高梁川治水(1590)
宇喜多秀家は1590年頃、高梁川治水と児島湾干拓を統合した「宇喜多堤」を建設。高松城水攻めの技術を転用し、洪水防御と新田開発を推進。戦国末期の先進的領国経営で、岡山平野発展の礎となった。
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天正期備中における宇喜多氏の治水・開発事業の全貌 ―「高梁川治水(1590)」の歴史的再評価
序章: 問いの再設定 ―「高梁川治水(1590)」とは何か
本報告書は、「高梁川治水(1590)」という特定の事象を、戦国時代末期の備中国(現在の岡山県西部)という歴史的文脈の中に正確に位置づけ、その全貌を解明することを目的とする。ご提示いただいた「堤防整備で城下と耕地を洪水から守る」という情報は、この時代における重要な課題を的確に捉えている。しかしながら、詳細な調査の結果、この事象は単一の洪水対策事業として完結するものではなく、より広範かつ壮大な領国経営構想の一部であったことが明らかとなった。
天正18年(1590年)は、豊臣秀吉による天下統一が完成し、日本の歴史が大きな転換点を迎えた年である。全国の大名たちは、もはや軍事力のみでその価値を問われるのではなく、領国を豊かにし、民政を安定させる統治能力、すなわち「経国済民」の才覚を強く求められる時代へと移行していた 1 。この時期、備前・美作・備中半国を領有し、豊臣政権下で五大老の一人にまで数えられた若き大大名が宇喜多秀家であった 1 。秀吉の養女・豪姫を妻に迎え、豊臣一門に準じる厚遇を受けていた彼は、その政治的地位を背景に、自らの領国において大規模な社会基盤整備事業を敢行し得る立場にあった。
事業の舞台となった岡山平野は、吉井川、旭川、そして高梁川という三大河川が中国山地から運搬した膨大な土砂によって形成された、日本有数の沖積平野である 4 。この肥沃な大地は、古代より吉備文化が栄えるなど、豊かな農業生産のポテンシャルを秘めていた 7 。しかしその一方で、河川の氾濫という宿命的なリスクを常に内包していた 8 。特に、中世以降に中国山地で隆盛を極めた「たたら製鉄」は、この地域の環境に決定的な影響を及ぼす。砂鉄を採取する際に大量の土砂を洗い流す「鉄穴流し(かんなながし)」によって、高梁川の下流域には膨大な土砂が堆積し、川底が周辺の平地よりも高くなる「天井川」の状態を進行させていたのである 10 。これは、一度堤防が決壊すれば、壊滅的な被害をもたらす極めて危険な状態であり、戦国時代末期において、高梁川の治水は喫緊の国家的課題となっていた。
この状況は、宇喜多氏の事業が単なる自然災害への受動的な対応ではなかったことを示唆している。むしろそれは、数世紀にわたる人間活動(製鉄という経済活動)が引き起こした人為的な環境改変に対し、当時の最大級の権力と最新の土木技術をもって能動的に応答しようとする、壮大な試みであった。
したがって、本報告書では「高梁川治水(1590)」という一点に限定せず、これを**「天正年間末期(1590年前後)、宇喜多秀家が主導した、高梁川水系を含む岡山平野南部の大規模な治水・利水・開発事業の総体」**として捉え直す。そして、その技術的源流、具体的な事業内容、そして後世に与えた深遠な影響までを、時間軸に沿って多角的に解明していく。これこそが、ご依頼の意図を最も深く、かつ正確に汲み取った回答であると確信する。
第一部: 技術的・軍事的序曲 ― 備中高松城水攻め(1582年)の衝撃
1590年前後の民生事業を理解する上で、そのわずか8年前に同じ備中の地で繰り広げられた、戦国史上類を見ない大規模土木工事「備中高松城水攻め」を避けて通ることはできない。この戦いは、単なる軍事作戦に留まらず、後の大規模な治水・開発事業への壮大な技術的予行演習としての側面を持っていた。宇喜多氏がこの極限状況下で得た知見と組織能力こそが、後の領国経営の礎となったのである。
計画から実行へ:12日間のリアルタイム再現
【開戦前夜:天正10年(1582年)3月~4月】
織田信長の命を受け、中国地方攻略の総司令官であった羽柴秀吉は、宇喜多勢1万を含む総勢3万の大軍を率いて備中へと進軍した 12。毛利方の重要拠点である備中高松城は、城主・清水宗治のもと堅固な守りを誇っていた。城の周囲は深い沼沢地に囲まれており、力攻めは多大な犠牲を強いられることが必至であった 13。ここで秀吉の軍師・黒田官兵衛は、城の地形を逆手に取る奇策を献策する。それは、周囲に長大な堤防を築き、足守川の水を引き込んで城を水没させるという、前代未聞の「水攻め」であった 12。兵力の損耗を最小限に抑え、短期決戦を目指す秀吉は、この壮大な計画の採用を決断する。
【築堤開始:同年5月8日頃】
築堤奉行には、土木工事に長けた蜂須賀正勝が任命された 14。そして、この空前の大工事の実行部隊の中核を担ったのが、宇喜多秀家率いる宇喜多勢であった 13。工事は、高松城の南東に位置する石井山南麓の「蛙ヶ鼻(かわずがはな)」を起点として開始された 12。目的は、城の周囲を完全に包囲し、足守川の水を堰き止める巨大な堤防を築くことであった。
【驚異の土木技術とプロジェクトマネジメント】
計画された堤防の規模は、全長約3km、高さ7~8m、底部の幅24m、上部の幅12mという、まさに山を築くようなものであった 13。重機など存在しない時代に、これを実現するために、秀吉と宇喜多勢は驚くべき手法を用いた。土を詰めた俵(土俵)を積み上げて堤の基礎とし、その上から周辺の丘陵を削って得た花崗岩風化土を盛り固めていく工法が採用された 12。
この工事の成功を決定づけたのは、卓越したプロジェクトマネジメント能力である。秀吉は、土俵1俵を運ぶごとに米1升と銭百文という、当時としては破格の報酬を提示し、備前・備中から数万人の領民を労働力として動員した 13 。これにより、昼夜を問わない三交代制での突貫工事が可能となった。資材の調達、労働力の組織化、食料の供給、賃金の支払いといった、現代の巨大プロジェクトにも通じる高度な管理体制が、戦場の極限状況下で構築・運用されたのである。この経験は、特に実働部隊を率いた宇喜多家中にとって、単なる技術の習得以上の、組織能力そのものを飛躍的に向上させる貴重な機会となった。
【築堤完了と湖の出現:同年5月19日頃】
着工からわずか12日後、長大な堤防は驚異的な速さで完成した。折しも季節は梅雨であり、降り続く長雨によって増水した足守川の水が堤の内側へと引き込まれると、高松城の周囲には約200ヘクタールにも及ぶ巨大な人工の湖が出現した 12。城は完全に水に浮かぶ孤島と化し、兵糧や援軍の補給路を断たれ、戦わずして窮地に陥った 13。
技術的遺産の継承
この備中高松城水攻めは、宇喜多氏にとって、その後の領国経営を方向づける決定的な経験となった。数万の人間を組織し、短期間で巨大な土木構造物を築き上げるロジスティクス。河川の流れを意のままに制御し、水を支配する治水技術。これらすべてを、実戦という最も過酷な条件下で学び、実践したのである。
戦後、この堤防の大部分は取り壊されたが、起点となった蛙ヶ鼻の一部は奇跡的に現存している 17 。後の発掘調査では、幅24mにわたる土俵の痕跡や、基礎を固めるための杭列が発見されており、記録に残る工事が単なる誇張ではなく、当時の技術水準の高さを証明する歴史的事実であったことが裏付けられている 15 。この水攻めで得られた有形無形の技術的遺産、そして何よりも「やればできる」という組織としての自信が、8年後の大規模民生事業へと繋がっていくことになる。
項目 |
備中高松城水攻め堤防(1582年) |
宇喜多堤(1584-1589年頃) |
主目的 |
軍事(城の水没・孤立化) |
民生(洪水防御、新田開発のための干拓) |
主導者 |
羽柴秀吉(全体指揮)、黒田官兵衛(献策) |
宇喜多秀家(全体指揮)、岡豊前守(責任者) |
技術責任者 |
蜂須賀正勝(築堤奉行) |
千原勝則(奉行) |
築堤期間 |
短期(約12日間) |
中長期(数年間) |
規模(全長) |
約3km |
約2km + 約4.5km(二つのルートの合計) |
構造 |
一時的な土堰堤 |
恒久的な潮止め堤防、河川堤防 |
動員主体 |
軍勢(宇喜多勢主力)、周辺領民(高報酬) |
領民(賦役または報酬) |
後世への影響 |
技術・組織能力の獲得、史跡として現存 |
岡山平野の拡大、後世の干拓の基礎、現代の道路網 |
第二部: 宇喜多秀家のグランドデザイン ― 児島湾干拓と「宇喜多堤」
備中高松城水攻めという壮絶な実戦演習を経て、宇喜多家中には巨大土木事業を遂行する確かな技術と組織力が蓄積された。秀吉による天下統一事業が進展し、世が平穏に向かう中、宇喜多秀家はこの比類なき能力を、軍事目的から領国の経済的発展へと転用する。その象徴こそが、高梁川の治水と児島湾の干拓を同時に実現しようとした一大事業、「宇喜多堤」の建設であった。これこそが、「高梁川治水(1590)」という事象の核心をなすものである。
事業の動機:領国経営のパラダイムシフト
豊臣政権が確立すると、大名の格付けは、その支配する領地の生産力、すなわち「石高(こくだか)」によって序列化されるようになった 22 。父・直家が一代で築き上げた備前・美作の支配を継承した秀家にとって、豊臣政権内での自らの地位を不動のものとし、領国を盤石にするためには、この石高を抜本的に増大させることが至上命題であった 1 。
そのための最大の未開拓地(フロンティア)が、岡山平野の南に広がる広大な「吉備の穴海」、すなわち児島湾の遠浅の干潟であった 24 。三大河川が運び込む土砂によって、この海域は次第に陸化しつつあり、干潮時には広大な土地が姿を現していた 4 。この海を堤防で仕切り、新たな耕地を創出すること。それは、既存の土地の生産性を上げるという次元を超え、文字通り「領土を創造する」という野心的な構想であった。この事業は、戦国大名の支配が、城や街道といった「点と線」の確保から、検地を通じて領内の土地(石高)を隅々まで把握する「面」の支配へと移行する時代の流れの中で、物理的にその「面」を拡大する画期的なプロジェクトであった。秀家は、自らの手で地図を塗り替えることによって、その権力が及ぶ空間そのものを再定義しようとしたのである。
計画と指揮系統(天正12年~17年頃 / 1584年~1589年)
この国家的な大事業を推進するため、秀家は最適な人材を配置した。
事業の総責任者には、宇喜多氏三老の一人に数えられる宿老・**岡豊前守家利(おか ぶぜんのかみ いえとし、通称:利勝)**が任命された 26 。彼は、宇喜多直家の時代から政務の中枢を担い、岡山城の建設にも携わった経験を持つ、優れた行政官であった 28 。
そして、実際の工事を指揮する技術面の責任者(奉行)には、**千原九右衛門勝則(ちはら くえもん かつのり)**が抜擢された 26 。彼は土木技術に卓越し、備中高松城水攻めにおいても足守川の堰き止め工事で重要な役割を果たしたと伝えられる人物である 29 。まさに、軍事技術を民生事業へと応用する象徴的な人選であった。この岡と千原のコンビが、秀家のグランドデザインを現実のものとしていく。
「宇喜多堤」の全容:二つの堤防ルート
「宇喜多堤」と総称されるこの事業は、大きく二つの異なる目的とルートを持つ堤防建設から構成されていた。
【ルート1:高梁川東流の制御と倉敷方面の開発】
当時、高梁川下流域は酒津(現倉敷市酒津)付近で東西二つに分流していた 6。このうち東側の流れ(東高梁川)は、しばしば氾濫して倉敷周辺に被害をもたらしていた。そこで、まず
酒津から浜村(現在の倉敷駅東方)に至る約2kmの堤防 が築かれた 26 。これは、高梁川の洪水を防ぐという直接的な治水目的と、それによって安定した土地を確保し、倉敷市街地周辺の新田開発を促進するための基盤整備であった。
【ルート2:児島湾の潮止めと大規模干拓】
本事業の主眼であり、最も壮大な部分がこのルートである。現在の早島町の東端に位置する多聞カ鼻(たもんがはな、現在の龍神社付近)を起点とし、宮崎、そして向山(むかいやま)の山麓にある岩崎(現在の倉敷市二日市付近)に至る、全長約4.5kmにも及ぶ長大な潮止め堤防が建設された 26。この堤防によって、それまで海によって隔てられていた児島(当時は島であった)と本土が初めて陸続きとなり、その内側に広大な干拓地を生み出すための巨大な「器」が完成した。
戦国末期の最先端土木技術
この長大な堤防を、しかも海を相手に建設するためには、高松城水攻めで培われた技術が遺憾なく発揮された。当時の海面干拓で用いられた工法は、土俵や、竹で編んだ籠に土を詰めたもの、あるいは松の丸太杭を打ち込んで芯とし、その間に小枝や竹を絡ませて土を盛り固める、といったものであったと推測される 33 。労働力については、水攻めのように高額な報酬で臨時的に集めるのではなく、領民に課せられた賦役(ぶやく)なども活用し、より計画的かつ継続的に動員されたと考えられる。この事業は、軍事的な緊急性から解放された分、より恒久的で堅牢な構造物を作るための、腰を据えた土木工事であった。
第三部: 新たな大地の創出 ― 新田開発と水利体系の整備
「宇喜多堤」という壮大なハードウェアの完成は、ゴールではなく、新たな領土創出の始まりに過ぎなかった。堤防の内側に生まれた広大な土地を、実際に米を実らせる生産性の高い農地へと転換し、宇喜多氏の経済基盤に組み込むためには、さらなる緻密な計画と事業が必要であった。それは、堤防建設という物理的な工事に加え、用水路というインフラ整備、そして検地と村落編成という社会制度の構築を統合した、包括的な開発プロジェクトであった。
新田検地の実施と石高の確定
干拓によって生まれたばかりの土地は、まだ誰のものでもなく、公式な石高も持たない。これを宇喜多氏の領地として確定し、年貢徴収の対象とするために、検地(土地調査)が実施された。これは、豊臣秀吉が全国統一の仕上げとして進めていた「太閤検地」の基準に則って行われたと考えられる 34 。
検地竿や間縄といった道具を用いて、一筆(いっぴつ)ごとの土地の面積が正確に測量され、その土地の肥沃度などに応じて上・中・下といった等級が定められる 35 。そして、面積と等級を掛け合わせることで、その土地の米の標準収穫量、すなわち石高が算出された。この結果が検地帳に記録されることで、新田は初めて公式な領地となり、耕作者と年貢負担者が確定したのである 34 。この一連のプロセスを通じて、宇喜多氏の公称57万4千石という石高は実質的に大きく増大し、その財政基盤は飛躍的に強化された。
生命線の確保:「八ヶ郷用水」の整備
干拓地の農業にとって、最大の課題は農業用水の確保である。堤防によって海水は遮断できても、米作りに不可欠な真水がなければ、せっかく創出した土地も宝の持ち腐れとなる。特に、塩分を含む土地を農地化するには、大量の真水で土中の塩分を洗い流す必要があった。
この生命線を確保するため、宇喜多堤の建設と並行して、あるいはその直後に、大規模な用水路の建設が進められた。岡豊前守と千原勝則の指揮の下、**高梁川から取水し、約10kmにわたって新田地帯に水を供給する「八ヶ郷用水(はっかごうようすい)」**が整備されたのである 29 。
この事実は、宇喜多氏の計画が極めて高度な総合的水利計画であったことを物語っている。彼らは、洪水を防ぎ海を仕切る「治水・防水」の事業(宇喜多堤)と、農地に水を供給する「利水」の事業(八ヶ郷用水)を、分断された個別の工事としてではなく、一つの統合されたプロジェクトとして構想し、実行した。堤防という「器」を造るだけでなく、その器に生命を吹き込む「血液」までをも同時に計画した点に、宇喜多政権の卓越した統治能力が窺える。これは、一過性の成果を求めるのではなく、持続可能な生産基盤を未来にわたって構築しようという、長期的な視座があったことを示している。
社会・経済へのインパクト
この一連の事業は、岡山平野南部の社会と景観を一変させた。かつて「吉備の穴海」と呼ばれた内海は、整然と区画された広大な水田地帯へとその姿を変えた 25 。新たな農地の出現は、周辺地域からの人口流入を促し、新しい村落(新田村)が次々と形成された 36 。
宇喜多秀家が創出したこの新たな大地は、戦国時代の終焉を告げるとともに、近世社会の幕開けを象徴するものであった。そして、この天正年間の大事業は、江戸時代を通じて岡山藩(池田氏)がさらに推し進めることになる、日本史上最大級の干拓事業の輝かしい先駆けとなったのである 30 。
第四部: 総合的考察 ― 戦国期における治水・開発事業の歴史的意義
宇喜多秀家が天正年間末期に主導した一連の事業は、単なる局地的な土木工事に留まらず、戦国時代から近世へと移行する日本の歴史において、極めて重要な意義を持つ。その先進性と戦略的構想力は、日本の治水史・開発史の中に確固たる位置を占めるものである。
「高梁川治水(1590)」の再評価
本報告書で詳述してきたように、「高梁川治水(1590)」と称されるべき事象の実体は、高梁川の洪水を防ぐという「守りの治水」と、児島湾を干拓して新たな領土を創出する「攻めの開発」とが、分かちがたく結びついた統合的事業であった。
その最大の画期性は、備中高松城水攻めという軍事技術・組織能力を、平和的な民生事業へと巧みに転用した点にある。これは、戦乱の時代が終わり、国家建設の時代が始まることを象徴する出来事であった。上流からの土砂堆積という長年の環境問題に対応しつつ、同時に領国の経済基盤を飛躍的に強化するという二つの課題を一つのプロジェクトで解決したこの事業は、戦国末期における領国経営の、最も先進的かつ成功したモデルケースとして再評価されるべきである。
技術史における位置づけ
日本の治水史において、戦国大名による大規模な事業はいくつか知られている。甲斐の武田信玄が釜無川の治水のために築いた「信玄堤」は、霞堤(かすみてい)などの巧妙な仕掛けを用いて水の力を巧みに制御する、優れた治水技術の結晶である 40 。また、江戸幕府を開いた徳川家康が、江戸の町を洪水から守り、広大な関東平野の開発を可能にするために行った「利根川東遷事業」は、河川の流路そのものを大規模に変更する、国家的な大プロジェクトであった 41 。
これらの事業と比較した際、宇喜多氏の事業の際立った特徴は、河川だけでなく「海への働きかけ」、すなわち干拓を治水・開発の中心に据えた点にある。これは、三大河川の河口に位置し、遠浅の海が広がる瀬戸内海という、岡山平野ならではの地理的条件を最大限に活用した、地域特性への最適解であった。内陸の急流河川を相手にした信玄、広大な平野の大河を相手にした家康に対し、秀家は海と川が接する汽水域という、全く異なるフロンティアに挑んだのである。
戦国大名から近世大名へ
宇喜多秀家のこの事業は、大名の権力のあり方が、戦国期から近世期へと質的に変化していく過程を見事に体現している。戦国大名の権力が、主に軍事力によって敵を打ち破り、領土を奪い取ることで正当化されたのに対し、近世大名の権力は、領民の生命と財産を洪水などの災害から守り、新たな生産の場を提供して生活を豊かにすることによっても、その正当性を得るようになる。
秀家は、武力によって領国を平定した父・直家の基盤の上に立ち、土木技術という新たな力を用いて、領民に安全と繁栄をもたらす統治者としての姿を示した。これは、単なる武将から、領国全体を経営する行政官へと変貌を遂げつつあった、近世的統治理念の萌芽と言える。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦った秀家は、敗戦によってその領国をすべて失い、八丈島へと流されることになる 1 。しかし、彼が岡山平野に刻み込んだ治水・開発の痕跡は、政治体制の変動を超えて生き続けた。宇喜多氏が創出した広大な新田と、それを支える水利システムは、次代の領主である池田氏にそっくり引き継がれ、江戸時代を通じて「西国将軍」と称された岡山藩の豊かな経済力の礎となったのである 23 。宇喜多秀家という武将は歴史の舞台から姿を消しても、彼が残した偉大な土木の遺産は、岡山平野の景観と社会の中に、永続的な影響を与え続けている。
結論: 宇喜多秀家の遺産
本報告書における分析の結果、「高梁川治水(1590)」という事象は、天正年間末期に宇喜多秀家が主導した、治水、利水、そして大規模な新田開発を統合した、壮大な社会変革プロジェクトであったと結論付けられる。
それは、備中高松城水攻めという軍事行動で培われた最先端の土木技術と組織マネジメント能力を、領国の恒久的な繁栄という民生目的に振り向けた、時代の転換点を象徴する事業であった。上流の製鉄業がもたらした土砂堆積という人為的環境問題への対応(守りの治水)と、児島湾干拓による領土創出という経済基盤の強化(攻めの開発)を同時に実現したその構想力は、同時代の他の大名の事業と比較しても、際立った先進性を持っている。
この事業は、単に物理的な景観を変えただけではない。新たな土地と水利システムを創出し、そこに人々を住まわせ、検地によって国家の経済システムに組み込むという一連のプロセスは、戦国大名が領国と領民を一体として経営する「近世大名」へと脱皮していく姿そのものであった。
関ヶ原の敗戦により、宇喜多秀家は悲劇的な運命を辿るが、彼が岡山という土地に残した遺産は、政治的な勝敗を超えて計り知れない価値を持つ。彼が築いた堤防と用水路は、後継の池田藩によるさらなる開発の礎となり、現代に至る岡山平野の骨格を形成した。宇喜多秀家の治水・開発事業は、戦国乱世の終焉期において、一人の若き大名が軍事、政治、経済、環境という時代の諸課題にいかにして統合的に対峙しようとしたかを示す、不滅の記念碑である。その歴史的意義は、戦国大名としての宇喜多秀家の評価を再考させるに十分なものであり、彼が後世に残した最も永続的な功績として記憶されるべきである。
引用文献
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- 宇喜多秀家の物語を全国へ!大河ドラマ実現に向けて、一緒に盛り上げよう! https://ameblo.jp/lidohotels/entry-12878188943.html
- 大河ドラマ化に期待! 宇喜多直家、秀家ゆかりの地を巡る | 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net https://okayama-kanko.net/sightseeing/special/5762/
- 岡山平野ゼロメートル地帯 - 中国地方整備局 http://www.cgr.mlit.go.jp/okakawa/bousai/zerometoru/bousai_zero_menu.htm
- わが町の歴史(中巻) - 岡山市電子町内会 https://townweb.e-okayamacity.jp/yonegura/rekishi/rekisi1.htm
- 真備地域の最終氷期以降の自然環境と そこで生きる人々の変遷 https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/2000313/files/kenkyuhokoku_249_09.pdf
- 岡山県の戦国時代特集!大内、尼子、毛利、織田が抗争し宇喜多が暗躍する仁義なき戦い https://hono.jp/sengoku/sengoku-okayama/
- 高梁川流域の洪水と治水 (PDF 526.0KB) - 倉敷市 https://www.city.kurashiki.okayama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/165/takahashigawa.pdf
- 高梁川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0706_takahashi/0706_takahashi_01.html
- 第5話 高梁川の改修 http://www.kcv.ne.jp/~sspm571/rsanpo3/dai5wa/index.htm
- 吉備のタタラと宇喜多堤[児島湾の誕生] ―岡山平野鳥瞰記[永忠と蕃山] - 水土の礎 https://suido-ishizue.jp/nihon/08/01.html
- 高松城水攻め史跡公園(蛙ヶ鼻築堤跡) | ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ok0272/
- www.bitchu.jp https://www.bitchu.jp/muneharu/mizuzeme/chikutei.html
- 蛙ヶ鼻(蛙ヶ鼻堰堤跡) | 備中高松城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/143/memo/1816.html
- 蛙ヶ鼻築堤跡 https://www.bitchu.jp/muneharu/mizuzeme/jin_kawazugahana.html
- 蛙ヶ鼻築堤跡 クチコミ・アクセス・営業時間|岡山市【フォー ... https://4travel.jp/dm_shisetsu/11556134
- 備中高松城 [前編] 秀吉の築いた堤防の極一部が残る https://akiou.wordpress.com/2014/05/16/b-takamatsu/
- 秀吉の水攻め~備中高松城 https://sirohoumon.secret.jp/bichutakamatu.html
- 水を使った戦いの古戦場/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90388/
- 備中高松城の水攻め古戦場:岡山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/bichutakamatu/
- 清水宗治VS羽柴秀吉!備中高松城の戦いを現地で体感。 - 岡山観光WEB https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/1282/page
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- 岡山藩の開墾政策 | TSC テレビせとうち(岡山・香川・地上デジタル7チャンネル) https://www.webtsc.com/blog/12313/
- 山 藩 - 岡山大学 附属図書館 https://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/pdf/r5.pdf
- 戦国武将・武田信玄は治水事業に長けていた - トプコン https://www.topcon.co.jp/media/infrastructure/civil_engineering_takeda_shingen/
- 1 戦国時代(軍事土木技術と共に発達した治水技術) - 洪水アーカイブ http://npo-tmic.org/kouzui/index5.html
- 池田光政の藩政改革 - 岡山経済同友会 https://okadoyu.jp/wp2018/wp-content/uploads/2024/12/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E8%97%A9%E6%94%BF%E6%94%B9%E9%9D%A9.pdf