最終更新日 2025-09-13

長崎開港(1571)

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元亀二年の選択:戦国九州の力学と国際港湾都市・長崎の誕生

序章:戦国日本の西辺と大航海時代の邂逅

元亀二年(1571年)、肥前国の一隅で産声を上げた長崎港の開港は、単なる一地方都市の誕生に留まる歴史的事件ではない。それは、日本の内乱、すなわち戦国時代という国内情勢と、ポルトガル・スペインが牽引する大航海時代という世界史的な潮流が、九州の西辺で交差した必然の帰結であった。この事象を深く理解するためには、その背景にある二つの大きな文脈、すなわち日本の政治的分裂と南蛮貿易の戦略的価値をまず把握する必要がある。

16世紀半ばの日本は、織田信長が中央でその勢力を伸長させつつあったものの、依然として全国各地に大小の戦国大名が群雄割拠する乱世の渦中にあった 1 。この統一権力の不在という政治的状況は、裏を返せば、日本へ来航するポルトガル人にとって、自らの利益を最大化できる交渉相手を自由に選択できるという好機をもたらした。彼らは貿易の利権とキリスト教布教の自由を天秤にかけ、最も有利な条件を提示する大名と手を結ぶことができたのである。

一方、日本の戦国大名にとって、1543年の鉄砲伝来以降に始まった南蛮貿易は、単に珍しい舶来品や生糸を輸入するための経済活動ではなかった。それは、自らの軍事力を根底から覆し、戦の勝敗を決定づける戦略物資、すなわち火縄銃とその弾薬に不可欠な硝石を確保するための生命線であった 2 。特に、周辺を強力な敵対勢力に囲まれた弱小大名にとって、南蛮貿易の独占は、自らの存亡を賭けた唯一の活路となり得た。

この文脈において、長崎開港は、地方の小大名であった大村純忠が、グローバルな経済・軍事ネットワーク(ポルトガル)を直接自領に引き込むことで、国内の有力大名である龍造寺隆信の軍事的脅威に対抗しようとした、極めて高度な地政学的戦略であったと分析できる。大村氏は兵力において龍造寺氏に明らかに劣っていた 2 。この劣勢を覆すには、既存の国内の力学の外から、鉄砲という軍事技術革新をもたらす新たな力を導入する必要があった。しかし、その貿易の主導権はポルトガル側にある。彼らを引きつけるためには、彼らが渇望する「安定した良港」と「布教の完全な自由」という二つの条件を提示することが不可欠であった 4 。したがって、大村純忠のキリスト教への傾倒と港の提供は、個人的な信仰心のみならず、目前の軍事的脅威を排除し、自らの領国を生き残らせるための非対称戦的な生存戦略であった。

本報告書は、この視座に基づき、1571年の長崎開港という一点に収斂するまでの歴史的プロセスを、時系列に沿って徹底的に解明する。まず、ポルトガル貿易港が平戸から長崎へと至るまでの試行錯誤の変遷を追い、次に関係者たちの複雑に絡み合う利害を分析する。そして、開港の瞬間のリアルタイムな状況を再現し、その直後の長崎の変貌と、やがて来る天下統一の波に飲み込まれていく様を描き出すことで、この歴史的事件の全貌を明らかにするものである。

第一章:前夜 ― 「さまよえる南蛮船」の時代(1550年~1569年)

1571年の長崎開港は、決して突発的な出来事ではなかった。それは、ポルトガル船が安定した貿易拠点を求めて九州の西海岸を「さまよった」、約20年間にわたる試行錯誤と数多の失敗の末にたどり着いた「最適解」であった。この前史を時系列で追うことは、なぜ最終的に長崎が選ばれなければならなかったのかを理解する上で不可欠である。

1550年~:南蛮貿易の黎明期・平戸

ポルトガル船が日本との貿易を本格化させた当初、その主要な拠点は肥前国の平戸であった 4 。領主であった松浦隆信は、南蛮貿易がもたらす莫大な富を歓迎したものの、その背後に常に存在するキリスト教の布教活動に対しては、一貫して消極的、あるいは警戒的な姿勢を取り続けた 4 。この「貿易は欲するが、布教は拒む」という領主の態度は、貿易と布教を一体不可分のものと考えるポルトガル側との間に、埋めがたい根本的な軋轢を生じさせる原因となった。

1561年:永禄四年の亀裂「宮ノ前事件」

両者の間にくすぶっていた不和は、永禄四年(1561年)、ついに暴力的な形で噴出する。平戸の宮ノ前において、日本人とポルトガル人との間で商取引をめぐる些細な対立が武力衝突へと発展し、ポルトガル船長以下十数名が殺害されるという「宮ノ前事件」が発生したのである 8 。この事件は、ポルトガル側にとって、平戸がもはや安全な貿易港ではないことを決定的に印象づけた。領主の支配が不安定で、自国民の生命と財産が保障されない港に、毎年危険を冒して来航することはできない。この事件を直接的な引き金として、ポルトガル側は平戸に代わる、より安定的でキリスト教に寛容な新しい港を本格的に探し始めることになった 9

1562年~1563年:最初の実験港・横瀬浦

平戸に見切りをつけたポルトガル人が次なる拠点として白羽の矢を立てたのが、大村純忠の領内にある横瀬浦であった 4 。純忠は、松浦氏とは対照的に、キリスト教の布教を全面的に許可するという破格の条件を提示してポルトガル船を招致した 5 。これにより横瀬浦は急速に発展し、教会が建てられ、多くの商人が集う国際貿易港の様相を呈し始めた。純忠自身も翌1563年に受洗し、日本初のキリシタン大名となり、ポルトガル側との蜜月関係を築こうと試みた 11

しかし、この純忠の急進的なキリスト教傾倒と、それに伴う領内の寺社の破壊といった過激な政策は、古来の仏教を信仰する家臣団や領民の間に深刻な亀裂と激しい反発を招いた 8 。この内部対立に乗じたのが、純忠と領地を争う宿敵、武雄の後藤貴明であった。後藤は純忠に不満を抱く勢力を扇動し、横瀬浦を襲撃。わずか1年で築かれた国際港は、反乱軍によって焼き払われ、灰燼に帰してしまった 5 。横瀬浦の悲劇は、ポルトガル側と純忠の双方に、領主個人の協力姿勢だけでは港の安定は保てないという、痛烈な教訓を残した。

1564年~1569年:束の間の寄港地(福田・口之津)

横瀬浦という理想郷を失ったポルトガル船は、再び寄港地を求めてさまようことになる。彼らは再びキリスト教に寛容な大村領に望みを託し、福田(現在の長崎市福田本町)に一時的に寄港した 5 。しかし、福田は外海に直接面しており、季節風の影響を強く受けるため、大型で喫水の深いポルトガル船(キャラック船)が安全に停泊するには危険が大きすぎた。その後、有馬氏の領地である口之津(現在の南島原市口之津町)にも寄港したが、ここも恒久的な拠点としては政治的、地理的な課題を抱えていた 4

この平戸での対立、横瀬浦での内乱、そして福田での地理的制約という一連の失敗経験は、単なる場所の移動以上の意味を持っていた。それは、ポルトガル側が日本における「事業リスク」を具体的に学習し、その許容範囲を定義していくプロセスそのものであった。彼らが求める港の条件は、過去の失敗の教訓の上に、「第一に、領主がキリスト教に寛容であること」「第二に、その領主が領内を安定的に統治できる強固な基盤を持っていること」、そして「第三に、大型船が天候に左右されず安全に停泊できる地理的条件を備えていること」という三点に、明確に収斂していったのである。長崎は、まさにこの全ての条件を満たす場所として、歴史の必然の中から「発見」されるのを待っていた。

第二章:交錯する利害 ― 長崎開港をめぐる主役たち

1571年の長崎開港という歴史的決定は、単一の要因によってもたらされたものではない。それは、肥前の小大名・大村純忠の「軍事的必要性」、布教の拠点を求めるイエズス会の「宗教戦略上の必要性」、そして安定した貿易港を渇望するポルトガル商人の「商業的合理性」という、本来は異質である三者の利害と動機が、長崎という一点の「地理的必然性」によって奇跡的に重なった瞬間に生まれた産物であった。

大村純忠の窮策:信仰と生存戦略の狭間で

長崎開港を主導した大村純忠の最大の動機は、自らの領国の存亡を賭けた安全保障にあった。当時の純忠は、肥前で急速に勢力を拡大する「肥前の熊」こと龍造寺隆信から、絶え間ない苛烈な軍事的圧迫を受けていた 3 。その力関係は圧倒的で、純忠は人質を差し出して従属的な立場に甘んじることを余儀なくされるほどであった 3 。この絶望的な状況を打開するための唯一の活路が、南蛮貿易の独占であった。貿易がもたらす莫大な利益は疲弊した領国経済を潤し、何よりもそれによってもたらされる鉄砲や火薬といった最新兵器は、龍造寺氏の圧倒的な兵力に対抗するための唯一無二の切り札となり得たのである 2

この文脈において、純忠が永禄六年(1563年)に洗礼を受けた行為は、単なる個人的な信仰告白以上の、極めて高度な政治的決断であったと分析できる。受洗によってキリシタン大名となることは、ポルトガル側との関係を決定的に強化し、貿易の利益を恒久的かつ安定的に確保するための、最も確実な手段であった 2 。純忠にとって、信仰は魂の救済であると同時に、領国を救うための現実的な戦略でもあったのだ。

ポルトガル商人とイエズス会の野心:富と魂の獲得

一方のポルトガル側もまた、日本に安定した拠点を築くことを渇望していた。彼らの動機は、経済と宗教という二つの側面からなる。経済的には、マカオを拠点として日本の銀と中国の生糸を中継する貿易航路は、ポルトガル海上帝国の東アジアにおける最大の利益源であった 15 。この「富の航路」を維持・拡大するためには、毎年決まった時期に来航する大型船が、安全に荷を降ろし、商品を取引し、次の航海に備えることができる恒久的な港の確保が至上命題であった。

宗教的には、イグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたイエズス会にとって、日本はアジアにおけるキリスト教布教の最重要拠点の一つと位置づけられていた 17 。フランシスコ・ザビエル以来、多くの宣教師が日本人の知的好奇心や精神性の高さに感銘を受け、この地での布教に情熱を注いだ。コスメ・デ・トーレス神父をはじめとする宣教師たちは、布教活動を円滑に進めるための拠点、活動資金、そして何よりも布教活動を保護してくれるキリシタン大名の存在を必要としていた 7 。彼らにとって、貿易は布教の資金源であり、商人たちの活動は宣教師が日本国内を移動し、大名と接触するための足がかりでもあった。このように、ポルトガル側の日本戦略において貿易と布教は分かちがたく結びついており、長崎開港はこの二元的な目標を同時に達成する理想的な解決策であった 4

地形という天啓:なぜ長崎湾だったのか

大村純忠とポルトガル側の思惑が一致したとしても、それを実現する物理的な「場所」がなければ意味がない。その最後のピースを埋めたのが、長崎湾の持つ傑出した地理的条件であった。当時のポルトガル船、いわゆる「ナウ船」やキャラック船は、排水量が500トンから1,500トンにも達する大航海時代を代表する大型帆船であった 20 。これらの船は、大西洋の荒波を越えるための頑丈な船体と広い船倉を持つ一方で、船底が水中に沈む深さ、すなわち喫水が非常に深いという特性を持っていた。そのため、水深の浅い港や、港の入り口が狭い場所には入ることができなかった。

これに対し、長崎港は鶴が翼を広げたような形をしており、深く穏やかな入り江が奥まで続いている。周囲を緑豊かな山々に囲まれているため、季節風の影響を受けにくく、まさに天然の要害をなしていた 22 。十分な水深は大型のキャラック船が安全に停泊することを可能にし、穏やかな内湾は商品の荷役作業を容易にした 23 。かつての寄港地であった平戸の政治的不安、横瀬浦の統治の脆弱性、福田の地理的欠点といった、過去の失敗経験から導き出された全ての課題を、長崎の地形は完璧に解決していた。それは、関係者全員の、しかもそれぞれの存亡に関わる死活的に重要な要求を、同時に満たすことができる唯一無二の場所であった。この「要求の完全一致」こそが、数多の候補地の中から長崎を歴史の表舞台へと押し上げた、決定的な原動力だったのである。

表1:南蛮貿易港の比較分析(1550年~1571年)

港名

所在地(現在の地名)

主要利用期間

支配大名

利点

欠点

拠点としての結末

平戸

長崎県平戸市

1550年~1561年

松浦氏

貿易港としての実績と知名度。

領主がキリスト教布教に非協力的。日本人との武力衝突(宮ノ前事件)による治安の悪化 4

宮ノ前事件を機に、ポルトガル側が恒久的な拠点としては見限る。

横瀬浦

長崎県西海市

1562年~1563年

大村氏

領主・大村純忠によるキリスト教布教の全面的な許可と協力 5

領主の統治基盤が脆弱。急進的なキリスト教化政策が家臣団の反発を招き、内乱で破壊される 12

開港後わずか1年で焼き討ちに遭い、壊滅。

福田

長崎県長崎市

1564年~

大村氏

大村領内にあり、キリスト教への理解があった。

外海に面しており、季節風の影響を受けやすい。大型船の安全な停泊には不向き 5

あくまで一時的な寄港地に留まり、より良港の探索が続けられた。

口之津

長崎県南島原市

1564年~

有馬氏

比較的安全な良港であったと記録されている 14

支配大名である有馬氏の政治的状況や、大村領から離れているなどの要因で恒久化には至らず。

一時的な利用に留まる。

長崎

長崎県長崎市

1571年~

大村氏

領主による全面的な協力と布教の許可。周囲を山に囲まれた天然の良港で、水深が深く大型船の停泊に最適 5

当初は未開発の小さな漁村であったこと。

これまでの港の欠点を全て克服。ポルトガル貿易の恒久的な拠点として開港・発展する。

第三章:誕生の瞬間 ― 長崎の開港と町づくり(1570年~1571年)

長崎が歴史の表舞台に登場するプロセスは、単に港が開放されたという受動的な出来事ではなく、明確な意図のもとに都市がゼロから創造される、極めて能動的な事業であった。その過程は、元亀元年(1570年)の合意形成から始まり、計画的な都市開発を経て、翌年のポルトガル船初入港というクライマックスへと至る。

元亀元(1570)年の合意形成

横瀬浦の崩壊後、福田港の地理的制約に不満を抱いていたポルトガル側は、より安全で恒久的な港を求めて大村領内の探索を続けていた。その中で、深く穏やかな入り江を持つ長崎湾が「発見」され、福田に代わる理想的な貿易港として、その価値が認識された 24 。これを受け、ポルトガル商人とイエズス会は、領主である大村純忠に対し、長崎の開港許可を正式に申請した。

純忠はこの申請をただちに受諾。自らの家臣であり、現地の領主であった長崎甚左衛門純景、そして重臣の友永対馬らに協議を命じ、ポルトガル側の要求を全面的に受け入れる形で、港の開港と、当時「森崎」と呼ばれていた岬の周辺に町屋を建設することを約束した 24 。この合意は、イエズス会との公式な協定として結ばれ、長崎の未来を決定づけた 25 。この重要な交渉において、ザビエルの後継者として日本の布教を指導していたコスメ・デ・トーレス神父が中心的な役割を果たしたとされている 19

都市計画「町割」の開始

合意に基づき、1570年から長崎の町づくり、すなわち「町割」が開始された 4 。これは、既存の集落を拡張するのではなく、ほとんど何もないに等しい漁村に、国際貿易都市という明確な目的を持って、ゼロから計画的に都市を設計・建設する壮大なプロジェクトであった。

最初に造成されたのは、のちに「長崎六か町」と呼ばれることになる町々である。その名は「島原町」「平戸町」「大村町」「横瀬浦町」「外浦町」「文知町」であったと記録されている 24 。これらの町名が示唆するのは、極めて興味深い事実である。島原や平戸、横瀬浦といった地名は、かつてポルトガル人が寄港した場所や、キリスト教と縁の深い土地である。これは、長崎が建設当初から、それらの地域からの商人やキリシタンの移住を計画的に受け入れることで、都市の人口と経済活動を創出しようとしていたことを物語っている 28 。長崎は、生まれながらにして多様な人々が集うコスモポリタン(国際都市)として設計されたのであった。これは、領主の居城を中心に自然発生的に拡大する日本の多くの城下町とは一線を画す、日本の都市形成史においても極めて特異な事例と言える。

元亀二(1571)年の初入港

町割が進み、港としての受け入れ態勢が整った元亀二年(1571)の夏、ついにその歴史的瞬間が訪れる。船長ジョアン・ヴァス・デ・ヴェイガが率いるポルトガル船が、完成したばかりの長崎港に初めてその姿を現し、入港したのである 27 。この初入港こそが、国際貿易港・長崎の450年以上にわたる歴史の輝かしい幕開けとなった 22

開港は、町の姿をさらに変えていった。入港と時を同じくして、町の中心である岬の突端に、イエズス会による教会(後のサン・パウロ教会)が建設された 31 。これは、長崎が単なる商業都市ではなく、貿易と信仰が一体となったキリスト教の中心地として歩み始めたことを象徴する出来事であった。港にはポルトガル船が停泊し、陸では新たな町が建設され、丘の上では教会の鐘が鳴り響く。1571年の長崎は、まさに戦国日本の只中に生まれた、全く新しい形の国際都市の誕生を告げていた。

第四章:開港後の衝撃と長崎の変貌

1571年の開港は、長崎の運命を劇的に変えた。辺境の寂しい漁村は、瞬く間に日本最大の国際貿易港へと変貌を遂げ、新たな富と文化、そして新たな緊張を生み出す中心地となった。この急成長は、しかし、同時に周辺勢力との軋轢を激化させ、大村純忠に究極の決断を迫ることになる。

国際貿易都市への急成長

ポルトガル船が毎年安定して長崎に来航するようになると、人、物、金がこの新しい港に怒涛のように流れ込み始めた。長崎は、まさに「黄金の日々」を迎える 31 。最初に造成された六か町だけでは増加する人口と商業活動を収容しきれなくなり、矢継ぎ早に樺島町、五島町、興善町といった新しい町が造成され、都市の規模は急速に拡大していった 28 。マカオから運ばれる中国産の生糸や絹織物、ヨーロッパの珍品が陸揚げされ、見返りとして日本の銀が大量に積み出された。長崎は、日本と世界を結ぶ巨大な交易ハブとして、空前の繁栄を謳歌し始めたのである。

龍造寺氏の脅威と究極の安全保障

しかし、長崎の繁栄は、その光が強ければ強いほど、濃い影を落とした。その影とは、宿敵・龍造寺隆信の存在である。大村氏を圧迫し続けてきた隆信にとって、長崎の繁栄は、敵対勢力が強大な経済力と軍事力(鉄砲)を手に入れることを意味し、到底看過できるものではなかった。ついに天正六年(1578年)、龍造寺軍は長崎港に直接攻撃を仕掛けるという実力行使に出た 33 。この攻撃は、港に停泊していたポルトガル船からの援護砲撃もあり、かろうじて撃退することに成功した 3 。しかしこの一件は、大村純忠に自らの軍事力だけでは、この価値ある「金のなる木」を守り抜くことは不可能であるという冷厳な現実を突きつけた。

この危機に直面し、純忠は前代未聞の決断を下す。それは、近代の国際法における「主権の一部譲渡による安全保障」を先取りしたかのような、驚くべき地政学的判断であった。自らは長崎という「資産」を所有しているが、それを防衛する「軍事力」が決定的に不足している。一方、イエズス会(とその後ろ盾であるポルトガル)は、直接的な領土は持たないものの、国際的な影響力と、いざとなれば動員できる軍事力(船の大砲など)を持っている。純忠は、この状況を打開するため、自らが持つ「領有権(主権)」をイエズス会に譲渡(寄進)する代わりに、彼らの持つ「防衛力(安全保障)」を手に入れるという選択をしたのである。

天正八(1580)年の決断:「長崎のイエズス会への寄進」

天正八年(1580年)、大村純忠は、貿易の恒久的な安定と領地の絶対的な安全を守るという究極の目的のため、長崎と茂木の地をイエズス会に「寄進」した 2 。これにより、長崎は日本のいかなる大名の支配も受けない、イエズス会が行政権と司法権を掌握する、治外法権的な自治都市へとその姿を変えた。これは、龍造寺氏の侵攻に対する最も強力な抑止力となった。もはや長崎を攻撃することは、単に大村氏を攻めるのではなく、強大なポルトガル王国とその背後にあるカトリック世界全体を敵に回すことを意味したからである 3

寄進後の長崎は、教会が統治の中心となる、さながら「日本の小ローマ」のような様相を呈した。イエズス会は、長崎の要塞化を進め、対龍造寺氏の軍事拠点としての性格を強めていく 3 。特に、当時の日本準管区長であったガスパル・コエリョは強硬な軍事路線を唱え、キリシタン大名である有馬晴信を支援して龍造寺隆信と戦わせる(沖田畷の戦い)など、長崎を拠点に九州の政治・軍事情勢に深く介入していった。純忠の決断は、長崎の安全を確保した一方で、この地を日本の歴史上、類を見ない特異な存在へと変貌させたのであった。

終章:天下人の影 ― 新時代の到来と長崎の未来

地方大名の生存戦略と国際的な宗教・商業組織の利害が一致して生まれた長崎。その特異な統治体制は、しかし、日本が地方分権の「戦国」から中央集権の「天下統一」へと移行する巨大な地殻変動の中で、否応なくその存在意義を問われることになる。長崎の運命は、日本の政治体制のスケールを映し出す鏡であった。地方大名の力が強かったからこそ生まれ、中央集権が確立されたからこそ、その特殊性を失ったのである。

織田信長の時代と長崎

長崎が開港し、イエズス会領となった時代は、奇しくも織田信長が天下布武を推し進めていた時期と重なる。信長は、既存の仏教勢力への対抗策として、また南蛮文化への強い好奇心から、キリスト教に対して極めて寛容な政策をとった 35 。信長の統治下でイエズス会の活動は保護され、その存在は間接的に、日本の西の果てにあるキリシタンの拠点・長崎の発展を後押ししたと言える。この時期、長崎は中央政権からの干渉をほとんど受けることなく、独自の発展を遂げることができた。

豊臣秀吉の九州平定と価値観の衝突

しかし、本能寺の変で信長が倒れ、その後継者として豊臣秀吉が天下統一事業を本格化させると、状況は一変する。天正十五年(1587年)、島津氏を降伏させて九州を平定した秀吉は、その過程で、日本の土地であるはずの長崎が、大村純忠によってイエズス会に寄進され、外国の宗教団体によって統治されているという驚くべき事実を知る 35

日本の全ての土地と人民を自らの支配下に置こうとする天下人・秀吉にとって、この事態は到底容認できるものではなかった。それは、自らの国家統一構想に対する明白な挑戦であり、キリスト教勢力が日本の領土を侵食しかねないという深刻な危機感を抱かせるに十分な出来事であった。大村純忠が一地方領主として独自の判断で対外関係を構築し、領土主権を譲渡できたのは、まさに中央権力が確立していなかった地方分権の時代だったからこそ可能であった。しかし、秀吉の登場は、その時代の終わりを告げていた。

バテレン追放令と長崎の直轄領化

長崎の実態を知った秀吉の行動は迅速かつ断固たるものであった。同年、彼は「バテレン追放令」を発布し、宣教師の国外退去を命じるとともに、長崎をイエズス会から没収し、豊臣氏の直轄領(天領)とすることを宣言した 36 。これは、もはや日本のいかなる領主も、中央の意向を無視して独自の外交や領土の処分を行うことは許さないという、強力な中央集権化の宣言に他ならなかった。ここに、1580年の寄進以来続いた、大村氏とイエズス会が築いた特殊な統治体制は、わずか7年で終焉を迎えた。

結論:長崎開港が日本史に与えた影響

秀吉による直轄領化は、長崎の特異な政治的地位を奪ったが、その港としての重要性を損なうものではなかった。むしろ、天下人の直接支配下に入ったことで、その地位はより強固なものとなった。秀吉政権、そして続く徳川幕府においても、長崎は対外貿易を管理・統制するための重要な拠点として特別な地位を保ち続け、やがて鎖国体制下における日本唯一の西欧への窓口「出島」を擁する港として、日本の近代化に不可欠な役割を果たしていくことになる 30

結論として、1571年の長崎開港は、戦国時代という地方分権的な状況が生んだ、国際性と地域性が融合した奇跡的な産物であった。それは、肥前の小大名・大村純忠の生存を賭けた戦略と、ポルトガル人の宗教的・商業的野心が、長崎湾という地理的条件の上で交差した歴史の特異点であった。その誕生の経緯は、やがて到来する中央集権の時代との間に避けられない緊張を生み、結果として日本の近世的な国家体制と対外政策の形成に大きな影響を与えた。長崎の歴史は、戦国から天下統一へと向かう日本のダイナミックな変容を、最も象徴的な形で体現しているのである。

引用文献

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  2. 大村純忠(おおむら すみただ) 拙者の履歴書 Vol.130~異教の地に咲きし信仰 - note https://note.com/digitaljokers/n/n3790ab239521
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  5. 大村純忠と南蛮貿易 - 大村市 https://www.city.omura.nagasaki.jp/kankou/kanko/kankouspot/kirishitan/nanbanboueki.html
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  27. 1ポルトガル時代の長崎 https://www.jcca.or.jp/kaishi/272/272_toku1.pdf
  28. 長崎しにせ会 新・長崎今昔 第十四回/長崎の町の発展(2) 開港とともに開かれた町 興善町、桜町 https://shinisekai.com/konjyaku/no114.htm
  29. モニュメントで巡る長崎 前編 鎖国以前~明治の近代化編 - 「ナガジン」発見!長崎の歩き方 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken07031/index.html
  30. 長崎港ホームページへようこそ https://www.nagasaki-port.jp/history.html
  31. 長い岬の物語をたどって | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_burari/nagaimisakinomonogatariwotadotte
  32. 長崎しにせ会 新・長崎今昔 第十六回/長崎の町の発展(4)開港後に開かれた町 樺島町、五島町 http://shinisekai.com/konjyaku/no116.htm
  33. 大村純忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E5%BF%A0
  34. イエズス会 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
  35. 織豊政権 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/shokuhouseiken/
  36. 秀吉の伴天連追放令 - 長崎県の文化財 https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/intro1-4.html
  37. 日本史の考え方45「なぜ戦国大名はキリシタンになるのか②」 https://ameblo.jp/rekishikyoshi/entry-12433984900.html
  38. 戦国三英傑の政策一覧まとめ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/105024/