高松城築城(1590)
天正十八年、豊臣秀吉の天下統一の年に、生駒親正は讃岐国に高松城を築城。瀬戸内海の要衝に位置し、海水を引き込んだ堀を持つ日本三大水城の一つとして、豊臣政権の西国支配と海上戦略の拠点となった。
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天正十八年 高松城築城の深層分析:豊臣政権の西国支配と近世海城の誕生
序章:天正十八年、高松城誕生の刻
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を屈服させ、奥州の諸大名を従えることで、長きにわたる戦乱の世に終止符を打ち、天下統一を成し遂げた 1 。日本の歴史が大きな転換点を迎えたこの画期的な年に、中央から遠く離れた四国・讃岐国の沿岸部で、一つの巨大な城郭がその威容を現した。それが、後に日本三大水城の一つに数えられる高松城である 2 。
この事象は、単に一地方に新たな城が築かれたという事実以上の、深い歴史的意味を内包している。なぜ、全国が平定されようとするこの時期に、辺境とも言える讃岐の地に、これほど壮大かつ先進的な設計思想を持つ城郭が必要とされたのか。本報告書は、「高松城築城(1590年)」という事象を、戦国時代の終焉とそれに続く「近世」という新しい時代の幕開けを象徴する出来事として捉え、その戦略的、技術的、そして政治的背景を徹底的に解明することを目的とする。高松城の築城過程をリアルタイムの時系列で追いながら、それが豊臣政権の国家戦略の中でいかなる位置を占め、築城主・生駒親正の統治にいかなる影響を与えたのかを多角的に分析していく。
第一章:築城前夜―混沌の讃岐国と豊臣政権の影
第一節:長宗我部元親の支配と在地勢力の動向
豊臣秀吉による四国介入以前、讃岐国は長年にわたり複雑な政治情勢下にあった。室町時代を通じて守護・細川氏の支配下にあったが、その権威が衰えると、守護代の香川氏や、香西氏、十河氏といった国人・土豪層が各地で勢力を拡大し、互いに抗争を繰り広げる群雄割拠の状態にあった 3 。
この混沌に終止符を打ったのが、土佐国から勢力を伸ばした長宗我部元親である。元親は巧みな外交と軍事力をもって讃岐に侵攻し、天正十一年(1583年)頃までにはその大半を平定した 6 。特筆すべきは、元親が単なる武力制圧に頼らなかった点である。彼は西讃岐の守護代であった香川之景(信景)のもとへ、実子・親和を養子として送り込み、香川氏の名跡を継がせることで、在地勢力を巧みに自らの支配体制に組み込んだ 3 。この手法は、讃岐の国人たちが持つ根強い在地性を考慮したものであった。しかし、これは同時に、長宗我部氏の支配下にあっても旧来の在地領主の力が一定程度温存されていたことを意味し、後の豊臣政権による新たな支配体制構築の際に、複雑な要素として作用することになる。
第二節:豊臣秀吉の四国平定と初期統治の蹉跌
天正十三年(1585年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、弟・秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣する。圧倒的な物量の前に長宗我部元親は降伏し、讃岐国は豊臣政権の支配下に入った 6 。
秀吉は戦後処理として、軍功のあった仙石秀久に讃岐一国を与えた 6 。しかし、秀久は翌天正十四年(1586年)の九州征伐における戸次川の戦いで、軍監という立場でありながら無謀な作戦を強行して大敗を喫し、秀吉の逆鱗に触れて改易される 6 。次に讃岐(丸亀)を与えられた尾藤知宣も、同じく九州での根白坂の戦いにおける失態を咎められ、入封からわずか1年で改易の憂き目に遭った 6 。
この相次ぐ国主の交代と失敗は、単なる個々の武将の軍事的な過失に帰せられるものではない。それは、豊臣政権の初期における地方統治戦略の未熟さを示している。秀吉は当初、軍事功労者を論功行賞として配置することで、新領地の支配が確立できると考えていた。しかし、長年の戦乱で疲弊し、かつ在地勢力の力が根強く残る讃岐国において、武力一辺倒の統治は機能しなかった。仙石・尾藤の連続改易は、秀吉にとって西国支配戦略の重大な転換点となった。彼は、単なる武勇に優れた武将ではなく、領国経営の能力に長け、中央政権の意向を的確に実行できる「能吏」型の武将を配置する必要性を痛感したのである。この新たな戦略思想に基づき白羽の矢が立てられたのが、織田信長の頃から行政手腕で知られた生駒親正であった。天正十五年(1587年)、親正は讃岐一国17万石余の国主として入封する 8 。この人事は、豊臣政権の地方支配が「制圧」の段階から「経営」の段階へと移行したことを示す象徴的な出来事であり、高松城という巨大な統治拠点の建設は、この新しい統治理念の必然的な帰結であった。
第二章:生駒親正の讃岐入封―新時代の統治拠点選定
第一節:織豊期の能吏、生駒親正
生駒親正は美濃国の出身で、早くから織田信長に仕え、斎藤氏攻めなどで功を挙げた 11 。信長亡き後は豊臣秀吉の配下となり、数々の合戦で武功を重ねる一方、その温厚な人柄と統治能力で秀吉の厚い信頼を得ていた 11 。後に秀吉が後事を託す三中老の一人に任じられたことからも、彼が政権内でいかに重要な存在であったかがうかがえる 11 。親正は、戦場での武勇と平時の行政能力を兼ね備え、中央政権の高度な要求に応えることができる、まさに「織豊大名」の典型であった。
第二節:暫定拠点から恒久拠点へ―引田城・聖通寺城の限界
天正十五年(1587年)に讃岐国主となった親正は、当初、国の東端に位置する引田城を居城とした 2 。しかし、この地は領国全体を統治するにはあまりに東に偏りすぎており、地理的な不便さは明らかであった。そのため、入城後すぐに国のほぼ中央部に位置する聖通寺城へと拠点を移す 2 。
だが、この聖通寺城もまた、親正の構想する新しい国づくりには不十分であった 13 。引田城や聖通寺城は、いずれも在地勢力が築いた中世的な山城や丘城であり、防御を主眼とした拠点であった。領国全域を効率的に支配し、新たな経済圏を創出し、豊臣政権の権威を示すための近世的な政治・経済の中心地としては、規模、立地ともに限界があったのである。
親正のこの拠点移転の軌跡は、彼が中世的な城郭の限界を認識し、近世的な統治拠点へと思考を移行させていくプロセスそのものである。彼は既存の城を改修するという安易な選択を捨て、全く新しい場所に、全く新しい理念に基づいた城をゼロから築くことを決意した。それは、過去の在地勢力が築いた権威の象徴を否定し、豊臣政権による新たな支配秩序を視覚的にも物理的にも讃岐の地に刻み込むという、強い政治的意志の表れであった。彼の拠点探しは、単に「便利な場所」を探すのではなく、「新時代の統治とは何か」という問いに対する答えを探求する旅だったのである。
第三節:「篦原(のはら)」の選択―地政学的優位性と戦略的意図
親正が最終的に選び抜いた新城の建設地は、香東郡篦原庄玉藻浦(こうとうぐんのはらのしょうたまものうら)、当時「野原」と呼ばれていた寂しい港町であった 2 。この地は瀬戸内海に直接面し、水運の利便性が極めて高く、また背後には広大な平野が広がっていた 2 。親正は築城にあたり、この「野原」という地名を、近隣の山田郡高松郷の名にちなんで「高松」と改めた 9 。
「野原」という名の通り、大規模な開発が進んでいなかった未開の地であったからこそ、既存の制約に縛られることなく、理想的な城と城下町を一体的に設計することが可能であった。しかし、この立地選定には、生駒氏個人の統治上の都合をはるかに超えた、豊臣政権の壮大な国家戦略が関わっていた。
天正十六年(1588年)、秀吉は全国に「海賊取締令(海賊停止令)」を発布する 16 。これは、村上水軍に代表されるような独立した海上勢力を禁じ、瀬戸内海の制海権を完全に政権の管理下に置くことで、安全な海上交通路を確保しようとする国家戦略であった。この戦略を実現するためには、瀬戸内海という「天下の道」を常時監視し、有事の際には水軍を迅速に展開できる大規模な海城、すなわち軍港機能を持つ戦略拠点が必要不可欠であった。
高松の地は、瀬戸内海航路の中でも特に狭隘な海域に面しており、東西の海上交通を完全に扼(やく)することができる、まさに地政学的な要衝であった 17 。ほぼ同時期に構想され、後に関ヶ原の戦いの後に藤堂高虎によって築かれることになる対岸の伊予・今治城と対になる形で、瀬戸内海を挟み撃ちにする監視体制を構築する意図があったと考えられる 17 。したがって、高松城は単なる生駒親正の居城としてではなく、豊臣政権による「瀬戸内海国家管理システム」の中核を担う最重要戦略拠点として構想されたのである。その築城は、地方大名の裁量を一部超えた、中央政権のグランドデザインの一環であったと言っても過言ではない。
第三章:高松城築城のリアルタイム・クロニクル(天正十六年~天正十八年)
高松城の築城が進められた天正十六年(1588年)から天正十八年(1590年)は、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階を迎えた激動の時代であった。城の普請という地方での出来事と、日本全体の歴史を動かす中央での出来事を並行して見ることで、高松城築城の真の歴史的文脈が浮かび上がる。
西暦(和暦) |
豊臣政権・国内の動向 |
讃岐国・生駒氏の動向 |
高松城築城の進捗 |
1587年(天正15年) |
九州平定、島津氏を降伏させる。バテレン追放令を発布 1 。 |
生駒親正、讃岐一国を与えられ入封。引田城から聖通寺城へ移る 2 。 |
新城建設地の選定を開始。 |
1588年(天正16年) |
刀狩令 を発布 1 。海賊取締令を発布 16 。大坂城が完成 1 。 |
讃岐国内で検地を実施 19 。 |
篦原庄玉藻浦にて 築城を開始 13 。縄張り(設計)が行われる。 |
1589年(天正17年) |
- |
親正、家督を嫡男・一正に譲るも実権は保持 21 。 |
石垣普請、堀の掘削など本格的な工事が進行。 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐 。北条氏を滅ぼし、 天下統一を完成 させる 1 。 |
親正、豊臣軍の一員として小田原征伐に従軍(韮山城包囲など) 22 。 |
城郭が ほぼ完成 2 。地名を「高松」と改める 9 。 |
1592年(文禄元年) |
文禄の役 (朝鮮出兵)を開始 19 。 |
親正、一正親子も朝鮮へ出兵。生駒水軍を率いる 11 。 |
兵站基地として機能を開始。 |
第一節:天正十六年(1588)―普請開始
天正十六年(1588年)、生駒親正は篦原の地で壮大な新城の建設に着手した 13 。奇しくも同年、豊臣秀吉は全国に「刀狩令」を発布している 1 。この法令は、農民から武器を没収することで兵農分離を徹底し、一揆の脅威を根本から取り除くことを目的としていた。これにより、大名は領内の民衆を安定した労働力として大規模な土木工事に動員することが可能となった。高松城のような巨大プロジェクトは、刀狩令によってもたらされた新しい社会秩序の上に初めて実現可能となったのである。
第二節:縄張りの巨匠たち―黒田孝高と藤堂高虎の影
高松城の縄張り(基本設計)は、一次史料が現存しないため、誰が手掛けたか明確ではない 24 。しかし、その構造の合理性と完成度の高さから、当時最高の築城家たちの名が取り沙汰されている。特に有力視されるのが、秀吉の軍師であり築城の名手でもあった黒田孝高(官兵衛、後の如水)である 2 。
興味深いことに、黒田孝高もまた、高松城の築城が始まったのと同じ天正十六年(1588年)に、自らの領地である豊前国で中津城の建設を開始している 21 。この中津城も、川の河口に位置し、海水を引き込んだ堀を持つ梯郭式の水城であり、高松城との設計思想上の共通点は極めて多い 21 。これは単なる偶然とは考え難い。
また、後に今治城や江戸城の設計でその名を馳せる藤堂高虎の関与も説として存在する 2 。高松城に見られる、海を最大限に活用した徹底的な防御思想は、後に高虎が完成させる築城術の萌芽と見ることもできるだろう 29 。
特定の人物が単独で設計したというよりは、高松城の縄張りは、豊臣政権の中枢で共有されていた「最新鋭の海城の設計思想」が色濃く反映された結果である可能性が高い。秀吉政権下では、重要な城の築城は「天下普請」に近い形で、複数の大名や技術者が専門知識を提供し合う体制が存在したと考えられる。高松城は、黒田孝高の思想を基軸としながら、他の専門家の知見も取り入れられた、当時の築城技術の粋を集めた「政権のモデル城郭」であったと推察される。
第三節:普請の実際―石と人と技
高松城の堅固な石垣には、近隣で産出される最高品質の花崗岩「庵治石(あじいし)」が惜しみなく使用された 30 。特に水晶と同等の硬度を誇る「庵治石細目」は、城の基礎となる重要な部分に用いられたという 30 。また、近年の調査では、対岸の屋島からも石材が計画的に切り出されていたことが判明している 33 。
石垣の構築は、まず内部に土を盛って土台(盛土)を築き、その前面に築石(つきいし)と呼ばれる石を積み上げ、その背後の隙間に栗石(ぐりいし)と呼ばれる小石を詰めて水はけを良くするという、合理的かつ高度な工法が用いられた 24 。このような大規模工事を短期間で遂行できた背景には、良質な資材を近隣から計画的に調達する兵站能力と、膨大な労働力を組織的に管理・動員する卓越した行政能力が存在したことを物語っている。
第四節:天正十八年(1590)―完成の年
築城開始から約2年後の天正十八年(1590年)、高松城はその主要部分が完成した 2 。この年、日本の歴史は大きく動いていた。豊臣秀吉は関東の北条氏を攻める「小田原征伐」を敢行。城主である生駒親正も、秀吉軍の一員としてこれに従軍し、伊豆の韮山城包囲などに加わっている 22 。主君が遠征で不在の中、高松での築城工事が滞りなく進められたことは、現場を監督する優秀な奉行や家臣団の存在をうかがわせる。
同年7月、北条氏が降伏し、秀吉による天下統一事業はここに完成した 1 。この事実は、高松城の歴史的性格を決定づける極めて重要な意味を持つ。高松城が完成したその瞬間、それはもはや国内の敵対勢力に備えるための「戦国の城」ではなく、統一国家の地方統治と対外的な威信を示すための「近世の城」として、その役割をスタートさせることになったのである。城が完成した時点で、国内の大規模な戦争の脅威は消滅していた。高松城は、その誕生の瞬間から「戦うための城」ではなく「治めるための城」としての宿命を背負っていた。事実、この城は幕末の無血開城に至るまで、一度も実戦を経験することはなかった 20 。
第四章:完成時の高松城―その構造と戦略的意図
第一節:日本三大水城の筆頭格たる所以
高松城は、伊予の今治城、豊前の-中津城と並び「日本三大水城」と称されるが、その中でも最大級の規模と完成度を誇る 2 。最大の特徴は、瀬戸内海の海水を、外堀・中堀・内堀という三重の堀に直接引き込んでいる点である 2 。これにより、堀の水は潮の干満に応じて自然に循環し、水位が変化するため、敵の侵入を困難にした 19 。また、淡水の堀のように水が腐敗することがなく、衛生的であるという利点もあった 19 。これは長期の籠城や平時の居住性まで考慮した、極めて先進的な設計思想であった。
城名 |
国 |
築城開始年 |
主な築城主 |
縄張り担当者(説) |
立地・構造的特徴 |
高松城 |
讃岐 |
1588年 |
生駒親正 |
黒田孝高、藤堂高虎 |
瀬戸内海に直接面し、 三重の海水堀 を持つ。城内に軍港・商港(舟入)を備える。 |
今治城 |
伊予 |
1602年 |
藤堂高虎 |
藤堂高虎 |
瀬戸内海に直接面し、広大な海水堀と大規模な舟入を持つ。高石垣と層塔型天守が特徴 18 。 |
中津城 |
豊前 |
1588年 |
黒田孝高 |
黒田孝高 |
山国川河口に位置し、海水を引き込んだ堀を持つ。 梯郭式 の縄張りが特徴 21 。 |
第二節:海を取り込む画期的な縄張り
高松城の縄張りは、海を単なる防御線としてではなく、城の機能の一部として完全に取り込んでいる点に画期性がある。城の中枢である本丸は、内堀によって他の曲輪から完全に独立しており、外部とは屋根付きの木橋である「鞘橋(さやばし)」一本でしか繋がっていなかった 2 。有事の際にはこの橋を破壊すれば本丸は難攻不落の島となり、逆に本丸に設けられた船着き場から海へと脱出することも可能であった 2 。
さらに、城の東西には大規模な港湾施設である「舟入(ふないり)」が設けられていた。西側には藩の公用船が出入りする「西浜舟入」、東側には商船が行き交う「東浜舟入」があり、城郭そのものが軍港と商業港の機能を併せ持つ一大物流拠点となっていた 2 。これは、城を単なる軍事施設ではなく、政治・経済・軍事を一体化した複合的拠点として捉える、極めて近代的な都市計画思想の表れである。
第三節:城下町の同時形成
生駒親正は、築城と並行して、計画的な城下町の建設を進めた 19 。彼は、商工業の振興が国を豊かにすることを知悉しており、旧来の拠点であった丸亀から商人たちを移住させて「丸亀町」を、また各地から職人を集めて「大工町」や「鍛冶屋町」などを形成した 38 。これらの町名は、400年以上を経た現代の高松市中心部にも地名として受け継がれている 38 。
この計画的な町割りは、城の建設が高松という都市の誕生そのものであったことを示している。武家屋敷は城の周辺に、町人地はそれを囲むように整然と配置され、防衛と経済活動の両面を考慮した合理的な都市空間が創出された。城が軍事拠点であると同時に、経済活動の中心地として機能するという、近世城郭の典型的な姿がここに見られる。
第五章:築城後の高松城―豊臣政権下の拠点から徳川の世へ
第一節:文禄・慶長の役(1592-1598)―兵站基地としての始動
高松城完成からわずか2年後の文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は明の征服を目指し、朝鮮への大規模な出兵を開始した(文禄・慶長の役) 19 。この未曾有の対外戦争において、西国の大名は兵員や兵糧、武具などの供給を厳しく義務付けられた 19 。
この国家的な大事業において、高松城はその真価を遺憾なく発揮した。瀬戸内海航路の要衝に位置し、大規模な港湾機能を持つ高松城は、畿内から九州の前線基地・名護屋城へと向かう膨大な兵員と物資を中継する、最重要の兵站基地として機能したと推察される。築城主の生駒親正・一正親子も自ら朝鮮へ渡海し、生駒水軍を率いて奮戦したと伝えられる 11 。その間、高松城の舟入からは、領内から徴収された米や塩、武具を満載した船が、昼夜を分かたず出航していったであろう 19 。これは、高松城が築城直後から、その設計意図通り「海を介して国家と直結する戦略拠点」として機能したことを明確に証明している。
第二節:関ヶ原の戦い(1600)と生駒氏の選択
慶長五年(1600年)、秀吉の死後に顕在化した対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な動乱に際し、生駒家は巧みな戦略をとった。父である親正は、豊臣家への旧恩から西軍に与する姿勢を見せつつ大坂城に留まり、一方で家督を継いでいた嫡男の一正は、徳川家康率いる東軍に加わり、本戦で武功を挙げた 10 。
これは、石田三成と徳川家康のいずれが勝利しても、生駒家が存続できるようリスクを分散させる、戦国末期の乱世を生き抜くためのしたたかな生存戦略であった。結果的に東軍が勝利を収めたため、一正の功績が認められ、生駒氏は戦後も所領を安堵された 10 。これにより、生駒家は讃岐高松藩17万石余の初代藩主として近世大名の地位を確立し、高松城は徳川の世においてもその中心的拠点としての役割を継続することになった。
補論:生駒氏から松平氏へ―近世城郭としての発展
生駒氏による統治は4代54年続いたが、四代藩主・高俊の代に深刻なお家騒動(生駒騒動)が発生し、幕府の介入を招いた結果、寛永十七年(1640年)に改易となった 9 。
その後、寛永十九年(1642年)、新たな高松藩主として入封したのは、水戸藩主・徳川頼房の長子であり、将軍・家光の従兄弟にあたる松平頼重であった 9 。親藩大名である松平氏は、高松城の大規模な改修に着手。生駒時代には存在したとされる三重の天守を解体し、九州の名城・小倉城を模したとされる、最上階が下の階より大きい「南蛮造り(唐造り)」の壮麗な三層五階の天守を新たに建設した(寛文十年・1670年完成) 13 。さらに、城の防御と景観を向上させるため、北の丸や東の丸を増設し、月見櫓や艮櫓といった現存する重要な建造物を次々と築いた 2 。
松平氏によるこれらの改修は、生駒親正が築き上げた合理的で堅固な縄張りを土台として行われた。生駒氏が築いた機能的な「骨格」の上に、松平氏が徳川親藩としての権威を象徴する華麗な「装飾」を加えていったと言える。これにより、高松城は近世城郭として、その完成度を一層高めていったのである。
結論:戦国時代の終焉を告げる「近世の海城」としての歴史的意義
天正十八年(1590年)の高松城築城は、単なる一地方大名の居城建設という事象をはるかに超える、重層的な歴史的意義を持つ。それは、豊臣秀吉が推し進めた天下統一事業と、それに続く新しい国家体制の構築という、壮大な構想と密接に連動した国家戦略の一環であった。
その立地選定は、瀬戸内海の制海権掌握という地政学的要請に応えるものであり、その設計思想は、軍事、政治、経済を一体化した複合拠点を目指す近世的な都市計画の表れであった。そして、その完成が天下統一と同時であったという歴史の偶然は、この城が「戦闘の時代」の終焉と「統治の時代」の到来を象徴する存在であることを運命づけた。
完成直後から朝鮮出兵の兵站基地として国家に貢献し、一度も戦火を経験することなく、統治と経済の拠点として発展を続けた高松城の歴史は、城郭という存在そのものが、戦乱の象徴から平和の象徴へとその役割を変えていった時代の大きな転換点を映し出している。天正十八年、小田原の落城が戦国時代の終わりを告げる高らかなファンファーレであったとすれば、時を同じくして讃岐の海辺にその威容を現した高松城は、新しい時代の到来を静かに、しかし力強く告げる礎石であったと言えるだろう。
引用文献
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- 戦国!室町時代・国巡り(29)讃岐編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n09ebea3c815b
- 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(上) https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2023/01/79_UG001_001-031_mizobuchi.pdf
- かもねのたかまつ歴史小話(7) 戦国時代の讃岐の栄枯盛衰 part.3 - 高松経済新聞 https://takamatsu.keizai.biz/column/22/
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- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
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