最終更新日 2025-09-30

長崎奉行設置(1614)

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慶長十九年 長崎奉行設置の深層:戦国終焉と徳川幕府による国家統制の確立

序章:天下統一の最終局面と国際港長崎

慶長十九年(1614年)、徳川幕府が長崎に「奉行」を設置したという事実は、日本の歴史における一つの画期をなす出来事である。これは単なる一地方都市における行政機構の変更に留まらず、戦国乱世の終焉と、それに続く新たな中央集権国家の誕生という、巨大な歴史的転換を象徴するものであった。この報告書は、1614年という特異な時点において、国際港長崎が置かれていた複雑な状況を解き明かし、徳川家康がなぜこのタイミングで、この地に強力な直接支配の楔を打ち込む必要があったのかを、政治、経済、宗教、そして軍事という多角的な視点から徹底的に分析するものである。

関ヶ原の戦いから十数年が経過し、徳川家康が築き始めた「天下泰平」の構造は、徐々にその輪郭を現しつつあった。しかし、その平和は未だ磐石ではなかった。大坂城には豊臣秀頼が依然として健在であり、その周囲には徳川の支配を快く思わない浪人や大名が集い、天下はなお二人の主君を戴くという不安定な状態にあった。全国の大名も完全に心服したわけではなく、水面下では様々な思惑が渦巻く、緊張感をはらんだ時代の空気が日本全土を覆っていた。

このような時代背景の中、肥前国長崎は、日本の他のどの都市とも全く異なる貌を持っていた。元亀二年(1571年)の開港以来、ポルトガルとの南蛮貿易の拠点として急速に発展したこの港町は、当初、キリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進され、教会領として特異な発展を遂げた 1 。その後、天正十六年(1588年)には豊臣秀吉によって直轄地(天領)とされたものの、その統治は複雑な様相を呈していた 1 。キリスト教文化が深く根付き、多くの教会が立ち並ぶ様は「東の小ローマ」とまで称されるほどの繁栄を謳歌していた 4 。長崎は、いわば日本の伝統的な秩序から半ば独立した、国際性と宗教色が色濃い一種の「治外法権」的な空間だったのである。

本報告書は、この特異な都市・長崎に対し、徳川幕府がなぜ天下分け目の決戦(大坂の陣)を目前にした1614年という年に、「奉行」という強力な統制機関を設置するに至ったのか、その歴史的必然性を解明することを目的とする。それは、代官体制から奉行直轄への移行という単純な行政改革ではなく、徳川による新たな国家秩序の創出過程における、極めて戦略的な一手であった。

第一章:奉行設置以前の長崎 ― 自治と代官支配の二重構造

慶長十九年(1614年)以前の長崎は、徳川幕府の直接的な統制が完全には及ばない、複雑で重層的な支配構造下にあった。そこでは、町人たちによる高度な自治と、豊臣政権以来の伝統を持つ「代官」による支配という、二つの権力が併存・競合する独特の統治体制が形成されていた。この体制は、長崎の経済的繁栄を支える原動力であったと同時に、幕府にとっては統制の及ばない、潜在的な不安定要因でもあった。

町人による高度な自治

長崎の市政は、驚くべきことに、その大部分が町人の自治組織によって運営されていた 5 。この自治の中核を担ったのが、「町年寄(まちどしより)」と呼ばれる役職である。当初は「頭人(とうにん)」と呼ばれ、長崎開港当初に形成された6町のリーダーであった高木勘右衛門、高島了悦、後藤惣太郎、町田宗賀といった有力商人たちがその任に就いた 5 。彼らは世襲的にその地位を継承し、長崎の中心市街地である「内町(うちまち)」23町を実質的に支配していた 5

町年寄の下には、各町を代表する「乙名(おとな)」やその補佐役である組頭、さらには貿易実務に不可欠な通詞(通訳)など、多種多様な役職が存在した 5 。これらの役職は総称して「地役人(じやくにん)」と呼ばれ、その数は天保九年(1838年)の記録によれば2069人にも達し、これは当時の長崎の全町人のうち、実に13人に1人が何らかの役職に就いていた計算になる 5 。この地役人たちが形成する緻密なネットワークこそが、複雑な南蛮貿易の実務から日々の市政運営まで、長崎という都市のあらゆる機能を支えていた。他の城下町では到底見られないこの大規模な町人自治組織の存在は、長崎の際立った特徴であった 5

豪商代官・村山等安の権勢

町年寄が支配する内町に対し、新しく開発された市街地である「外町(そとまち)」を支配していたのが、長崎代官・村山等安(むらやま とうあん)であった 5 。彼の存在は、奉行設置以前の長崎を象徴するものであった。

等安の出自は尾張、安芸、博多など諸説あり定かではないが、無名の人物から長崎の支配者へと成り上がった、まさに戦国的な実力主義の体現者であった 7 。天正年間に長崎に流れ着いた彼は、その才知と弁舌、そしてポルトガル語の能力を武器に頭角を現す 8 。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵のために名護屋に在陣していた豊臣秀吉に長崎惣代として謁見し、その機知に富んだ対応で信頼を勝ち取り、長崎代官に任命されたと伝えられる 9 。彼の洗礼名はアントニオ(Antonio)であり、秀吉はこれを逆から読み、「等安(とうあん)」という名を与えたという逸話も残っている 10

重要なのは、村山等安が単なる行政官ではなかったという点である。彼は自身も朱印船貿易を手がけ、呂宋壺(るそんつぼ)の取引などで巨万の富を築いた豪商であった 7 。さらに、熱心なキリシタンでもあり、長崎のキリシタン社会においても強い影響力を持っていた 10 。豊臣政権が倒れ、徳川の世になっても、家康は彼の能力と長崎における影響力を認め、代官としての地位を追認した 10 。これにより、等安は長崎の経済と権力を一身に集める、まさに「長崎の王」とも言うべき存在となっていたのである。

潜在的な不安定性

この「町年寄による内町支配」と「代官による外町支配」という二重構造は、一見すると機能的に分担されているように見える。しかし、天下統一を進め、中央集権体制の確立を目指す徳川幕府の視点から見れば、これは極めて深刻な問題をはらんでいた。権力の所在が曖昧であり、幕府の命令が末端まで浸透しにくい構造であったからだ。

特に、村山等安の存在は看過できないものであった。彼はキリシタンであり、その出自は豊臣秀吉に見出された、いわば豊臣恩顧の人物である。彼が長崎の富と権力を掌握している状況は、幕府にとって潜在的なリスク以外の何物でもなかった。幕府は長崎がもたらす莫大な貿易利益を必要としていたが、その貿易実務は地役人や代官といった、必ずしも幕府に絶対的な忠誠を誓っているとは言えない町人たちの手に委ねられていた 13 。この武士の権威と町人の実務能力との間に存在する、緊張感を伴った相互依存関係こそが、奉行設置以前の長崎統治の本質であった。この構造的矛盾を解消し、長崎の富と情報を完全に幕府の管理下に置くこと。それこそが、幕府がより強力な直接支配体制、すなわち「奉行」の設置を志向する根本的な動機となったのである。

第二章:幕府の対外・対キリシタン政策の転換 ― 奉行設置への序曲

慶長十九年(1614年)の長崎奉行設置は、突如として行われたわけではない。それに至るまでの約10年間、徳川幕府の対外政策および国内のキリシタンに対する政策は、大きな転換期を迎えていた。経済面における貿易統制の強化と、宗教・政治面におけるキリシタンへの警戒感の増大という二つの大きな潮流が、やがて長崎の統治体制の抜本的改革という一点に収斂していくことになる。

経済的統制の強化:糸割符制度の導入(慶長9年/1604年)

徳川政権が長崎に対して直接介入を強める最初の大きな一歩は、経済的な側面から始まった。当時、南蛮貿易における最大の輸入品は、マカオ経由でポルトガル商人がもたらす中国産の生糸(白糸)であった 1 。日本の絹織物業にとって不可欠なこの商品の価格決定権は、完全にポルトガル商人の側にあり、彼らは日本の需要の高さを利用して莫大な利益を上げていた 14 。これは、日本の銀が大量に国外へ流出することを意味していた 1

この状況を問題視した徳川家康は、慶長九年(1604年)、画期的な貿易統制策である「糸割符制度(いとわっぷせいど)」を導入する 15 。これは、ポルトガル船がもたらす全ての生糸を、幕府が指定した特定の商人集団(当初は京都・堺・長崎の商人からなる糸割符仲間)に一括で独占的に購入させる制度である 16 。糸割符仲間はポルトガル商人と価格交渉を行い、決定した価格で全量を買い取った後、国内の他の商人に売りさばいた。これにより、ポルトガル商人同士の価格吊り上げ競争を防ぎ、生糸の輸入価格を幕府の管理下に置くことを目指したのである。この制度は、長崎貿易の利益を外国商人の手から奪い、幕府のコントロール下に置こうとする明確な意思の表れであり、自由貿易から管理貿易へと舵を切る重要な第一歩であった。

政治的転換点:岡本大八事件(慶長17年/1612年)

経済的な統制強化と並行して、幕府のキリシタンに対する姿勢を決定的に硬化させる事件が発生する。慶長十七年(1612年)に発覚した「岡本大八事件」である。

この事件は、キリシタン大名であった肥前日野江藩主・有馬晴信が、かつて幕府に没収された旧領の回復を画策したことに端を発する 18 。晴信は、家康の側近である本多正純の家臣で、同じくキリシタンであった岡本大八に接近。大八は「旧領回復の件は、自分が本多正純を通じて家康公に取り計らう」と虚偽を語り、晴信から多額の運動資金を受け取った 18 。しかし、いつまで経っても約束が果たされないことに業を煮やした晴信が、事の次第を家康に直訴したことで、大八の詐欺行為が露見した。

この事件の顛末は、幕府に大きな衝撃を与えた。単なる汚職事件としてではなく、キリシタンという共通の信仰で結ばれた者たちが、幕府の秩序を無視して私的な利益のために徒党を組み、大名を欺き、幕政を壟断しようとしたと家康の目には映ったのである 19 。当初、家康は南蛮貿易がもたらす利益を重視し、キリスト教の布教に対しては黙認に近い姿勢をとっていた 20 。キリスト教はあくまで「宗教」の問題、あるいは「貿易の付随物」として認識されていた。しかし、この岡本大八事件は、その認識を根底から覆した。大名(有馬晴信)と幕臣(岡本大八)がキリスト教という絆で結びつき、幕府の統制外で行動するという脅威が現実のものとなった。キリスト教は、大名の野心と結びつくことで、幕府の支配体制そのものを揺るがしかねない「政治的・軍事的脅威」、すなわち「国家安全保障」上の問題へと再定義されたのである。

禁教令の発布と段階的強化

岡本大八事件の判決が下された同日、慶長十七年(1612年)三月二十一日、幕府は直轄領に対してキリスト教禁教令を公式に発布した 19 。これは、それまでの散発的な規制とは一線を画す、幕府による本格的な弾圧の始まりであった。そして翌慶長十八年(1613年)には、この禁教令を全国に拡大し、金地院崇伝に起草させた「伴天連追放之文」を二代将軍・徳川秀忠の名で発布。全国の大名に対し、領内のキリシタンの棄教を厳命した 19

この全国的な禁教令への流れの中で、岡本大八事件の当事者であった有馬晴信の旧領(島原半島)は、息子の直純が日向延岡へ転封されたことにより、幕府の天領となった 19 。これにより、長崎周辺における幕府の直轄支配地は大きく拡大し、後の奉行による一元的な統治の基盤が固められていく。キリシタンという「国家安全保障上の脅威」の最大拠点である長崎の統治体制を、もはやキリシタン代官である村山等安に委ねておくことはできない。この新たな脅威認識のもと、長崎の「統治の空白」を埋めるための抜本的な外科手術、すなわち奉行の設置が、幕府にとって不可避の政治課題として浮上したのである。

第三章:慶長十九年(1614年)の激動 ― 「長崎奉行」誕生のリアルタイム・クロノロジー

慶長十九年(1614年)は、日本の歴史が大きく動いた年であった。西では豊臣家との最終決戦である大坂の陣の火蓋が切られ、東では徳川幕府による全国的なキリシタン弾圧がその頂点を迎えた。そして、この二つの歴史的事件が交錯する地点に、国際港長崎は位置していた。この章では、全国禁教令の本格的発動から教会破壊、信徒追放に至る一連の出来事が、大坂へ向かう緊迫した国内情勢と並行して、長崎でいかに迅速かつ徹底的に進められたかを時系列で追う。


【表1】慶長17年~慶長19年(1612~1614年)関連年表

年月

江戸・駿府の動向(幕政)

長崎の動向

その他の国内情勢(大坂など)

慶長17年 (1612)

3月

岡本大八事件の判決。大八は火刑、有馬晴信は改易の上、甲斐へ配流(後に死罪)。

判決と同日、幕府直轄領に対しキリスト教禁教令を発布 19

幕領である長崎でも禁教令が適用され、弾圧の緊張が高まる。

慶長18年 (1613)

2月

禁教令を全国に拡大。「伴天連追放之文」を発布 19

宣教師や信徒への圧力が一層強まる。

有馬直純、父・晴信の旧領を没収され、日向延岡へ転封。島原半島が天領となる 19

慶長19年 (1614)

1月

全国への禁教令を再徹底。

長崎での弾圧が本格化。市内に8つあったとされる教会堂の破壊が開始される 23

7月

方広寺鐘銘事件が起こり、徳川・豊臣間の緊張が頂点に達する。

9月

高山右近ら主だったキリシタン、宣教師らがマニラ、マカオへ国外追放される 19

10月

豊臣家への宣戦布告。

大坂冬の陣が勃発。

(この年)

長谷川藤広を長崎に派遣し、キリシタン弾圧と貿易管理を指揮させる 25

長谷川藤広の指揮の下、幕府による直接統治が強化され、代官・村山等安の権限は形骸化。事実上の奉行体制へ移行。


弾圧の嵐と「東の小ローマ」の終焉

年が明けた慶長十九年(1614年)、幕府は全国への禁教令を本格的に発動させた 26 。その最大の標的となったのが、日本のキリシタン信仰の中心地であった長崎である。この年の初頭から、長崎では苛烈な弾圧の嵐が吹き荒れた。

まず、市中に林立していた壮麗な教会堂が、幕府の厳命により次々と破壊された 23 。サント・ドミンゴ教会をはじめ、鐘楼を備えた8つもの教会が打ち壊され、その跡地にはキリシタンを取り締まるための役所や、仏教寺院が意図的に建立されていった 23 。かつて定刻に鳴り響き、市民に時を告げていた教会の鐘の音は完全に消え去り、街は不穏な沈黙と緊張に包まれた 24 。ミゼリコルディアと呼ばれた慈悲の施設(福祉施設)も、この弾圧の中でその歴史に幕を下ろした 29

弾圧は建造物だけに留まらなかった。長崎市中のキリシタンに対しては、棄教の強要が激しさを増した。全国の宣教師や修道士は長崎に集められ、国外追放の準備が進められた。そして9月から10月にかけて、その追放が断行される。かつてのキリシタン大名であった高山右近や内藤如安、そして多くの宣教師たちを含む主だったキリスト教徒が、マニラやマカオへと追放されたのである 19 。これは、日本のキリシタン共同体から指導者層と精神的支柱を根こそぎ奪い、組織を瓦解させることを目的とした、極めて計画的な措置であった。

大坂の陣との戦略的連動

長崎でこの徹底した弾圧が進められていたのと全く同じ時期、日本の政治情勢は最終局面へと向かっていた。この年の7月、京都で方広寺鐘銘事件が起こり、これを口実として徳川家康は豊臣家との対決姿勢を鮮明にする。そして10月、ついに大坂冬の陣が勃発した。

この二つの出来事、すなわち長崎におけるキリシタン弾圧と大坂の陣の勃発は、単なる偶然の同時発生ではない。これらは、家康による「天下平定」事業の最終段階における、**「思想戦(対キリシタン)」 「軍事戦(対豊臣)」**という、相互に補完しあう一体の戦略であったと分析できる。

兵法の要諦は、大軍を動かす際に背後を固めることにある。西国に位置し、武器(鉛や火薬)の主要な輸入拠点であり 30 、かつ幕府の支配イデオロギーと相容れないキリシタンの温床である長崎は、家康にとって最大の「背後の憂い」であった。もし、豊臣方が長崎のキリシタン勢力や、彼らと関係の深いポルトガルなどと連携するような事態になれば、幕府は東西から挟撃される危険性すらあった。したがって、家康は大坂へ兵を進める前に、長崎を思想的にも物理的にも完全に無力化し、幕府の直接管理下に置く必要があった。

この重大な任務を現地で指揮したのが、家康の側近である長谷川藤広であった 25 。彼の長崎における一連の活動(教会破壊、信徒追放、貿易管理)は、事実上の「奉行」としての職務遂行に他ならなかった。この過程で、それまで長崎を支配してきた代官・村山等安の権限は急速に失われ、形骸化していった。慶長十九年(1614年)の「長崎奉行設置」とは、この年に長崎で展開された幕府による直接統治の現実を、公式に制度として追認する、総仕上げの意味合いを持つものであった。長崎の制圧は、大坂攻略のための不可欠な戦略的布石だったのである。

第四章:初代長崎奉行の権限と役割 ― 幕府直轄統治の具現化

慶長十九年(1614年)に確立された「長崎奉行」という役職は、それまでの代官とは比較にならない、絶大かつ多岐にわたる権限を有していた。それは、幕府が長崎を単なる一地方都市としてではなく、国家の対外関係と安全保障を担う最重要拠点と位置づけていたことの証左である。長崎奉行は、幕府中央から派遣された「全権代理人」として、長崎におけるあらゆる事象を掌握し、徳川の意思を直接的に具現化する役割を担った。

長崎奉行の職務権限の全貌

新たに設置された長崎奉行の職務は、市政、貿易、外交、宗教、司法、軍事の全てに及ぶ、極めて広範なものであった。

  • 身分と格式: 長崎奉行は、幕府の最高意思決定機関である老中に直属する遠国奉行という位置づけであった 31 。旗本の中から任命され、その席次は江戸町奉行に次ぎ、京・大坂の両町奉行よりも上席という、非常に高い格式を誇った 31 。これは、長崎という土地の重要性を物語っている。
  • 市政・民政: 長崎市中の統治全般を監督する権限を持っていた 31 。貿易実務や日常的な町政運営の多くは、依然として町年寄や乙名といった地役人たちに委ねられていたが、それはあくまで奉行の監督下でのことであり、最終的な決定権と監督権は奉行が掌握していた 13
  • 貿易・外交: ポルトガル(後にオランダ)や中国との貿易管理、通商交渉、さらには来航する外国人の監視といった、対外関係の全てをその管轄下に置いた 31 。特に、幕府の許可を得ない密貿易(抜け荷)の取り締まりは、国家の財政と安全保障に関わる最重要任務の一つであった 31
  • キリシタン取締: 全国禁教令の施行に伴い、西国におけるキリシタンの探索、摘発、処罰の中心的な役割を担った 31 。長崎奉行所は、まさにキリシタン弾圧の最前線基地であった。
  • 司法権: 長崎およびその周辺の天領における刑事裁判権を掌握していた 31 。追放刑までは奉行の独断で裁許することができたが、遠島(流罪)や死罪といった重罪に関しては、江戸の幕府に判断を仰ぎ(御仕置伺)、その指示に基づいて刑を執行するという手続きが定められていた 33 。これは、重大な権限行使において幕府中央の権威を担保するための仕組みであった。
  • 軍事・監察権: 長崎奉行の権限の中で最も特筆すべきは、九州の諸大名を指揮し、異国船の来航に備えた沿岸警備など、海防の任務にあたる権限を有していた点である 31 。これは、一介の奉行が、大大名を含む周辺の諸藩を軍事的に動員できるという、極めて強力な権限であった。

代官体制との決定的差異

この広範な権限は、それまでの代官・村山等安のそれとは本質的に異なっていた。等安は、外町の支配権と自身の朱印船貿易に根差した「地域の有力者」であり、その権力基盤は長崎という土地に限定されていた。対して長崎奉行は、幕府中央の権威を背景に、長崎の枠を越えて西国全体に影響を及ぼす権限を持つ「幕府の代理人」であった。支配の質、範囲、そして権力の源泉において、両者は全く異なる存在だったのである。

この新しい役職の基礎を築いたのは、徳川政権下で最初に奉行に任じられた小笠原一庵(慶長8年/1603年就任)や 35 、そして慶長十九年(1614年)の体制強化を主導した長谷川藤広 25 、その後を継いだ長谷川藤正(権六)といった家康の側近たちであった 37 。彼らは、幕府の強固な意思を長崎で実行し、混沌とした国際港を幕府の厳格な管理下に置くという困難な任務を遂行したのである。


【表2】長崎統治体制の比較(奉行設置以前 vs. 設置以後)

比較項目

代官体制(~1614年頃)

奉行体制(1614年~)

統治主体

豪商・村山等安(代官)、有力町人(町年寄)

幕府派遣の旗本(奉行)

任命根拠

豊臣秀吉による任命(徳川政権が追認)

江戸幕府(老中)による任命

支配領域

外町(代官)、内町(町年寄)の二重支配

長崎市中および周辺天領の一元的支配

主要任務

外町の行政、貿易利権の確保

市政、貿易、外交、司法、軍事、宗教の全般統制

権限の源泉

個人の才覚、経済力、長崎内での影響力

幕府中央の絶対的な権威

対町人関係

協力・競合関係(代官も町人の一人)

支配・監督関係(武士による統治)

軍事権限

なし

九州諸大名の指揮権(海防)


この長崎奉行に与えられた権限を詳細に分析すると、その設置目的が単に長崎一都市の統治に留まらない、より広範な戦略的意図を持っていたことが明らかになる。「九州諸大名への指揮権」という項目は、通常の地方行政官の権限を大きく逸脱している。九州には、島津、鍋島、黒田、細川など、関ヶ原の戦いでは徳川に敵対、あるいは日和見的な態度をとった有力な外様大名が数多く存在した。彼らは幕府にとって常に潜在的な脅威であった。

これらの大名を江戸から直接コントロールするには、地理的な隔たりが大きい。そこで幕府は、九州の経済と情報の中心地である長崎に、絶対的な権威を持つ代理人として奉行を常駐させた。そして、「異国船警備」という誰も反対できない大義名分のもとで、奉行に周辺大名を動員する権限を与えたのである。これにより、幕府は平時から西国大名への指揮系統を確立し、彼らの軍事力を事実上、幕府の管理下に置くことが可能となった。長崎奉行の設置は、対外政策であると同時に、極めて高度な国内政治、すなわち対外様大名政策の一環であった。長崎は、外に向かっては日本の「窓」であり、内に向かっては西国大名に打ち込まれた「楔」としての役割を担わされたのである。

第五章:長崎奉行設置の歴史的意義と影響 ― 「戦国」から「天下泰平」への転換点

慶長十九年(1614年)の長崎奉行設置は、徳川幕府による支配体制の確立過程において、決定的な重要性を持つ一里塚であった。この出来事は、その後の日本の対外関係、国内統治、さらには文化のあり方にまで、長期的かつ不可逆的な影響を及ぼした。それは、日本が「戦国」という流動的で分権的な時代に完全に別れを告げ、厳格な管理と秩序に基づく「天下泰平」の時代へと移行したことを象徴する、画期的な転換点だったのである。

幕府による直接的・一元的な支配体制の確立

長崎奉行の設置によって、それまで長崎に存在した町人による高度な自治や、豪商代官が権勢を振るうといった「戦国的」な分権状態は終焉を迎えた。村山等安は、台湾遠征の失敗などをきっかけに求心力を失い、元和五年(1619年)、ライバルであった末次平蔵の告発により、キリシタンであることや大坂の陣での豊臣方への内通疑惑を問われ、一族もろとも処刑された 7 。これは、実力でのし上がった戦国的な人物の時代の終わりを告げる象徴的な事件であった。代わって、幕府の権力が奉行を通じて長崎の隅々にまで貫徹する、中央集権的な支配体制が確立された。

「自治都市」から「幕府の窓口」への変質

この統治体制の変革は、長崎という都市の性格そのものを根本的に変えた。かつての自由闊達でコスモポリタンな気風は影を潜め、長崎は幕府の厳格な管理の下で、対外関係という特定の「機能」を担う都市へと変貌を遂げた。その後の出島建設によるポルトガル人(後にはオランダ人)の隔離 1 や、唐人屋敷の設置による中国人の居住区限定といった一連の政策も、すべてはこの奉行による管理体制の延長線上にある。長崎は、世界に開かれた「国際自由都市」から、幕府によって厳しく管理された「国家の窓口」へとその役割を規定され直したのである。

鎖国体制への道筋

長崎奉行という強力な管理機構の存在なくして、その後の200年以上にわたる鎖国体制の維持は不可能であった。寛永十六年(1639年)のポルトガル人の完全追放 1 、貿易相手のオランダと中国への限定、そして海外渡航の厳禁といった一連の鎖国政策を実効あらしめたのは、まさしく長崎奉行所という制度的インフラであった。奉行は、人・モノ・情報の出入りを厳格に管理し、幕府の禁制を破る者(特にキリシタンと密貿易)を徹底的に取り締まった。その意味で、1614年の奉行設置は、鎖国という壮大な国家プロジェクトの礎を築く、不可欠な一歩だったのである。

「戦国」の終焉の象徴として

長崎奉行の設置は、より広い文脈において、一つの時代の終わりを告げるものであった。戦国時代に特徴的であった、地方の自律性、比較的自由な海外との交流、そして身分を越えた実力主義といった気風は、幕府から派遣された武士官僚によるトップダウンの支配によって、長崎の地から払拭された。これは、日本全体が「動」の時代から「静」の時代へ、すなわち絶え間ない変化と競争の時代から、固定化された秩序と安定の時代へと移行したことを象徴する出来事であった。

この1614年の決定は、短期的な目的をはるかに超えた、長期的な帰結をもたらした。長崎奉行の設置は、貿易、人、情報、宗教の全てを幕府の管理下に置くことを目的としていた。この管理体制が鎖国へと繋がり、長崎は日本で唯一、西洋に開かれた窓口となった。唯一の窓口であるということは、そこから流入する情報もまた、幕府(奉行所)によって独占・管理されることを意味する。江戸時代を通じて、蘭学に代表される西洋の科学技術や知識は、この長崎という厳格なフィルターを通して、極めて限定的に日本へともたらされた。この「管理された窓口」という構造は、幕末に黒船が来航し、日本が急速な近代化を迫られるまで、日本の知的発展の経路を規定し続けることになる。その意味で、慶長十九年(1614年)の長崎奉行設置は、単にキリシタンを弾圧し、貿易を管理するという目前の課題に対応しただけでなく、結果として、その250年後の日本の姿をも左右する、極めて長射程の歴史的決定だったのである。

引用文献

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  2. 「ナガジン」発見!長崎の歩き方 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1204/index1.html
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  5. 長崎の歴史は貿易とともに発展!町人が主役の特異で特例だらけの ... https://articles.mapple.net/bk/13327/?pg=2
  6. その町年寄の下僚である出島乙名や阿蘭陀通詞など - 長崎市 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0608/index2.html
  7. 村山等安(むらやまとうあん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E7%AD%89%E5%AE%89-140906
  8. 村山等安 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E7%AD%89%E5%AE%89
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