館山城下整理(1588)
1588年、里見氏は秀吉の天下統一と惣無事令を受け、軍事から経済へと戦略を転換。館山を海洋交易の拠点と定め、城下の大規模な整備と商業の集中化に着手した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正十六年、里見氏の決断 ― 館山城下整理の時系列的徹底分析
序章:天下統一の奔流と房総の雄、里見氏
天正十六年(1588年)、安房国館山で断行された一連の都市整備、すなわち「館山城下整理」は、単なる土木事業や都市計画に留まるものではない。それは、戦国という時代の終焉を目前にし、天下統一という巨大な奔流に呑み込まれようとしていた房総の雄・里見氏が、一族の存亡を賭して行った国家的な戦略転換であった。この事変を理解するためには、まず1580年代後半の日本列島を覆っていた緊迫した政治情勢から紐解く必要がある。
天下人・秀吉と関東の情勢
この時代、羽柴(豊臣)秀吉による天下統一事業は最終段階に差し掛かっていた。天正十五年(1587年)には九州を平定し、その圧倒的な軍事力と政治権力は、もはや抗うべくもない現実として東国の諸大名に迫っていた。関東においては、小田原を本拠とする後北条氏が、なおも独立を保ち、強大な勢力を誇っていた。里見氏は、この後北条氏と房総半島の覇権を巡り、数十年にわたって抗争と和睦を繰り返す一進一退の関係にあった 1 。
このような状況下で、里見氏は巧みな外交戦略を展開する。当主・里見義頼の代、天正十三年(1585年)には、いち早く秀吉への服属の意思を示していた 4 。秀吉の側近であり、後に五奉行の一人に数えられる増田長盛を取次役として、中央政権とのパイプを構築し、来るべき時代の変化に対応しようと試みていたのである 5 。これは、強大な後北条氏という直接的な脅威に対抗し、自家の存続を図るための、極めて現実的かつ戦略的な判断であった。
惣無事令の衝撃と戦略転換の必要性
天正十五年(1587年)、秀吉は「惣無事令」を関東・奥羽の諸大名に発布する。これは、大名間の私的な戦闘を禁じ、領土紛争はすべて豊臣政権の裁定に委ねることを命じるものであった 4 。この法令は、戦国時代を通じて大名の行動原理であった「自力救済」、すなわち武力による問題解決の論理を根底から覆す、画期的なものであった。
この惣無事令は、里見氏にとって諸刃の剣であった。北条氏からの軍事的圧力を抑止する効果が期待できる一方で、里見氏が伝統的に得意としてきた水軍力を背景とする軍事行動による領土拡大の道は、完全に閉ざされることになった 7 。もはや、武力によって国を富ませる時代は終わったのである。大名としてのあり方を、旧来の「軍事」を主軸としたものから、領国を安定的に「統治」し、経済を発展させることへと、根本的に転換する必要に迫られた。この国家経営方針の転換という課題に対する、里見氏の回答こそが、「館山城下整理」であった。
なぜ「館山」だったのか
戦略転換の拠点として、なぜ安房国の「館山」が選ばれたのか。それまでの里見氏の拠点は、岡本城などであったが、これらは水軍の防御拠点としては優れていたものの、付属する湊は小規模で、大規模な交易活動には不向きであった 9 。
対照的に、館山は鏡ヶ浦(現在の館山湾)と呼ばれる天然の良港を擁し、江戸湾(東京湾)の入口を扼する海上交通の要衝に位置していた 7 。惣無事令後の新時代において、軍事力に代わる国力涵養の源泉が「経済力」、とりわけ「海上交易」にあることを見抜いた里見氏は、そのポテンシャルを最大限に引き出せる館山を、次代の本拠地として選定した。これは単なる居城の移転計画ではない。軍事国家から海洋交易国家へ。里見氏の国家像そのものを再定義する、壮大なグランドデザインの始まりだったのである。
以下の年表は、館山城下町の形成が、里見氏を取り巻く国内外の情勢と如何に密接に連動していたかを示している。
西暦 |
和暦 |
里見氏の主要な動向 |
国内外の関連情勢 |
1580年 |
天正8年 |
里見義頼、館山城の築城に着手 11 。 |
- |
1584年 |
天正12年 |
義頼、商人・岩崎与次右衛門に柏崎での交易活動を特命 10 。 |
- |
1585年 |
天正13年 |
義頼、豊臣秀吉に服属の意思を示す 4 。 |
秀吉、関白に就任。 |
1587年 |
天正15年 |
10月、義頼が没し、義康が家督を継承。秀吉に従うことを誓う 6 。 |
秀吉、九州を平定し、関東・奥羽に惣無事令を発布。 |
1588年 |
天正16年 |
義康、館山城の大規模改修と城下町の整理(町割り、法度発布)を断行 12 。 |
- |
1590年 |
天正18年 |
館山城が完成 16 。小田原合戦後、上総国を没収される 6 。 |
秀吉、小田原北条氏を滅ぼし天下を統一。徳川家康が関東に入府。 |
1591年 |
天正19年 |
義康、岡本城から館山城へ正式に移転 18 。 |
- |
1597年 |
慶長2年 |
安房国で太閤検地が実施され、9万石と確定 4 。 |
- |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦功により常陸国鹿島で3万石を加増される 9 。 |
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利。 |
1601年 |
慶長6年 |
城下町に対し5ヶ条の法度を発布し、商業保護を強化 20 。 |
- |
1606年 |
慶長11年 |
城下商人に対し、商船の入港税免除などの諸税免除を実施 15 。 |
- |
1614年 |
慶長19年 |
里見氏、改易を命じられ伯耆国倉吉へ移封。館山城は破却される 4 。 |
大坂冬の陣が勃発。 |
第一章:グランドデザインの胎動(天正8年~15年 / 1580~1587年)
天正十六年の大規模な城下整理は、決して突発的な事業ではなかった。その構想は、父・里見義頼の代から周到に準備され、時代の変化に対応しながら息子・義康へと引き継がれた、二代にわたる長期的な国家プロジェクトだったのである。
父・里見義頼の先見性:館山城築城の着手(天正8年 / 1580年)
惣無事令が発布される7年も前の天正八年、里見義頼はすでに館山城の築城を計画し、重臣に命じて着手させていた 11 。この時点では、依然として後北条氏との軍事的緊張が続いており、東京湾口を扼する戦略拠点として館山の軍事的重要性を認識していたことが、築城の主たる動機であったと考えられる。しかし、同時に義頼は、この地が持つ経済拠点としての比類なきポテンシャルも見抜いていた 9 。彼の構想は、単なる要塞の建設に留まらず、軍事と経済が一体となった新時代の拠点都市の創出を視野に入れていたのである。
布石としての経済特区:商人・岩崎与次右衛門への特命(天正12年 / 1584年)
義頼の先見性を最も象徴するのが、天正十二年に行った一つの人事である。彼は、本格的な拠点移転に先立ち、商人であった岩崎与次右衛門という人物に、高之島湊を擁する沼之郷柏崎に屋敷地を与え、交易活動の拠点とすることを特命した 10 。
これは、来るべき城下町建設の核となる商人資本を事前に育成・誘致し、経済基盤を整備するための、極めて計画的な布石であった。城下町の建設が、武士の論理だけで進められるのではなく、経済の専門家である商人の視点とノウハウを積極的に活用しようとする、当時としては先進的な試みであった。いわば、大名と商人の官民連携による都市開発パートナーシップの原型とも言える。この岩崎与次右衛門との連携が、後の急速な城下町発展の強力なエンジンとなったことは想像に難くない。この一事をもってしても、館山城下町の建設が、数年前から周到に準備されていた長期的な構想であったことがわかる。
義頼の死と義康への継承(天正15年 / 1587年)
しかし、天正十五年十月、義頼はその壮大な構想の実現を目前にして、志半ばでこの世を去る 13 。家督を継承した嫡男・義康は、父の構想をただ受け継ぐだけではなかった。同年、秀吉への服属を改めて誓い、黄金十両などを献上した義康は 6 、惣無事令という新たな政治状況を的確に捉え、父の計画をさらに加速させ、発展させる決断を下す。父・義頼の構想が「軍事と経済の両睨み」であったとすれば、義康はそれを時代の要請に合わせて「経済主軸」へと明確にシフトさせ、天正十六年の大改革へと繋げていったのである。
第二章:激動の天正十六年(1588年)- 城下整理、断行の刻
父の遺志を継いだ里見義康は、天正十六年、ついに歴史的な大事業に踏み切る。この一年間に断行された一連の改革は、里見氏が旧来の「封建領主」から、法と計画によって領国を経営する「近世的な統治者」へと脱皮を遂げた、画期的な瞬間であった。
【年初~春】政治的決断:大規模改修の開始
年が明けると、義康は館山城の「大規模な改修」に着手した 12 。これは、既存の城郭の単なる増改築を意味しない。城下町と一体化した、政治・軍事・経済の新たな中枢都市を創出するという、明確な国家目標に基づいたものであった。この決断の背景には、前年の秀吉への服属誓約がある。もはや北条氏との軍事バランスに依存する旧来の安全保障体制は意味をなさず、豊臣政権下における近世大名として、自領の統治能力と経済力によってその地位を確立するという、新たな国家ビジョンが設定されたのである。
【夏~秋】城下町法度の発布と社会構造の再設計
この年の夏から秋にかけて、義康は城下町の将来を決定づける「城下町法度」を発布した。その核心は、驚くべき内容を含んでいた。「 館山城の城下に市を開き、城下以外での商取引を禁止する 」という一文である 15 。
これは、領内に分散していた商業活動を、新設される城下町に強制的に集中させる、極めて強権的な経済政策であった。その目的は複合的であり、第一に城下への商業機能の集積による経済の活性化、第二に領内全体の商業活動を把握し、税収を効率的に確保すること、そして第三に、商人の身分を把握し、大名の統制下に置くことにあったと考えられる。織田信長の楽市・楽座が「規制緩和」による自由な経済活動の促進を主眼としたのに対し、里見氏の手法は、むしろ「規制と集中」によって計画的な経済圏を創出しようとするものであり、その統制色の強さに特徴があった。この法度によって、館山城下町は単なる市場から、領国経済の唯一の中枢へと位置づけられたのである。
【秋~冬】物理的建設の進捗:町割りとインフラ整備
法度の発布と並行して、城下の物理的な建設も急ピッチで進められた。具体的な「町割り」(区画整理)が実行され、それまで真倉村の浜方集落であった新井浦と楠見浦から土地を割いて、「上町・仲町・下町」といった計画的な町人地が造成されていった 10 。これは、既存の村落構造を一度解体し、新たな都市計画に基づいて社会を再編成するという、壮大な社会実験でもあった。当然、道路や水路といった都市インフラの整備も同時に進められたと考えられる。ハード(都市インフラ)とソフト(経済システム)の両面から、新しい都市が創造されていったのである。
【通年】人の動態:商人の強制移住
法度の実効性を担保するため、義康はさらに踏み込んだ政策を実行する。領内に点在していた有力な商人に対し、新設された新井町や北条町へ、半ば強制的に移住させたのである 10 。これは、戦国時代の岡山城下町形成期に宇喜多氏が備前福岡から商人を移住させた事例にも見られる手法であり 24 、新たな都市に経済活動の担い手である「人」を確保するための常套手段であった。当然、先祖代々の土地を離れることへの抵抗も予想されるが、里見氏は大名の権威を背景に、城下で商売を独占できるという経済的利益を天秤にかけさせ、この困難な政策を推し進めたのであろう。
天正十六年という一年は、まさに館山が新たな都市として産声を上げた、激動の時であった。法による経済システムの再編、物理的な都市建設、そして人的な社会再編が、同時並行で、かつ強力な意志のもとに断行されたのである。
第三章:館山城下町の解剖 ― 新時代の都市設計思想
里見氏によって設計された館山城下町は、その都市構造自体が、彼らが置かれた「戦国の終焉期」という過渡的な時代状況を雄弁に物語っている。それは、過去の戦乱の記憶から生まれた「戦国型防衛思想」と、未来の交易国家への展望を込めた「近世型経済思想」とが融合した、他に類を見ないハイブリッド都市であった。
軍事と経済の融合:城・湊・町の戦略的配置
館山城は、湊を伴う城であったと指摘されており 18 、その配置は極めて合理的かつ戦略的であった。城郭本体は背後の丘陵(城山)に築かれ、政治・軍事の中心として町を見下ろす。城下町はその前面の平野部に計画的に配置され、人々の居住空間と商業活動の舞台となる。そして、町の目の前には館山湾の良港が広がり、経済活動の玄関口としての役割を担う。城・町・湊、この三者が有機的に連携し、一体として機能するように設計されていたのである。この包括的な都市開発思想は、豊臣秀吉による大坂城下町の建設にも通じるものであり 25 、当時の最先端の都市計画であったことが窺える。
防御機能の徹底:戦国の記憶を刻む町並み
平時の経済活動を重視しつつも、町には有事への備えが随所に施されていた。惣無事令によって私闘は禁じられたとはいえ、戦国の記憶は未だ生々しく、その緊張感が町の構造に刻み込まれている。
- 枡形(ますがた): 城郭の入口付近に設けられた、四角く囲まれた空間である。敵が城内に侵入する際、直進を妨げて一度この空間に入らせ、三方から攻撃を集中させるための巧妙な防御施設であった 23 。
- 食い違い道(くいちがいみち): 道路を意図的に直角に交差させず、わずかにずらしてT字路を連続させる構造である。これにより、敵軍の進軍速度を削ぎ、見通しを悪くして突進を妨害する効果があった 23 。
これらの構造は、館山城下町が単なる商業都市ではなく、依然として要塞都市としての一面を保持していたことを示している。平和と戦争の狭間にあったこの時代の都市の性格を、如実に物語る遺構である。
経済中枢の形成:「上町・仲町・下町」と商人頭
計画的に造成された「上町・仲町・下町」は、城下町の商業的中心地として設定された 10 。そして、この経済中枢の運営は、里見氏の特命を受けた岩崎与次右衛門のような「町名主」あるいは「商人頭」に、大幅な自治権とともに委ねられていた 10 。彼らは里見氏の権威を後ろ盾に、商人間の紛争解決、道路や衛生の管理、税の取りまとめといった町方行政を担った。これにより、里見氏は統治コストを抑制しつつ、専門家のノウハウを活用して効率的に城下町を管理・発展させることができたのである。
水運の活用:「菱沼」の機能推定
城下には「菱沼」と呼ばれる、人工的な台形の遊水地が存在したことが知られている。これは、洪水対策としての治水機能に加え、より積極的な経済的役割を担っていた可能性が指摘されている。すなわち、汐入川の河口を利用する商船の「船溜(ふなだまり)」、現代でいう港湾施設の一部として機能していたのではないかという説である 23 。城下町の内部まで水路を引き込み、物流の動脈として活用する発想は、加藤清正による熊本城下町の整備などにも見られる先進的なものであり 28 、里見氏が水運をいかに重視していたかが窺える。
館山城下町の都市構造は、まさに時代の精神を映す鏡であった。それは、過去の経験(防衛の必要性)と未来への展望(経済の重要性)という、二つの異なる時代の要請を、一つの都市計画の中に共存させようとした、里見氏の苦心と創意工夫の結晶だったのである。
第四章:完成、そして新たな時代の幕開け(天正17年~慶長19年 / 1589~1614年)
天正十六年の大改革を経て、館山城下町は新たな時代の房総の中心地として歩み始めた。しかし、その道程は決して平坦なものではなく、政治的な試練と、それを乗り越えるための更なる経済政策の強化、そして予期せぬ幕切れが待っていた。
館山城の完成と義康の移転(天正18年~19年 / 1590~1591年)
大規模な改修と城下町の整備が進められた結果、天正十八年(1590年)に館山城は完成した 12 。そして翌天正十九年(1591年)の6月から11月にかけて、里見義康はそれまでの居城であった岡本城から、正式に館山城へと拠点を移した 17 。これにより、館山は名実ともに里見氏の領国経営における政治・経済の中心地として、その歴史を本格的に始動させたのである。
小田原合戦後の試練:上総没収と安房国9万石大名としての再出発
しかし、その直前、里見氏を大きな試練が襲う。天正十八年の豊臣秀吉による小田原征伐の後、里見氏は長年支配してきた上総国の領地を没収されるという厳しい処分を受けたのである 8 。これは、義康が秀吉の許可なく独自に禁制を発したことなどが、惣無事令違反と見なされたためであった 6 。
この処分により、里見氏の所領は安房一国に限定され、後の太閤検地によってその石高は9万石と確定された 4 。領地が半減したという事実は、里見氏にとって大きな打撃であった。しかし、この政治的失敗は、皮肉にも館山城下町の経済的重要性を決定的に高める結果をもたらした。失われた上総国の経済力を補うためには、残された安房国の経済基盤を飛躍的に強化する以外に道はなかった。館山城下町は、もはや単なる重要拠点ではなく、国家存亡をかけた生命線となったのである。
城下町育成政策の強化と発展
この逆境の中、義康は館山城下町の育成策をさらに強化・加速させる。より徹底した重商主義的政策へと舵を切ったのである。
- 慶長六年(1601年)、城下町に対し新たに5ヶ条の法度を発布し、商人の活動を保護する姿勢を改めて明確にした 20 。
- 慶長十一年(1606年)には、さらに踏み込み、城下商人に対して商船の入港税を免除するなど、諸税の免除や規制緩和を断行した 15 。
これらの積極的な保護政策は絶大な効果を発揮した。多くの商人が集まり、交易は活性化し、わずか5年の間に城下町は楠見町、長須賀町、北条町へと拡大するほどの急速な発展を遂げたのである 15 。逆境が、より大胆な経済改革を生み出す触媒となった典型的な例であった。
里見氏の改易と事業の終焉(慶長19年 / 1614年)
関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に与し、その功績で常陸国鹿島に3万石を加増され、合計12万石を領する関東最大の外様大名へと返り咲いた里見氏 4 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。慶長十九年(1614年)、江戸幕府内の権力闘争(大久保忠隣失脚事件)に連座する形で、突如として改易を命じられてしまう 4 。
当主・里見忠義は伯耆国倉吉(現在の鳥取県)へ事実上の配流となり、30年以上にわたって築き上げてきた館山城は無残にも破却され、堀は埋め立てられた 7 。これにより、里見氏による壮大な館山城下町建設事業は、未完のまま、その歴史に幕を下ろすこととなったのである。
終章:館山城下整理が歴史に残した遺産
里見氏の改易という突然の終焉によって、館山城下町の建設は道半ばで途絶えた。しかし、天正十六年に始まったこの壮大な社会実験が、歴史に残した遺産は決して小さくない。
先進事例としての評価
館山城下整理は、戦国大名が時代の大きな変化を的確に読み解き、国力の基盤を旧来の軍事力から新たな時代の経済力へとシフトさせようとした、近世大名への移行期における都市計画の優れた事例として評価されるべきである。特に、①父・義頼から子・義康へと引き継がれた長期的なビジョン、②法度という「法」による経済統制の試み、③岩崎与次右衛門に代表される商人との官民連携による開発手法、そして④戦国の防衛思想と近世の経済思想を融合させたハイブリッドな都市設計、といった点は、同時代の他の城下町と比較しても際立った先進性を持っていた。
現在の館山市街地の原型として
里見氏の支配は170年余りで終わったが、彼らが描いた都市のグランドデザインは、400年以上の時を超えて生き続けている。里見氏の時代に形成された「上町・仲町」といった町割りや地名は、その後の江戸時代、そして近代を経て、現在の館山市中心市街地の骨格として、今なお色濃く受け継がれている 10 。現在の館山の街を歩くとき、我々はその基層に、戦国の世を生き抜こうとした里見氏の都市計画の痕跡を見出すことができるのである。
総括:生存戦略としての「館山城下整理」
結論として、天正十六年(1588年)の「館山城下整理」は、単発の土木事業では決してなかった。それは、天下統一という時代の奔流の中で、房総の一勢力に過ぎなかった里見氏が、自らのアイデンティティを「武」から「富」へと再定義し、近世大名として生き残りを図った、国家的な生存戦略そのものであった。その試みは、幕藩体制という新たな政治秩序の波に呑み込まれ、志半ばで潰えることとなった。しかし、海防と流通の強化を目指して築かれたこの湊町は、戦国から近世へと移行する時代の要請に対する、里見氏の明確かつ果敢な回答であり、彼らが確かに歴史に刻んだ、壮大な夢の跡なのである。
引用文献
- 市原郡内の城址における里見一族との関係 https://fururen.net/wp-content/uploads/2024/05/%E5%B8%82%E5%8E%9F%E9%83%A1%E5%86%85%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%87%8C%E8%A6%8B%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82.pdf
- 北条氏政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84238/
- 房相一和 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%BF%E7%9B%B8%E4%B8%80%E5%92%8C
- 【4】天下人の時代 (1)近世大名として-里見氏の遺産 城下町館山 ... http://history.hanaumikaidou.com/archives/9054
- さとみ物語・完全版 5章-1 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_5shou/k5shou_1/k5shou_1.html
- さとみ物語・要約版 5章-1文 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/5shou/5shou_1/5shou_1min.html
- 房総の戦国大名里見氏 https://awa-ecom.jp/bunka-isan/wp-content/uploads/sites/9/2012/07/%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97%E5%8D%83%E8%91%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%91%A1%E3%80%8C%E6%88%BF%E7%B7%8F%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E9%87%8C%E8%A6%8B%E6%B0%8F%E3%80%8D_compressed.pdf
- 『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏 | 暮らし | 連載コラム「エコレポ」|| EICネット『エコナビ』 https://econavi.eic.or.jp/ecorepo/live/532
- なぜ館山は里見のまちなの? - 南房総 花海街道 https://hanaumikaidou.com/archives/9523
- 【2】町の起源を探る (1)里見の城下町-里見氏の遺産 城下町館山 ... http://history.hanaumikaidou.com/archives/9048
- 館山城 - 千葉県 https://chiba.mytabi.net/tateyama-castle.php
- 館山城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Chiba/Tateyama/index.htm
- 里見氏と南総里見八犬伝 https://www.mboso-etoko.jp/_mgmt/img/2024/03/hakkenden_b3.pdf
- 里見氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E6%B0%8F
- さとみ物語・要約版 5章-2 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/5shou/5shou_2/5shou_2.html
- 館山城~千葉県館山市~ - 裏辺研究所 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro141.html
- 里見氏史跡-オーソドックス編-テーマ別探訪 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/3628
- 館山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 館山の歴史 - 館山市役所 https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page100073.html
- 里見義康(さとみ・よしやす) 1573~1603 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/SatomiYoshiyasu.html
- さとみ物語・完全版 5章-2文 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_5shou/k5shou_2/k5shou_2min.html
- 【市指定史跡】館山城跡 https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page100184.html
- 館山城下町-エリア別散策 | たてやまフィールドミュージアム ... http://history.hanaumikaidou.com/archives/3797
- 岡山城と城下町の形成 | おかやまレキタビ - ヒストリートリップ https://rekitabi.jp/story/story-48
- 天下の台所へ導いた水路 大阪城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44016/
- 海が近い城下町「小田原」で、歴史と海鮮を楽しむ。 - おしゃれに。FONTAINE お出かけブログ http://oshareni.fontaine.jp/blog/2018/11/20/4125/
- コラム:安房から江戸に進出した商人-仙台商人との関わり-(宮坂新) | 上廣歴史資料学研究部門 https://uehiro-tohoku.net/works/2024/8105.html
- 戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?ー超入門!お城セミナー【構造】 https://shirobito.jp/article/922
- <館山城>-里見氏の城と歴史 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/7771
- 里見八犬伝の地 - 南房総いいとこどり https://www.mboso-etoko.jp/manabu/satomi/