飫肥城下再整備(1604)
慶長9年(1604年)、伊東祐慶は飫肥城下を再整備。検地、町割り、飫肥杉林業を推進し、強大な薩摩藩に対抗する中央集権体制を確立。堀川運河開削で飫肥杉流通を飛躍させ、飫肥藩の平和と繁栄の礎を築いた。
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戦国の終焉、治世の黎明:慶長九年(1604年)飫肥城下再整備の歴史的意義の再検証
序章:慶長九年、飫肥における「再整備」の意味
慶長九年(1604年)、日向国南部に位置する飫肥(おび)において、一つの大規模な事業が開始された。それは、表面的には城下町の区画を整理し、将来の産業基盤を構想する「再整備」であった。しかし、この年号が持つ歴史的文脈を深く考察する時、この事業は単なる都市計画に留まらない、遥かに重層的な意味を帯びてくる。慶長九年は、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)からわずか四年後、徳川家康による幕府開設(1603年)の翌年という、まさに戦国の遺風が未だ色濃く残り、新たな近世という時代の秩序が形成されつつある、極めて重要な過渡期に位置する 1 。
したがって、飫肥におけるこの「再整備」は、平穏な時代に行われた近代的な都市計画とは全くその性格を異にする。それは、伊東氏と島津氏という二大勢力が百年にわたり繰り広げた、血で血を洗う抗争の最終的な勝利宣言であった 3 。物理的な町の再建であると同時に、戦国的な価値観から近世的な統治システムへと移行するための、いわば「体制の再整備」であり、旧来の秩序を破壊し、新たな支配体制を空間的に、そして人々の意識の中に構築する、極めて政治的な行為だったのである。
本報告書は、この慶長九年の飫肥城下再整備を、戦国時代という長大な歴史的視座の中に位置づけ、その背景、具体的な内容、そして後世への影響を時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。この再整備が、いかにして後の飫肥藩二百八十年の平和と、特産品「飫肥杉」を核とした経済的繁栄の礎を築く、戦略的な「グランドデザイン」となり得たのか。その全貌を、多角的な視点から検証していく。
表1:飫肥藩成立史・主要年表
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連人物 |
歴史的意義 |
1485年 |
文明十七年 |
伊東祐国、飫肥城を攻めるも戦死。伊東・島津百年の抗争が本格化。 |
伊東祐国 |
飫肥を巡る伊東氏の執念の原点となる。 |
1568年 |
永禄十一年 |
伊東義祐、20年以上にわたる攻防の末、飫肥城を奪取。 |
伊東義祐 |
伊東氏の勢力が最大版図に達するも、後の悲劇の序章となる。 |
1577年 |
天正五年 |
「伊東崩れ」により義祐・祐兵親子は飫肥を追われ、豊後へ亡命。 |
伊東義祐, 伊東祐兵 |
故国喪失の記憶が、後の伊東氏の統治思想に強い影響を与える。 |
1588年 |
天正十六年 |
豊臣秀吉の九州平定後、伊東祐兵が飫肥城主に復帰。飫肥藩が事実上成立。 |
伊東祐兵, 豊臣秀吉 |
中央政権との結びつきにより、悲願の故地回復を果たす。 |
1600年 |
慶長五年 |
関ヶ原の戦い。祐兵・祐慶親子は東軍に属し、宮崎城を攻略。 |
伊東祐兵, 伊東祐慶 |
藩の存亡を賭けた政治的選択の成功。所領安堵の礎を築く。 |
1601年 |
慶長六年 |
祐兵死去に伴い、伊東祐慶が13歳で家督相続。 |
伊東祐慶 |
若き新藩主による新時代の統治が始まる。 |
1602年 |
慶長七年 |
祐慶、関ヶ原の功臣・稲津掃部助を粛清。 |
伊東祐慶, 稲津掃部助 |
戦国的武功主義から近世的君主独裁への体制転換を象徴する事件。 |
1604年 |
慶長九年 |
領内検地を実施し、5万7千石余を確定。城下町の再整備に着手。 |
伊東祐慶 |
本報告書の主題。藩の財政・社会・経済のグランドデザインが策定される。 |
1683-86年 |
天和三-貞享三年 |
第四代藩主・伊東祐実、堀川運河を開削。 |
伊東祐実 |
慶長の構想が結実。飫肥杉を核とした藩経済が飛躍的に発展する。 |
第一章:血と土の記憶 ― 飫肥を巡る百年戦争の系譜
慶長九年(1604年)の再整備計画を理解するためには、まずその計画者たちの精神に深く刻み込まれたであろう、過酷な歴史を遡らねばならない。飫肥の地は、伊東氏にとって単なる領地ではなく、数世代にわたる血と涙、そして執念が染み込んだ土地であった。この「血と土の記憶」こそが、新時代の城下町建設の原動力となったのである。
伊東氏と島津氏による飫肥を巡る本格的な抗争は、文明十七年(1485年)に遡る 3 。伊東氏当主・伊東祐国は飫肥城へ侵攻するも、島津軍の反撃に遭い、志半ばで戦死を遂げた 3 。この悲劇は、伊東氏にとって飫肥奪還を宿願とする、長い闘争の幕開けとなった。その後も両氏による断続的な攻防が続いたが、戦国大名として伊東氏が最盛期を迎えた伊東義祐の時代、ついにその悲願は達成される。永禄十一年(1568年)、二十年以上にわたる攻防の末、義祐はついに島津氏から飫肥城を奪取し、日向国内に四十八の支城を築く「伊東四十八城」体制を確立した 3 。
しかし、栄華は長くは続かなかった。驕りから生じた家中の不和、そして宿敵・島津氏の策略が伊東氏を蝕んでいく。天正五年(1577年)、木崎原の戦いでの敗北を契機に、家臣の裏切りが連鎖する内紛「伊東崩れ」が発生 3 。これを好機と見た島津軍の侵攻を受け、義祐と嫡男・祐兵(すけたけ)は、かつて支配した全ての領地を失い、僅かな供回りと共に豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びるという、最大の屈辱を味わうこととなる 3 。
この一連の抗争は、単なる領土の奪い合いという次元を超えていた。伊東氏は工藤祐経を祖とし、鎌倉幕府の御家人筆頭として重用された名門としての自負があった 6 。一方の島津氏もまた、源頼朝以来の守護職を継ぐ名家である。両者の戦いは、日向の覇権を巡る現実的な利害対立であると同時に、互いの「家門」のプライドをかけた、引くに引けないものであった 6 。
故国を失い、他国を流浪したこの「喪失の記憶」は、伊東祐兵、そしてその子・祐慶にとって、決して消えることのない原体験となった。後の飫肥復帰と、慶長九年に行われる徹底した領国経営は、この時の屈辱と悲劇を二度と繰り返さないという、強い決意の表れであった。1604年の再整備計画の根底には、単なる未来への希望だけでなく、過去の悪夢を克服しようとする強烈な意志が流れていたのである。城下町の設計図に刻まれることになる堅牢な防御思想や家臣団の集住政策は、まさにこの「伊東崩れ」の記憶、すなわち家臣の裏切りや領地の脆弱性というトラウマに対する、直接的な解答であったと言える。
第二章:天下人の時代と伊東氏の選択 ― 関ヶ原の戦いと所領安堵
流浪の身となった伊東氏が、再び歴史の表舞台に登場し、飫肥藩の礎を築くに至る過程は、辺境の小勢力が中央政権の動向をいかに巧みに利用し、生き残りを図ったかの典型例である。そこには、父・伊東祐兵の老練な政治感覚と、子・伊東祐慶の若くも冷徹な決断があった。
豊臣政権下での復権
豊後へ落ち延びた伊東祐兵は、雌伏の時を過ごしながら、天下の情勢を見極めていた。やがて羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、その矛先が九州に向けられると、祐兵はこの千載一遇の好機を逃さなかった。秀吉に接近した祐兵は、九州の地理と情勢に明るいことを買われ、天正十五年(1587年)の九州平定において、豊臣軍の先導役という極めて重要な役割を担うこととなる 2 。この功績が秀吉に高く評価され、戦後の国割りにおいて、祐兵はついに悲願であった旧領・飫肥を与えられ、城主として復帰を果たしたのである(天正十六年、1588年) 4 。ここに、二百八十年にわたる伊東氏による飫肥統治の歴史が、再び始まった。
関ヶ原、存亡を賭けた情報戦
秀吉の死後、天下は再び動乱の時代を迎える。慶長五年(1600年)、徳川家康と石田三成が激突した関ヶ原の戦いは、伊東氏にとってもまさに存亡を賭けた最大の試練であった。この時、当主の祐兵は病の身で大坂に滞在しており、立場上、西軍に与さざるを得ない状況にあった 10 。しかし、祐兵は天下の趨勢が東軍にあることを見抜いていた。彼は密かに嫡男・祐慶を国許の飫肥へ帰還させ、軍備を整えさせると同時に、豊前中津の黒田如水(官兵衛)を通じて徳川家康へ内通するという、二正面作戦を展開する 2 。
国許では、若き祐慶と家老・稲津掃部助(かもんのすけ)重政が軍を率い、東軍方として行動を開始。西軍に属した延岡城主・高橋元種の属城である宮崎城を攻撃し、これを陥落させるという具体的な戦功を挙げた 2 。この迅速かつ的確な寝返りと軍事行動が功を奏し、戦後、勝利者となった家康から所領を安堵され、伊東氏は5万1千石の外様大名として、徳川の治世下でその存続を許されたのである 1 。
新藩主・祐慶の権力掌握
関ヶ原の戦いの直後、父・祐兵が死去し、伊東祐慶はわずか13歳で家督を相続した 2 。しかし、安堵したのも束の間、若き新藩主は驚くべき決断を下す。家督相続の翌年(1602年)、関ヶ原の戦いで宮崎城攻略の最大の功労者であった家老・稲津掃部助に対し、「主命に従わなかった」という理由で切腹を命じたのである 2 。
この事件は、単なる若き当主による権力闘争と見るだけでは本質を見誤る。稲津掃部助の行動原理は、伊東家のために最善と信じる行動を自律的に判断するという、戦国武将のそれであった。しかし、祐慶がこれから築こうとしていた近世大名としての統治体制は、藩主の命令が絶対であり、家臣はそれに忠実に従うという、官僚的な主従関係を必要としていた。家中において絶大な影響力と武功を持つ稲津の存在そのものが、旧来の戦国的価値観の象徴であり、新体制構築の障害となり得たのである。
祐慶は、功臣である稲津をあえて粛清することで、家臣団全体に対し、「もはや個人の武功や判断が重んじられる時代ではない。絶対的なのは藩主の命令である」という強烈なメッセージを発した。これは、戦国的な「武功主義」の時代との決別宣言であり、近世的な「主君への絶対服従」という新たな価値観を藩内に徹底させるための、冷徹な政治的パフォーマンスであった。この絶対的な権力基盤の確立なくして、家臣たちの既得権益を奪い、城下への集住を強制するような、痛みを伴う大事業、すなわち慶長九年の再整備を断行することは不可能であった。稲津の死は、飫肥における戦国時代の真の終わりと、近世藩体制の黎明を告げる、象徴的な出来事だったのである。
第三章:新時代のグランドデザイン ― 慶長九年(1604年)の断行
稲津掃部助の粛清によって藩内の権力基盤を盤石なものとした伊東祐慶は、いよいよ新時代の国造りに着手する。慶長九年(1604年)に開始された一連の事業は、個別の政策の寄せ集めではなく、藩の統治体制そのものを再構築する、統合されたグランドデザインであった。それは、「検地」による財政の数値化、「町割り」による社会秩序の空間化、そして「産業振興」による経済基盤の戦略化という、三位一体の改革として断行された。
第一節:藩の礎を築く ― 慶長九年の検地
物理的な建設工事に先立ち、祐慶がまず着手したのは、領内の総生産力を正確に把握するための「検地」(太閤検地に倣った検地)であった 12 。戦国時代における大名の領地支配は、家臣への所領の分与という形で行われ、その実態は必ずしも正確に把握されていなかった。近世大名として安定した統治を行うためには、まず自らの領国の経済的ポテンシャルを客観的な数値として把握する必要があった。
慶長九年に行われたこの検地の結果、飫肥藩の石高は5万7千8十石と算出された 12 。これは、藩の公式な財政規模を確定させ、家臣への知行(給与)配分や、領民からの年貢徴収の基準を確立する、極めて重要な意味を持っていた。これにより、伊東氏は戦国時代の曖昧な所領支配から完全に脱却し、データに基づいた合理的かつ中央集権的な財政運営への道を切り開いた。この正確な財政基盤なくして、後述する大規模な城下町建設や家臣団の扶養は不可能であり、検地こそが全ての改革の出発点だったのである。
第二節:秩序の可視化 ― 城下町の新たな町割り
検地によって確立された藩の財政基盤と身分秩序は、次に城下町の物理的な空間設計、すなわち「町割り」へと投影された。江戸時代初期に形成された飫肥の町割りは、現在に至るまでその骨格を留めており 13 、そこには新時代の統治思想と、未だ払拭されぬ戦国の記憶が色濃く反映されている。
その第一の思想は、徹底した「防御」である。飫肥城は火山灰が堆積したシラス台地という、崩れやすく脆弱な地盤の上に築かれていた 3 。この弱点を補うため、城の三方を蛇行して流れる酒谷川を天然の外堀として最大限に活用した 8 。古地図の分析によれば、特に長年の宿敵・島津氏の領地に面する城の東から北東方面の守りが厚く設計されており、二重の木戸を設けるなど、その脅威を強く意識していたことが窺える 16 。
その第二の思想は、厳格な「階層化」である。城下は、飫肥城が位置する高台を中心に、明確なゾーニングが施された。城に最も近い一等地には上級家臣の広大な屋敷が、その次に中級家臣の屋敷が配置された 13 。これらの武家屋敷は、飫肥石を用いた石垣や生垣で囲まれ、格式に応じた門構えを持つことが定められており、街路を歩くだけでその家の身分が分かるようになっていた 13 。一方、谷あいの平地には商人たちの住む「町家」が、さらにその外縁部には下級家臣の居住区が設けられた 13 。これは、藩主を中心とした身分制社会の序列を、都市空間そのものによって可視化し、人々に日々意識させるための装置であった。
さらに、城の鬼門とされる北東の方角には、鎮護のために願成就寺や八幡神社が配置されるなど、当時の思想に基づいた計画性も見られる 18 。このように、慶長九年の町割りは、軍事的合理性と近世的な身分秩序、そして文化的思想が融合した、新時代の統治理念の結晶であった。
第三節:富の源泉を育む ― 飫肥杉林業の国家戦略化
城下町の再整備と並行して、祐慶は藩の将来を見据えた長期的な経済戦略の策定にも着手していた。平地に乏しく、米作による石高の増加が期待できない飫肥藩にとって、その未来は領内の七割以上を占める広大な山林資源にかかっていた 19 。その中でも特に注目されたのが、この地の気候風土が育んだ「飫肥杉」である。
飫肥杉は、樹脂を多く含み吸水性が低く、軽量でありながら弾力性に富み衝撃に強いという、他に類を見ない優れた特性を持っていた 20 。これらの特性は、当時、国内物流の主役であった木造和船の建造材(特に「弁甲材」と呼ばれる船の側面や底板に使われる部材)として、まさに理想的な資質であった 22 。
祐慶は、この飫肥杉の持つ経済的価値にいち早く着目し、これを藩の財政を支える柱とすべく、藩による「専売品」として管理する体制を構想したと推察される 21 。慶長九年の時点で、計画的な植林と育林、そして将来の伐採と販売に至るまでの一貫した管理システムを構築し、飫肥杉を単なる天然資源から、持続可能な「国家戦略産業」へと転換させるビジョンが描かれたのである。新たに整備される城下町は、この壮大な林業プロジェクトを管理・運営するための司令塔としての役割も期待されていた。
これら「検地」「町割り」「産業振興」は、個別に行われた政策ではない。検地で得られた財政基盤がなければ、家臣を城下に集住させ扶持を与えることはできない。家臣団を中央に集め、強力な統制下に置かなければ、領内全域にわたる大規模な植林事業を指揮することはできない。そして、飫肥杉による将来的な税収増という確信がなければ、限られた財源の中から城下町建設という大規模な初期投資に踏み切ることはできなかったであろう。三者は相互に不可分の関係にあり、一つの統合されたパッケージとして同時に推進された、近世的藩国家の創設計画そのものであった。
第四章:構想の結実 ― 堀川運河と産業の脈動
慶長九年(1604年)に伊東祐慶が描いたグランドデザインは、彼一代で完結するものではなかった。それは、世代を超えて受け継がれる長期的な国家経営ビジョンであり、その真価が発揮されるまでには、更なる時間と投資を必要とした。その最大の結実が、再整備から約八十年後に実現した「堀川運河」の開削である。
慶長の時点では、山から切り出された飫肥杉は、広渡川の自然の流れを利用して河口の油津港まで運ばれていた。しかし、広渡川の河口付近は流れが複雑で座礁の危険も高く、大量の木材を安定的かつ効率的に輸送するには大きな課題を抱えていた 25 。時代が下り、計画的に植林された飫肥杉が次々と伐採期を迎え、その生産量が飛躍的に増大するにつれて、安定した物流インフラの整備は藩の喫緊の課題となっていった。
この課題に正面から取り組んだのが、第四代藩主・伊東祐実(すけざね)であった。祐実は、広渡川の不安定な流路を迂回し、内陸部から油津港までを直線的に結ぶ、全く新しい人工水路、すなわち「堀川運河」の開削を決断する 26 。工事は天和三年(1683年)に始まり、二十八ヶ月の歳月をかけて貞享三年(1686年)に完成した 27 。
その道のりは決して平坦ではなかった。特に、途中に横たわる五十メートルもの巨大な岩盤は、当時の土木技術では掘削が極めて困難であり、工事を命じられた奉行が計画の断念を進言したと伝えられている 27 。しかし、祐実は「まだ実行もしていないうちから弱音を吐くのは恥ずべきことだ。何年かかろうとも必ずやり遂げよ」と厳命し、工事を続行させたという 27 。この逸話は、この運河建設が藩の未来を左右する一大変事であるという、藩主の強い意志と覚悟を物語っている。
堀川運河の完成は、飫肥藩の経済に革命的な変化をもたらした。山から切り出された飫肥杉は、筏に組まれ、安全かつ迅速に油津港の貯木場へと運ばれるようになった 26 。そして、油津港から大型の廻船に積み替えられ、造船業が盛んであった大坂をはじめとする全国の巨大市場へと出荷されていったのである 19 。これにより飫肥杉のブランド価値は不動のものとなり、藩の財政は飛躍的に安定し、潤った 24 。
この堀川運河の開削は、決して突発的な事業ではない。それは、慶長九年に伊東祐慶が蒔いた「飫肥杉を藩の基幹産業とする」という種が、三代後の祐実の時代に、運河という形で美しく開花したことを示すものである。大規模な運河建設には、莫大な費用と長期にわたる政治的安定、そして強力なリーダーシップが不可欠である。慶長九年の再整備がもたらした中央集権的な統治体制、安定した家臣団、そして飫肥杉専売による財源の確保という三つの条件が揃っていなければ、この大事業を成し遂げることは到底不可能であった。堀川運河は、慶長のグランドデザインに内包されていた「将来のインフラ投資」という構想が、時を経て具現化したものに他ならない。それは、伊東家の統治が、個人の才覚に頼る戦国的なものから、持続可能な計画性を持つ近世的なものへと完全に移行したことを証明する、壮大なモニュメントなのである。
第五章:南九州における孤高の城下町 ― 薩摩藩「外城制度」との比較考察
飫肥城下町の歴史的特徴をより鮮明に理解するためには、その地理的環境、すなわち強大な隣国・薩摩藩の存在を抜きにして語ることはできない。飫肥の都市構造は、薩摩藩が採用した統治システムと対比することで、そのユニークさと戦略的な意図が初めて浮き彫りになる。それは、小藩が巨大な軍事国家の隣で独立を維持するために編み出した、絶妙な生存戦略の現れであった。
薩摩藩は、他藩に見られない「外城(とじょう)制度」という独自の地方支配システムを敷いていた 34 。これは、藩主の居城である鹿児島城(内城)の他に、領内各地の要衝に「麓(ふもと)」と呼ばれる百十数カ所の半軍事的な拠点を配置するものであった 34 。麓には郷士と呼ばれる下級武士を土着させ、平時は農耕に従事させて自活させつつ、有事の際には地頭の指揮下に即座に動員できる兵力として機能させた 34 。この制度は、広大な領地と全国平均の五倍以上とも言われる多数の武士を抱える薩摩藩にとって、領内をくまなく支配し、外敵の侵攻に備えるための、極めて合理的かつ軍事的な、分散型統治システムであった 38 。
これに対し、伊東氏が飫肥で採用した方法は、全く逆のベクトルを向いていた。すなわち、領内に家臣を分散させるのではなく、全ての家臣を飫肥の城下町に集住させ、権力と軍事力を一箇所に集中させる「中央集権型」のシステムである。この選択の違いは、両藩が置かれた地政学的な立場の違いから生まれた、必然的な帰結であった。
もし、小藩である飫肥藩が薩摩藩と同様の分散型システムを採用した場合、二つの致命的なリスクが生じる。第一に、ただでさえ少ない軍事力が領内に分散することで、薩摩藩のような大軍に侵攻された際に各個撃破される危険性が高まる。第二に、国境地帯に土着した家臣が、経済的・軍事的に優位な島津氏に懐柔され、寝返るリスクである。これは、かつて「伊東崩れ」で家臣の裏切りに苦しんだ伊東氏にとって、絶対に避けなければならない悪夢であった。
したがって、飫肥藩が選択した家臣の城下集住と中央集権的な都市構造は、強大な隣国に対する、小藩ならではの「生き残り」を賭けた、防御的かつ内向的な生存戦略だったのである。薩摩の外城制度が、領外への膨張も視野に入れた攻撃的な側面を持つシステムであるのに対し、飫肥の城下町は、ひたすら「守り」に徹した収縮的なシステムであったと言える。
この視点を持つことで、飫肥の町並みは新たな意味を帯びてくる。それは単に風情のある「九州の小京都」 14 などではなく、巨大国家の脅威に常に晒されながら独立を維持するために、知恵の限りを尽くして設計された「要塞都市」としての側面を強く持っている。武家屋敷を囲む石垣の一つ一つが、単なる美観や格式のためだけでなく、いざという時の防御拠点としての役割を期待されていた。飫肥の都市構造は、南九州における地政学的な緊張関係が生み出した、歴史の産物なのである。
終章:現在に続く遺産
慶長九年(1604年)に始まった飫肥城下の再整備は、四百年の時を超え、現代の飫肥の姿を決定づける、まさに画期的な出来事であった。伊東祐慶が描いたグランドデザインは、単なる過去の遺物ではなく、今日の街並み、文化、そして産業の中に、今なお生き続けている。
まず、物理的な遺産として、慶長の町割りが現在の飫肥の都市骨格を形成していることは明白である 13 。飫肥城跡から伸びる武家屋敷通りや商人町の区画は、江戸時代初期の地割りを驚くほど良好に留めており、これが九州で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定される(昭和52年)最大の要因となった 4 。我々が今日、飫肥の石垣や漆喰塀が続く風情ある通りを散策できるのは、この四百年前に引かれた一本の線にその起源を求めることができる。
次に、文化的な遺産として、この再整備がもたらした二百八十年にわたる平和と安定が、飫肥独自の豊かな文化を育んだ 17 。戦乱の時代が終わり、武士たちが城下で暮らす中で、庭園文化が花開き、飫肥藩伝統の半弓「四半的」のような武芸も洗練された 39 。また、参勤交代などを通じて上方の文化がもたらされ、それが地元の食材と結びつき、「おび天」や「厚焼き卵」といった、今日の名物となる独特の食文化を生み出す土壌となった 39 。
そして、経済的な遺産として、祐慶の先見的な産業戦略が、地域の最大の宝である「飫肥杉」を育て上げた。藩の財政を支えた飫肥杉は、時代が下り木造船の需要が減少した後も、建築用材などへと用途を転換し、現代に至るまで地域の基幹産業として生き続けている 19 。そして、その輸送のために開削された堀川運河は、今や「弁甲筏流し」の再現などで観光客を魅了する、歴史と文化を伝える貴重な資源となっている 31 。
結論として、慶長九年の飫肥城下再整備は、百年にわたる戦国の記憶を乗り越え、平和な時代の新たな統治と経済の礎を築こうとした、若き藩主・伊東祐慶の強い意志と明確なビジョンの表れであった。それは、過去の敗北の教訓を未来の繁栄へと昇華させる、壮大な試みであった。その試みが成功したからこそ、飫肥は強大な隣国の間で独立を保ち、独自の文化を育み、今日の我々が目にする、歴史的価値に満ちた美しい城下町として存在し得ているのである。
引用文献
- No.96 飫肥城 ~島津と伊東が争った辺境の巨城 - 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/obijo.html
- 日向飫肥藩伊東家とその分家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/obi-ito
- ライバル島津氏から奪い返した伊東氏の【飫肥城の歴史】を総まとめ https://japan-castle.website/history/obicastll/
- 飫肥城下町 - 日南市観光協会 https://www.kankou-nichinan.jp/tourisms/375/
- 江戸時代 - 宮崎県の歴史 https://history.miyazaki.jp/edo
- 「飫肥の合戦」の衝撃と日本史のゆらぎ - 伊東家の歴史館 http://www.ito-ke.server-shared.com/obitatakai.htm
- 日向伊東氏の栄華と没落、島津氏と抗争を続けて240年余 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/07/18/181646
- 第65回 飫肥藩主に返り咲いた、伊東氏の城と城下町 萩原さちこの城さんぽ - 城びと https://shirobito.jp/article/1798
- 江戸時代の地割が残る「飫肥城下町」 - 文化遺産の世界 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201802_41
- 特集2 稲津掃部助(いなづかもんのすけ)物語 (TXT 7.45KB) https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/fs/6/0/6/3/7/_/201607text22-23.txt
- F050 伊東祐兵 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/F050.html
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- 飫肥 - まちあるきの考古学 http://www2.koutaro.name/machi/obi.htm
- 古地図から読み解く飫肥城 : 戦国を歩こう - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/43778401.html
- 飫肥城下(日南市) | スポット・体験 | 【公式】宮崎市観光サイト https://www.miyazaki-city.tourism.or.jp/spot/10056
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