最終更新日 2025-10-06

鴻巣宿整備(1602)

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天下定まる刻、道の礎を築く ― 慶長七年「鴻巣宿整備」の深層分析:戦国から江戸への連続と断絶

序章:慶長七年という座標軸

慶長七年(1602年)、武蔵国において行われた中山道鴻巣宿の整備事業は、一見すれば地方的なインフラ整備の一事例に過ぎないように見える。しかし、この年が持つ歴史的座標を理解するとき、その様相は一変する。慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦における徳川家康の勝利によって、百年に及ぶ戦国の乱世は事実上の終焉を迎え、同八年(1603年)の江戸幕府開府へと続く、まさに天下の趨勢が定まる画期であった 1 。この激動の時代にあって、軍事的な勝利をいかにして恒久的かつ安定的な政治支配へと転換させるかという、家康の前に横たわる巨大な課題に対し、交通網の整備は最優先事項の一つとして位置づけられていたのである。

この時期における「整備」という言葉は、単なる道路の補修や宿駅の建設を意味しない。それは、戦国期を通じて各大名領国ごとに分断され、軍事的な要請に左右されてきた交通・物流のあり方を根底から覆し、新たな政治の中心地である江戸を絶対的な基軸とする、中央集権的なネットワークへと国土の動脈を再編成する「秩序の再構築」そのものであった。特に、旧来の宿場を廃して新たな場所に宿駅を創設するという鴻巣宿の「移転整備」は、この秩序再構築の意志が最も先鋭的に現れた事例と言える。

先行する豊臣秀吉もまた、道路整備に大きな功績を残しているが、その目的と規模において家康の構想とは決定的な差異が見られる 5 。秀吉の整備が、自身の権力基盤である畿内を中心としたネットワークの拡充に主眼を置いていたのに対し、家康のそれは、関東の新拠点・江戸から放射状に延びる五街道を基幹とし、日本全土を覆い尽くす国家改造計画であった 1 。したがって、鴻巣宿の整備は、単なる利便性の向上という実務的な目的を超え、徳川による「江戸中心の天下」という新たな政治イデオロギーを、物理的に国土へと刻み込む象徴的な行為だったのである。本報告書は、この鴻巣宿整備を、徳川幕府という新たな国家システムの「実装」プロセスにおける具体的なケーススタディとして位置づけ、その深層を多角的に分析するものである。

第一章:戦国乱世の道と人 ― 徳川以前の武蔵国における交通

慶長七年の「整備」が持つ画期性を理解するためには、その前史、すなわち戦国時代における武蔵国の交通がどのような実態であったかを把握する必要がある。この時代の街道は、平時における物流や旅人の利便性よりも、有事の際の軍勢移動という軍事的要請が最優先される「軍役道路」としての性格が極めて強かった 7 。道は各領主の支配が及ぶ範囲で断続的に維持され、領国の境界を越える安定的かつ安全な交通は、何ら保証されていなかった。

当時の鴻巣周辺地域に目を向けると、在地勢力による交通支配の様相が浮かび上がる。この地は、「鴻巣七騎」の一人に数えられる深井氏のような在地武士が勢力を有していた 8 。彼らは岩付城(現在のさいたま市岩槻区)の城主太田氏に仕え、有事の際には岩槻街道を駆けて主君のもとへ参陣したと伝えられる 9 。これは、交通網が特定の城郭とそれに付随する領地を結ぶ、局所的な軍事ネットワークとして機能していたことを示している。交通の結節点は、領主の居城や戦略的拠点であり、全国的な交通体系の一部として有機的に結合していたわけではなかった。

徳川による整備以前に存在した「鴻巣宿」、すなわち後の「本宿」(もとじゅく、現在の北本市)は、まさにこうした戦国期までの在地的な交通ネットワークの中に位置づけられていた 10 。その立地は、鎌倉街道以来の古道との接続や、深井氏ら在地領主の支配領域といった、戦国期までの長い歴史的経緯によって規定されていたと考えられる。しかし、豊臣秀吉の命により家康が関東へ移封され、江戸を本拠地と定めたことで、武蔵国の交通地図は根底から塗り替えられることとなる。江戸という新たな中心核から、関東一円、さらには日本全土を掌握するための新たな街道網の構想が、この時から静かに胎動し始めていたのである 5

この文脈において、鴻巣宿の「移転」は、単なる地理的な場所の移動以上の意味を持つ。それは、交通の支配権が、深井氏に代表される在地領主の手から、徳川幕府という巨大な中央権力へと移行した事実を、誰の目にも明らかな形で示す「権力の可視化」であった。旧来の「本宿」が在地性の強い歴史的文脈の上に成り立っていたのに対し、新たに創設された「鴻巣宿」は、幕府の全国支配戦略という全く新しい論理によって生み出された。これは、戦国的な地域秩序から、近世的な中央集権秩序へのパラダイムシフトが、大地の上に刻まれた決定的瞬間だったのである。

第二章:国家改造の号砲 ― 慶長六年の衝撃と伝馬制の公布

鴻巣宿整備の前年、慶長六年(1601年)正月、徳川家康は国家の動脈を掌握するための、画期的な一手を打つ。関ヶ原合戦の勝利からわずか数ヶ月という異例の速さで、まず東海道の宿駅制度、すなわち「伝馬制」の確立を命じたのである 2 。これは、いまだ不穏な空気が残る西国大名への睨みを効かせ、全国支配を確実なものとするための、極めて迅速かつ戦略的な初動であった 13 。この伝馬制の公布こそ、戦国以来の不確実で非効率な輸送システムを、近世的な標準化された制度へと転換させる号砲となった。

幕府は、東海道沿いの宿場に指定した村々に対し、「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」という二通の公文書を発行した 13 。これにより、各宿場は幕府の公認を受けると同時に、国家的なインフラを支える重い義務を負うことになった。その核心は、幕府の公用旅行者(役人や大名など)に対し、人馬を無賃で提供する「伝馬役」である 13 。各宿場には、原則として36匹の伝馬を常に準備しておくことが義務付けられた 13

一方で、この重い義務の見返りとして、宿場には経済的な特権が与えられた。伝馬役を負担する家屋敷(伝馬屋敷)には、地子(じし)と呼ばれる土地税が免除されたのである 13 。さらに、公用貨物の輸送や、一般旅行者を対象とした旅籠の営業など、交通に関わる経済活動を独占的に行う権利も認められた 13 。この制度は、宿場を幕府の統治システムに巧みに組み込む社会契約であった。宿場は、義務を負う代わりに経済的特権を得る。これにより、幕府は一方的な強制力に頼るのではなく、宿場住民の経済的利益と制度を直結させることで、全国的な輸送ネットワークを効率的かつ持続的に維持することが可能になった。

この制度の権威を象徴するのが、家康が「伝馬朱印状」に用いた「駒曳朱印」である 15 。印影に馬とそれを曳く馬士が描かれたこの特殊な朱印は、一目で伝馬に関する幕府の最重要命令であることを示し、その絶対的な権威を視覚的に伝えた。朱印状を持つ幕府公認の旅行者以外には伝馬を出してはならないという厳命は、公私の別を明確にし、制度の私的な利用や悪用を防ぐ意図があった 15

この伝馬制は、単なる物流システムの改革に留まらない。それは、戦国的な「人や土地への直接的・人格的な支配」から、近世的な「制度を通じた間接的・システム的な支配」への移行を体現するものであった。家康は、全国の宿場一つ一つを直接管理するのではなく、「伝馬役と地子免除」という普遍的なルール(制度)を設定し、各宿場に自律的な運営を委ねた。これにより、最小限の行政コストで、最大限の効果を発揮する統治機構を創り上げたのである。これは、近代的官僚システムの萌芽とも言える、極めて高度な統治技術であった。


表1:慶長六年制定の伝馬制における宿場の義務と権利

項目

義務(負担)

権利(恩恵)

人馬の提供

幕府公認の公用旅行者に対し、規定数(原則36匹)の人馬を無賃で提供する。

なし

公文書の確認

利用者が所持する伝馬朱印状を確認し、正規の利用者であるかを見極める。

なし

土地税

なし

伝馬役を負担する伝馬屋敷の地子(年貢に相当する土地税)が免除される。

経済活動

なし

宿場内での物資輸送や旅籠の営業といった交通関連事業を独占的に行うことが認められる。


第三章:慶長七年、中山道の脈動 ― 鴻巣宿、誕生のリアルタイム

東海道で成功を収めた伝馬制は、翌慶長七年(1602年)、満を持して中山道にも導入される。この国家プロジェクトの中核の一つとして計画されたのが、鴻巣宿の整備であった。しかし、それは単なる既存宿場の改良ではなかった。旧来の「本宿」を廃し、全く新たな場所に宿場町を創設するという、大規模な「移転」を伴うものであった。この章では、なぜ「本宿」ではならなかったのか、その意思決定の背景と、新たな宿場町が誕生するまでのプロセスを、時系列に沿って追跡する。

第一節:なぜ「本宿」ではならなかったのか ― 宿駅移転の地政学的・戦略的判断

幕府が「本宿」の存続ではなく、鴻巣への移転という抜本的な策を選択した背景には、複数の合理的かつ戦略的な判断が複合的に作用していた。

第一に、幕府のグランドデザインにおける「距離の最適化」というシステム論的な思考がある。中山道は、東海道と並び江戸と京・大坂を結ぶ国家の最重要幹線であった 13 。徳川幕府は、この幹線における輸送効率を最大化するため、宿駅間の距離を可能な限り均等化し、人馬の継ぎ立てをスムーズにすることを目指した 17 。旧来の「本宿」から次の熊谷宿までの距離は約20キロメートルを超え、他の宿駅間に比べて著しく長かった。これを約5キロメートル南の鴻巣の地に移すことで、桶川宿から鴻巣宿、そして鴻巣宿から熊谷宿までの距離が平準化され、街道全体の輸送システムが最適化されるという計算があったのである 16

第二に、将軍自身の動線と「鴻巣御殿」の存在という、より個人的かつ政治的な要因が挙げられる。徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍は、鷹狩を名目として頻繁にこの地域を訪れており、その際の休憩・宿泊施設として「鴻巣御殿」が利用されていた 10 。この御殿の存在は、鴻巣という場所が、街道整備が本格化する以前から、将軍家にとって馴染み深く、重要拠点として認識されていたことを示している 7 。新たな宿場を、すでに将軍家のインフラが存在する地に設置することは、極めて自然な選択であった。

第三に、武蔵国における軍事戦略上の要請である。鴻巣は、徳川家にとって重要な支城である川越城と、北関東の要衝である忍城(おしじょう)のほぼ中間に位置するという、絶妙な地政学的優位性を持っていた 16 。平時においては経済の動脈である街道も、有事の際には瞬時に軍事補給路(兵站線)へと転化する。両城間の連絡や兵員輸送の中継拠点として鴻巣に公式な宿場を置くことは、北武蔵における徳川の軍事的支配を盤石にする上で、計り知れない価値を持っていた。

このように、鴻巣宿の移転決定は、「①合理的・システム論的思考(距離の最適化)」「②将軍の個人的動線(御殿の存在)」「③軍事的・戦略的思考(城の中継点)」という三つの異なる論理が、奇跡的に一点に収斂した結果であった。特に、将軍の「鷹狩」という個人的な活動が、国家のインフラ整備という公的事業と密接に結びついている点は、公私の区別が未分化であった当時の権力構造のあり方を如実に物語っている。この多角的な「正しさ」こそが、一つの村を丸ごと移転させるという前代未聞の大事業を可能にした、強力な原動力だったのである。

第二節:宿場町、その創生 ― 本宿から新・鴻巣への移設計画と実行

移転の方針が固まると、次はその実行である。慶長七年、幕府による中山道整備計画の一環として、新たな鴻巣宿の創設が開始された。この壮大な都市計画の背後には、専門的な知識を持つ官僚と、在地の実情に通じた地域勢力の連携があったと考えられる。

計画の立案において中心的な役割を担ったのは、家康の側近であり、鉱山開発や財政にも通じた当代随一のテクノクラート(技術官僚)、大久保長安(石見守)であった可能性が高い 20 。彼のような幕府官僚が、中山道全体の宿駅配置を俯瞰的な視点から計画し、鴻巣移転の青写真を描いたと推察される。一方で、計画を現地で実行に移す段階では、在地領主であった深井氏のような勢力が、幕府と地域住民との間の調整役を担ったと考えられる 8 。幕府によるトップダウンの計画を、在地領主が媒介して実行するという、中央と地方の巧みな連携構造が、この事業を円滑に進めた要因であろう。

移転の具体的なプロセスについては史料が乏しいものの、以下のように推測される。まず、幕府からの正式な移転命令が「本宿」に通達される。住民にとっては故郷を離れるという大きな決断であったが、幕府の絶対的な権威と、新たな宿場町で得られる経済的特権(地子免除や商業の独占権など)を天秤にかけ、最終的に移転を受け入れたと考えられる。その後、新たな宿場の建設地で、街道を軸とした計画的な区画割り(町割り)が実施された。町の中心には、大名などが宿泊する本陣や脇本陣、人馬継立業務を司る問屋場といった公的施設が配置され、その周囲に旅籠や商家が整然と建ち並ぶ、機能的な町並みが創り出されていった。

この鴻巣宿の創生は、単なる村の移転ではなく、ゼロから町を創る「都市計画」であった。戦国期までの村落が、地形や水利に沿って自然発生的に形成されたのに対し、新しい鴻巣宿は、中山道という幹線道路を絶対的な軸とし、宿場としての公的機能を核に、計画的にデザインされた人工都市である。この「計画性」こそが、江戸時代の宿場町を特徴づけるものであり、徳川幕府の統治が、国土全体をデザインし直そうとする強い意志を持っていたことの証左に他ならない。一方、宿場機能を失った元の村は、「本(もと)の鴻巣」という意味で「本宿村」と呼ばれるようになり、これが現在の北本市の地名の由来となったのである 10


表2:鴻巣宿の成立・移転時期に関する諸説の比較

年代

根拠資料・内容

本報告書における位置づけ

文禄年間説

文禄四年(1595年)頃

在地領主であった深井氏の家伝など 22

鴻巣御殿の設置(文禄二年以降) 16 や在地勢力の活動から、徳川氏による公式な宿駅指定に先立ち、宿場機能の萌芽や移転の準備が始まった時期として捉える。公式化以前の準備段階。

慶長七年説

慶長七年(1602年)

中山道全体の宿駅設定がこの年に行われたとする記録 10 。同年六月の「駄賃定書」の存在 23

徳川幕府の公的な宿場として正式に制度化され、伝馬制のもとで機能し始めた画期として、本報告書の中心的な年代とする。制度的・法的な成立年。


第三節:制度、血肉となる ― 「定路次中駄賃之覚」と輸送効率の規格化

物理的な宿場町の建設と並行して、徳川幕府はもう一つの重要な改革、すなわち輸送システムの「ソフトウェア」の整備にも着手していた。慶長七年六月十日、幕府は「定路次中駄賃之覚」(さだめろじちゅうだちんのおぼえ)と題する法令を発布する 23 。これは、中山道の各宿駅間における荷物の運賃(駄賃)を公式に定めた、画期的な文書であった。

この文書の発行主体が、江戸の町政を司る町年寄であった奈良屋・樽屋であり、その内容を大久保長安ら幕府の奉行が裏書(承認)するという形式を取っている点は興味深い 23 。これは、幕府の経済政策が、一方的なトップダウンではなく、江戸の経済界を代表する商人層との連携のもとに策定されていたことを示唆している。

この法令がもたらした経済的インパクトは計り知れない。駄賃が公定化されたことで、輸送にかかるコストが初めて予測可能になったのである。これにより、商人は安心して長距離の商業活動の計画を立てられるようになった。戦国時代のように、領主や関所の都合で気まぐれに通行料を徴収されるといった、事業の予見性を著しく損なうリスクが、制度的に排除されたのである。これは、全国的な市場経済の形成を強力に後押しするものであった。

さらに、運賃の統一は、各宿場で行われる人馬継立業務そのものの標準化を促した。どの宿場でも同じルールと料金で業務が行われることで、宿場から宿場へと荷物をリレーしていく輸送システム全体の効率が飛躍的に向上した。まさに、物理的なインフラ(道と宿場)の整備と、ソフト的なインフラ(ルールと制度)の整備が、車の両輪として同時に進められていたのである。これは、極めて高度な統治技術と言わざるを得ない。物理的な道を作るだけでは、真の効率化は達成できない。そこに流れるモノやカネの「ルール」を標準化して初めて、交通ネットワークは国家の動脈として生命を宿す。慶長七年の鴻巣宿整備は、このハードとソフトの両面からの統合的アプローチが結実した、象徴的な事例であった。

第四章:新生・鴻巣宿の機能と、その後の発展

慶長七年の国家的なプロジェクトによって誕生した鴻巣宿は、徳川幕府の目論見通り、中山道における重要な結節点として、その後目覚ましい発展を遂げることとなる。

江戸・日本橋から数えて七番目の宿場として 10 、また、忍城下へ向かう忍行田道や、松山城下(現在の東松山市)へ向かう松山道など、幾筋もの街道が分岐する交通の要衝として、鴻巣宿は多くの人々と物資で賑わった 10 。その繁栄ぶりは、後年の記録からも明らかである。天保十四年(1843年)の調査によれば、宿場の町並みは約1.9キロメートルに及び、人口は2,274人、家数は566軒を数えた 10 。宿場の中核施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒、そして旅籠に至っては58軒も存在したという 10 。街道筋の宿場における旅籠の平均軒数が25軒程度であったことを考えると 10 、鴻巣宿がいかに大きな規模を誇っていたかがわかる。

しかし、鴻巣宿の発展は、単なる交通中継地としての繁栄に留まらなかった。幕府によるトップダウンのインフラ整備は、期せずして、地域の自律的な経済・文化が花開くための揺りかごとなったのである。その最も顕著な例が、「人形の町」としての名声の確立であった。江戸時代中期頃から、この地では雛人形(鴻巣雛)の生産が盛んになり、江戸をはじめ全国にその名を知られる特産品へと成長した 11

この背景には、鴻巣宿が持つ「プラットフォーム」としての機能があった。中山道を通じて江戸や京の洗練された文化や技術が絶えず流入し、同時に、宿場に立ち寄る数多の旅人、商人、大名行列などが、雛人形の品質を評価し、それを購入する巨大な「市場」を形成した。安定した交通網と人の流れという、慶長七年の整備が生み出した基盤の上で、雛人形という全く新しい民間の産業が花開いたのである。これは、当初の公用交通の確保という国家的な目的が、意図せざる結果として、地域の経済と文化を豊かにするという好例である。インフラ投資が持つ、長期的な波及効果の重要性を示唆している。

徳川将軍家が利用した鴻巣御殿の跡地には、後に家康を祀る東照宮が設けられ 10 、宿場町の中心であった本陣跡や問屋場跡には、その歴史を伝える碑が建てられている 18 。慶長七年に産声を上げたこの宿場町の記憶は、形を変えながら現代にまで確かに受け継がれているのである 26

結論:鴻巣宿整備が映し出す「江戸」という新秩序

慶長七年(1602年)に実施された「鴻巣宿整備」は、その歴史的文脈を深く掘り下げることで、単なる一宿場の移転・新設という事象を遥かに超えた、重層的な意味を我々に開示する。それは、戦国乱世の混沌と断絶を乗り越え、徳川による新たな国家秩序を、物理的空間(道)、社会経済システム(伝馬制)、そして法(駄賃定書)という、あらゆるレベルにおいて実装しようとする、壮大な国家建設プロジェクトの一断面であった。

この事象を、本報告書が一貫して試みてきたように「戦国時代という視点」から捉え直すとき、その本質がより鮮明になる。鴻巣宿の移転は、旧来の在地領主による分権的・人格的な支配を、江戸を中心とする中央集権的・官僚的な支配へと転換させる、決定的かつ象徴的な一歩であった。戦国期までの「本宿」が、在地勢力の軍事的要請や歴史的経緯によってその場所を定められていたのに対し、新たな鴻巣宿は、距離の最適化、将軍の動線、そして戦略的配置といった、国家全体を俯瞰する合理的精神によって創り出された。

戦国的な「力による支配」から、法と制度に基づく「システムとしての支配」へ。鴻巣宿を貫くまっすぐな道、規格化された人馬継立のサービス、そして公定された駄賃は、まさにこの新しい時代の到来を告げるものであった。一つの宿場の整備は、徳川による泰平二百六十年の礎を築く、巨大なジグソーパズルの、決して小さくない一片だったのである。

引用文献

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