最終更新日 2025-09-28

飛騨匠座保護(1590)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

飛騨匠座保護(1590年):豊臣政権下における戦略的職人統制の深層分析

序章:天正十八年、飛騨における逆説的政策

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を屈服させ、名実ともに天下統一を成し遂げた。この画期的な年に、飛騨国において一つの特異な政策が打ち出された。「飛騨匠座保護」である。この政策は、表面的には「木工職人の座を保護し、普請動員を確立」するものと記録されている。

しかし、この政策はその歴史的文脈において、一つの大きな逆説をはらんでいる。当時の経済政策の主流は、織田信長に始まり秀吉もまた継承した、旧来の特権的同業者組合「座」を解体し、自由な経済活動を促進する「楽市楽座」であった 1 。既得権益を打破し、商工業者を大名の直接支配下に置くことで領国経済の活性化を図るこの革新的な政策は、戦国時代の終焉と近世社会の到来を象告するものであった。

この大きな潮流の中で、なぜ飛騨の木工職人たちの「座」は、解体されるどころか、あえて「保護」されたのか。この歴史的パラドックスこそが、本報告で解き明かすべき中心的な謎である。この事象を単なる一地方の個別的な政策として捉えるのではなく、天下統一を成し遂げた豊臣政権が、その絶大な権力を維持・誇示するために不可欠とした国家的な大規模普請事業、すなわち「天下普請」と、そのための戦略的な人的資源管理という、より広大な視座から分析することで、その本質が明らかになる。本報告は、「飛騨匠座保護」という事象を深く掘り下げ、戦国から近世へと移行する時代の、新たな支配体制の確立過程を解明することを目的とする。

第一部:歴史的背景

第一章:古代より継承されし技 ―「飛騨の匠」の淵源

天正18年(1590年)の政策を理解するためには、まず「飛騨の匠」が持つ特異な歴史的背景を把握する必要がある。彼らは単なる一地方の職人集団ではなく、古代国家との深い関わりの中で形成された、特別な存在であった。

律令国家と「飛騨工制度」

「飛騨の匠」の名が歴史の表舞台に明確に現れるのは、奈良時代にまで遡る。天平宝字元年(757年)に施行された養老律令の賦役令には「斐陀国条」という特別な条項が存在した 4 。これによれば、飛騨国は中央政府に納めるべき税である「庸」および「調」を全面的に免除される代わりに、一里(郷)あたり10人の木工技術者(匠丁)を一年交代で都へ派遣することが義務付けられていた 4

これは「飛騨工制度」と呼ばれ、全国で飛騨一国のみに定められた極めて特殊な制度であった 9 。この制度は、それ以前の大宝律令(701年)にも同様の規定があったと考えられており、飛鳥時代から続く飛騨の職人たちの高い技術力が、中央政権にとって税の現物納に代えてでも確保したい「戦略的資源」であったことを示している 4

この制度に基づき、毎年100人を超える飛騨の匠たちが都へ上り、平城京や平安京といった都の造営、あるいは東大寺、興福寺、石山寺といった国家的な寺社の建設事業に従事した 6 。彼らの卓越した技術は高く評価され、「飛騨の匠」というブランドが全国に知れ渡る礎となったのである。

制度崩壊後から戦国期へ

平安時代末期に律令制が形骸化し、「飛騨工制度」が実質的に終焉を迎えた後も、「飛騨の匠」が育んできた技術と名声は失われなかった 6 。都での経験を積んだ職人たちは故郷へ戻り、あるいは各地の有力者に召し抱えられながら、その高度な技術を飛騨の地で継承・発展させていった。

中世においても、彼らの活動の痕跡は飛騨国内の建築物に見出すことができる。例えば、国府盆地に現存する安国寺経蔵は応永15年(1408年)の建立であり、その内部に設置された日本最古とされる回転式書架「輪蔵」は、彼らの精緻な木工技術を今に伝えている 9 。このように、戦国時代の末期に至るまで、飛騨国は優れた木工技術者を継続的に輩出し続ける文化的・技術的土壌を保持していた。

この長大な歴史は、「飛騨の匠」に他の地域の職人とは異なる自己認識を植え付けたと考えられる。彼らは単なる技術者集団ではなく、古代から「国家への奉仕」という歴史的記憶と誇りを持つ、半ば公的な存在としてのアイデンティティを潜在的に有していた。律令制度は、税の代替という形で彼らを国家事業に動員したが、それは同時に国家が彼らの技術を特別に認めた証でもあった 4 。この「中央と直結した特別な存在」という歴史的経験こそが、1590年に新たな中央権力である豊臣政権が彼らを再び国家事業へと動員する際に、心理的な抵抗を和らげ、むしろ名誉として受け入れさせるための重要な素地となったのである。

第二章:戦国期の経済革命 ―「座」の解体と新たな支配体制

「飛騨匠座保護」がなぜ逆説的であったかを理解するには、戦国時代における「座」の役割と、それを覆した「楽市楽座」の本質を対比する必要がある。

中世における「座」の役割

「座」とは、平安時代から戦国時代にかけて存在した商工業者や芸能者の同業者組合である 14 。彼らは、朝廷や公家、有力寺社といった伝統的権威(権門)に対し、金銭(座役銭・市座役)や奉仕を納める見返りとして、特定の商品の製造・販売に関する独占権や、関銭(通行税)の免除といった特権を保障されていた 15 。この制度は、既存の商人や職人の権益を保護する一方で、新規参入を厳しく制限し、自由な経済活動を阻害する閉鎖的な側面を持っていた 2

「楽市楽座」の本質

戦国時代後期、各地の戦国大名、特に織田信長や豊臣秀吉は、領国経済の活性化と支配体制の強化を目的として「楽市楽座」政策を強力に推進した 3 。これは、旧来の「座」が持つ特権を撤廃し、市場における営業税を免除することで、誰もが自由に商売に参加できるようにするものであった 2

この政策の真の狙いは、単なる経済の自由化に留まらない。その本質は、中世的な権威から近世的な権力への経済支配権の移行にあった。「座」は寺社などの旧権威に経済的に結びついており、大名の支配が及びにくい存在であった。したがって、「楽市楽座」によって「座」を解体することは、旧権威の経済的基盤を切り崩すという極めて政治的な行為であった。

同時に、大名が商工業者を直接保護し、自身の城下町に誘致することで、人・物・金(かね)の流れを掌握し、人口増加と物流の活性化を実現した 17 。これは、兵糧や武具の調達、資金確保といった軍事活動の基盤を安定させることにも直結した 2 。つまり、「楽市楽座」は、旧来の荘園制的秩序を破壊し、商工業者を大名という新たな権力者の直接支配下に組み込むための、政治的・軍事的な意図を色濃く反映した経済革命だったのである。

この文脈に照らせば、「楽市楽座」による「座の解体」と、「飛騨匠座保護」による「座の保護」は、一見すると正反対の政策に見える。しかし、その根底には「権力者が戦略的に重要な資源を直接掌握する」という共通の目的が存在した。商業資本と人的ネットワークを掌握するためには「楽市楽座」が有効であり、一方で代替不可能な高度専門技術者を確保するためには、異なるアプローチが必要とされた。この二つの政策は、同じ目的を達成するための、表裏一体の関係にあったと解釈することができるのである。

第二部:1590年、事変のリアルタイム分析

第三章:天下統一と新たな秩序

天正18年(1590年)という年が持つ画期的な意味を理解することが、「飛騨匠座保護」の背景を解明する鍵となる。この年は、長きにわたる戦乱の時代が終わり、新たな国家秩序が構築される転換点であった。

天正18年(1590年)の政治情勢

この年、豊臣秀吉は20万人を超える空前の大軍を動員し、関東に君臨した北条氏政・氏直親子を小田原城に包囲、降伏させた(小田原征伐) 19 。この戦役の過程で、東北の雄・伊達政宗をはじめとする東国の諸大名も秀吉に臣従を誓い、ここに日本の再統一が完成した 21 。秀吉の権力は絶対的なものとなり、惣無事令(大名間の私闘を禁じる法令)を通じて、国内のあらゆる大名、資源、人材を意のままに動員できる中央集権的な体制が確立されたのである。家臣が秀吉の権威を損なう言動をすれば厳しく処罰されるなど、強固な支配秩序が社会の隅々にまで浸透し始めていた 23

「天下普請」という国家事業

戦乱の終結は、権力構造の転換をもたらした。武将の価値は、もはや戦場での武功のみによって測られるものではなくなった。新たな時代に求められたのは、平時における政権運営への貢献であり、その最も象徴的なものが「天下普請」であった。

秀吉は、自身の絶対的な権威を内外に可視化するため、聚楽第(1586年着工)、大坂城、そして後には伏見城など、前代未聞の規模と壮麗さを誇る城郭や御殿の建設を次々と推し進めた 24 。これらの巨大建築プロジェクトは、単なるインフラ整備ではない。それは秀吉の権威を具現化する最大のパフォーマンスであり、その建築物の質こそが、秀吉の権威の質を決定づけた。

さらに「天下普請」は、全国の大名に普請への参加(手伝い普請)を命じることで、その財力と軍事力を削ぎ、豊臣政権への忠誠を強制する巧みな統治手段でもあった。この巨大プロジェクトを寸分違わず、かつ壮麗に遂行するためには、膨大な数の、そして何よりも質の高い技術を持つ職人集団の確保が、政権にとって最重要課題の一つとなっていた。

この文脈において、優れた技術を持つ職人集団は、もはや単なる労働力ではなく、政権の威信を支えるための「戦略的資源」と見なされていた。特に、古代より東大寺や法隆寺の建立に関わったという輝かしい歴史的ブランドを持つ「飛騨の匠」を政権の御用達とすることは、建築物の価値を高め、ひいては秀吉自身の権威を荘厳に飾り立てる上で、極めて有効な手段であった。したがって「飛騨匠座保護」は、職人への温情や旧習の墨守ではなく、最高品質の「戦略的資源」を国家が独占的に確保するための、極めて計算された国家戦略であったと理解することができる。

四章:飛騨の新領主・金森長近

中央における豊臣政権の壮大な構想と、飛騨という一地方の政策を結びつけたのが、初代飛騨国主・金森長近であった。彼の経歴と統治手腕は、この特異な政策が生まれる上で決定的な役割を果たした。

飛騨平定と金森氏の入部

金森長近は、織田信長、豊臣秀吉、そして後には徳川家康という三人の天下人に仕え、激動の時代を生き抜いた知将であった 26 。天正13年(1585年)、秀吉が越中の佐々成政を攻めた富山の役に関連し、長近は秀吉の命を受けて飛騨国へ侵攻した。当時、飛騨を支配していた三木自綱が成政と結んでいたためである 29 。長近は三木氏を滅ぼして飛騨を平定し、その功績により翌天正14年(1586年)、飛騨一国(約3万8千石)を与えられ、初代高山藩主となった 32

高山城下の経営と資源掌握

長近は、それ以前に拝領していた越前大野などでの城下町づくりの豊富な経験を活かし、飛騨統治の拠点として高山城の築城と、計画的な城下町の整備に直ちに着手した 32 。宮川の東岸に商人町や職人町を碁盤目状に配置し、東の丘陵地帯には寺社群を建立するなど、京都を模したとされる都市計画を進めた 35

彼は飛騨統治を開始して間もなく、この山国の最大の資産が、豊かな森林資源と、古来より全国に名高い「飛騨の匠」という人的資源であることを見抜いていた 33 。領国の経済基盤を確立し、豊臣政権下での自らの地位を確固たるものにするためには、これらの資源を効率的に活用・管理することが急務であった。

長近は、中央の政治力学に精通し、秀吉が何を求めているか(=大規模普請のための質の高い労働力)を正確に理解していた。同時に、飛騨の統治者として、地域の特性を最大限に活かす経営能力も備えていた。この二つの理解が結びついたとき、彼にとって「飛騨の匠を組織化し、秀吉の需要に応えること」は、中央への忠誠を示す絶好の機会であると同時に、自身の領国経営を安定させるための最善手となったのである。この政策は、秀吉からのトップダウンの命令というよりは、長近自身が中央の意向を汲み取り、主体的に立案・実行した可能性が高い。彼は、中央と地方の要求を巧みに結びつける、理想的な統治者であったと言えよう。

第五章:「飛騨匠座保護」の時系列詳解

「飛騨匠座保護」は、天正18年(1590年)に突如として現れた政策ではない。金森長近の入部に始まる数年間の準備期間を経て、天下統一という絶好のタイミングで制度化されたものであった。そのプロセスは、以下の年表および各時期の動向から具体的に理解することができる。

年月

国内(豊臣政権)の動向

飛騨国(金森氏)の動向

天正13年(1585)

富山の役。秀吉、佐々成政を攻める。

秀吉の命で金森長近が飛騨へ侵攻、三木氏を滅ぼす(飛騨平定)。

天正14年(1586)

聚楽第の造営が本格化。

長近が飛騨国主に任じられる。高山城と城下町の建設に着手。

天正15年(1587)

九州平定。伴天連追放令を発布。

高山城下の整備が進む。領内の資源(木材、職人)の把握を開始。

天正18年(1590)

小田原征伐。北条氏滅亡、天下統一が完成。

「飛騨匠座保護」政策が実施される。 職人の組織化と動員体制を確立。

天正19年(1591)

千利休に切腹を命じる。次なる天下普請(名護屋城など)を構想。

匠座の体制に基づき、豊臣政権の普請命令に応じる準備が整う。

文禄元年(1592)

文禄の役(朝鮮出兵)開始。伏見城の築城を開始。

飛騨の匠が伏見城普請などに動員され始める(推定)。

(前期)政策の胎動(1586年~1589年)

金森長近による飛騨統治が開始され、高山城と城下町の建設が本格化するこの時期は、政策の準備期間であった。長近は自らの拠点建設を進める中で、領内に散在する優れた木工職人たちの実態を直接的に把握していったと考えられる。誰が、どのような技術を持ち、どれほどの規模の職人集団を率いているのか。こうした情報を収集し、職人たちの名簿作成や能力評価に着手したことは想像に難くない。これは、領国経営の基礎を固める上で不可欠な作業であった。

時を同じくして、中央では聚楽第の造営が最盛期を迎えていた 24 。この壮大な建築事業を通じて、秀吉政権は全国の職人に関する情報を集約し、彼らを効率的に動員するシステムの必要性を痛感していたはずである。飛騨からの報告は、政権にとって渡りに船であっただろう。

(中期)制度の構築(1590年)

小田原征伐が終結し、天下統一が完成したこの年、政策は具体的に実行に移された。戦争の時代が終わり、秀吉の視線は国内の統治体制の整備と、さらなる大規模建築(後の伏見城や名護屋城など)へと向かった。この国家的な需要を背景に、豊臣政権の正式な命令、あるいは長近の主導により、「飛騨匠座」が設立・保護される。

これは、単なる既存の職人組合の追認や温存ではない。むしろ、国家の目的のために再編・創設された新たな組織であった。その内容は、以下のようなものであったと推測される。

  1. 職人の登録(職人改め): 飛騨国内の木工職人(大工、彫物師、木地師など)を「匠座」に登録させ、その技能と身元を国家(領主)が直接把握する。
  2. 階級・役職の設定: 棟梁クラスの優れた職人を「匠頭(たくみのかしら)」などに任命し、彼らを通じて他の職人たちを統率する、上意下達のヒエラルキーを構築する。
  3. 特権の付与: 「座」に所属する職人に対し、領内での営業上の優遇措置や、一定の身分保障を与える。これが政策名にある「保護」の側面である。
  4. 義務の明確化: その見返りとして、豊臣家からの普請命令(御用)があった際には、優先的に、かつ「匠頭」の指揮のもと組織的に応じることを義務付ける。これが「動員」の側面であり、政策の核心であった。

(後期)実効と影響(1591年以降)

「飛騨匠座」という組織的枠組みが確立されたことで、飛騨の匠たちは、文禄元年(1592年)から始まる伏見城普請など、豊臣政権による「天下普請」へ実際に動員されていったと考えられる。この制度により、職人たちは安定した仕事と身分を得る一方、その労働力は国家によって直接的に管理・統制されることになった。

ここに、古代の「飛騨工制度」以来、飛騨の匠は再び国家直属の技術者集団としての性格を帯びることになる。しかし、その内容は大きく異なっていた。古代の制度が税の代替としての労働力提供であったのに対し、この新たな制度は、絶対的な権力者がその威信を示すための巨大プロジェクトを遂行するための、より直接的で戦略的な人的資源管理システムであった。

第三部:歴史的意義と後世への影響

第六章:保護か、管理か ―「飛騨匠座」の本質

「飛騨匠座保護」という名称は、一見すると職人たちの利益を守るための恩恵的な政策のように響く。しかし、その本質を中世の「座」や「楽市楽座」との比較から分析すると、全く異なる側面が浮かび上がる。

中世の「座」との比較

中世における一般的な「座」は、職人や商人が自らの経済的利益を守るために結成し、寺社などの既存の権威に奉仕することで独占権を得る、比較的自律性の高い組合であった 14 。彼らの第一の目的は、同業者間の競争を排し、安定した利益を追求することにあった。

これに対し、天正18年に設立された「飛騨匠座」は、その成り立ちも目的も根本的に異なる。これは最高権力者である豊臣家(およびその代理人である金森氏)に直属し、国家事業への労働力提供を主目的とする、上意下達の管理組織であった。職人たちの自発的な結成によるものではなく、国家の必要性に応じて上から組織されたものである。「保護」という言葉は、彼らを豊臣政権の排他的な管理下に置くための懐柔策であり、その実態は、自由な活動を制限し、国家の統制下に置くという側面が極めて強かった。

比較項目

古代「飛騨工制度」

中世の一般的な「座」

天正18年「飛騨匠座」

管轄

朝廷(木工寮など)

寺社・公家など

豊臣政権(金森氏経由)

目的

都の造営(公的事業)

営業独占・利益追求

天下普請への動員

職人の身分

匠丁(公民)

座衆(組合員)

御用職人(国家管理下)

義務

年一回の出役(庸・調の代替)

座役銭の納入

豊臣家の普請命令への応召

権利

庸・調の免除

営業独占権

身分保障・営業上の保護

「楽市楽座」との関係性再考

この「匠座」の本質を理解すると、「楽市楽座」との関係もより明確になる。両者は矛盾する政策ではなく、豊臣政権がその目的(対象とする資源)に応じて経済政策を使い分ける、高度な統治技術の現れであった。

「楽市楽座」は、不特定多数の商工業者が関わる「商業資本」を対象とし、市場原理を活性化させることで、間接的に税収や物流といった国力を増強するマクロな政策であった。一方、「飛騨匠座保護」は、飛騨の匠という、他に代替不可能な高度な専門技術を持つ特定の「人的資源」を対象とし、市場原理に任せることなく直接的かつ排他的に確保・独占するためのミクロで戦略的な政策であった。

秀吉は、経済の「自由化」と「統制」という二つの異なるレバーを、対象に応じて巧みに使い分けたのである。これは、戦国大名から脱皮し、全国を統治する近世的権力者としての秀吉の姿を象徴している。

第七章:近世へと続く匠の系譜

天正18年の「飛騨匠座保護」は、単発の政策に終わらず、その後の飛騨高山の社会と文化に深く、永続的な影響を与えた。それは、飛騨の匠たちの技術を保存しただけでなく、彼らの活動のあり方そのものを規定し、高山という町の文化的アイデンティティを形成する上で決定的な役割を果たした。

江戸時代への継承

豊臣政権が確立したこの「匠座」という組織的枠組みと、その頂点に立つ「匠頭」という階級は、江戸時代に入っても形を変えながら存続した可能性が高い。江戸時代に飛騨の寺社建築や民家建築で名を馳せた水間一門や松田一門といった大工の系譜は、この「匠座」で「匠頭」を務めた家系が、その権威と技術を世襲する形で発展したと考えることができる 6 。彼らは幕府や高山藩の御用を務めることで安定した地位を築き、その技術を次世代へと確実に伝承していった。

地域の文化への貢献

国家の御用を務めることで安定した地位と収入を得た飛騨の匠たちは、その卓越した技術を、地域の文化振興にも注ぎ込むことができた。日々の糧を得るための仕事だけでなく、より芸術性や創造性の高い仕事に取り組む余裕が生まれたのである。

その最も顕著な例が、今日、国の重要有形民俗文化財に指定されている豪華絢爛な高山祭の屋台である 6 。高山祭の屋台制作は、城下の各町が威信をかけて最高の職人に依頼したため、技術の粋を競い合う格好の舞台となった。この競争が、建築技術から派生した彫刻や装飾の技術を飛躍的に向上させた。「匠座」による職人の組織化がなければ、これほど高度な技術の集積と伝承は困難であったかもしれない。

さらに、こうした高い木工技術の土壌からは、飛騨春慶や一位一刀彫といった、高山を代表する伝統工芸が生まれていった 6 。大工技術から派生した精緻な彫刻技術が一位一刀彫へ、良質な木材の木目を活かす木地制作の技術が飛騨春慶へと、それぞれ専門化・高度化していったのである。1590年の政策は、単なる職人動員制度に留まらず、結果として「飛騨高山」という地域の文化資本を飛躍的に増大させる起爆剤となったのである。

結論:戦国時代の終焉を告げる新たな職人支配

天正18年(1590年)に実施された「飛騨匠座保護」は、織田信長以来の「楽市楽座」政策の潮流に逆行する旧制度の温存では断じてない。それは、天下統一を成し遂げた豊臣政権が、古代の律令制度をも参考にしつつ創出した、極めて先進的な国家による職能集団の管理・動員システムであった。

この事象の歴史的意義は大きい。それは、中世的な自律性を持った職人組合の時代が終わりを告げ、近世的な中央集権国家が、その権威の維持と誇示に不可欠な「戦略的資源」として人的資本(高度技術)を直接管理する時代の到来を告げる、画期的な出来事であった。

最終的に、この政策は豊臣秀吉の統治手法の巧みさを鮮やかに示している。すなわち、一方では「楽市楽座」によって商業資本の自由化を推し進め、経済全体のパイを拡大させ、もう一方では「匠座保護」によって国家に必須の高度技術を独占・統制するという、硬軟織り交ぜた二元的なアプローチである。この巧みな使い分けこそが、戦国乱世を終結させ、新たな時代を築いた天下人の統治能力の核心にあった。そしてこの政策は、飛騨の匠たちのその後の運命を決定づけると共に、近世日本の社会構造の礎を築く一石となったのである。

引用文献

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  26. 戦国武将・金森長近の生涯と功績を徹底解説!高山城の歴史と遺産 - 原田酒造場 https://www.sansya.co.jp/column/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%83%BB%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%95%B7%E8%BF%91%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E5%8A%9F%E7%B8%BE%E3%82%92%E5%BE%B9%E5%BA%95%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%81%E9%AB%98/
  27. 飛騨高山まちの博物館夏季特別展「どうした長近(ながちか)」|イベント - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/event/detail_9235.html
  28. 【岐阜県高山市】飛騨の町並みを築いた戦国武将「金森長近」のマンガ本を製作しました https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000067.000124925.html
  29. はじめに (1)地形 (2)中世 - 高山市 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/000/842/000.pdf
  30. 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/
  31. 金森長近の飛騨転封 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-03.htm
  32. 空から見た飛騨高山城下町 - Network2010.org https://network2010.org/article/2072
  33. 飛騨高山の基礎を築いた金森長近公|特集 https://www.hidatakayama.or.jp/kanamori_nagachika500
  34. 第1章 高山市における歴史的風致の 維持及び向上の方針 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/176/rekimatikeikaku1-1.pdf
  35. 金森可重(かなもり あるしげ) 拙者の履歴書 Vol.257~飛騨に城を築きし生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/n7b8a21dc7886
  36. 飛騨高山の古い町並 | Tabizuru - 千環旅鶴 https://www.tabizuru.jp/senkan/archives/3271
  37. 高山、まちの歴史 - 平和メディク株式会社 https://www.heiwamedic.com/region/history.html
  38. 飛騨守匠流秘事抜書(日本遺産構成文化財)|【公式】飛騨高山旅ガイド https://www.hidatakayama.or.jp/special/detail_251.html
  39. 日本遺産 飛騨匠の技・こころ|特集|【公式】飛騨高山旅ガイド|岐阜県高山市の観光・イベント情報! https://www.hidatakayama.or.jp/ja_about
  40. 全国へ旅した“飛騨の匠”の歴史をたどる https://moriwaku.jp/learn/289/
  41. (2)城下町の歴史的風致 - 高山市 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/176/rekimatikeikaku1-2.pdf
  42. 高山の町並みを歩いて触れる「飛騨の匠」の技|特集 - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/article/detail_10.html