最終更新日 2025-09-18

高山右近改宗(1564)

永禄七年、高山右近はキリスト教に改宗しジュストと名乗る。父友照も受洗。三好政権動乱期、信仰と生存戦略が交錯。キリシタン大名としての波乱の生涯の原点となる。
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永禄七年の転回点:高山右近の改宗、その政治的・宗教的背景とリアルタイムの再構築

序章:なぜ永禄七年(1564年)か

日本の戦国時代史において、特定の年が歴史の転換点として記憶されることがある。永禄七年(1564年)は、まさにそのような画期の一つであった。この年、摂津国の小領主の嫡男、高山彦五郎(後の右近)がキリスト教の洗礼を受け、「ジュスト」という名を授かった。この出来事は、単に一個人の信仰の選択に留まるものではない。それは、織田信長に先駆けて畿内を席巻した「最初の天下人」三好長慶の死によって生じた巨大な権力の真空と、大航海時代を経て日本に到達したキリスト教という新たな精神文化の潮流が、劇的に交差した一点で起きた象徴的な事象であった 1

本報告書は、この「高山右近改宗」という一点を深く掘り下げることを目的とする。しかし、その分析は個人の内面に留まらない。永禄七年前後の畿内における政治権力のダイナミックな移行と、キリスト教という新たな価値観の浸透が、如何に複雑に絡み合い、高山右近という一人の若武者の運命を、そして日本の歴史を形作っていったのかを解き明かす。

高山右近の改宗は、純粋な信仰心の発露であったと同時に、崩壊しつつある旧秩序(三好政権)から、未だ見えぬ新時代への移行期において、地方領主が自己のアイデンティティと生存戦略を模索した結果としての、極めて高度な「戦略的決断」であった可能性が浮かび上がる。三好長慶の死は、彼に連なる全ての家臣団にとって、主家の弱体化、ひいては自らの存亡の危機を意味した 3 。高山氏が直接仕えていた松永久秀自身が三好家中で複雑な立場にあったことは、高山氏の立場が如何に不安定であったかを物語っている 4 。このような政治的流動期において、既存の仏教勢力とは全く異なる世界的ネットワークと価値観を持つキリスト教に帰依することは、他の国人領主との差別化を図り、新たな庇護者との関係構築において有利に働く可能性を秘めていた。したがって、この改宗を理解するためには、戦国武将の生存戦略という冷徹な政治的文脈を避けて通ることはできない。

本報告書では、まず当時の畿内を覆っていた二つの大きな潮流、すなわち「三好政権の黄昏」と「キリスト教布教の黎明」を概観する。次いで、現存する記録を基に、高山父子が改宗に至るまでの過程を可能な限りリアルタイムに近い形で再構築する。最後に、この改宗がその後の高山氏の運命、そして戦国時代の歴史に与えた波紋と意義を考察する。永禄七年という一点を見つめることで、戦国という時代の複雑な相貌が、より鮮明に浮かび上がってくるであろう。

【表1】高山右近改宗に関わる主要人物一覧

人物名

立場・役職

本件における役割・関係性

高山 右近(彦五郎)

摂津国の国人領主・高山友照の嫡男

本報告書の中心人物。永禄7年(1564年)、12歳で受洗し、洗礼名「ジュスト」を授かる 2

高山 友照(飛騨守)

摂津国の国人領主、大和国沢城主

右近の父。松永久秀の配下。ロレンソ了斎に感化され、永禄6年(1563年)に受洗。洗礼名「ダリヨ」 4

三好 長慶

畿内の戦国大名、「最初の天下人」

畿内・四国13ヶ国を支配した最大勢力。永禄7年(1564年)に病没し、畿内の権力構造に激変をもたらす 1

松永 久秀

三好長慶の重臣

高山氏の直接の主君。伝統に囚われない革新的な人物で、三好家中で大きな影響力を持った 4

和田 惟政

室町幕府幕臣、後の摂津守護

永禄の変後、足利義昭を保護。織田信長の上洛後、高槻城主となり、高山氏の新たな主君となる 8

ガスパル・ヴィレラ

イエズス会宣教師(司祭)

ザビエルの後継者の一人。永禄3年(1560年)に将軍足利義輝から布教許可を得て、畿内での布教活動の礎を築く 10

ロレンソ 了斎

日本人修道士(イルマン)

元盲目の琵琶法師。ザビエルと出会い入信。卓越した弁舌で高山友照を改宗に導き、右近に洗礼を授けた 12

ルイス・フロイス

イエズス会宣教師(司祭)

永禄6年(1563年)に来日。後の『日本史』の著者であり、当時の畿内の状況や高山氏の動向を伝える貴重な記録を残す 14

足利 義輝

室町幕府第13代将軍

三好長慶と対立と和睦を繰り返す。キリスト教に好意的で、ヴィレラに布教を許可した。翌年、永禄の変で暗殺される 10

織田 信長

尾張の戦国大名

永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛。キリスト教を保護し、畿内の新たな支配者となる 14

第一章:動乱の畿内ー三好政権の黄昏

高山氏の決断を理解するためには、まず彼らが置かれていたマクロな政治環境、すなわち三好長慶によって築き上げられ、そして崩壊しつつあった巨大な権力構造の実態を把握する必要がある。永禄七年は、その構造が決定的な転換点を迎えた年であった。

第一節:最初の天下人・三好長慶の栄華と翳り

三好長慶は、阿波国の小笠原氏を祖とする三好家の当主として、主家である細川家を凌駕し、ついには室町幕府将軍・足利義輝を京都から追放するに至った 1 。彼は戦国時代において、将軍を傀儡とせず、自らの実力で首都・京都を支配した最初の武将であり、その勢力範囲は山城、大和、摂津、河内、和泉の五畿内に加え、阿波、淡路、讃岐など四国から近畿にまたがる13ヶ国に及んだ 6 。その規模は、同時代の武田信玄や上杉謙信をも上回るものであり、織田信長に先駆けた「最初の天下人」と評価されている 6

長慶の支配は、単なる軍事力に依存したものではなかった。彼は堺の会合衆(自治都市の有力商人)と緊密な関係を築き、経済の掌握にも努めた 7 。また、文化人としても知られ、飯盛城で催された連歌会は「飯盛千句」として記録に残るなど、その治世は文化的にも爛熟の様相を呈していた 1 。このように、三好政権は軍事・経済・文化の各方面において、旧来の室町幕府体制から脱却した先進的な中央政権としての性格を備えていたのである 15

しかし、その栄華は盤石ではなかった。長慶を支えた有能な弟たち、三好実休、安宅冬康、十河一存が相次いで世を去り、さらに嫡男であった義興までもが若くして病没したことで、政権の基盤は著しく揺らぎ始めた 1 。かつて鉄の結束を誇った三好一門に亀裂が生じ、長慶自身の心身にも深い翳りを落としていった。

第二節:永禄七年、巨星墜つ

そして永禄七年(1564年)、三好長慶は居城であった飯盛城(一説には若江城)にて、波乱に満ちた43年の生涯を閉じた 1 。この「最初の天下人」の死は、畿内に辛うじて保たれていた安定を完全に崩壊させる決定的な一撃となった。

長慶の後継者には甥の三好義継が立てられたが、彼はまだ若年であり、家中を統率する力はなかった 1 。政権の実権は、長慶の重臣であった松永久秀と、三好長逸、三好政康、岩成友通ら一門の宿老からなる「三好三人衆」の手に移る 7 。しかし、両者はやがて激しく対立し、三好家は深刻な内紛状態に陥った。この権力闘争の激化が、翌永禄八年(1565年)に将軍・足利義輝を殺害するという未曾有の凶行「永禄の変」へと繋がっていくのである 7 。長慶という絶対的な求心力を失った畿内は、再び混迷の渦へと呑み込まれていった。

第三節:高山氏の立ち位置

この巨大な権力構造の変動の只中に、高山友照・右近親子はいた。彼らは元々、摂津国・高山庄(現在の大阪府豊能町)を本拠とする国人領主であった 4 。友照の代に、三好長慶の最も信頼する重臣であり、自身も大和国を切り取るなど新興勢力として台頭していた松永久秀の配下となり、その功績によって大和国宇陀郡の沢城主に抜擢されていた 4

この事実は、高山氏が三好政権という巨大なピラミッドの末端に位置し、その中枢で起こる政変の波を直接的に被る、極めて不安定な立場にあったことを示している。彼らの運命は、直接の主君である松永久秀の動向に、そして久秀の運命は三好家中の権力闘争の帰趨に、固く結びつけられていた。

ここで注目すべきは、彼らの主君が松永久秀であったという点である。久秀は伝統的な価値観に囚われない、極めて革新的な思考の持ち主として知られる。高山友照が仕えていたのは、三好一門の中でも保守的な宿老たちではなく、新しい文化や価値観に対して比較的寛容であったであろう松永久秀であった 4 。主君がそのような気風の持ち主であったならば、その配下である高山氏が、異国の教えであるキリスト教に関心を持つことへの心理的な障壁は、他の多くの武将たちに比べて低かったと推察される。高山氏の改宗は、三好政権全体の気風というよりも、彼らが属していた「松永派」というミクロな派閥の革新的な気風に影響された側面があったのではないか。長慶の死が目前に迫り、誰もが次代の動向を固唾をのんで見守る中、高山氏は自らの拠って立つべき新たな価値観を模索し始めていたのである。

第二章:畿内におけるキリスト教布教の黎明

三好政権が内側から崩壊の兆しを見せていた頃、畿内社会にはもう一つの静かだが強力な潮流が流れ込みつつあった。それは、イエズス会宣教師たちによってもたらされたキリスト教の教えであった。高山氏が触れたこの「新しい教え」が、どのような人々によって、如何なる困難の中で伝えられていたのかを理解することは、彼らの決断の背景を知る上で不可欠である。

第一節:宣教師たちの挑戦

天文十八年(1549年)にフランシスコ・ザビエルが日本に到達して以降、キリスト教の布教は主に九州地方で進められていた。ザビエル自身も一度は上洛を試みたが、戦乱で荒廃した京都の惨状を見て布教を断念せざるを得なかった 18

しかし、その遺志は後継者たちに引き継がれた。ポルトガル人司祭ガスパル・ヴィレラは、永禄二年(1559年)に京都へ入り、困難な状況下で布教を開始した 11 。そして永禄三年(1560年)、彼は時の将軍・足利義輝への謁見を果たし、畿内での布教活動に対する公式な許可を得るという画期的な成功を収める 10

だが、将軍の許可を得たからといって、その道程が平坦になったわけではなかった。後に来日したルイス・フロイスが著した『日本史』によれば、ヴィレラの当初の生活は悲惨を極めた。異国人である彼らに住居を貸す者はおらず、床は土間で壁は芦を束ねただけの粗末な小屋に身を寄せ、絶えず民衆から小石や馬糞を投げつけられるような有様であったという 18 。特に、既得権益を脅かされることを恐れた仏僧たちからの抵抗は激しく、彼らは宣教師たちを「悪魔」と呼び、その教えが国を乱す邪法であると吹聴して回った 18

このような逆境の中、永禄六年(1563年)には、後に日本史研究における第一級の史料となる『日本史』を執筆するルイス・フロイスが来日し、畿内の布教活動に合流する 14 。彼らヨーロッパ人宣教師たちの不屈の熱意が、畿内におけるキリスト教の小さな灯火を守り続けていたのである。

第二節:異色の説教師、ロレンソ了斎

ヴィレラやフロイスら外国人宣教師の活動を、日本社会の内部から強力に支えた人物がいた。日本人修道士(イルマン)、ロレンソ了斎である 4 。彼の存在なくして、畿内、特に武士階級への布教の成功はあり得なかったであろう。

ロレンソは、極めて特異な経歴の持ち主であった。彼は生まれつき目が不自由で、かつては『平家物語』などを語り聞かせる盲目の琵琶法師として諸国を遍歴していた 13 。その旅の途中、山口でフランシスコ・ザビエル本人と運命的な出会いを果たし、その教えに深く感銘を受けてキリスト教徒となったのである 13

琵琶法師としての経験は、彼に二つの強力な武器を与えていた。一つは、日本の伝統文化、特に仏教や神道の教義に関する深い知識である。もう一つは、長年にわたって培われた、聴衆の心を引きつけて離さない卓越した弁舌の才であった 24 。彼は、ヨーロッパ人宣教師が直面した言語や文化の壁を軽々と乗り越えることができた。

畿内における初期キリスト教布教の成功は、ヨーロッパ人宣教師の熱意以上に、ロレンソ了斎のような「文化翻訳者」の存在に負うところが大きい。ヴィレラたちが異国の教えをそのまま伝えようとして反発を招いたのに対し、ロレンソは日本人の精神性や思考様式を熟知した上で、キリスト教の教えを効果的に語ることができた。彼が仏僧との公開討論において相手を論破できたのは、単にキリスト教の教義が優れていたからというだけでなく、彼が日本の宗教的・哲学的文脈の中で、キリスト教の論理を巧みに再構成し、提示する能力を持っていたからに他ならない 12 。高山友照のような教養ある武士がキリスト教に惹かれたのは、それが異国の奇妙な教えとしてではなく、既存の知の体系(仏教)を乗り越える、より普遍的な論理として提示されたからであった。そして、その重要な役割を担ったのが、盲目の元琵琶法師、ロレンソ了斎だったのである。

第三章:沢城の決断ー高山父子、改宗に至る時系列の再構築

畿内の政治と宗教が大きなうねりを見せる中、大和国・沢城において、歴史を動かす一つの決断が下されようとしていた。ここでは、永禄六年(1563年)から永禄七年(1564年)にかけての出来事を、現存する記録に基づき、可能な限り詳細な時系列で再構築し、高山父子の改宗の瞬間を追体験する。

【表2】永禄年間(1558年~1570年)における畿内主要年表

西暦/和暦

畿内の政治動向(三好・足利・織田家関連)

畿内の宗教動向(キリスト教関連)

高山氏の動向

1559/永禄2

-

ガスパル・ヴィレラ、入京し布教開始 18

(松永久秀の配下として活動)

1560/永禄3

-

ヴィレラ、将軍足利義輝より布教許可を得る 10

-

1562/永禄5

畠山氏・六角氏が三好長慶に蜂起(久米田の戦い) 3

-

-

1563/永禄6

三好長慶の嫡男・義興が病没 1

ルイス・フロイス来日、畿内で活動開始 14

高山友照、奈良にて受洗(ダリヨ) 5

1564/永禄7

三好長慶、飯盛城にて病没 1

-

高山右近、沢城にて受洗(ジュスト) 2

1565/永禄8

永禄の変。松永久秀・三好三人衆らが将軍足利義輝を殺害 7

-

-

1568/永禄11

織田信長、足利義昭を奉じて上洛。

-

和田惟政の配下となり、芥川山城を守る 9

1570/元亀1

-

-

-

発端:ロレンソ了斎との邂逅(1563年頃)

物語は、大和国沢城主であった高山友照が、ある宗論の場に立ち会ったことから始まる。それは、キリスト教を代表する日本人修道士ロレンソ了斎と、既存の仏教宗派の僧侶たちとの公開討論会であった 12

戦国の武士階級は、禅宗を中心に仏教への深い造詣を持つ者が多く、友照もその一人であったと考えられる 26 。彼は、異国の教えを説く盲目の説教師が、高名な僧侶たちを相手にどのような弁論を繰り広げるのか、知的な好奇心をもって見守っていたであろう。しかし、そこで展開された光景は、彼の予想を遥かに超えるものであった。ロレンソは、僧侶たちが次々と投げかける仏教教義に基づく難問に対し、臆することなく、明晰かつ整然とした論理をもってことごとく論破していったのである 12

友照が感銘を受けたのは、奇跡や呪術といった超自然的な力ではなく、純粋な「知の力」であった。仏教という巨大な知の体系に対して、全く異なる論理体系から挑み、それを凌駕してみせたロレンソの姿に、彼は新しい時代の到来を予感したのかもしれない。

決断:父ダリヨの誕生(1563年)

ロレンソの弁論に深く心を動かされた高山友照は、もはや躊躇しなかった。彼は自らキリスト教の教えを学び、その教義に帰依することを決意する。そして永禄六年(1563年)、友照は奈良において洗礼を受け、正式にキリスト教徒となった 5

彼に与えられた洗礼名は「ダリヨ(Dario)」であった 5 。これは単なる一個人の信仰告白ではなかった。高山家の当主が、一族の運命を背負って下した公式な決断であり、旧来の価値観との決別宣言でもあった。この決断は、やがて彼の愛する息子を、そして高山家そのものを、誰も予測し得なかった運命へと導いていくことになる。

継承:若きジュストの誕生(永禄七年・1564年)

父ダリヨの決断から約一年後、永禄七年(1564年)。奇しくも、畿内の巨星・三好長慶がその生涯を終えようとしていた、まさにその年に、歴史的な洗礼式が執り行われた。

  • 場所 : 大和国宇陀郡、高山氏の居城である沢城 2
  • 経緯 : 父・友照の強い勧めにより、当時12歳であった嫡男・彦五郎(後の右近)が洗礼を受けることとなった 2
  • 洗礼者 : 彦五郎に聖水を注ぎ、洗礼を授けたのは、父・友照を信仰に導いたロレンソ了斎その人であったと伝えられている 13
  • 洗礼名 : この時、彦五郎は「ジュスト(Justo)」という洗礼名を授かった 2

「ジュスト」とは、ラテン語で「正義の人」「義人」を意味する言葉である 12 。下剋上や裏切りが横行し、力こそが全てであった戦国の世において、自らの後継者に対し「正義の人」という名を授ける行為は、極めて意識的かつ象徴的な意味を持っていた。それは、武勇や謀略といった既存の武家の価値観に加え、キリスト教的な「正義」や「義」という普遍的な徳目を、これからの高山家が拠って立つべき新たな柱として据えようとする、父・友照の強い意志の表れであった。この名は、少年右近のアイデンティティ形成に決定的な影響を与え、彼の生涯を貫く行動規範となった。後の彼が、信仰のために大名の地位や財産を躊躇なく捨て去るという究極の選択を下した時、その根底には、12歳の時に沢城で授かった「ジュスト」という名の重みがあったのである。

一族の改宗:領主一家の共同体としての決断

この沢城での洗礼は、右近一人のものではなかった。記録によれば、友照の妻子や主要な家臣たちも同時に洗礼を受け、その総数は53名に上ったという 12 。これは、高山家の改宗が、領主とその家族、そして家臣団が一体となった「家」単位での集団的な意思決定であったことを強く示唆している。戦国時代において、「家」の存続は何よりも優先されるべき課題であった。高山家のキリスト教への集団改宗は、来るべき動乱の時代を、新たな信仰と価値観の下で一丸となって乗り越えようとする、固い決意の表明だったのである。

第四章:改宗の波紋と歴史的意義

永禄七年(1564年)の沢城での決断は、単に高山家の内的な問題に留まらなかった。それは、その後の彼らの政治的運命を大きく左右し、戦国時代の宗教史に消えることのない足跡を残すことになった。

第一節:政治的立場への影響

改宗と時を同じくして、高山氏を取り巻く政治環境は激変した。三好長慶の死後、畿内は主導権を巡る内乱状態に陥る 7 。高山氏の主君であった松永久秀は、三好三人衆との権力闘争の末、三好家から離反していく。高山親子もまた、この流れの中で主家を離れ、新たな庇護者を模索せざるを得なくなった。

その好機は、永禄十一年(1568年)に訪れる。尾張の織田信長が、先の永禄の変で殺害された将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛したのである 5 。信長は畿内を平定すると、義昭の側近であった和田惟政を摂津守護に任命し、高槻城主とした 9 。この時、高山友照・右近親子は、惟政の配下として召し抱えられ、摂津の要衝である芥川山城の守備を任されることになった 17

この主君の乗り換えの過程において、彼らが「キリシタン」であったという事実は、決して障害にはならなかった。むしろ、伝統的な仏教勢力と対立していた信長や、キリスト教に好意的であったとされる和田惟政にとって、彼らの信仰は一種の先進性の証として、好意的に受け止められた可能性がある。

この一連の動きは、戦国時代後期の武家の主従関係が、旧来の地縁や血縁に基づく封建的なものから、個人の能力や持つ「価値」によって再編されていく過渡期の典型例と言える。高山氏は、三好家の衰退という危機を乗り切り、より有力な庇護者(和田惟政、そしてその背後にいる織田信長)へと乗り換えることに成功した。その過程で、彼らの「キリシタン」という属性が、他者との差別化要因、すなわち信長のような新しい価値観を持つ権力者にとっての「有用な人材」としての証明になったとすれば、それは信仰が「政治的資本」として機能したことを意味する。これは、中世的な主従関係が崩れ、より実利的で流動的な人間関係へと移行していく時代の特徴を色濃く反映している。

第二節:キリシタン大名・高山右近の原点

永禄七年(1564年)の沢城での受洗は、言うまでもなく、後の「キリシタン大名・高山右近」の全ての原点となった。天正元年(1573年)、主君であった和田惟政の子・惟長との争いに勝利した右近は、21歳の若さで高槻城主となる 5

城主となった右近は、その権力を信仰の実現のために用いた。彼は領内においてキリスト教を厚く保護し、城下には20もの教会やセミナリオ(神学校)を建設した 2 。その結果、当時の高槻の領民2万5千人のうち、7割以上にあたる1万8千人がキリスト教の信者になったと記録されており、高槻は畿内におけるキリスト教布教の一大拠点へと変貌を遂げた 31

この徹底した施政は、彼が12歳の時に授かった「ジュスト(正義の人)」という名を、文字通り体現しようとするものであった。そして、その信仰の篤さは、天正十五年(1587年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を発した際に、究極の形で試されることになる。秀吉から棄教を迫られた右近は、「たとえ全世界を与えられようとも(信仰を捨てることは)致さぬ」と述べ、播磨明石6万石の大名という地位を潔く捨てて信仰を貫いた 4 。このゆるぎない決断の根源は、遠く永禄七年の沢城での原体験に深く根差しているのである。

第三節:戦国時代における信仰の意味

なぜ高山氏をはじめとする戦国の武将たちは、異国の教えであるキリスト教にこれほどまでに強く惹かれたのであろうか。その理由は複合的である。

第一に、精神的な救済への渇望が挙げられる。明日の生死も知れぬ、常に死と隣り合わせの日常を送る武将たちにとって、仏教が説く輪廻転生や因果応報の理法とは異なる、唯一絶対の神による個人の魂の救済と、「天国」という明確な死後の世界の概念は、大きな精神的支柱となり得た 32

第二に、知的好奇心と先進文化への憧れである。宣教師たちは、宗教だけでなく、天文学、医学、地理学といった当時のヨーロッパの最新知識や、活版印刷、火器などの新技術をもたらした。好奇心旺盛な戦国武将たちにとって、彼らは新しい世界の扉を開いてくれる存在であった 15

高山右近の改宗は、このような時代背景の中で、個人的な信仰と、家の存続をかけた政治的判断、そして新しい文化への知的好奇心とが複雑に絡み合った結果として生じた、必然の出来事であったと言えるだろう。

結論:必然の邂逅

永禄七年(1564年)における高山右近の改宗は、決して歴史の偶然ではない。それは、畿内における旧権威、すなわち足利幕府とそれを形骸化させた三好政権が崩壊し、新たな秩序が模索される政治的転換期と、大航海時代というグローバルな潮流によってもたらされたキリスト教という異文化の伝播という、二つの巨大な歴史の奔流が交差した一点で起きた、ある種の必然的な邂逅であった。

三好長慶の死が畿内にもたらした権力の空白は、高山氏のような国人領主に、旧来の主従関係からの脱却と、新たな生き残りの道を模索させた。時を同じくして、ガスパル・ヴィレラやロレンソ了斎らの粘り強い布教活動は、戦乱に疲弊した人々の心に、仏教とは異なる新たな救済の道を示した。この二つのベクトルが交わったのが、大和国・沢城であった。

この永禄七年の若き「ジュスト」の誕生は、一個人の人生を根底から変えただけではない。それは、高槻を一大キリスト教拠点へと変貌させ、織田信長、豊臣秀吉といった天下人の下でキリシタン大名として活躍し、最後には信仰のために全てを捨てて国外追放の憂き目に遭うという、高山右近の波乱の生涯の序章であった。そして、彼の生涯は、その後の日本の宗教史、特に江戸幕府による苛烈な禁教政策と、それに連なる潜伏キリシタンの長く複雑な物語へと、直接的に繋がっていくのである。永禄七年の一つの洗礼は、かくも大きな歴史の扉を開いたのであった。

引用文献

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  2. 高山右近を訪ねて | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ https://www.takatsuki-kankou.org/takayama-ukon/
  3. 10分で読める歴史と観光の繋がり 真の敵は足利将軍だった。将軍義輝と三好長慶の対立、織田信長が掲げた天下布武 ゆかりの初代二条城、小田原城、岐阜城、紀州根来寺 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/12/10/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%80%80%E7%9C%9F%E3%81%AE%E6%95%B5%E3%81%AF%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82%E4%B8%89/
  4. 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/005.html
  5. 大阪府高槻市 キリシタン大名高山右近ゆかりの地 | 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/timetrip/journey/sengoku/rekishi-takatsuki2/
  6. 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/01.html
  7. 三好長慶(みよし ながよし) 拙者の履歴書 Vol.64~主家を超えた ... https://note.com/digitaljokers/n/ndb973b22096c
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  10. 第百七十回 京都とキリスト教|京都ツウのススメ - 京阪電車 https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu202210.html
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  31. キリストへの信仰に生き、国外追放となったキリシタン大名【高山右近】の人生【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/38419
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