最終更新日 2025-10-02

高田城下外堀掘削(1614)

慶長19年、家康は大坂の陣に備え、越後に高田城を築城。松平忠輝を城主、伊達政宗を総監督とし、わずか4ヶ月で完成。石垣なき「土の城」は、北陸の抑止力として家康の天下統一に貢献した。
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慶長十九年 高田城外堀掘削:大坂の陣前夜、天下統一を盤石にした巨大要塞の全貌

序章:慶長十九年、天下動乱前夜

慶長十九年(1614年)。徳川家康による江戸幕府開府から十一年、世は泰平に向かいつつあるかに見えた。しかし、その水面下では、天下の趨勢を決定づける最後の動乱に向け、激しい潮流が渦巻いていた。この年の出来事を理解することなくして、「高田城下外堀掘削」という事象の真の意義を解き明かすことはできない。それは単なる一地方における城郭普請ではなく、徳川による天下統一事業の総仕上げ、すなわち「大坂の陣」へと直結する、極めて戦略的な布石だったのである。

方広寺鐘銘事件と徳川・豊臣間の緊張激化

この年の夏、京都において、のちに「方広寺鐘銘事件」と呼ばれる事件が勃発する。豊臣家が莫大な費用を投じて再建した方広寺大仏殿の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文に対し、徳川家康が「家康の名を分断し、豊臣の繁栄を祈願するものだ」として、これを謀反の意ありと断じたのである 1 。これは言いがかりに等しいものであったが、家康にとっては、依然として摂関家の当主として大坂に君臨し、全国の浪人を惹きつける豊臣家を、完全に滅ぼすための絶好の口実であった。

この事件を境に、徳川と豊臣の対立はもはや交渉の余地なきものとなり、軍事衝突は時間の問題となった。大坂城には、主家再興の夢を抱く真田幸村や後藤又兵衛といった歴戦の武将をはじめ、関ヶ原の戦い以降に所領を失った数多の浪人たちが続々と集結し始める。一方の徳川方も、全国の諸大名に対し、来るべき大戦への動員準備を水面下で命じていた。日本全土が、再び戦火に包まれようとする、まさにその直前のことであった。

越後国が持つ地政学的重要性

このような緊迫した情勢の中、越後国(現在の新潟県)は、徳川幕府にとって極めて重要な戦略拠点であった。その理由は、この地が、関ヶ原の戦いを経てもなお強大な勢力を保持する二つの外様大名、すなわち加賀百万石の前田家(当主:前田利常)と、米沢の上杉家(当主:上杉景勝)に直接隣接していたからである 3 。もし、これらの大名が豊臣方に呼応して蜂起した場合、北陸道や三国街道を南下し、江戸へ進軍する可能性があった。これは、主力を西(大坂)へ向けようとする徳川軍にとって、背後を突かれる深刻な脅威であった。さらに、日本海航路の要衝であり、佐渡金山から産出される金銀の輸送路を確保するという経済的な側面も、越後支配の重要性を高めていた 3 。徳川家康は、大坂の豊臣家を攻めるにあたり、まずこの「背後の憂い」を完全に取り除く必要があったのである。

以下の年表は、慶長十九年という一年間に、天下の情勢と高田城の築城がいかに密接に連動していたかを示している。

【表1】慶長十九年(1614年)内外情勢と高田城築城の連動年表

幕府・豊臣家の動向

高田城築城の進捗

関連する諸大名の動向

三月

-

三月十五日、天下普請開始

伊達政宗、上杉景勝ら十三大名が越後に集結

四月

-

外堀掘削、土塁築造が本格化

各大名、割り当てられた工区で競うように工事を推進

五月

-

河川付け替えなどの難工事が進行

-

六月

-

城郭の主要部分がほぼ完成

-

七月

方広寺鐘銘問題が表面化

七月上旬、竣工

伊達政宗が普請の完了を見届け帰国 3

八月

徳川家、豊臣家に対し正式に銘文を問題視

各藩の人夫が引き上げ開始

-

九月

豊臣家、片桐且元を駿府へ派遣するも交渉決裂

-

-

十月

徳川家康、諸大名に大坂への出陣を命令。豊臣方も籠城戦を決定

完成した高田城が北国の抑えとして機能

松平忠輝、高田城にて有事に備える

十一月

大坂冬の陣、開戦

-

-

十二月

大坂城への砲撃。和議交渉が開始される

-

-

この年表が示す通り、高田城の築城は、徳川と豊臣の対立が決定的となるまさにその時期に、驚異的な速度で進められた。それは、来るべき最終決戦を見据えた、家康の周到かつ冷徹な戦略の一環だったのである。

第一章:高田築城の勅命 ― 越後に放たれた戦略的布石

高田城築城の命令は、単に新しい城を一つ造るという以上の、幾重にも張り巡らされた深謀遠慮の産物であった。その担い手として選ばれた人物、そして築城の地に込められた意図を解き明かすことで、家康の老獪な戦略が見えてくる。

城主・松平忠輝の特異な立場

この巨大プロジェクトの主役として白羽の矢が立てられたのは、徳川家康の六男、松平忠輝であった 4 。忠輝は、慶長十五年(1610年)に越後の旧領主であった堀氏が改易された後、信濃川中島から移封され、75万石という破格の所領を与えられていた 5 。これは、徳川一門の中でも屈指の大藩であり、対前田・上杉という重責を担うにふさわしいものであった。

しかし、彼の立場は複雑であった。家康の息子でありながら、その奔放な性格から父の寵愛を得られず、幼少期は不遇であったと伝えられる。一方で、奥州の覇者・伊達政宗の長女である五郎八姫を正室に迎えており、政宗の婿という側面も持っていた 3 。この忠輝を城主とすることは、徳川一門の威光を北国に示すと同時に、彼に大役を任せることでその能力を試し、忠誠を確固たるものにしようという家康の狙いがあった。

当初、忠輝の居城は日本海に面した福島城であったが、これを廃して内陸の高田に新たな城を築くことが決定された 5 。公式な理由としては、福島城が海岸に近く防御に難があるという軍事的な判断が挙げられるが、一説には忠輝が「波の音がうるさくて眠れない」と訴えたため、という逸話も残されている 7 。真偽は定かではないが、いずれにせよ、幕府はこの移転を機に、単なる居城の建て替えに留まらない、国家規模の一大事業を計画したのである。

普請総監督・伊達政宗の起用

この天下普請において、縄張(設計)と工事の総監督である普請総裁に任命されたのは、忠輝の舅である伊達政宗その人であった 3 。この人選こそ、家康の深謀を示す最も象徴的な一手と言える。

政宗は、当代随一の軍略家であると同時に、優れた築城家でもあった。彼の指揮能力と技術を最大限に活用すれば、短期間で堅固な城を完成させられることは間違いない。しかし、家康の狙いはそれだけではなかった。政宗は、関ヶ原の戦い後も天下への野心を隠さない、幕府にとって潜在的な脅威ともなりうる存在であった。その彼を、幕府の巨大プロジェクトの総責任者に任命し、深く関与させる。これは、政宗の力を利用しつつ、彼を徳川の体制下に完全に縛り付けるための、極めて高度な政治的駆け引きであった。

もし政宗が豊臣方に通じるような素振りを見せれば、娘婿である忠輝の立場が危うくなる。逆に、城主である忠輝が幕府に反するような動きをすれば、監督責任者である政宗がその責を問われる。家康は、この築城を通じて忠輝と政宗を「運命共同体」とすることで、北国における二大勢力(松平忠輝軍と伊達軍)を確実に徳川方として固定したのである。これは、物理的な要塞を築くと同時に、人心をも巧みに操る、家康ならではの老獪な戦略であった。

築城地「菩提ヶ原」の選定

新たな城の建設地に選ばれたのは、高田平野の中央よりやや西に寄った「菩提ヶ原」と呼ばれる広大な原野であった 10 。この地は、一見すると何もない平坦な土地に見えるが、築城の専門家である政宗の目には、天然の要害として映ったに違いない。

菩提ヶ原の最大の利点は、その地形にあった。この地は、高田平野を流れる最大の河川である関川がかつて蛇行していた跡地であり、微高地である自然堤防が点在していた 10 。この地形を巧みに利用すれば、川の旧流路をそのまま巨大な外堀として転用できる。つまり、ゼロから巨大な堀を掘削するのではなく、既存の地形を「編集」することで、最小限の労力と時間で、最大限の防御効果を持つ城郭を構築することが可能だったのである。かつて上杉謙信が本拠とした春日山城のような難攻不落の山城ではなく、広大な城下町を伴う平城を選択したことも、来るべき泰平の世における越後の統治拠点として、政治・経済の中心地を築こうとする幕府の意図を反映していた。

第二章:天下普請、始動 ― 驚異の突貫工事(慶長十九年三月~七月)

慶長十九年三月、越後菩提ヶ原は、にわかに天下の注目を集める巨大な工事現場へと変貌した。ここから始まる約四ヶ月間の記録は、日本の土木史、そして戦国時代の最終局面を物語る上で、特筆すべきものである。それは、徳川幕府の絶対的な権力と、目前に迫った決戦への執念が生み出した、驚異的な突貫工事の物語であった。

【時系列①】慶長十九年三月十五日、普請開始

三月十五日、徳川家康の厳命のもと、高田城の天下普請が正式に開始された 10 。普請総裁である伊達政宗の陣頭指揮のもと、動員された大名は、地元越後の旧領主である上杉景勝、信濃松本の小笠原秀政、甲斐谷村の鳥居成次といった譜代大名、そしてその他九つの外様大名を加えた、計十三家にも及んだ 3

【表2】高田城天下普請に参加した大名一覧

大名家

当主名

石高(推定)

本拠地

分類

仙台藩

伊達政宗

62万石

陸奥 仙台

外様

米沢藩

上杉景勝

30万石

出羽 米沢

外様

松本藩

小笠原秀政

8万石

信濃 松本

譜代

谷村藩

鳥居成次

3.5万石

甲斐 谷村

譜代

(その他)

(9大名)

-

-

外様

この顔ぶれは、徳川の支配が全国の隅々にまで及んでいることを示すと同時に、外様大名、特に潜在的な脅威と見なされていた上杉景勝をも動員することで、彼らの経済力を削ぎ、幕府への忠誠を試すという、天下普請の典型的な目的を色濃く反映していた 3 。数万、あるいは十数万とも言われる人夫たちが全国から集結し、静かだった菩提ヶ原は、槌音と人々の怒号が響き渡る巨大な舞台へと変わったのである。

【時系列②】四月~六月、工事の進捗

工事が本格化すると、その異常なまでの速度が明らかになる。最大の焦点は、城の骨格をなす堀と土塁の構築であった。ここで伊達政宗が下した決断は、高田城の性格を決定づけるものとなる。それは、石垣を一切用いない「土の城」とすることであった 9

近世城郭の象徴ともいえる壮麗な石垣は、その採石、運搬、加工に莫大な時間と労力を要する。目前に迫る大坂との決戦に間に合わせるためには、その時間はあまりにも惜しかった。政宗は、権威の象徴を潔く切り捨て、実用性を最優先した。掘削した土をそのまま突き固めて巨大な土塁を築き上げる工法は、圧倒的なスピードで城の防御線を形成することを可能にしたのである 16

各藩は割り当てられた工区で、互いの威信をかけて工事の速度を競い合った。それは、単なる土木工事ではなく、各大名の動員力、組織力、そして幕府への忠誠心を示す競争の場でもあった。この競争意識が、工事の速度をさらに加速させたことは想像に難くない。

【時系列③】七月上旬、竣工

そして、着工からわずか四ヶ月弱という驚異的な期間を経て、七月上旬には城郭の主要部分がほぼ完成した 11 。外堀を含めた総面積は60ヘクタール(約18万坪)を超え、越後一国と北信濃の一部を治めるにふさわしい巨大城郭が、忽然と姿を現したのである 11 。七月には普請総裁の伊達政宗が、八月には各藩の人夫たちが相次いで引き上げていった記録が、この時期の完成を裏付けている 3

この速度は、単に技術的な効率化だけでは説明がつかない。それは、徳川家康が設定した「大坂の陣の開戦」という、絶対的な軍事的期限から逆算された、極めて計画的な突貫工事であったことの何よりの証拠であった 9

さらに言えば、この天下普請は、単なる城造りではなかった。それは、来るべき大戦に向けた、壮大な**「軍事演習」**そのものであった。家康は、十三もの大名家を動員し、指揮命令系統の伝達、数万人規模の兵站(資材・食料の輸送)、そして大規模な陣地構築能力といった、近代的な戦争に必須の要素を、この築城を通じて予行演習したのである。高田城の完成は、豊臣方や日和見を決め込む全国の外様大名に対し、「徳川は、これだけの規模の軍勢を、これほどの短期間で動員し、巨大構造物を完成させることができる」という、圧倒的な国力と組織力を見せつける、強力な示威行為でもあったのだ。

第三章:外堀掘削の神髄 ― 関川の大改修と「土の城」の思想

高田城の築城、特にその外堀掘削は、戦国末期の土木技術の集大成であり、そこには「最小の時間で最大の防御効果を得る」という、極めて合理的な設計思想が貫かれていた。石垣なき「土の城」という選択と、自然の地形を大胆に改造した外堀の構築は、この城が単なる権威の象徴ではなく、実戦を想定した戦闘要塞であったことを雄弁に物語っている。

関川を利用した壮大な外堀

高田城の防御力を象徴するのが、その広大な外堀である。この堀は、単に平地を掘り下げて造られたものではない。設計者である伊達政宗は、築城予定地をかつて蛇行して流れていた関川の旧流路に目を付け、これを最大限に活用したのである 10

自然の川筋を利用することで、人力のみでは到底不可能な規模の堀を、短期間で実現した。完成した外堀は、幅が最も広い箇所で約130メートルにも達し、全国の城郭の中でも屈指の規模を誇った 13 。この巨大な水の障害物は、いかなる軍勢による正面からの突撃をも完全に阻害し、城を難攻不落の要塞たらしめるものであった。彼らはゼロから堀を創造したのではなく、大地に刻まれた既存の地形を「編集」するという、極めて高度な発想でこの難事業を成し遂げたのである。

河川付け替えという難工事

旧流路を堀として活用するためには、現在流れている関川本体の流路を、城の東側へ直線的に付け替える必要があった。これは、関川、矢代川、青田川、儀明川といった複数の河川の流れを制御し、新たな流路を掘削するという、大規模な河川改修工事であった 12 。洪水の危険性を常に伴う河川の付け替えは、当時の土木技術の粋を集めた極めて困難な事業であり、伊達政宗の卓越した指揮と、天下普請によって動員された膨大な労働力なくしては到底成し得ないものであった。この工事の成功は、高田城が単なる軍事施設であるだけでなく、周辺地域の治水をも考慮に入れた、総合的な地域開発の側面も持っていたことを示唆している。

石垣なき「土の城」の合理性

高田城が、徳川初期の大規模城郭としては極めて珍しく、石垣を一切持たない「土の城」であることは、繰り返し指摘される特徴である 9 。これは、資材不足や手抜き工事の結果ではなく、明確な意図に基づいた合理的な選択であった。

第一の理由は、前述の通り、工期を最優先したことである。大坂の陣というタイムリミットがある以上、石垣の構築に時間を費やす余裕はなかった 9

第二に、防御思想の変化が挙げられる。戦国末期には大砲が実戦で用いられるようになっており、高く積まれた石垣は、砲撃によって崩壊した場合、修復が困難であるという弱点があった。対照的に、厚く突き固められた土塁は、砲弾の衝撃をある程度吸収し、たとえ破損しても比較的容易に修復が可能であった。広大な水堀と堅固な土塁の組み合わせは、当時の最新の兵器であった大砲に対しても、有効な防御力を発揮し得たのである。

また、城の象徴である天守が造られなかったことも、この城の性格を物語っている 4 。本丸の南西隅に建てられた三重櫓が事実上の天守として機能したが 4 、これもまた、華美な権威の象徴よりも、実戦的な防御施設としての機能を優先した「戦時設計」思想の表れであった。

我々は、石垣を持つ城を「完成形」、土の城を「未完成」あるいは「原始的」と見なしがちである。しかし、高田城の事例は、それが状況に応じて下された極めて合理的かつ先進的な選択であったことを示している。目前に迫った決戦という明確な目的の前では、権威や美観は「不要なもの」として切り捨てられた。高田城は「未完成の城」なのではなく、「戦時に特化し、別の思想で完成された城」として再評価されるべき、日本の城郭史上でも特異な存在なのである。

第四章:巨大要塞の完成と大坂の陣への影響

慶長十九年七月、越後の地に誕生した巨大要塞・高田城は、一度も戦火を交えることなく、その存在自体によって、徳川家康の天下統一戦略に決定的な貢献を果たした。その真価は、物理的な戦闘力ではなく、敵対勢力の行動を未然に封じ込める「抑止力」にあった。

北国筋の「静かなる蓋」としての機能

本丸、二の丸、三の丸などを広大な堀と土塁で囲んだ輪郭式の平城である高田城は 4 、北陸道と信州街道という二つの主要街道が交差する交通の要衝を完全に押さえていた。この城が完成したことにより、加賀の前田家や米沢の上杉家は、たとえ豊臣方に味方する意志があったとしても、背後に控える松平忠輝の75万石の大軍を無視して動くことは不可能となった。高田城は、彼らの領国から江戸へ向かうルートを物理的に遮断し、その軍事行動を封じ込める、まさに「静かなる蓋」として機能したのである。

豊臣方が大坂城という「点」の防御を固めることに専念していた頃、徳川方は高田城のような戦略的拠点を全国に配置することで、日本全土を繋ぐ「線」(街道)と「面」(支配領域)を完全に掌握していた。この戦略的視野の差が、両者の運命を決定づけたと言っても過言ではない。

外様大名への無言の圧力

天下普請に参加させられた十三家の大名たちは、その過程で徳川の圧倒的な権力と動員力を身をもって体験した。数万の人夫を意のままに動員し、わずか四ヶ月で巨大な城を完成させる様を目の当たりにして、徳川に逆らうことの無謀さを痛感したであろう。特に、かつて越後の国主であった上杉景勝にとって、自らの旧領に徳川の威光を示す巨大な城が築かれていく光景は、時代の移り変わりを否応なく受け入れさせるに十分なものであった。高田城の土塁の一つ一つが、徳川の支配体制の盤石さを物語る、無言の圧力として機能したのである。

大坂の陣における戦略的貢献

慶長十九年十月、方広寺鐘銘事件をきっかけに、ついに大坂冬の陣が勃発した 2 。徳川家康は、東海道筋と大和路から、数十万と号する大軍を大坂へ向けて進発させた 22 。この時、家康が後顧の憂いなく、その主力を西へ集中させることができたのは、まさしく高田城が北国筋の脅威を完全に無力化していたからに他ならない。もし高田城がなければ、家康は前田・上杉への備えとして、相当数の兵力を東国に残置せざるを得ず、大坂へ投入できる兵力は大幅に減少していたはずである。

高田城は、その存在によって「江戸の背後を固める」という最大の戦略的任務を、一滴の血も流すことなく完遂した 11 。これは、孫子の兵法に言う「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」を地で行く、見事な戦略的勝利であった。大坂の陣の勝敗は、大坂城の堀が埋められる以前に、高田城の外堀が掘られた時点で、すでにその大勢が決していたのかもしれない。

終章:高田城のその後と歴史的意義

戦国時代最後の決戦のために、その時代の思想と近世の技術を融合させて生み出された高田城。その完成は、徳川による盤石な支配体制の確立を告げる象徴的な出来事であった。しかし、その後の歴史は、城と城主、そして時代そのものの変転を静かに映し出していく。

城主・松平忠輝の悲劇

高田城の初代城主として栄華を極めた松平忠輝であったが、その運命は暗転する。大坂夏の陣において、遅参や将軍・徳川秀忠の軍令を無視したといった失態を咎められ、築城からわずか二年後の元和二年(1616年)、父・家康の死の直後に改易を命じられたのである 5 。75万石の大名から一転、伊勢国朝熊に配流の身となり、その後、九十二歳で没するまで、長きにわたる蟄居生活を送ることになる。栄光の城主の悲劇的な末路は、泰平の世を築くために、肉親の情すら断ち切る徳川政権の非情さと、戦国の価値観がもはや通用しない新時代への移行を象徴していた。

高田藩の変遷と「戦国の終焉」

忠輝の改易後、高田城には酒井氏、松平忠昌、稲葉氏、そして榊原氏など、幕府の重鎮である譜代大名が次々と入封し、高田藩の藩庁として明治維新まで存続した 6 。これは、高田城が築かれた地が、幕藩体制下においても北陸の要衝として重要視され続けたことを示している。

歴史的に見れば、高田城は、戦国という時代の最後に咲いた、巨大かつ異形の徒花であったと言える。それは、目前の戦争に勝利するためだけに、あらゆる要素を削ぎ落として造られた、極めて純粋な軍事要塞であった。その完成と、それを必要とした大坂の陣の終結は、日本から大規模な内乱の時代が終わりを告げたことを意味していた。高田城は、まさに「戦国の終焉」を象徴する城郭だったのである。

現代に遺る外堀の姿

明治維新後、高田城の建造物の多くは取り壊された。さらに明治四十年(1907年)、旧陸軍第十三師団が城跡に置かれる際、防御の要であった土塁の大半が崩され、堀を埋めるために使われた 19 。これにより、城郭の東半分は往時の姿を失った。

しかし、奇跡的にも、城の西半分、特にその広大な外堀は今なおその姿を留めている。かつて敵の侵入を阻んだ巨大な水堀は、現在では高田城址公園の一部となり、市民の憩いの場として親しまれている 25 。そして夏には、お堀一面を蓮が埋め尽くし、「東洋一」と称されるほどの壮麗な景観を見せる 6

この静かな水面に揺れる蓮の花を見上げる時、我々は思いを馳せるべきである。この堀が、単なる公園の池ではなく、四百年の昔、天下の趨勢を決するために、数万の人々が血と汗を流して築き上げた、壮大な歴史の証人であることを。高田城の外堀は、戦乱の時代の終わりと、新たなる時代の幕開けを、今も静かに語り続けている。

引用文献

  1. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  2. 大坂冬の陣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/59640/
  3. 高田築城 - 上越市ホームページ https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/takada-castle-list-tikujyo.html
  4. 高田城(Takada-Castle) - 城絵巻 https://castle.toranoshoko.com/castle-takada/
  5. 高田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%9F%8E
  6. 高田城 / 天下普請で築かれた越後国の大藩・高田藩75万石のお城 https://kokudakamania.com/shiro-56/
  7. 高田城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/114/memo/1589.html
  8. 高田城 - 城 なめ歩き http://japanesecastles.web.fc2.com/Takada.html
  9. 「高田城」 ~松平忠輝の居城~ [続日本100名城No.132]|Kagirohi - note https://note.com/kagirohi_001/n/n33c3fd50d5c6
  10. 高田城 三重櫓 https://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/lab/shimazaki_kazushi/shimazaki/JAPANCasle/132takada/panf.pdf
  11. 高田城の歴史 - 上越市ホームページ https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/takada-castle-history.html
  12. 高田城~新潟県上越市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro18.html
  13. 城下町高田 - 上越市 https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/184680.pdf
  14. 高田城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Hokuriku/Niigata/Takada/index.htm
  15. 高田城 ~天下普請で急造された土の城 https://www.shiro-nav.com/castles/takadajo
  16. 高田城 https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/265070.pdf
  17. 山梨・新潟のいろいろ4 https://fdo3175.net/yamanasi-4.html
  18. 上越市高田城 - 松平忠輝 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/takadajyou.html
  19. 越後國 高田城 (新潟県上越市) - FC2 https://oshiromeguri.web.fc2.com/echigo-kuni/takada/takada.html
  20. 越後 高田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/takada-jyo/
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  23. 高田藩:新潟県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/takada/
  24. 高田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E8%97%A9
  25. 高田城址公園 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=20
  26. 高田城址のお堀のあれこれ - 上越市ホームページ https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/tenji31.html