最終更新日 2025-10-09

長束正家自害(1600)

長束正家は豊臣政権の能吏として活躍したが、関ヶ原で西軍につき敗北。水口岡山城で降伏するも裏切られ自害。彼の死は豊臣政権の終焉と徳川の時代の始まりを象徴する。
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慶長五年秋 長束正家の三十日戦争 - ある五奉行の忠義と滅亡の軌跡

序章:能吏、乱世に立つ - 長束正家と豊臣政権

長束正家という武将を語る時、多くの人々が想起する戦国武将の勇猛なイメージとは一線を画す、類稀なる「能吏」としての側面が浮かび上がる。彼の生涯は、武力ではなく、算術と経済観念という武器で乱世を駆け上がり、そして時代の大きな転換点において、その忠義の故に散った一人のテクノクラート(高度技術官僚)の物語である。

正家の出自は、近江国栗太郡長束村、あるいは尾張国ともいわれ、明確ではない 1 。彼のキャリアの第一歩は、織田信長の重臣・丹羽長秀に仕えることから始まった 1 。この時期から既に、彼の卓越した算術能力は周囲の認めるところとなり、丹羽家の財政管理を任されるほどの信頼を得ていた 4

天正13年(1585年)、主君・長秀が病没すると、正家の運命は大きく動く。天下統一を目前にした豊臣秀吉が、その才能に目をつけ、直臣として抜擢したのである 1 。これは、秀吉が有能な人材を旧来の大名家から引き抜き、自身の権力基盤を強化し中央集権体制を構築していくという、壮大な国家戦略の一環であった。正家は、まさに秀吉が作り上げた新しい時代の寵児であった。

豊臣政権下で、正家の能力は遺憾なく発揮される。豊臣家の蔵入地(直轄地)の管理、全国的な太閤検地の実施など、政権の財政基盤を根底から支える重責を担った 1 。さらに、九州平定や小田原征伐といった大規模な軍事作戦においては、兵站奉行として20万石もの兵糧を滞りなく前線に送り届け、数十万の大軍の活動を可能にした 4 。その兵站管理能力は、敵対することになる徳川家康でさえも「奴を見習え」と自身の家臣に学ばせたほどであったと伝わる 6

文禄4年(1595年)、これらの功績により、正家は近江水口岡山城5万石の城主となり、後に12万石へと加増される 2 。そして、石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以と共に、豊臣政権の最高実務機関である五奉行の一員に列せられた。彼は、加藤清正や福島正則といった武断派とは対照的に、政権運営の実務を担う文治派の中核を成す存在であった 3

彼の権力基盤、財産、そして五奉行という地位の全てが、豊臣秀吉という個人と、彼が築き上げた中央集権的な統治システムの上に成り立っていた。この構造を理解することが、後の彼の行動を読み解く鍵となる。秀吉の死後、豊臣家を形骸化させ、新たな支配体制を築こうとする徳川家康の動きは、正家にとって、単なる政敵の台頭ではなく、自身の存在基盤そのものを揺るがす根源的な脅威と映ったのである。彼が石田三成に与し、最後まで豊臣家への忠義を貫いたのは、個人的な感情以上に、自己のアイデンティティと存立を賭けた、極めて合理的な選択であったと言えよう。

第一章:戦端開かる - 伊勢安濃津城攻防戦(慶長5年8月24日~25日)

慶長5年(1600年)夏、徳川家康の会津征伐を機に、石田三成は打倒家康の兵を挙げた。長束正家は、ためらうことなくこれに応じ、西軍の主要武将として参陣する。伏見城攻めに参画した後、彼は毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らと共に、東軍に与した諸将が割拠する伊勢方面の制圧という重責を担うこととなった 8 。彼の居城である水口岡山城は、東海道沿いの交通の要衝に位置し、この伊勢侵攻における西軍の兵站基地として極めて重要な役割を果たした 9

西軍の伊勢方面軍は、8月中旬には3万という大軍に膨れ上がり、その矛先はまず、東軍方の富田信高が守る安濃津城に向けられた 9 。対する籠城側の兵力は、援軍を合わせてもわずか1,700余り。兵力差は歴然としていた 11

8月24日払暁、西軍による総攻撃の火蓋が切られた。長束正家は、安国寺恵瓊、毛利勝永らと共に城の西側に放火した上で、南西の半田・神戸方面から猛攻を仕掛けた 9 。圧倒的な兵力を背景に、西軍は次々と城の外郭を突破していく。しかし、富田信高をはじめとする籠城側の抵抗は凄まじく、寡兵ながらも奮戦し、西軍に多大な損害を与えた 12

激戦は丸一日に及んだ。翌8月25日、城兵の消耗は激しく、もはや後詰・救援の見込みもないことから、高野山の高僧・木食応其が両軍の間に入り、和平交渉が行われた 12 。富田信高はこの降伏勧告を受け入れ、安濃津城は開城。西軍は戦術的な勝利を収めた。

しかし、この安濃津城での戦いは、後の関ヶ原での敗北に繋がる西軍の構造的欠陥を、既に内包していた。この軍団の有力武将であった吉川広家は、この時点で既に徳川家康と密かに内通していたのである。彼が安濃津城攻めに積極的に参加したのは、西軍内での立場を維持し、内通の事実を隠蔽するための偽装工作であった可能性が高い。忠実に任務を遂行する長束正家の隣で、味方であるはずの将が既に裏切りを決意している。この不協和音は、まだ誰にも気付かれていなかった。安濃津城での勝利は、西軍にとって貴重な時間と戦力を消耗させる結果となり、この遅滞がなければ、彼らはより早く美濃に進出し、関ヶ原での布陣において、さらに有利な態勢を築けていたかもしれない。

第二章:運命の一日 - 関ヶ原・南宮山の桎梏(慶長5年9月15日)

安濃津城を攻略した西軍伊勢方面軍は、美濃へと転進し、関ヶ原の決戦に臨む。長束正家は、西軍本隊からやや離れた南宮山に布陣した。ここは、西軍総大将・毛利輝元の名代である毛利秀元を最高指揮官とし、吉川広家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親ら、総勢1万7千を超える大軍が陣取る、西軍の勝敗を左右する重要な拠点であった 14

表1:長束正家自害に至る時系列表

日付(慶長5年)

場所

長束正家の動向

関連する西軍・東軍の動向

8月24日

伊勢・安濃津城

安国寺恵瓊らと共に城の南西から攻撃を開始。

西軍3万が安濃津城を包囲。東軍・富田信高は1,700で籠城。

8月25日

伊勢・安濃津城

籠城側の降伏を受け、安濃津城を開城させる。

富田信高、木食応其の仲介で降伏。

9月10日頃

美濃・南宮山

毛利秀元、吉川広家らと共に南宮山に布陣。

西軍主力、大垣城に入城。東軍、美濃赤坂に着陣。

9月15日 午前8時

美濃・南宮山

本戦の砲声を聞くも、吉川広家に進軍を阻まれ動けず。

関ヶ原にて東西両軍の戦闘が開始。

9月15日 午後

美濃・南宮山

西軍本隊の敗報を受け、戦わずして戦場を離脱。

小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなる。

9月15日夜以降

近江路

居城・水口岡山城を目指し敗走。

東軍諸隊による西軍残党の追撃が開始される。

9月下旬

近江・水口岡山城

山岡道阿弥勢の妨害を突破し入城。籠城戦を開始。

池田長吉、亀井茲矩らが城を包囲。

10月2日

近江・水口岡山城

池田長吉の偽りの降伏勧告を受け入れ、開城。

正家、城を出たところを捕縛される。

10月3日

近江・日野

家臣の介錯により自刃(享年39)。

重臣6名も同日殉死。首は京都三条橋に晒される。

しかし、この南宮山の布陣には、当初から致命的な欠陥が存在した。吉川広家が、山から関ヶ原方面へ討って出るための唯一の進軍路を塞ぐように、山の麓に陣取ったのである 15 。これに対し、東軍は池田輝政、浅野幸長といった部隊を配置し、南宮山勢を厳重に監視・牽制する態勢を敷いていた 15

表2:関ヶ原合戦 南宮山布陣図

所属

武将名

推定兵力

布陣位置

対峙した東軍

西軍

毛利秀元(総大将)

(毛利勢全体で)

南宮山 山頂付近

(南宮山全体を)

西軍

吉川広家

約3,000

南宮山 山麓(進軍路を遮断)

池田輝政

西軍

安国寺恵瓊

約1,800

南宮山 中腹

浅野幸長

西軍

長束正家

約1,500

南宮山東側の麓

有馬豊氏

西軍

長宗我部盛親

約6,600

南宮山東側の麓(栗原山)

山内一豊

慶長5年9月15日午前8時、関ヶ原盆地で東西両軍の激しい戦闘が開始された。その砲声は南宮山にも轟いたが、1万7千の大軍は微動だにしなかった。総大将の毛利秀元、そして長束正家や安国寺恵瓊は、眼下で味方が苦戦している状況に苛立ち、再三にわたって出撃を促した。しかし、進軍路を塞ぐ吉川広家は、「今、兵に弁当を食べさせている」などと不可解な理由を付けてこれを頑なに拒否し続けた 15 。後に「宰相殿の空弁当」として語り継がれるこの逸話は、西軍の組織的崩壊を象徴する出来事であった。広家は既に黒田長政を通じて家康に内通し、毛利家の本領安堵を条件に、戦闘に参加しないことを密約していたのである 15

南宮山は、地形的にも主戦場を直接視認することが困難な場所であった 17 。意図的に戦闘を回避しようとした広家にとって、これほど都合の良い場所はなかったであろう。兵站の専門家である正家は、水も乏しく補給も困難なこの陣地の不利を認識していたはずだが、毛利一門が主導権を握る軍団の序列の中で、彼の意見が通ることはなかった。

午後になると、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍本隊は総崩れとなった。敗北が決定的になると、南宮山の部隊は一戦も交えることなく、伊勢方面へと撤退を開始した 19

南宮山での出来事は、長束正家の悲劇の核心である。彼が生涯をかけて磨き上げた「吏僚としての能力」―計算、計画、補給―は、軍事組織の根幹に「裏切り」という致命的な欠陥が存在する前では、全くの無力であった。これは、豊臣政権という巨大な官僚機構が、秀吉という絶対的な求心力を失った結果、内部の利害対立や裏切りによって、いとも簡単に機能不全に陥ることを象.徴している。正家は、正常に動くはずの歯車が錆びついて動かないことに苛立ちながら、なすすべもなく、組織全体の崩壊を見守るしかなかったのである。

第三章:死地への帰還 - 敗走、水口への道(9月15日夜~)

関ヶ原での敗北が確定すると、長束正家は南宮山から撤退し、唯一の拠点である居城・近江水口岡山城を目指して敗走を開始した 14 。この絶望的な撤退行の最中、彼の人間性を示す逸話が残されている。敵中突破を図る島津義弘の有名な「捨て奸」戦法による撤退を助けるため、自軍の兵が疲弊しているにもかかわらず、道案内役の家臣を派遣したと伝えられている 6 。極限状況にあっても、同盟軍への義理を忘れなかったのである。

しかし、敗走の道は過酷を極めた。関ヶ原の戦いが終わった直後にもかかわらず、徳川家康による事前の周到な調略は近江一帯にも及んでいた。正家が水口城を目前にした地点で、徳川方に寝返っていた在地勢力・山岡道阿弥の軍勢がその行く手を阻んだ 20 。正家にとって自らの領国であるはずの近江は、既に敵地と化していたのである。

この予期せぬ戦闘で、正家は弟の玄春を失うという悲劇に見舞われる。玄春は敵に捕らえられ、無残にも処刑されてしまった 20 。この個人的な悲劇は、軍事的な敗北という事実以上に、正家の心に深い傷を負わせたに違いない。

絶体絶命の状況の中、忠臣・松田秀宣らが決死の覚悟で奮戦し、血路を開いた。これにより、正家は肉体的にも精神的にも極限まで追い詰められた状態で、かろうじて水口岡山城にたどり着くことができた 20 。しかし、彼が帰還した城は、もはや安息の地ではなかった。この心理状態が、後の開城交渉において、彼の判断力を鈍らせる一因となった可能性は否定できない。

第四章:最後の城 - 水口岡山城の包囲と欺瞞(9月下旬~10月2日)

辛うじて帰城を果たした長束正家であったが、安堵する時間は残されていなかった。水口岡山城は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命で中村一氏が築城し、後に五奉行の増田長盛、そして正家が城主を務めた、豊臣政権の重要拠点であった 10 。東海道を押さえ、東海地方への睨みを利かせる戦略的要衝であるこの城を、勝利に乗る東軍が見過ごすはずはなかった 10

正家が入城して間もなく、池田輝政の弟である池田長吉、そして亀井茲矩らが率いる東軍の部隊が城下に殺到し、水口岡山城は完全に包囲された 20 。援軍の望みは絶たれ、城兵の士気も低く、もはや城を守り切ることは不可能に近い状況であった。

ここで、攻城軍の将・池田長吉は、正家に対して開城を勧告する。その条件は、「正家の本領を安堵し、城内にいる全ての将兵の命を助ける」という、敗将に対しては破格とも言えるものであった 20

この勧告は、正家の心を激しく揺さぶった。弟を失い、豊臣家の敗北を悟った彼にとって、自らの命に固執する理由はもはやなかったかもしれない。しかし、最後まで自分に従ってくれた家臣たちの命を救うことは、主君としての最後の責務であった。長束正家は、生涯を通じて帳簿や算盤といった「契約」と「計算」の世界で生きてきた人物である。彼にとって、大名同士の約束事は、たとえ敵方であっても一定の効力を持つものと認識していた可能性がある。彼は、この条件を信じ、家臣たちの命と引き換えに城を明け渡すという、苦渋の決断を下した 22

水口岡山城は、正家にとって単なる居城ではなく、秀吉から与えられた吏僚としての成功の証そのものであった。この城を明け渡すという決断は、彼が豊臣政権下で築き上げた全てを放棄することを意味した。しかし、戦乱の終結期における勝者の論理は、そのような吏僚的な常識を遥かに超越していた。彼は、武将の「謀略」の前に、吏僚の「信義」が通用しないという、冷徹な現実に直面することになる。

第五章:忠臣の最期 - 慶長5年10月3日

慶長5年10月2日、池田長吉の言葉を信じ、長束正家は水口岡山城の城門を開いた。しかし、彼が城から一歩踏み出した瞬間、その約束は反故にされた。待ち構えていた池田軍の兵士たちが正家を取り囲み、即座に捕縛したのである 20 。本領安堵も城兵の救済も、初めから守る気のない完全な欺瞞であった。

捕らえられた正家は、同じく捕縛された弟の直吉と共に、近江国蒲生郡日野へと連行された 2 。もはや彼に抵抗する術も、命乞いをする気力も残されてはいなかった。武士として、そして豊臣政権の五奉行として、その崩壊と運命を共にするという強い意志だけが、彼の最後の矜持であった。

そして運命の日、10月3日。正家は近江日野の佐久良谷において、死を賜った。彼は家臣の奥村左馬助を介錯人とし、弟の直吉と共に静かに切腹して果てた 20 。享年39。あまりにも短い生涯であった 2 。この時、水口城から最後まで付き従ってきた重臣6名も、主君の後を追い、同日同所で殉死を遂げた 20

正家の死は、それで終わりではなかった。彼の首は京に送られ、三条河原に晒された 6 。これは、新しい時代の支配者となった徳川家康による、旧豊臣政権の完全な終焉を天下に知らしめるための、冷徹な政治的パフォーマンスであった。

ここに歴史の皮肉がある。正家の正室・栄子は、徳川四天王の筆頭であり、家康が最も信頼した猛将・本多忠勝の妹であった 2 。しかし、その極めて近い縁戚関係が、正家の助命に繋がることは一切なかった。この事実は、関ヶ原の戦いが、個人の人間関係や縁戚を度外視した、国家の体制を巡る非情な権力闘争であったことを雄弁に物語っている。家康にとって、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人である長束正家を生かしておくという選択肢は、政治的にあり得なかったのである。

終章:残された者たちと歴史の評価

長束正家の死後、彼の家族と居城にも過酷な運命が待ち受けていた。

落城の混乱の中、臨月であった正室・栄子は、かろうじて城を脱出することに成功した。彼女は旧臣である山本浅右衛門の屋敷にかくまわれ、そこで無事に男子を出産した。しかし、産後の肥立ちが悪かったことに加え、夫を失い、全てを奪われた精神的打撃はあまりにも大きく、栄子は間もなくこの世を去った 2 。一説には、水口城下で略奪の限りを尽くした池田長吉の兵によって凌辱された末に亡くなったとも伝えられている 26 。兄の池田輝政は、この事実が本多忠勝の耳に入ることを恐れ、隠蔽工作を行ったという。この情報の錯綜は、落城時の凄惨な状況と、勝者による歴史の操作をうかがわせる。

残された遺児は、山本浅右衛門の下で育てられ、後に仏門に入った。彼は水口の大徳寺三世・還誉上人となり、非業の死を遂げた母・栄子の菩提を生涯弔い続けたという 24 。栄子が葬られたとされる地には、後年、一族の手によって「姫塚」と呼ばれる慰霊碑が建てられ、その悲劇は今に伝えられている 24

正家の栄華の象徴であった水口岡山城は、関ヶ原合戦後、徳川の時代の到来を告げるかのように徹底的に破却された 10 。豊臣政権による近江支配の終焉を象徴する出来事であった。城の部材の一部は、麓の善福寺の本堂を建てるために転用されたと伝わる。そして、その本堂の天井は、落城の際に殉死した将士たちの血が付着しているとして「血天井」と呼ばれ、当時の悲劇を静かに物語っている 2

長束正家は、武勇で名を馳せた多くの戦国武将とは異なり、卓越した経済観念と実務能力で最高権力者に仕えた「能吏」であった。彼の悲劇は、個人の能力がいかに優れていても、所属する組織そのものが崩壊する巨大な奔流の前では、抗うことができないという、歴史の非情さを示している。彼は、豊臣政権という統治システムが生み出した最高傑作の一人であると同時に、そのシステムの崩壊と運命を共にした最大の犠牲者の一人でもあった。

彼の死と水口岡山城の破却は、豊臣政権の「吏僚による中央集権統治」が終わりを告げ、徳川幕府による新たな「武家による封建統治」が始まる、時代の大きな転換点を象徴している。長束正家のようなテクノクラートが政権中枢を担う時代は終わり、再び武力と家格が支配の根幹をなす時代へと回帰していく。慶長5年10月3日、近江日野の地で響いた刃の音は、単なる一個人の死を告げるものではなく、一つの時代の終焉を告げる鐘の音だったのである。

引用文献

  1. 「長束正家」算術と治政に優れ、豊臣政権の財政を担う | 戦国 ... https://sengoku-his.com/568
  2. 長束正家~丹羽長秀に仕え、豊臣秀吉を支えた能吏の最期 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4396
  3. 長束正家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38345/
  4. 長束正家(長束正家と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/52/
  5. 長束正家の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64094/
  6. 関ヶ原合戦 長束正家陣跡 - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/07/04/081625
  7. 関ヶ原の戦い/長束正家陣 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shiseki%20sekigahara%20natukamasaiejin.htm
  8. 長束正家(なつか・まさいえ) ?~1600 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/NatsukaMasaie.html
  9. 慶長5年 安濃津城の戦い|ダイコンオロシ@お絵描き - note https://note.com/diconoroshi_mie/n/n9b4bd2353399
  10. 水口岡山城 -近世甲賀の起点-/甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/4690.htm
  11. 安濃津城の戦い ~富田信高の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/anotsu.html
  12. 富田信高の妻 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/19736/
  13. 安濃津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%BF%83%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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  15. 関ヶ原古戦場を歩く(四)徳川家康 最初陣後|吉川広家 陣跡~岐阜観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Sekigahara4.html
  16. 関ヶ原合戦 南宮山周辺武将コース - 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2021032900012/
  17. 【関ヶ原の舞台をゆく ③】関ヶ原の戦い古戦場ガイド~戦跡を歩きながら考える、武将たちの思惑 https://shirobito.jp/article/487
  18. 【毛利秀元陣跡】毛利軍、家康背後の南宮山に布陣!予期せぬ事態が・・・!毛利の空弁当とは!?【長宗我部盛親陣跡】(徳川家康史跡巡り関ヶ原編③) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=QNLVDijYKB0
  19. 【岐阜関ケ原古戦場記念館】古戦場史跡紹介31 長束正家陣跡・長宗我部盛親陣跡・金屋川原の戦い跡 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=MX3pRMfThck
  20. 長束正家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6
  21. 水口岡山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no48/
  22. 水口岡山城 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/sg0347/
  23. 「水口岡山城と豊臣家五奉行の城」 資料集 - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/secure/14819/foramu2016.pdf
  24. 姫塚 - 甲賀市観光ガイド https://koka-kanko.org/see/himezyka/
  25. 本多忠勝の家系図と年表 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113851/
  26. 関ケ原敗戦の将長束正家の正妻栄子姫の供養塔である。 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/14408846
  27. 天下無双の算術・長束正家「秀吉が強引に家臣にした天才」 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/40915/
  28. 水口岡山城跡 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042775.pdf