最終更新日 2025-10-02

高岡町人町形成(1609)

1609年、前田利長は徳川家康の警戒をかわし、前田家存続のため高岡に新城と町人町を形成。富山城焼失を契機に、軍事・政治・経済の戦略的拠点として計画され、加賀藩繁栄の礎を築いた。
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戦国の残り火と泰平への布石:高岡町人町形成(1609年)の戦略的深層分析

序論:慶長十四年の意味―泰平への過渡期における高岡誕生の意義

慶長14年(1609年)の「高岡町人町形成」は、単なる一地方都市の誕生として語られるべき事象ではない。それは、関ヶ原の戦いが終結し、徳川の覇権が確立されつつも、大坂城には豊臣秀頼が依然として君臨し、天下が未だ完全な泰平には至っていなかった「戦国の残り火」が燻る時代に、外様大名筆頭たる加賀前田家がその存亡をかけて打った、極めて戦略的な一手であった。この報告書は、高岡の開町が、偶発的な災害復旧という表層的な理由の裏で、いかに緻密な政治的、軍事的、そして経済的な計算に基づいて遂行されたかを、戦国時代という視座から徹底的に解明するものである。

関ヶ原の戦い後の日本は、徳川家康が実質的な支配者として君臨する一方で、依然として豊臣家を支持する勢力も存在し、諸大名の去就が完全に定まったとは言えない、いわば「偽りの泰平」とも呼べる過渡期にあった。この不安定な情勢下で、加賀前田家は特異な立場に置かれていた。豊臣政権下で五大老の重鎮であった前田利家の遺領を継ぎ、その石高は徳川御三家に準ずる120万石にも達していた 1 。この巨大な勢力は、徳川家康にとって潜在的な脅威以外の何物でもなく、前田家は常に厳しい警戒と猜疑の目に晒されることとなった 2

利家の死後、息子の前田利長は家康から謀反の嫌疑をかけられ、加賀征伐という絶体絶命の危機に瀕した 3 。この危機は、母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで辛うじて回避されたが、徳川家との間の根深い緊張関係が解消されたわけではなかった 5 。利長の若年での隠居も、この緊張を緩和するための苦肉の策であった 2 。このような背景の中で発生した慶長14年の富山城焼失は、単なる不運な事故ではなかった。それは、前田家が長年抱えてきた「徳川リスク」に対し、新たな戦略的拠点を築くための絶好の口実となったのである。

したがって、前田利長による高岡築城とそれに伴う町人町の形成は、隠居という名目の下に、軍事的防衛、政治的自立性の確保、そして将来を見据えた経済基盤の構築という、多層的な意図が隠された高度な戦略行動であった。本報告書は、この高岡開町という事象を時系列で詳細に追いながら、その背後にあった前田家の深謀遠慮を明らかにしていく。

第一章:前田利長の決断―高岡築城に至る政治的・軍事的背景

高岡築城という一大事業は、前田利長個人の、そして前田家全体の存続をかけた、極めて緊迫した政治的駆け引きの末に下された決断であった。その背景には、父・利家の死から続く、徳川家康からの絶え間ない圧力と、それに対する利長の苦悩に満ちた対応の歴史が存在する。

利家死後の存亡の危機

慶長4年(1599年)、豊臣政権の重しであった父・前田利家が世を去ると、家督と五大老の職を継いだ利長は、直ちに存亡の危機に直面した 3 。天下統一への野心を露わにする徳川家康にとって、豊臣恩顧の最大大名である前田家は、その覇業における最大の障害であった。家康は、徳川家臣からの「前田利長に謀反の企てあり」という讒言を口実に、諸大名に加賀征伐の号令を発したのである 3

これは、前田家を武力で屈服させ、その巨大な力を削ごうとする家康の明確な意志の表れであった。絶体絶命の状況下で、利長は戦を回避するため、母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送るという苦渋の決断を下す 5 。これにより加賀征伐は中止され、前田家は滅亡の危機を免れた。しかし、この一件は、前田家が徳川家に対して絶対的な恭順の姿勢を取り続けなければならないという、厳しい現実を突きつけることとなり、以降の対徳川政策の基本姿勢を決定づけた。

関ヶ原の戦いと前田家の内部分裂

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、利長は東軍(徳川方)への加担を表明し、その忠誠を行動で示そうとした。しかし、ここで家中に再び激震が走る。利長の弟であり、能登七尾城主であった前田利政が、西軍に与したのである 5 。実際には、利政の妻子が石田三成の人質となっていたため、身動きが取れなかったという事情があったとされる 3

それでも、この弟の行動は、徳川方から前田家の忠誠心を疑われる格好の材料となり得た。戦後、利長は家康に対し、弟・利政の所領没収を自ら訴え出るという非情な措置を取らざるを得なかった 3 。これは、徳川家への忠誠に一点の曇りもないことを示すための徹底した姿勢であり、外様大名筆頭として生き残るために、肉親すら切り捨てなければならない前田家が置かれた立場の厳しさを物語っている。

「隠居」という名の戦略的後退

度重なる危機を乗り越えた利長であったが、徳川家からの猜疑の目は依然として厳しかった。慶長10年(1605年)、利長はわずか44歳という若さで家督を弟(養子)の利常に譲り、自身は富山城に隠居した 2 。表向きは、家康への敵意がないことを示すための政治的パフォーマンスであった 2

しかし、これは決して権力の放棄を意味するものではなかった。新藩主となった利常はまだ12歳であり、藩を統治する能力はなかった 2 。そのため、利長は「大御所」として後見役に回り、富山城から藩政の実権を握り続けるという「二元統治」体制を敷いたのである 6 。つまり、隠居とは、権力行使の形態を、徳川家から警戒されにくい形へと変化させるための戦略的偽装であった。

この一連の出来事は、利長の行動原理が一貫して「徳川家の猜疑心をいかに回避し、前田家を存続させるか」という点にあったことを示している。表向きは権力から退き、恭順を示す「守り」の姿勢を見せながら、その裏では、後見人として藩政を掌握し、来るべき有事に備えるという「攻め」の準備を怠らなかった。この二枚舌の戦略の集大成として計画されたのが、隠居城という名目を最大限に利用した、新たな軍事拠点「高岡城」の建設だったのである。

第二章:慶長十四年、事変の勃発と展開(時系列分析)

慶長14年(1609年)、前田利長の隠居生活と加賀藩の未来を大きく左右する一連の出来事が、矢継ぎ早に展開される。それは富山城の焼失に始まり、高岡という新たな都市の誕生へと繋がっていく、まさに激動の年であった。

【発端】 慶長14年(1609年)春頃:富山城、炎上

利長の隠居城であり、越中支配の拠点であった富山城が、原因不明の火災により焼失した 7 。これにより、利長の政務機能は完全に麻痺し、加賀藩は緊急事態に陥った。これが、全ての物語の引き金となる。

【応急措置】 直後:魚津城への一時退避

住まいと政庁を失った利長は、ひとまず越中東部の魚津城へと移り、臨時の拠点とした 7 。しかし、魚津は加賀・能登を含む広大な領国全体を統治するには地理的に偏っており、恒久的な拠点とはなり得なかった。新たな本拠地の選定と建設が、喫緊の課題として浮上した。

【新拠点選定と幕府への工作】 春~夏:関野台地の選定と築城許可

新城の建設地として、射水郡関野、現在の高岡市中心部にあたる台地が選定された。この地は、水陸交通の要衝であると同時に、防御にも適した戦略的要地であった 7 。しかし、江戸幕府体制下では、大名が許可なく城を築くことは固く禁じられていた。利長は、徳川家康・秀忠の幕府に対して正式に新城建設を申請し、あくまで幕府の権威を認める形で、その許可を取り付けることに成功した 8

【建設開始】 夏頃:空前絶後の突貫工事

幕府の許可が下りるや否や、利長は加賀・越中・能登の三国から約1万人の人夫を動員し、前代未聞の規模と速度で築城を開始した 7 。利長は、中国の古典『詩経』の一節「鳳凰鳴けり、彼の高き岡に」から引用し、この新たな土地を「高岡」と命名した。

この築城がいかに急務であったかは、数々の逸話が物語っている。利長自身が30通以上もの書状を書き、現場を厳しく督促した記録が残されている 7 。その背景には、大坂の豊臣家との間に日増しに高まる軍事的緊張感があり、有事の際に即応できる堅固な軍事拠点の確保が急がれていたからである 7 。工事を急ぐあまり、豊臣秀吉から拝領した伏見城の豊臣秀次邸の良材までもが転用され、さらには本丸の石垣が崩落する事故まで発生したという 7 。現場の切迫した状況が目に浮かぶようである。

【入城】 慶長14年9月13日:未完の城へ

築城開始からわずか数ヶ月後の9月13日、城がまだ完成していないにもかかわらず、利長は高岡城への入城を強行した 8 。この時、浅井左馬助を筆頭とする家臣団とその家族ら562人を引き連れていた 9 。これは、高岡が単なる隠居城ではなく、一定の軍事・政治機能を持つ拠点として、この日から正式に始動したことを意味する。

時を同じくして、富山・守山・木舟といった旧城下から630人余りの商工人が高岡へ移住を開始した 10 。城の建設と城下町の形成は、同時並行で進められていたのである。開町当初の人口は、武士・町人とその家族を合わせて約1,200戸、5,000人前後と推定されている 9 。ゼロから生まれた都市が、利長の強い意志のもと、驚異的なスピードでその形を成し始めていた。


【表1】高岡開町を巡る時系列表(慶長4年~元和元年)

西暦(和暦)

天下の動静(徳川・豊臣関係)

前田家の動向

高岡における事象

1599年(慶長4年)

家康、利長に謀反の嫌疑をかけ加賀征伐を計画

利家死去、利長が家督相続。母まつを江戸へ人質に送る

-

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。徳川方の勝利

利長は東軍に加担。弟・利政は西軍に与し、戦後改易

-

1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府

-

-

1605年(慶長10年)

徳川秀忠、二代将軍に就任

利長隠居、利常が家督相続。利長は富山城へ

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1609年(慶長14年)

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富山城焼失。利長は魚津城へ一時退避

幕府より築城許可。関野を高岡と命名、築城開始(夏)。利長入城(9月13日)

1611年(慶長16年)

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7人の鋳物師を招聘し、金屋町を創設

1614年(慶長19年)

大坂冬の陣 勃発

利長死去(5月20日)

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1615年(元和元年)

大坂夏の陣、豊臣家滅亡。一国一城令発布

-

高岡城、廃城となる

この時系列表は、高岡の誕生から廃城までの一連の出来事が、天下の情勢と前田家の戦略に常に密接に連動していたことを明確に示している。特に、利長の死、大坂の陣、そして一国一城令による高岡城の廃城という劇的な展開が、わずか6年という短い期間に凝縮されていることは、この都市が極めて激動の時代に翻弄されたことを強く印象付ける。


第三章:新城下町のグランドデザイン―都市計画と産業育成

前田利長が描いた高岡の未来図は、単なる軍事拠点に留まるものではなかった。築城当初から、持続可能な経済都市としての繁栄を見据えた、壮大なグランドデザインが存在していた。それは、堅固な城郭設計、合理的な町割り、そして大胆な産業育成策という三つの柱によって支えられていた。

城郭の設計思想―隠された要塞機能

高岡城の縄張(設計)については、当時、前田家に客将として身を寄せていたキリシタン大名・高山右近によるものという伝承が広く知られている 8 。しかし、近年の研究では、利長自身が築城や城下町造成のために記した30通以上の書状が発見されており、利長自らが設計を主導した可能性が高いと考えられている 7

その設計思想は、極めて軍事的なものであった。自然の地形と広大な水堀を巧みに利用し、「重ね馬出」と呼ばれる複数の防御施設を土橋で連結させる複雑な構造は、近世城郭の中でも特筆すべき防御力の高さを誇り、焼失した富山城を遥かに凌駕するものであった 7 。利長は、本拠地である金沢城が持つ地勢上の弱点を熟知しており、その欠点を完全に克服した難攻不落の城を高岡に築こうとしたのである 7 。これは、高岡が単なる隠居地ではなく、大坂方との有事の際には前田家の最終防衛ライン、あるいは反攻拠点としての役割を期待されていたことを強く示唆している。

町割り―経済を活性化させる都市インフラ

城下町の設計においても、利長の先見性が発揮された。町割りは、京都を模したとされる碁盤の目状(方格状)の区画整理が採用された 10 。これは、整然とした都市景観を生み出すだけでなく、物資の流通や管理を効率化し、商業活動を促進する効果があった。

特に注目すべきは、交通インフラに対する大胆な介入である。利長は、当時の物流の大動脈であった北陸道を、意図的に城下町の中心部を通るようにルート変更させた 1 。これにより、高岡は特別な政策を講じなくとも、人、物、そして情報が自然に集積する交通の結節点としての地位を確立した。これは、町の経済的繁栄をインフラレベルで担保する、極めて巧みな都市計画であった。城郭を中心に、南西に武家屋敷、その外側に町人地、さらに外縁部には寺社地を配置するというゾーニングも、防御と生活機能を両立させるための合理的な配置であった 9

大胆な人口誘致と産業振興策

都市の活力は「人」によってもたらされる。利長はこの本質を理解し、ゼロから町を立ち上げるために、大胆な人口誘致策と産業振興策を断行した。

まず、富山・守山・木舟といった既存の城下町から、約630人の商工人を選び、高岡へ移住させた 10 。そして、彼ら移住者に対し、「宅地の無償供与」と「借地料の免除」という、当時としては破格の優遇策を提示した 1 。これは、新たな町に人々を惹きつけ、迅速にコミュニティを形成するための強力なインセンティブとなった。

さらに、町の経済的自立を確実なものにするため、戦略的な産業育成に着手した。その象徴が、高岡鋳物の基礎を築いた政策である。慶長16年(1611年)、利長は砺波郡西部金屋から、金森弥右衛門をはじめとする7人の有力な鋳物師(いもじ)を招聘した 12 。彼らに千保川のほとりに広大な土地(幅50間、長さ100間)を与えて「金屋町」を創設させ 13 、さらに「諸役免除」(税金や労役の免除)や「関所の自由通行」といった特権を付与し、藩が全面的に彼らの活動を保護したのである 16 。当初は鍋や釜といった日用品の鉄器製造が主であったが 16 、この手厚い保護政策が、後の高岡銅器という世界的な美術工芸品を生み出す技術的土壌となった 18

利長の産業振興は鋳物に限らなかった。漆器職人(指物師)や仏壇職人も同時に呼び寄せ、育成を図った 19 。これにより、高岡は多様な手工業が集積する「ものづくりの町」としての性格を、その揺籃期から与えられたのである。


【表2】高岡開町における商工人誘致・産業振興策の概要

政策分野

対象者

具体的施策

政策目的

人口誘致

旧城下(富山等)の商工人

宅地の無償供与、借地料の免除

新規城下町への迅速な人口集積とコミュニティ形成

交通・物流

旅人・商人

北陸道を城下町中心部に引き込むルート変更

交通の要衝としての地位確立、商業活動の活性化

基幹産業育成(鋳物)

7人の鋳物師とその一族

専用の町(金屋町)の提供、諸役免除、関所自由通行の特権付与

藩の軍事・民生需要を満たす鋳物生産拠点の確立と技術の集積

地場産業育成(その他)

漆器職人、仏壇職人など

高岡への招聘と活動支援

多様な産業による経済基盤の安定化と町の魅力向上

この表が示すように、利長の町づくりは、人口、物流、産業という都市の根幹をなす要素に対し、体系的かつ戦略的な政策が打たれていたことを明確に物語っている。特に、鋳物師への破格の特権は、藩が特定の産業を「戦略産業」と位置づけ、集中的に投資したことを示しており、近世における殖産興業政策の先進的な事例として高く評価できる。


第四章:城の廃絶と「町人町」への転換―利長の死と利常の遺志継承

前田利長が心血を注いで築き上げた高岡は、その誕生からわずか数年にして、存亡を揺るがす二つの大きな打撃に見舞われる。創設者の死、そして城の廃絶という最大の危機を、この町はいかにして乗り越え、「武士の町」から「商工業の町」へと自己変革を遂げたのか。その鍵を握っていたのは、兄の遺志を継いだ三代藩主・前田利常の、時代を見据えた大胆な決断であった。

二つの打撃―利長の死と一国一城令

慶長19年(1614年)5月20日、町の創設者である前田利長が、開町からわずか5年でこの世を去った 9 。高岡は、その精神的支柱をあまりにも早く失ってしまった。

追い打ちをかけるように、翌元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川幕府は全国の大名を統制し、その軍事力を削ぐために「一国一城令」を発布した。これにより、加賀藩では本城である金沢城を除く全ての城の廃城が命じられ、完成からわずか6年の高岡城もその対象となったのである 9

城の建造物はことごとく破却され、城主であった利長の家臣団は金沢へ引き揚げることを余儀なくされた 9 。城の存在を前提として成立していた高岡は、その存在意義を根底から覆され、武士という最大の消費者を失った町は、人口流出と経済の衰退という深刻な危機に直面した。

前田利常の「高岡再興策」

兄・利長が莫大な資源を投下して築いた高岡が、廃墟となるのを座して見ることはできなかった。三代藩主・前田利常は、この危機に際し、町を見捨てるのではなく、その性格を180度転換させることで再生を図るという、大胆な決断を下す 9 。これは、利長が築いた軍事拠点という「ハード」と、そこに集められた商工人という「ソフト」を、時代の変化に合わせて再定義し、再利用する試みであった。

まず、利常は町の崩壊を防ぐため、浮足立つ町人や職人に対し「他所への転出を禁じる」という強硬な措置を発令した 23 。これは、町の経済活動の担い手である人的資源の流出を食い止めるための非常手段であった。

次に、利常は高岡に新たな存在意義を与えるための政策を次々と打ち出した。その核心は、軍事拠点から経済拠点への機能転換である。廃城となり広大な空き地となった高岡城跡に、藩の「米蔵」と「塩蔵」を設置したのである 1 。これにより、高岡は加賀藩の重要な物資備蓄・集散拠点としての新たな役割を与えられた。さらに、麻布や綿の集散地に指定し、魚問屋や塩問屋の創設を公認することで 1 、高岡には周辺地域から多様な産物が集まるようになり、商業活動は一層活発化した。

「加賀藩の台所」としての繁栄

利常の一連の政策転換は、見事に成功を収めた。高岡は、武士の不在というハンディキャップを、活発な商工業の力で補い、加賀藩内随一の経済都市へと発展していく 1 。利長が手厚く保護した鋳物や漆器などのものづくりは、藩の継続的な支援のもとで技術を磨き、高岡を代表する産業へと成長した 19

商業の隆盛は豊かな町人文化を開花させ、財を成した豪商たちは、その富を地域の祭礼に投じた。その象徴が、現在も続く「高岡御車山祭」である。豪華絢爛な装飾が施された山車は、高岡の職人たちの工芸技術の粋を集めたものであり、町人たちの経済力と心意気の現れであった 26

こうして高岡は、城を失った悲劇を乗り越え、「加賀藩の台所」と称されるほどの経済的重要性を獲得し 1 、その繁栄は明治維新に至るまで続くことになる。高岡城の廃城は、利長の軍事的戦略の終わりを意味したが、利常の迅速な経済都市への転換は、前田家が「高岡」という場所への投資を無駄にせず、その価値を最大化しようとする、より大きな戦略の継続であった。軍事拠点の創設(利長)と経済拠点への転換(利常)は、手段こそ違え、加賀藩の領国経営を安定させ、その勢力を維持するという目的において、見事に一貫していたのである。

結論:戦国の緊張が生んだ軍事都市から、泰平の世を支える商都へ

高岡の町人町形成は、慶長14年(1609年)という単一の時点における事象として捉えるべきではない。それは、関ヶ原の戦い後の政治的緊張から、大坂の陣を経て徳川の泰平の世が確立するまでの、時代の大きなうねりと密接に連動した、ダイナミックな歴史のプロセスであった。その過程において、二人の藩主が果たした役割は、それぞれに決定的であった。

初代藩主・前田利家の跡を継いだ 前田利長 は、まさに「創業者」であった。戦国の気風がいまだ色濃く残る中、徳川家への絶え間ない警戒と、大坂の豊臣家への万一の備えという、極めて切迫した軍事的・政治的要請から、強力な意志をもって高岡という都市の「器」を創造した。彼の先見性と、目的達成のためには手段を選ばないという断固たる実行力がなければ、この地に新たな都市が生まれることはなかったであろう。

一方、利長の跡を継いだ三代藩主・ 前田利常 は、卓越した「変革者」であった。一国一城令という外部環境の激変に対し、利長が作った「器」に「商工業」という新たな魂を吹き込み、持続可能な都市へと昇華させた。彼の、軍事から経済へと価値の軸を大胆に転換させる柔軟な発想と、それを実現する的確な経済政策がなければ、高岡は城の廃絶と共に歴史の波間に消え、廃墟となっていたかもしれない。

高岡の事例が歴史上特異であるのは、戦国時代の軍事思想に基づいて建設された都市が、近世的な経済合理性に基づいて再編され、大いなる成功を収めた稀有な例であるからだ。軍事拠点としての高岡城の命は、わずか6年という短いものであった。しかし、その築城の過程で集められた人材、磨かれた技術、そして整備されたインフラこそが、その後400年にわたり「ものづくりの町」「商人の町」としての高岡を支え続ける、揺るぎない礎となったのである。

結論として、高岡町人町の形成史は、戦国の終焉と近世の開幕という、日本の歴史における最もダイナミックな転換点を象徴する物語である。それは、一人の武将の軍事的な野心から始まり、時代の変化に対応したもう一人の為政者の経済的な叡智によって完成された、壮大なリレーだったのである。

引用文献

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  4. [四]幕府との確執、加賀藩の生き残り戦略 https://kagahan.jp/point4
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  12. 藤田 和人 - Makeshop https://gigaplus.makeshop.jp/kanemasakana/takaoka/index_fujita.html
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  26. 400年前からつづく高岡の歴史ストーリーを知る 日本遺産【加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡ー人、技、心ー】|特集 - 高岡観光ナビ https://www.takaoka.or.jp/feature/detail_54.html