本格的な戦闘が開始される。 |
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12月5日 |
内部の裏切りもあり、一揆勢は壊滅。浦戸城が接収される。 |
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50日に及ぶ抵抗が終結。長宗我部氏の支配が完全に終わる。 |
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12月29日 |
一揆の首謀者ら273名が斬首される。 |
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長宗我部旧臣勢力は一掃され、山内支配が確立する。 |
第四章:土佐最後の抵抗 ― 浦戸一揆の悲劇
主君・盛親の改易と、見知らぬ新領主の到来。この報は、土佐の地に激震をもたらした。長年にわたり長宗我部氏に仕え、土佐の地と共に生きてきた武士たちにとって、それは到底受け入れがたい現実であった。特に、長宗我部氏の軍事力の根幹をなし、平時は田畑を耕し、戦時には槍を取る半農半兵の兵士「一領具足」たちは、主家の誇りと自らの生活を守るため、最後の絶望的な抵抗に立ち上がった。これが、後に「浦戸一揆」と呼ばれる悲劇の始まりである。
関ヶ原の戦いにおける山内一豊の功績、特に「小山評定」での家康への忠誠を示す発言は高く評価され、戦後の論功行賞で土佐二十四万石の新たな国主として抜擢された 21 。慶長5年(1600年)11月、徳川方の上使として井伊直政の家臣が土佐に来着し、長宗我部氏の本拠地であった浦戸城の明け渡しを要求した 22 。しかし、城内にいた長宗我部旧臣たちはこれを断固として拒否。それどころか、上使の宿所であった雪蹊寺を1万7千の兵で包囲し、武力で要求を跳ね除けようとした 22 。
この抵抗の中心となった一領具足たちにとって、主家の改易と山内氏の入国は、単なる主君の交代以上の意味を持っていた。それは、武士としての身分と、先祖代々受け継いできた土地を失うことを意味する死活問題であった 22 。中央政権が進める兵農分離の政策とは逆行する一領具足という制度は、新領主の下では維持されるはずがなく、彼らが農民へと身分を落とされることは火を見るより明らかだった。彼らは「旧主・盛親公に、せめて土佐一郡(あるいは半国とも)を安堵していただきたい」と要求し、浦戸城に立てこもった 8 。
事態を重く見た徳川家康は、四国の諸大名に土佐への派兵を命令。新領主の山内一豊も、まずは弟の山内康豊を鎮圧軍の指揮官として土佐へ派遣した 21 。一揆勢は浦戸城に籠城し、約50日間にわたって頑強に抵抗を続けた 25 。しかし、寄せ集めの一揆軍と、正規の訓練を受けた山内軍との戦力差は歴然としており、次第に追い詰められていく。
さらに、長宗我部旧臣の内部でも亀裂が生じ始めていた。上級家臣である「年寄方」と、一領具足を中心とする「家中方」との間では、徹底抗戦か、あるいは新領主に恭順して家名を保つべきかで意見が対立していた 22 。武士としての身分が保証される可能性のある年寄方と、その身分を剥奪される危機にある家中方との温度差は、致命的な分裂を招いた。最終的に、山内側と通じた一部の重臣による謀略によって、一揆の主力が城外におびき出されたところを総攻撃され、組織的な抵抗は終焉を迎えた 22 。
戦後処理は過酷を極めた。鎮圧後、首謀者とみなされた竹ノ内惣左衛門や吉川善助ら273名が捕らえられ、斬首された 8 。その首は、見せしめとして大坂の家康のもとへ送られ、胴体は石丸神社のある地に埋葬されたという 8 。この徹底的な弾圧により、土佐における長宗我部氏の旧臣勢力は一掃され、山内氏による支配体制が確立された。
しかし、この浦戸一揆の悲劇は、単なる戦後処理の一幕では終わらなかった。この事件と、その後の山内氏による旧臣への厳しい扱いは、土佐の地に「上士(山内家譜代の家臣)」と「郷士(旧長宗我部家臣)」という、260年以上にわたって続く厳格な身分制度を生み出す直接的な原因となった。この根深い対立と差別は、江戸時代を通じて土佐藩の社会に暗い影を落とし続け、幕末になると、郷士出身の坂本龍馬や武市半平太らが率いる土佐勤皇党の、反幕府・反藩閥活動の強烈なエネルギー源となる。1600年の浦戸城で流された血は、260年後の日本の夜明けを準備する、遠い伏線となったのである。
終章:滅びの軌跡 ― 盛親の後半生と長宗我部氏の終焉
土佐を追われ、全てを失った長宗我部盛親の人生は、しかし、まだ終わってはいなかった。改易から14年、彼は浪人として雌伏の時を過ごし、やがて時代の大きなうねりの中で、一族再興の最後の望みを賭けて再び歴史の表舞台に姿を現す。その結末は、一人の武将の死と共に、戦国大名・長宗我部氏の物語に完全な終止符を打つものであった。
改易後、盛親は京都に移り住み、徳川幕府が設置した京都所司代・板倉勝重の厳しい監視下で、静かな浪人生活を送った 28 。巷間では、寺子屋を開いて子供たちに手習いを教えていたという逸話も残されているが、その生活は困窮を極め、土佐に残った旧臣たちからの僅かな援助で糊口をしのいでいたとされる 14 。その間、関ヶ原で改易された他の大名が、徐々に罪を許されて小大名として復活していくのを、盛親はどのような思いで見つめていたのだろうか。お家再興の望みは絶たれたままであり、彼の内には焦燥感が募っていった 30 。
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が遂に決定的となり、大坂の陣が勃発すると、盛親に最後の好機が訪れる。豊臣方から、「味方すれば、旧領である土佐一国を与える」という破格の条件で誘いを受けたのである 14 。これを再起の最後の機会と捉えた盛親は、檄文を飛ばして各地に散っていた旧臣たちを呼び集め、意気揚々と大坂城に入城した。
慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣における最大の激戦の一つ、八尾・若江の戦いで、盛親は武将としての真価を発揮する。木村重成と共に徳川軍の藤堂高虎隊と激突した盛親は、鬼気迫る采配を見せた 14 。かつて兄・親忠の運命を左右した因縁の相手である藤堂隊に対し、盛親軍は堤防に兵を伏せるなどの巧みな戦術で猛攻を加え、藤堂軍を一時壊滅状態に追い込んだ。この戦いで藤堂高刑をはじめとする多くの将兵を討ち取るという、大坂方随一の戦果を挙げたのである 33 。
しかし、奮戦も虚しく、友軍の木村重成隊が井伊直孝隊との激戦の末に壊滅。指揮官の重成も討ち死にしたという報が届くと、盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へと撤退した 34 。翌日の天王寺・岡山の最終決戦では、八尾での消耗が激しく、盛親は城に留まり戦闘には参加できなかった 14 。やがて大坂城は落城。盛親は城から逃亡し再起を図るも、潜伏先で捕縛された 14 。
捕らえられた盛親の最期は、潔くも壮絶であった。京都の二条城の柵に縛られ晒し者にされた後、市中を引き回され、5月15日に六条河原で斬首された。享年41 14 。その首は三条河原に晒されたが、後に蓮光寺の僧によって亡骸と共に葬られたという。徳川方は、長宗我部氏の血筋を根絶やしにすることを徹底し、盛親の息子たちも捜し出してことごとく処刑した 7 。これにより、長宗我部元親の直系男子は完全に途絶え、土佐の地に覇を唱えた戦国大名・長宗我部氏は、歴史の舞台から完全にその姿を消したのである。
長宗我部盛親の改易と滅亡は、単に一個人の、そして一族の悲劇に留まるものではない。それは、実力主義と下剋上がまかり通った戦国乱世の価値観が終焉を迎え、徳川幕府という新たな秩序が確立されていく、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。盛親の行動、すなわち豊臣家への恩義を貫いた西軍参加や、家中の論理で断行した兄殺害は、旧来の価値観の中では理解の余地があったかもしれない。しかし、新しい時代の支配者である家康の価値観においては、それらは天下の秩序を乱す許されざる「不義」であった。盛親の滅亡は、新しい時代に適応できなかった者の必然的な結末であり、戦国という時代の真の終わりを告げる、一つの象徴であったと言えよう。
引用文献
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- 長宗我部元親の名言・逸話23選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/182
- 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
- 長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか) 拙者の履歴書 Vol.396~主君の恩義と忠義の果て - note https://note.com/digitaljokers/n/n56f399644e90
- 名君から愚将へと転落した四国の雄・長宗我部元親 - note https://note.com/zuiisyou/n/n0c3425d7ce4f
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- 最後の当主・長宗我部盛親はなぜすべてを失ったのか?…関ヶ原 ... https://sengoku-his.com/614
- 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
- 長宗我部元親墓 | 観光スポット検索 - こうち旅ネット https://kochi-tabi.jp/search_spot_sightseeing.html?id=140
- 名君だったのに… 四国のヒーロー・長宗我部元親の「悲惨すぎる晩年」 息子の死で人格が変わり、家臣を「切腹」させまくった - 歴史人 https://www.rekishijin.com/40232
- 長宗我部元親と土佐の戦国時代・土佐の七雄 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shichiyu/
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