最終更新日 2025-09-12

関所撤廃令(1568)

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永禄十一年「関所撤廃令」の全貌:織田信長、天下布武への経済戦略

序章:淀む流れ、閉ざされた道

戦国乱世の日本において、「関所」は単なる通行税の徴収地点ではなかった。それは、中央の権威が失墜し、各地に大小の権力が分立する中世という時代の構造的病理を象徴する桎梏であった。本来、古代律令制における関所は、謀反人の逃亡阻止や情報統制といった、国家防衛のための軍事・警察的機能を持っていた 1 。しかし、室町時代に入り幕府の権威が衰えると、その様相は一変する。朝廷、幕府、荘園領主である公家や有力寺社、さらには在地の実力者である国人領主や地侍に至るまで、ありとあらゆる勢力が自らの支配領域内に勝手に関所を乱設し、通行人や物資から「関銭」を徴収する経済的利権の牙城と化したのである 1

その弊害は、国家経済の動脈を詰まらせるに十分な深刻さであった。例えば、寛正三年(1462年)の記録によれば、大坂の淀川河口から京に至るわずかな区間に380カ所もの関所が存在したとされ、物流がいかに阻害されていたかが窺える 4 。商人は、関所を通過するたびに「津料」や「駄の口」と呼ばれる通行税を課され、そのコストは商品価格に転嫁された 3 。結果として物価は高騰し、交易は停滞、経済活動は著しく非効率な状態に陥っていた。戦国時代の京都が、この関所の存在ゆえに寂れたとまで評されるほどであった 3

さらに問題なのは、これらの関銭収入が、信長のような天下統一を目指す大名とは相容れない在地勢力の経済的・軍事的基盤を養っていた点である 3 。寺社勢力や地域の豪族は、関銭によって兵を雇い、武装を固め、中央の統制に抗う力を蓄えていた。これは、戦国の世の無秩序と治安悪化を助長する構造そのものであった 3

尾張を平定し、美濃を手中に収めた織田信長が「天下布武」の印を掲げた時、彼の眼前に立ちはだかったのは、敵対する戦国大名だけではなかった。日本の隅々にまで根を張り、人・モノ・カネの流れを阻害し、旧来の権威と既得権益を守るこの無数の関所こそ、彼が打ち立てようとする中央集権的な新秩序の実現を阻む、最大の障害の一つであった。信長にとって関所の撤廃は、単なる経済の活性化策に留まらない。それは、経済的非効率、在地勢力の分立、そして旧来の権威という三つの障害が凝縮された旧体制そのものへの宣戦布告であり、武力による天下統一事業と表裏一体をなす、極めて高度な国家戦略だったのである 6

第一章:上洛への道程(1568年7月~9月)

永禄十一年(1568年)、織田信長による関所撤廃という画期的な政策は、突如として発せられたものではない。それは、周到に準備され、圧倒的な軍事力によって裏付けられた「上洛作戦」の成功という、揺るぎない政治的・軍事的基盤の上に成り立っていた。この章では、関所撤廃令が布告されるに至るまでの、息もつかせぬ一連の出来事を時系列で追う。

大義名分の獲得と開戦準備

1565年の永禄の変で兄である第13代将軍・足利義輝を三好三人衆らに殺害された足利義昭(当時は覚慶)は、各地を流浪した後、ついに越前の朝倉義景のもとを離れ、天下統一の意志を鮮明にする織田信長を頼る決断を下す 7 。永禄十一年七月、義昭が美濃の岐阜城に入ったことで、信長は「足利将軍家を再興し、幕府を擁立する」という、天下に号令するための最高の大義名分を手に入れた 7

上洛への道は、しかし平坦ではなかった。美濃と京の間には、南近江を支配する名門・六角義賢、義治父子が立ちはだかっていた。六角氏は、足利義昭を追放した三好三人衆と気脈を通じており、信長の上洛を容認するはずもなかった 10

八月七日、信長はまず馬廻衆250騎のみを率いて岐阜を出立し、同盟者である北近江の浅井長政の居城・佐和山城に入る 10 。ここを拠点に、信長は六角氏に対して義昭の上洛への協力を求める最後の交渉を試みるが、六角氏はこれを断固として拒絶。ここに、武力による突破は避けられないものとなった 10

九月七日、信長は満を持して岐阜を出陣する。尾張・美濃・伊勢からなる織田軍本体に加え、同盟者である徳川家康からの援軍1000、そして浅井長政の軍勢3000も合流し、その総兵力は六万ともいわれる大軍勢に膨れ上がった 10 。対する六角軍の兵力は約一万一千。勝敗は、戦う前から火を見るより明らかであった。

観音寺城の戦い:電光石火の制圧

九月十一日、織田の大軍は六角領との境界である愛知川の北岸に布陣した 10 。六角方は、本城である観音寺城と、その支城である箕作城、和田山城を連携させた防衛体制を敷いていた 10

軍議の席で、柴田勝家は本城である観音寺城への直接攻撃を主張したが、羽柴秀吉はまず支城を攻略し、敵の連携を断ってから本城を攻める方が確実であると進言した。信長は秀吉の合理的な献策を採用し、軍を三隊に分ける 10 。稲葉良通ら美濃三人衆が和田山城を、柴田勝家と森可成が観音寺城をそれぞれ牽制する陽動部隊となり、信長自らは滝川一益、丹羽長秀、そして羽柴秀吉ら主力を率いて、最重要拠点である箕作城へと向かった 10

九月十二日午後四時頃、織田軍は一斉に愛知川を渡河し、攻撃を開始した 10 。箕作城は険しい山城であり、難攻不落と目されていたが、信長率いる織田軍主力の猛攻の前に、わずか半日で陥落してしまう 10 。この知らせは、観音寺城の六角父子に致命的な衝撃を与えた。永禄六年(1563年)の「観音寺騒動」と呼ばれる内乱以降、六角家中は家臣団の結束が著しく弱体化しており、もはや織田の大軍を前に籠城戦を戦い抜く気力も求心力も残されていなかったのである 10

九月十三日の未明、六角義賢・義治父子は、観音寺城に火を放ち、僅かな手勢と共に本拠地を捨てて甲賀の山中へと逃亡した 10 。主君が逃亡したことで六角氏の防衛線は完全に崩壊。日野城主であった蒲生賢秀をはじめとする南近江の国人衆は次々と信長に降伏し、上洛への最大の障害は、戦闘開始からわずか一日で取り除かれた 8

この圧倒的な速度と勝利は、単なる兵力差のみならず、浅井氏との同盟という周到な外交、秀吉の献策に代表される合理的な戦術、そして敵の内部崩壊という複合的な要因がもたらしたものであった。そしてこの「抵抗しても無駄である」という事実を天下に知らしめた圧倒的勝利こそが、直後に行われる関所撤廃という、旧来の権益を根底から覆す急進的な政策を断行するための、最大の政治的資本となったのである。

日付(永禄11年)

場所

主要な出来事

関連人物

7月

美濃国 岐阜

足利義昭、織田信長を頼り岐阜へ移る。

織田信長、足利義昭

8月7日

近江国 佐和山城

信長、佐和山城に着陣。六角氏との交渉を開始。

信長、浅井長政、六角義賢

9月7日

美濃国 岐阜

交渉決裂。信長、6万の大軍を率いて上洛へ出陣。

信長、徳川家康、浅井長政

9月11日

近江国 愛知川

織田軍、愛知川北岸に布陣。

信長、六角義賢

9月12日

近江国 箕作城

観音寺城の戦い 。織田軍、箕作城を一日で攻略。

信長、羽柴秀吉、柴田勝家

9月13日

近江国 観音寺城

六角義賢・義治父子、観音寺城を捨て甲賀へ逃亡。南近江平定。

六角義賢・義治、蒲生賢秀

9月26日

山城国 京都

信長、足利義昭を奉じて入京。

信長、足利義昭

第二章:京を制圧し、新秩序を布告す(1568年9月~10月)

南近江の六角氏を電光石火の速さで駆逐した織田信長は、いよいよ足利義昭を奉じて京の地を踏む。ここから、単なる軍事行動は、新時代の到来を告げる巧みな政治的パフォーマンスへと昇華していく。関所撤廃令は、この周到に演出された新秩序構築のプロセスにおいて、その象徴として発布されることになる。

入京と洛中掌握

九月二十二日、信長は桑実寺で足利義昭と合流すると、琵琶湖を船で渡り、大津へと進んだ 10 。六角氏のあまりにも早い敗走を知った三好三人衆は、京での本格的な抵抗を諦め、早々に本拠地である摂津・河内へと撤退した 10

永禄十一年九月二十六日、織田信長の軍勢は、大きな抵抗を受けることなく京へと入った。信長は足利義昭を清水寺に、自身は東寺に本陣を構えた 14 。『言継卿記』には、信長の上洛を前にして京の町中が「日々洛中洛外騒動也」と大混乱に陥った様子が記されているが、信長は入京と同時に、軍勢による乱暴狼藉や放火などを固く禁じる「禁制」を東寺をはじめとする洛中の有力寺社に次々と発布した 7 。これは、自らが単なる破壊者ではなく、荒廃した京に秩序をもたらす新たな支配者であることを、都の民衆や権門勢家に対して明確に示すための行動であった 7

さらに信長は、柴田勝家、森可成、佐久間信盛らに命じ、山城国に唯一残っていた三好方の拠点、岩成友通が守る勝竜寺城などを攻略させ、京周辺の敵対勢力を完全に一掃した 8 。力による完全な制圧と、規律による秩序の提示。この二つを迅速に成し遂げたことで、信長は京都における絶対的な支配権を確立したのである。

新体制の構築と関所撤廃令の発布

軍事的制圧を完了した信長は、矢継ぎ早に新体制の構築に着手する。十月に入ると、まず摂津、和泉といった畿内の主要都市に対し、矢銭(臨時軍用金)の納付を命じた 16 。これは、新政権の財政基盤を固めると同時に、経済都市に対する信長の支配権を誇示するものであった。

そして十月十八日、かねてからの大義名分であった足利義昭が、朝廷より将軍宣下を受け、室町幕府第十五代将軍に正式に就任する 9 。これにより、信長の上洛は「将軍家を再興する」という正統性を得て、その政治的立場は盤石なものとなった。

この一連のプロセス、すなわち「軍事的制圧(洛中掃討)」「秩序の提示(禁制発布)」「経済的収奪(矢銭徴収)」「政治的正統性の確立(義昭の将軍就任)」という段階を経た上で、信長は満を持して次の一手を打つ。それが、十月中に発せられた「関所撤廃令」であった 16

当代随一の記録である『信長公記』には、この政策について次のように記されている。

「且は天下の往還の旅人御憐愍の儀を思しめされ御分国中に数多ある諸関諸役上させられ、都鄙の貴賎一同に忝と拝し奉り、満足仕り候いおわんぬ」

(意訳:また、天下を往来する旅人を気の毒に思われ、ご自身の領国の中に数多くある関所や諸役をすべて廃止された。これにより、都や田舎の身分の高い者も低い者も皆、大変ありがたいことだと拝み、満足した)18

この記述は、関所撤廃が民衆から熱狂的に歓迎されたことを示している。矢銭という「鞭」で支配者の力を示した直後に、関所撤廃という万人が利益を享受できる「飴」を与える。この絶妙なタイミングでの政策発動は、信長が単なる武力だけの覇者ではなく、民の暮らしを思い、経済の発展を企図する「新しい天下人」であることを天下に印象付ける、極めて計算された政治的パフォーマンスであったと言えよう。

第三章:関所撤廃令の深層分析

永禄十一年に発せられた関所撤廃令は、その影響の大きさから信長の革新的政策の代表例として語られる。しかし、その真意を理解するためには、法令の条文や表面的な効果だけでなく、その適用範囲、他の政策との連携、そして経済・軍事・政治にまたがる多面的な狙いを深く分析する必要がある。

法令の対象範囲:「御分国中」の戦略的意味

『信長公記』が「御分国中」の関所を撤廃したと記している点は、極めて重要である 18 。これは、政策の適用範囲が日本全国ではなく、信長の直接支配が確立した領国、すなわち尾張・美濃に加え、上洛作戦によって新たに支配下に置いた伊勢や南近江などに限定されていたことを示している 6 。信長の支配権が及ばない他大名の領地はもちろんのこと、畿内であっても寺社や公家が古くから持つ荘園など、旧権力がいまだ温存されている地域には、この法令は直接的には適用されなかった。これは、信長の政策が理想論に基づいたものではなく、自らの支配権という現実的な力に裏打ちされた、極めて戦略的なものであったことを物語っている。

経済革命の号砲:物流の解放と楽市楽座との連携

関所撤廃の最も直接的な効果は、経済の活性化であった。これまで物流の最大の障害であった関所が取り払われたことで、人、モノ、情報の流れは劇的に円滑になった 21 。これにより、物流コストは大幅に削減され、商業活動はかつてない活況を呈した。

この政策は、信長が上洛以前の永禄十年(1567年)から美濃加納などで始めていた「楽市楽座令」と連動することで、その効果を最大化した 3 。楽市楽座が、座などの特権を廃して城下町という「点」における商売の自由を保障する政策であったのに対し、関所撤廃は街道という「線」における移動の自由を保障するものであった 3 。この「点」と「線」の規制緩和が一体となって初めて、広域的な自由経済圏が創出され、中世的な閉鎖経済から近世的な市場経済への扉が開かれたのである 4

軍事兵站の革新:迅速なる軍団移動を可能にするインフラ改革

信長の狙いは、単なる経済振興に留まらなかった。関所撤廃は、彼の軍事戦略と不可分に結びついていた。第一に、関所という物理的障害がなくなることで、軍隊の移動速度が飛躍的に向上し、電光石火の作戦展開が可能となった 22 。信長はこれと並行して、街道の道幅を拡張し、橋を架けるといったインフラ整備にも力を入れており、これらはすべて軍団の機動力を高めるための投資であった 2

第二に、より重要なのは、商業の活性化がもたらす莫大な富が、信長軍の構造そのものを変革した点である。当時の多くの戦国大名が、農繁期には帰農しなければならない農民兵を軍事力の中心としていたのに対し、信長は商業利益を元手に、銭で兵を雇う「傭兵制」へと大きく舵を切った 3 。これにより、信長軍は季節に関係なく長期間にわたる作戦行動が可能となり、他大名に対して決定的な軍事的優位性を確立した。関所撤廃は、この革新的な軍事システムの根幹を支える財源を生み出すための、経済政策という名の軍事政策でもあったのである。

旧体制への挑戦:寺社勢力・在地豪族の既得権益解体

関所撤廃が持つ最も根源的な意味は、旧体制の解体という政治的側面にあった。前述の通り、関銭は寺社勢力や在地豪族にとって極めて重要な収入源であった 3 。信長は関所を撤廃することで、彼らの経済基盤を根底から破壊し、その影響力を削ぐことを狙った 26 。これは、信長が掲げる「天下布武」、すなわち武家による一元的・中央集権的な支配体制の確立に向けた、旧来の分権的構造への直接的な攻撃であった 1 。この政策によって既得権益を奪われた寺社勢力が、後に信長に対して激しい抵抗を見せるのは当然の帰結であり、比叡山延暦寺の焼き討ちといった事件の遠因は、すでにはこの時点で作られていたのである 3

例外と実態:京都における物価維持政策という複眼的視点

一方で、信長の政策は必ずしも画一的な「全廃」ではなかったとする見解も存在する。特に京都のような巨大な消費地においては、関所を完全に撤廃すると、周辺地域から物資が際限なく流入し、急激な物価下落を引き起こして経済を混乱させる危険性があった。そのため、信長は京都周辺の一部の関所をあえて残し、物資の流入量を調整することで物価の安定を図った可能性がある 28 。もしこれが事実であれば、信長が単なる破壊者ではなく、状況に応じて政策を使い分ける、極めて現実的かつ合理的な思考を持った為政者であったことを示す証左となるだろう。

これらの分析から浮かび上がるのは、信長の関所撤廃が、経済・軍事・政治の各要素が緊密に連携した、壮大な国家改造計画の一部であったという事実である。それは「商業の活性化 → 富の集中 → 恒常的な軍事力の維持 → さらなる領土拡大 → 支配地での商業活性化」という、自己増殖的な拡大再生産システムを構築するための、相互に不可分な構成要素であった。永禄十一年の関所撤廃令は、この革新的な国家経営システムのエンジンを始動させる、最初の点火プラグの役割を果たしたのである。

第四章:反響と遺産

織田信長による関所撤廃令は、当時の社会に大きな衝撃を与え、その後の日本の歴史に長く続く遺産を残した。その影響は、歓迎と反発という二つの側面を持ちながら、中世という時代を終わらせ、近世への扉を開く大きな力となった。

民衆と商人の歓迎

『信長公記』が「都鄙の貴賎一同に…満足仕り候いおわんぬ」と記したように、この政策は身分を問わず広範な民衆から熱狂的に支持された 18 。特に、これまで重い通行税に苦しめられてきた商人や旅人にとって、信長はまさに解放者であった 30 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスも、信長がそれまで高額であった通行税を一切免除したことで、一般人の心を掌握したと記録している 3 。この民衆からの支持は、信長の支配を武力だけでなく、人心の面からも強固なものにした 25

既得権益層の反発

その一方で、光が強ければ影もまた濃くなる。関所の撤廃は、それを収入源としていた勢力にとっては死活問題であった。特に、古くからの荘園を持ち、各地に関所を設置していた比叡山延暦寺のような有力寺社や、在地豪族たちは、信長の政策によって経済的基盤を根こそぎ奪われることになった 3 。彼らが抱いた信長への強い反感と危機感は、やがて反信長勢力として結集し、後の足利義昭や朝倉・浅井氏らと連携した「信長包囲網」の形成へと繋がっていく重要な伏線となった 26

政策の継承と全国への拡大

信長の革新的な政策は、彼の死によって途絶えることはなかった。天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、信長の関所撤廃をさらに推し進め、全国規模で展開した。天正十年(1582年)十月、秀吉は信長でさえ手を付けられなかった皇室領の率分関を停止させ、天正十三年(1585年)頃には、諸国に対して関銭や浦役(港湾税)の徴収を禁じ、全国的な関所の撤廃を断行した 20 。これにより、中世を通じて経済の桎梏であった関所は、国境防衛などの軍事的目的を持つものを除き、実質的に日本から姿を消すことになった。

中世から近世への分水嶺

織田信長が始め、豊臣秀吉が完成させた関所撤廃は、日本の歴史における大きな転換点であった。それは、多様な権力が各地に分立し、それぞれが閉鎖的な経済圏を形成していた中世的な社会構造を破壊するものであった 1 。物理的な障害が取り除かれただけでなく、それまで当たり前であった「領域を超えた移動は制限される」という中世的な常識が覆されたことは、人々の意識にも大きな変化をもたらした。

この政策は、人々の中に「移動の自由」という新しい価値観を芽生えさせ、社会全体の流動性を高めた。分断されていた地域が「道」によって繋がり、人々が自由に行き来できるようになった経験は、「天下は一つである」という新しい国家意識を醸成する土壌となった。信長が切り開いたこの流れは、秀吉による全国統一、そして徳川幕府による五街道の整備といった、近世的な統一国家のインフラ構築へと直接繋がっていく。永禄十一年の関所撤廃は、まさに中世の終わりと近世の始まりを告げる、歴史の分水嶺に位置する出来事だったのである。

終章:流れ始めた未来

永禄十一年(1568年)十月、織田信長によって発せられた関所撤廃令は、単なる一過性の経済政策ではなかった。それは、信長が抱いた「天下布武」という壮大な国家構想と不可分に結びついた、極めて戦略的な一手であった。

本報告書で詳述したように、この政策は、上洛戦という圧倒的な軍事的成功を背景に、計算され尽くしたタイミングで発布された。その目的は多岐にわたる。物流を解放して経済を活性化させ、その富で傭兵による強力な常備軍を維持し、その軍事力をもって寺社勢力などの旧権益を解体し、中央集権的な新秩序を打ち立てる。経済、軍事、政治が有機的に連携したこの革新的な統治システムは、年貢収入に依存する旧来の戦国大名とは一線を画すものであり、関所撤廃令はその始動を告げる高らかな号砲であった。

もちろん、その道は抵抗と反発に満ちていた。既得権益を奪われた者たちの怨嗟は、後の信長包囲網となって彼を苦しめることになる。しかし、一度流れ始めた歴史の奔流を押しとどめることはできなかった。信長が切り拓いた「自由な流通」という道は、豊臣秀吉によって全国へと広げられ、徳川の世へと続く日本の近世社会の礎を築いた。

1568年秋、京の都から発せられた一通の法令は、中世以来淀んでいた日本の歴史の流れを、未来へと大きく押し流す確かな源流となったのである。

引用文献

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