長崎・茂木寄進(1580)
天正八年、大村純忠は龍造寺氏の脅威に対抗し、長崎と茂木をイエズス会に寄進。秀吉の九州平定後、伴天連追放令により長崎は直轄領となり、教会領は終焉を迎えた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正八年 長崎・茂木寄進の真相 ―ある戦国大名の決断が創出した「教会領」の実態と終焉―
序章:戦国日本のなかの「世界」
16世紀後半の日本は、応仁の乱以来続いた百余年の戦乱が終焉を迎え、織田信長、そして豊臣秀吉という傑出した為政者の下で、国家の再統一へと向かう激動の時代であった。国内の政治秩序が再編される一方で、列島は「大航海時代」という世界史的なうねりの中に否応なく組み込まれていく。ポルトガル人がもたらした鉄砲が戦の様相を一変させ、南蛮貿易が一部の大名に莫大な富をもたらした。そして、その貿易船に同乗してきたイエズス会の宣教師たちは、キリスト教という全く新しい価値観を日本社会に提示した。
この時代、経済的利益(南蛮貿易)と宗教活動(キキリスト教布教)は、しばしば不可分なものとして機能した。貿易の利益を求める大名は宣教師を保護し、宣教師はその保護を足掛かりに布教を進めるという、相互依存関係が各地で見られた。本報告書が主題とする天正八年(1580年)の「長崎・茂木寄進」は、この戦国日本とヨーロッパ世界との接触がもたらした、最も特異かつ象徴的な事件である。肥前の小大名であった大村純忠が、自らの領地である長崎港と茂木港をイエズス会に「寄進」し、統治権を譲渡するという、日本史上前代未聞の事態はなぜ発生したのか。その背景には、どのような政治的、軍事的、そして宗教的力学が働いていたのか。本報告は、この歴史的事件を多角的に分析し、その発生から終焉までの時系列を詳細に再構築することで、戦国時代における日本の対外関係の一断面を明らかにすることを目的とする。
第一章:寄進前夜 ―1580年に至る肥前の情勢
大村純忠による寄進という極端な決断は、決して突発的なものではなく、1570年代の肥前国における絶望的な政治・軍事情勢と、イエズス会側の明確な戦略的意図が交差した、いわば必然の帰結であった。
1.1. 「肥前の熊」龍造寺隆信の脅威と大村純忠の窮状
1570年代後半、肥前国は「肥前の熊」の異名を持つ龍造寺隆信の威勢の下にあった。隆信は破竹の勢いで勢力を拡大し、周辺の国人領主を次々と屈服させていた。大村純忠もその例外ではなく、常に龍造寺氏からの強大な軍事的圧力に晒され、領地の存続すら危ぶまれる状況に追い込まれていた。当時の記録によれば、純忠の嫡男である喜前(ドン・サンチョ)や弟たちが龍造寺氏のもとへ人質として送られており、大村氏が事実上、龍造寺氏の半従属的な立場にあったことは明白である 1 。隆信は一度離反した者や裏切り者に対して極めて苛烈な処罰を下すことで知られており 2 、純忠にとって龍造寺氏の存在は、常に一族の命運を左右する脅威であった。
この状況は、大村純忠の選択肢を極端に狭めていた。国内に龍造寺氏に対抗しうる援軍を求めることは困難であり、一族の存亡を賭けた安全保障の活路を、国外の勢力に求めざるを得なかった。すなわち、純忠による長崎・茂木の寄進は、単なる熱心なキリスト教信仰の表明という側面だけでは説明できない。それは、南蛮貿易を背景に持つポルトガル人とイエズス会という強力なアクターを自陣営に深く引き込み、その経済力と国際的な影響力を龍造寺氏への抑止力として利用しようとする、極めて高度な地政学的判断に基づいた戦略的行動だったのである。
1.2. ポルトガル船の寄港地変遷:平戸、横瀬浦、福田、そして長崎へ
寄進の対象が長崎であったことにも、歴史的な必然性があった。ポルトガル船は当初、平戸の松浦氏の庇護下で貿易を行っていたが、領主との関係が悪化すると新たな港を模索し始める 3 。この好機を捉えたのが大村純忠であり、彼は自領の横瀬浦を開港し、南蛮貿易の誘致に成功する。しかし、純忠のキリシタン入信と領内の寺社破壊に反発する勢力によって横瀬浦は焼き討ちに遭い、貿易拠点は灰燼に帰した 4 。
その後、一時的に福田(現・長崎市)が寄港地となったが、この地は外海である角力灘に面しており、冬の季節風が強く、大型のナウ船が安全に停泊するには不向きな場所であった 5 。これらの失敗の経験は、大村氏とポルトガル人・イエズス会の双方にとって、安定した貿易・布教拠点の確保が死活問題であるという共通認識を醸成した。両者は「拠点の脆弱性」という共通の課題を抱えていたのである。
こうした中、1571年に開港された長崎は、湾の奥深くに位置し、三方を丘に囲まれた波静かな天然の良港であり、まさに理想的な場所であった 5 。平戸での不和、横瀬浦での焼き討ち、福田での地理的欠陥という一連の失敗を経てたどり着いた長崎は、両者にとって「今度こそ失ってはならない」恒久的な拠点であった。この強い共通認識が、土地の所有権ごと譲渡し、イエズス会を防衛の当事者とすることで拠点の永続的な安全を確保するという、寄進という前代未聞の発想へと繋がっていったのである。
1.3. イエズス会の戦略と巡察師ヴァリニャーノの構想:日本における恒久的拠点の必要性
寄進という申し出を現実のものとしたのは、イエズス会側の明確な戦略的意図、とりわけ1579年に来日した東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの存在が大きい。巡察師とは、アジア全体の布教戦略を統括する高位の責任者であり、ヴァリニャーノは日本の布教体制を抜本的に改革しようとしていた 8 。彼は、日本の文化や習慣を尊重する「適応主義」という柔軟な方針を打ち出す一方で、布教活動の財政的・軍事的基盤を確立することの重要性を痛感していた 9 。
ヴァリニャーノ自身の記録によれば、彼は長崎と茂木を、単なる港ではなく「十分に強化され、弾薬、武器、大砲、その他の必要なものが備えられる」べき要塞と捉えていた 10 。そして、万が一、日本の為政者によるキリスト教徒への迫害が起こった際に、宣教師たちが安全に避難し、活動を継続できる恒久的な基地として機能させることを構想していた。彼の計画は、毎年一定額(150ドゥカード)を軍備増強に充て、ポルトガル船から弾薬や大砲を継続的に購入するという、具体的なものであった 10 。
この構想は、ヴァリニャーノが日本の戦国大名の論理を深く理解していたことを示唆している。すなわち、自らの実力(経済力と軍事力)によって自らの拠点を守り、そこを基盤に影響力を行使するという「日本のやり方」に、イエズス会自身が適応しようとしたのである。長崎を、貿易利益で自活し、独自の軍事力で防衛し、イエズス会の治外法権が及ぶ「聖域」とすること。これは、日本の領土内に事実上のキリスト教徒による自治領、あるいは شبه国家を建設する試みであった。大村純忠からの寄進の申し出は、この壮大な構想を実現するための、またとない機会だったのである。天正遣欧少年使節の派遣計画 11 もまた、日本とヨーロッパの相互理解を深め、布教活動を有利に進めようとする彼の長期的戦略の一環であった。
第二章:天正八年(1580年)―歴史的寄進の瞬間
大村純忠の窮状とヴァリニャーノの戦略的構想が一致した結果、天正八年(1580年)、長崎と茂木はイエズス会へと寄進された。この章では、寄進に至るまでの出来事の流れを年表で確認し、その契約内容と、そこに込められた大村純忠の意図を分析する。
表1:長崎・茂木寄進に至る主要関連年表(1563年~1588年)
西暦(和暦) |
肥前国の動向(大村氏・龍造寺氏等) |
イエズス会・ポルトガルの動向 |
中央の動向(信長・秀吉) |
1563 (永禄6) |
大村純忠、横瀬浦にて受洗 |
ポルトガル船、横瀬浦に入港 |
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1571 (元亀2) |
長崎甚左衛門、長崎を開港 |
最初のポルトガル船が長崎に入港 7 |
織田信長、比叡山を焼き討ち |
1579 (天正7) |
龍造寺隆信、肥前をほぼ平定 |
巡察師ヴァリニャーノ来日 8 |
信長、安土城天主が完成 |
1580 (天正8) |
大村純忠、長崎・茂木を寄進 7 |
イエズス会、統治権を受領 |
石山本願寺、信長に降伏 |
1582 (天正10) |
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天正遣欧少年使節、長崎を出帆 11 |
本能寺の変、信長死去 |
1584 (天正12) |
沖田畷の戦い、龍造寺隆信が戦死 |
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秀吉、小牧・長久手の戦い |
1587 (天正15) |
大村純忠、死去 13 |
宣教師コエリョ、秀吉と会見 |
秀吉、九州を平定。伴天連追放令発布 7 |
1588 (天正16) |
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秀吉、長崎・茂木・浦上を没収し直轄領とする 7 |
2.1. 寄進契約内容の分析:譲渡された統治権と司法権
寄進によって、長崎と茂木の行政権および司法権はイエズス会が掌握することになった 14 。しかしその実態は、単純な領土割譲ではなかった。ヴァリニャーノの記録や後世の研究によれば、その統治構造は極めて複雑なものであった。
具体的には、日本人住民に関する司法権は、名目上は大村純忠の承認の下、イエズス会が任命する裁判官によって行使された 10 。一方で、長崎に滞在するポルトガル人に対する民事裁判権は、ポルトガル国王の代理人ともいえるポルトガル船団の司令官、カピタン・モールの権限下に留保されていた 15 。
徴税権も同様に分担されていた。イエズス会は、長崎に入港するポルトガル船から停泊料(年間700ドゥカード相当)を徴収する権利を得た 10 。しかし、日本人住民から徴収される諸税の一部は、引き続き大村氏の役人によって徴収されており、純忠は年間1000枚以上の銀貨収入を保持していたとされる 15 。
このように、「教会領長崎」は、イエズス会が一元的に支配する空間ではなかった。そこには、イエズス会(宗教的権威)、ポルトガル王権(カピタン・モールを通じた世俗的権威)、そして大村氏(領主としての名目上の権威と実質的な経済権益)という、三者の権力が重層的に存在する「複合主権空間」が生まれていた。この統治形態の曖昧さと特異性が、後に豊臣秀吉が介入する格好の口実を与える一因となったのである。
2.2. 大村純忠の決断:信仰と実利の狭間で下された「賭け」
家臣たちが驚きを隠せなかったというこの前代未聞の決断 4 は、大村純忠という人物の二つの側面、すなわち「キリシタン大名」としての敬虔な信仰心と、「戦国大名」としての冷徹な現実主義が、極限状況下で奇跡的に融合した結果であった。
純忠は日本初のキリシタン大名として、領内に次々と教会を建て、貧民や病人のための福祉施設を設けるなど、キリスト教の教えを熱心に実践していた 4 。彼にとって、長崎を「キリストとイエズス会に捧げる」ことは、自らの信仰の究極的な表現行為であった。
しかし同時に、その信仰のパートナーであるイエズス会は、南蛮貿易という莫大な富をもたらす唯一の窓口であり、軍事的脅威に対する防波堤でもあった 14 。彼にとって、「信仰を深めること(イエズス会との関係強化)」と「実利を得ること(貿易の安定化と軍事的保護)」は、分かちがたく結びついていた。寄進という一つの行動が、彼の二つのアイデンティティ(キリシタンとして、大名として)の要求を同時に満たす唯一の選択肢だったのである。それは単なる打算や信仰の暴走ではなく、自らの存在そのものを賭けた、絶妙なバランスの上に成り立つ「賭け」であった。
第三章:「小ローマ」の誕生 ―イエズス会統治下の長崎(1580-1587)
寄進後、天正十五年(1587年)に豊臣秀吉によって没収されるまでの約8年間、長崎は日本のどの都市とも異なる、特異な国際宗教都市へと変貌を遂げた。その姿は、さながら日本の「小ローマ」とも呼ぶべきものであった。
3.1. 統治機構の実態と都市の変容
イエズス会の統治下で、長崎の都市開発は飛躍的に進んだ。町の中心にはサン・パウロ教会が壮麗な姿を現し、その他にも10を超える教会堂が次々と建設された 16 。都市計画はポルトガルの首都リスボンをモデルにしたとされ、整然とした格子状の街区が整備されていった 15 。さらに、キリスト教の隣人愛の精神に基づき、貧者や病人を救済するための慈善団体「ミゼリコルジア」の施設も設けられ、福祉活動が組織的に行われた 18 。天正十二年(1584年)には、隣接する浦上村もイエズス会に寄進され、「教会領」はさらに拡大した 19 。
これらの都市建設は、単なるインフラ整備に留まるものではなかった。イエズス会は長崎を、単なる貿易港としてではなく、日本のキリスト教化を推進するための「モデル都市(ショーケース)」として設計・経営したのである。長崎を訪れる日本人に対し、キリスト教世界の豊かさ、秩序、そして慈悲深さを視覚的に示すことで、その教えの優越性を伝えようとした。長崎は、布教の最前線基地であると同時に、キリスト教がもたらす理想社会を具現化するための、強力な宣伝装置でもあった。
3.2. 「武装する教会」:長崎・茂木の要塞化とフスタ船の建造
イエズス会統治下の長崎を最も特徴づけるのは、その「武装化」である。寄進を受けるや否や、ヴァリニャーノの構想に基づき、長崎と茂木の要塞化が直ちに着手された 15 。前述の通り、停泊料収入の一部(年間150ドゥカード)が軍事費として計上され、土塁や堀を巡らし、沿岸には砲台を設置する計画が進められた 10 。
さらに驚くべきことに、イエズス会は日本で初となるヨーロッパ式の小型軍艦(フスタ船)の建造を命じ、これを独自に運用していた 15 。この船の船長には、嵐の中でイエズス会への入会を神に誓ったという経歴を持つ、元兵士のアンブロジオ・フェルナンデスが任命された 15 。この事実は、イエズス会が軍事に関する重要な人事権まで掌握していたことを示している。
このフスタ船の存在は、イエズス会の軍事力が単なる受動的な自衛(籠城)のためだけのものではなかったことを物語る。それは、海上において能動的に軍事行動を展開できる能力の保持を意味した。実際にこの船は、近隣海域のパトロールや、キリシタン大名が関わる地域の紛争に参加していた可能性も指摘されている 15 。
つまり、イエズス会は、他の戦国大名と同様に、軍事力を用いて自らの勢力圏を防衛・拡大しうる政治主体となりつつあった。これは、日本の統一を目指す天下人(後の豊臣秀吉)の視点から見れば、断じて容認できない「国家内国家」の出現に他ならなかった。一宗教団体が、日本の土地に治外法権的な領域を確保し、独自の軍事力を行使すること。これこそが、単なる宗教問題を超えて、国家の統一と主権に関わる重大な脅威と見なされ、後の秀吉による強硬な介入を招く最大の要因となったのである。
第四章:天下人の影 ―豊臣秀吉の九州平定と秩序の激変
天正十五年(1587年)、天下統一の総仕上げとして九州平定に乗り出した豊臣秀吉の出現は、「教会領長崎」の運命を根底から覆すことになる。彼が九州で目の当たりにしたのは、自らが築き上げようとする統一国家の秩序に対する、看過できない挑戦であった。
4.1. 1587年、九州へ:秀吉が初めて見た「日本のなかの異国」
島津氏を討伐すべく、圧倒的な大軍を率いて九州に上陸した秀吉は、その過程で長崎がイエズス会に寄進され、事実上の外国組織の支配下にあるという驚くべき実態を初めて知ることになる 20 。当時の秀吉は、関白の権威をもって日本全国の土地と人民を支配する「天下人」としての地位を確立しつつあった。彼にとって、日本のすべての土地は、究極的には天下人たる自らに帰属するものであり、その許可なくして領地の譲渡が行われることなど、到底認められるものではなかった。
長崎の存在は、秀吉が構築しようとしていた一元的な支配体制、すなわち「天下」という新しい日本の秩序に対する、根本的な挑戦と映った。それは彼の秩序の外側に存在する「例外」であり、これを放置すれば自らの権威が損なわれ、全国の大名統制に悪しき前例を残すことになりかねない。秀吉にとって、長崎問題は単なる一地方の領土問題ではなく、自らの国家構想そのものに関わる重大事だったのである。
4.2. 宣教師コエリョの失策:過信が生んだ秀吉の不信と激怒
事態を決定的に悪化させたのが、当時のイエズス会日本地区の責任者であったガスパール・コエリョの致命的な判断ミスであった。九州平定の最中、秀吉と会見したコエリョは、秀吉の歓心を買うつもりで、いくつかの越権的な行動に出た。彼は、イエズス会が持つフスタ船に秀吉を招待してその軍事力を誇示し、さらには、秀吉が望むならばキリシタン大名を動員して島津攻めに協力できる、といった趣旨の発言をしたと伝えられている。
このコエリョの行動は、秀吉とのパワーポリティクスにおける致命的な誤算であった。彼は、それまで他の戦国大名と行ってきたように、軍事協力や貿易の利益を交渉材料とすることで、秀吉から有利な条件を引き出せると錯覚したのである。しかし、秀吉はもはや一介の戦国大名ではない。彼は、誰かの助けを必要とする存在ではなく、すべての者が彼に従属し、その命令を待つべき絶対的な「天下人」であった。
そのような相手に対し、コエリョが「我々も軍事力を持っている」「キリシタン大名を動員できる」と発言することは、協力の申し出ではなく、潜在的な脅威の誇示であり、対等な勢力であるかのような不遜な態度としか受け取られなかった。秀吉の逆鱗に触れたのは、キリスト教の教義そのもの以上に、彼の絶対的な権威を理解せず、挑戦するかのような態度を取った宣教師の、致命的なまでの政治感覚の欠如であった。
4.3. 伴天連追放令発布の多角的要因
コエリョとの会見後、天正十五年(1587年)6月19日、秀吉は博多・箱崎において突如として「伴天連追放令」を発布する 7 。この決断は、コエリョの失策が直接の引き金となったことは間違いないが、その背景には、九州平定の過程で秀吉の中に蓄積されていった、キリスト教勢力に対する複数の不信感があった。
第一に、長崎寄進という政治的・軍事的脅威である 23 。第二に、ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売買されているという非人道的な実態への嫌悪感があった 23 。第三に、一部のキリシタン大名の領内で行われていた寺社の破壊行為が、日本の伝統的な宗教秩序を乱すものとして問題視された 20 。そして第四に、日本は「神国」であるという思想に基づき、外来の宗教が日本の国体を乱すことへの警戒感があった 23 。
これらの様々な「不信」の要素が、九州を巡る中で秀吉の中に蓄積されていった。そして、コエリョとの会見が最後の引き金となり、それらの不信感が臨界点に達し、爆発した。伴天連追放令は、これらの複合的な危機感に対する、天下人としての包括的な対応策だったのである。
第五章:教会領の終焉と天領長崎へ
伴天連追放令の発布は、「教会領長崎」の運命に終止符を打った。8年間にわたって続いた日本のなかの「異国」は、天下人の絶対的な権力の前になすすべもなく解体され、新たな秩序の中に組み込まれていく。
5.1. 天正十六年(1588年):長崎・茂木の没収と直轄領化の断行
伴天連追放令の発布に続き、秀吉は具体的な措置として、イエズス会に寄進されていた長崎、茂木、そして浦上を没収し、豊臣政権の直轄領(天領)とすることを宣言した 7 。これにより、イエズス会による行政権・司法権の行使は完全に停止され、その統治は名実ともに終焉を迎えた。この没収が断行されたのは、寄進の当事者であった大村純忠が病死してから、わずか1ヶ月後のことであった 13 。
ここで注目すべきは、秀吉が長崎を元の領主である大村氏に返還せず、自らの直轄領とした点である。これは、秀吉の極めて計算高い経済・外交戦略を示している。彼は、伴天連追放令によって宣教師という宗教的・政治的脅威を排除する一方で、南蛮貿易がもたらす莫大な利益は手放そうとしなかった 24 。長崎を直轄領とすることで、秀吉は貿易から上がる利益を独占し、それを管理する長崎代官を直接任命することが可能となった。これにより、南蛮貿易のコントロール権は、一地方大名や一宗教団体の手から、中央政権の手に完全に移ったのである。
この政策は、後の江戸幕府が長崎を天領とし、出島を通じて貿易を国家管理下に置いた政策の先駆けとも言える。秀吉は、長崎という「金のなる木」を自らの財源として確保すると同時に、日本の対外関係の窓口を国家が一元的に管理する体制を築き上げた。この瞬間から、長崎は一地方の港湾都市ではなく、日本の「公式な国際窓口」としての性格を帯び始めることになる。
5.2. 寄進の歴史的意義:国際貿易都市・長崎の礎とキリシタン史の転換点
わずか8年間で終わった「教会領」の時代であったが、その歴史的意義は大きい。この期間に、イエズス会の主導の下で都市としてのインフラが急速に整備され、日本各地から多くのキリシタンが移住し、長崎の国際貿易港としての性格は決定的なものとなった 17 。秀吉が没収した時点で、長崎はもはや単なる漁村ではなく、大きな経済的価値を持つ都市へと成長していた。この基盤があったからこそ、その後の天領長崎の繁栄が可能となったのである。
一方で、この事件は日本の支配者層にキリスト教勢力に対する拭い難い警戒感を植え付けた。一宗教団体が土地の統治権を握り、武装し、日本の政治に介入しようとしたという「長崎の記憶」は、秀吉、そして後の徳川家康にとって、キリスト教の教えそのものだけでなく、その組織力、国際的ネットワーク、そして潜在的な軍事力が、国家の統一と安定を脅かす危険なものであるという強烈な教訓となった 27 。この事件が、後のより厳格な禁教令や、いわゆる鎖国政策へと繋がる大きな伏線となったことは間違いない。
終章:残された遺産
大村純忠という一人の戦国大名の、信仰と生き残りを賭けた個人的な決断から始まった「長崎・茂木寄進」。それは、ヴァリニャーノの壮大な構想と結びつき、「教会領」という日本史上類例のない空間を創出した。しかし、その特異な存在は、天下統一という日本の国内的論理と相容れるものではなく、最終的には国家による秩序の中に吸収され、解体される運命にあった。
この一連の出来事は、皮肉なことに、二つの相反する遺産を後世に残した。一つは、その後の「国際都市長崎」の繁栄の礎を築いたという光の側面。もう一つは、日本の為政者にキリスト教への根深い不信感を植え付け、日本の「キリスト教弾圧」の歴史を決定づけたという影の側面である。
長崎寄進は、戦国時代の日本が、否応なく世界史の大きなうねりと接続した瞬間に咲いた、あだ花であったのかもしれない。しかし、その短い期間に凝縮された政治、宗教、経済、軍事の複雑な力学は、その後の日本の対外政策、宗教統制、そして長崎という都市の運命そのものに、深く、そして矛盾に満ちた影響を与え続けたのである。
引用文献
- 【フロイス日本史】沖田畷の戦い(2) https://sengokumap.net/historical-material/documents16/
- 殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/258456/
- 大村純忠と南蛮貿易 - 大村市 https://www.city.omura.nagasaki.jp/kankou/kanko/kankouspot/kirishitan/nanbanboueki.html
- 大村純忠(おおむら すみただ) 拙者の履歴書 Vol.130~異教の地に咲きし信仰 - note https://note.com/digitaljokers/n/n3790ab239521
- 劇中では描かれない「九州植民地化危機」を救った豊臣秀吉の政治感覚【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1149243
- 「バテレン追放」|日本の植民地化危機を救った秀吉の決断【半島をゆく 歴史解説編 西彼杵半島2】 https://serai.jp/tour/359542
- 長崎歴史文化博物館 (伝播と反映、弾圧)|検索詳細 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00781.html
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- 1580年、長崎はローマ・カトリック教会のイエズス会に譲渡されました。イエズス会の「支配」下での長崎の日常生活はどのようなものだったのでしょうか?イエズス会はどの程度直接長崎を統治したのでしょうか?長崎の住民、ポルトガル人貿易 - Reddit https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/uycl30/in_1580_nagasaki_was_ceded_to_the_jesuit_order_of/?tl=ja
- 長崎新キリシタン紀行-vol.1 キリスト教の伝来と繁栄 - ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/shin-kirishitan/1
- キリスト教の伝来と繁栄の時代 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/monogatari/monogatari-01
- ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 『フロイス日本史』を読ん ... https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1703/index.html
- 長崎から世界の宝へ ~長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産登録を目指して - 長崎市 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/smart/t201204.html
- 長崎はポルトガル領だった!?・世界史とつなげて学べ超日本史 ⑳Audible - note https://note.com/wakei20/n/n1d61864a48ce
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- 大村純忠による苦肉の策!?なぜ長崎はイエズス会領になったのか ... https://articles.mapple.net/bk/13325/?pg=2
- なぜ日本はキリスト教を厳しく禁じたんですか? - 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 https://kirishitan.jp/guides/689
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