最終更新日 2025-09-23

高知城築城(1601)

関ヶ原後、山内一豊は土佐二十四万石を拝領。浦戸一揆を鎮圧し、大高坂山に高知城を築城。百々綱家を登用し、治水と堅牢な城を築き、土佐藩の礎を築いた。
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慶長六年の激動:山内一豊と高知城築城――土佐支配をめぐる十年の軌跡

序章:関ヶ原の残響、土佐国の新たな夜明け

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いは、日本の権力構造を根底から覆し、遠く離れた土佐国にもその巨大な影を落とした。この戦いは、高知城築城という壮大な事業の序曲であり、その背景には、一人の武将の機敏な政治的判断と、旧領主への忠誠を誓う者たちの悲劇的な抵抗があった。

事の発端は、関ヶ原の合戦の直前、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議、世に言う「小山評定」に遡る 1 。徳川家康が上杉景勝討伐のため会津へ向かう中、石田三成挙兵の報が届き、諸将は動揺に包まれた。このとき、遠州掛川5万1千石の城主であった山内一豊は、逡巡する諸将を前にいち早く「自らの居城である掛川城を家康公にお預けし、関東ご出陣の拠点としていただきたい」と進言した。この一言が、豊臣恩顧の大名たちの去就を決定づける重要な一押しとなり、多くが東軍に付く流れを創り出したのである 1 。一豊のこの機を見るに敏な行動は、関ヶ原での直接的な武功以上に高く評価され、戦後の論功行賞において、土佐一国二十四万石(当初9万8千石、後日見直し)という破格の恩賞をもたらすことになった 1

一方で、土佐国の領主であった長宗我部盛親は、西軍に与するという不運な選択をする。これにより、四国を席巻した父・元親以来の支配は終焉を迎え、長宗我部家は改易の憂き目に遭った 4 。主家を失った土佐の武士たち、特に長宗我部氏の強さの源泉であった「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士たちは、行き場のない怒りと忠誠心を胸に、故郷の地に留まり続けた 4 。彼らは、平時は田畑を耕し、ひとたび召集がかかれば一領の具足を携えて戦場に駆けつける、土地と固く結びついた存在であった 6 。彼らにとって、新領主としてやってくる山内一豊とその家臣団は、故郷を奪った「占領軍」に他ならなかった 4

この時点で、山内一豊の土佐統治は、単なる領地替えではなく、関ヶ原の戦いの延長線上に位置する「戦後処理」そのものであった。新領主の権威を確立し、旧体制の支持者を武力と権威で屈服させる必要があった。この文脈において、新たな城を築くという行為は、旧体制の象徴を否定し、新体制の圧倒的な権力と永続性を誇示するための、最も効果的な政治的・軍事的プロジェクトであった。高知城の築城は、その槌音の一つひとつが、新時代の到来を告げる宣言であり、旧臣たちの心を屈服させるための威圧でもあったのである。

表1:高知城築城 主要関連年表(慶長五年~十六年)

西暦(和暦)

中央の動向

土佐の動向(政治・軍事)

高知城築城の進捗

城下町の整備

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。

長宗我部盛親、改易。山内一豊が土佐国を拝領。浦戸一揆勃発。

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1601年(慶長6年)

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山内一豊、土佐入国。浦戸城を仮の居城とする。

秋、大高坂山にて築城開始。

城下町の区画整理開始。

1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

山内一豊、新城に入城。

本丸・二ノ丸の石垣と本丸御殿が完成。「河中山城」と命名。

商人・職人を集住させる町人地(下町)の形成が進む。

1610年(慶長15年)

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城の名を「河中山」から「高智山」に改める。

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1611年(慶長16年)

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2代藩主・山内忠義の時代。

三ノ丸が完成し、ほぼ全城郭が整う。

城下町の基本的な骨格が完成。

第一章:血塗られた入国――浦戸一揆の勃発と鎮圧(慶長五年~六年)

山内一豊の土佐入国は、平穏な権力移譲とは程遠い、血で血を洗う激しい抵抗から始まった。新時代の幕開けを祝う凱旋ではなく、旧体制の残滓を力で排除する過酷な戦いが、一豊と土佐の民の最初の出会いであった。この「浦戸一揆」と呼ばれる事件は、山内氏による土佐支配の原点であり、その後の土佐藩の社会構造にまで長く影響を及ぼすことになる。

慶長5年(1600年)10月、一豊は土佐入国の先遣隊として、実弟の山内康豊を派遣した 9 。康豊は、徳川家の上使である井伊直政の家臣・鈴木平兵衛らを伴い、長宗我部氏の本拠地であった浦戸城の明け渡しを要求した。しかし、城内には主家の改易に納得せず、徹底抗戦を叫ぶ一領具足たちが立てこもっており、要求を断固として拒絶した 5 。彼らは、主君・盛親が徳川家康に謝罪すれば、せめて土佐半国でも安堵されるのではないかという淡い期待を抱き、城を死守しようとしたのである 12

交渉は決裂し、事態は急転する。数に勝る一揆勢は、逆に康豊ら上使一行が宿所としていた雪蹊寺を包囲するという挙に出た 12 。その数は一説に1万7千人とも伝えられ、山内勢は絶体絶命の危機に陥った 13 。約50日にわたる膠着状態の末、康豊は武力による鎮圧を決意する。同年12月、浦戸城の西に位置する糠塚周辺で両軍は激突した 12 。長宗我部恩顧の家臣団と、新領主の先鋒隊との間で繰り広げられた戦闘は熾烈を極めたが、最終的に山内勢が勝利を収めた。

この鎮圧は徹底的かつ苛烈なものであった。『土佐物語』によれば、一揆方の指導者であった吉川善助ら大将8名を含む273名の首が討ち取られたという 13 。これらの首は塩漬けにされ、見せしめとして大坂の徳川家康のもとへ送られた 6 。この容赦のない処置により、土佐における組織的な武力抵抗は沈静化し、一豊が入国するための道筋が、血によって切り拓かれたのである。

しかし、一豊は武力一辺倒ではなかった。浦戸一揆鎮圧後、彼は硬軟織り交ぜた政策で領内の安定化を図る。長宗我部旧臣の中でも、新体制に協力的な村上八兵衛のような人物を登用し、検地などの実務にあたらせた 15 。また、領民の不安を和らげるため、当面は長宗我部氏時代の法度を維持する旨の布告を出すなど、懐柔策も講じている 12

この浦戸一揆の鎮圧は、山内氏による土佐支配の確立に不可欠なプロセスであったが、同時に、後の土佐藩社会に根深い亀裂を生む「原罪」ともなった。この事件を境に、一豊と共に遠州掛川から入国した家臣団(後の上士)と、土着の長宗我部旧臣(多くは郷士として再編される)との間には、支配者と被支配者、征服者と被征服者という決定的な関係性が刻印された。この両者の間に生まれた相互不信と身分意識は、幕末に至るまで土佐藩の社会構造を規定し続けることになる 16 。坂本龍馬や武市半平太といった郷士出身の志士たちが抱いた反骨精神の源流は、この慶長の冬に流された血の中に見出すことができるのである。

また、一揆の規模を示す数字、すなわち雪蹊寺を包囲した1万7千人と、実際に討ち取られた273人という数の間にある大きな隔たりは、一揆の実態と山内氏の戦略を物語っている。1万7千人という数は、武器を取った戦闘員だけでなく、長宗我部氏の行く末を案じ、同調して集まった人々を含む、いわば「民意」の規模を示していると考えられる。一方で、273人という具体的な戦死者数は、実際に戦闘の中核を担った強硬派の規模を示唆している。山内康豊は、全ての抵抗勢力を殲滅するのではなく、指導者層と最も頑迷な主戦派を標的として叩き、その首を晒すことで、大多数の同調者を恐怖によって屈服させるという、極めて効率的かつ現実的な戦略を選択した。これは、限られた兵力で新領地を平定するための、冷徹な計算に基づいた戦後処理であった。

第二章:未来を賭した決断――新城地、大高坂山(慶長六年)

浦戸一揆を鎮圧し、慶長6年(1601年)にようやく土佐に入国した山内一豊は、まず浦戸城を仮の居城とした 17 。しかし、彼の視線はすでに、新たな領国経営の恒久的な中心地となるべき新城の建設に向けられていた。どこに城を築き、いかにして土佐二十四万石の支配を盤石なものとするか。この決断は、土佐の未来そのものを設計する壮大な事業の第一歩であった。

浦戸城は、桂浜に近く、海に面した天然の要害ではあったが、大規模な城下町を展開するための平地に乏しく、藩政の中心地としては明らかに手狭であった 19 。さらに、長宗我部氏の旧本拠地に居続けることは、旧臣たちの反感を刺激し、いつまでも前時代の影を引きずることになりかねない。一豊は、過去との決別と新時代の創造を象徴する、全く新しい拠点を必要としていた。

領内をくまなく調査した結果、一豊が選定したのが、鏡川と江ノ口川という二つの川に挟まれた、大高坂山(おおたかさかやま)であった 19 。この地は、広大な城下町を整備するに足る平野を背後に控え、水運の利便性も高く、領国全体を統治する上でまさに中心となりうる場所だった 19 。しかし、この選択は、極めて困難な挑戦への宣戦布告でもあった。

大高坂山は、かつて土佐の英雄・長宗我部元親が、岡豊城から本拠を移そうと築城を試みたものの、鏡川の度重なる氾濫という治水の困難さに直面し、わずか3年で放棄した「因縁の地」だったのである 17 。この土地を選ぶことは、元親が成し遂げられなかった難事業に、あえて挑むことを意味した。これは単なる地理的、経済的な合理性に基づいた判断だけではない。土佐の民が偉大な英雄と崇める元親ですら克服できなかった課題を、新領主である山内一豊が解決してみせる。これこそ、新支配の正統性と自らの統治能力を、最も劇的な形で領民に示すための、高度な政治的パフォーマンスであった。城と城下町という恒久的な建造物をもって、「山内氏の治世は、長宗我部氏の時代をも凌駕する」という事実を、土佐の地に刻み込もうとしたのである。

この「水を治める者は、国を治める」 23 という思想を実現するため、一豊は当代一流の専門家を招聘する。この難事業の総責任者である築城総奉行として白羽の矢が立てられたのが、百々越前守綱家(どどえちぜんのかみつないえ、後に安行と改名)であった 23

百々綱家の登用は、一豊の器量の大きさと、徳川政権初期の実用主義を象徴する出来事であった。綱家は元々、織田信長の孫・秀信の家老であり、関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、西軍の将として東軍、すなわち一豊自身も属した軍勢と刃を交えた人物であった 26 。敗戦後、綱家は京都で蟄居の身となっていたが、一豊はその卓越した築城技術を高く評価し、徳川家康に直接嘆願して赦免を取り付け、破格の待遇で召し抱えたのである 24 。綱家は、石垣普請のプロフェッショナル集団である「穴太衆(あのうしゅう)」との強力な人的ネットワークも有しており 24 、まさにこの事業に不可欠な人材であった。過去の敵対関係よりも、目の前の課題を解決するための実務能力を優先する。この合理的な判断こそが、新しい時代を築く指導者に求められる資質であった。

表2:築城事業の主要人物とその役割

人物名

役職・立場

経歴・専門性

本事業での主な役割

山内一豊

城主、事業全体の最高意思決定者

土佐藩初代藩主。遠州掛川城主から土佐二十四万石へ。

政治的決断(築城地選定、人材登用)、事業全体の統括。

百々綱家(安行)

築城総奉行

元織田秀信家老(西軍)。築城・治水の名手。

城の縄張り(設計)から現場の総指揮まで、技術面を統括。

穴太衆

石垣普請担当

近江国(滋賀県)を拠点とする石工集団。

高知の多雨な気候に適した「野面積み」の技術を提供し、堅牢な石垣を構築。

山内康豊

一豊の弟

先遣隊として入国し、浦戸一揆を鎮圧。

築城期間中、兄・一豊を補佐し、藩政の実務を担当。

第三章:築城という名の闘争――普請の開始と城下町の胎動(慶長六年~八年)

慶長6年(1601年)秋、大高坂山において、土佐国の未来を形作る壮大な普請が開始された 1 。これは単なる建築作業ではなかった。それは、荒ぶる自然との闘争であり、旧体制下で敵対した領民たちを新たな秩序へと組み込んでいく、巨大な社会統合プロジェクトの始まりでもあった。山内一豊が入城を果たすまでの最初の2年間は、まさに土佐の産みの苦しみを象徴する、激動の時代であった。

築城総奉行・百々綱家とその息子・直安の指揮のもと、普請は領内総出の突貫工事として進められた 33 。『御城築記』などの記録によれば、武士や庶民、さらには老若男女を問わず、領内から多くの人々が動員され、一日の参加者数は1200人を超えたと伝えられる 20 。冬の寒い時期には粥などの炊き出しが行われ、月の明るい夜には夜通しで工事が続けられることもあったという 35 。この大規模な築城事業は、浦戸一揆で山内氏に敵意を抱いていた領民たちを、否応なく新体制の建設に組み込む効果を持っていた。彼らのエネルギーを「破壊(一揆)」から「建設(築城)」へと転換させ、共通の目標の下で労働に従事させることで、反乱の芽を摘み取る。さらに、公共事業として日々の糧を提供することは、経済的な不満を和らげる役割も果たした。領民たちは、自らの手で築き上げられていく城と町の姿を目の当たりにすることで、徐々に「長宗我部氏の民」から「山内氏の民」へと、その意識を変革させていったのである。これは、物理的な城の建設と並行して進められた、心理的な国家建設のプロセスであった。

工事における最大の課題は、やはり治水であった。大高坂山周辺は、鏡川と江ノ口川に挟まれた洪水常襲地帯であり、もともとは広大な湿地帯であった 36 。築城と並行して、鏡川に長大な堤防を築き、砂地を干拓するという、困難を極める土木工事が進められた 38 。工事は幾度となく洪水に見舞われ、その度に多大な労力が費やされた 37

城の土台となる石垣普請は、百々綱家が近江から招聘した技術者集団「穴太衆」がその腕を振るった 18 。彼らは、高知の年間降水量の多さを考慮し、自然石を巧みに組み合わせ、石と石の間に隙間を作ることで排水能力を高めた「野面積み」という工法を多用した 18 。これにより、見た目は粗雑に見えながらも、水圧に強く崩れにくい、極めて堅牢な石垣が築き上げられた。石材の一部は、解体された浦戸城から船で運ばれ、再利用されたことも記録されている 42

築城と同時に、城下の町割りも計画的に進められた。北の江ノ口川と南の鏡川を天然の外堀に見立て、その間に広がる平野に、整然とした城下町が設計された 43 。城の東側には、商業と工業の拠点となる町人地(下町)が設けられ、各地から商人や職人が積極的に誘致された 38 。一豊が旧領地の掛川から連れてきた大工、鍛冶、鉄砲師などの職人たちのために「掛川町」が作られるなど、藩の軍事・経済を支えるための基盤が着々と整備されていった 20

そして慶長8年(1603年)1月、着工から約1年半を経て、本丸と二ノ丸の石垣が完成 24 。同年旧暦8月には本丸御殿も竣工し、ついに一豊が入城の時を迎えた 24 。9月26日(旧暦8月21日)、山内一豊は盛大な入城式を執り行い、名実ともに土佐国の新たな支配者としてこの地に根を下ろした 18 。この時、真如寺の僧・在川によって、城は二つの川の中にあることから「河中山城(こうちやまじょう)」と命名された 35 。土佐の新たな歴史が、この日から本格的に動き出したのである。

四章:石と木が語る思想――高知城の縄張りと防御機構

高知城の構造、すなわち縄張り(設計)は、関ヶ原の戦いが終結して間もない、いまだ戦国の気風が色濃く残る時代の緊張感を雄弁に物語っている。それは、泰平の世における藩主の権威を「見せる」ための壮麗さと、万一の戦に備えて敵を迎え撃つ「戦う」ための実用性を、高い次元で両立させた、過渡期の城郭建築の傑作と言える。設計を担った百々綱家の思想は、石垣の一つひとつ、門の一枚一枚にまで浸透している。

高知城の縄張りで最も特徴的なのは、山頂に位置する本丸と二ノ丸が、空堀を挟んで並び立つように独立し、両者が「詰門(つめもん)」と呼ばれる渡櫓(橋廊下)によってのみ結ばれている点である 47 。この構造は、籠城戦において片方の曲輪が敵の手に落ちたとしても、詰門を破壊すればもう片方で抵抗を継続できるという、極めて防御を重視した思想の表れであり、現存する城郭では他に類を見ない 48

城の正面玄関である追手門から天守に至る登城路は、侵入者を欺き、その戦力を削ぐための巧妙な罠が幾重にも張り巡らされている。

まず、追手門自体が、門と矢狭間塀で四角く囲まれた「枡形」と呼ばれる空間を形成している 19。敵がこの空間に侵入した瞬間、三方向から矢や鉄砲による集中砲火を浴びせる仕組みである。万一、門を突破されても、門の内部には「石落とし」が設けられており、真上の櫓から石や熱湯を落として敵を撃退することができた 25。

追手門を抜けた先の石段は、敵兵が駆け上がりにくいよう、一段一段の幅(踏面)が意図的に不規則に作られている 18 。リズムを狂わされ、体力を消耗した敵が次に直面するのが、三ノ丸の入口に設けられた鉄門である。門扉に鉄板が打ち付けられていたことからその名がついたこの門もまた、小規模な枡形を形成しており、二重の防御線を構築している 25

幾多の防御線を突破し、本丸へと至る最後の関門が、前述の詰門である。この門は、入口と出口が一直線上にない「筋違い」の構造になっており、侵入者の直進を阻み、動きを止める役割を果たす 25 。敵が足止めされている間に、周囲の櫓や塀に設けられた狭間から攻撃を加えるのである。

本丸内部の構造もまた、実戦を強く意識している。天守と、藩主の公式な対面所である本丸御殿(懐徳館)が渡り廊下で直接連結されているのである 22 。これは、非常時に藩主が即座に最終防衛拠点である天守へ避難できるようにするための設計であり、天守と本丸御殿の両方が江戸時代から現存し、かつ連結しているのは、全国で高知城のみという極めて貴重な遺構である 25 。天守自体にも、石垣をよじ登る敵を撃退するための鉄串「忍び返し」や、様々な形状の狭間など、実践的な仕掛けが随所に施されている 25

こうした戦闘的な側面に加え、高知城の石垣は、この土地の風土に適応する知恵をも示している。雨の多い気候を考慮し、排水性に優れた野面積みが多用されただけでなく、石垣の内部に溜まった水を効率的に排出するため、壁面から石の樋(とい)を突き出させる「石樋」という工夫も見られる 18 。これは、石垣が水圧で崩壊するのを防ぐための、先人の優れた技術である。

また、追手門周辺の石垣には、「ウ」「エ」「ケ」「シ」といったカタカナのような刻印が確認されている 18 。大規模な城普請、特に幕府が諸大名に命じる「天下普請」において、担当大名を区別するために刻印が用いられることは珍しくない 53 。しかし、高知城は山内家の単独事業であった。この刻印は、広大な石垣普請を複数の石工組や奉行のチームに分担させ、それぞれの担当区域や運搬した石材を明確にするための管理記号であったと考えられる。これは、巨大プロジェクトを効率的に進めるための分業体制と責任の所在の明確化であり、現代のプロジェクトマネジメントにも通じる、極めて合理的で先進的な手法の痕跡と言えるだろう。

第五章:完成への道程――三ノ丸竣工と「高知」の誕生(慶長九年~十六年)

慶長8年(1603年)に山内一豊が本丸へ入城した後も、城と城下町の建設は休むことなく続けられた。それは、新たな藩体制の骨格を隅々まで作り上げる、地道で根気のいる作業であった。特に、城郭の最終防衛線を構成する三ノ丸の造成は難工事であったが、その完成をもって、高知城はついにその威容の全てを現すことになる。

本丸・二ノ丸の完成後も、城郭の拡張工事は続けられ、慶長16年(1611年)、着工から実に10年の歳月を経て、三ノ丸が竣工した 1 。これにより、高知城の主要な曲輪が全て整い、山内家の居城として、また土佐藩の政庁として、その機能と姿を完成させた。

城の建設と並行して、城下町も着実に発展を遂げていた。当初、城の東側に整備された町人地に加え、城で働く多くの奉公人や足軽たちが居住する武家地として、城の西側に「上町」が整備された 38 。商工業が活発化し、人口も増加の一途をたどり、17世紀半ばには、高知城下は人口2万人近くを擁する、四国でも有数の都市へと成長していった 38

この10年にわたる建設の過程で、城と町の名前にも象徴的な変化が訪れる。当初、二つの川に挟まれた立地から「河中山(こうちやま)」と名付けられたこの地は、その名の通り、常に水害の脅威と隣り合わせであった 36 。長年にわたる治水工事との格闘の末、この土地を統治可能な場所へと変貌させた山内氏は、慶長15年(1610年)、この地の名を「高智山(こうちやま)」へと改めた 18

この改名は、単なる名称の変更以上の、深い意味を持っていた。「河中」という名は、この土地が持つ自然の制約と宿命を率直に表している。それに対し、「智恵を高く掲げる」という意味が込められた「高智」という名は、人間の知恵と努力によって自然の脅威を克服したという、山内氏の治世の成果を内外に高らかに宣言するものであった。それは、領民に対し、「水害に悩まされる土地」というネガティブな自己認識から、「知恵によって栄える土地」というポジティブなアイデンティティへの転換を促す、象徴的な行為であった。やがて、この「高智山」が転じて「高知」となり、城と町の名前として、今日まで続く歴史を刻み始めたのである 37

終章:城は人、城は国――山内藩体制の確立と高知城の歴史的意義

慶長16年(1611年)の高知城の全城郭完成は、単に一つの建造物が竣工したことを意味するのではない。それは、土佐国という土地に「土佐藩」という新たな国家が、物理的にも象徴的にも確立された瞬間であった。山内一豊が開始したこの10年にわたる巨大プロジェクトは、土佐の社会、経済、そしてその後の歴史に、決定的な影響を与えた。

「南海道随一の名城」と謳われた高知城の威容は、山内氏の権威を不動のものとし、明治維新に至るまで約250年間にわたる土佐藩の藩政の礎となった 25 。城は藩主の居城であると同時に、藩の行政機関が集約された政庁であり、領国支配の神経中枢であった。

その一方で、この支配体制は、浦戸一揆を原点とする根深い社会的な亀裂を固定化させた。高知城下において、一豊と共に掛川から来た譜代の家臣団は「上士」として城郭内に屋敷を構え、藩政の中枢を独占した。対照的に、長宗我部氏の旧臣である一領具足たちは、多くが「郷士」という下級武士の身分に組み込まれ、城下から離れた在郷に居住することを余儀なくされた 16 。この厳格な身分制度は、高知城を中心とする支配体制の中で固定化され、幕末の動乱期に至るまで、土佐藩の社会構造を規定し続けることになる。

経済面では、高知城下町は領内の政治・経済・文化の中心地として急速に発展した。城下に商人や職人を計画的に集住させ、特産品の流通を管理することで、藩の財政基盤は強化された 20 。城と城下町は、藩経済を動かすエンジンとしての役割を果たしたのである。

高知城築城から完成までの一連のプロセスは、近世大名による「国家建設(ステート・ビルディング)」の典型的なモデルケースとして捉えることができる。まず、浦戸一揆という旧勢力の抵抗を武力で平定し(軍事的平定)、次に、旧体制を圧倒する規模と技術の城を建設して新支配者の権威を視覚的に示し(権威の象徴の建設)、治水工事や都市計画によって領民の生活安定を図り(社会インフラ整備)、城下町に経済の中心を創出し(経済システムの構築)、そして新たな身分秩序を構築して社会を再編する(社会構造の再編)。山内一豊は、単に城を建てたのではなく、これらのプロセスを通じて、土佐という土地に「土佐藩」という新しい国をゼロから創り上げたのである。

そして今日、高知城は、その歴史的価値をさらに高めている。享保12年(1727年)の城下の大火で天守を含む多くの建物を焼失したものの、宝暦3年(1753年)までにほぼ創建時の姿に再建された 1 。その後、明治維新の廃城令や太平洋戦争の戦災といった幾多の危機を乗り越え、天守だけでなく、本丸御殿や多聞櫓、門など、本丸の主要な建造物群がほぼ完全に現存する日本で唯一の城として、その姿を今に伝えている 25 。高知城は、戦国乱世の終焉と近世社会の幕開けという、時代の大きな転換点に生きた人々の知恵と努力、そして闘争の記憶を刻み込んだ、日本の城郭史上、まさに奇跡と呼ぶべき歴史的遺産なのである。

引用文献

  1. 高知城の礎を築いた土佐藩初代藩主・山内一豊と妻・千代 | よさこいおきゃくブログ https://www.kochi-bank.co.jp/yosakoi-okyaku/blog/?p=16311
  2. 高知城 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/kochijou.html
  3. 高知(城)公園 - 土佐の歴史散歩 http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/shinai/kochijo/index.html
  4. 関ケ原の合戦で大出世した山内一豊が取った「占領政策」とは | 戦国 ... https://sengoku-his.com/1759
  5. 浦戸一揆と一領具足 - 浦戸の歴史 - 高知市立浦戸小学校 https://www.kochinet.ed.jp/urado-e/rekishi/1.html
  6. 一領具足供養の碑 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/ichiryougusoku.html
  7. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  8. HT08 長宗我部文兼 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/ht08.html
  9. 山内一豊とその妻 - 江戸東京博物館 https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1751/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A6%BB/
  10. 山内一豊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
  11. 収蔵資料紹介 - 高知城歴史博物館 https://www.kochi-johaku.jp/materials/
  12. 近世初期の春野 - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/choshi/choshi012.pdf
  13. 浦戸一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%88%B8%E4%B8%80%E6%8F%86
  14. 長宗我部 - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/uploaded/attachment/10056.pdf
  15. 土佐史の人々-初期- - 高知城歴史博物館 https://www.kochi-johaku.jp/column/4516/
  16. 山内家――関ヶ原での一豊、幕末の容堂、2人の藩主の活躍で歴史に名を残す - ウチコミ! https://uchicomi.com/uchicomi-times/category/topix/main/14093/
  17. 浦戸城 - - おやじの暇つぶし - FC2 https://kazu1207.blog.fc2.com/blog-entry-871.html
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  39. 高知城下町の形成と治水対策 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/148767698.pdf
  40. 英語で歩く高知城:城郭・本丸御殿・志士の歴史巡りの旅 - 志塾あるま・まーた https://almamatersjk.com/learnjapan041kochicastle/
  41. 高知城石垣 - m-yoshidam's diary https://m-yoshidam.hatenablog.com/entry/2017/05/01/092318
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  46. デジタル歴史館-「城下町探訪 3.高知―幕末期に数多くの志士を輩出した南国土佐の城下町」 https://rekigun.net/original/travel/kochi/index.html
  47. 【高知県】高知城の歴史 優美で古風な姿が魅力的な名城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2257
  48. 高知城の見どころ https://kochipark.jp/kochijyo/highlights/
  49. 俯瞰マップ - 高知城 https://kochipark.jp/kochijyo/map/
  50. 土佐国「高知城」とは?|高知県高知市・日本で唯一本丸建築群が全て現存する南海道の名城 https://otokonokakurega.com/learn/trip/14946/
  51. 日本城郭史の宝「高知城」〜現存12天守で唯一の完全本丸を誇る名城|たなぶん - note https://note.com/dear_pika1610/n/n2ece2f4ac3e7
  52. <高知城(前編)> 作事・普請共に細部に工夫が凝らされた各種仕掛け | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12708953724.html
  53. 石垣の刻印 - 古城万華鏡Ⅱ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou2/kojyou2_4.html
  54. 実はミステリアス!?石垣の「刻印」は歴史を語る生き証人 - 城びと https://shirobito.jp/article/1767
  55. 高知城の歴史 https://kochipark.jp/kochijyo/history/
  56. 縄張図片手に廻る高知城 - san-nin-syuの城旅 https://san-nin-syu.hatenablog.com/entry/2020/10/06/060000