駿府中納言邸整備(1590年代)
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駿府における権力の交替劇:徳川家康から中村一氏へ ― 1590年代「駿府城整備」の真相 ―
序章:問いの再定義 ―「駿府中納言邸整備」の史実的文脈
日本の戦国時代史において、特定の地名と武将の名は固く結びついていることが多い。「駿府」と「徳川家康」もまた、そのような関係性の一つとして広く認識されている。特に、家康が晩年に大御所として君臨した地であることから、「駿府」は徳川の拠点という印象が極めて強い。利用者様が提示された「駿府中納言邸整備(1590年代):駿河国:駿府:家康の拠点整備が粛々と進む」という認識は、この長大な歴史観に根差したものであり、一見すると自然な理解である。
しかし、歴史の事実は、時に我々の抱く一般的なイメージとは異なる様相を呈する。本報告書が主題とする「1590年代」という特定の時間軸に焦点を絞った場合、駿府における支配の現実は、その一般的なイメージとは大きく乖離していた。この10年間、駿府城の主は徳川家康ではなく、天下人・豊臣秀吉の配下にあった中村一氏という武将であった 1 。そして、この時期に行われた城の「整備」とは、家康の拠点の拡充ではなく、むしろ家康の痕跡を意図的に消去し、全く新しい「豊臣の城」を築き上げるという、極めて政治的な意味合いを帯びた「上書き」行為だったのである。
本報告書は、この歴史的実態を解明することを目的とする。まず、家康が権中納言の官位にあった時期に築いた最初の駿府城、すなわち「駿府中納言邸」の建設過程を明らかにし、次いで天正十八年(1590年)に起こった劇的な支配者の交代劇、すなわち家康の関東移封と中村一氏の入城の政治的背景を深く考察する。そして、本報告の核心部分として、近年の考古学的発見に基づき、中村一氏によって行われた「整備」の実態、すなわち豊臣政権の権威を象徴する城郭への大規模な改変の全貌を明らかにする。
この分析を通じて、1590年代の駿府城が、単なる一地方の拠点ではなく、天下統一を成し遂げた豊臣政権と、その最大のライバルである徳川家康との間の、巨大な権力闘争が投影された舞台そのものであったことを論証する。石垣の一つ、瓦一枚に刻まれた記憶を読み解くことで、我々は徳川史観の影に隠れがちであった、豊臣政権絶頂期における天下のリアルな力学に迫ることができるのである。
第一章:前史 ― 徳川家康による「中納言邸」の建設(天正十三年~十七年)
1590年代の駿府を理解するためには、まずその前史として、徳川家康が最初の駿府城を築いた経緯とその実像を把握する必要がある。この城こそ、家康の官位に由来する「駿府中納言邸」であり、後の歴史の全ての起点となる存在である。
1.1. 拠点移動の戦略的背景
天正十年(1582年)、本能寺の変とそれに続く一連の動乱(天正壬午の乱)を経て、徳川家康は従来の領国である三河・遠江・駿河に加え、甲斐・信濃の二国を新たに支配下に収めた。これにより、家康は東海地方に五カ国を領有する大大名へと飛躍する。この領国の急拡大に伴い、従来の拠点であった浜松城は、統治領域の西端に偏りすぎ、新領土である甲信地方の管理には不便な立地となった 3 。
そこで家康が新たな本拠地として選んだのが、駿河国の府中、すなわち駿府であった。駿府は、これら五カ国の地理的中心に位置し、領国経営の司令塔として最適な場所だったのである 3 。さらに、家康個人にとって駿府は、幼少期に今川氏の人質として過ごした因縁の地でもあった 4 。かつて今川氏の館が栄えたその跡地に、自らの手で新たな城を築くことは、過去の屈辱を乗り越え、自らが新たな時代の支配者であることを内外に示す、象徴的な意味合いも帯びていたと考えられる 3 。
1.2. 普請のリアルタイム記録 ―『家忠日記』より
この最初の駿府城築城の様子を、リアルタイムで克明に記録した一級史料が存在する。家康の家臣であり、深溝松平家の当主であった松平家忠が記した『家忠日記』である 6 。普請奉行の一人として工事に携わった彼の記録は、巨大な城郭がいかにして築かれていったかを我々に示してくれる。
日記によれば、工事の進捗は以下の通りである 8 。
- 天正十三年(1585年) :築城工事が開始される。
- 天正十五年(1587年) :本丸を囲む堀が完成。その翌月には、二の丸の石垣も完成する。
- 天正十六年(1588年)3月頃 :城の象徴である天守閣の工事が着手される。
家忠は、当時の築城が「戦争と同じ」であり、昼夜を問わず進められる壮絶な突貫工事であったと記している 8 。そして、天正十七年(1589年)、天守閣を含む城の主要部分がついに完成した 2 。この時、家康は48歳であった。
1.3. 築城期の家康と秀吉の関係性
この築城が行われた時期は、家康と豊臣秀吉の関係が劇的に変化する、極めて重要な政治的過渡期であった。築城が開始された天正十三年(1585年)時点では、家康は小牧・長久手の戦いを経て、なお秀吉と対峙する独立大名であった。しかし、翌天正十四年(1586年)、家康は大坂城へ上洛して秀吉に臣従の意を示し、豊臣政権の一翼を担うことになる。この時、家康は権中納言に任官されており、これ以降、彼の駿府城は名実ともに「中納言邸」となった 3 。
家康の臣従後、駿府城の築城は本格化したと見られる。この過程において、秀吉が深く関与していた可能性が指摘されている。秀吉は、臣下の礼をとった家康に対し、豊臣政権の権威の象徴である金箔瓦の使用をあえて許可したのではないか、という説である 3 。これは、家康を豊臣政権の一員として厚遇する一方で、その強大な経済力や動員力を自らの管理下に置こうとする、秀吉の巧みな政治戦略の表れと解釈できる。
さらに、秀吉の視点に立てば、この築城には別の戦略的意図も含まれていた。当時、秀吉は関東に勢力を張る北条氏を次の標的と定めていた。その北条氏と隣接する駿河の地に、最大の実力者である家康が巨大な城を築くことは、対北条氏の最前線拠点を整備するという意味で、秀吉の天下統一事業にとっても好都合だったのである 3 。家康の築城は、家康自身の領国経営のためであると同時に、豊臣政権の東方戦略の一環でもあったという、二重の性格を帯びていたのだ。
1.4. 「天正期家康天守」の構造と特徴
この時期に家康が築いた駿府城は、現在の駿府城公園にあたる二ノ丸までの範囲で構成されていたと考えられている 11 。石垣の工法は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」と呼ばれる、当時の標準的な技術が用いられた 11 。
天守の形態については、『家忠日記』の記述に加え、後の発掘調査で天守台の東側に小天守台の遺構が発見されたことから、天守と小天守が渡櫓で連結された「連結式天守」であった可能性が極めて高い 3 。これは、当時の城郭建築の中でも先進的な形態であり、家康の権勢を誇示するに足る壮麗なものであったと推測される。この壮大な城の完成が、皮肉にも家康自身を駿府から遠ざける一因となった。完成した城が可視化した家康の強大な力は、天下人秀吉の警戒心を刺激し、次なる政治的決断を促すことになるのである。
第二章:激動の天正十八年(1590) ― 支配者の交代
天正十七年(1589年)に完成した壮麗な駿府城であったが、徳川家康がその主であった期間は、驚くほど短かった。城の完成翌年、天正十八年(1590年)に日本の政治地図を塗り替える大事件が起こり、駿府の運命もまた、天下の奔流に飲み込まれていく。
2.1. 小田原征伐と兵站拠点・駿府
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東に覇を唱える北条氏政・氏直親子を討伐するため、20万を超える大軍を動員した。これが小田原征伐である。この空前の大事業において、完成したばかりの駿府城は、東海道の要衝に位置する地の利から、豊臣軍全体の兵站基地として、また徳川軍の出撃拠点として極めて重要な役割を果たした 3 。城内には大量の兵糧米が備蓄され、多くの兵船が集結した記録が残っており、駿府が天下分け目の戦いを支える一大軍事拠点として機能していたことがわかる 15 。
2.2. 関東移封 ― 秀吉の深謀
小田原城が陥落し、北条氏が滅亡すると、秀吉は戦後処理として大規模な領地の再編、すなわち「国替え」を断行する。その最大の眼目が、徳川家康の処遇であった。秀吉は、戦功への恩賞として、家康に北条氏の旧領であった関八州(現在の関東地方一円)を与える代わりに、先祖代々の地である三河を含む東海五カ国の領地を召し上げるという、事実上の移封を命じたのである 1 。
この決定の裏にある秀吉の政治的意図については、歴史家の間でも様々な解釈がなされている。
第一に、 勢力削減・弱体化を狙ったとする説 である。家康を先祖伝来の地盤から引き離すことで、三河武士団の強固な結束を弱め、統治基盤を揺るがす狙いがあったとする見方だ 17 。また、降伏したばかりの北条氏旧臣が多数存在する関東の統治は、一揆などの反乱リスクを伴う困難な任務であり、家康にその厄介事を押し付けることで、その力を削ごうとしたという解釈も成り立つ 18 。
第二に、 戦略的配置・信頼の証であったとする説 である。豊臣政権にとって、平定されたばかりの関東、そしてその先に広がる東北地方は、依然として不安定な地域であった。この広大な地域の鎮撫と安定化という重責を、政権内で最も実力と統治能力を持つ家康に委ねたのだとする見方である 20 。これは家康を左遷したのではなく、むしろ豊臣政権の東の守りを託すという、最大の信頼の表れであったと解釈される 21 。
第三に、 政権中枢からの物理的な隔離を目的とした説 である。単純に、豊臣政権にとって最大の潜在的脅威である家康を、政治の中心地である京・大坂から物理的に遠ざけておくことが、政権の安定にとって最も重要であったとする考え方だ 18 。
これらの説は相互に排他的なものではなく、秀吉の決定は、これら複数の意図が複雑に絡み合った、高度な政治的判断であったと考えるのが最も妥当であろう。家康の力を認め、その能力を利用しつつも、常に警戒を怠らず、巧みにコントロールしようとする天下人・秀吉の深謀遠慮がそこにはあった。
2.3. 駿府城明け渡しと中村一氏の入城
天下人の命令は絶対であった。家康はこの移封命令を受諾し、わずか一年しか居城としなかった駿府城を明け渡し、未開の地であった江戸へと向かう。
当初、家康の旧領である駿河・遠江には、秀吉の甥であり、織田信長の次男である織田信雄が入る予定であった。しかし、信雄がこの移封を頑なに拒否したため、秀吉の怒りを買い改易されてしまう 3 。この予期せぬ事態を受け、秀吉は駿河府中に、自らの子飼いの武将である中村一氏を14万5千石で配置することを決定した 4 。この歴史の偶然ともいえる出来事が、結果として駿府を豊臣政権の直接的な管理下に置くことを決定づけた。もし信雄が移封を受け入れていれば、駿府城は織田家の城となり、その後の歴史は大きく異なっていたであろう。秀吉の腹心である中村一氏が城主となったことで、駿府城は、関東の徳川家康を監視・牽制する、豊臣政権の最重要戦略拠点としての性格を鮮明に帯びることになったのである。
第三章:豊臣期駿府城の実像 ― 中村一氏による「整備」の実態
天正十八年(1590年)、徳川家康に代わって駿府城の新たな主となった中村一氏。彼がこの地で行った「整備」こそが、1590年代の駿府における最大の出来事であった。そしてその実態は、近年の考古学的発見によって、従来の想像を遥かに超える、壮大かつ政治的なものであったことが明らかになりつつある。
3.1. 新城主・中村一氏
中村一氏(通称:孫平次)は、その出自については尾張中村や近江甲賀など諸説あるが、早くから羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、その側近として頭角を現した、いわゆる「子飼い」の武将である 23 。天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いなどで武功を挙げ、秀吉の信頼を得て、和泉岸和田城主、近江水口城主などを歴任した 22 。秀吉没後には、生前の秀吉によって豊臣政権の重鎮として堀尾吉晴、生駒親正と共に三中老の一人に任じられたとされる有力大名であった 23 。彼が駿府城主に抜擢されたことは、豊臣政権がこの地をいかに重要視していたかを物語っている。
3.2. 中村氏の駿河統治
駿河一国を与えられた中村一氏は、領主として検地を実施し、職人や交通の管理を行うなど、領国経営に着手した 25 。しかし、一氏自身は豊臣秀次付きの武将として、あるいは文禄・慶長の役への従軍などで、駿府を離れて在京・在陣することが多かった。そのため、実際の領国運営は、一氏の妹婿であり宿老(家老筆頭)であった横田村詮(よこた むらのり)が中心となって担っていた 25 。村詮は極めて有能な行政官僚であり、彼が領国統治のために発給した文書は100点以上現存している 25 。このことは、中村氏による駿河統治が、不在がちな当主に代わって、有能な家臣団による官僚的なシステムによって支えられていたことを示唆している 26 。
3.3. 【核心】考古学が明かす「整備」の真相 ― 権力の上書き
中村一氏による駿府城の「整備」は、長らく文献史料が乏しいため、その詳細は謎に包まれていた。しかし、平成後期から令和にかけて行われた駿府城跡天守台の発掘調査は、その実態を劇的に明らかにした。それは、家康の城を部分的に修繕するような生易しいものではなく、前任者の痕跡を意図的に消し去り、全く新しい「豊臣の城」をその上に築き上げるという、壮大な「権力の上書き」作業であった。
意図的な破壊と埋没
発掘調査が明らかにした最も衝撃的な事実は、中村氏が、家康が築いた天正期の天守台を 大半破壊し、完全に埋め戻していた ことであった 28 。建築の合理性から考えれば、既存の強固な基礎を再利用する方が遥かに効率的である。それを敢えて破壊し、埋没させるという非合理的な行為は、そこに建築以上の、強い政治的・象徴的な意図があったことを示唆している。これは、駿府の地から「徳川の記憶」を物理的に消し去り、ここが今や豊臣の支配地であることを天下に示すための、一種の儀式であったと解釈できる。
豊臣期天守台の威容
家康の天守台跡の上に新たに築かれた「豊臣期天守台」は、南北約37メートル、東西約33メートルという、当時の日本の城郭の中でも最大級の規模を誇るものであった 13 。石垣は家康時代と同じく野面積みであったが、その石材には豊臣期大坂城の石垣にも匹敵するほどの巨大なものが含まれており、豊臣政権が持つ圧倒的な築城技術と動員力を誇示するものであった 9 。この巨大な天守台は、東の関八州に座する徳川家康を、物理的にも心理的にも圧倒する威容を放っていたに違いない。
金箔瓦という豊臣の刻印
この豊臣期天守台をさらに特徴づけるのが、発掘調査で330点以上も出土した金箔瓦の存在である 29 。金箔瓦は、織田信長の安土城で初めて用いられ、豊臣秀吉が大坂城や聚楽第、伏見城などで多用したことで知られる、豊臣政権の富と権威の象徴であった 31 。駿府城の天守が、陽光を浴びて黄金に輝く金箔瓦で葺かれていたという事実は、この城が紛れもなく「豊臣の城」であり、秀吉の威光が及ぶ地であったことを何よりも雄弁に物語っている 29 。
金箔瓦の文様や技法には、興味深い点が見られる。駿府城出土の瓦は、文様の凹んだ部分に金箔が施されているものが多く、これは信長の安土城の様式に近いとされる。一方で、秀吉が直接築いた聚楽第や伏見城では、文様の凸部分に金箔を施すのが主流であった 33 。この違いから、様々な解釈が生まれているが、いずれにせよ、金箔瓦の使用そのものが秀吉の許可なくしては不可能であったことを考えれば、駿府城が豊臣政権の強い影響下、あるいは直接的な技術支援のもとに改修されたことは疑いようがない 3 。中村一氏によるこの大普請は、単なる一城主の事業ではなく、豊臣政権による国家的なプロジェクトの一環だったのである。
第四章:時系列で再構築する1590年代の駿府
利用者様の「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」というご要望に応えるため、この章では1590年代の駿府で起こった出来事を、徳川家康の動向や豊臣政権全体の動きと並行して追跡する年表を提示する。この表は、駿府という一つの舞台で繰り広げられた出来事が、いかに天下の趨勢と密接に連動していたか、そのダイナミズムを立体的に理解するための一助となるであろう。地方の城郭の変遷が、そのまま中央の政治情勢を映す鏡であったことが見て取れるはずである。
駿府城と天下の動向(1590-1600)
西暦/和暦 |
駿府での出来事(城郭・統治) |
徳川家康の動向 |
豊臣政権の主要動向 |
1590/天正18 |
8月、中村一氏が駿河府中14万5千石の城主となる 1 。家康時代の城郭を破却し、豊臣様式の城郭への大改修(天守台の再構築、金箔瓦の使用など)を開始したと推定される。 |
関東移封の命を受け、8月1日に江戸城へ入る 16 。広大な関八州の領国経営と、江戸の都市開発に着手する。 |
7月、小田原征伐により北条氏を滅ぼし、天下統一を達成。続いて奥州仕置を行い、国内を完全に平定する。 |
1591/天正19 |
宿老・横田村詮らによる本格的な領国経営が展開される 25 。駿河国内の検地などを実施したと考えられる。 |
江戸城の本丸・二ノ丸の普請を進めるとともに、城下町の整備を推進。家臣団の知行割(領地再配分)を行う。 |
豊臣秀次に関白職を譲る。自らは太閤となる。茶頭・千利休に切腹を命じ、政権内の緊張が高まる。 |
1592/文禄元 |
城主・中村一氏は、豊臣軍の一員として文禄の役に従軍し、朝鮮へ渡海する。 |
秀吉の命令により、肥前名護屋城に参陣。江戸から遠く離れた地で、軍役を務める。 |
文禄の役(第一次朝鮮出兵)を開始。全国の大名を動員し、朝鮮半島へ侵攻する。 |
1593/文禄2 |
留守中の駿府は、横田村詮を中心とする家臣団が統治を維持する 25 。 |
引き続き名護屋城に在陣。 |
8月、豊臣秀頼が大坂城で誕生。豊臣政権の後継者問題が新たな局面を迎える。 |
1595/文禄4 |
中村一氏は駿河国内の蔵入地(豊臣家直轄地)の代官も兼務し、駿河一国における豊臣政権の支配を強化する 23 。 |
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7月、関白・豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられ切腹。その妻子も処刑される(秀次事件)。聚楽第は破却される。 |
1597/慶長2 |
|
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慶長の役(第二次朝鮮出兵)を開始。再び大名を動員し、朝鮮半島へ侵攻する。 |
1598/慶長3 |
中村一氏、三中老の一人に任命される 23 。豊臣政権内での地位を確固たるものとする。 |
秀吉の死後、五大老筆頭としての影響力を強め、政権の主導権を掌握しようと動く。 |
8月18日、太閤・豊臣秀吉が伏見城で死去。幼い秀頼を補佐するため、五大老・五奉行による集団指導体制が発足する。 |
1599/慶長4 |
|
家康、大坂城西の丸に入り、事実上の最高権力者として政務を執る。五大老の一人・前田利家の死後、石田三成ら反徳川派との対立が激化する。 |
|
1600/慶長5 |
7月17日、城主・中村一氏が関ヶ原の戦いの直前に病死 22 。家督は長男・一忠が継ぎ、中村家は東軍(家康方)に与することを決定する。 |
会津の上杉景勝討伐のため出陣。その隙に石田三成らが挙兵したため、軍を西へ返す。9月15日、関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、天下の実権を掌握する。 |
石田三成らが家康の専横を糾弾し、毛利輝元を総大将として挙兵。関ヶ原の戦いで西軍は一日で壊滅する。 |
第五章:豊臣期駿府の終焉と、歴史の連続性
1590年代を通じて、駿府は豊臣政権の東方における重要拠点として機能した。しかし、その時代の終わりは、天下の趨勢の変化とともに、あまりにも唐突に訪れる。城主・中村家の運命と、駿府城そのものの変貌は、豊臣の世の終焉と徳川の時代の到来を象徴する出来事であった。
5.1. 関ヶ原前夜の決断と城主の死
慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死は、政権内に深刻な権力闘争を引き起こした。五大老筆頭の徳川家康と、五奉行筆頭の石田三成の対立が先鋭化する中、全国の大名はどちらに与するか、重大な決断を迫られた。三中老の一人であった中村一氏は、家老・横田村詮らの進言を受け、豊臣恩顧の大名でありながら、次代の覇者として家康に与することを決断する 34 。
しかし、運命は皮肉であった。天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いを目前に控えた慶長五年(1600年)7月17日、城主・中村一氏は病のためにこの世を去ってしまう 22 。中村家の軍勢は、一氏の遺志を継ぎ、弟の中村一栄や嫡男の中村一忠が率いて東軍に参加し、美濃における前哨戦などで戦功を挙げた 23 。
5.2. 中村家の転封と断絶
関ヶ原の戦いが東軍の圧勝に終わると、中村家はその功績を認められ、従来の駿河14万5千石から、伯耆米子17万5千石へと加増移封された 23 。これは一見すると栄転であったが、結果として中村家の悲劇の序章となる。
若くして大藩の主となった中村一忠は、父・一氏が絶大な信頼を寄せていた後見役の横田村詮の辣腕を妬む側近の讒言に惑わされ、慶長八年(1603年)、この有能な家老を自らの手で誅殺するという暴挙に出てしまう 34 。このお家騒動は徳川家康の激怒を買い、一忠は厳しく咎められた。父が築いた有能な家臣団を自ら破壊した一忠は、領国経営を軌道に乗せることができず、慶長十四年(1609年)、わずか20歳で急死した 23 。彼には跡継ぎがおらず、中村家は江戸幕府によって改易(所領没収)を命じられ、豊臣子飼いの名門は、わずか二代で歴史の舞台から姿を消したのである 24 。
5.3. 家康の帰還と「大御所」政治
一方、天下人となった徳川家康は、慶長八年(1603年)に征夷大将軍に就任し江戸幕府を開いた後、わずか2年後の慶長十年(1605年)に将軍職を三男・秀忠に譲る 1 。そして慶長十二年(1607年)、家康は「大御所」として、かつて自らが拠点とした駿府へと帰還した 1 。江戸の将軍・秀忠が公式な統治者である一方、駿府の大御所・家康が実質的な最高権力者として君臨する、いわゆる「大御所政治」の始まりであった 5 。駿府は再び、日本の政治・外交の中枢として、未曾有の繁栄を迎えることになる。
5.4. 慶長期大改修 ― 豊臣時代の痕跡の消去
駿府に復帰した家康が最初に着手した大事業が、駿府城の大規模な改修であった。これは、全国の大名に普請を割り当てる「天下普請」として行われた、国家的なプロジェクトであった 1 。この大改修によって、城域は三ノ丸まで拡張され、全く新しい壮大な城郭へと生まれ変わった 11 。
この時、家康は、かつて中村一氏が築いた豊臣期の天守台を完全に埋め戻し、その上に、南北約68メートル、東西約61メートルという、それを遥かに凌駕する日本史上最大級の天守台を築かせた 30 。豊臣時代の金箔瓦も再利用されることなく、細かく砕かれて地中に廃棄された 28 。この行為は、単なる城の拡張や改築ではない。それは、1590年代という「豊臣の時代」の記憶を駿府の地から物理的に、そして完全に消し去り、徳川による新たな泰平の世の到来を天下に宣言するための、極めて象徴的な行為であった。徳川の世の始まりは、豊臣の時代の痕跡の抹消という形で、この駿府の地から宣言されたのである 41 。
数百年後、この徳川の石垣の下から、豊臣時代の金箔瓦が発見されるまで、駿府における「空白の10年」は、歴史の地層の奥深くに眠り続けることとなった。
総括:駿府城から見る天下の趨勢
本報告書は、1590年代における「駿府中納言邸整備」という事象について、詳細な調査と分析を行ってきた。その結論として、この時期の駿府城における出来事は、利用者様の当初の認識であった「家康の拠点整備」ではなく、正しくは「豊臣系大名・中村一氏による、対徳川を意識した戦略的拠点への城郭改修」であったと断定できる。
この「整備」は、徳川家康が築いた最初の天守台を物理的に破壊・埋没させ、その上に豊臣政権の権威を象徴する壮大な天守台と金箔瓦の天守を新たに築くという、極めて政治色の濃い「上書き」行為であった。それは、戦国末期の巨大な権力のせめぎ合いが、城郭という物的な媒体を通して繰り広げられた「記憶の闘争」に他ならない。
駿府城の天守台跡の地下に眠る、二つの時代の石垣。それは、徳川の時代から豊臣の時代へ、そして再び徳川の時代へと権力が移り変わっていった、戦国末期の激動の歴史そのものを体現する地層である。家康が築き、秀吉(中村一氏)が上書きし、そして再び家康が上書きしたこの城の変遷は、天下の趨勢という大きな歴史のうねりと完全に同期している。
一つの城の運命を丹念に追うことで、我々はより具体的かつ深く、時代の力学を理解することができる。そして、文献史料の空白を埋める近年の考古学的発見は、徳川史観によって覆い隠されてきた、石と瓦が語るもう一つの歴史の存在を我々に示してくれた。1590年代の駿府城は、天下統一後の豊臣政権が、その絶頂期においてどのような国家構想を描き、最大のライバルとどう対峙したかを物語る、第一級の歴史遺産なのである。
引用文献
- 駿府城公園城遺構案内板 解説(日本語・外国語) - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s005255.html
- 駿府城~静岡県静岡市葵区~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro98.html
- 【静岡県】駿府城の歴史 今川から豊臣、そして徳川の城へと変貌 ... https://sengoku-his.com/1916
- 駿府城の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド名古屋・丸の内 別館 https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/sunpujo/
- 超入門! お城セミナー 第131回【武将】徳川家康が住んでいたお城ってどこにあったの? - 城びと https://shirobito.jp/article/1746
- 松平忠輝の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92708/
- 松平家忠の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92706/
- 付録 - 駿府城の現状 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/12_03.htm
- 家康が築いた駿府城の発掘現場で400年前に想いを馳せる - note https://note.com/chakabe_okb/n/nf6229c99fe1a
- 徳川家康を天正十九年に「藤原家康」と記す史料の紹介 https://www.okuraken.or.jp/digitalarchive/commentary/item/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BC%9D%E4%B9%85%E5%BD%A6%E3%80%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%82%92%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%98%E3%81%99%E5%8F%B2%E6%96%99%E3%81%AE%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%80%8D.pdf
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- 慶長期に家康が築いた天守台、天正期に秀吉が築かせた天守台。同時に見学できます。 https://sumpuwave.com/%E6%85%B6%E9%95%B7%E6%9C%9F%E3%81%AB%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%8C%E7%AF%89%E3%81%84%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%95%E3%81%AE%E5%A4%A9%E5%AE%88%E5%8F%B0%E3%80%81/
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- 三枚橋城主中村一栄関係の書状 静岡市が発見して購入 沼津の郷土史にも重要な価値(沼朝元旦号) - 人文パイプぶろぐ http://jinbunpaipu.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
- 駿府城公園 概要|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R3-00071.html
- まだある、家康公の魅力 - 家康公の駿府大御所とは?~駿府を選んだ目的は何か~ https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/08_06.htm
- 駿府城~大御所家康終焉の城~:静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012164.html
- 早わかり駿府城 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009498.html