最終更新日 2025-10-07

高崎宿整備(1602)

高崎宿整備(1602年)は、関ヶ原後の家康による中山道整備。上野国を徳川の秩序に組み込む戦略的要衝として、井伊直政の城下町建設と連携し、軍事・経済・行政の複合拠点へと発展。
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秩序への布石:戦国終焉の刻、高崎宿整備(1602年)の戦略的深層

序章:1602年、上野国高崎の夜明け

慶長七年(1602年)。天下分け目の関ヶ原の戦いから、わずか二年。日本列島には、依然として戦国の熾烈な記憶が生々しく残りつつも、徳川家康による新たな治世への期待と不安が交錯する、静かな緊張感が満ちていた。武力による制圧から、制度による統治へ。時代の大きな転換点を象徴する出来事の一つが、この年、上野国(こうずけのくに)高崎において静かに、しかし着実に実行された「高崎宿の整備」である。

この事象は、単に街道の一宿場が整えられたというインフラ整備の記録に留まらない。それは、戦国の混沌が凝縮されたともいえる上野国という戦略的要衝を、徳川の新しい秩序の中に完全に組み込むための、深謀遠慮に満ちた国家事業であった。慶長六年(1601年)の東海道整備に続き、幕府が国家の大動脈として位置づけた中山道の宿駅制度を確立する中で、高崎宿の整備は行われた 1

本報告書は、この慶長七年の「高崎宿整備」を、戦国時代から続く地政学的文脈の中に位置づけ、その背景、具体的な内容、そして歴史的意義を、時系列に沿って解き明かすものである。なぜ、この地が選ばれたのか。なぜ、この時期だったのか。そして、この整備が、その後の高崎、ひいては関東の発展にどのような礎を築いたのか。一点の事象から、徳川による国家建設の壮大なビジョンと、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを読み解いていく。

第一章:混沌の記憶 ― 戦国期上野国の地政学的価値

慶長七年(1602年)の高崎宿整備の歴史的意義を理解するためには、まずその舞台となった上野国が、戦国時代を通じていかに血塗られた係争地であったかを直視せねばならない。この地の不安定性こそが、徳川家康に、この地を最優先で安定化させるべき戦略的要衝と認識させたのである。

関東管領を世襲した山内上杉氏の拠点であった上野国は、永享の乱(1438年)以降、鎌倉公方足利氏との対立の最前線となり、関東における動乱の中心地であり続けた 4 。決定的な転機は、天文十五年(1546年)の河越夜戦である。この戦いで相模の後北条氏に大敗した関東管領・上杉憲政は勢力を失い、ついには本拠地である平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って亡命するに至る 4

これにより、上野国は統治権力者のいない「支配の空白地帯」と化した。この空白を埋めるべく、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして相模の後北条氏という、当代屈指の戦国大名たちが、この地を自らの勢力圏に組み込もうと、数十年にわたり激しい争奪戦を繰り広げた。上野国は、三国の大勢力がぶつかり合う「草刈り場」と化し、国衆たちは生き残りをかけて離合集散を繰り返す、極度の混乱状態に陥ったのである。

この地がこれほどまでに渇望された理由は、その地理的特性にある。上野国は、信濃・越後といった内陸部と広大な関東平野を結ぶ結節点であり、古来より東山道(後の中山道)が国土を東西に貫いていた。物資の輸送路であり、また軍隊の侵攻路ともなるこの交通路を抑えることは、関東の覇権を握る上で絶対的な条件であった。事実、武田氏や北条氏といった戦国大名たちは、この地に独自の伝馬制度を敷き、交通路の掌握に努めていたことが記録されており、街道の重要性が当時から深く認識されていたことを示している 5

この歴史的背景から浮かび上がるのは、上野国が持つ二つの側面、すなわち「支配の空白地帯」と「交通の動脈」という特性である。新たな支配者である徳川家康にとって、前者は既存の権力構造に過度に配慮することなく、新たな支配体制をゼロベースで構築しやすいという利点をもたらした。一方で後者は、この地を放置すれば、北の上杉景勝や西の真田氏といった反徳川勢力の侵攻路となりかねないという、看過できない危険性を孕んでいた。したがって、家康の関東支配戦略の要諦は、この「白地」に最も信頼できる譜代大名という強力な「楔」を打ち込み、交通路という「動脈」を完全に掌握することにあった。1602年の高崎宿整備は、この大戦略が必然的にもたらした帰結点の一つだったのである。

第二章:徳川の楔 ― 井伊直政、箕輪城に入る(1590年)

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が成り、北条氏は滅亡した。戦後処理において、徳川家康は旧領である三河・遠江・駿河などを召し上げられる代わりに、北条氏の旧領である関八州への国替えを命じられる。これは、家康の勢力を上方から引き離し、その力を削ごうとする秀吉の深謀であったが、家康はこの「関東仕置」を逆手に取り、江戸を拠点として、秀吉の影響力が及びにくい関東に、独立性の高い巨大な経済圏・軍事圏を築き上げるという壮大なプロジェクトに着手した 6

この「関東王国」建設において、家康が最初に行ったのが、旧北条領の要衝に、徳川家臣団の中でも特に信頼の厚い譜代大名を戦略的に配置することであった 9 。これは、旧北条勢力の残党や在地勢力を抑え込むと同時に、家臣たちを先祖代々の土地が持つしがらみから切り離し、徳川家への忠誠心を一層高めるという狙いも含まれていた 8

この戦略配置の中で、最重要拠点の一つである上野国に送り込まれたのが、徳川四天王の一人に数えられる猛将、井伊直政であった。直政には、家臣団の中でも最大級となる12万石という破格の所領が与えられ、上野国西部の要害である箕輪城の城主とされた 10 。この配置は、北に睨みを利かせる越後の上杉景勝、そして西に拠点を構える真田氏といった、徳川にとって潜在的な脅威となりうる勢力に対する、極めて強力な軍事的な「楔」を打ち込むことを意図していた。

しかし、家康が直政に期待したのは、単なる軍事的な抑えの役割だけではなかった。12万石という石高は、直政が単なる国境警備司令官ではなく、戦乱で疲弊した上野国を経済的に開発し、徳川政権の盤石な基盤へと変える、いわば開発事業の責任者としての役割をも担っていたことを示唆している。その証左に、箕輪城主となった直政は、ただちに城下町の整備に着手している。特に、直線的な街路を計画的に整備するなど、12万石の大名の居城にふさわしい、近世的な都市改造を行ったことが記録されている 10 。これは、軍事拠点としての城の機能強化に留まらず、領国の経済と統治の中心地を創出しようとする明確な意志の表れであり、後の高崎城下町建設の壮大な予行演習であったとも評価できる。井伊直政の箕輪入封は、家康の「関東独立経営」ビジョンにおける、軍事と開発の両輪を担う最重要プロジェクトの始動を告げるものであった。

第三章:新時代の都市創造 ― 高崎城と城下町の誕生(1598年~1600年)

箕輪城に入って八年後の慶長三年(1598年)、井伊直政は一大決断を下す。戦国時代に築かれた山城である箕輪城を放棄し、平野部の和田の地に、新たな城と城下町を建設するという壮大な都市創造事業である。この決断の背景には、戦国的な「点」の防衛拠点から、来るべき新時代の「面」の支配拠点へと、統治のあり方を根本から転換させようとする明確なビジョンがあった。山城である箕輪城は、防衛には優れるものの、大規模な城下町を展開して領国経済の中心地とするには、地形的な制約が大きすぎたのである。

家康の許可を得た直政は、烏川沿いの広大な台地である和田を新たな拠点と定め、この地を「高崎」と命名したと伝えられている 12 。そして、ここに軍事・行政・経済の機能を一体化させた、近世的な都市モデルの創造に着手した。

事業は驚くべき速度と計画性をもって進められた。まず、旧来の和田城は取り壊され、箕輪城の縄張りを規範としつつも、それを遥かに凌駕する規模で、本丸、二の丸、三の丸からなる広大な平城「高崎城」の建設が開始された 13 。これと並行して、箕輪から家臣団、すなわち武士階級を移住させるだけでなく、商人や職人といった町人、さらには菩提寺である龍門寺をはじめとする寺社に至るまで、文字通り「町ぐるみ」での計画的な大移転が敢行された 10 。これは単なる引っ越しではない。旧来のコミュニティの結束を維持したまま、新しい都市の区画に組み込むことで、都市機能の即時立ち上げと住民のアイデンティティの連続性を両立させるという、極めて高度な都市計画手法であった。

町の区画整理、すなわち「町割り」もまた、周到な計画に基づいていた。箕輪城下で大手門の正面に位置し、町の中心であった「連雀町」を新たな城下町の基準点とし、そこから鞘町、田町、中紺屋町、本紺屋町といった町々が整然と区画されていった 13 。さらに、旧和田宿に居住していた在地の町人たちも、新たに設けられた「本町」や「新町(あらまち)」へと移住させられ、箕輪からの移住民と統合することで、高崎の町人地が形成された 13

そして、この都市計画の総仕上げとして、武家屋敷、町人地、寺社地という都市の主要構成区画のすべてが、「遠構(とおがまえ)」と呼ばれる長大な堀と土塁によって一体的に囲い込まれた 13 。これにより、高崎は単なる人々の居住地の集合体ではなく、明確な境界と防御機能を持つ、一個の有機的な「城下町」として形態的にも完成したのである。

しかし、この壮大な都市創造事業は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いによって、一時的な中断を余儀なくされる。直政は徳川軍の主力として出陣し、その戦功により、戦後、近江佐和山18万石へと加増移封されることになったからである 12 。わずか二年余りの在城期間であったが、直政が描いた都市の青写真は、後の高崎の発展の揺るぎない骨格となった。それは、戦国の論理(軍事優先の山城)から、近世の論理(経済・統治を重視した平城都市)へのパラダイムシフトを、関東の地に体現する画期的な事業であった。

第四章:国家の大動脈、その結節点へ ― 慶長七年(1602年)の宿駅整備

井伊直政による高崎城下町の建設が、いわば「藩」の視点からの一地方都市の創造であったとすれば、慶長七年(1602年)の宿駅整備は、徳川幕府という中央権力の視点から、その都市を国家的なインフラ網へと接続する決定的な一歩であった。それは、直政が築いた「点」としての都市を、幕府が構想する「線」としての大動脈に組み込み、高崎を北関東全域を覆う「面」として機能させるための、極めて重要な措置であった。

第一節:幕府の号令 ― 五街道整備と中山道の制定

関ヶ原の戦いにおける勝利によって、徳川家康は名実ともに天下の支配者としての地位を確立した 3 。家康は、その強大な権力を背景に、江戸幕府を開く(慶長八年)よりも早く、国家の基盤を固めるための諸政策に乗り出す。その最重要課題の一つが、江戸の日本橋を起点とする全国的な幹線道路網、すなわち「五街道」の整備であった 6

慶長六年(1601年)、家康はまず東海道に宿駅伝馬制度を定め、整備に着手した 2 。これは、江戸と朝廷のある京都、そして経済の中心地である大坂を結ぶ最重要ルートを掌握し、人、物資、情報の流れを幕府の管理下に置くことを目的としていた。軍事的な有事の際の迅速な部隊展開はもちろんのこと、平時における全国支配体制を確立する上で、街道の整備は不可欠だったのである。

そして翌、慶長七年(1602年)、幕府は東海道に次ぐ重要路線として「中山道」を公式に制定し、宿駅制度を導入した 1 。中山道は、江戸から内陸部を通り京都へと至るもう一つの大動脈であり、特に冬場の気候が厳しい東海道の代替路として、また信濃や上野といった内陸諸国を江戸に直結させるルートとして、軍事的にも経済的にも極めて高い価値を持っていた。この国家プロジェクトの一環として、高崎は中山道の公式な宿駅(宿場町)として指定されることになったのである。


表1:高崎城下町および宿駅形成の主要年表(1590年~1616年)

年代(西暦/和暦)

主要な出来事

関連人物

典拠

1590年(天正18)

徳川家康、関東へ入府。井伊直政、箕輪城主となる(12万石)。

徳川家康, 井伊直政

9

1598年(慶長3)

井伊直政、和田への拠点移転を決定。高崎城の築城と城下町建設を開始。

井伊直政

12

1600年(慶長5)

関ヶ原の戦い。井伊直政は徳川方として活躍。戦後、近江佐和山18万石へ移封。

徳川家康, 井伊直政

12

1601年(慶長6)

徳川幕府、五街道整備に着手(東海道宿駅伝馬制度)。

徳川家康

2

1602年(慶長7)

中山道が公式に制定。高崎宿が設置され、伝馬役が本町・田町・新町に再編される。街道ルートも変更。

徳川幕府

1

1604年(慶長9)

酒井家次が高崎藩主となる(5万石)。城下町の整備を継続。

酒井家次

18

1616年(元和2)

酒井家次、越後高田へ移封。

酒井家次

18


この年表は、高崎の都市形成が、井伊直政という一個人の事業と、徳川幕府という国家の事業が、いかに密接に、かつ連続的に行われたかを示している。特に、直政の移封からわずか二年後に幕府による宿駅整備が行われている点は、藩主の交代といった個別事情に関わらず、国家戦略上の重要拠点として高崎が位置づけられ、幕府の強い意志が直接的に都市計画に反映されたことを物語っている。

第二節:「その日」、高崎で何が起きたか ― 1602年のリアルタイム分析

慶長七年、中山道を公式の宿駅とする旨を定めた幕府の法令が、高崎にもたらされた。この時点の高崎は、英雄的な創設者である井伊直政が去り、後任の藩主・酒井家次が入封する(慶長九年)までの、いわば統治の空白期間にあった可能性が高い 18 。このような状況下で、幕府の直接的な命令によって、高崎の都市構造と社会システムに二つの大きな変革がもたらされた。

第一の変革は、 伝馬役の再編・拡大 である。伝馬役とは、幕府の公用旅行者や物資輸送のために、人足と馬を常備し、無償または低料金で提供する宿場に課せられた重い義務であった。高崎城下町が建設される以前、この役務は旧和田宿の町人たちが移住して形成された「本町」が、単独で負担していた 13 。しかし、1602年の宿駅指定に伴い、この伝馬役の負担が、本町に加えて、箕輪からの移住者たちが中心となって形成された「田町」と「新町(あらまち)」にも新たに割り当てられることになったのである 13

この決定は、高崎の町人社会にとって画期的な出来事であった。本町の住民にとっては、長年の重荷が軽減されることを意味した。一方で、田町と新町の商人たちにとっては、新たな公役の負担が生じると同時に、宿場機能の中核を担うことによる経済的な機会の創出でもあった。三町の代表者が寄り合い、人馬の提供方法、負担の割合、そして公役から生じる利益の分配などについて、真剣な協議が交わされたであろう。これは、旧来の住民と新しい移住民が、「高崎宿」という一つの共同体として、幕府の公役を共に担う体制が公式に確立された瞬間であり、住民統合の象徴的な措置でもあった。

第二の変革は、 中山道ルートの変更 である。それまで中山道は、高崎城下のやや東寄りに位置する通町・椿町筋を通っていたと推測されている 20 。しかし、慶長七年、このルートが城下町の中心部を貫通する現在の道筋へと、意図的に変更された 13 。これは、単なる道路工事ではない。宿場町としての経済的機能を最大限に発揮させるための、極めて戦略的な都市計画の変更であった。

このルート変更により、人の流れ、モノの流れが劇的に変化した。新しい街道沿いの土地の価値は高騰し、旅籠や商店が次々と軒を連ね始めたであろう。町の重心そのものが移動し、都市の景観と経済地図がダイナミックに塗り替えられていく。1602年の高崎では、まさに新しい時代の到来を告げる都市の胎動が、リアルタイムで進行していたのである。

第三節:軍事から経済・行政へ ― 宿駅整備の深層的意義

慶長七年の高崎宿整備が持つ本質的な意義は、井伊直政が築いた軍事・行政拠点としての「城下町」の上に、徳川幕府が直接管轄する公的交通・物流拠点としての「宿場町」の機能が、公式に上乗せされた点にある。これにより、高崎は「城下宿」という、軍事・行政・交通・経済の機能が複合した、特殊な性格を持つ都市へと昇華した 21

伝馬役の再編は、単なる業務分担の見直しに留まらない。それは、高崎という一地方都市が、その内部に有する人的・物的資源を、幕府という中央権力からの命令一下、国家的な公的目的のために動員する体制を確立したことを意味する。これは、領主個人の裁量が絶対的であった戦国時代の分権的なあり方から、幕府の法と制度が全国を覆う江戸時代の集権的な幕藩体制へと、社会が大きく移行していく様を象徴している。

高崎は、この整備によって、徳川の新しい秩序に完全に統合された。それは、ハードウェア(都市区画や街道ルートの変更)とソフトウェア(伝馬制度の再編)の両面から、高崎を徳川の国家構想の中にしっかりと位置づけるための、緻密に計算されたプロセスだったのである。


表2:慶長七年(1602年)前後における高崎の機能比較

項目

整備前(~1601年)

整備後(1602年~)

変化の意義

主たる機能

井伊氏の軍事・行政拠点(城下町)

城下町機能に加え、幕府直轄の公的交通拠点(宿場町)が付加

「藩の都市」から「国家インフラ網の結節点」へ

伝馬役の担い手

本町(旧和田宿系住民)が単独で負担

本町、田町、新町(箕輪移住系住民含む)の三町による共同負担

負担の分散化と、新旧住民の公役を通じた統合

中山道のルート

城下町の東寄り(通町・椿町筋)

城下町の中心部を貫通するルート

宿場町としての経済機能を最大化する都市計画的変更

位置づけ

徳川家康の関東支配における上野国の拠点

江戸と京都を結ぶ国家の大動脈・中山道における公式の宿駅

中央集権体制への正式な組み込み


第五章:礎の完成 ― 高崎宿の未来への遺産

慶長七年(1602年)に施された整備は、高崎の未来を決定づける揺るぎない礎となった。この制度的なDNAが、高崎を単なる一藩の城下町に留まらせず、中山道随一の宿場町、そして北関東の広域経済圏を支える中心都市へと飛躍させる原動力となったのである。

井伊直政の転封後、慶長九年(1604年)に高崎藩主となった酒井家次をはじめ、後任の藩主たちも城下町の整備を継続した 18 。特に、交通量の増大は著しく、寛永九年(1632年)には藩主・安藤重長によって、宿場の心臓部である問屋場(人馬の継ぎ立てや荷物輸送を差配する施設)が、伝馬役を担う本町・田町・新町にそれぞれ分散して設けられるなど、宿場機能の拡張が図られた 22 。これは、1602年に確立された三町分担体制が、その後の発展の基盤として有効に機能していたことを示している。

高崎宿は、大名などが宿泊・休息するための公的な施設である本陣や脇本陣が置かれなかったという、宿場町としては珍しい特徴を持っている 23 。これは、諸大名が藩の権威が強く及ぶ城下での宿泊を敬遠したためとされているが、この事実は逆説的に、高崎が宿場町であると同時に、統治の中心地としての「城下町」の性格を色濃く保ち続けていたことの証左に他ならない。

1602年の整備によって確立された宿場機能は、高崎に二つの強力な経済エンジンを搭載したに等しい。一つは、参勤交代や幕府の公用荷物輸送といった、安定した需要が見込める「公」の経済である。この公的な人流・物流は、もう一つのエンジンである「私」の経済を強力に誘発した。街道沿いには旅籠や商店が集積し、商業活動が活発化する。中山道と三国街道の分岐点に近いという地理的優位性も相まって、高崎は人・モノ・情報が絶えず行き交う交通のハブとなり、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺の暖簾がひらひらと」と詠われるほどの賑わいを見せるに至った 20

やがて高崎は、単なる通過点としての宿場機能を超え、広域的な物資集散地として発展していく。上州の特産品であった生糸や絹織物、また小麦といった農産物がこの地に集められ、市場が形成された 24 。隣接する倉賀野宿は、利根川水系の烏川を利用した河岸(船着場)としても機能しており、高崎に集められた物資が水運によって江戸へと運ばれるなど、陸運と水運が結びつく物流の結節点としての役割も果たした 26 。これらすべての発展の原点は、慶長七年に、高崎が国家の大動脈に正式に接続され、その中核を担う宿駅としての地位を確立した、あの瞬間にあったのである。

結論:戦国の終焉と秩序の創造

慶長七年(1602年)の「高崎宿整備」は、一世紀以上にわたって続いた戦国時代の混沌が収束し、徳川による新たな「秩序」が、具体的な制度と都市構造をもって形作られていく過程を凝縮した、極めて象徴的な出来事であった。

それは、井伊直政という稀代の戦国武将が描いた個人的な都市建設の青写真を、徳川幕府という中央集権国家が推進する全国的なインフラ網へと接続した、歴史的な瞬間であった。戦国的な実力支配の象徴である「城」と、近世的な公儀の支配の象徴である「宿駅」が融合した高崎の事例は、徳川の天下が、単なる武力による平定に終わらず、法と制度、そして交通網というインフラによって、全国津々浦々にまで浸透し、確立されていった過程を雄弁に物語っている。

この整備は、高崎の住民にとっても大きな意味を持っていた。旧来の住民と箕輪からの移住民が、出自の違いを超えて「伝馬役」という幕府の公役を等しく分担すること。それは、彼らがもはや特定の領主に属する民であるだけでなく、徳川の治める「天下」の一員であることを自覚する契機となったであろう。1602年、高崎の町人たちが新たな街道筋に未来を託し、宿駅としての責務を担い始めたその営みこそが、戦国の時代の完全なる終焉と、二百六十余年に及ぶ泰平の時代の幕開けを告げる、確かな胎動だったのである。

引用文献

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  8. 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
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