最終更新日 2025-09-11

鞆幕府樹立(1573)

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鞆幕府樹立の真相:京都追放から反信長連合の終焉まで

序章:将軍と天下人、蜜月の終焉

天正元年(1573年)に室町幕府第15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都を追放され、その3年後の天正4年(1576年)に備後国鞆の浦(現在の広島県福山市)で亡命政権、いわゆる「鞆幕府」を樹立するに至った一連の事変は、単なる将軍個人の流浪の物語ではない。それは、日本の歴史が中世的な権威構造から近世的な実力支配へと移行する、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。この歴史的動乱の根源を理解するためには、まず義昭と信長、二人の権力者の関係が、当初の緊密な協力関係から、いかにして修復不可能な対立へと変質していったのかを解き明かす必要がある。

両者の関係は、相互の利害一致から始まった。兄である第13代将軍・義輝を三好三人衆らに殺害された(永禄の変)後、還俗した義昭は、将軍職を継承し幕府を再興するという大望を抱きつつも、それを実現するための軍事力を欠き、各地の有力大名を頼る流浪の日々を送っていた 1 。一方、尾張・美濃を平定し、天下布武の旗を掲げる織田信長にとって、足利将軍家という伝統的権威は、自身の上洛を正当化し、畿内平定を円滑に進める上で極めて有効な政治的カードであった 3 。明智光秀らの仲介を経て両者は結びつき、永禄11年(1568年)、信長は義昭を奉じて上洛。義昭は念願の征夷大将軍に就任し、信長はその最大の功労者となった。この蜜月期において、義昭は信長を「御父」とまで呼び、深い感謝の意を示している 5

しかし、この協力関係の基盤は脆弱であった。信長は義昭を、自らが主導する新秩序の権威付けのための象徴、いわば傀儡として見ていた節がある。将軍就任からわずか数ヶ月後の永禄12年(1569年)には、将軍の権限を著しく制限する「殿中御掟」を義昭に認めさせ、さらに翌年には「五カ条条書」を追加し、「天下のことは信長に任せられたので、いちいち義昭の許可を得るようなことはしない」とまで通告するに至る 2 。これに対し、義昭が目指していたのは、あくまで足利将軍家を頂点とする室町幕府の再興であり、信長を幕府を支える有力な武将の一人と位置づけていた 2

この根本的な路線対立、すなわち「伝統的権威(幕府)」と「実力による新興権力(信長)」という二つの異なる秩序観の衝突は、元亀3年(1572年)9月、信長が義昭の行状を17項目にわたって痛烈に批判した「十七カ条の異見書」を叩きつけたことで、ついに決裂点に達した 3 。この文書は、義昭の将軍としてのプライドを根底から揺さぶり、彼に信長打倒を決意させる最後の引き金となったのである 6 。元亀4年(1573年)の戦乱、そしてその後の鞆幕府樹立へと続く道は、この瞬間に不可逆的に定められたのであった。

第一部:元亀四年の激震 ― 室町幕府の崩壊

第一章:二条御所の攻防(1573年2月~4月)

信長との決別を決意した足利義昭は、反撃の好機を窺っていた。その絶好の機会は、元亀3年(1572年)末、甲斐の武田信玄が大規模な西上作戦を開始したことによってもたらされた。三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康が大敗を喫したとの報は、義昭を大いに勇気づけた 6 。かねてより信長の尊大な態度に不満を募らせていた幕臣たちの声にも後押しされ、義昭はついに信長への叛旗を翻す準備に取り掛かる。彼は自らの居城である二条御所の堀を深くし、防御を固めるなど、籠城の備えを密かに進めていった 10

【1573年2月~3月:挙兵と信長の電撃的進軍】

年が明けた元亀4年(1573年)2月、義昭は近江の石山城や今堅田城で反信長勢力を蜂起させると、自らも二条御所に立て籠もり、信長との断交を公然と宣言した 8。武田信玄が西から迫り、浅井・朝倉氏が北に睨みを利かせる状況下で、京の人々の多くは信長が容易に上洛できるとは考えていなかった 11。

しかし、その観測は織田信長の行動力によって覆される。3月25日、信長は岐阜城を出陣すると、京の人々の予想を遥かに超える速度で進軍。荒木村重や細川藤孝らの軍勢も合流し、3月29日に信長が京の郊外に姿を現した時、その兵力は1万5千から1万6千にまで膨れ上がっていた 11 。信長の電撃的な来着は、義昭方に衝撃と動揺を与えた。

【1573年4月:上京焼き討ちと勅命講和】

信長は、将軍が籠る二条御所を直接攻撃するという手段を選ばなかった。その代わりに彼が実行したのは、より冷徹で政治的な一手であった。4月2日から4日にかけて、信長は配下の軍勢に命じ、義昭の支持基盤が集中する上京の広範囲にわたって火を放ったのである 7。この「上京焼き討ち」は、単なる軍事的な威嚇に留まらなかった。それは、将軍の権威の源泉である「京都」そのものを人質に取り、「将軍は京の民草一人守れない」という事実を天下に知らしめる、高度に計算された政治的示威行動であった。炎上する市街を前に、義昭の権威は物理的にも象徴的にも大きく傷つけられた。

同時にこの非情な戦術は、朝廷にも強烈な圧力を加えた。御所の間近まで火の手が迫る状況に恐怖した正親町天皇と公家たちは、事態の収拾に乗り出さざるを得なかった。信長は二条御所を完全に包囲し、兵糧の道を断つ一方で、朝廷を通じて義昭に和睦を勧告 11 。完全に孤立し、進退窮まった義昭は、4月7日、正親町天皇から下された和睦の勅命を受け入れる以外に選択肢はなかった 3 。こうして両者の最初の衝突は一時的な停戦に至ったが、信長は義昭に謁見すらせず、4月8日には早々と岐阜へと帰還した 11 。両者の間に生まれた亀裂は、もはや修復不可能な段階に達していた。

第二章:槇島城の落日(1573年7月)

二条御所の攻防における一時講和は、根本的な対立を何ら解決するものではなかった。義昭が再起を期す中で、反信長勢力にとって、そして義昭自身にとって最大の支柱であった武田信玄が、講和成立直後の4月12日に西上作戦の途上で病死するという激震が走る 2 。信玄の死はしばらく秘匿されたが、武田軍が甲斐へ撤退したことで、信長包囲網のパワーバランスは決定的に崩壊した。

【1573年7月:再挙兵と信長の圧倒的軍事力】

この絶望的な状況下で、義昭は驚くべき行動に出る。7月3日、彼は朝廷による和睦を一方的に破棄し、山城国の有力国人であった真木島昭光を頼り、宇治川と巨椋池に囲まれた要害・槇島城に立て籠もって再び挙兵したのである 3。この時の義昭の兵力は、わずか3,700余りであった 12。この無謀ともいえる決断の裏には、もはや信長とは相容れないという将軍としての意地と、追い詰められた末の悲壮な覚悟があった。京では、信長が親のように養ってきた恩も忘れた義昭の挙兵を嘆く落首が詠まれたという 12。

義昭の動きに対し、信長の反応は迅速かつ苛烈を極めた。7月6日には、完成したばかりの大船を用いて琵琶湖を渡り、自ら軍を率いて京へ進軍 12 。まず、義昭が守りを固めさせていた二条御所を包囲し、抵抗を試みた三淵藤英らを開城させ、これを完全に無力化した 12 。そして7月18日、信長は柴田勝家、佐久間信盛といった主だった武将を総動員し、7万とも号される大軍を率いて槇島城へと迫った 12

【1573年7月18日~19日:降伏と京都追放】

宇治川を挟んで対峙した両軍の兵力差は、実に20倍近くに達していた。織田軍は宇治川を二手に分かれて渡河すると、槇島城を完全に包囲。城外へ打って出た義昭方の足軽は瞬く間に蹴散らされ、織田軍は城の外構を突破し、城下や城郭に次々と火を放った 12。義昭が難攻不落と頼んだ槇島城は、信長の大軍の前には全く無力であった 12。本城にまで火の手が迫るに及び、義昭は恐怖に駆られ、信長に降伏を申し入れた。

信長は、敗軍の将として引き据えられた義昭の命までは取らなかった。しかし、その処遇は厳しく、2歳になる嫡男・義尋を人質として差し出させ、降伏を認めると、京都からの追放を命じた 3 。この判断は、単なる温情や「将軍殺し」の汚名を避けるという体面上の理由だけではなかった。義昭を殺害すれば、別の足利一門が反信長勢力の新たな旗頭として担がれる可能性がある。それに対し、義昭を「追放された亡命将軍」として生かしておくことで、将軍職は義昭が保持し続け、新たな将軍の擁立を防ぐことができる。同時に、追放された将軍の権威は地に落ち、その無力さを天下に示すことができる。信長にとって、生かして無力化する方が、殺害するよりも遥かに政治的利益が大きかったのである。

7月19日、足利義昭は僅かな供回りと共に槇島城を退去した 12 。これをもって、約240年続いた室町幕府は、中央政権としての実体を完全に喪失し、事実上の滅亡を迎えた 3 。そして7月28日、信長は朝廷に働きかけ、元号を「元亀」から「天正」へと改元させる 12 。これは、将軍の権威を公然と否定し、自らが天下の新たな秩序を司る者であることを宣言する、象徴的な出来事であった。


【挿入表1:元亀四年(1573年)主要動向タイムライン】

元亀4年の一年間は、室町幕府の運命を決定づける出来事が立て続けに発生した、まさに激動の年であった。その目まぐるしい情勢の変化を以下に時系列で示す。

年月日

出来事

関連人物

影響

1月30日

足利義昭、信長討伐のため挙兵

義昭、信長

信長包囲網の本格化 9

2月

二条御所の戦い開始

義昭、信長

第一次軍事衝突 11

3月29日

信長、京に到着

信長

義昭への軍事的圧力 11

4月2日

上京焼き討ち

信長

義昭の支持基盤への打撃 11

4月7日

勅命講和成立

正親町天皇、義昭、信長

一時停戦 3

4月12日

武田信玄、病死

信玄

信長包囲網の最大戦力喪失 2

7月3日

義昭、槇島城で再挙兵

義昭

最終決戦へ 12

7月18日

槇島城陥落、義昭降伏

義昭、信長

室町幕府の事実上の滅亡 12

7月19日

義昭、京都から追放される

義昭

亡命生活の始まり 12

7月28日

「天正」へ改元

信長、朝廷

信長による新秩序の象徴 12


第二部:流浪の公方 ― 再起への道程 (1573年~1576年)

第一章:畿内での潜伏

京都を追放された足利義昭の苦難に満ちた流浪の旅が始まった。槇島城を退去した義昭一行は、7月19日に枇杷庄(現在の京都府城陽市)、翌20日には河内国の津田(現在の大阪府枚方市)を経て、7月21日に同国の若江城(現在の東大阪市)にたどり着いた 12 。その道中では落ち武者狩りに遭い、荷物を奪われるなど、将軍の権威は地に落ち、「貧乏公方」と民衆から嘲笑される有様であったという 12

義昭が身を寄せた若江城の城主は、三好義継であった。この選択は、戦国時代の権力闘争における非情な現実主義を象徴している。義継は、かつて義昭の兄・義輝を殺害した永禄の変の首謀者の一人であり、義昭にとっては不倶戴天の仇敵のはずであった 20 。しかし、その後の情勢の変化の中で、義継もまた信長と対立する立場に追い込まれていた。さらに、信長の仲介によって義昭の妹を娶っており、義理の弟という複雑な関係にもあった 1

この亡命劇の裏では、石山本願寺の顕如が斡旋したとされている 19 。義昭にとって、畿内において信長に対抗しうる一定の軍事力を保持し、地理的にも近い庇護者は義継しかいなかった。一方の義継にとっても、追放されたとはいえ「現職の将軍」を保護することは、反信長勢力としての自らの立場を正当化し、他の勢力との連携を図る上で大きな政治的価値があった。かくして、個人的な怨恨を超えた、冷徹な政治的・軍事的利害の一致が、この奇妙な同盟を成立させたのである。

しかし、この畿内における最後の足場も長くは続かなかった。将軍を匿ったことは、信長に対する明確な敵対行為と見なされた。同年11月、信長は佐久間信盛に命じて若江城を攻撃させる。義継は奮戦するも衆寡敵せず、妻子を手にかけた後、自害して果てた 20 。三好宗家はここに事実上滅亡し、義昭は再び安住の地を失い、次なる逃避行を余儀なくされることとなった。

第二章:紀伊への逃避

三好義継の滅亡により、畿内における有力な庇護者を完全に失った義昭は、さらなる南下を余儀なくされる。若江城を脱出した彼は、まず国際貿易港として独自の自治を誇る和泉国の堺へと移った 12 。堺は様々な勢力が交錯する中立地帯であり、一時的な避難場所としては適していた。

しかし、信長の勢力が畿内全域に及ぶ中、堺もまた安住の地とはなり得なかった。義昭は毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊らの手引きにより、紀伊国由良(現在の和歌山県由良町)の興国寺へと身を寄せることになった 19 。この地は、雑賀衆や湯川衆といった独立性の高い国人勢力が盤踞しており、信長の支配が直接には及びにくい地域であった 25

天正元年(1573年)末から天正4年(1576年)初頭にかけての約2年半、義昭はこの興国寺で雌伏の時を過ごすことになる。この期間は、単なる潜伏生活ではなかった。義昭は将軍としての権威を背景に、再起をかけた外交活動を水面下で精力的に継続していた。畿内が信長の勢力圏と化していく中で、彼の視線は西国、特に中国地方に圧倒的な勢力を誇る毛利氏に向けられていた。天正3年(1575年)夏頃には、毛利領への入国計画が具体化し、同時に東国の上杉謙信との同盟も成立するなど、次なる反信長連合、すなわち第二次信長包囲網の構想がこの紀伊の地で着々と練り上げられていたのである 26 。この雌伏の期間こそが、後の「鞆幕府」樹立に向けた重要な準備期間となった。

第三部:鞆幕府の成立と展開 (1576年~)

第一章:西国の雄、毛利輝元との合流

紀伊での雌伏を経て、足利義昭の反信長活動は新たな局面を迎える。天正4年(1576年)2月8日、義昭は興国寺を離れ、海路を経て毛利氏の勢力下にある備後国鞆の浦へとその座を移した 23 。これは単なる亡命先の変更ではなく、将軍の伝統的権威と西国最大の軍事力が結びつくことを意味し、ここに世に言う「鞆幕府」が事実上成立したのである。

中国地方の覇者である毛利氏は、当初、中央政局への直接介入には慎重な姿勢を見せていた。当主・輝元の祖父である元就が遺した、天下を競望しないという遺訓が重くのしかかっていたからである 30 。そのため、義昭からの庇護要請に対しても、当初は難色を示していた 30 。しかし、織田信長の勢力が播磨にまで及び、中国地方への侵攻が現実の脅威となる中で、毛利氏の戦略も転換を迫られた。信長と対決する上で、義昭が保持する「征夷大将軍」の権威は、自軍の行動を正当化し、他の反信長勢力を結集させるための絶大な大義名分となり得た 30 。また、それまで毛利氏の脅威であった九州の大友氏との対立が一段落したことも、毛利氏が東方、すなわち織田信長への対応に注力することを可能にした要因であった 30

義昭が拠点として選んだ鞆の浦は、地政学的にも極めて重要な意味を持っていた。この港は瀬戸内海の東西の潮流がぶつかる場所に位置し、古来より「潮待ちの港」として海上交通の要衝であった 29 。毛利氏が誇る強力な村上水軍の活動拠点として最適であり、ここを拠点とすることで、西国各地はもちろん、海路を通じて石山本願寺との連絡を維持することが可能であった 32 。さらに、鞆の浦は奇しくも室町幕府の創始者である足利尊氏が、九州からの再起を図る際に院宣を受け、軍勢を立て直した縁起の良い土地でもあった 29 。幕府再興を悲願とする義昭にとって、これほど象徴的な場所はなかったであろう。

第二章:亡命政権の組織と実態

備後国鞆の浦に設立された亡命政権「鞆幕府」は、独自の領国や財源を持たない、極めて特殊な政治形態であった。その実態は、毛利氏の全面的な支援の上に成り立つものであったが、同時に室町幕府の組織と権威を継承する体裁を整えていた。

義昭を追って鞆に集った人々は、旧幕府の奉公衆や奉行衆といった武家官僚、同朋衆や猿楽衆といった文化・芸能集団、侍医や女房衆など、多岐にわたる幕府関係者で構成され、その総勢は100名を超えたと推定されている 32 。中には、信長によって国を追われた伊勢の北畠具親、丹波の内藤如安、近江の六角義治といった旧大名の子弟も含まれており、鞆はさながら反信長勢力の一大拠点となっていた 34

この亡命政権の組織において、義昭は巧みな政治手腕を発揮する。彼は最大の後援者である毛利輝元を、将軍に次ぐ地位である「副将軍」に任じた 32 。これは、毛利氏の協力を確固たるものにすると同時に、毛利軍を単なる一地方大名の軍隊ではなく、将軍を奉じる「公儀」の軍隊として位置づけ、その軍事行動に正統性を与える効果があった。

鞆幕府の運営は、毛利氏の経済的・軍事的支援によって成り立っていた。

  • 経済的支援: 100名を超える幕府関係者の滞在費用や活動資金は、すべて毛利氏が負担した。毛利氏はその財源を確保するため、領内に「鞆夫(ともぶ)」と呼ばれる特別な人夫役を課した記録が残っており、領民に少なからぬ負担を強いてまで亡命政権を支えていたことがわかる 23
  • 軍事的支援: 毛利氏が擁する瀬戸内最強の水軍は、鞆幕府の生命線であった。彼らは石山本願寺への兵糧輸送を担い、第一次木津川口の戦いでは織田水軍を壊滅させるなど、信長軍と直接干戈を交えた 38
  • 御座所(御所): 義昭は当初、鞆の小松寺に入り、その後、港を一望できる要害の地である城山に御所を構えた。このことから義昭は「鞆公方」とも呼ばれた 30 。また、時期によっては近隣の常国寺などを御座所としていたことも確認されている 32

このように、「鞆幕府」は実質的には毛利氏の軍事・経済力に全面的に依存する「寄生政権」であった。しかし、その一方で、義昭が保持する「将軍」という伝統的権威は、毛利氏の対信長戦略に「正統性」という不可欠な要素を与えた。鞆幕府は、一方が欠ければ成り立たない、武力と権威の共生関係によって成立した、戦国末期特有の政治的実体だったのである。その存在は、単なる「張り子の虎」 41 という評価では捉えきれない、複雑な実態を有していた。


【挿入表2:鞆幕府の推定組織構成と主要人物】

亡命政権でありながら、鞆幕府は室町幕府の伝統を引き継ぐ組織としての体裁を保っていた。以下にその主要な構成要素を示す。

役職/分類

主要人物

役割・背景

将軍

足利義昭

亡命政権の首長。御内書の発給による外交戦略を主導。 32

副将軍

毛利輝元

鞆幕府の最大の後援者。軍事・経済支援を全面的に担う。 35

大名衆

北畠具親、武田信景、内藤如安、六角義治など

信長に追われた旧大名・国衆。将軍の権威を象徴する存在。 34

奉公衆・奉行衆

上野信恵、小林家孝、伊勢貞興、真木島昭光など

旧幕臣。義昭の側近として実務や外交交渉を担う。 23

その他

侍医、同朋衆、猿楽衆、女房衆など

将軍の日常生活と幕府の文化的な体面を支える人々。 32


第三章:御内書外交と第二次信長包囲網

鞆の浦に拠点を定めた足利義昭の最大の武器は、軍事力ではなく、彼が依然として保持する「征夷大将軍」の権威であった。彼はこの権威を最大限に活用し、「御内書(ごないしょ)」と呼ばれる将軍直々の書状を全国の有力大名に送りつけることで、大規模な反信長連合の形成を画策した。この巧みな外交戦略こそが、鞆幕府の最も重要な機能であった 32

義昭が発給した御内書の内容は多岐にわたった。信長討伐のための軍勢催促はもちろんのこと 44 、より高度な戦略として、敵対する大名同士の和睦を仲介することもあった。その代表例が、長年対立していた甲斐の武田氏、相模の北条氏、越後の上杉氏の三者に対し和睦を働きかけたことである 46 。これは、各大名の力を内紛で消耗させることなく、対信長戦線に集中させることを目的とした、壮大な外交構想であった。

この義昭の御内書外交によって、天正4年(1576年)以降、再び織田信長を東西から挟撃する「第二次信長包囲網」が形成されていった。この包囲網は、以下のような構造を持っていた。

  • 西の核・毛利氏: 副将軍・毛利輝元を筆頭とする毛利勢力は、包囲網の西の中核を担った 26 。彼らは中国・四国・九州の反信長勢力を束ね、石山本願寺への海上からの兵糧輸送を敢行し、播磨国などを舞台に羽柴秀吉率いる織田軍と激しい攻防を繰り広げた。
  • 東の核・上杉氏: 越後の「軍神」上杉謙信は、義昭の呼びかけに呼応し、包囲網の東の核となった 26 。天正5年(1577年)には手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を撃破し、北陸方面から信長に強烈な圧力を加えた 48
  • 中央の拠点・石山本願寺: 門主・顕如が率いる石山本願寺は、10年近くにわたり信長に抵抗し続けており、畿内における反信長勢力の最大の拠点であった 47 。毛利水軍による海上補給が、その抵抗を支える生命線となっていた 39
  • その他の連携勢力: 甲斐の武田勝頼は、義昭の仲介で毛利氏と「甲芸同盟」を結び 50 、東から信長を牽制した。また、丹波の波多野氏や、後に信長を裏切ることになる摂津の荒木村重なども、義昭の調略に応じてこの包囲網に加わった 30

このように、足利義昭は鞆の浦という一地方から、巧みな外交戦略によって全国規模の反信長連合を組織し、一時は天下の趨勢を左右するほどの大きな影響力を行使したのである。

第四部:落日 ― 包囲網の瓦解と終焉

第一章:相次ぐ同盟者の脱落

足利義昭の外交努力によって形成された第二次信長包囲網は、天正5年(1577年)の手取川の戦いでの上杉謙信の勝利や、毛利氏の石山本願寺支援の成功などにより、一時は信長を再び窮地に追い込んだかに見えた。しかし、この強固に見えた連合も、構成する各大名がそれぞれに抱える内部の脆弱性と、信長の巧みな切り崩し戦略の前に、徐々に崩壊していく運命にあった。

【1578年3月:上杉謙信の急死】

包囲網にとって最初の、そして最大の打撃は、天正6年(1578年)3月に訪れた。東の核であった上杉謙信が急死したのである 27。絶対的な指導者を失った上杉家では、二人の養子、景勝と景虎の間で家督を巡る激しい内乱「御館の乱」が勃発 51。この内紛によって上杉氏は国力を著しく消耗し、対信長戦線から事実上脱落してしまった 51。

【1578年10月~1579年11月:荒木村重の敗北】

謙信の死と同じ年、義昭の調略に応じた信長の重臣・荒木村重が摂津国有岡城で謀反を起こし、包囲網に加わった 53。これは畿内における信長の支配を揺るがす大きな出来事であったが、信長は粘り強く有岡城を包囲。一年以上にわたる籠城戦の末、兵糧攻めと内部からの切り崩しによって村重は敗北し、城を脱出した 55。畿内における重要な橋頭保を失ったことは、包囲網にとって大きな痛手となった。

【1576年~1580年:石山合戦の終結】

包囲網の中核拠点であった石山本願寺の命運も尽きようとしていた。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍が焙烙火矢を駆使して織田水軍を破り、兵糧搬入に成功した 38。しかし、この敗北に学んだ信長は、鉄板で装甲した巨大な「鉄甲船」を建造させる。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いで、九鬼嘉隆率いる織田水軍の鉄甲船は毛利水軍の焙烙火矢をものともせず、逆に大砲でこれを撃破 57。海上補給路を完全に遮断された石山本願寺は追い詰められ、天正8年(1580年)、ついに正親町天皇の勅命講和を受け入れ、11年にわたる戦いの末に信長に降伏した 59。

【1577年~:毛利氏の劣勢】

西の核であった毛利氏もまた、織田軍の猛攻に晒されていた。天正5年(1577年)以降、中国方面軍司令官に任じられた羽柴秀吉の侵攻により、毛利氏は播磨、但馬、因幡と次々に戦線を後退させられ、劣勢は明らかであった 61。さらに、備前の宇喜多直家が信長方に寝返るなど、支配下の有力国衆の離反も相次ぎ、毛利氏の勢力にも陰りが見え始めていた 30。

義昭の将軍としての権威は、利害の異なる大名たちを「反信長」という旗印の下に一時的に結集させる接着剤の役割を果たした。しかし、各勢力が抱える後継者問題や内部対立、長期戦による疲弊といった構造的な脆弱性を根本的に解決することはできなかった。信長の圧倒的な軍事力と政治力の前に、包囲網は一つ、また一つと崩れ去っていったのである。

第二章:本能寺の変、そして新たな時代へ

第二次信長包囲網が事実上瓦解し、毛利氏も羽柴秀吉の猛攻の前に防戦一方となる中、足利義昭の幕府再興の夢も潰え去ったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって京都・本能寺で横死したのである。

宿敵・信長の突然の死は、鞆の義昭にとってまさに青天の霹靂であった。義昭がこの事件の黒幕であったとする説は古くから存在するが、それを裏付ける直接的な証拠は見つかっていない 62 。しかし、信長に追放された恨みを持ち、かつて信長包囲網を組織した実績を持つ義昭が、光秀に何らかの働きかけをしていた可能性は十分に考えられる。

いずれにせよ、義昭はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼はこれを幕府再興、そして念願の上洛を果たす最後の機会と捉え、毛利輝元はもちろん、信長亡き後の有力者と目された柴田勝家や徳川家康らにも御内書を送り、自らの上洛への協力を精力的に働きかけた 43

しかし、天下の趨勢は義昭の思惑通りには進まなかった。備中高松城で毛利氏と対陣中に信長の死を知った羽柴秀吉が、世に言う「中国大返し」を敢行して京に駆け戻り、山崎の戦いで明智光秀を討ち破ったことで、歴史の主導権は完全に秀吉の手に渡った。義昭の最大の庇護者であった毛利氏も、秀吉と和睦し、やがてその軍門に降ることになる。

最大の後ろ盾を失った義昭は、もはや自力での上洛は不可能と悟らざるを得なかった。天正15年(1587年)頃、天下人となった豊臣秀吉の許しを得て、義昭は約15年ぶりに京都の地を踏む 64 。そして翌天正16年(1588年)1月13日、関白・豊臣秀吉と共に聚楽第から参内し、征夷大将軍の職を正式に朝廷に返上した 1 。この瞬間、足利尊氏以来250年以上続いた室町幕府は、名実ともにその歴史に幕を下ろした。

将軍職を辞し、出家して昌山道休と号した義昭の晩年は、意外にも穏やかなものであった。秀吉は、前将軍である義昭に対し、因縁の地である山城国槇島に1万石の所領を与え、大大名以上の破格の待遇で遇した 1 。また、秀吉の側近・話し相手である御伽衆に加えられるなど、最後まで貴人として敬意を払われた 43 。慶長2年(1597年)、義昭は大坂にてその波乱の生涯を閉じた。享年61 69

結論:鞆幕府が戦国史に遺した遺産

備後国鞆の浦に樹立された足利義昭の亡命政権、通称「鞆幕府」は、京都を追われた将軍が、失墜したかに見えたその伝統的権威を最後の武器として、西国の雄・毛利氏と結託し、天下人・織田信長に抗った、戦国時代末期における「旧秩序」による最後の、そして最大の抵抗運動であった。

その歴史的評価は多角的になされるべきである。まず、亡命政権としての実効性には明らかな限界があった。独自の軍事力も経済基盤も持たず、その存立と活動は完全に毛利氏の支援に依存していた 23 。しかし、それを単なる傀儡政権と断じるのは早計である。義昭が発給する将軍の御内書は、依然として全国の大名に対して大きな影響力を持ち、上杉謙信や石山本願寺などを糾合して第二次信長包囲網を形成し、10年近くにわたって信長の天下統一事業を遅滞させた、紛れもない外交的・政治的実体であった 43

また、鞆幕府の活動は、織田氏と毛利氏という二大勢力の全面対決という側面を色濃く持つ。この巨大な代理戦争において、義昭と鞆幕府は、毛利側に「将軍を奉じ、幕府を再興する」という、戦いを正当化するための絶対的な大義名分を与える象徴としての役割を果たした。

最終的に、鞆幕府が主導した第二次信長包囲網は、主要な同盟者の死や内紛、そして信長の圧倒的な力の前に瓦解した。この結末は、もはや将軍の権威という伝統的な価値観だけでは天下を束ねることができない時代の到来を、誰の目にも明らかにした。鞆幕府の終焉は、すなわち室町時代から続く古い秩序が完全に終わりを告げ、力による新たな天下人が時代を支配する近世の幕開けを象徴する出来事であったと言える。

奇しくも、鞆の浦という港町は、室町幕府の創始者・足利尊氏が再起の第一歩を記した地であり、最後の将軍・足利義昭が最後の抵抗を試みた地でもある 33 。室町幕府は鞆に興り、鞆に滅んだ――この言葉は、この港町が日本の歴史の大きな転換点に二度も立ち会った、その数奇な運命を物語っている。鞆幕府の存在は、敗者の歴史として忘れ去られがちであるが、中世から近世へと移行する時代のダイナミズムを理解する上で、不可欠な一章を形成しているのである 32

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