最終更新日 2025-10-02

関宿宿駅整備(1601)

慶長6年、家康は関宿に宿駅を整備。戦国時代の分断を終え、江戸中心の統一交通網を構築した。これは幕府の支配を確立し、参勤交代や経済発展の基盤となり、関宿は東西交通の要衝として繁栄した。
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戦国の終焉、泰平の道標:慶長六年(1601年)関宿宿駅整備の徹底分析

序章:天下分け目の直後、新たな秩序の胎動

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原。一日で日本の運命を決した天下分け目の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。しかし、この軍事的な勝利は、そのまま安定した治世を意味するものではなかった。豊臣恩顧の西国大名は依然として大坂城に拠点を構え、九州の島津氏のように戦後処理に不満を抱く勢力も各地に存在していた。戦乱の世の記憶は生々しく、日本全土は未だ緊張と不確実性の霧に覆われていたのである。

この混沌とした状況下で、家康が直面した最大の課題は、軍事的な勝利をいかにして恒久的な政治的支配へと転換させるかという点にあった。そのためには、江戸を新たな政治の中心として確立し、そこから全国の隅々にまで迅速かつ確実に幕府の意思を伝達し、また各地の情報を吸い上げる、強固な神経網の構築が不可欠であった 1 。戦国時代を通じて、情報は各々の大名領国で寸断され、物流は関所によって阻害されていた。この「分断」こそが、群雄割拠の時代を支える物理的な基盤だったのである。

家康の構想は、この分断された列島を、江戸を中心とした一本の強靭な背骨で貫くことにあった。それは、旧来の京都中心の交通体系からの脱却を意味し、徳川による新たな時代の到来を物理的に天下に示す壮大な国家プロジェクトであった 2 。そして、その壮大な構想の第一歩として家康が白羽の矢を立てたのが、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道の整備であった。関ヶ原の戦いの硝煙がまだ燻る翌慶長六年(1601年)正月、家康は矢継ぎ早に東海道の宿駅制度確立を布告する 3 。これは、江戸城下の造成と並行して進められた国家事業であり 6 、単なるインフラ整備を超えた、徳川による全国支配の意思を可視化する極めて政治的な行為であった。本報告書は、この画期的な事業の中でも特に重要な意味を持つ「関宿」の宿駅整備に焦点を当て、それが戦国の終焉と江戸の黎明をいかに象徴する出来事であったかを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。

第一章:戦乱の道、分断された列島 ― 戦国時代の交通と伝馬制度

徳川家康が慶長六年に断行した宿駅伝馬制度がいかに画期的なものであったかを理解するためには、まずその前史である戦国時代の交通と通信の実態を把握する必要がある。

奈良時代に律令国家が整備した駅伝制度は、中央と地方を結ぶ公的な交通網として機能したが、平安時代以降の律令制の衰微とともに形骸化していった 7 。中世を通じて、交通の主導権は荘園領主や地頭、そして戦国大名へと移っていく。

戦国時代、各地に割拠した大名たちは、自らの領国を富ませ、軍事力を強化する「富国強兵」策の一環として、領内の交通網整備に力を注いだ 10 。彼らは本城と各地の支城を結ぶ街道を整備し、その要所に「宿」や「駅」を設置した。これは、戦時における兵員の迅速な移動や、膨大な軍需物資を輸送するための兵站線として、極めて重要な役割を果たした 7 。このために整備されたのが、各大名独自の「伝馬制度」である。伝馬とは、公用のために宿駅に常備された馬のことであり、領民にはこれらの人馬を提供する義務(伝馬役)が課せられた 10

しかし、この戦国期の伝馬制度は、あくまで各大名の領国経営という閉じた世界の中で完結するものであった。その機能は領国の境界線でぷっつりと途切れ、全国を統一的に結ぶネットワークは存在しなかった。ある大名の領国から別の領国へ情報を伝え、あるいは物資を運ぶには、同盟関係にある大名の許可を得るか、あるいは敵地を潜り抜ける危険を冒さねばならなかった。情報伝達の担い手は、交渉術に長けた外交僧や武士といった「交渉タイプ」の使者か、あるいは驚異的な健脚を誇る「俊足タイプ」の家臣や専門の飛脚であった 10 。彼らの成功は個人の能力と運に大きく左右され、その道中は常に危険と隣り合わせであった。

尾張の織田信長は、勢力圏の拡大に伴い、関所を撤廃して商業の自由化を図り、街道に並木を植えるなど、交通路の整備に先進的な取り組みを見せた 10 。しかし、これもまた、彼の支配が及ぶ範囲内での経済・軍事効率化が主目的であり、全国統一規格の恒久的な制度を目指したものではなかった。

結局のところ、戦国時代の交通網とは、日本列島に張り巡らされた「点(城や宿)」と「線(街道)」の無数の集合体に過ぎなかった。それぞれの線は領国の境界で断絶しており、列島全体を覆う「面」としてのネットワークは存在しなかった。この物理的な分断こそが、戦国という時代そのものを象徴していたのである。家康が目指したのは、この無数の点と線を、江戸という唯一無二の中心から放射状に伸びる、標準化された公的な交通網へと再編成することであった。それは、統治のあり方を根本から変える、質的な大転換を意味していた。

第二章:伊勢国の戦略的重要性 ― なぜ「関宿」が選ばれたのか

徳川による全国街道整備の記念すべき第一号として東海道が選ばれ、その中でも伊勢国の関宿が初期から重要な宿駅として指定されたのには、歴史的、地理的、そして何よりも関ヶ原直後の軍事的な必然性があった。

歴史的・地理的要衝としての関宿

関宿の「関」という地名は、古代にまでその起源を遡る。奈良時代、朝廷は都を防衛するため、東国の入り口に三つの重要な関所を設けた。美濃の不破関、越前の愛発関、そして伊勢国の「鈴鹿関」である 11 。関宿は、この古代国家の防衛線であった鈴鹿関が置かれたことにその名を由来する、まさに日本の東西交通史における最重要拠点の一つであった。

時代が下り、江戸時代に入ると、その地理的重要性はさらに増す。関宿は、江戸と京都を結ぶ日本の大動脈「東海道」と、日本人の心の故郷である伊勢神宮へと向かう「伊勢別街道」、そして奈良・大和方面へ抜ける「大和街道」が交わる、交通の十字路に位置していた 11 。この地に拠点を置くことは、幕府にとって、東西の政治・経済交通と、伊勢参宮という巨大な宗教的・文化的な人の流れという、二つの巨大な交通流を同時に掌握・管理できることを意味した。

関ヶ原の戦い、最前線の記憶

しかし、慶長六年の家康にとって、関宿の重要性はこうした歴史的・地理的要因だけに留まらなかった。そこには、関ヶ原の戦いの生々しい記憶が刻み込まれていたのである。

慶長五年夏、家康が会津の上杉景勝討伐のために軍を東へ向けた隙を突き、石田三成らが挙兵すると、伊勢国は瞬く間に東西両軍が激突する最前線と化した 15 。桑名城主の氏家行広は西軍に与し、一方で津城主の富田知信は東軍として籠城するなど、伊勢国内の諸将は東西に分かれて激しい攻防を繰り広げた。

この時、西軍の主力部隊を率いた毛利輝元配下の長束正家や安国寺恵瓊らは、東軍方の津城を攻略するための軍事拠点として、関宿にほど近い「関地蔵(現在の関地蔵院)」に一時、陣を敷いた 15 。つまり、関ヶ原の決戦直前において、関宿周辺は徳川方にとって紛れもない「敵性地域」だったのである。

関ヶ原での西軍壊滅後、伊勢国の戦後処理は迅速に進められた。西軍に与した桑名城主・氏家行広は東軍に攻められ降伏。そして慶長六年、家康はこの桑名の地に、徳川四天王の一人に数えられる譜代中の譜代、本多忠勝を十万石で入封させた 15 。これは、旧敵対勢力を一掃し、徳川の軍事的支配をこの地に盤石に打ち立てるための、断固たる措置であった。

この一連の動きの中に、「慶長六年 関宿宿駅整備」を位置づけるとき、その真の意味が浮かび上がってくる。宿駅の整備は、本多忠勝の桑名入封とほぼ同時に行われている。これは、軍事的な制圧と行政システムの構築が、連続した一つのプロセスとして実行されたことを示している。家康にとって関宿の宿駅整備とは、単に街道の途中に中継点を設けるというインフラ事業ではなかった。それは、昨日までの敵の拠点を接収し、その地に徳川による新たな国家システムの重要拠点を「上書き」するという、支配者の交代を天下に示す極めて政治的な戦後処理の一環だったのである。

関ヶ原以前の領主(慶長5年)

関ヶ原以後の領主(慶長6年以降)

備考

桑名城

氏家行広(西軍)

本多忠勝(東軍・譜代)

宿駅整備と同じ慶長6年に入封 15

津城

富田知信(東軍)

藤堂高虎(東軍・外様)

慶長13年に入封。家康の信頼が厚い実力者 15

第三章:慶長六年正月、布告 ― 国家事業の幕開け

関ヶ原の戦いからわずか四ヶ月後の慶長六年(1601年)正月。江戸城では、新たな時代を告げる国家事業が静かに、しかし力強く始動した。徳川家康は、東海道筋の主要な村々に対し、二通の公式文書を発給した。これが、近世日本の交通システムを規定することになる「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」である 3

この歴史的な事業の実務を担ったのは、石田三成のような戦国武将ではなく、家康が深く信頼を寄せる民政官僚(テクノクラート)たちであった。代官頭として各地の検地や鉱山経営で驚異的な手腕を発揮した大久保長安、関東総代官として利根川の治水事業などを指揮した伊奈忠次、そして同じく代官として活躍した彦坂元正。彼らはいずれも、武力ではなく、算術と法規、そして行政手腕によって領国を治めることに長けた、新時代の能吏であった 18 。家康がこの事業を彼らに委ねたこと自体、徳川の国家構想が軍事優先の時代から、行政と経済を基盤とする時代へと大きく舵を切ったことを象徴している。

権威の象徴「伝馬朱印状」

各宿場に下付された一通目の文書、「伝馬朱印状」は、極めて簡潔なものであった。そこには「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也(この御朱印がなければ、伝馬を出してはならない)」という一文が記されているだけであった 18 。しかし、その文面の下には、徳川家康の権威そのものを象徴する、鮮やかな朱印が押されていた。これは「駒曳朱印(こまひきしゅいん)」と呼ばれる特殊な印章で、馬の手綱を引く馬丁の姿が描かれていた 20

この朱印状の役割は、絶対的な権威の源泉が徳川家康にあることを、視覚的に示すことにあった。幕府の公用で旅をする役人たちは、これと同じ朱印が押された「伝馬手形」を携行する。宿場の役人は、手形と自宿に保管されている朱印状を照合することで、その役人が幕府公認の利用者であることを確認し、無償で人馬を提供する義務を負った 21 。朱印という誰の目にも明らかなシンボルは、文字の読めない庶民にさえ、新たな支配者の権威を理解させた。これは、個々の武将の武力や属人的な関係性に依存した戦国時代の支配とは一線を画す、記号による統治の始まりであった。

制度の設計図「御伝馬之定」

二通目の文書である「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」は、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の三奉行連署で発せられた、より実務的な規則書であった 18 。これは、各宿場が遵守すべき具体的なルールを定めたもので、全国どこでも通用する標準化されたシステムの設計図であった。その主な内容は以下の通りである。

条項

内容

典拠

常備伝馬数

各宿場は、公用のために常に36疋(頭)の馬を常備しなければならない。

3

積載量規定

伝馬一疋に積載できる公用荷物の重量は、30貫目(約112.5kg)を上限とする。(後に40貫目に改定)

3

継立先の指定

公用の荷物や書状は、必ず指定された次の宿場まで責任を持って継ぎ送らなければならない。

18

朱印状の確認義務

伝馬の利用を求める者に対しては、必ず幕府発行の朱印状(手形)の提示を求め、確認しなければならない。

18

駄賃の規定

(条文の詳細は不明だが)公用以外の一般旅行者が利用する場合の駄賃(運賃)に関する規定などが含まれていたと推定される。

-

この「権威の象徴(朱印状)」と「実務的な規則(定書)」の組み合わせは、極めて巧みな統治技術であった。幕府はこれにより、「我々が絶対的な権威の源泉であり、全国の交通は我々が定めたこの統一ルールに従って運営される」という明確なメッセージを発したのである。それは、属人的・地域的な慣習が支配した中世の終わりと、システムと法規に基づく近世的な官僚支配の時代の幕開けを告げる、静かな、しかし決定的な布告であった。

第四章:宿駅の誕生 ― 関宿における伝馬制度の確立

慶長六年正月、江戸から発せられた布告は、東海道を駆け下り、伊勢国関宿にもたらされた。この二通の文書を受け取った瞬間から、古代以来の交通の要衝であったこの村は、徳川幕府の国家システムに組み込まれた公的機関、「宿場(宿駅)」として新たな役割を担うことになった。それは、一つの村が共同体としてのあり方を根本から変革していく過程の始まりであった。

宿駅機能の中核「問屋場」の設置

宿場として指定された関宿には、まず伝馬制度を運営するための中核施設である「問屋場(といやば)」が設置された 3 。問屋場は、現代でいえば郵便局と運送会社の集配センター、そして役場の出張所を兼ねたような施設である。その主な業務は、前の宿場からリレーされてきた幕府の公用荷物や書状(御状箱)を受け取り、それを次の宿場(関宿の場合は東の亀山宿、西の坂下宿)へ滞りなく継ぎ送るための人馬を手配することであった 7

この問屋場の運営実務を担うために、地元の有力者の中から「宿役人」が任命された。宿全体の責任者である「問屋」、それを補佐する「年寄」、そして事務や会計を担当する「帳付」といった役職が置かれ、彼らが中心となって日々の業務を差配した 2 。こうして、幕府の命令を末端で実行する行政組織が、関宿の内部に形成されていったのである。

義務と権利の経済システム

幕府は、関宿に対して『御伝馬之定』に基づき、伝馬36疋と、それに対応する数の人足(馬の口を取る馬子や荷物を運ぶ人足)を常に用意しておくという、極めて重い義務を課した。これを「伝馬役」という 5 。幕府の朱印状を持つ役人は、これらの人馬を無償で利用できたため、宿場にとっては大きな経済的負担であった。

しかし、幕府は一方的に負担を強いたわけではなかった。その重い義務の代償として、関宿にはいくつかの重要な「権利(特権)」が与えられた。

第一に、伝馬役を負担する家(伝馬屋敷)は、その土地にかかる年貢(地子)が免除された 5。これは、公役に対する直接的な経済的補償であった。

第二に、そしてより重要なのは、関宿が街道における物流と宿泊の独占権を与えられたことである。公用の人馬に余裕がある場合、宿場はそれを一般の旅行者や商人に有料で貸し出すことができた(駄賃稼ぎ)。さらに、参勤交代の大名行列や伊勢参りの旅人たちを宿泊させるための施設(本陣、脇本陣、旅籠)を経営し、利益を上げることを独占的に許可された 5。

この「義務と権利」を組み合わせたシステムは、徳川の統治の巧妙さを見事に示している。宿場の人々にとって、幕府から課せられた伝馬役を誠実に務めることは、自らの経済的繁栄に直結するインセンティブとなった。公役への奉仕が、結果として私的な利益につながる構造が作られたのである。これにより、幕府は全国の交通網を維持するための直接的なコストをほとんど負担することなく、宿場町を自律的に発展させ、そこに住む人々を幕藩体制の忠実な担い手として経済的に組み込むことに成功した。これは、単なる武力による恐怖支配とは全く異なる、持続可能な統治モデルの確立であった。

比較項目

戦国大名の伝馬制度

徳川幕府の伝馬制度(慶長6年)

目的

軍事・領国経営(私的)

公用(行政・軍事)(公的)

規模・範囲

領国内に限定され、分断

全国規模(五街道)で統一

運用主体

大名家による直轄

幕府が統括し、各宿場が運営

標準化

規格は領国ごとにバラバラ

全国統一規格(『御伝馬之定』)

経済的側面

領民への賦役(負担が主)

宿場への経済的特権付与(義務と権利)

この比較からも明らかなように、慶長六年の制度は、戦国時代のものとは本質的に異なる、全く新しい国家システムであった。関宿は、この新たなシステムの重要な歯車として、江戸時代の繁栄へと歩み出すことになったのである。

第五章:一本の道が紡ぐ泰平 ― 関宿宿駅整備がもたらしたもの

慶長六年(1601年)、関宿に宿駅が整備された一点の出来事は、やがて時を経て線となり、日本全土を覆う面となって、江戸時代の社会構造そのものを形作っていく。当初は幕府の公用という限定的な目的で始まったこの事業は、結果として日本の政治、経済、そして文化にまで、計り知れないほど長期的かつ広範な影響を及ぼすことになった。

政治的影響:幕藩体制の物理的基盤

家康が整備した東海道は、まず何よりも徳川幕府による全国支配を盤石にするための政治的・軍事的な大動脈であった。江戸と京・大坂という二大拠点を結ぶこの道を通じて、幕府の命令は迅速に西国へ伝わり、各地の情報は江戸へと集約された。そして、この安定した交通インフラがあったからこそ、のちに寛永十二年(1635年)に制度化される「参勤交代」が可能となった 23 。全国の諸大名が定期的かつ大規模に江戸との間を往復するこの制度は、大名の経済力を削ぎ、人質を江戸に置くことで謀反を防ぐという、幕藩体制の根幹をなすものであった 7 。関宿は、この巨大な大名行列が必ず通過する要衝として、本陣や脇本陣が整備され、幕府の支配体制を物理的に支える重要な役割を担った。

経済・社会的影響:物流と庶民の旅の活性化

当初は公用が優先された街道であったが、世の中が安定し「元和偃武」と呼ばれる泰平の時代が訪れると、その性格は大きく変化していく。安定し、安全になった街道は、全国規模での物資の流通を飛躍的に促進させた 22 。各地の特産物が江戸や大坂といった大消費地に運ばれ、日本は前例のない規模の統一市場を形成し始めた。街道は、まさに日本経済の血流となったのである 9

同時に、街道は人々の移動も活発化させた。特に、東海道と伊勢別街道の分岐点に位置する関宿にとって大きかったのは、「お伊勢参り」の爆発的な流行であった 11 。江戸時代、「一生に一度はお伊勢参り」は庶民の夢となり、平和な時代を謳歌する人々が全国から伊勢神宮を目指した。関宿は、その参宮客で昼夜を問わず賑わい、東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町として繁栄を極めた 14 。天保十四年(1843年)の記録によれば、関宿には本陣2軒、脇本陣2軒、そして一般旅行者向けの旅籠が42軒もあり、その賑わいを物語っている 25 。旅籠「玉屋」や「鶴屋」といった大規模な宿泊施設が生まれ、旅の文化が花開いた 26

文化的影響:交流と一体感の醸成

家康が意図したのは、おそらく江戸からの命令を一方的に伝達する「統制のための道」であっただろう。しかし、一度安全で信頼性の高いインフラが整備されると、人々はそれを自らの目的のために利用し始める。参勤交代で江戸の文化に触れた武士、商品を運ぶ商人、そして伊勢神宮を目指す巡礼者たち。多様な身分、出身地、目的を持つ人々が関宿のような宿場町で昼夜交錯することで、情報、文化、経済が混ざり合い、新たな活力が生まれた。江戸の最新の流行が伝えられ、各地の産物が取引され、様々な方言が飛び交った。

このようにして、幕府の統制の道具として作られた街道は、意図せざる副産物として、日本列島に住む人々の間に文化的な一体感を醸成し、近世的な市民社会が成熟する土壌を提供する役割を果たした。慶長六年の関宿における一つの決定は、家康の統制の意図を超えて、日本の社会そのものを豊かに変容させる種子を蒔いたのである。その繁栄の記憶は、現在も国の重要伝統的建造物群保存地区として奇跡的に残る関宿の町並みに、深く刻み込まれている 28

終章:戦国の終焉、江戸の黎明

慶長六年(1601年)の「関宿宿駅整備」は、日本の歴史における一つの分水嶺であった。それは、単なる交通政策の始まりとして片付けられるべき事象ではない。むしろ、戦国という「力と偶然が支配する時代」の価値観に終止符を打ち、江戸という「制度と秩序が支配する時代」の到来を告げる、画期的な事業であったと結論づけられる。

第一に、この事業は、軍事的な勝利を恒久的な政治支配へと転換させるための、極めて迅速かつ計画的な一手であった。関ヶ原の戦いの直後、未だ国内が不安定な中で断行されたこの政策は、徳川家康が目指す国家が、もはや武力のみに依存するものではないことを天下に示した。

第二に、それは戦国時代に乱立した大名ごとの私的な交通網を、幕府による公的な交通網へと再編する、質的な大転換であった。全国統一規格の導入は、日本の分断に終止符を打ち、中央集権的な幕藩体制の物理的基盤を築いた。

第三に、関宿という場所の選定自体が、高度な政治的パフォーマンスであった。関ヶ原の戦いにおいて敵性地域であった場所に、新たな秩序の拠点を築くことで、家康は旧勢力に対し、支配者が交代したことを物理的に、そして象徴的に見せつけたのである。

第四に、義務と権利を組み合わせた巧妙な制度設計は、地域の経済的発展と幕府への忠誠を両立させる、持続可能な統治システムを構築した。人々は、徳川がもたらす「泰平」の恩恵を、宿場町の繁栄という形で日々実感し、体制の安定に自発的に貢献するようになった。

そして最後に、家康が意図した「統制の道」は、二百数十年の時を経て、彼が必ずしも予期しなかったであろう「交流と文化創造の道」へと大きく発展した。それは、日本の文化的な一体感を醸成し、江戸時代の豊かな社会を育む土壌となった。

結論として、慶長六年(1601年)の関宿における宿駅整備は、戦国時代の無秩序でぬかるんだ道を、近世国家の秩序ある道へと舗装し直す、静かな、しかし決定的な革命であった。関宿を貫く一本の道は、まさしく二百六十年の長きにわたる徳川の泰平を支える礎となり、新たな時代の幕開けを告げる黎明期の光そのものであったのである。

引用文献

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  23. 歴史探訪[街道の歴史]江戸宿駅制度の成立 - お茶街道 http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/kaisetu2.htm
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  25. 亀山市重要伝統的建造物群保存地 - 昭和59年12月10日選定 - 東の追 https://www.j-resortclub.or.jp/wp-content/uploads/2023/01/%E9%96%A2%E5%AE%BF%E5%9D%82%E4%B8%8B%E5%AE%BF%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F.pdf
  26. 関宿旅籠玉屋歴史資料館 | 三重 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00019198/
  27. 関宿旅籠玉屋歴史資料館 - 亀山市史民俗 交通・交易 https://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui5/data5-1/index5_1_7_9.htm
  28. 東海道53次「関宿」 重要伝統的建造物群保存地区40周年を迎えて 先人の残したまちなみを守る修理修景事業にふれる(A日程) | 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/club/event/walk/9637/
  29. 関宿から伝える。わが町の素晴らしさと、自然の中に身を置く暮らしの豊かさ。 - 観光三重 https://www.kankomie.or.jp/report/1735
  30. 関宿の歴史と文化 - 亀山市 https://www.city.kameyama.mie.jp/docs/2014112311914/
  31. 亀山市関宿(宿場町 三重) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/24094
  32. 関宿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AE%BF