最終更新日 2025-10-08

高崎城築城(1598)

慶長3年、家康は対上杉の要衝として井伊直政に高崎城築城を命じた。交通の要地に新城を築き、城下町ごと移転させることで、徳川支配の礎を築いた。
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慶長三年 高崎城築城 ―徳川覇権の礎、東国のグランドデザイン―

序章:時代の転換点、慶長三年(1598年)

1598年の天下:太閤秀吉の死と権力の真空

慶長三年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を伏見城で閉じた 1 。享年63。この出来事は、日本の政治権力の中枢に巨大な真空を生み出し、水面下で蠢いていた次代の覇権を巡る角逐を一気に加速させることになる。秀吉は死の床で、五大老筆頭の徳川家康の手を取り、幼い嫡子・秀頼の後事を託したと伝えられる 2 。これにより、表向きは家康、毛利輝元、前田利家ら五大老と、石田三成ら五奉行による集団指導体制へと移行したが、その実態は極めて脆弱かつ緊張をはらんだものであった 1 。この中央政情の激変こそ、家康が自身の領国経営、とりわけ戦略的要地の強化を急がせる最大の外的要因となったのである。

関東の支配者・徳川家康の深謀遠慮

天正十八年(1590年)の小田原征伐後、家康は豊臣秀吉の命により、旧領の東海地方から関東へ移封された。この「関東入封」は、家康を中央から遠ざけようとする秀吉の深謀であったが、結果として家康に240万石という広大な地盤を与えることになった 3 。以来、家康は旧北条氏の家臣団を巧みに取り込み、領民に対しては硬軟織り交ぜた施策を講じるなど、新領国の安定化と支配体制の確立に心血を注いできた 4 。しかし、その領国の周囲には、常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏、そして越後から会津へ移封された上杉景勝といった有力大名が依然として割拠しており、関東は決して安泰の地ではなかった 3 。秀吉の死は、これらの潜在的な敵対勢力に対する抑えを強化し、関東を名実ともに徳川の盤石な本拠地とするための行動を、家康に促す絶好の機会であった。高崎城の築城は、単なる一地方における城造りではなく、この天下の動乱期を見据えた家康の国家構想の一翼を担う、極めて戦略的な一手として位置づけられる。

「徳川四天王」筆頭、井伊直政の使命

この重大な任務を託されたのが、「徳川四天王」の一人、井伊直政であった。直政は、徳川家臣団の中で最高禄となる12万石を上野国箕輪に領する、譜代筆頭の重臣である 5 。その武勇は「井伊の赤鬼」と敵に恐れられる一方、外交交渉や内政においても卓越した手腕を発揮し、家康から絶大な信頼を得ていた 7 。慶長三年、家康が直政に下した高崎城築城の命令は、単に新しい城を建設せよというものではなかった 10 。それは、軍事、政治、経済のすべてを統括する一大拠点をゼロから創出するという壮大な事業であり、直政の持つ総合的な能力が最大限に発揮されることを期待されての抜擢であった。

この築城計画が具体化した時期と、中央政情の動きは密接に連動している。慶長三年に秀吉が没し、時を同じくして上杉景勝が越後から会津120万石へと加増移封された 12 。これにより、徳川領国の北辺に、石田三成と連携する可能性のある巨大勢力が誕生したのである。上野国は、江戸と会津の中間に位置する戦略的緩衝地帯であり、同時に越後や信濃へ通じる街道が交差する交通の要衝でもあった。この地に強力な軍事・兵站拠点を築き、譜代筆頭の重臣を配置することは、来るべき対上杉、ひいては反徳川勢力との決戦に備える上で不可欠の布石であった。高崎城は、徳川の関東支配を脅かす北方勢力に対する強力な「楔」としての役割を、その誕生の瞬間から運命づけられていたのである。

第一部:決断の背景 ―なぜ箕輪城ではならなかったのか―

第一章:要塞としての箕輪城

高崎城築城の決断を理解するためには、まず、それまでの井伊氏の居城であった箕輪城の特性と限界を把握する必要がある。箕輪城は、戦国時代を代表する堅城としてその名を轟かせていた。

長野氏の栄光と堅城の構造

箕輪城は、もともと長野氏によって築かれ、甲斐の武田信玄による度重なる猛攻を幾度となく退けたことで知られる難攻不落の城であった 13 。その強さの秘密は、榛名山麓の丘陵という自然地形を巧みに利用した構造にあった 13 。梯郭式平山城に分類されるこの城は 16 、城の南北を分断する巨大な堀切や、幾重にも巡らされた土塁と空堀によって、鉄壁の防御網を構築していた 14 。まさに中世城郭の築城技術の粋を集めた、戦うための要塞であったと言える 16

井伊直政による近世化改修

天正十八年(1590年)に関東に入封し、箕輪城主となった井伊直政は、この中世的な要塞にさらなる改修を加えた。増加した12万石の家臣団を収容し、新たな領国統治の拠点とするため、石垣を導入するなど、近世城郭への移行を試みたのである 6 。この改修により、箕輪城は井伊氏の時代にその姿を大きく変え、現在残る遺構の多くはこの時期に形成されたとされている 6

統治拠点としての限界

しかし、いかに改修を重ねようとも、箕輪城が持つ本質的な限界を克服することはできなかった。箕輪城は、あくまで山麓に位置する防御重視の「詰めの城」であり、その立地は平時における領国経営の拠点としては多くの欠点を抱えていた。第一に、城下町を大規模に展開するための広大な平地に乏しいこと。第二に、主要街道から外れており、交通の便が悪いことである 13 。12万石という大領国を統治し、広域的な経済圏を形成・発展させていくためには、箕輪城の立地と構造は明らかに時代遅れとなりつつあった。城の役割が、単に「戦い、守る」ための拠点から、領国を「治め、豊かにする」ための行政・経済センターへと移行しつつあったこの時代、新たな城の建設は必然的な選択だったのである。

第二章:選ばれし地、高崎

箕輪城に代わる新たな拠点として選ばれたのが、南へ約10キロメートル離れた和田の地、後の高崎であった。この地は、箕輪城が持たなかった複数の決定的な優位性を備えていた。

和田宿の歴史と地理的優位性

高崎城が築かれた場所には、中世、和田氏によって和田城が築かれていた 11 。この地は、烏川と碓氷川の合流点西岸に広がる広大な台地上に位置しており、洪水などの自然災害に強いという地理的特徴を持っていた 13 。この広大で安定した土地は、大規模な城郭と計画的な城下町を建設する上で、まさに理想的な条件を備えていた。

交通の結節点としての価値

この地が選ばれた最大の理由は、その交通上の圧倒的な優位性にある。和田の地は、江戸と京を結ぶ大動脈・中山道が通過するだけでなく、越後へ通じる三国街道や、信濃へ通じる信州街道が分岐する、交通の結節点であった 21 。人、物資、そして情報が絶えず行き交うこの地を抑えることは、上野一国のみならず、関東全体の軍事・経済を掌握する上で極めて重要な意味を持った。徳川家康の関東経営戦略において、主要街道網を抑えることは支配体制の根幹をなすものであり、高崎は江戸を中心とする徳川の支配ネットワークにおける、西の最重要ハブ(拠点)として戦略的に選定されたのである。

生命線となる長野堰用水

一方で、広大な台地である高崎には、城下町の生命線となる生活用水の確保という課題があった。この課題を解決したのが、古くからこの地を潤してきた長野堰用水の存在である 27 。井伊直政は、この用水路を大規模に改修・延長し、城下町の生活用水として引き込むだけでなく、城の防御を固める広大な水堀の水源としても活用する計画を立てた 13 。この計画的なインフラ整備により、高崎は新たな都市として持続的に発展していくための基盤を確立することができた。

箕輪城から高崎城への移転は、単なる居城の引っ越しではない。それは、城郭に対する価値観が、戦国時代の「軍事・防御」優先から、近世(江戸時代)の「統治・経済」優先へと大きく転換したことを象徴する出来事であった。以下の表は、両城の特性を比較し、その戦略的意図を明確にしたものである。

項目

箕輪城

高崎城

戦略的意図の考察

立地

榛名山麓の丘陵地 13

烏川沿いの広大な台地 21

防御拠点から平野部の支配拠点へ

城郭構造

梯郭式平山城 16

輪郭梯郭複合式平城 31

籠城戦特化型から政庁・威容重視型へ

防御思想

自然地形、堀切、土塁 13

大規模な堀と土塁、惣構 31

山の要害から都市全体の防御へ

規模

郭内約10万坪 13

郭内約5万坪、城下含め広大 13

城単体から城下町一体の大規模開発へ

交通の便

山麓で不便

中山道・三国街道等の結節点 21

地域のハブとしての機能を最重要視

経済性

限定的な城下町

大規模な商業・職人町の計画 20

領国経済の中心地としての役割を付与

水利

井戸、沢水 16

長野堰用水による計画的な給水 30

都市機能維持のためのインフラ整備

この比較から明らかなように、高崎城の選定と設計は、徳川政権による「関東のインフラ再編」という、より大きな国家プロジェクトの一環として、極めて合理的に下された戦略的決断であったと結論付けられる。

第二部:築城と都市の誕生 ―慶長三年のリアルタイム・クロニクル―

慶長三年(1598年)、井伊直政に下された築城命令は、天下の情勢が風雲急を告げる中で、迅速かつ大規模に実行された。それは、単に城を建てるだけでなく、一つの都市を創造する壮大な事業であり、時間との戦いを強いられた「戦時下の巨大プロジェクト」であった。

第三章:グランドデザインの策定(慶長三年 初頭~春)

築城命令が下ると、直政とその家臣団は直ちに新たな城と城下町のグランドデザイン策定に着手した。

縄張の構想

新たな城の縄張(設計)は、旧和田城の敷地を取り込みつつも、それを遥かに凌駕する規模で計画された 11 。城の西側を流れる烏川を天然の要害とし 25 、本丸、二の丸、三の丸を同心円状に配置する輪郭式と、それらを段階的に配置する梯郭式を組み合わせた「輪郭梯郭複合式平城」という、当時の最新の設計思想が採用された 31 。郭内だけで5万坪(約17万平方メートル)を超える広大な城郭は 13 、もはや籠城戦のみを想定した要塞ではなく、12万石の領国を統治する政庁としての機能と、徳川譜代筆頭の威容を示すことを重視した設計であった 36

土塁主体の構造計画

高崎城の防御構造の最大の特徴は、石垣を多用せず、主に土塁と水堀によって構成されている点である 25 。これは、良質な石材の確保が難しい関東地方の城郭に共通する特徴であったが 38 、同時に、堀の掘削で発生した土をそのまま土塁の材料とすることで、短期間での建設を可能にするという、極めて現実的な選択でもあった。しかし、その構造は決して単純なものではない。三の丸東側の堀に設けられた「出枡(でます)」と呼ばれる凸型の屈曲部は、敵を側面から攻撃するための「横矢掛かり」を意識したものであり、戦国末期に発達した最新の築城技術が取り入れられていた 22

城下町の町割計画

築城と完全に一体のものとして、城下町の町割(都市計画)も策定された 20 。城の周辺には家臣たちの武家屋敷が集められ、特に広大な三の丸には中級以上の武士や藩の公的施設が配置された 20 。そして、城の東側を南北に貫く中山道沿いには、商業の中心となる町人地が、その一本西側の通りには職人町が計画的に配置された 20 。さらに、この城下町全体を長さ数キロメートルに及ぶ長大な土塁と堀で囲む「遠構(とおがまえ)」、すなわち惣構の計画も立てられ、都市全体を要塞化する壮大な構想が描かれていた 11

第四章:普請の開始と「大引越し」の号令(慶長三年 夏~秋)

以下の年表は、高崎城築城が中央政情の激動と常に連動しながら進行したことを示している。

年月

中央政情

井伊直政の動向

高崎での出来事

慶長3年 (1598)

8月

豊臣秀吉 死去 1

京都にて家康に随行 9

築城命令が下る 10

秋~冬

五大老体制発足、権力闘争開始

箕輪から和田へ入城、「高崎」と命名 35

旧和田城解体、縄張、普請開始

慶長4年 (1599)

前田利家 死去、石田三成失脚

高崎にて築城・都市建設を指揮

堀・土塁の造成本格化、箕輪からの住民移転開始 35

慶長5年 (1600)

6月

家康、会津征伐のため江戸へ出陣

城郭・城下町の建設継続

7月

石田三成ら挙兵(関ヶ原の戦いへ)

家康より出陣命令を受ける

普請を中断 5 、城番に諏訪頼水 5

9月

関ヶ原の戦い

監軍として参戦、島津軍追撃で負傷 42

留守居体制下で建設途上の都市を維持

10月以降

戦後処理に従事 42

慶長6年 (1601)

近江佐和山へ転封決定

諏訪頼水が城番を継続

慶長三年、直政は正式に入城し、この地を「高崎」と命名した 13 。これは、縁起の良い名であるとともに、新たな時代の始まりを宣言する意味合いも込められていた。直ちに旧和田城の建造物は取り壊され、広大な敷地で大規模な整地と普請が開始された 21

そして、この物理的な建設と並行して、直政は箕輪城下に指令を下す。家臣団はもちろんのこと、連雀町、田町、紺屋町、鍛冶町といった商人や職人の町、さらには菩提寺である龍門寺をはじめとする寺社に至るまで、そのすべてを高崎へ移転させるという、前代未聞の「大引越し」の号令であった 11 。これは単なる移住勧告ではない。一つの都市が、その機能、経済、文化、コミュニティのすべてを保持したまま、丸ごと新しい場所へ移植されるという、壮大な社会実験でもあった 20

第五章:槌音と人々の流れ(慶長三年 冬~慶長五年 夏)

号令一下、高崎の地は槌音と人々の喧騒に包まれた。現場では、膨大な数の人足が動員され、堀の開削と土塁の造成が急ピッチで進められた。三の丸を囲む土塁と堀は、総延長約1400メートル、堀の幅は15メートルを超え、土塁は高いところで2~3メートルにも達する大規模なものであった 37 。その圧倒的なスケールは、徳川譜代筆頭の居城としての威厳を誇示するに十分であった。また、一部では石垣も築かれており、平成20年(2008年)の発掘調査では、築城当初のものとみられる石垣が実際に確認されている 5

一方、城下では、箕輪から移住してきた町人たちが、新たに割り当てられた区画で家屋や店舗の建設を開始した。かつての町名がそのまま高崎の地名として引き継がれ 20 、慣れ親しんだコミュニティの中で、人々は新たな生活と商業活動を再開していった。数千人規模と推定されるこの大規模な人口移動は、高崎に未曾有の活気をもたらす一方、住居の確保、物資の供給、治安維持など、様々な行政課題も生じさせたと考えられる。これらを差配し、混乱なくプロジェクトを推進した直政の行政手腕は、極めて高く評価されるべきであろう。直政の頭の中にあったのは、単に「城を建てる」ことではなく、「新しい政治経済の中心都市を創る」ことであった。城がただの要塞ではなく、兵站と経済の中心地として機能して初めて、12万石の領国は動かせる。商人や職人がいて初めて、拠点は生きたものとなる。この視点に立てば、住民移転を急いだことも、すべてが合理的な判断として理解できる。

第六章:未完の城、関ヶ原へ(慶長五年 秋)

しかし、この壮大な都市建設プロジェクトは、突如として中断を余儀なくされる。慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発したのである。直政は徳川軍の軍監(監軍)という重責を担い、家臣団の主力を率いて東海道を西上することを命じられた 7

この時、高崎城の普請はまだ道半ばであった。『高崎寿奈子』などの史料には、直政が普請の途中に関ヶ原へ出陣したと明確に記されている 5 。本丸や二の丸、三の丸といった主要な曲輪の土塁と堀という骨格はほぼ完成していたものの、城門や櫓といった建造物の多くは未完成か、あるいは仮設のものであった可能性が高い。事実、高崎城が城郭として最終的な完成を見るのは、後に入城した安藤氏の時代、元禄五年(1692年)のことであった 5

直政が出陣した後の高崎城には、城番として諏訪頼水が置かれた 5 。彼の任務は、未完の城と、まだ建設途上にある城下町を守り、関東における徳川方の重要な後方拠点としての機能を維持することであった。普請が中断されたという事実は、この事業が平時における悠長な建設計画ではなく、関ヶ原へと向かう緊迫した政治情勢の中で、時間との戦いを強いられたプロジェクトであったことを何よりも雄弁に物語っている。城の完成度よりも、戦略拠点としての機能と城下町の早期稼働が優先されたのである。

第三部:遺産と影響 ―新たなる時代の幕明け―

井伊直政が高崎に在城したのはわずか2年余りであったが、彼が遺したものは、物理的な城郭以上に大きく、後世に決定的な影響を与えた。

第七章:築城主・井伊直政の構想と手腕

高崎城築城という一大事業は、井伊直政という武将の多面的な能力を浮き彫りにした。

「赤鬼」のもう一つの顔

戦場では「井伊の赤鬼」「人斬り兵部」と恐れられた猛将のイメージとは裏腹に、直政は極めて優れた行政官であり、都市計画家であった 45 。彼は領民のために善政を施し、交通の要衝という地の利を最大限に活かした商業都市・高崎の礎を築いた 8 。物理的なインフラ(城、町割、用水路)と、社会的なインフラ(商人、職人、寺社コミュニティ)を同時に整備するという彼の構想は、極めて近代的であったと言える。

組織運営能力

直政のキャリアにおいて特筆すべきは、天正壬午の乱(天正十年、1582年)の後、家康の命により、旧武田家の家臣団を多数配下に組み入れた経験である 9 。誇り高い武田の旧臣たちをまとめ上げ、「井伊の赤備え」として知られる精強な部隊を組織したこの経験は、多様な出自を持つ家臣団を統率し、高崎城築城という巨大プロジェクトを遂行する上で、大いに役立ったと考えられる。

外交・交渉能力

さらに、直政は当代随一の外交官でもあった。秀吉死後の混沌とした政治状況の中で、彼は豊臣恩顧の武将たちとの交渉役を担い、特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶほどの関係を築き、多くの大名を親徳川派へと引き入れることに成功した 9 。この鋭い政治的センスと交渉能力があったからこそ、彼は高崎城築城という事業の持つ戦略的重要性を深く理解し、それを強力に推進する原動力となり得たのである。

第八章:高崎の完成と箕輪の終焉

関ヶ原の戦いで井伊直政は、島津軍の追撃中に受けた鉄砲傷がもとで、慶長七年(1602年)にこの世を去る。彼の構想は、後の城主たちに引き継がれていく。

直政の転封と高崎城のその後

関ヶ原での戦功により、直政は近江佐和山18万石へと加増転封された 5 。そのため、彼自身が高崎城に居住したのは、慶長三年から五年までのわずか2年余りであった 5 。直政の死後、高崎城主は酒井氏、松平氏など目まぐるしく変わるが 44 、元和五年(1619年)に入城した安藤重信・重長父子の時代に城郭の大改修が行われ、現存する乾櫓や東門を含む建造物が整備され、城はようやく完成の域に達した 5

廃城となった箕輪城

一方、政治・経済の中心地としての機能を完全に高崎へ譲った箕輪城は、慶長三年に廃城となった 6 。城下の住民も高崎へ移り住み、かつて難攻不落を誇った堅城は急速に荒廃の一途をたどった 15 。武田信玄をも退けた名城が、再びその歴史的価値を評価され、国の史跡として保護されるようになるのは、約390年の歳月が流れた昭和六十二年(1987年)のことである 15

商業都市としての発展

井伊直政が描いたグランドデザインの上で、高崎は順調な発展を遂げた。中山道随一の宿場町として、また商業都市として大いに栄え 13 、特に絹市が立つ田町は、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺の暖簾がひらひらと」と謳われるほどの賑わいを見せた 13 。箕輪城の「死」と高崎城の「生」は、まさに表裏一体の現象であった。それは、戦国時代の価値観(軍事力、要害性)が終焉を迎え、江戸時代の価値観(経済力、交通、行政機能)が勃興したことを示す、歴史の転換点を象徴する出来事であった。直政の最大の功績は、物理的な城を完成させたことではなく、高崎という都市に経済的な「エンジン」を移植し、自律的に発展していくためのDNAを埋め込んだことにこそあると言えよう。

結論:高崎城築城の歴史的意義

慶長三年(1598年)の井伊直政による高崎城築城は、日本の歴史において複数の重要な意義を持つ事象である。

第一に、 徳川政権による東国経営の象徴 である。この事業は、単なる一譜代大名の居城移転という次元に留まらない。それは、徳川家康が来るべき天下統一を見据え、その本拠地である関東を政治的・経済的・軍事的に盤石なものとするための、国家的グランドデザインの一環として計画・実行された。交通の要衝に譜代筆頭を配し、巨大な拠点都市を建設することは、徳川の覇権確立に向けた明確な意志表示であった。

第二に、 戦国から江戸への移行を示す標本 としての価値を持つ。防御一辺倒の山城(箕輪城)から、領国経営を主眼に置いた平城(高崎城)への移行、そして城郭建設と城下町の都市開発を一体的に行うという手法は、城の役割が純粋な軍事拠点から、領国の行政・経済センターへと質的に変化した時代の転換点を明確に示している。

第三に、それは 現代に続く都市・高崎の原点 である。井伊直政が描いた都市の骨格は、江戸時代を通じて中山道随一の商業都市としての発展を支え、近代以降も交通と商業の要衝としての地位を不動のものとした。慶長三年の築城と都市計画は、400年以上にわたる高崎市の歴史の第一歩を印した、画期的な事業であったと言える。高崎城の土塁と堀は、単なる歴史遺構ではなく、徳川の天下取り戦略と、一人の武将の卓越した構想力が刻まれた、生きた証人なのである。

引用文献

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  38. 土塁・堀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44007/
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  40. 【gooブログから】高崎城跡|群馬県高崎市 ~大きな土塁に囲まれた近世城郭~【八高線に乗って初めての高崎遺跡めぐり②】 https://www.takaobakufu.com/2025/08/18/%E3%80%90goo%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%91%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%9F%8E%E8%B7%A1%EF%BD%9C%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%80%80%EF%BD%9E%E5%A4%A7/
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  47. 「井伊の赤鬼」と恐れられた直政は実は名将ではなかった…関ヶ原の合戦後42歳で死んだ徳川四天王最年少の生涯【2023編集部セレクション】 家康にとって大事な合戦では意外なほど戦っていない - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83186?page=1
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